D JA初のDXCC完成まで 1973〜1985 |
WACは完成したがこの時点では、JA全体で交信出来たカントリー数は約30カントリーで、個人的には20−25カントリー程度であったからDXCCのことは話題にもならなかった。年間交信出来るニューカントリーは5−6カントリー程度だから数年先のことと考えられていたし、日本から果たして160mでDXCCは出来るのだろうかという悲観的な考えすらあった。 しかし、この気の遠くなるような目標に向かって着実にJAのトップバンダー達は歩み始めたのであった。
1972年以降のJAからの交信状況は次のようになっている。
USSRは国土も日本に接近している極東からEUまで広大で、アマチュア無線も盛ん だし、何よりもカントリー数が18もある。ひょっとしたらDXCCまで手が届くかも、という期待を抱かせるには十分なビッグニュースであった。その記念すべきUSSRとJAとの初交信は1979年9月13日2142JST、UA0FDDとJA6PJJの間で行われた。 こうして遅いペースながら交信出来るカントリーがじわじわと増えていった。 1983年になると、JA5DQH_80C,JA3ONB,JA7AO,JA7NI_75C,JA2GQO_70Cと推定されていてこの5人の中から最初の完成者が出るだろう、と言う下馬評であった。 でも、ロランが停波して1.8メガが使用可能にでもならない限り100WKDは無理ではないか、という話もちらほら聞こえていた。
しかし、1983−84年はコンディションがFBで 、予想以上にDXとのオープンがあり、このチャンスにJA2GQOは50メートル近いタワーを建ててその上にデルタループを張り、受信もビバレージを張って1983年は13カントリー増、1984年は何と18カントリー増と急ピッチで追い上げ、遂に1984年8月18日、JA1PCY運用のBY5RAとのQSOにより日本で最初の160mで100カントリーと交信した人となった。
一方JA5DQHも最後の追い込みでKH8,SM,T77,F,OH0,Y36,OE,KX6,ZK2等のNEWを得て1985年1月に100CをWKDした。 さてこれ以降はQSLのCFMとARRLに対する申請が争いになる。 JA5DQHは100枚目が揃ったので内容を吟味し、確信が持てたので1985年2月13日ARRL向けAIRMAILを発送した 。 一方のJA2GQOは若干余裕を持たせ103枚のカードを用意、2月1 2日にARRL向け発送。 しかしながらしばらく経って待っている二人にARRLから戻ってきたのは「申請用紙が変更されたので書き直して出しなさい」という通知だった。もちろん二人は折り返し新フォームに記入して再提出したことは言うまでもない。 そのようなやりとりがあった末、160METERS DXCC賞の発行は#75_JA5DQH, #76_JA2GQOで、アジアでもそれぞれ#1と#2(#3は#81の4X4NJ)であり、日本で最初の受賞はJA5DQH奈木氏であった。
それから幾星霜 、時は流れて今年は2001年、JAにおける160mDXも飛躍的な発展を遂げた。DXCC完成者は二桁になりトップは220カントリーというすさまじさ。 JA3ONB中西氏による160m_WASの受賞もあった。ロランCも停波したし1.8メガ帯も解禁された。益々発展を続けることだろう。 |
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