| タイトル | : シリーズ化と続編に関して |
| 記事No | : 1338 |
| 投稿日 | : 2006/01/14(Sat) 19:28 |
| 投稿者 | : ケイゴ |
何故来たか不思議でしょ? 勝てるわけもないのに 僕達の哀しさは あなたがたにわからない 僕達弱いんだなー 弱いから来たのだなー 犬死にと笑うんだね 誇り高き人間の証明
あなたがたは強くて 頭もおよろしくて リンゴでも潰す様に 僕ら等は一捻りでしょう リンゴ売り窓の外 窓の外は春ですね 狂い咲きの様です てめーら コラ なめるなよ 「オー!」 (※筋肉少女帯 タチムカウ-狂い咲く人間の証明-)
引用した歌詞は「ロックマンゼロ」のEDでゼロが無数のパンテオンと対峙する あのシーンに感じたカタルシスにも通ずると思っておりますが (ある意味あれで終わっていたら最高にかっこよかったかもしれない。 ゼロ2EDでの唐突かつ過剰な伏線の張り具合はどうしたことか…)
ロックマンXとロックマンゼロ、それぞれ1作目にの根底には ある種のアナーキズムに対する美学があったような気がします。 それはたったひとり(厳密には少し違いますが)でこの世界に 勝ち目のない戦いを挑むはみ出し者の物語。
※受け手側の一面的な解釈(テロ行為の肯定)を危惧してか、 「レジスタンス=テロリスト」と自己言及していたり 記憶に新しい9/11の自爆テロへの配慮 (というよりは無邪気過ぎる不謹慎ネタの自主規制)と思われる 「グランド・ゼロ」⇒「エリア・ゼロ」の修正を行うなど インティのスタッフは分かっていらした様子。
しかし、この巨大な敵に立ち向かう主人公というものが シリーズを重ねるごとに巨大組織化=社会側になってしまうんですね。 『正義のヒーロー軍団がはみ出し者をやっつける』話にシフトする。 決してそれが悪いのではなく、脱線してしまうことへの違和感が…
※無印やエグゼならば勿論それはそれで成立するわけですし、 それらをユルくやっていける世界観を設定したこと (ディストピアとしての未来世界を描かなかった)も大きいでしょう。
売れたら続編を出すという大人の事情もあるのかもしれませんけれど 私にはどうもこの流れは美しくないよなあ…と感じられるのです。
ロックマンゼクスのコンセプトがどうなるのかは分かりませんが 以前から感じていた違和感を意見として書き記しておきたいと思います。
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