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朝の唄 【12】 |
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初戦を大差で圧勝し、誰もが浮かれた足取りでの帰還となった。口々に仲間同士で戦果を褒め称えている。
学び舎に辿りついてもその熱は冷めずに、ちょっとしたお祭のような騒ぎになった。隣にいる者と話をしようとしても、怒鳴るくらいの音量でないと喧騒にかき消されてしまうほどに。
辺りにはすでに夜が訪れ、空を深い藍色に染め上げている。地上の賑やかさに負けじと、幾多もの篝火が天に覆う蒼い闇を焦がしていた。
その青に近づこうと、瀬戸口は階を昇っていく。地面から離れれば離れるほど、その青は深みを増していった。
二階の手摺りに肘をついて、穹窿を仰ぐ。黒と青の二つの月が、くっきりと浮かび上がっている。
欠けることのない黒い月は、穢れない空の唯一の汚点のようにも見える。
「昔はあんなもんなかったのにな……」
いつから変わってしまったのだろう。そして、また変わっていくのだろうか。
まるで人のようだな、と瀬戸口は嘲笑した。
人間は時を重ねるごとに変化していった。成功すれば傲慢になり、失敗すれば卑屈になる。
世界も人間も同じである。常に悪いほうにしか変わっていかない。
静寂を破る、微かな音がした。瀬戸口は素早く振り向く。
屋上に繋がる階段から、それは聞こえた。足音にしては弱すぎる音。
小さな黒い影が、足下に飛び移った。月明かりに照らされて、ようやくその正体が確認できる。ブータが降りてきたのだ。
ブータは目を大きく開けて、瀬戸口を見た。
「久し振りだな、おっさん」
鳴きもしない。ただ、何故か勝ち誇った顔をしている。
「さっきの戦闘で、おっさん何か活躍したっけ?」
今度はにゃーんと鳴いた。首を振っているような気もする。鼻先が不自然な方向を指して止まった。
「上? 何かあるのか?」
瀬戸口はその方角を目で追った。ちょうどブータが降りてきた階段の方を指し示している。その先は屋上である。真夜中のプレハブ校舎屋上に、小さなひとつの影が揺らめいている。
「あ、あのエロじじぃ」
瀬戸口は屋上に向かって駆け出した。一段抜かしの脚力まで見せる。
案の定、上にはののみがいるのだった。
膝をついて手を組んで、熱心に何かを祈っているようだった。伏せられた長い睫に淡い光が注がれている。月の蒼い光を浴びながら、少女は跪いてこうべを垂れていた。
儀式のような光景に目を奪われ、瀬戸口の勢いは削がれていく。階段を昇り切ったところで、瀬戸口は一歩も動けなくなっていた。
「……東原」
遠慮がちに名前を呼ぶと、ののみはぱっと顔を上げる。そうして瀬戸口を認識すると、相好を崩すのだった。
「たかちゃん!」
元々下がり気味の目尻が、更に低い方へ引っ張られている。ののみの笑顔は、瀬戸口にどこかくすぐったい感じを引き起こすのだった。
今度はゆっくりとした足取りで、ののみの傍まで歩み寄る。
「何をしているんだ?」
「えーとね、おいのりなの」
夜空を見上げてののみは言った。先日の自分と同じことをしているののみに、瀬戸口は失笑を禁じ得なかった。
「星に願いを、か……」
こんな時世だからこそ、誰しも願い事がある。
少女は何を思っているのだろうか。できることなら叶えてやりたいと思った。
しかし、ののみはそれを聞いて大きく首を横に振った。
「ううん、それは違うのよ。ののみはお月さまにおいのりしているの」
真っ直ぐに指を差す。その先には禍々しい黒い月がある。
「――――どうしてあんなものに……」
どう考えても縁起のいいものとは思えない。青い月を隠して、幻獣を呼んだ黒いそれはむしろ総ての元凶であるものだ。
「効かないだろう、あれじゃあ」
瀬戸口は苦笑いを溢した。少しだけ心が痛んだが、いくらののみの行動でも、さすがにこれは肯定できなかった。
しかし彼女は大真面目のようだ。たかちゃん、と彼女らしからぬ怖い表情で睨んでくる。
「めーなのよ。かなうっておもわないと、よくならないのよ」
「……少し歳を取りすぎちまったみたいだ。素直に信じられないよ」
わかったと言ってしまえば話は早いのだろう。しかし瀬戸口はののみに嘘をつきたくないし、嘘はつけないと思っていた。
「たかちゃん、それもめーなのよ」
すると、今度は哀しそうな口調で諭すように言った。
「ホントはかなってほしいんでしょ。のぞんでいるのに、かなわないってあきらめているのはよくないのよ」
瀬戸口はそっと目を伏せた。
もう何度も経験してしまったのだ。望んで、期待して、裏切られるのはもう沢山だった。
年齢を重ねるほど、傷つくことを恐れて慎重になっていった。怪我をすると治りも遅くなっていく。
そのような現実を知ってもなお、そう言い切れるのだろうか。
願いなんて叶わないと思う理性と、想いが伝わって欲しいと訴えている感情が瀬戸口の中でせめぎあった。その決着をつけるように、ののみが昂然と言い切った。
「いいことはしんらいすることからはじまるの。しんらいにこたえないものはないのよ」
「信頼……か」
久しく忘れていた言葉である。否、忘れようとしていた言葉だった。
信じないことで己を保っていたのだ。もう一度同じ目に遭ったら、きっと立ち直れないと思っていたからだ。傷を負うことを恐れて逃げていた分、極端に痛みに弱くなったのだ。
本当はわかっている。総てわかっていたのだ。
だから関わるもの、触れるものの全てを拒んだのだ。目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤む。
誰とも親しく打ち解けるが、その誰とも深く交わらない。付かず離れずの距離を常に保って、たったひとりで生きてきたのだ。そうして心までも閉ざしていく。
それさえも、一種の逃避であったと気づかずに。
心の深いところに包み隠していた想いごと、彼女によって再び剥き出しにされてしまった。しかし、瀬戸口はそれを不快には思わなかったのだ。
「そう。それがじゅーよーなのよ」
高らかにののみは告げる。彼女が光を纏っているように眩しく思えた。
「あきらめたら、そこでおわりなの。あきらめないかぎり、どこまでもつづいていくのよ」
改変はいつも痛みを伴う。
結局、自分は何もわかっていなかったのだ。激しい痛みやもどかしさの向こうに吹いている革新という風を知らなかったし、また知ろうともしなかった。
瀬戸口は自分の心を覆っていた厚い殻が、ぱらぱらと音を立てて剥がれていくのを感じた。破片は心に刺さることなく、粉々になって霧散する。
「……諦めたくはなかったんだ」
思いは独りでに口から零れ落ちた。そうして自分の発した言葉に、改めて驚く。
そう自分は諦めるふりをしていたのだ。人間なんて下らない、望みなんて叶わない――だから、仕方ない、と。
それで失望しているのだから、まったくもって手におえない。
あまりの馬鹿らしさに笑いすら込み上げてきそうだった。結局自分は臆病で矮小だったのだと思い知らされる。
ののみは穏やかな表情で瀬戸口を見つめていた。視線が合うと、彼女は満足そうに微笑んだ。
「だからいっしょにおいのりしよー。おとーさんがね、あそこにいるのよ」
至福の表情で黒い月を指差す。ののみの声には追慕にも似た響きが含まれていた。
月を仰いだ姿勢のまま、切なげに瞼を伏せる。両手が祈りの形を作っていた。
「みんなみんな優しくなれますように」
同じ願いを、違う女性の口から大昔にも聞いたことがあった。
――――夢があります。人が皆、優しくなる夢です。
冷たい岩室の中で、彼女は静かにそう言った。真っ白な手を組んで、祈るように彼女は目を伏せた。
自分も一緒に祈ったものだ。優しい人間なら、決してこの女性をこんな扱いにはしないだろうと。優しくない人間の所為で、彼女は惨禍に遭っているのだと。
彼女を救い出せなかった悔いは、いつも心の底に汚泥のように重く沈殿している。あの祈りは遠回しに助けを求めていたのではないだろうか。そう思うと、言いようのない後悔が込み上げてくるのだった。
ふと気がつくと、今まで月を見上げていたののみの柔らかい眼差しが、瀬戸口の方を向いていた。視線が噛み合うと、彼女はにっこり微笑んだ。
「だれかに優しくしてもらうと、人はしあわせになれるの。しあわせだと、まただれかに優しくなれるのよ」
幼い子供に話しかけるように、ゆっくりと慈愛を含んだ声でののみは言う。
「だから、みんなが優しくなれますように」
彼女の祈りが優しくて、瀬戸口は泣きたくなった。
自分でない誰かの為に、人が優しくなりますように。皆が幸せになれますように。
ののみの言葉は、彼の人の言葉に聞こえてならない。
(貴女はどのような意味を込めて、そう述べられたのですか……)
今となっては知る由もない問いを、瀬戸口は心の中で繰り返す。胸の中の聖女は何も言わずに、ただ哀しげな微笑みだけを返すのだった。そして、次第にその輪郭がぼやけていく。異なる形を司ったと同時に、ぱちんと音を立ててそれは消失した。
「おとーさんならおねがいかなえてくれるかな。ののみのこと、みていてくれてるのかなぁ……」
ののみが立てた膝をそっと両腕で抱え込んだ。幼さを含んだその仕草は、瀬戸口の胸を痛めた。
空虚と化していた瀬戸口の脳裏に、卒然として坂上の話が呼び起こされる。芝村的な養父、金だけをむしり取った親戚。
(その『おとーさん』たちの所為で、どんな目に遭ってきたんだ)
それなのに恨み言ひとつ溢さない健気な少女。
打ち付けに瀬戸口は腕を伸ばした。ののみの手首を捉えて引き寄せる。次の瞬間にはののみのしなやかな身体を、その胸に掻き抱いていた。
「ふえっ……たかちゃん?」
「――――おとーさんが帰って来るまで、俺が代わってやるからな」
ののみの肩口に顔を埋めるようにして、瀬戸口は呟いた。
養父は亡くなったとののみから聞いたことがある。そうだとしたら、彼は二度と戻ってはこない――それでもよかった。
冷たい雨からでも、夜の闇からでも。起こりうる全ての苦しみから君を護ってみせる。世界の終わりまで傍にいる。君が安らかに眠りにつけるように――。
それは魂だけになっても守るであろう、彼の生涯においてたった二つ目の誓約。
ののみがそっと瀬戸口の胸を押した。その仕草に瀬戸口の心臓が大きく跳ねる。しかし瀬戸口を見上げたののみの顔が不愉快を示すものでなかったことに、彼は心底安堵した。
頬をわずかに染めて、ののみは言葉を紡いだ。
「えへへ。でもね、おとーさんとたかちゃんは違うのよ」
瀬戸口の決意の程を知らないとはいえ、こうもあっさり否定されては返す言葉もありはしない。
口説き落としにかけては百戦錬磨と謳われた瀬戸口でさえも、なす術がなくしょんぼりと項垂れる。
「俺じゃ駄目か」
悄々として呟く瀬戸口に、ののみはまごつきながら答える。
「ちがうのよ。あのね、うんとね……たかちゃんは、たかちゃんなのよ」
懸命に言葉を選んで告げようとするのだが、いまいち要点が曖昧である。瀬戸口は首を傾げた。
「だからね……ののみのことはいいのよ」
言い含めるようなののみの言葉に、瀬戸口は軽く首を傾げる。
「何が……」
いいんだ、という問いに被さるように、別の声が割り込んでくる。
「おーい! 何やっているのー?」
その場の緊張感を見事なまでに粉砕する、くだけた声の主は速水であった。彼は声をかけるだけでは飽き足らず、わざわざ二人の前に駆け寄ってくるのだった。
(お、おのれー……)
思わず小さく舌打ちをする。しかし瀬戸口は、同時に少しだけほっとしていたのだ。それは、とめどなく込み上げてきたののみへの感情の名前を、今知ることに対する逡巡でもあった。
まだ駄目だ。まだあの人に逢えていない。
それでも瀬戸口はこの時ひとつの大きな決断を、自分自身の内で下したのだった。このままではこの娘も消されてしまう。事前にそれを食い止めなくてはならない。
闇夜の中を彷徨っている自分の手を取って導いてくれるのは、いつもこの小さな少女なのだ。彼女だけは青の好きにはさせない――たとえ、自分が身代わりになっても。
挑戦的な笑みを受かべて、瀬戸口は空を仰いだ。
(その為の犠牲なら甘んじて受けてやろう)
それは、天の頂きから全てを見透かしているようなあの月へさえも届かない祈り。
「お月さまにおいのりをしているのよ」
黙りこくってしまった瀬戸口の代わりに、ののみが速水に答えていた。速水は納得したとばかりに、大きく頷いている。
「なるほど。ご利益ありそうだよね」
「……速水。お前さん、世間の認識からズレてるってよく言われない?」
「うーん、どうだろう……。瀬戸口くんほどではないと思うけど」
遠回しな瀬戸口の厭味を意に介した様子もなく、飄々と速水は述べた。気に障ったのは瀬戸口の方である。
「どういう意味だ」
「言葉そのまんまの意味だけど」
ちらっとののみを見て、またすぐに視線を瀬戸口に戻す。意味ありげに瞳が揺れた。
瀬戸口は速水の言わんとしていることを、少なからず察してしまった。
「お前……いつからここに来ていたんだ?」
感情を抑えた、低い声音。
二人の間に流れる穏やかではない雰囲気を感じ取り、ののみの胸がざわめいた。
「たかちゃん、あっちゃん。けんかはめーなのよ」
「大丈夫だよ、東原。喧嘩じゃないよ。瀬戸口くんが一人で興奮しているだけだから」
速水はにっこりと笑顔で、あやすように言う。
「速水、お前……。芝村になってから随分ふてぶてしくなったな」
精一杯の皮肉を込めた声も、すかさずののみに気づかれる。
「たかちゃん!」
ののみが瀬戸口と速水の真ん中に割って入ってきた。
「けんかはめーなのよ、たかちゃん」
名指しでののみの『めー』を食らってしまっては、降参せざるを得ない。速水はというと、ののみの後ろでくすくすと笑いを噛み殺している。
「瀬戸口くんは怖いですね〜」
「……後で覚えていろよ」
ののみの怒った表情の前では、これ以上反撃できない。すごんだ台詞もまったく迫力がないものだった。
「瀬戸口くんの弱点見つけちゃった」
至極嬉しそうな速水の口振りは、ますます瀬戸口を憮然な表情に変える。
「たかちゃんのじゃくてん!? ののみもしりたい!」
「いいから! ほら、一緒に帰ろう」
ののみの手を掴んで、瀬戸口は速水に背を向ける。
「えー。ひどいなあ、折角来たのに。置いて行っちゃうの?」
わざとらしい声を出してののみの同情を引くのは、みえみえの魂胆だった。しかし、疑うことを知らないののみが引っかかってしまうのもまた、瀬戸口には予想がついていた。
「たかちゃん、あっちゃんがかわいそーなのよ。みんなでかえろ」
「あいつはちっとも、全然、可哀想なんかじゃないぞ。騙されるな、東原」
「ふぇぇ?」
一気に走り去ってしまうつもりだった。しかし、ここでののみの耳を塞いでおかなかったことが、後の瀬戸口の敗因となるのだ。
「東原は、僕だけ置いていくなんてひどいことしないよね?」
速水は直接攻撃に出たのだ。そう、彼は瀬戸口のみならず、ののみの弱点も熟知していた。
懸念した通り、瀬戸口がののみを引っ張ってみても、手こそ離さないが足はついてこない。ののみの身体は完全に速水の方を向いていた。
「……たかちゃん。やっぱりあっちゃんかわいそーだよ」
置いていかれるのが自分であるかのように、ののみは零れそうなくらい涙をいっぱいに溜めているではないか。
「わかったわかった。三人で帰ろう、な」
最初から敗色は見えていた。分が悪すぎるのだ。この二人に最強タッグを組まれては、瀬戸口が折れる他なかった。
「よかったねー、あっちゃん」
「ありがとう東原。……なんかさ、こうしていると親子みたいだね」
瀬戸口の心に冷たい風が吹き荒ぶ。抑揚のない声で、彼は速水に尋ねた。
「誰がどんな役割だか言ってみてくれる?」
「え、勿論僕がお父さんでしょ。で、瀬戸口くんが……」
「あー、もういい。聞きたくない!」
子供でもおじいちゃんでも、ましてやお母さんでも嫌であることは変わりないのだ。嫌なことは聞かないでおくのが賢明であろう。
しかし、ここでも瀬戸口の心を知ってか知らずか、ののみは興味津々で詮索するのだ。
「あっちゃん、おとーさんなの?」
ほんのりと頬を染めて、遠慮がちに速水は口を開いた。
「うん。ダメかな」
「わーい、おとーさんだ」
対外のことは目を潰れるが、これには痛恨の一撃であった。さすがにショックを隠し切れず、心は糸の切れた凧のようにどこかへ飛んで行ってしまいそうになる。
(俺はおとーさんじゃないって言われたばかりなのに……)
「あれ? どうしたの瀬戸口くん」
「…………どうもしない。いいから帰るぞ」
明日もう一度、東原に聞いてみよう。そんなことを瀬戸口は考えているのだった。
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to be continued..... |
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