|
ひ か り |
|
| |
下校を告げる鐘の音色は、海に繰り返し寄せる波の音に似ている。天体規模の起因で潮が満ち引きするように、抗えない力を持っているかのようだった。
高くなったり低くなったりする音が校内の空気に溶けていく。そんな中、越前リョーマは部室へと足を運んでいた。
既に全ての部活は終了している時分である。片づけすらも終わった無人の校庭には越前の姿しか見られなかった。
夕暮れがグラウンドを赤く染めている。誰も居ないグラウンドは、ひどく物足りなく感じられた。
校庭を通り過ぎて、各運動部の部室が並んだ一角まで辿り着く。通い慣れたテニス部の部室から、光が漏れている。幸いまだ誰か残っているようだった。
越前は目的の扉まで来て、一息ついた。長く伸びた影が、部室のドアに描かれる。夕日の位置の関係か本体である自分よりも背丈が高く見えることに、少年は小さく舌打ちをした。
おもむろに左手をドアノブにかける。金属音と共に、抵抗もなく扉が開いた。
蛍光灯の白い光と、夕日の赤いそれとが交じり合う。外と比べると、室内はやはり暗い。越前の双眸が意外な人物の姿を捉えた。
居ても可笑しくはない――しかし今までは残っていたことのないような先輩が、目を瞠って自分を凝視していたのだ。色素の薄い髪が、風もないのにふわりと揺れる。
立ち上がらんばかりの不二周助の様子に、むしろ越前の方が驚いた。
「……ちーっす」
見開かれた瞳が、次第にいつものような細長い孤を描く。不二が不可解な感情を露にしたのはほんの一瞬で、気付けばいつものような柔和な笑みを湛えていた。
「越前か。どうしたの?」
「忘れ物を取りにきたっす」
納得したように頷いて、不二は再び手元に視線を落とす。机の上に広げられているのは、使い込まれた一冊のノートだった。
「部誌っすか?」
「そう。何を書いていいか分からないよね、こういうのって」
視線を落として、不二はよどみなく何かを書き込んでいる。言うほど困ってはいないように見受けられた。
「不二先輩の担当になったんですか、それ」
てっきり大石が部長代理として、全てを肩代わりしていると思っていたのだ。
「ううん、違うよ。これは三年で持ち回りになったんだ」
書く手を止めて、不二が顔を上げる。
「たまたま、今日は僕の番だっただけ」
左手でノートの端を持ち上げるようにして、不二はパラパラとそれを捲ってみせた。
「大石一人に負担をかける訳にもいかないしね」
しかし部長は全てを一人でやっていたのだ。それが当たり前で、誰もが承知していることだった。
越前はあえてそれを指摘するような真似はしなかった。要は当事者たちが納得していればいいのだ。
「見てよ。英二なんてさ、こんないい加減に書いてるの」
昨日の日付のページには、大きな文字で『今日は練習をしました』とだけ書き込んである。
不二に視線を送ると、彼は肩を竦めていた。
「当たり前すぎるっての」
「……菊丸先輩らしいっす」
「だね」
くすくすと小さな笑いを漏らす。こういった不二の微笑みは普段通りなのだが、どこか気持ちとは合っていない表情に見えなくもなかった。
不意に置いていかれた教科書の存在を思い出す。越前は部屋の奥まで歩みを進めた。
壁沿いに並んでいるロッカーには、それぞれに所有者の名前が記入されている。各自に割り振られているため、何か物を置いていくことも可能なのだ。現に今も、体操着だったりラケットだったりが入れっぱなしのところもある。またそうでなくても越前のように、忘れ物をしていく生徒もいるのだ。
越前は自分のロッカーの前に立った。押し込まれたような痕跡の残る形で、英語の教科書がぽつんと放置されている。
「宮崎って、もう暑いんですかね?」
不二に背を向けながら、そんな疑問を投げかけてみる。
「こっちと何℃も変わらないよ」
よほど遠くだと言うように聞こえたのか、不二はまたくすくすと笑い出した。子供扱いされたようで、越前は気に入らない。
「どこだと思ってるの?」
教科書を鞄にしまい、不二の真横に回りこんだ。椅子の背もたれの部分に手を突いて、わざとらしく口角を上げる。
「へえ〜。随分詳しいっすね、先輩」
挑発するように呟いてみるが、不二周助は何でもないような調子で笑みを返すのだった。
「そう? 一般常識の範疇じゃない」
更に馬鹿にまでされてしまうことになる。食えない先輩だと、越前は心の中で悪態をついた。
それ以上、追及する気も萎えた。宮崎の気候を不二が直接手塚に聞いたのか、新聞やニュース等で見聞きしたのか、それとも本当に一般常識の範囲かなのかは、越前にとって本当はどうでもいいことだったからだ。
その代わり、一番訊ねたかったことを口にする。何も物が置いていないそこは、今は使われていないことを意味している。九州に行ったままほとんど連絡をよこさない、薄情な部長のものだ。
「帰ってくるんですよね、あの人?」
使用されていないロッカーを小突きながら、越前は言った。
「当たり前じゃない」
真顔で、不二はそう答えた。不二を取り巻いていた笑いが消えたことに、越前は若干戸惑った。
「俺、勝ち逃げされたままなんっすから。帰ってこなきゃズルいっすよ」
「そうだね……僕もだよ」
目を伏せて、不二は言った。
「ズルいよね、手塚は」
急に変わった声調に、越前は思わず息を飲んだ。
「何でも自分で抱え込んで、肝心なところで戦線離脱だよ。今まで何も言わなかった分、どうしていたかなんて知らないじゃん……ねえ?」
言葉の最後で見上げてきた不二の表情があまりに険悪で、越前は本格的に慄いた。一瞬前までは妙に切なそうだったのに、あれよという間にとんでもなくおっかないものに変わっているではないか。
「不二先輩……もしかして怒ってます?」
恐る恐る声をかけると、心外だといったような微笑が返ってくる。
「怒ってなんかいないよ。ただちょっと、当分顔も見たくないなあと思っているだけ」
「……それ、怒ってるって言うっす」
当たるべき相手がいない分、怒りの性質が悪くなっているのだろう。発散することのない感情は、不二の中で嫌な具合に発酵してしまったのだろう。
「今、あの仏頂面を見たら、殴っているかもしれない……」
物騒なことを不二は言った。しかし、何となく越前にも不二の気持ちが汲み取れるのだ。
「部長のあの表情って、実は何にも考えてなかったりしますよね……」
「そうそう! それが余計に癇に障るんだよね〜」
手にしていたシャープペンシルを振り回す動作で、不二は同意を露にした。
「部長、居なくてよかったっす。今、不二先輩に声をかけようものなら、一触即発って雰囲気っすよ」
さぞかし冷ややかな戦争勃発となるだろう。そんな先輩たちの間に挟まれるなど、精神衛生上よろしくない。
「そうだね。居なくてよかったよ」
わざとらしいくらい明るく言って頷く。不二は口の端で苦笑すると、越前に目を向けて眩しいものでも見たかのように薄茶色の目を瞬かせた。
「でもさ、たまに振り向いちゃうんだよね」
実際に振り向いて手塚のロッカーを見上げながら、不二は静かに言葉を紡いだ。
「すぐ横に居るのかと思って振り向いてしまう。姿が見当たらなくて、探してしまう。それでも見つからなくて、妙に不安になる」
痛ましげな不二の顔が、越前の胸を突いた。
「名前を、呼びそうになる……」
――口に出すことが叶わないから、心の中で何度も呼んでいる。
不二の感情がリアルに伝わってきて、越前は唇を噛み締めた。心が引きずられそうになるのを、何とか踏みとどまらせる。
寂しいのかもしれない。
唐突にそう思った。不二の手塚に対する憤りも、全てはそこから始まっているのではないだろうか。
手塚が居なくなったことで、不二が事実上のナンバーワンになってしまった。次があったシングルス2とでは、精神的な負担も大きいだろう。
しかし、同時にふと違和感を覚える。その程度のプレッシャーに、この不二が押しつぶされるわけがない。むしろ不謹慎にも、その状況を楽しんだりしかねない。そちらの方が、よほど自然な結論だった。
「負けたら責任取らされるんだろうな」
越前が思い浮かべた中で、もっともありえないと思ったことを不二は口にした。
結局のところ、不二が何を愁いていたのかは分からずじまいである。
「不二先輩も勝ったことないんですか?」
わずかに考えて、不二はにっこりと笑って見せた。
「秘密」
「なんで!?」
「それもノーコメントだよ」
動揺の欠片すら見せずに、不二は軽くあしらう。
「……不二先輩もズルいっすよ」
そ知らぬ顔で、不二はまた部誌を書き始める。意図的に没頭しているように見せかけている先輩に、越前は声を投げかけた。
「ねえ、不二先輩」
「何?」
顔を上げないままで、応じてくる。畳み掛けるように越前は言った。
「俺が部長を倒しちゃっても、いーんすよね?」
ようやく不二が顔を上げた。
「もちろん」
即答して、また笑った。
あまりの返事の早さに、越前は訝しげに眉を顰める。
「とか言って、本当は勝てないなんて思ってるっしょ?」
「そんなことないよ。期待してる、越前くん」
「……なんか、思いっきり馬鹿にされている気分っす」
「君の被害妄想だよ」
さらりと酷いことを言われたような気がする。思わず眉宇をひそめると、不二は柔らかく目を細めた。
「大きなことを言う前に、まずは目の前の敵から倒していったら?」
「不二先輩とか?」
「僕はともかく、他にもたくさん居るでしょ?」
確かに青学は癖のある先輩が多いと思う。しかし越前が目下もっとも手強い相手だと思っているのは、目の前で微笑んでいる彼に他ないであろう。
「早くあの時の決着をつけましょうよ」
最初の対戦は、不二のリードのまま雨によって中断された。当然のことながら、越前としてはあのままでは納得がいかない。
「そうだね……また試合がしたいね」
「もちろん、不二先輩のことも倒しちゃっていいんでしょ」
質問ではなく断言の形で問う。不二なら、その意味を充分に理解するはずだ。
「お手柔らかに頼むよ」
あの時と同じ台詞で、不二は向かえ立つ。
「でもね」
真剣みを帯びた瞳が、越前をまっすぐに貫いた。その視線は同じ学校の先輩と後輩というものではなく、相手の力量を認めた上での競争相手として向けられているようだった。
「僕は、負ける気はないよ」
付け加えられたのは、不二らしからぬ強気な発言だった。不二周助という人間は、この類のことは言葉よりも態度で表す。本来だったら口では『お手柔らかに』などと言っておきながら、試合では先程の発言など微塵も感じさせないほど攻め立てるといった芸当すらしてしまう人物であったのだ。
一瞬面食らうが、すぐさま越前も態勢を立て直した。
「言い切ったっすね」
「事情が事情だからね」
仕方ないよと、不二は言った。
(あの人がいないところでは負けられない――っていう事情っすか?)
越前は小さく溜息をついた。
「それは、俺もですから」
「頼もしいね」
決して大きくはない声音だったのだが、胸の芯まで届くほどに、はっきりとした口調だった。
「不二先輩を倒したら、部長との勝敗を教えて下さいね」
何をこだわっているのかは、越前自身もよく分かってはいなかった。しかし負けたくなかったのだ。不二にも、そして手塚にも。
「じゃあ、僕が勝ったらどうしようかな……君は何を教えてくれるの?」
「別に……何でもいいっすよ」
聞かれて困ることなど何もない。それに聞いて面白いことなども、何もないだろう。
「それじゃあね、越前の好きな人」
「ばっ!?」
『かじゃないですか』と、続けそうになって、慌ててその口を閉じた。仮にも先輩に対して馬鹿はなかろう。なけなしの配慮は、たとえ傍若無人と言われるルーキーにも備わっていたのだ。
「不二先輩らしくないっすよ……」
「君がらしくないことばっか聞くからだよ」
「責任転嫁っすか?」
「いや、そのままの意味だったんだけど……」
困ったように不二が笑った。
「さあ、帰ろうか」
立ち上がって、外へ出るようにと促される。施錠した鍵を持って、不二は職員室のある校舎の方へと消えていった。
越前は再び帰路へとつく。同じように部室棟を抜け、校庭の脇を通っていく。不意に途中で立ち止まって、元来た道を振り返った。
夕闇が影を落とす。
光のないグラウンドは、ひどく物寂しいものだった。
|
|
|
the end. |
|
|
|
|