the Prince of Tennis
**parody**

その日は金曜日 【10】
 

 早朝でなおかつ休日の住宅街を歩いていても、すれ違う者など滅多にいない。地図だけが頼りであったのだが、手塚たちは順調に進んでいった。
 都内にしては緑が多く見られるのは、公園や学校が多い所為だろう。駅の近くはむしろ繁華街であるのだが、そこから少し離れると、通学路の標識が目立つようになる。
 住宅地の合間に、三階建ての建物が覗いていた。敷地は広く取ってあって、小学生にも無理がない階数にしたようだ。
 思ったほど古ぼけた印象がしないのは、今もまだ使用しているからだろうか。誰もいない学校を見据えながら、手塚はそんなことを思った。
「ここだな……」
「ああ」
 手塚は一歩前へ出た。
 ペンキの剥げた正門を揺するがびくともしない。よく見ると、大きな南京錠がかかっている。さすがに揺すっただけでは壊れそうもない。手塚は諦めて、門から手を離した。手にはざらざらとした破片が付着している。それらを払い落とすと、血によく似た匂いが鼻腔をついた。
「開放時間には、まだ早すぎるしな……」
 門の横に掲げてある板には、『開放時間について。月曜日から金曜日は十五時から十七時まで。土曜日、日曜日、祝日は十時から十六時まで』と書いてある。ご丁寧に『なお、夜間や早朝に校内には入らないで下さい』といった注意書きまで添えてあった。
 正規に入るまでには、まだ数時間も待たなくてはいけない。
「まあ、この程度の高さなら、乗り越えられないこともないだろうけどな」
 元は小学校の正門だけあって、高さはさほどあるわけではないのだ。門の上部に悠々と手が届いてしまうので、足場がなくとも乗り越えることは可能だ。
「少し回ってみるとするか」
 正面は生垣で、側面は金網で覆われている。そのため校内に侵入しなくても、たやすく様子を窺えた。
 周回しながら、フェンス越しに見据える。こうして見て回っても、二人の瞳には変哲のない小学校としか映らなかった。
「テニスコートがあるな」
 真っ先に手塚の目に付いたのは、やはりそういった場所だった。校庭の脇に二面だけテニスコートがある。
 手塚は見渡しながら呟いた。
「どうやら軟式のようだ」
 放置されてあった用具から推測される。軟式特有である白いゴム製のボールが、所在なさげに転がっていた。
「ああ、元は小学校だったんだろう。硬球は授業には向かないよ」
 何の疑問も持たずに、乾はそう答える。
 骨格が完全には出来上がっていない児童に、硬球の重い球をいきなり打ち返せというのは無理な注文なのである。もちろん徐々に訓練していけば不可能というものでもない。現に手塚たちは小学生のうちからテニスを習っていた。だからといってテニスばかりに体育の時間を割くわけにもいかないため、小学校でテニスを行う場合は軟式が適用されるのだ。
 更に足を進めてゆくと、金網だったフェンスは途中からコンクリートの壁になった。そのため周辺の様子は、外からでは窺うことが出来ない。
 乾が軽く首を振った。
「こちら側からは見えないな」
 城壁さながらの、頑強な造りになっている。隙間一つなく、そこだけ異質な雰囲気を醸し出していた。
 瞳を凝らしていた手塚が、神経質に眉をひそめる。
「おそらくプールだろう」
 覗き防止のために、プールの回りは厚い壁で囲まれていた。変質者の多い昨今では、小学校といえども、このくらいの装備なしには授業が行えないのだ。
 ここから見ていても、埒が明かない。
「向こう側に回るか?」
 返事をするよりも早く、手塚は歩を踏み出した。乾も手塚の後を追う。
 反対側にまで行かなくとも、場所を移動したことで陰になっていた部分が見えるようになってきた。
「乾、あれを見ろ」
 プールの脇に小屋が見えた。場所的にも、おそらく更衣室であろう。ドアのすぐ手前から、木製の簀の子がプールの敷地まで続いている。
 それらの傍には、黄色いテニスボールが三つも落ちていた。
「ボールだな」
 乾は見たままを口にした。ありふれた光景の一部に過ぎない。
 しかし、手塚の様子がおかしかった。固まってしまったかのように、そこから動き出そうとしないのだ。
「手塚?」
 呼びかけにも応じず、ただ低い声で呟いた。
「不二がいる」
「え?」
「不自然だ」
 手塚はテニスボールを一心に見つめていた。まるでそこにすべての鍵があるかのようである。
「ボールくらい落ちているだろう」
 乾は眼鏡を人差し指で押し上げる。彼が目にしたところ、その光景に不審なところはまったくなかった。
 しかし手塚は表情を固くしたまま、呟くように言った。
「先程見ただろう。ここは軟式しかやっていなかったんだぞ」
 あまり動じることのない乾が、双眸を見開いて声をなくした。彼には黄色いボールが当たり前すぎて、何ら疑問を生じなかったのだ。
 しかし、それは手塚も同じことである。こういう場面で発揮された彼の洞察力の鋭さに、乾は密かに舌を巻いた。
「ここに間違いない」
 念を押すように手塚は言う。不二がここにいることを、ほぼ確信していた。
 乾は乾いた笑い声を上げる。
「まさか本当に辿りつくとはな」
 ここへ来るまで半信半疑だったのだ。どこかに陥穽が仕掛けられているかもしれない。それでも不二を見つける手がかりがあるのなら、足を踏み入れない訳にはいかなかったのだ。
 どんなに悪条件が揃おうとも、最初から取るべき選択肢は決まっていた。
 縋るものがない以上、一パーセントでも可能性があるのならそれに賭けるしかない。手塚と乾は、ほぼ同時に息を呑んだ。
「応援を呼んでくる。くれぐれも早まるなよ、手塚」
「…………」
 浅はかな行動は控えろと厳命するが、手塚は何も答えない。彼はひたすらに、小屋のある方角を凝視していた。
 押し黙る手塚に苦笑を残して、乾は素早く去っていった。
 手塚はしばらくその場所で佇んでいた。雑音の一切しない、不思議な空間が出来上がっていた。
 あの場所に不二がいるかもしれない。そう思うと手塚の鼓動は早くなった。いるのだとしたら、早く助けてやらなくてはならない。またいなかったとしても、何らかの証拠が見つかるかもしれない。
 矢も盾もたまらず、手塚の気持ちはすでに目の前に見える小屋まで飛んでいた。今すぐ駆けつけたいのだが、高くそびえるフェンスが行く手を阻んでいる。フェンスだけならともかく、その上の部分にはご丁寧に有刺鉄線が巻かれてあった。
 そして乾との約束があった。単独行動はするなと言われている。そして手塚自身も、それは危険であると納得していた。
 理性と感情が手塚の中で葛藤する。拮抗する感情の中で最終的に突出していったのは、不二を助けるという己に課した約束だった。
 意を決すると、手塚はフェンスに手をかけた。菱形の模様になっている針金を掴みながら、金網をよじ登ってゆく。
 フェンスを登り終えると、次は有刺鉄線が広がっていた。小さな棘が無数についていて、侵入者を頑なに拒んでいる。
 とはいえ、このくらい掴んでしまっても何でもないだろう。そう思って左手を伸ばしかけるのだが、そこで不意に手塚は静止した。
 怪我をしてしまっては、また怒られるかもしれない。
 このまま進んでいけば、確実に数日間はラケットが握れなくなるだろう。本人としては構わないのだが、そのことで激しく立腹する相手がいるのだ。
 手塚はしばし考えた。
 そしてフェンスの上部を、順手で握る。両手に力を込めて、その状態で金網から足を外した。倒立をする要領で、身体を垂直に持ち上げる。そのままの状態で手を組み替えて、身体の正面を校舎の方へ向けた。ゆっくりと足を下ろして、今度はフェンスの内側に引っかける。有刺鉄線に触れないように、身体を折り曲げているのである。後は腕もこちら側に持ってくれば完了だ。
 最後に右腕を外した時、鈍い痛みが手塚を襲った。気が急いて、鉄の棘に引っかけてしまったようだ。見れば右肘から手首にかけて、みみず腫れのような痕ができている。
 それでも校内に侵入することは成功したのだ。フェンスから手を離して、一気に飛び降りる。
 地面に降り立った手塚は、最初に辺りを見回した。誰かがいる気配は感じられない。それでも用心しながら、ゆっくりと足を奥に進めてゆく。
 朝露で湿っている雑草を踏みながら、手塚は体育館の裏を歩いていた。この向こう側に更衣室らしき建築物が見えたのだ。
 校舎の影に位置するところに、その建物はひっそりと存在した。使われていない割には、荒れ果ててはいなかった。何か仕掛けられている様子もない。
 手塚は更衣室の表に回った。平屋建てとなっていて、窓はなく小さな換気口がついているだけだった。この建物の使用目的を考えれば、それは当然のことだろう。
 入口は二つだけである。古びたプレートから、右が男子更衣室で、左が女子のものと分かった。
 その横に引く形の戸を目にした手塚の顔が強張る。明らかに異質なものが、戸にくくりつけてあったのだ。
 右の戸には、外からつっかえ棒がしてあった。中に誰かがいても、これでは出られないだろう。
 動悸が激しくなり、内側から絶えず手塚の胸を打つ。捜し求めていたものが、すぐ目の前まで来ているような気がしたのだ。
 凍りついた歩みを、再び進めてゆく。手の届く位置に、彼の人の気配があるのだ。
 息を殺して、手塚は扉を開けた。
 埃っぽい部屋だった。明かりの乏しい部屋の中で、塵のようなものが浮遊している。見かけよりも広い空間だった。まるで図書館の片隅に迷い込んだ時のような、古めかしい匂いが周囲を占めている。
 手塚は扉を全開にした。暗かった室内に光が差し込む。その光に薄く透ける髪が、手塚の目に飛び込んできた。
「不二!」
 駆け寄って隣に腰を下ろすと、不二の身体を抱き起こした。華奢な身体が、一層細さを増したようである。体温はそう高くも低くもない。触れると若干冷たい感じがするので、手塚の身体の方が熱を持っているのだろう。
 跪いた状態で不二の頭を抱えて、手塚は何度も呼びかけた。うろたえているのが、自分でも分かる。
 しかしそんな手塚の声が聞こえたのか、不二の瞼が薄く開いたのだ。
「ん……」
「不二! 大丈夫か?」
 身じろぎをしたことに、とにかく安堵した。抱きかかえた状態で、軽く不二の頬を叩いてみる。そうしながらも、手塚は確かめるように何度も呼びかけた。
 頬にかかる長い睫毛が、ゆるゆると動いた。叩かれていることが嫌そうに首を振る。
 今度は首の後ろに回した手で、不二を揺すってみた。乱暴気味に揺さぶっていると、不二の表情が険しくなる。
 手塚はやめなかった。すると不二は、ゆっくりと覚醒する。
「あれ……手塚?」
 眩しそうに幾度か瞬きをした後で、ようやく手塚の姿を認識したようだ。
「どうしたの? すごい表情だよ……」
 くすくすと不二が笑みをこぼす。しかしそれは弱々しい笑いだった。
「馬鹿。お前の方がすごい顔色だ」
 それでも手塚は胸を撫で下ろした。不二は目立った外傷もない。普通に会話も成り立っているのだから、脳の方も問題はないだろう。ただ、ひどく衰弱しているように見えた。
「ねえ、今日はまだ日曜日であってる?」
 いきなり不二は妙なことを訊いてきた。しかし声だけは不自然なほどしっかりしている。
「ああ、そうだが……?」
 だからどうしたと訊く前に、不二が目を細めた。
「よかった……」
 ほっとした表情を不二は浮かべた。そして再び身体の力が抜けてゆく。
「不二!? おい、不二!」
 ずっしりと重くなった不二を抱えながら、手塚は何度も彼の名前を呼んだ。
 呼びかけに応えたのは、底知れない静寂だけだった。安らかにすら見える不二の顔が、却って凄惨に手塚の目には映ったのだ。



◆◇◆




 聞き慣れた声だけを頼りに、乾は探し回っていた。足止めしておいたのに、戻ってみたら手塚の姿がなかったのだ。普段の手塚は独善的な行動に出ることもなければ、他人の話を聞かない男でもない。そんな彼がいなくなったのだから、事態は一転して危険な方向へと進路を変えてしまったのかと危惧していた。
 足音が立つのも気にしないで、乾は懸命に走っていた。向かう先は、校舎裏にあった建物である。
 例の小屋の扉が開いているではないか。隙間から膝をついた手塚の姿が見える。
「手塚!」
 血相を変えて乾が飛び込んでゆく。座り込んでいる手塚が抱えていたものは、ここ数日間駆けずり回って捜していた不二の肢体だった。
「早まった行動はするなと言っただろう!」
 乾はものすごい剣幕でまくし立てた。彼にしては珍しく、目に見えて怒っているのだ。
 しかし思い切り叱り飛ばしたにも拘らず、手塚は身動き一つしなかった。乾の声すら、耳に入っているのか否か分からない。
 焦燥しきった手塚の様子に、乾の怒気は抜けていった。
「それに不二を揺するな。すぐに警察と救急車が来る」
 ぴくりと手塚が反応した。凍りついたような瞳は、今もただ一点のみに注がれている。
「……不二」
 低い声が、聞き取れないほど嗄れてしまっていた。おそらく手塚は、あの調子で何度も不二の名を連呼していたのだろう。
 腕時計に目をやった後、乾は手塚の腕の中にいる不二に視線を落とす。ここで不二を見かけた時、その顔色の白さに肝を冷やした。手遅れだったのかという恐怖が、一瞬胸を掠めたのだ。
 意識こそないものの、規則正しく呼吸していることを確認して、乾は肩の力を抜く。
「大石たちにも連絡をしておいた。事情を話すのは、病院に行ってからだな」
 とにかく終わったのだ。乾の口から安堵の溜息が漏れる。すでに揺さぶってはいなかったが、手塚は不二を抱きかかえたまま離そうとはしなかった。
 やがて遠くからサイレンが近づいてくるのが聞こえる。
 事件は急速に終焉を迎えようとしていた。

to be continued.....

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ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。


update 11,Oct,2005

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