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imbalance 【1】 |
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逢魔ヶ時、という言葉がある。
夕方のまだ薄暗い、ちょうど昼と夜との間を示す刻。
どちらの時間でもない時に、この世とは違う世界とつながる時間。この世のものでない何かが、もっとも現れやすい時間。
この時間は、魔物が一斉に走り抜けるといわれている。
魔物に囁かれる時間。人の心が惑う時間。
だからであろうか。
魔物に促されるように、少女はゆっくりと口を開くのだった。
◆◇◆
「ごめんなさい……私、他に好きな人ができてしまったの」
静かな水音だけが支配していた空間に、高い少女の声が木霊する。聖なる土地に湧く泉は、その通称を『恋人達の湖』といった。
特別な場所とされている所為か、人影はいつも疎らである。今も一組の男女の姿しかない。しかし、双方とも恋人同士の語らいというには、いささか不穏な雰囲気を醸し出しているのだった。
少女の告白に双眸だけで驚いた男は、ややあって薄く形の良い唇を開くのだった。
「知っていたよ」
淡々と告げられる事実に、今度は少女が驚いた。固まって言葉もない彼女に、男は優しく続く言葉を紡ぐ。
「いいんだ…………分かっていたさ、とっくの昔から。お嬢ちゃんの蒼い瞳に映るのは、俺とは違う男だっていうことを……」
怒るでも喚くでもない、今まで通りの甘く柔らかい声。
少女の蒼い瞳から溢れ出す涙を止める術は、もう何もなかった。
「許してくれるの?」
「許すも許さないもないだろう。既にお嬢ちゃんの心はこの俺から離れているのに」
申し訳なさそうに、女の表情が歪んだ。浮かぶのは謝罪を多分に含んだ色。憐れむような愛しいような瞳を男に投げかける。
「ごめんなさい……でも私、貴方のことを本気で愛していたわ」
「俺もだよ」
男の言葉も過去形であることに、女は気づきもしない。気づかないから手を伸ばした。燃え盛るような赤い髪に、その細い指を掻き入れる。
男の髪は、彼の心を忠実に再現しているかのように思えた。触れると火傷してしまうのではないかと思うくらい熱い感情を、彼はいつも真っ直ぐ自分にぶつけてきた。だから自分も、それに応えた。心から彼を愛していた。時には、他の何も考えられなくなるくらいに。
昔を懐かしむように、女は男の髪を撫でる。見た目より柔らかく、心地よい感触が蘇る。幾度となく触れてきた彼のすべてを、今日を限りに失ってしまうのだ。
それは、自分が決めた結論。
唯々諾々と従ってくれた男の優しさが胸を苛んだ。彼は変わらず愛してくれているのに、どうして自分は他の男性を見つけてしまったのだろうか。
ごめんなさい。
もう一度、心の中でそう呟く。言葉にならなかったそれを、まるで耳にしたかように男は面を上げた。
青い二対の瞳が、互いにぶつかる。
翳りはある。しかし、明確な意思を宿している薄青色の瞳に、女は安堵するのだった。目を細めて、小さく笑う。そしてそのまま、ゆっくりと瞼を閉じていく。
そうして光を失った時に、女はかつての恋人から最後の口付けを落されるのだった。
◆◇◆
唇を離すと、綴じた時と同じくらい緩慢な動作で女は瞳を開いた。蒼い瞳が切なげに潤いを帯びている。泣き笑いのような表情を浮かべて、女は立ち上がって僅かに乱れた衣服を整える。
いつもよりゆったりとした振舞いは、これが最後であるからなのだろうか。
そんな事を考えながら、オスカーは黙って彼女の行動に目を向けていた。丁寧にスカートの裾を直した少女は、ようやくその顔を上げてこちらを見つめる。
「さようなら、オスカー様」
こんなにも晴やかな表情は、ここ数日オスカーの目にするところでなかったものだ。満足げに微笑んで、オスカーは頷いてみせる。
「本当は俺が幸せにしてやりたかったのだが……残念だな」
力のない呟きに、女の蒼い瞳が傷ついたように揺れた。
「ああ、謝るものじゃない。こうなってしまった今、俺にできるのはお嬢ちゃんに悲しい表情をさせないことだけさ」
「最後まで……優しいのですね」
微苦笑でそれに応え、オスカーは視線だけで先を促した。元いた世界に向かって、女の足が、心が緩やかに進んでいく。
あと一歩で見えなくなるというところを見計らって、男が優しく声をかけた。
「お嬢ちゃんの幸せだけをいつも願っているよ」
女の動きが停止する。樹に添えられた手が、小さく震えているのが見てとれた。たっぷり数秒置いた後に、意を決したように女が振り返る。
「私も貴方が幸せになるように祈っているわ」
満面の笑みが浮かべて、震える声でそう告げる。この表情を引き出せたのは他ならぬ自分であることを、オスカーは知っていた。
笑いを殺すのは動作もないことだ。神妙な面持ちに少しだけ名残惜しさの欠片を添えて、オスカーは餞の言葉を投げかけた。
「いい女になれよ」
普段の彼らしい口調に安堵の息を吐いて、女は大きく頷いた。
「ええ」
それだけ言うと、鳥のように軽やかに身を翻す。迷わないように、揺るがないように、女は勢いよく飛び出すのだった。
恋が成就した時のような会心の笑顔をひとつ残して、女は男の元を去って行った。
女の後ろ姿がすっかり消えるのを見届けるまで、オスカーは立ち上がろうとはしなかった。姿勢を崩して片膝を立てる。長い時間も同じ姿勢でいた為に生じた僅かな痺れも、今の自分には心地よかった。
「さしずめ及第点……と言ったところかな」
思い描いていた結末を引き出せた。結果は上々であるのだか過程に不満があったのか、いささか辛口の点数を己につける。
「予定より長引いたしな……まぁ、これも醍醐味って奴かね」
緩慢とも思える動作で、ようやく腰を上げた。長すぎる足を伸ばして、大きく深呼吸する。
日は完全に暮れて、逢魔ヶ時――大禍時――と呼ばれる時間は消え失せた。
余韻しか残らない空間に、投げかけられる言葉。
「いい女になれよ」
自分の他には誰もいない暗闇の中で、オスカーは尚も唇に言葉を乗せる。
――――新しく捕まえた男には、そう簡単に心変わりされないような、もっといい女にな。
音に出さずに喉の動きだけで紡がれた言霊は、たちどころにその姿を消した。
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to be continued..... |
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