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朝の詩 【1】 |
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白い壁だけが、鮮やかに瞳に焼きついている。
染み一つない真新しいそれからは、触れると身体の芯まで凍てつくような冷たい印象を受ける。だから敢えてそれに触れようとはしなかった。常に部屋の中央で、膝を抱えて座り込んでいた。
何かに掴まっていないと、心細かったのだ。
小さな空間の中で、少女はいつも独りだった。辺りを見回しても、誰も見つけられない。
何もない訳ではない。申し分のない調度品が、少女の近づけない壁に沿って鎮座している。ゆったりとしたスペースは、少女一人には有り余るものだ。
だからこそ、余計に淋しかった。
淋しいという感情しか、少女は知らなかった。
天窓から見える景色だけは、様々に変化していく。それを眺めることだけが、少女の日課だった。ぼんやりとただ見つめているだけの行為。
やがて長い睫がゆっくりと下りてくる。月の輪郭もおぼろげになってゆく。唯一の感情が、目に見える風景を不鮮明なものに変えていった。
少女は眠りの海に飲み込まれようとしていたのだ。小さな手は合わされ、白い指を組んで折られている。誰に教わったものでもない、それは祈りの仕草だった。
微睡みの中で、滅多に開くことがないドアを叩く音を聞いた。
しかし一度閉じてしまった瞼は、なかなか上がろうとはしない。少女は人間の入ってくる気配だけを感じながら、心地よい眠りに身を任せていた。
床を蹴る足音が、彼女の前で止まった。
「こんにちは」
正面からかけられた声に、少女は驚いて飛び起きた。
決して大声であったのではない。むしろその声は穏やかで柔らかいものだった。
他人の声というのを初めて聞いた訳でもない。稀ではあるが、この部屋にも人は訪れるのだ。それも単数ではなく、複数もの人間が。言葉だって行き交っている。言葉の意味も大抵は理解できる。しかし、それが自分に向けて発せられたことはない。少女にとって話しかけられることすら驚異であったのだ。
目の前にいたのは、毎晩見える黒い月と同じ色を纏った人だった。
彼は、今まで見た人と明らかに何かが異なっていた。うずくまっている自分と視線を合わせるように、彼もその場に腰を下ろす。
「のぞみちゃん……だね?」
青年の瞳に映っている自分は、ひどく不安そうな表情をしている。それをどこか可笑しく思いながらも、問いかけに答える術を知らない少女は、首を傾げるより他なかった。
その様子を見た男は、少しだけ口元を緩ませた。切れ長の瞳が、余計に細くなる。
こういった一連の表情の変化を、少女は知っている。
(わらう……おもしろいときや、うれしいときにするしぐさ)
それなのに、伝わってくる想いは何であろうか。
視線のようで、声のようで、それでいてそのどちらでもないようなものが、彼女の心に伝わってくる。冷えた心の中に、風のように感じた想いが押し寄せてきた。
(――――かなしいの?)
奥に見え隠れしていた意外な感情に、心の中のみで問いかける。
男は幼い少女を脅かさぬようにと、殊更眼差しを和らげて見つめていた。
「そうか、わからないのか…………。それなら、ののちゃんって呼んでもいいかな?」
低く優しい声が少女に語りかける。初めて聞いた単語に、思わず唇が震えた。
「ののちゃん……?」
「愛称だよ。名前のことだ」
自分を指している言葉だとわかり、少女は無性に嬉しくなった。何度も何度も、小さく呟いてみる。その度に、少しこそばゆい感じが心に残った。
「最初に名前ありき、だ。名前がすべてを決めるんだよ」
それは初めて自分に与えられたものという気がした。家具も、服も、お菓子も、ありとあらゆるものを惜しみなく渡されてきたけれど、そのどれもに愛着が湧かなかった。あくまで借り物としての隔たりが埋まらなかったのだ。
それが形もないこの『もの』だけは、自分のものであるとすんなり理解できる。柔らかい響きが、この上なく愛おしかった。
少女の嬉しそうな様子に、男は目を細めていた。
「ののちゃん」
優しい声が、再び名前を紡ぐ。その声に導かれるように、少女はおもむろに面を上げた。
天窓の向こうは墨を落としたような色が広がっている。少女は、初めて今が夜であったことを知った。深い闇の中から青い月だけが、細くも柔らかく辺りを照らしている。
ふと、月が視界から消えた。
男が立ち上がったのだ。大きな体躯に、月は隠されてしまった。男は少女に向かって身体に見合った大きな手を差し出している。
促されるままに、少女は青年の手を取った。男は満足そうに頷くと、いとも簡単に少女の身体を持ち上げた。
繋いだ右手は、とても温かかった。
「私の娘に……東原のぞみにならないか」
薄暗い部屋が、ぼんやりと光って見える。
彼の姿は不思議にも青い光に縁取られて、浮かび上がっているように輝いていた。
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to be continued..... |
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