交響詩「失われた都」

鈴木静一(1901-1980)作曲

 私は過去に幾度か九州を歩いている。所謂、名所案内での名所は一応訪れているが、西都原墳など、歴史的にも考古学的にも興味深い“名所”を見落している。この太宰府にしても、戦前一度訪れたが、それとて一旅行者としての浅い見聞だけに終わっている。

 昨年初夏、九大MC部員の案内で、太宰府都府楼遺跡を見物し、太宰府が<天神さまだけではない>ことに気付き強い感動を覚えた。そして小学生時代、軍国主義でたたき込まれた太宰府の波乱多い成り立ちに思いを馳せ、久しぶりに湧き上がる制作欲にゆさぶられた。その夜、旅宿で思いつくままに書きとめたモテイヴは全部、なにか、激しい感情を含むものばかりで、それをどう大宰府に結びつけてよいのか戸惑った。私がその原因が、防人の聯想ではないかと考えたのは、帰京してからであつた。しかし私の感念の中の“防人”は、その軍事的の動行ではない。遠い天国の詩歌の中に謳われた“防人”である。ならば、父を一夫を…そして子を、戦の場に送る女の悲哀である筈である。大いに迷ったが、結局太宰府でつかんだ楽想のままに書き始めた。

 3/4 Allegro Frioso 結果的にはこれが“失われた都”の主題となったが、書いている時の気持では表題を“防人”とするつもりだった。その後、防人の和歌を調べるつもりで万葉集を手にした時、あることを思い出した。それは、京都の仕事をしていた頃、よく歩いた飛鳥でのことである。

 なだらかな丘のつらなる飛鳥路の、のどかな麦畑などを歩いている時、不意に説明しようのない“不安感”に襲われることがあった。言うまでもない。かつての飛鳥路を中心に続出した天皇一族の、血で血を洗う相剋の舞台であった飛鳥路である。<血なまぐさい聯想もうかがえるだろう>と私なりの解釈で済ませたが、今考えるとその時の“不安感”と大宰府でのそれとには、類似点があるのに気付いた。

 では、それは何か?訊かれてもはっきり言葉に表せないが、強いて言えば卑俗な言葉だが<血が騒ぐ>と言う形容が、ややそれに近いニュアンスを持つ。人間には、異状な環境とか状態におかれた時、常識では割切れない霊とか感(フィーリング)が働く場合があるのではあるまいか?

昭和44年(1969年)6月30日発行 GMO機関紙「フレット」第12巻・第2号(通号第50号)

 青い夏草の中に、いくつもの礎石が散らばっていた。その配置からは、壮麗な建物が堂々軒をそばだてていたことが読みとられる。赤い太い円柱――白い壁――そして青の屋根――この遺跡<都府楼>の名称からの印象では、此処を中心とし繰り広げられていた<都>のたたずまいである。

 すぐ近くから拡がる玄海を隔て相対する朝鮮、そしてその頃、既に近京―西欧と交流を持っていた唐―宋を通じ流れこんでいた外来文化が、この<都府楼>を色どっていたという――では? そこではどんな生活が営まれていたであろう。

 此処は1300年以前から大陸に向けて開いた日本の玄関であった。かつては多くの遣唐使や留学生を唐に送り出し、優れた先進文化を迎え入れ、ある時は、新羅―高麗に向け、度々軍船を送り出したという。

 この太宰府の西で筑紫平野をよぎる<水城>(みずき)と呼ばれる防塁の遺構は、此処が、けっして平和のみではなかったことを物語る。此処は幾度となく外敵に襲われたが、中でも、鎌倉時代に起った<元寇の乱>は、最大の国難であったようだ。もしその時、博多の海を埋めつくした蒙古の群船が、一夜の大暴風で全滅させられなかったなら、日本の歴史は大きく塗りかえられていたかも知れない。

 回想は、菅原道真の悲劇を織りまぜ果てしなく拡がる――しかし、礎石は何も語らない。たゞ夏草に埋もれ、とりつくしまもない、沈黙に沈んでいる――。

1968年太宰府にて(作曲者記)

 作曲者はマンドリン奏者・指揮者・作曲家として活動し、商業音楽を手掛けるようになってからマンドリン音楽から遠ざかっておりましたが、後に復帰以来、晩年に至るまで精力的に作曲・編曲・演奏指導活動に力を注いできました。中央大学マンドリン倶楽部もまたその指導を受けた団体の一つでした。

 本曲は作曲者の作品の中でも代表作と目されるものです。交響詩形式(序奏―主題―展開―主題復帰―コーダ)の中で、大宰府をモチーフとした様々な時代・情景・人間・そして作曲者の後期作品に常に流れる「運命に相対する人間たちの感情」を描こうとしており、必ずしも史実に捉われない自由な解釈で構成されています。