GUNPARADE MARCH
**parody**

朝の詩 【3】
 

 一歩外に出ただけで、身震いするような冷気に襲われた。防寒用のコートに身を包んでいるが、身体は温かい室内に慣れきっている。冬の乾いた空気からは、痛みすら感じるのだった。
「寒くはない?」
 男の問いに、少女は頷いた。寒さなど微塵も感じさせない明るい表情で、きょろきょろと辺りを見回している。
「ののみはね、こうやって夜におさんぽするのは、はじめてなのよ」
 繋いだ手をぶんぶん振って、少女嬉しさを隠し切れない様子だ。変哲もない情景でも、彼女にとっては新たな世界なのである。
 暗い闇にも怯むことはない。誰もが恐れる黒い月でさえも、彼女にはとっては毎晩出会っていた友人のような存在なのだ。
 今までひっそりと生きてきたことが不思議なくらい、少女は外の世界に溶け込んでいた。彼女の順応性に、男は安堵する。
 ただひとつ気掛かりなのは、自らの名が『ののみ』で定着してしまったことだ。はしゃいで覚束ない足取りに気を配りながら、男は少女に語りかける。
「ののちゃん。ののみじゃないよ、の・ぞ・み」
 はっきりと区切って、正しい名前を発音する。
 少女は歩く速度を落として、男を見上げた。しかし、『ののみ』が気に入ったのか、彼女は怪訝そうに眉を顰めている。
「ふええ……だってののちゃんでしょ?」
「そうだけど、ののちゃんは愛称だよ」
 低い穏やかな声で語りかけるが、やはりどこか不満そうである。小さな唇を突き出して見つめる表情は、困ったことに可愛いのだった。言い聞かせなくてはならない声も、厳しさの欠けたものになってしまう。
「でもののみは『ののみ』の方がいいの」
 少女は大きな瞳を見開いて、食い入るように男を見つめている。男も彼女から視線を反らさない。しばしの静寂の後、男は硬かった表情を動かした。
「仕方ないなあ」
 どちらが折れるのかなんて、最初から決まっていたようなものだ。諦めの色を含ませて、男は溜息をついた。軽はずみだった提案を、僅かに後悔する。
「本当の名前も、いい名前なのに」
「のぞみ?」
「ああ――――凄いね」
 抑制した声音の中に潜んでいる心からの賛辞に、少女は首を傾げる。
「ののちゃんは凄いね。望みは未来へ繋がるんだよ。未来って知っているかい?」
「みらい……、みー・らー・い?」
 幾度かその言葉繰り返した後で、少女は首を横に振った。それらの単語の意味は、誰も教えてくれなかったのだ。だから『望み』も『未来』も見当がつかない。ましてや、その二つが結びつくはずもない。
 すると男の足取りが急に止まった。どうしたのかと見上げると、真摯な眼差しが注がれている。
 少女は目が反らせなくなっていた。彼に合わせるように、真剣な面持ちで見つめ返す。
「昔でも今でもないところだよ。誰にも判らない……世界の選択だ。我が一族はその為にあるのだ。勿論、ののちゃんもね。総てはそこを向いている。それは凄いことなんだよ」
 『世界の選択』やら『我が一族』やらの聞きなれない言葉の羅列に、少女の脳裏は混乱する。折角話してくれているのだから一所懸命に聞こうとするが、幼子の理解力は既に許容を超えていたのだ。
「ううっ、よくわからないのよ」
 頭を抱える娘に、男は叱りも嘲りもせず満足そうに頷いた。
「いずれわかるさ。ののちゃんが昔でも今でもない時がどこかわかったら、世界は選ばれる」
 男の視線が遠い何かを探すように彷徨った。瞳には険しい光が瞬いている。
 時期尚早だ、と彼は思った。
 来るべき時が来たら、おのずからその意味も理解できる。しかし、まだその時ではないのだ。
 黒と青。二つの月が、少女の背後の空に浮かんでいた。
(一体どちらの光が、この娘に降り注ぐのであろう)
 祈ることなどしたことがない男が、この時ばかりは祈らずにはいられなかったのだ。哀れな少女を、更なる運命に引き釣り込んでしまったのだから。
「いつか、この言葉の意味がわかるといいね」
「うん!」
 赦して欲しいと、切実に思った。
 屈託のない少女の笑みは、男の胸に研ぎ澄まされたナイフのように深々と突き刺さるのだ。
 だから今だけは何でも叶えてやりたかった。少女の望むままに、出来得る限りのことをしよう。
 冷えた空の上で、数多の小さな光が瞬いていた。幾千年も昔から、星々は悠久の時を経て仄かに地上を照らす。遠い記憶を放つ光に、男は誓いと祈りを捧げる。
 少女の笑顔が絶やされないように。辛く悲しい結末でも、少女が乗り越えられるように。
(――――この娘だけが、我らの『希望』なのだから)
 行く末を案じる男の傍らで、少女は相変わらず嬉しそうにはしゃいでいた。小さな肢体は楽しげに揺れている。この身に、これからどれだけの困難が降りかかるであろう。この細い肩は重責を背負い込めるであろうか。
 否、背負い込まなくてはならないのだ。それしか未来は残されていないのだから。
「大丈夫だよ」
「ふええ?」
 おのずと洩れた呟きに、少女は顔を上げる。
「大丈夫だ。もう、お前は一人ではないのだから」
 今も――――そしてこれからも。
 少女は瞳を見開いて、息を飲んだ。その様子を見て男は察した。
 彼女は気づいている。遠からず、自分が目の前から消えてしまうであろうということに。離れていく寂しさを、諦める哀しさを知っている瞳である。
 男はひどく狼狽した。こんなに早くから、不安を生じさせるつもりはなかったのだ。
 自分に彼女の持っている能力は使えない。だから心を読まれたものではない。ただ、それが当たり前のように感じ取っているのだ。
 子供特有の感受性の鋭さに、男は困り果てた。
 己の思惑も、描いている未来も、彼女には知る由もないだろう。そうすると今の言葉は、有り得ない不確かなものとして受け止められてしまう。
 希望の芽を摘み取ってしまうわけにはいかない。何より、少女の瞳が翳ってしまわないかということが、気がかりだった。
 何とか取り繕うと少女に視線を下ろすが、それっきり男は何も発することが出来なくなった。
 幻をこの目で見た気がしたのだ。気高い幻が、彼女の小さな躯に降臨したかに思われた。
 見開いていた聖女の瞳が、ゆっくりと細くなっていく。崇高な女性の面影は、その瞳に色濃く宿っていた。
 そうして少女は笑った。
 泣き出しそうな顔で、笑ったのだ。


to be continued.....

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『朝の詩』はオフラインからの再録になります。
前半がののパパで、後半が瀬戸ののでした。
対比させてみたかったのです。何故かいわっちも出張ってましたが(笑)


update 9,Aug,2002

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