神岡町神宮寺に住むJA7NIはアンテナを高くしたい、と常々考えていた。
が、タワ−なぞ、およそ建てた人がいない時代のことだ。
そこで考え付いたのは電柱を2本つなぎにして高さを稼ぐこと。
古電柱を捜したところ、JA7AGLの紹介で角館の電電に4ー5本ある、との情報を得た。値段は薪程度で格安だが、運搬方法が大変だ。何しろ電監の定期検査時、駅にリヤカ−で検査官(測定器を沢山持って来るため)を迎えに行く時代だからトラックなぞ頼める訳がない。
そこで考えたのは桧木内川ー玉川を電柱の筏で下る方法だ。
善は急げ、真夏の太陽のもとJA7NI・AGLの二人は桜の名所で有名な桧木内川の土手で筏を組み、意気揚々の船出をした。
しばらくは快適な航海であった。NIはアンテナのことで頭が一杯だった。あぁしようか、こうしようか、と。
途中、AGLは仕事があるというのでリタイヤ、以降はNIの孤軍奮闘が始まった。
パンツ1枚で筏に跨ったNIは電柱からのクレオソ−トが染み込み、パンツはカ−キ色、股下は赤むくれのヒリヒリ。
最大のアクシデントは、川の流れがカ−ブして、縦の筏が横になりそのまま途中の橋桁に引っかかってテコでも動かぬ状態になってしまった事だ。
途方に暮れたNIがふと耳にしたのは遠くで水泳ぎをしていた大勢の子供達の歓声だった。
大急ぎで助けを求めに走り、子供達の力で筏はどうにか運行続行、目的地の神宮寺まで到着したときは遅い夏の陽もとっぷりと暮れていた。
こうして運ばれた電柱はその後H柱に組まれ、上には念願の2エレクワッドが乗って、折しも「新通信方式」であるSSBの電波が発射され、米東海岸から猛烈なパイルアップの嵐を受ける事になる。
話は替わってNIが横手市に転勤、1.9メガで活躍していた頃の話。
横手市松原の社宅に住んでいたが裏手は小高い丘の果樹園。早速オーナーにわたりを付けてフルサイズの逆Vをあっと言う間に上げてしまった。150mのケーブルでシャックに引き込み、抜群のロケーションとローノイズで、北米方面へ日本からは最強のシグナルを送り込んでいた。
ところがそれに飽き足らず、考えたのはDXによく飛ぶと言われるバーチカル・アンテナである。しかし、このバンドでは最低40mの高さが必要だ。
「??」と思案して出した結論はアドバルーンを上げることだった。
必要は発明の母、何処からともなく気象観測用のゴム風船を2枚仕入れて来た彼は早速市内のガス屋にヘリュームを注文した。
毎度ありがとー、と到着したガス屋さんはボンベを降ろして驚いた。ゴム風船ばかりで口金がなく、これではガスは入れられません。と、帰ってしまったのである
後日、アドバルーンは上がった、と「風の便り」で聞いたから口金はどうにかしたのだろう。後でNIの述懐。風で垂直に保つのが難しく、林檎の木に引っかかってしまい、あれは失敗だった、と。
さて、今度は秋田市に転勤したときの話である。
アマチュアの常として、たいがいの人は、下を見るより上を見て歩く。高いビルや煙突を見ると、あそこにアンテナを張れたらなぁ、と考える。しかし、考えるだけで、ふと現実に戻る。ところがNIはそこからが違う。
大都会の秋田市には高い建物が林立しているが、その中でひときわ高いのは秋田電話局のビルに上げらているパラボラである。
ここから1.9のアンテナを上げたらJA7AOはイチコロだな、と考えたNIは早速計画を取りまとめ、実行に移すこととした。
パラボラ鉄塔の上段(地上高66m)の所からエレメントを釣り下げ、傾斜させたバーチカルでVK方面に指向性をもたせ、給電点からは同軸で隣接の駐車場に置いた車の中まで引き込み、車内で夜間オペレートする、というものであった。
まず、パラボラ鉄塔の使用許可を得てアンテナを設置、そして局舎使用許可や電力使用許可、駐車場使用許可までちゃんと取って正々堂々の運用までこぎ着けたのである。
こうして1971年(昭和46年)10月23日から翌年3月31日まで、夜は8時から朝の6時まで、土日を中心に運用が続けられオセアニアを中心に多くのカントリーと交信に成功したのであった。
以上、JA7NIの特徴は、秋田弁で言うならば「あだこだ言わねで、やて見るべ」であり、これはアマチュアの神髄でもある。
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