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祇園草紙 【1】 |
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大勢の能力者が力の限りを用いて定められた佳節は、日和までもが合わせたかのように恵まれていた。
青く澄んだ穹窿には、一点の曇りもない。目を凝らすと天の果てまでも透けて見えてしまいそうなほど、穹窿は青く澄み渡っている。陽はまだ激しい熱を伴わず、柔らかい温もりだけど地上に注いでいる。
儀式は月が南中まで昇る時間に行われる。
屋敷の内外では誰もがその為の準備に追われて、忙しなく動いていた。麗らかな陽気とは似つかわしくない、齷齪とした空気が充満している。有力者と思しき男たちが集まり談合している様子は、傍から見ると罵倒し合っているような険悪さすら窺えた。
止むことのない喧騒に背を向けて、一人の少女は歩き出した。
屋敷から離れ高台へと足を進めていくと、少しずつ周囲の音が変わりだした。雑踏は次第に薄れて、今まで聞こえなかった木々のざわめきが耳に伝わってくる。葉の擦れる音、鳥の囀る声。それらの音が、昂ぶっていた少女の心を優しくなだめていった。
頂からは、屋敷が見下ろせる。しかし少女は振り返らなかった。
真っ直ぐに見つめる先に、二つの青がある。
どこまでも澄んだ青と、果てしないほど深い蒼。その二つが交わる一線を、少女は力強く見据えた。
近くのようで計り知れない距離があることを知っている。水と空気が、空と海が、互いに異質なもの同士が出会える場所なのだ。
真下は切り立った崖となっている。少女はそこを覗きこんだ。遠くでは黒とも紛うような蒼が、眼下では白い飛沫となって撥ねている。こんなに波を打っているのに、遥か沖の水平線は微動だにしていなかったことが不思議でならない。
やはり海には神秘を感じる。
蒼く見えた水が、少女の立っている丘に繰り返し押し寄せる。その度に潮騒の強弱つけた音色が、心地よい唄を奏でてゆくのだった。
この景色と音が、少女の気持ちを穏やかなものに変えていく。赤い紅を掃いた口元に、微笑が刻まれる。厳しく結ばれていたそこに、ようやく宿った笑みであった。
薫風が彼女の耳の辺りにある髪を、ふわりと持ち上げた。大気は喜びに満ちている。季節は一年でもっとも優しい時を迎えようとしていた。
通りすがりに淡紫の小さい花を目にした。あれは楝の樹であろう。喬木にはまだ花を持たない枝の方が目立っていたが、あれらはいずれ群がり咲くであろう。
楝は菖蒲や蓬と同様に、邪気を払うものとして用いられていた。
その葉が、ざわざわと音を立てる。
ふと、少女の瞳に剣呑な光が宿った。顔を上げて、ゆっくりと振り返る。数歩だけ足を前に出して、その場所から天を仰いだ。曇ることを知らない空が、遠い山の向こうにまで広がっている。そこに向かって、少女は声をかけた。
「降りてらっしゃい」
葉擦れの音が、止んだ。
冷たい空間が、そこに生じる。しかし少女の浮かべている表情は、木漏れ日のような温かみのあるものだった。
少女は返事のない虚空に向かって、尚も言葉を放つ。
「そこにいるのでしょう。いいから、降りていらっしゃい」
その時、梢が一斉に傾いた。
楝の枝が大きくしなって、若々しい葉がはらはらと落ちてくる。力から解放されたそれは、反動で激しく震えていた。
昏い影が、目の前に現れる。
異国の巡礼者のように大きな布を頭から被っている為に表情は明らかではなかったが、その双眸は燃え滾る炎に似た憎悪を漲らせていた。
痛いほど突き刺さる視線に構わず、少女はゆるりと質問を続けた。
「いつからそこにいたの?」
「…………」
「ずっと木の上にいたの?」
一言も発しようとはしない訪問者に対して、少女は大仰に溜息をついてみせる。
「――――いいわ。こっちへいらっしゃい」
促して先を歩くが、その人物はついて来ない。茫然と立ち尽くしたままでいるので、思わず少女はその者の腕を取った。
「離せっ!!」
短い声を上げて、少女の腕を払い除ける。同時に地面を強く蹴って、少女から距離を取っていた。激しい動作が起こした風が、顔を覆っている布を僅かに捲くる。
垣間見えたその顔は、人ではない異形のものだった。
鬼と呼ばれるものが姿を持つのなら、間違えなくこのような形をしているのだろう。体つきこそ人間に似ているが、その顔は似つかぬほど奇異である。開きかけた口の中からは、大きな牙と思えるものが垣間見えたのだった。
始めて出会った存在に、少女が僅かに目を見張る。
動揺を感じ取った侵入者は、慌てて布を深く被り直した。すぐさま顔を上げて、再び少女を鋭く見据える。
対する少女も、険しい表情で異形の怪人を見つめていた。
草を踏む音だけが、鮮明に聞こえてきた。指を鳴らしながら、鬼が近づいてくる。その先にある爪は、尋常でないほど長く尖ったものであった。
手を伸ばせば届く距離まで近づいたところで、少女がおもむろに口を開いた。
「ちゃんと喋れるじゃないの」
咎めるような口調。どこか自分勝手さを滲ませた物言いに、鬼の足取りがぴたりと止まった。
「貴方の名前は?」
「…………」
静寂が再び訪れる。もどかしさに、少女は首を振って嘆息した。
「言いたくないのならいいわ。私の名は、椿よ」
「…………」
「どうしたの? さっきから、何か不思議そうな顔をしている……」
鬼の方が、まるで化け物にでもであったかのような表情で自分を見つめているではないか。少女はそれを無視できず、問いただすように歩み寄った。
「怖くは、ないのか?」
「え?」
初めて聞いた声は、布に遮断されている為に、くぐもった声となっていた。皆まで聞き取れず困ったように視線で問うと、鬼はもう一度同じ言葉を発するのだった。
「あんたは、俺が、怖くはないのか?」
たどたどしい発音ではあったら、今度は明瞭に分かった。神妙に自分を見つめる瞳に、ただならぬ動転が浮かんでいる。
思わず、くすりと小さく笑った。
「怖くはないわ。……むしろ、怖がっているのは貴方の方じゃない?」
確かに一瞬は驚いた。しかし、こんなに邪気のない相手には、余裕すら生まれるものだ。
白く細い手が、そっと伸びていく。しかしそれが届く前に、鬼は飛び退いていた。凍りついた赤い瞳で、真っ直ぐに自分を凝視している。
激しい風が周囲を襲った。樹木はその腕を大きく揺らし、落ちつかない音を生む。
我に返った鬼は、畏怖の念を抱いたような表情のまま、林の奥へと姿を消していった。
「ほら……ね。みんな私を怖がって、近づこうとはしない…………」
どちらが本当の鬼なのかと、少女は自問する。その問いに応えるように、潮騒が大きな唸り声を上げた。
大地は全てを知っているのだろう。少女を叱咤するかのように、幾度も波が打ちつけた。
嘆じるのもこれで最後にしなくてはならない。自分は人であって人でない存在に、その身を委ねていく。
火の国の藩王が息女――――椿姫が、純粋な人族である最後の日だった。
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to be continued..... |
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