秋田県が生んだ無線界の大先輩 

鳥潟右一博士
(鉱石検波器の発明者)

 

 秋田県におけるアマチュア無線の活動がどの様にして始まり、どんな発展を遂げたのか、そのルーツをたどって行くために、まずは最初に「アマチュア無線」に限らず、秋田県と「無線」のかかわりを調べてみた。
 無線関係の歴史では、マクスウェルが電波の存在を理論的に提唱し、ヘルツはそれを1888年(明治21年)に実験により証明したとされており、さらに1896年(明治29年)にはマルコニーが無線電信を発明した、とされている。
 それではこの時代に秋田県人で、無線なるものの存在を知り、興味と関心をいだいて研究していた人が居たのだろうか。
 実は、のちにマルコニーの発明に匹敵するほどの偉大な業績を残した無線界の大先輩、鳥潟右一(博士)が居たのである。

  鳥潟博士の生い立ち
 鳥潟博士は1883年(明治16年)北秋田郡花岡村字花岡224番地(現在大館市花岡町)で当時の酒造業、鳥潟平治氏の長男として生まれ「宇一」と命名された。のちに父親の平治氏が「何事も右の一番になれ」という願いを込め「右一」と訂正改名された。母親の「いく」さんは北秋田郡下川沿村川口(現大館市)の小林家から嫁いで来ており、この小林家の分家からはプロレタリヤ文学の作家として「蟹工船」で知られている小林多喜二氏が出ている。
 博士は、当時の花岡村簡易小学校2年修了後、9才の時に伯父で大分県県立病院長である恒吉夫妻のもとにあずけられた。これは両親が将来の教育のことを考え、幼い子を手離したとのことである。
大分高等小学校から大分中学校に進み、途中からは伯母の付添いにより東京開城中学校に転校した。
 頭脳明晰にして成績優秀、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学工科(電気工学科)に入学。1906年(明治39年)には帝国大学(現東大)・大学院を抜群の成績で卒業、恩賜の金時計を拝受したという。もちろん 首席であった。
 卒業後、逓信省電気試験所に入所し無線電信の研究に専念、逓信技師となった鳥潟博士は、無線電信の発明者マルコニーを高く評価しており、以後は彼と同じく無線電信の研究に没頭していくことになる。
 


鉱石検波器
 それから2年後の1908年(明治41年)鳥潟博士は「タンタラム検波器」を考案した。26才のときであった。
 それまで使われていた検波器はコヒラー(コヒーラーともいう)と呼ばれているもので、フランスの科学者ブランリーが考案し、イギリスのロッジにより更に改良を加えられたものと言われている。
 その動作は、金属粉末の電導性が電波の到来で増すことを利用したものなのだが、そのコヒラー検波器を使用した無線電信装置の通信可能距離は、海岸局から船舶との間で、わずかに100海里から120海里(1海里は1852m)程度で、船が港を出てから一夜を過ぎるともう通信不能になってしまうという状態であった。
 またコヒラー検波器はガラス管の中に二つの電極を置き、その間に金属粉を入れておくもので、通常は絶縁状態になっているが、これに電波が到来すれば瞬間的に接触して絶縁を失ない、導通して局部電流を通じ高周波電流を検出するメカニズムとなっている。
 しかし高周波電流の通過後は金属粉の整列を崩す(デコヒール)ため、以後の高周波電流の検出が出来なくなるので、叩いて元に戻す必要があった。(これをデコヒラーと呼んでいる)
 鳥潟博士が考案したタンタラム検波器は、電極に先端を細く鋭くしたタンタラムを使用したもので、この検波器を使用することにより銚子と長崎沖の船との通信も出来るようになったと言われている。
ところが、それにとどまらず鳥潟博士は翌1909年(明治42年)には「鉱石検波器」を発明した。
 これは実に画期的な出来事であり、この鉱石検波器を使用することにより、何と銚子から実に3000海里、ハワイ沖を航行中の「コレア丸」の信号が聞こえた、という無線電信にとっては一大革命が起こったのである。
ある種の鉱石と金属針を軽く接触させたもの、或は異種の鉱石を一点で接触させたものに交流電圧を加えると整流される性質があり、これを利用して高周波電流の検波を行なわせたのが鉱石検波器である。
 と言えば簡単なようであるが、鉱石には沢山の種類があり、素材によってはその動作に著しい差を生じる。また、異種の鉱石を使用する場合でもその組合せにより更に優秀な動作をする場合がある。紅亜鉛鉱と斑銅鉱、紅亜鉛鉱と黄銅鉱、鋭錐鉱と斑銅鉱、輝水鉛鉱と黄銅鉱などの組合せが優れていることは後の研究により判明しているが、鳥潟博士は鉱石検波器用の鉱石発見のため地元の花岡鉱山、小坂鉱山、尾去沢鉱山などでナッパ服にゲートル巻の姿で採鉱鎚を持ち歩き、採集した鉱石も数十種に及んだという。
 その中から実験結果により最も検波感度の高い鉱石「斑銅鉱と紅亜鉛鉱」を摘出し、それを使用した「鉱石検波器」が誕生したのである。
 これによって初めて北米航路の船もハワイとの中継により常に連絡出来ることとなった。また、コヒラーの様にいちいち叩かなくとも安定してに動作することになり、この「鉱石検波器」の優れた性能が高い評価と賞賛を得て、鳥潟博士の名声は無線界の一大発明者として世界に知れ亘ることになった。
 

  明治44年10月20日、鳥潟博士は日本政府より「鋭意無線電信の研究に従事し、新たに鉱石検波器を考案し、宜しく従来に数倍する長距離通信に適するに至る其功績顕著なりとす。依りて勲五等雙光旭日章を授け給う」ということで叙勲の栄誉を受けている。 (29才)

 

 


  鉱石検波器の名は今ではゲルマニューム検波器に置き換えられてはいるがラジオ放送初期以来、鉱石検波器に同調回路とアンテナをつなぎレシーバーで聴くといういわゆる鉱石ラジオとして実用に供されていたし、また部品としても昭和20年代頃まで「フォックストン鉱石検波器 」なるものが売り出されていたから、これを使ってラジオを作り始めた経験のある方も多く居ることだろう。

TYK式無線電話器
 鉱石検波器の発明後、鳥潟博士は逓信省より電信事業研究のため1年間のアメリカ留学を命ぜられ渡米した。
 そして留学任期中に更にドイツへの転学を命じられ、そこからはフランス、イタリーに出張を命じられるなど世界先進国の無線事情などを視察、明治43年12月29日に帰国したが、渡米中に尊父平治氏が50才にして他界されていた。
このころは、無線電信はそれなりに実用化され、次に考えられるのは、無線で人の声を送れないものか、ということであった。
世界の科学者たちもその方面に力を入れいたようだし、鳥潟博士もそのためにいろいろな実験を繰り返していた。
 1912年(明治45年)博士は既に発明した鉱石検波器の原理から着想を得てある種の送話方式の実験を試み、毎秒数万回の火花放電を行なう「微小火花間隙」により一種の変調作用を行なう装置を開発し、これによる無線電話器を発明した。この装置には鳥潟博士と共に研究に参加した横山英太郎氏、北村政治郎氏の頭文字をとって「TYK無線電話器」と命名された。かの有名な「TYK式」の誕生である。
 この発明は2年後にマルコニー社で公開実験が行なわれるほど世界中から高く評価された。
 翌年にはこの装置で横浜、大阪、神戸、長崎などで港内に停泊中の船との通話が行なわれ、さらには船と船の間の通信手段として実用化されて行き、改良が加えられた。
 1914年(大正3年)逓信省により伊勢湾内の鳥羽−答志島−神島にこの装置が設置され、名古屋、四日市、西港などに出入りする船舶と陸上との通話が行なわれた。
 このような無線による公衆通信が行なわれたのは世界で最初であり、これを記念して、のちの昭和36年2月、発祥の地である鳥羽に鳥潟博士に関わる無線電話発祥記念碑が建立されている。
 現在、このTYK式無線電話装置の実物は、東京大手町の逓信総合博物館に大切に保存されているが、我々秋田県民にとって、郷土が生んだ天才発明者鳥潟博士の手に成るこの装置を直接見る機会はあまり無かった。
 
 

 が、平成元年9月、大館市で「発明工夫展」が開催された際、同博物館からこのTYK式無線電話装置を借用展示された。郷土初のお目見えである。
 間近に見るこのTYK式無線電話装置は、近年のいわゆる無線機のスタイルからは想像できない古色豊かなるものだが、それだけに、明治の息吹と博士のたぎるような情熱を垣間みることが出来たであろう。
 
   
     


 電力線搬送など(PLC)
 鳥潟博士の研究は無線ばかりではない。電力線搬送による電話方式の開発もユニークなものであった。電気を送っている電力線の送電はそのままにしてその電線を利用して通信が行えないか、との発想で研究に着手し、見事に実用化にこぎつけている。この方法は今でも広く利用されている。
 また、1対の電話線で複数の通話をする搬送電話方式も開発している。通信関係ではこの他有線電話と無線電話の自動交換装置、WT式真空球式整流装置など、枚挙にいとまがない。
 そして驚くことに、発想の転換というか先見の明というか、意外な分野にも旺盛な研究心を発揮している。
 「暖房用電熱器」「電気煮沸器」「電気庖厨装置」「電気火鉢」「電気釜」などの家庭電化器具など20件を越える特許を、なんと70年も前に取っている。
 博士の電気試験所所長としての俸給月額は180円であるが特許料は700円に達していたと言われている。また、このような研究に対し時の政府から「金参千五百圓 右は職務格別勉励に付き賞与す。」と奨励金が贈られている。現在の金額では幾らになるだろうか、とにかく破格の金額であろうし、それだけ政府においては、博士の業績を高く評価している証拠でもあるだろう。
 そして家庭の電力利用(いわゆる家庭電化)には特に力を入れられて、前述の特許の他、自宅の台所には大きな配電盤を設置し、「電気風呂」「電気釜」「暖房用電熱器」「電気洗濯機」「電気掃除機」「電気煙草ライター」などを実際に使用しており、家中が電気配線で蜘蛛の巣のようなありさまであったという。

  おわりに
 鳥潟博士は、後輩の研究者を指導するときには
     @着眼点を大きく持て。
     A研究放棄するな。
     B失敗するまでやれ。
     C研究実験課程記録は明細に。
という態度であたっていた、と言う。
 そして、博士の信念は「鶏口となるとも牛後となるなかれ」(小さい団体でもその長となれ。大団体の尻につき従う者とはなるな。)であったと言う。
 これは今の私たちのアマチュア無線にもそのまま、その精神と信念は当てはまることではないだろうか。
 鳥潟博士は1923年(大正12年)6月9日、わずか41才にしてこの世を去った。あまりにも若くしての逝去は残念なことである。
 わが秋田県にこのような偉大な無線科学者が居たことは大きな誇りであり、同じ秋田県人として最大級の敬意を表したい。
 大館市花岡町の生家は現在「鳥潟会館」として博士の業績や資料が保存されている。また、花岡町の菩提寺「信正寺」に博士は静かに眠っている。その法名は「無相院殿弦外普聞居士」である。

 (参考)

 「火花式無線電信」

(1)普通火花式送受信機
1895年(明治28年)マルコニーが発明した送信機は、非同調式と称しアンテナに直接火花間隙を挿入する方式であったが、1899年(明治32年)頃から同調式と称される結合回路を使用した方式が採用になり、近距離通信から大西洋横断通信にまで発展するようになった。
 我が国には1908年(明治41年)海岸局の銚子無線電信局に導入されており動作概要は次のとおりである。

普通火花式送受信機の回路図

 電鍵(K1)を操作すると、トランスの2次側(L3)に高圧が誘導され、(K2)の火花間隙に火花が発生する。この電流は(L1)(L2)の振動電流変成器に誘導されてアンテナから火花間隙が発射される。 (C)は周波数決定用のコンデンサー、(KA)は送受切り替え器である。
 受信部には、浅野博士発明特許の水銀検波器か佐伯技師発明特許の磁気検波器が使用されたが、これらは当時の検波器としては最良のものであった。

(2)瞬滅火花式送信機
 1906年(明治39年)ドイツのウイン教授は、微細な火花間隙に関する研究を発表し、1908年(明治41年)同じくドイツのレペル氏がこの現象を利用したレペル式無線電信を発表した。
 同時に、同じ原理を利用した新テレフンケン式が発表された。これが瞬滅火花式として初めて実用されたものであって、この実現によって無線通信は画期的な飛躍を遂げた。この瞬滅火花式の特徴は
@ 普通火花式では能率が20%程度であるが、この方式だと50ー75%の  能率が得られる。
A 普通火花式は、送信の際、大電力を扱うためにはギャップを広くし(30  cm位から大きいのでは1メートル)その間をスパークして火花が飛ぶ訳で  あるから、いわば雷を発生させている様なもので騒音が非常に高く、付近で  は話も聞こえない程の大音響を発生し通信の秘密も保たれない。船の中でなど無線を始めると眠って居た人が皆目を覚ますくらいだが、この方式では大音響は発生しないので静かである。
B 減衰率が少ないので鋭敏な同調を行なうことができる。
等で逓信省でもその有効性に着目し種々研究の結果1913年(大正2年)
逓信省式瞬滅火花間隙が佐伯技師によって発明され特許を得、1923年(大正12年)真空管式送受信機が採用された後も続けて使用されていた。

(3)電孤式送信機
 火花式無線電信は、その発射電波が減衰率の大きい、いわゆる減幅電波であるため同調操作が鋭敏でなく、混信妨害の多いこと、並びに使用電力の大きい割に遠距離通信における成績がよくないこと等の不利益があるので、安定な遠距離通信を確保するためには発射電波が減幅しない持続電波方式の開発が要望され、欧米諸国ではこの電孤式と、次項の発電機式のような方式が研究実用されるようになってきた。
 電孤式送信機は1903年(明治36年)デンマークの電気技術者パウルゼンによって発明され1916年(大正5年)頃から広く実用されるようになった。 我が国においても1918年(大正7年)逓信省通信局工務課で電孤式送信機を試作し1919年(大正8年)船橋無線電信局とハワイ間で試験の結果、空電妨害の多いときは送信出力30キロワットにもかかわらず出力200キロワットの既設火花式よりも成績が良好であった。
 この結果1921年(大正10年)に対米通信用として原町送信所に400キロワットの電孤式送信機2台が設置され、1931年(昭和6年)まで使用された。

電弧(アーク)式送信機の回路図

 この方式は  図に示すように炭素電極からなる電孤発振器(AC)を有しており、電鍵(K1)を操作すると、(T)のインダクタンス変化により(L3),(C),(T)からなる回路のインピーダンスが変化し、(L2)から(L3)への吸収程度を変化させるもので、これによって(L2)の実効インダクタンスが変化すると、アンテナ回路の固有周波数を変化することになり、電鍵操作にともない発信周波の変化を行なうことになる。変圧器 (T)を使用することによって(L3),(C),(T)回路の大電流を仲介電鍵によって直接断続する必要がないので電鍵操作は円滑に且つ安定にできる、というものである。

「高周波発電機式送信機」

 この方式は、発電機から直接高周波を得る方式で、実用に供されたのはアレキサンダーソン式高周波発電機(アメリカ)、ゴールドシュミット式(ドイツ)、ベテノー・ラツール式(フランス)、テレフンケン式(ドイツ)、シュミット式(ドイツ)等である。
 アレキサンダーソン式高周波発電機は、1908年(明治41年)製作に成功し、無線通信に使用されたのは1917年(大正6年)ころからであるが、我が国では、1922年(大正11年)原町送信所で芝浦製作所製のアレキサンダーソン式高周波発電機の使用を開始した。その前年の1921年5月(大正10年)に当時電気試験所所長であった鳥潟博士は、試運転中のこの装置を視察のため原町送信所を訪れている。
この発電機は400キロワット誘導子形発電機で磁極数666、回転速度は毎分3,600回転弱、従って発生する高周波電流の周波数は20キロヘルツ(波長15,000m)である。ちなみに回転子の直径は1.53メートルという大型のもので、1,000馬力の巻線回転子形3相60Hz誘導電動機で直結運転され、発電機出力はテラス・コイルを介して空中線に結合されるというものであった。
 また、1929年(昭和4年)には、依佐美送信所にドイツからの賠償金でテレフンケン式発電機を2台購入し、対欧通信に使用している。
 
参考文献
・日本電信電話公社 編集発行「電気通信自主技術開発史(搬送電話編)」 

・NTT仙台無線通信部 編集 「東北無線史」
・畠山専四郎著 大館市花岡町文化財保護委員会 発行 「鳥潟右一博士伝」 

・岡本次雄、木賀忠雄著 電波実験社 発行 「日本アマチュア無線外史」
・日本アマチュア無線連盟編 CQ出版社 発行 「アマチュア無線の歩み」 

・原昌三著 JARL九州地方本部発行 「ハイテク通信のあけぼの」
   資料提供 JA7ANR JA7HFG JE7MMC