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その日は金曜日 【2】 |
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学年主任を勤める多忙な担任の代わりに、一組のホームルームは副担任が取りしきっていた。各委員会からの報告も終えて、後は教師の挨拶だけとなっている。
「最近他校の生徒に金を巻き上げられる事件が多発している」
いつになってもそういう輩は減らないようである。
「狙われるのは主に男子生徒だそうだ。男なら力ずくでも渡すな……と、言いたいところだが、怪我をしては元も子もない」
理科の物理分野を担当している彼はまだ新米の教師であるが、気さくで生徒からの人気も高い。ざっくばらんな話し方をするところも、子供たちに受け入れられていた。
「金より大事なのはお前らの身体なんだからな。何かあったら荷物を置いてでも逃げるんだ。いいな?」
生徒たちが、どっと笑った。教師の言い分が、あまりにも情けなかったからだ。
「こらこら、笑うところじゃないんだぞ」
困ったような教師の声が、余計に笑いを誘った。
「先生方もできるだけ見回るようにする。それと遠方から通学している生徒もいるから仕方ないといえば仕方ないんだが、なるべく大金は学校に持ってこないようにしろよ」
言い終わった後、教師は学級委員に目配せをした。学級委員がすかさず号令をかけて、ようやくホームルームも終了となる。
帰り支度を済ませた生徒たちが、次々に教室を後にしていった。本日はグラウンドおよびテニスコートの整備があるので、テニス部のみならず運動部に所属する者のほとんどが、この時点で下校となる。
筆記用具を片付けていると、開きっぱなしのドアの向こう側から見知った顔が覗き込んできた。
「終わったかな?」
朝に交わした約束通り、不二が迎えに来たのだった。
「今行く」
手塚は机の脇にかけてある鞄を取って、おもむろに踵を返した。
他人のクラスはどこか入りにくいような気がする。
そんなことを以前、不二は言っていた。一組は更にバリアがあるみたいだとは、菊丸の言である。担任が学年主任だけあって、一組には比較的真面目で大人しい生徒が多いのだ。朱に交われば何とやらで、全体的にそういった雰囲気が浸透している。
「一組はいつも遅いよね」
不二は一組の前のドアに寄りかかって、手塚を待っていた。
「今日は比較的早い方だ」
これが担任であったら、あと十数分はかかっていただろう。
「ふ〜ん、さすが一組だね」
一組は定期試験でも、ダントツの成績を誇るクラスである。手塚はその中でも先陣を切って平均点を上げている男であるのに、不二の発言には頭を悩ませることが多かった。物事を理解する聡明さは持ち合わせているのだが、その自覚が驚くほど足りないのだ。
今もそうである。不二の言った『さすが』にかかる張本人であるにも拘らず、自分であるとは露ほども思っていないがために、真意に辿りつけないのだった。
◆◇◆
青春台駅から渋谷駅までは電車一本で辿り付ける。
とりわけ当てがあるでもなく、不二は手塚を連れて繁華街を探索していたのだった。目に付いた店があればそこに寄り、店内を物色して回った挙句にまた表へ出るといった繰り返しである。ときおり不二は手塚にも意見を求めてきた。それは服やステーショナリーやCDであったり、時にはガラクタのようなものであったりと品物は多岐に及んだのだが、手塚は律儀にその一つ一つに対してコメントを返したのだった。
結局不二は、何も買わないまま店を後にした。中には気に入ったものもあったのだろう。途中によった園芸店では珍妙な形をしたサボテンに一目惚れをしたようで、延々と足止めを食らったりもした。しかしそれでも最後は、サボテンを置いて店を出たのだ。
意外と倹約家なのだと感心させられたものである。
そうして、今は表参道を彷徨っていた。二人の手には相変わらず通学に使用しているテニスバッグのみしか見当たらない。
太陽はすでに姿を隠し、天から藍色の布が被せられたような空模様になっている。あっという間に時間は進行していたのだ。しかし辺りは充分に明るく、人の波も減る気配はない。
眠らないこの街にとっては、まだ早すぎる時間である。
数々の照明によって、下手をすれば昼間以上に目映く感じられる。虫や魚が光に誘われるかのごとく、人間も明るいところに自然と集まってくるのだろうか。自分たちと同様に制服姿の学生の集団とも、幾度となくすれ違った。
狂騒と享楽が交差する、週末の繁華街である。
不意に、何故自分がこの場所にいるのだろうかという疑問を、手塚は抱いた。
手塚にとって渋谷は通学路の途中に位置する場所であるが、用もなしに下車することは滅多にない。もちろんその用事というのも学校行事であったり家族から頼まれたことであったりと、私的なものではない。後は今回のように、友人たちに誘われて待ち合わせたりする程度である。
年の割に地味好みだという自覚もあった。やかましいところや込み合ったところは、あまり好かないのである。
そんな自分がここにいることに、手塚は違和感を覚えたのだ。気の利いたスポットも知らないので、道案内の役にも立たない。付添い人にしてもとことん不適切ではないのだろうかと思ってならなかった。
決して他人とぶつからないよう、不二は器用に人ごみを避けて歩いてゆく。目的があるのかないのか、それすらも分からないのだが、手塚も見失わないように不二の後を追った。
不二は足早に横断歩道を渡り、次なる目的地を探すべくきょろきょろと辺りを見回していた。そんな彼に追いついたところで、手塚はようやく疑問を口にする。
「ところで、俺がここにいる意味があったのか?」
「大ありだよ」
大袈裟にそう言うと、不二は意味深長な微笑みを刻んだ。
そのまま答えずにすたすたと歩いていってしまう。人の流れに乗るように、不二は前へ進んでゆく。そんな風に不二が周りの景色に溶け込みかけた時、ようやく手塚を見返ったのだ。
「だって、こんな賑やかな街を一人でぶらぶらするのは寂しいじゃない」
この台詞は意外だった。不二は人付き合いがいいが、だからといって一人で行動こともさほど嫌ってなさそうに見えたのだ。
「お前ならガラパゴス諸島へでも、単身で乗り込むと思っていたけどな」
思わず呟いてしまった本音に、手塚は慌てて口を閉ざす。不二に視線を落とすと、案の定彼は胡乱な目つきで手塚を見上げているのだった。
「……ねえ、手塚。君さ、僕のことを何だと思っているの?」
また無神経なことを言って怒らせてしまったようだ。不満げに唇を尖らせながら、ぶつぶつと文句を言っている。
下手に口を開けば開くほど不二の機嫌を損ねることは目に見えて明らかだったので、手塚は態度で反省を示すことにした。とりあえず誠意に満ちた目で、不二を見つめ返す。
「まあいいや。今のは許してあげよう」
機嫌は一瞬で戻ったようだ。不二の気持ちが何によって変動するのか、手塚はいまだに推し量ることができない。
「気前がいいな」
「まあね」
慣れない手塚の軽口にも、さらりと不二は応じる。自分と不二周助とは、ほとほと対極に位置する同士だと手塚は思っていた。しかし彼といるのは不快ではなく、むしろ他の誰といる時よりも居心地がいいのだ。
必要以上は干渉されず、だからといって粗略な扱いを受けるわけでもない。当たり前のように傍にいて、当たり障りない程度で離れてゆく。この微妙な距離のとり方が、手塚にとっては理想だった。
今だって半ば一方的に不二の買い物に付き合わされているはずなのだが、不思議と苦痛は感じない。不二が好んで入るような店はやはり自分が行くようなところとは違うのだが、それはそれで楽しいのである。彼の見る世界を共有したいとでも言うのだろうか。そんな感情が手塚の胸の内に沸いてくるのだった。
しかし楽しい時間というのは、瞬く間に過ぎてゆく。
太陽が沈むまでの時間も、かなり短くなってきた。ちょっと前までは赤く染まっていたはずの空も、店を出たら闇を落とし始めている。夜の気配が確実に忍び寄っていた。
腕時計に目を落とすと、渋谷に着いてからかれこれ二時間は経過していることになっている。いつの間にそんな時間が経っていたのだろうかと、手塚は思った。
「用事が済んだら、そろそろ帰るぞ」
「うん、もう充分だよ。付き合ってくれてありがとう」
用事らしい用事は済ませていないような気もしたが、不二がいいと言うのであれば構わないのであろう。
二人は元来た経路を引き返し、渋谷の駅を目指した。
ほどなくして、見知った建物が見えてくる。そのまま渋谷駅の構内に足を踏み入れた。JRの改札口は相変わらず混雑している。
プラットホームに降りると、手塚は立ち止まらずに最後尾の車両が止まる方へ向かって歩き出した。この方が乗り換えに都合がいいからである。
「ねえ、ここでいいよ」
不二が足を止めるが、手塚は振り返らずに足を進めてゆく。
「いいから黙って歩け」
この駅から手塚の家までは、一本で帰れる。乗り換える場所を気にしたのは、ひとえに不二のためだった。
「……ありがとう」
少しだけ嬉しさを滲ませた声でそう呟くと、不二も歩調を合わせて歩き出した。
やがてホームに電車がやってくる。目的の位置まで辿りついたところで、手塚と不二は電車に乗り込んだ。
乗ってすぐに、手塚は携帯電話の電源を切る。それを見ていた不二も、素早く己の電話を操作していた。
僅かな振動を生じながら、電車は乗客を決まったところまで送ってゆく。夕方の車内は学生や社会人で、それなりにごった返していた。
電車に乗ってからの話題は、主に部活のことである。今週の部員たちの動きや、それによる来週の練習内容の変化などを手塚が持ちかけると、不二は適切な助言をしてくれるのだった。
車内に取り付けられている電子掲示板が、次の駅の案内へと変わった。ここで不二は降りることになっている。
明るいプラットホームに、電車が滑り込んでいった。徐々に速度を落とし、やがてすっかり停車すると、音を立てて降車のドアが開く。
「じゃあね、手塚。また来週」
振り返って、不二が別れを告げる。次の瞬間にはホームに降り立っていた。
「不二……」
呼びかけた訳ではなかった。ただ呟いてしまっただけなのだ。どうしてそんな言葉が漏れたのかは、手塚自身にも分からない。
しかし絶対に聞こえるはずもない声に気がついたかのように、不二は立ち止まって振り向いた。視線が絡み合って、柔らかく笑いかけられる。そのまま小さく手を上げて別れの挨拶をすると、彼はまた踵を返した。
不二の背中が雑踏の波に飲まれて、やがて見えなくなる。手塚を乗せた電車も、次第にホームを離れていった。
ふと手塚は思った。不二の後姿というのは、実はあまり見たことがない。いつも自分が先行し、その後を不二が追いかけてくる形になることが多かったのだ。
まるで始めて目にしたような気さえする。去ってゆく不二の姿というものが目に焼きついて離れない。流れる景色を眺めながら、手塚はいつまでも不二の幻影を追っていた。
そして、それが不二を見た最後になるのだった。
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to be continued..... |
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