スパイ天国か - 波方鵜晏 2009/03/23(Mon) 23:53 No.129
スパイ天国か 投稿者:波方鵜晏 投稿日:2009/03/23(Mon) 23:53 No.129
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『ドキュメント 秘匿捜査』(竹内明)からの引用 その2
(P218以下) かつて日本では軍によって、ヒューミント(人的諜報)中心のインテリジェンス活勣が行われてきた。日露戦争では大本営が特務機関員をシベリアに派遣して諜報活勣を行わせ、情報工作訓練学校である「中野学校」が数多くの優秀な特務機関員を生み出した。カウンターエスピオナージを担当する「憲兵隊」「特高」も敵国にとっての脅威となった。
しかし、GHQの占領政策の中で、これらの情報機関は解体され、日本は情報収巣能力を奪われてしまった。だが、非人間的な言論、思想弾圧を行った「憲兵」「特高」のネガティブなイメージだけはくっきりと残った。「スパイ」という言葉にしても、武士道の国である日本国民の心の中には、「陰湿なもの」として存在し続けた。
同時に占頷下で取り除かれた国家意識を日本人が二度と取且戻すことはなかった。日本は非武装中立を掲げる国家となり、日本人は勝手に「戦後」という時代のカテゴリーを作ってしまった。そして「平和」と同義語にすらなってしまった「戦後」という時代のおかげで、国際社会のスタンダードから置き去りにされているのだ。
「俺たちの頭が『冷戦構造』なのではない。この国の指導者たちが『危機意識の欠落』を『平和』という言葉に無理やり置き換えているだけだ。インテリジェンスの欠如が国家としての判断能力を喪失させているのだ。プーチンが送り込んできた『あの男』のときもそうではないか。かつてこの国に対する工作で成功を収めたKGBのスパイを、日本は何の疑問も持たずに再び受け入れてしまったではないか」
矢島たちが思い浮かべたのは、スパイハンターたちの追尾を政治圧力でつぶし、SVR東京駐在部長として、堂々とこの大都市を徘徊しているボリス・スミルノフのことだった。
「私は大使の指示で勣いてはいない。プーチン大統領の指示で動いている」
と公言して憚らないスミルノフに、日本政府の外交査証が発給された経緯も異例のものだった。
PNG
過去に日本国内で身分を偽装して諜報活動を行ってきた情報機関員がなぜ、正規の外交査証の発給を受け、外交官として入国することが許可されたのだろうか。
ある外務省職員は当時のことをよく記億している。
「スミルノフヘの査証発給前、外務省頷事移住部(現・領事局)外国人課の一部で激論があった」
ロシア外務省が在モスクワ日本大使館に外交査証を申請すると、その書類は東京の外務省本省に「査証経伺」という形で上がってくる。申請書類には氏名、生年月目、勤務先や入国日などが記載される。
頷事移往部外国人課で問題ないと判断されれば、期開が限定されない「デュアリングミツション(外交活動を行う期間内)」という形式で査証が発行される。このときに、外国人課内部で意見の対立があったというのだ。
スミルノフの「査証経伺」のための審査書類を受け取った外国人課の事務官は、半ば呆れ顔で語る。
「外国人課に降りてきた最初から入国が前提だった。添付書類には『PNG(ペルソナノングラータ・好ましからざる人物)であっても日露友好のために受け入れる。これは官邸の意向でもある』という趣旨のことが書かれていたと記億している」
当時の官邸のメンバーは総理大臣が小渕恵三、官房長官が野中広務、そして政務担当の宣房副長官に鈴木宗男と上杉光弘、事務担当が古川貞二郎だった。
外国人課には四十人の職員がいた。外務省キャリアの課長、首席事務官の下に、「A班」と「B班」の二つの班があった。「A班」は資本主義国の査証審査担当。「B班」が担当したのが旧共産圈の国々である。
B班には十八人が所屑、班長は公安調査庁から出向してきていた若手キャリアだった。この班長の下で実務を取り仕切ったのが、警視庁公安部外事一課と外事二課から派遣されていた三十代後半の警部補たちで、それぞれがロシア、中国を担当していた。彼らは警察庁からの出向中の外務事務官という身分ではあったが、カウンターインテリジェンスの視点で、「好ましい人物」か「好ましからざる人物」か、を判断することが任務だった。
警察庁出向組の彼らは、外務省がスミルノフに対し、さも当然のように外交査証を発行しようとする勣きを見て、強い不満を表明した。
「これはおかしいのではないか。官邸が動いているのが理由なのか? 論外である」
しかし、出向中の外務事務官という身分では「大きな力」に抗うことはできなかった。上司の判断は「査証政策の一環である」という一言だった。外務省の査証政策と言われれば、部外者はどんな大義があっても振りかざしようもないのだ。
情報機関員と見られる人物が査証申請してくると、外務省は治安機関に照会書面を送付するのが慣例だ。当時の外国人課では申請書類のコピーを四部作成することになっていた。警察庁、公安調査庁、警視庁、千葉県警に送付し、「問題の有無」を照会するためだ。
外務省外国人課からの送付を受けると警察と公安調査庁は、世界中の情報機関から提供された「機関通報リスト」と呼ばれるブラックリストと照合し、「好ましくない」「間題ない」といった意見を外務省側に回答することになっている。
申請書類のコピーを受け取った当時の治安機関側の担当者は、
「スミルノフの査証申請のときにはある書類が添付されていた」
と異例の扱いを明かす。
「添付書類」とは在ロシア日本大使館からの公信だった。この書類にはあることが記述されていたという。
「スミルノフはプリマコフの命を受けて、日本に赴任し、目本の情報機関と連絡を取りたいとしている」
この公信に登場する「プリマコフ」とは、当時のロシア外務大臣で、KGB解休後は初代のSVR長官を務めていたエフゲニー・プリマコフのことだ。アラビア語に堪能な中東の専門家で、情報公開など民主的な姿勢でSVRのイメージ向上に一役買った人物でもある。
プリマコフはSVR長宮を務めたあと、一九九六年に外相に就任、スミルノフが日本に入国した一九九八年九月、セルゲイ・キリエンコ首相解任後の首相に抜擢されている。
つまりスミルノフは、当時のSVR長官ヴァチェスラフ・トルブュコフではなく、外務大臣の命令で、あくまでも「外交官」として赴任してくることを強調し、諜報目的ではないことをアピールしたのだ。そしてSVRというロシアの巨大情報機関の首脳部のひとりとして、「公然たる情報外交」を申し出てきたのである。
ソ達が崩壊したあと、米露の情報機関同士ではある合意があったという。SVRはワシントン駐在部のレジデント(駐在部長)の名前をアメリカ国務省に知らせ、反対にCIA側はモスクワ支局長の名をロシア外務省に通知することになったというのだ。いわば双方が「公式代表」を置いて、国際テロ対策を中心に「情報外交」を進展させることになったのだ。こうした手法は情報先進国の間では常識になりつつある。
オウム真理教事件で明らかになったように、日露間でも「情報外交」を発展させる必要性が高まっているのは確かだろう。国際テロリズムだけでなく、日本人拉致に関わる北朝鮮情報を、SVRとの駆け引きの中から引き出すことも可能かもしれない。
しかし、残念ながらSVRのカウンター‐パートになる対外情報機関は日本には存在しない。警察はあくまでも法執行機関という位置づけだし、内閣情報調査室は海外に展開する実勤部隊を持たないのだから、「ギブ・アンド・テイク」は成立しないのだ。
そんな状況下で、過去にジャーナリストに偽装してスパイ活勣をしたことが明らかになっている機関員を受け入れてしまえば、日本は正真正銘の「スパイ天国」というレッテルを国際社会から貼られることになる。このため警察庁、公安調査庁ともに、「好ましくない」という強い反対意見を外務省に送った。
「警察や公安調査庁が公式にロシア大使館参事官に接触しようとしたら、外務省は『外交の一元化をおかしている』と目くじらをたてるだろう。しかしスミルノフのときだけは違った。外務省ロシア課は最初から入国前提に起案していた。かつて偽装してスパイ括勤を行った情報機関員と情報外交しましょうと歓迎したら、世界中の情報機関のもの笑いの種にされるだけだ。これは日本の面子の問題だった」
と公安調査庁の国際部門に在籍していた幹部も不快そうに言う。
査証政策の鍛終訣定権は当然外務省にある。「スミルノフはPNGであるべきだ」という警察、公安調査庁の意向はまったく無視されたのである。
(以下略)
(P281以下) 新たな任務
森島とボガチョンコフを一年がかりで追ったウラのスパイハンターたちは、再び大都会の雑踏に溶け込んでいた。
五人のスパイハンターたちは霞が関の外務省前で、煙草を吸うために出てきた弛緩した役人を演じながら、「対象」が出てくるのを粘り強く待っていた。外務省正門から死角になる東京地方裁判所脇、街路樹の陰に停められた作朧車両内に一人が待機し、外務省通用門周辺に二人、外務省正門の桜田通りを挟んだ反対側の歩道に二人が配置されていた。対象を待ちうける四人の徒歩行確員はゆっくりと歩道を往復し続ける「流し張り」を行っていた。
狙いはある外務省職員と、SVR(ロシア対外諜報庁)東京駐在部長ボリス・スミルノフの接触である。
「俺たちはオモテの強制追尾の中止を命令されただけだ。ウラの秘匿追尾は問題にはならない」
鈴木宗男の圧力でオモテの強制追尾を中止するよう命じられた外事一課第四係は、ウラに課長特命班を設置し、秘匿追尾を開始したのだ。
スパイハンターのひとりの携帯電話が鳴った。男は目を細めて電話を切ると、ジャケットの胸元のマイクに向かってこう言った。
「今連絡が入った。森島は実刑だそうだ」
まもなく、視線の先には、秘匿追尾対象の外務省職員が出てくるだろう。外務省の建物から巨体を左右に揺らしながら出てくる男の姿は得体の知れぬ迫力がある。この男が歩くと、外務省を出入りする霞が関の住人たちが、ごく自然に道を譲る。ある者は恐れおののいたかのように、ある者は珍しいものを見るかのように、その巨体を見つめるのである。
スミルノフと最も接触頻度の高いこの外務省職員がタクシーに乗れば、セダンタイプの作戦車両が追尾を開姶し、徒歩ならば五人のスパイハンターが伝統の秘匿追尾技術で周囲に影のように張り付くことになる。
彼が誰と接触していようと、スパイハンターたちは直近に位置して、秘撮用デジタルビデオカメラと高指向性ガンマイクで、その一部始終を記録する。接触相手は徹底的に調べ尽くされ、会話内容や行勤形態は視察報告フアイルに綴られるだろう。
森島祐一の判決の翌日、スパイハンターたちは、スミルノフと鈴木宗男、そしてこの巨体の外務省職員が、港区内の高級しゃぶしゃぶ料理店に入っていくのを確認した。
(終わり)
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昔、KGBの出身という、ロシア人と話をする
機会があったが、舌を巻くほどに、堪能な日本語を
喋っていた。
P.S.
中国の訳ありの漁船が、ロシアの国境警備隊に
撃沈された由。一見友好国家の誼を通じている
ようでも、いざとなれば平気でこういう事件を
起こしてしまう。
国家間の駆け引きとはこんなものでしょう?
平和惚けの日本人には、理解できないわな。
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