C JA初のWAC完成まで
1971~1974 |
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1971年から1972年にかけてJA各局のアクティビテイも高くなり1.9メガは賑やかになって来た。 CQ出版社からは「160メータ ハンド゜ブック」が発行されるほどであった。 DXハンティングはもちろんだが皆が皆DXを追いかけて居たわけではなく人それぞれの楽しみ方をしていた訳だからWAJAやJCCを追いかけて居た人も多く、それに呼応して珍県珍市への移動運用も活発だった。JA3ALOは関西、四国方面を,JA0MTは信越方面をサービスしてくれていた。このバンドのWAJA第一号は、このバンドの主、JA3AAで、1971年8月6日、JA3ALO/5(徳島)とのQSOで完成した。 一方、当時の日本の160mDXの関心はJAからWACが出来ないだろうか、と言うことだった。 W1BBが世界初のWAC完成は1953年でそれ以降アメリカ、ヨーロッパを中心に40人ほどの完成者が出ており、アジア初のWACはEP2BQ(ex ZL4JA,G3KWM,VS5JA)ハーリーによってすでに完成済みであった。当時はまだUAで160mの運用を許可していなかったからNAやEUからはアジアはQSO困難でこのEP2BQのQRVは貴重だったに違いないし、イランからは地の利でEU,AFなどとはJAよりはやりやすかったかも知れない。 しかし1973年の1月のこと、JA1MCU真中氏(彼はJAで最初の5バンドDXCC完成者)が5Z4KLの信号を聞いたというニュースが伝えられた。そして1月26,27日、このバンドのバンドの最大のコンテストである「CQ−WW−160m CONTEST」だったので、もしかしたらと思って夜通し聞いていたところ、27日の朝5時半頃1802Khzで割に強い信号でCQを出す局があり、それが何と5Z4KLだった。 興奮しながらコール、0538JSTにJA7AO DE 5Z4KL 569 569と確認、こちらから579を送って交信成立、これが日本から初のアフリカとなった。次いでJA1MCU,JA3AAがQSO、結局JAからは3局の交信だけで終わってしまったであった。 |
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残りは日本からは南米だけとなったが、JA7AOはその時点ではまだヨーロッパとは交信出来ていなかった。その年の7月初旬のこと、14メガのSSBを受信していたJA7AOは、アルゼンチンのLU5HFIがJA1の局と交信していて、しきりに「JA7AOが・・」と言っているのをワッチした。 日本は夏場だが、南米は冬であり、ローバンドのコンディションはオープンしている様子だった。 他の2局は南米を狙ってCQを出しており、WAC一番乗りのレースは白熱したものであった。 アジアではイランのEP2BQに次ぎ2番目であった。 |