|
それはとても晴れた日で 【9】 |
|
| |
それまでは、ごく当たり前の部活の光景だった。いつも通りに準備運動から始まり、その後は学年ごとに分かれて個別の練習に入った。一年生は素振りや走り込みといった基礎的なメニューをこなしてから、再び上級生と合流する。上級生たちが各コートに入って試合を行っている脇で、一年生は玉拾いを任されていた。
視界に映る空は、相変わらず淡い色彩を帯びている。暑すぎない日差しの下で、手塚も例外ではなく玉拾いの役目を果たしていた。
ころころと転がっていく黄色い球体を、手塚の左手が追った。腰を落としてボールを拾い上げる。
その時、手塚の足元に影が落ちた。
「よぉ、手塚」
呼ばれて、手塚は振り仰ぐ。三年生の武居の姿があった。
「はい」
手塚は立ち上がった。背筋を伸ばして、武居の前に進み出る。
「玉拾いばっかじゃ、つまんねーだろ? これから俺と試合しようぜ」
このような申し出は、手塚にとって珍しいことでもない。手塚はよく上級生から試合の相手を頼まれる。皆が手塚の腕前を買っている証拠だった。
「よろしくお願いします」
慇懃に頭を下げると、武居は親指で己の背後を指し示した。
「すぐそこのCコート空けてあっからよ。それ置いて、早く来いよな」
「分かりました」
ボールを籠の中に入れて、隅に置いてあった自分のラケットを取る。それを右手に持ち替えて、武居の待つCコートへと向かった。
◆◇◆
試合は一方的な形で終盤に差しかかっていた。途中でワンセットこそ落としたものの、その後は一縷の隙も与えずに手塚のマッチポイントを迎えていたのだ。
偏った展開に焦りを覚えたのは武居である。今も自分のサービスゲームであるのに、ワンポイントも取れていないのだった。
武居は苛立った。このままだと勝利は手塚のものだろう。新入部員にいわゆる『串刺し』で負けてしまうのは、上級生としての沽券に関わる。
「悪ぃ、ちょっとタイムな」
にわかに武居が手を上げてラケットを置いた。その場で屈み込んで、己のシューズを指差している。
「なんか、靴紐が緩んでてさ……」
苦し紛れの言い訳だった。武居はこうして時間稼ぎをすることで、打開策を考えようとしていたのだ。
「悪いな」
「いえ、構いません」
頷いて、手塚は構えを解いた。武居の思惑にはまったく気づいていない。
武居は密かに安堵した。これで多少の猶予はできた。頭をフル回転させて考える。しかし手塚を攻略する案など、一向に出てこない。
「馬鹿! どっちに打ってるんだよ!!」
隣のBコートから上がった声が、武居の思考の邪魔をした。小さく舌打ちをしながら面をもたげる間にも、続いて上擦った声がやってきた。
「危ない!!」
唸るような音を立てて、隣のコートからボールが飛んでくる。打球の行方の先には、手塚の横面があった。
武居は目を瞠って、怒号のような声を上げる。
「避けろ、手塚っ!」
名前を呼ばれるよりも早く、手塚はボールの存在に気づいていた。同じような体験を、以前にもしたことがあった。あれは先月の体育の授業である。既視感を覚えるが、授業でのそれとは打球の速度も強度も桁違いに鋭い。
手塚は真正面からボールを見据えていた。
反射的に、下ろしていたラケットを振り上げる。手塚は自分に向かってきた打球を、垂直に地面へと叩きつけた。
ボールが大きく跳ねる。充分に高い位置まで上がって、やがて運動エネルギーを失う。そうして落ちてきた玉を、手塚は空いている右手で受け止めた。
「あっぶねーな……気をつけろよ!」
Bコートに向かって副部長が叱責する。
「すいません」
そして副部長は、手塚にも声をかけた。
「大丈夫か?」
「悪かったな、手塚ー」
謝罪してくる先輩に、軽く会釈をすることで手塚は応える。
「いえ……」
掠りもしなかったのだから問題ない。それよりも手塚は武居が気になった。試合は中断されたままだし、彼は手塚の身を案じてくれたのだ。武居にはちゃんと礼を言うべきであろう。
その刹那、妙な胸騒ぎが走った。何かを忘れているような気がする。しかし心に引っかかる原因が分からず、手塚はそれを気の迷いと片付けた。
根拠のない憂慮は捨て置いて、身体の向きを変えた手塚の顔が強張る。
両手に意識が集中した。そして手塚は愕然とする。掌から伝わってくる感触が違っていたのだ。
間違えてしまったと気づいた時には、もう遅かった。手塚の双眸に飛び込んできたのは、自分以上に硬直している武居の姿だった。
何かに憑かれているかのように、武居は手塚を凝視したまま一歩も動かない。
「手塚……お前、もしかして……」
わななく唇で、生じた疑いを口にする。武居の声は震えていた。
武居の言わんとしたいことを充分に察してしまい、手塚は僅かに視線を外した。
それが、すべての導火線となった。
「ふざけるな、手塚!!」
突然上がった怒声に、皆の手が止まる。何事かと、振り向く者もいた。
「テメェ、先輩を何だと思ってんだ」
手塚と試合をしていたはずの武居が、凄い剣幕で怒鳴り散らしているのだ。武居は最上級生であるがゆえ、そこに割って入れるものは限られていた。一年生たちは不安げに様子を見ているしかできない。
「何を騒いでるんだよ」
なおも騒いでいることに気を揉んだ他の三年生が、自分たちの試合を中断してやってきた。今は部長が不在なのだ。コート内での揉め事はご法度である。部長が戻ってくる前に片をつけなくてはならない。
わらわらと集まってくる部員たちの前で、武居は一層まくし立てる。
「この野郎、左利きの癖に、右でやってやがったんだぜ」
露見しないように、巧くやっていたつもりではあった。手塚はずっと、部活内では右手しか使っていなかったのだ。
しかし咄嗟の行動で、利き手が先に出てしまった。それを目敏く武居に見られたのだ。
武居の逆鱗に触れたことは、火を見るよりも明らかである。彼は鬼のような形相で、手塚を睨みつけていた。
対する手塚は萎縮してはなかったが、あまり豊かではない表情の端に申し訳なさそうな色を浮かべている。
やたらと落ち着いてはいるが、手塚とてまだ一年生である。二つも年下である手塚に絡む友人を、同級生たちは宥めようとしていた。
「おい、武居。やめとけよ」
「うるせぇ!」
聞く耳持たぬといった様子で、武居は仲間を振り払うように叫んだ。完全に頭に血が上っていたのだ。下級生になめられたままでは、溜飲が下がらないのである。
昂った感情を持て余したように武居は肩を震わせた。
「そうだよな、左手使わねぇんなら――」
言いながら、武居は大きくラケットを振り被る。
ギャラリーから短い悲鳴が上がった。中には、手で両目を覆う女生徒もいる。
「やめろっ!!」
次の行動を予測できた者たちが、慌てて止めに入る。しかし、どんな声も今の武居の耳には届かなかった。
「こうしてやるよ!!」
武居は高く構えたラケットを、容赦なく手塚の左肘に叩きつけた。その瞬間、周囲に嫌な音が鳴り響く。
静寂が辺りを覆った。音という音が、この場から姿を消した。
憑き物が落ちたように、武居の全身から力が抜ける。無意識の内にラケットも取り落としていた。
あとずさる武居を、手塚が睨めつけていたのだ。
衝撃で手塚の眼鏡は飛んでいた。眼鏡が外れると、より硬質な印象を与える。遮るものがなくなった手塚の双眸は、恐ろしいほど激しい感情を走らせていた。
「ふざけるな」
地の底を這うような低い声が、手塚の口から零れ出る。手塚の内側で熱いものが逆流した。
次の瞬間、手塚は武居を怒鳴りつけていた。感情的になっている自覚はあったが、今のは手塚にとって許しがたい行為だった。
ラケットは人に危害を加えるために存在するのではない。ラケットだけではない。現代のスポーツとは、他人に怪我を負わせるためのものではないのだ。
規律と伝統を重んじると高い評価を受けていた青学テニス部員がそんな根本的なことも理解していなかったことに、手塚は怒りを通り越して情けなくさえなってくる。
もはや、この場所に未練はない。
手塚の瞳には蔑みの色が込められていた。決意に満ちた眼差しが、射るように武居を捕らえる。
武居は完全に手塚の迫力に飲まれていた。二つ年上であるはずなのに、ただ呆然と立ち尽くすのが精一杯だった。
「そんな部活なら――」
手塚の口がそこで止まった。唇を噛んで視線を下ろすと、きらりと地面が反射しているのが見える。
落ちていたのは、弾き飛ばされた手塚の眼鏡だった。手塚は屈んで、それを拾い上げる。
急激に胸中が冷えていくのが分かった。喉元までこみ上げてくる憤りはそのままで、刺々しい感情すら沸いてくる。
心がささくれ立っていた。日頃は充分すぎるほど働く自制心も、この時ばかりは己を制御しきれなかった。大石が止めるのもきかずに、手塚は最後の一言をぶちまける。
「俺、辞めます」
本来ならもっとも口にはしたくなかった言葉である。けれども、どうしようもない憤りの中では、他に言うべき言葉が見つからなかった。
大石は悄然と俯いている。その真横を、手塚が通っていった。
――無様である。
手塚は自分自身を酷薄に評していた。承知の上で及んだ暴挙だ。悔いはないが、重い鉛を飲み込んだような消化し切れない気持ちが胸の中にあるのも、また事実だった。それに引きずられるように、足取りも重くなる。
だからといって、これ以上みっともない姿を人前に晒していたくもない。
荷物を右肩にかけて、テニスコートに背を向ける。
コートを囲む金網の向こうは、これだけの人数がいるにも拘らず水を打ったように静まり返っていた。
不意に思い立って、手塚はちらりとそちらに目をやった。ギャラリーの中に、不二の姿は見られない。
今日ばかりは不二が観に来ていなくてよかったと、妙にクリアな思考の片隅でそんなことを思っているのだった。
|
|
|
to be continued..... |
|
|
|
|