一の一
川向と呼ばれるこの土地は、城下町の外れからさらに外れた場所にあり、忘れられたような淋しい集落である。この城下は二日で江戸に行ける距離にありながら、いかにも田舎の風情を残している。しかし先頃城主になられた方はなかなかの風流人らしく、この城下もいわゆる文化人が増え、江戸には遠く及ばないまでもこれまでになく派手になってきたようである。ただそれも城下の外れを東南から西に流れる柳川に食い止められ、この川向はもう城下町とは思われていない。
主な住居は十数軒あるが、どの家も古く、壁板は波うち、どこか傾いでいて、まるで支え合うように寄り添って建っている。この土地に住む者は、弾かられてきたような貧しい者や、うまく世の中に入れない陰のある者が多かった。
私はこの土地に来て四年になる。私はこの寂れた土地が気に入ったし、この土地に住むどこか負い目を持った善良な住民が好きであった。特に隣に住む左官の伝助とは気が合った。
「おれはせちがらい城下の人間は嫌いだ」
伝助はよくそう云った。川向に住むことに引け目を持ちながら、同時にそれを馬鹿にする人たちに反発していた。それが彼の誇りを保つ手段でもあったようだ。
私の妻は、いよいよここまで落ちぶれたと、この土地に来てから人が変わったようになった。ここに来るまでは江戸にいて、私は絵の勉強を続けていた。もう人に学ぶ必要はないし、自然が多く人柄のよい田舎で思う絵を完成させたいとこの土地を選んだのだ。それが妻のおすげには落魄し都落ちしたような絶望的な状態に感じたらしい。それからというもの、江戸で学んだ髪結いの仕事に精を出し、一方で日に日に肥え、私にきつく当たるようになった。それまでもおすげはよく働いてくれ、私の絵の道を助けてくれていた。私としては、何かと金を遣う江戸より、のんびりとした田舎のほうがおすげのためにも良いかと思ったのだが、醜く肥えてしまったばかりではなく、口悪く私を罵るようになってしまった。 昨年の春、江戸から来たらしい浪人がこの土地に住み始めた。綿貫主計というその人は、すぐに私や伝助と昵懇の間柄になった。私たちは毎晩押し掛けては酒を馳走になった。
この日は風が強かった。雨戸が風に音を立て揺れ、敷居に溜まった雨水がそのたびにぴちゃぴちゃと部屋の中に押し出されていた。ただでさえ古くなった壁からは雨がしみ込み、天井からは雨漏りのしずくが先ほどから絶えず私たち三人の上に落ちてきている。
「風か、このうえ雨が吹き込んできては寝る場所もなくなるな」
綿貫さんがそのわりに困ったような顔もせずにそう云った。
「綿貫さんは家の手入れをしなさ過ぎます、雨漏りくらいは直しますよ」伝助がそう云った、「日頃こうして酒を馳走になっている礼をしようと思ってたんだ、ちょうど休みだし、明日にでもやっちまいましょう」
「かまうことはない、このままでいい」綿貫さんはその柔和な目を細めて云った、「寒い日にはその寒さを雨の日には雨を、それを感じることができるこの家も悪くはない、酒はこちらからつきあってもらっているのだ、礼はこちらがしたいと思っているくらいなんだ」
「そう云われると二の句が出ねえが」伝助はそう云って手拭いで濡れた肩口を拭いた、「今日のこの雨漏りはひどい、この間の風でだいぶ傷んだようだから、せっかくだし屋根は直しますよ、左官と云ったってこのくらいの大工仕事はできるんだ」
瓦灯の安油の上に雫が落ちたのか、じじといって明かりが大きく揺れた。同時に伝助がひゃっと云う声を出して背筋を伸ばした。
「首筋に落ちやがった」伝助は恨めしそうに天井を見た、「雨漏りが拡がってきましたよ、こりゃあ本当に直さなくちゃしょうがねえ、綿貫さんが何と云おうと、明日直しますよ」
「どうもいつになく親切だと思ったら、伝助、実はおまえがこの雨漏りが嫌なだけではないのか」
綿貫さんがそう軽口を云うと、伝助は、ばれたかというように肩をすくめた。
「何しろこれでは落ち着かなくって、綿貫さんはお武家様だし、先生もさっきから平気な顔をしているようだが、こっちは何の修業もしてねえんだ、これはどうもいけねえや」
「いや実は私も」私は苦笑いして云った、「綿貫さんが雨の日に雨を感じることができる家は悪くないと云っていたので、そんなものかと思ってはみたものの、どうもこの、ぽたぽたと落ちてくる雫にはまいります」
「だらしがない奴らだ」綿貫さんはそう云った後、顔を崩した、「と武士の威厳を示したいところだが、何を隠そう、先ほどから背中のほうに雨漏りがはじまってなあ、大きいことを云った手前いまさら座る位置をなおすわけにもいかんし、もう尻まで濡れてしまって、この通りだ」そう云って綿貫さんは濡れた袴を見せた、「 明日は頼んだぞ伝助」
綿貫さんはそう手を合わせて私たちを笑わせた。綿貫さんはこのように自らおどけ、いつも私たちの心を和ませてくれる。武士だということで偉ぶることはなく、むしろ気さくに接してくれる。
「しかし、伝助も立一もいつになったら心を許してくれるんだろうな」 綿貫さんは酔った顔ですねたようにそう云った。
「そんな淋しいことを云わないでくださいよ」
伝助がそう云った。
「そうですよ」私は云った、「私たちは綿貫さんとこうして飲むことが楽しいし、こんなに気軽につきあってくれるお侍はいません、心を許さないなんてことはありません」
「ありません」綿貫さんは私の口調を真似た、「それをやめてくれと云っているんじゃないか、おれ、おまえでやろうと云っているのにいつまでも変わらない」
「そんなことを云われても、 なあ」
私は伝助に同意を求めた。
伝助はうなずいた。「綿貫さんと気軽に呼ぶのも気が引けているんですよ、お武家様というだけならまだしも、これだけ世話になっていておまえとは云えねえや」
「世話、世話など何もしていないぞ」綿貫さんは云った、「酒につきあってもらっているだけじゃないか、それとも何か、酒だけが目当てで嫌々つきあっているのか」
「またそんな冗談を云う」
「まったくですよ」私は云った、「正直な話、私は綿貫さんが金に困って酒が買えないということになれば、女房を敵に回してでも酒を持ってきますよ」
綿貫さんは笑った。
「そうか、あのおすげさんを敵に回すか、伝助、これは本物だぞ」
「違えねえ、先生にそんな勇気があったとは」
伝助も笑った。
「立一がそこまで云うとなると、もう金がないとは云えないな、盗みに入ってでも酒を手に入れなくてはならなくなったぞ」
綿貫さんはそう冗談めかして云った。
「立一がそう云うなら、信用しないわけにはいかないな」綿貫さんは笑いを堪えるようにしながら云った、「我々の友情よりもおすげさんのほうが大切かと思っていたが、案外そうではないらしい」
「いえ私は、おすげにあれこれ云われるのが嫌なだけですよ」私はそう云った、「悲しいことですが、おすげより二人のほうが私の絵の思いを分かってくれています」
その時、強く風が吹いた。引き戸が激しく音を鳴らし、家全体が揺れるように感じたかと思うと、みしみしと音を立てた。がらんがらんどこかで何かの落ちる大きな音がした。私たち三人は顔を見合わせた。
「また屋根が飛んだんじゃねえか」伝助がいぶかしそうに天井を見つめた、「この家じゃなさそうだが、うちが心配だ」
「うん」と私はうなずいた、「おすげの話が出たことですし、私はそろそろ」
「じゃあおれも、様子も見ておきたいし」と云って伝助も立ち上がった。
綿貫さんは視線を落としてうなずいた。
「そうか、そういえばそろそろ時間だな」
そんなとき綿貫さんは、ほんの一瞬であるが目をそむけたくなるほど淋しい目をすることがある。私は手を取り合い、「まだいます、今日はとことん飲みましょう」と大げさではなくそう云いたい衝動にかられる。私はそれができない、脳裏に浮かぶ妻の顔がそれを許さないのだ。
「また明日、屋根を直しにうかがいますよ」
伝助が慰めるようにそう云った。
「明日か、そうすると」綿貫さんは雨漏りを受ける茶碗や鍋を見回した、「今宵は長持ちの上にて眠りにつき、暁を待とう」そう芝居がかった調子で云って、先ほどの居たたまれない目が嘘のように明るく笑った。
綿貫さんは何気なく話している途中にも、ふと恐ろしく自虐的な陰のある目をされることがある。だがそれに気づいた私が、まぼろしを見たと思うほど、その直後の綿貫さんは普段の様子に戻っている。この時もそうであった。
一の二
綿貫さんの家は私の家から通りをはさんだ目の前である。通りから見た右隣に伝助が住んでいる。この通りをみなは桜通りと呼んでいる。さくら通りとは云わずおう通りと云う。この桜通りは川向の中では一番に栄えている。とは云っても道はばは狭いし、地面はでこぼこに荒れ、江戸の路地裏となんら変わるところはなかった。店も本当に必要なものを売る店が四五軒あるばかりである。それでも一応川向では大通りなので、桜と大をかけているのかもしれない。しかし大通りと云うにはあまりにも寂れているため、桜という字を当てたのではないかと私は思っている。
私は伝助とともに綿貫さんの家を出て、雨を避けるため小走りで私の家の軒下まで来た。
「よかった、うちじゃないようだ」伝助はそう云って、伸び上がって屋根の様子を見た、「先生のところも大丈夫らしいな」
私は黙って左手を見た。
「桜かい」伝助がそう聞いた、「この雨風じゃあ、ほとんど散ってしまうな」
「満開になるといつも雨が降る」
私はそう云って、いまは暗くて見えないが桜通りにただ一本しかない大桜のほうを見つめた。
家に戻ると行灯の明かりは落とされて薄暗くなっていた。私は横になっているであろう妻を気遣い、静かに水瓶から杓子で直接水を一杯飲み、酔っておぼつかない足に意識を集め、物音を立てないよう土間から居間へ上がった。私は着がえようと帯を解いた。
「着がえならこっちだよ」
居間の左隣りが私の仕事部屋で奥が寝部屋になっている。その奥の座敷からおすげがそう云った。声色からすると眠っていなかったようだ。聞き耳を立てて私の動向を見守っていたらしい。私はいつもと同じか、まだ少し早い時刻に帰ってきたはずである、おすげが寝るにはまだ早い。寝たふりをしていたのは、私に何かけちをつける機会をうかがっていたためであろう。
「まだ寝ていなかったのか」
私はさも意外そうな声を出した。
「あんたがうるさくって起きちまったんだよ、こっちはあんたと違って朝が早いんだから、こんな遅くに帰ってこられても迷惑だっていうんだ、まったく、毎晩毎晩酒ばかり飲んで、そんな暇があったら少しは絵筆を持ったらどうなんだい」
おまえが昼間出ている間は画くようにしているんだ、そう云おうとしたが、今日はおすげの機嫌がいつもに増して悪そうなので何も云わずにおいた。
私は世の奥方たちと同じことを家でしている。掃除は得意ではないので毎日ではないが、汚れ物を洗うことから、食事の支度までいつもしている。私は夕餉を支度し、おすげの帰りを待って、おすげとの食事を済ませてから綿貫さんのところへ行く。私も夜くらいは綿貫さんや伝助と息抜きがしたい、だがその気持ちはおすげには分からないようだ。
私が奥の寝間に行くと、おすげは夜具の上に座り、煙草盆を引き寄せた。寝間着の下はあふれんばかりの脂肪で、顔も重そうな肉がたっぷり付いている。
「まったく、目が覚めちまったよ」おすげは不機嫌そうにそう云って煙草に火を付けた、「絵が昨日からまるで進んでないんじゃないのかい、どうせ一日何もしてないんだったら家の掃除ぐらいしてほしいもんだよ」
おすげは、私が今日は絵を画いていないことを私が留守の間に確認したらしい。
「何のためにあたしが女の身でこれだけ身を粉にして働いていると思っているんだい、あんたを遊ばせて楽をさせるためじゃないんだよ、まったく、悲しくなるじゃないか」
私は何も云い返すことができなかった。私は首をうなだれておすげの気のすむように云わせておいた。隣から伝助とその妻のおみよさんの穏やかな話し声が聞こえた。おみよさんはいつも笑っているようなおおらかな人で、伝助とは似合いの夫婦である。伝助がいくら遅く帰っても何一つ文句は云わない。私は隣から聞こえる静かな話し声を心底うらやましく思った。
「いつまでそんなところでいじけてるんだい」おすげはもう横になっていた、「悔しかったらあたしをあっと云わせるような絵でも画きなさいよ、 いいからもう寝ておくれ」
翌朝私は少ない家具を動かし、大掃除をしながら、私とおすげの馴れ初めのことを考えていた。
私は江戸で生まれた。父は飾り職人で、腕はいいほうだったようだ。私が十歳になった頃、寛政の改革というものが行なわれ、贅沢品は禁制された。飾り職人の父は仕事をなくし、五人兄弟の一番下であった私は、母方の祖父のもとに送られた。この祖父が絵の好きな人で、私は自然と絵に親しむようになっていた。十五の時に祖父と共に絵を学び始め、十九の年にその時絵を教わっていた人からのすすめで、四条派をたてた呉春先生のもとで絵の修業をすることになった。
おすげのことは祖父の家に引き取られてからずっと知っていた。家がたまたま隣だったというばかりではなく、おすげの名を知らぬ者はこの町内にはいないと云っていいくらいだったのだ。おすげは同じ町内に住む小規模な木綿問屋の娘で、その町では小町と呼ばれ、若い男の人気を集めていた。祖父がその木綿問屋の隠居と親しかったおかげもあり、私もよくおすげの家に行ったものである。私はほかの男が騒ぐようにおすげの美しさだけに魅かれていたわけではなく、芯のしっかりした気持ちの優しさに魅かれたのである。今は見る影もないが、良く笑い愛嬌のある娘だった。
綿貫さんも伝助もその話はまるで信じてはくれない。
「つまらぬ見栄を張るものだ」
綿貫さんはそう渋い顔をされたこともあった。
しかし、私と結ばれたときにも、云い寄る男の数は両の指をたしても余るくらいであった。町内の若い男はみなおすげに夢中になっていたし、そんな中から私を選んだ理由は何であったのか、腕こきの職人や大店の一人息子、立派な侍の家からも求婚があったのだ。私はうだつの上がらない、まったくうだつの上がらないまだ気持ちしか持っていない絵師であった。人は時として、恵まれた環境よりも、つらく苦しい暮らしの中で一つの目的のために苦労をすることを求めることがある。おすげもまた、苦労のしがいがあるとでも思ったのであろう。その時私は二十一、おすげは十八であった。私としては、それこそ飛び上がるほど喜んだ。そのおかげでその土地に居づらくなってしまったが、私は何としても、私の目指す絵をものにしようと心に決めた。 おすげは変わってしまった。身も心も変わってしまった。それは私の絵が売れないためであろう。しかし私はまだ自分の絵を売ろうという気にはなれない。私はまだ自分の絵に満足してはいない。また、満足してはいけないと思っている。おすげと結ばれていなければ、私はもっと安楽な道を選んでいたかもしれない。羨むほどの男たちを振って、私を選んだおすげに対して、恥ずかしくない男になろうと思い続けてきたのだ。
私は家の中を年の暮れのようにきれいにしながら、そんなことを考えていた。外で伝助の威勢のよい声が聞こえた。
ああ、屋根を直すのだな。
私はそう思った。そして、そう思うと同時に、現実の世界にすっと引き戻されたような気がした。昨夜のおすげの言葉が思いのほかこたえ、私は気弱になって益もないことを漠然と考えていたようだ。おすげが嫌みを云うのは昨日今日のことではない、しかしそれも最近度を増してきたようだ。私は内心そのことに腹を立てていたのかもしれない、それでやけのような気持ちで掃除を始めたのだろう。そんなことをしたからといっておすげが満足するはずはないのだ。家の外のことに気持ちが移ったおかげで夢から覚めるように目に見える景色も変わった。私はすす払いをして、壁と柱を磨いていたが、雑巾を土間に投げ捨て、家具を元に戻し、画きかけの絵と筆を持って外に出た。
「こりゃいけねえ、根が腐りはじめてやがる」伝助は屋根の上に登りそう叫んでいた、「綿貫さん、こりゃあひでえ、梁がもう腐りはじめてますぜ、これは本物の大工にちゃんと頼んだほうがいい」
「なるほど」
綿貫さんは、昨日の雨漏りで本当に眠れなかったようで、腫れぼったい目を屋根に向け、腕組みをしたままあくびをした。
昨日と打って変わり、空は拭ったように青く、ひばりが高いところで鳴いている姿が見えた。
「それなら無理はしなくていい、伝助、もう降りてくれ、そこまで傷んでいるとすると、おまえが足を取られるかもしれない」
「確かにそうならねえとは云わねえが、せっかくだ、ひどいところだけでも板を当てときますよ」
「無理はしないでくれよ、踏み込んで穴でも開いてしまったら、居ながらにして月が拝める家になってしまう」
「なんだい、心配は屋根のほうですか」
私は綿貫さんのもとに行き、軽く会釈をした。
「眠れなかったようですね」
私がそう云うと、綿貫さんは渋い顔をしてうなずいた。
「起きて半畳、寝て一畳と云うが、あれは嘘だな」綿貫さんはそう云って泣き笑いのような顔をした、「昨日はあれから云った通りに、長持ちを引っ張り出してその上に畳を置いて寝たんだが、あれほど心細いものはない、本当に座敷が一畳だけで回りが壁だとしたら、人間はすぐに気がおかしくなるに違いない」
綿貫さんはふざけたようにそう云い、「桜か」と私が画きかけの絵を持っていることに気づいて右手にある桜の木を見た。
「あの雨風でもまだ三分方は残っているようだな」綿貫さんは今度はまじめな面持ちでそう云った、「先ほど見てきたが、地面は敷物を敷いたように散った桜で一杯だ、それなのに枝にはまだあれだけの花が残っている、あそこまでいくと何か汚らわしいもののように見える」
綿貫さんは五軒向こうにある桜の大木を見つめたまま続けた。
「桜は散り際が美しいと云うが、立一もそう思うか」
「散りゆく姿と云うのでしょうか、桜吹雪は美しいと思いますが」
「雪のように散る花弁は確かに美しい」綿貫さんは間を置いて続けた、「いや、美しいと云うよりは威勢がいいと云うべきだろう、散り際が美しいと云うのであれば、椿のほうが美しいとは思わないか」
「椿ですか」私は云った、「あれは首から落ちるのできみが悪いですね」
「縁起が悪いとも云われているな」綿貫さんはそう云った、「だが、己が美しくいられるうちに潔く散る、それは美しくないだろうか、桜は愚痴をこぼしながら痩せていくようだ、いくら散ってもなかなかなくならない、あの生命力は散ることをずるずると先伸ばしにしているように見える、未練だな、武士ならば、椿を見習うべきだろう」
最後はつぶやくように云い、綿貫さんは痛みをこらえるように顔をしかめた。
綿貫さんの顔にまた、陰が表れた。私はそれに気がついたが、それほど気には止めなかった。綿貫さんの言葉が私を非難しているように思えたからだ。もちろん綿貫さんにそんな気持ちがあるわけはない。だが綿貫さんの云ったことは私の心に鋭く突き刺さった。いつまでも売れない絵に醜くしがみつくことをやめ、女房に苦労をかけず、さっさとまともな職に就け、私はそう云われたような気がした。
桜通りのその桜は、その通りの終わりになる四辻にあり、大人二人で抱えるほど幹が太く立派なものであった。四辻をまっすぐ行くとちょっとした畑が広がり、その向こうは雑木林で、四辻を左に行くと、城下に向かう。右はただの荒れ地で、そこに私は椅子を置き、桜全体が見える場所に座っていた。その日もまた、私は絵に手が着かなかった。次の日も、私は筆を握ったまま散りゆく桜を眺めていた。絵は遅々として進まない。
私にとって桜を画くということは、妥協であった。画きたくない絵を画くということなのだ。桜と富士は俗である、最も喜ばれ最も芸のないものだからだ。そして庶民はそれを一番喜ぶ。だから私は画きたくなかった。金にするためだけの絵は画きたくはない、私が求める絵を追求していきたいのだ。しかし私は桜を画くことにした。私も男である、十年も女房に迷惑をかけ通しで澄ました顔はしていられない。それだけではなく、どこかに、絵が売れない私のことを馬鹿にするおすげを見返してやりたいという気持ちもあった。一度でいい、私の画いた絵を金にして、髪飾りでも買っておすげにさりげなく渡す、私はその様子を何度も頭で空想した。おすげのうれしさの交じった驚きの目、私の得意気な顔、それは決して退屈な空想ではなかった。しかし、いざ画くとなると私の筆は鈍った。
この絵には私なりに工夫があった。俗な材料であっても絵は俗であってはいけない。桜はその美しさを最も活かした形で絵の左寄りに大きく置く、絵の左手から風が吹いており、満開の桜からこぼれ落ちるように花弁が右側へ流れる。右手には花吹雪を背に受けた女がたたずんでいる。淋しげな横顔で乱れた髪をなおそうともせずに女は花弁に埋もれようとするかのように立ちすくんでいる。私はその女を画くのだ。物語が浮かんでくるような、そんな絵が画きたかった。
私は下絵をにらみながら、私の中に浮かんでくる思いと戦っていた。
一の三
「さすがに上手いな」
綿貫さんである、いつのまにか私の後ろに立っていた。私はまるで気がつかなかった。
「驚かせてしまったようだな」綿貫さんはそう云ってのぞき込むように私の下絵を見た。「立一は一度も絵を見せてくれないからな、盗み見に来たのだ、走り書きのようだが、いつもの謙遜が嫌みに思えるほどの出来じゃないか」
「とんでもない」私は恥ずかしくなり、何気なく絵の上に手を置いて云った、「上手いだけではいけません、十年も続けていれば、誰でも上手いと云われる絵は画けますよ」
私は椅子にしている一斗樽を綿貫さんに勧めた。綿貫さんは手を振って私の横にどかりと座った。
「進まぬようだな」
綿貫さんは、私の肩を叩くような口振りでそう云った。
「私は、綿貫さんや伝助の前で桜を画くと宣言しました、伝助は私の気持ちを応援してくれましたし、私も自分なりに自信はありました、しかし駄目です、まるで画けやしません」
「駄目なのはなんだ」綿貫さんはそう云って私の顔をじっと見つめた、「駄目なのは絵か、それとも立一の心か」
私は驚いたときのように声を挙げた。私は気がついた、綿貫さんに云われて初めて気がついた。綿貫さんは何もかも分かっているような口振りであった。
「知っていたのですか」
私はそう聞いた。
「何をだ」
「私の絵の何がいけないのかです」
「そんなことは知らない、第一今日初めて立一の絵を見たんだ」綿貫さんはそう云った、「ただな、剣の道のことは分かる、行きづまったときは型や技が悪いのかと思う、しかし悪いのはたいてい自分の心なんだ」
「そうなんです、私なりにこの絵には工夫がありました、桜を前面に出して画きますが、本当に見せるのはこの女です、桜は付属でしかありません」
私はそう云って画きかけの絵を綿貫さんに見せた。
「絵のことは良く分からないが、それはおもしろそうではないか」
「そうです、私はその着目点のおもしろさで画こうと思いました、しかし駄目なのです、桜が画けません」
私は恥を告白するつもりで云った。どうせ画くならば誰も画いたことがないような、私だけの桜を画こうと思った。それなのに何度下絵をしても、私の画く桜はどこかで見たことがあるような絵になった。構図を変えてみたり、色彩に工夫を加えたりしたが、俗であった。いや、俗な桜の絵の真似にしかなっていなかったのだ。そうしてみると女の配置さえも俗に見えてきて、見れば見るほど読物の挿絵に見えてくる。私は桜が悪いと思った。俗な桜を画材にしたために私の画く絵が俗になってしまう、そう思っていた。
「綿貫さんに云われて気がつきました」私は続けた、「絵が悪いのでなければ桜が悪いのでもありません、私の絵に向かう態度が良くありませんでした、初めから桜なんてと馬鹿にしていました、女を画くんだ、着目点が新しく発想がおもしろいと思いました、しかしそれはそれだけでしかありません、桜の美しさに心奪われたわけでも、桜吹雪に打たれる女に心動かされたわけでもありません、私は何の感動もなしに、頭の中だけのことで絵を画こうとしたのです、おすげを見返そうなどと考えたあまり肝心なことを見失っていたようです、恥ずかしいことをしました」
私は人の心を打つ絵が画きたかった。そのためにどうすれば良いのか、これまでその手段が分からずただ暗中模索を繰り返してきた。まさか私も遊んでいたわけではない。ただ、技術や技巧のことばかり考えていたように思われる。何を画くか、それはさほど問題にしていなかった。しかしいまになって、少なくとも私が心動かされず、感動もないものを画いてはいけないということは分かった。
「またしばらく女房には金は渡せそうにはありませんね」私はあきらめたような声で云った、「十年以上も続けて、やっとそんなことに気づいただけとは、なんとも情けない話です」
「よいではないか、それに気がついたのだから」綿貫さんはそう云って立ち上がり、袴を払った。
「間違いに気がついたということは、良くなるための手づるを得たということだ、何かに気づいたのなら、変われる、 それが取り返しのつかないことでない限りな」
綿貫さんは口をつぐんだ。
「さすがに日が傾くと冷えるな、少し早いがうちへ来ないか、ちょうど酒を買ってきた帰りだ」
そう云った綿貫さんはもう歩き始めていた。
私は自分の中でもう一度綿貫さんの言葉を繰り返した。
気がつけば変われる。
私は綿貫さんの瓢々として歩く後ろ姿を感謝の気持ちを込めて見つめた。
「それで桜を画くのはやめちまうって」その後綿貫さんの家で、話を聞いた伝助はむくれたようにそう云った、「もったいねえなあ、不本意ながらも苦労をかけてる女房のために肌を脱ごうなんて、近頃にないいい話だぜ」
「立一が自分の信じる道を行こうというんだ」綿貫さんがそう云った、「自分の画く絵の方向が見えてきたと云うのだからむしろ喜ぶべきではないか、今日はその祝いのつもりで飲んでいるんだぞ」
「綿貫さんはそれでもかまわねえんでしょうが、おすげさんとしてみれば、やはり先生の絵が売れたほうが嬉しいんじゃないでしょうかね」
「目先の利益に捕われればそういう考えもあるだろうが、いま金のために自らをおとしめるようなことはせずに、新しく見えてきたもののために苦労をしたほうがいい」綿貫さんは間を置くというふうに、いつものように手酌で酒を注いで云った、「伝助も職人なら分かるだろう、納得のいかない腕で中途半端な仕事をするより、一人前の腕になってから一流の仕事をしたほうが、長い目で見れば何かと得をするはずだ」
「いやね、それが分からねえ道理はねえんですが、おすげさんとしてみれば、それはつらいところだと思うんですがね」
私と私の女房のことで、二人が云い合いをして、当の本人がそれを横で聞いているというのもおかしな気分である。しかし二人ともそんなことは気にせずに話を続けていた。
「うん」綿貫さんは良く考えようとするようにうなずいた、「そう云われると、立一の立場でしか考えていなかったかもしれない、しかしおすげさんも十年亭主の出世を信じて見守っているわけだし、それにいま現在ひどく金に困っているわけでもないのだから、おすげさんも分かってくれるだろう」
「そりぁね、うちの女房みたいのまで雇っているんですから、金にはそう困ってねえとは思うんですがね」
伝助は云いたいことがあるのだが云い渋っているという様子だった。伝助とすれば云いたいこともあると思われる。何しろ家は隣で、私とおすげのやりとり(おもにおすげの私に対する悪態)は日常的に聞いているだろうし、おみよさんからおすげの愚痴は嫌というほど聞かされているはずだからである。
伝助も云っていたが、おみよさんはおすげのもとで働いている。というのも、おすげが髪結い床という商売をしていて、それをおみよさんに手伝ってもらっているという形なのだ。髪結い床は江戸ではそう珍しい商売ではないようだ。数少ない女ができる真っ当な仕事なのだが、この城下ではおすげしか店を出していない。それだけ需要が少ないというあかしであり、その証拠にこの川向に住んでいるし、二人で食べていくのがやっとである。もっとも私の画材に嫌でもある程度は金がかかるので、それがこの余裕のない生活の原因でもある。
「そんなもんですかねえ」伝助は首をかしげた、「どうだかなあ、先生もそう思うかい」
「おそらく、おすげは分かってくれないと思う」私は首を振ってそう答えた、「いま思うとおすげを見返そうとか、驚かしてやろうと考えたのも、たんに機嫌取りをしたいという気持ちが底にあったように思う」
「まさかそれだけではあるまい」
綿貫様はそう云った。
「しかしあの口うるささが少しでもなくなるなら、という気持ちは確かにありました」
「そりゃあ、おすげさんはおっかねえからな」
伝助がそう云うと、綿貫さんは何か思い出したのか、ぷっと噴き出して云った。
「それでも昔は口数の少ないおとなしい人だったらしいぞ」
「それが信じてもらえないのは仕方ありません」私は不機嫌にそう云った、「それでも、私のそういう気も知らず、近頃毎日機嫌が悪いのは事実なんです」
「ほう」綿貫さんはにやりと笑った、「近頃機嫌が悪いのか」
「そうなんです」私は答えた、「私は、 まあ問題はありましたが、ともあれおすげのために金になるような絵を画こうとしていたんです、それは知っているはずなのに、いつもいらいらして当たり散らされるありさまです」
私は、仕事のことで上手くいかないことでもあるのではないかと、伝助に聞いてみた。伝助は何も聞いていないと云った。
「それはそうだろう」綿貫さんが云った、「いい神さんじゃないか、おすげさんは」
私と伝助は顔を見合わせた。
「たまに綿貫さんは分からねえことを云う」
伝助はそう云って首をかしげた。
その日から私は外をよく歩き回るようになった。これまでは何かの素描のために、例えば桜を画くために桜を見に行くことはあったが、大部分の仕事を家の中でしていた。私は、これからは本当に私自身が心動かされたものしか絵にしないつもりであった。そして、私は何かを感じ取ろうとしてあちこちを歩き回った。そうしているうちに私は気が滅入ってきた。一体私はこれまで何をしてきたのかと、自分自身にあきれるばかりであった。
私は十年あまりも、自分なりに苦心してきたつもりだった。師に学ぶ必要がないと思ってからも四年たっている。私はなんとも云えず情けなくなった。
私は綿貫さんの一言で、感じたものを画かなくてはいけないと気がつき、人や自然の色々なものに心を向けて、何かを感じ取ろうと歩いた。何ということであろうか、美しいものはどこにでもあった。道端に生えている名も知らぬ草花、どこにでもいる雀でさえ、見ようとする心を持っていればどれだけでも美しく見えた。町中の噂話、貧しい人々の暮らしの中にも、心打たれる事柄はあった。私は、これまでそれを見落としてきた。狩野派の豪華に見せる金持ちのための、ありきたりな題材の絵、師匠の呉春先生の絵にさえ反抗しながらも、私はその枠を出ていなかった。私は、松を画かなかっただろうか、梅は、鶯は、私はそれを画いてきた。見たこともない虎でさえ画いた。構図や筆遣いを変えただけで、私は同じことをしていたのだ。わびださびだで雀を画くものはあっても、雀の美しさに心打たれて画かれた絵がどれだけあるだろうか。
「気づいたのなら変われる」
綿貫さんはそう云った。それは本当である。私はいくらでも画ける気がした。草花も、鳥も、虫も、人も、私は私の感じたものを飾らずに画けると思った。
そして私は画いた。特別な技術を使うこともなく、変にひねくり回したり、派手に見せたり、風流の枠に入れたりせず、私の感じた美しさをそのままに伝えられるように、そこに苦心して画いた。発想の面白さや、見るものを驚かすような構図がない分、かえって難しく思えた。どこにでもあるものを画くわけであるから、ただ美しいと思ったものをそのままに画いても、見慣れたものをわざわざ絵にしたに過ぎない。それでは見る者に何の感動も与えないのだ、私が何を美しいと思ったのか、何に感動を覚えたのか、私のその心を絵に写さなくてはいけなかった。
それにはやはり時間がかかった。夏まではただ平凡なものを平凡に画いただけの絵しか画けなかった。しかし私は、この時期は一日に三枚も四枚も素描を画くことができた。そうして数をこなして、工夫をしていくうちに、人に伝えるための手段が見えてきて、その年の冬には、どうにかものになりそうな、私なりの自信は得た。人や物を見る目にもかなりの自信を持ってきた。
そう、その冬であった 、その自信を吹き飛ばすようなことがあった。綿貫さんの死がそうさせたのだ。しかし話は、その少し前からしなくてはいけない。
二の一
その年の春、私はおすげのために、金になる絵を画くことを宣言した。前にも話したように、おすげは娘時代からは見る影もなく、体中に脂肪をつけ、何かにつけて私に口うるさく文句を云うようになっていた。私は気持ちは負けないが、根気があるほうではなく、おすげにくどくど云われるぐらいでちょうどよく絵に向かえたし、私は正直に云っておすげにかなりの熱をあげた口である。どこにでもいるような神さんになってしまっても、私なりに妻を大切に思っていた。いつまでも自分の絵がつかめず、おすげに苦労のかけどおしであることにはかなりの負い目と自責の念を持っていた。それで、私は金になる絵も画かなくてはいけないと一つの決心をしたのである。なれないことではあるし、筆は進まない。おすげは絵が進まないことが気にいらないらしく、毎日のように激しく私を責め立てた。金になる絵をやめたときも、私はよほどのことを云われる覚悟で、おすげにそのことを話した。
「ああ、そうかい」
おすげはそれしか云わなかった。よくあることなのだが、私がおすげの気に触るようなことをして、またどやされるとそれこそ心をすり減らして恐る恐るおすげの前に行くときほど、おすげはけろりとしている。かえって、「今日は少し遅くまで飲んでしまった」などと気楽に構えているときのほうが、猛烈におすげの攻撃を受けたりするのだ。どうも分からない、女というものはそういうものなのか、私にはおすげの気持ちは分からなかった。
その時も、おすげはまるで私が一文拾ったと報告したかのような無関心な様子で、「ああ、そうかい」である。私としては、三日も何と云うべきか思い悩み、綿貫さんや伝助と詳しい打ち合わせまでしたのだ。そして、その後はいくらか機嫌は良いように思われた。相変わらず口うるさいところはあったし、当然私の頭が上がらないことに変わりはなかったが、少しは、私を責めることが薄らいだように思えた。
「そこはさすがに夫婦なんだ」
いつものように綿貫さんの家で酒を飲みながら私がその話をすると、伝助はそう云った。
「先生は筆の進み具合でずいぶん機嫌が違う、長年連れ添ったおすげさんに以心伝心でそれが伝わっちまうんだ」
「立一は絵が上手くいっているときは、いくらでも絵の講釈をするし、駄目なときはろくに口をきかんからな」
綿貫さんはその時、にやにやしてそう云った。
そうかもしれなかった。私が絵が順調にいっていると思うときはおすげもそううるさいことは云わないし、行きづまっているときはうんざりするほどとやかくと云ってくる。伝助の云うように、私の気分とつながっているかのようだ。人と人とは鏡のようだと云う。夫婦ともなれば、もっとじかに相手の心が反映するのかもしれない。
その年の十一月に私は一枚の絵を画き上げた。カラスの絵である。ある日私はカラスを見た。川向から城下に行くには、柳川を渡らなくてはならない。そこにかかる橋は中之橋という橋ただ一つで、北西へ曲がってから大きく東へ折れるように城下へその道は続いている。私は中之橋を渡ってすぐのところでそのカラスを見た。右手にこんもりとした雑木林があり、その丘のてっぺんに源永寺という禅寺があった。私はそこに行くつもりで橋を渡り、左に広がる荒野に動くものがあったので、見るとはなしにそちらを見た。
晴れた昼下がりで、少し風が強かった。どこかの子供が置き去りにしたのだろう、壊れてうち破れた凧が無惨に転がっていたのを覚えている。骨の折れた凧の残骸が、風に吹かれてばたばたと音を立てていた。カラスはうさぎか何かの肉を食いちぎっていた。真赤な肉をくわえたまま、私と目が合った。カラスはきっと私をにらみつけ、ぱっと翼を拡げた。私を威嚇するかのように、体をすっと伸ばし、翼を大きく拡げた。その後すぐ、肉をくわえて飛び去ったが、私の目には翼を拡げた雄々しく美しい姿が強く残っていた。ほんの一瞬の姿だったが、その羽根は強い光を受け美しく七色に輝き、真赤な獣の肉も、平然と当たり前の食事としてくわえた姿の前では残忍な印象はなかった。
私はすぐに、持ち歩いている紙と筆を取り出し素描をした。目に焼き付いているカラスの姿をそのままに紙に写しながら、私の頭にはそれを絵にしたときの構図が浮かんできた。私はその場で下絵を始めた。 しかし、風が強く紙は風にあおられてじっとしていてくれない。その上冷たい風で手がかじかんで筆も思うように取れなくなってきた。心急くがしかたなく、私は速足で源永寺に向かった。
源永寺は小さな寺で、小僧はいなく和尚が一人いるだけであった。庭らしい庭はなく、建物も仏像も特別どうということもないが、和尚はなかなかの人物に思えた。私は十日に一度くらいの割合で和尚に話を聞きに行っていた。年は八十に近いらしいが、七十過ぎには見えず、若い頃は名のある寺で修業をしたそうである。
和尚は火を入れた火鉢を用意してくれ、茶を入れてくれた。私は簡単な礼を云って、すぐに絵に取りかかった。構図は私の頭の中でできあがっていた。斜め上から見た絵で、カラスはまっすぐこちらを向いて大きく翼を拡げている。肉をくわえてこちらの視線よりもさらに上を向く。肝心なのは、その姿の雄々しさ、そして羽根の美しさである。光に気をつけなくてはいけない。背景は雪のほうが良いであろう、くわえた肉の赤さも強調できる。下絵は三枚でほぼ満足のできるものになった。これを元に色をつけるのだが、使う色や色合いは完全に頭の中にある。
「ほう、これはなかなか」和尚は、私が筆を置いたのを見て、私の横に座って云った、「カラスがこれだけ力強く見えるとは、ふむ、まるで鷹の絵のような雄々しさだ、しかし、カラスというところが、これはいいですな」
「そうですか」
私は照れくさいような気になりながら、色遣いについて和尚に話して聞かせた。和尚はできあがったらぜひ見せてほしいと云ってくれた。この和尚は世辞は云わない。以前に素描を二三見せたことがあり、その時はあまりいいことは云ってくれなかったが、正直な意見を聞かせてくれた。
「今までのはどこかこう、早川さんの思いのほうが強かった」和尚はそう云った、「それは理解できた、しかしそれだけで、早川さんが持ったであろう感動を同じように持つことはできなかった、これはそのままに伝わってくるように見えますな」
和尚の云ったことは私がその頃気にしていたことであった。この絵が私が感じたものを見る者にも(少なくとも和尚には)感じてもらえたというのは大きな成果であった。同じものを見せても人によって美しいと思うかどうかは意見が違う。美しいと思ったものをありのままに画いても私が何を美しく思ったのかは伝えづらい。そこに私がなぜ美しいと思ったのかという心を表わすには、嘘が必要であった。嘘というと嫌らしいもののようだが、嫌らしくない誇張、構図の工夫が必要であった。私はこの絵で、その一つの方法を掴んだように思った。
私は和尚にきっと完成したものを見せると約束し、早々に家に帰った。ちょうど家に着いた頃に六つ(日没の時刻)になり、私は綿貫さんのところに顔を出した。座敷に上がらず、土間から言葉を交わしただけであるが、私はその時綿貫さんと話したことを忘れてはいない。私は、日課となっている夜の酒の席に、今日は参加できないと告げた。
「なんだ息を切らせて、顔が高揚しているじゃないか」綿貫さんはそう云った、「さては良いことがあったな」
「分かりますか」
「うん、そうか」綿貫さんは大きくうなずいた、「おすげさんについに子ができたか」
「そんな、変なことを云わないでください、そんなことじゃありませんよ」
綿貫さんは笑った。「その慌てぶりは怪しいぞ」
「違います、絵です、絵のことです」
「まあ、おおかたそんなことだと思った」
「かないませんな、分かっていたなら脅かさないでくださいよ」
「それで、どうしたんだ」
「はい、やっとこれだと思える絵が画けそうなんです」
「ほう、それはめでたい」綿貫さんは目を輝かせた、「さっそく今日は祝い酒だ、何かうまいものでも買ってくるか」
「いえ」と云って私は手を振った、「これからすぐにでも色をつけたいと思っているのです、これが仕上がるまではしばらく顔を出せません、うまくいったときはお言葉に甘えて祝っていただきます」
「しばらくかかりそうなのか」
「そう、思った色が出せれば、二日もあれば」
「二日か」
「はい、あまり大きな絵にはむかない図柄ですから、日はそうかからないと思います」
「分かった、息抜きがしたくなったらいつでも来てくれ」綿貫さんはそう云った、「早く見たいものだな、あまり手間取らずに仕上げてくれよ」
「私もそうするつもりです」
「すると今日明日は伝助と二人きりか、しかたない、つきあいの悪い男の陰口に花を咲かせるか」
意地の悪いことを云わないでください、と云って、私は別れの挨拶もそこそこに家に帰った。そしてそれが、綿貫さんと交わした最後の言葉になった。
絵は、大まか私の思った色が出せた。ただ、カラスの色が思うようにいかなかった。黒ではあるが光を受けた部分が美しく光る様子がうまく出せなかった。黒く艶のある羽根の感じを出したかったし、その羽根の中の何枚かが、光を受けて玉虫のように輝くのである。地はあくまで黒なのだが、青や緑に光る感じを出したかった。それが思っているように出ないのだ。三日たったが、どうしてもそこがうまくいかなかった。
四日目に私は顔料を見に城下へ行った。風流と噂の高い藩主のおかげで、近頃は良い顔料が城下に出回るようになった。それだけ絵師が増えているということでもあり、私としては競争相手が増えたということだ。しかし、江戸でなければ手に入らないような新しい顔料が手に入ることは嬉しいことである。私は四つの顔料を買い求め、さっそく試してみた。その日は色の具合を試すだけで終わってしまった。
次の日、私はようやく色を掴めた。艶のある黒の塗り方はできていた。試しにその色を入れてみたが、それは良くなかった。くすみすぎるのだ。玉虫のように派手ではいけない、かと云って光を受けて輝いていることが分からなくてもいけない。輝きを出そうとするとカラスの羽根には見えず、暗くすると光を反射しているようには見えない。
二の二
私はいよいよ頭を抱えた。そうこうしているうちにおすげが帰ってきた。
「早かったな」
私は慌てて立ち上がった。私がこの絵を始めてから、私は一度も食事の支度をしていなかった。
「すぐに支度をするから」
「いいよ」おすげは手を払った、「そんなことだろうと思って弁当を頼んできたんだよ」
「すまない、いま片づけるから」
「まったく、男ってどうしてこうだらしがないのかね」そう云っておすげはさんざんに散らかった部屋を見渡し、丸めた紙屑を拾いあげた、「初めから捨てるつもりで丸めてるんだろう、それをどうしてこうあっちこっちにぶん投げるんだろうね」
「いやいや、それは私がやるから、おまえは座っていてくれ」
「だらしがない声を出すんじゃないよ、下男でもあるまいし、女房にぺこぺこして恥ずかしくないのかい、ほら、邪魔だからどいてくれよ」
おすげは舌打ちをして云った。
「まったく、あんたは男なんだからどんと構えてみせたらどうなんだい、金になるかならないかは別にしても、男として生涯をかけた仕事をしているんだろ、それとも何かい、あたしのひもの気分で、一生道楽で絵を画くのかい」
「いや、それは、そんなことはない」
「だったらそこでじっとしてろって云うんだよ、まったく」
私はおすげにどやされて小さくなった。私は確かに仕事をしているつもりだし、それを恥だとは思っていない。しかし、紛れもなく女房に食わせてもらい、おすげの稼いだ金で絵を画いている。その負い目はどうしようもなく私の上に覆い被さっていた。
私がこの絵に夢中になっていたため、このところ夕餉はいつもおすげが準備してくれる。私は家事をすることで、負い目をやわらげようとしていた。仕事で疲れて帰ってきたおすげに家のことをさせるのはいくらなんでも気が引けるのだ。
「すまないな」私はおすげの持ち帰った飯を食べながらそう云った、「いま行きづまっているところさえ何とかなれば、また家のことはするから」
「馬鹿なことを云うんじゃないよ」おすげはあきれたように箸を膳へ叩き付けた、「あたしはてっきり、その絵であんたが世に出ていくつもりなんだと思ってたよ、あきれるじゃないか、それが何を云うかと思ったら、また家事をするからときやがった、あたしはね、立派な絵師になると云うあんたの言葉を信じて祝言を挙げたんじゃないか、それがいまじゃ飯炊きに満足しちまってるんだ、冗談じゃないよ、私が何のために苦労をしてると思ってるんだい」
「いや」と云ったまま、私は何も云えなくなってしまった。
「云い返すこともできないのかい」おすげはそう云って、茶碗を持ち直してふてくされたように食べ始めた、「結局その絵も、いつもみたいに良くなかったとか云って破り捨てるんだろ」
「そんなことはない」私は云った、「この絵はいつもとは違うんだ、この絵で確かに何か掴んだ、これからどうやっていけばいいのか、それを掴んだんだ、あと少しでできあがる、あと少しなんだ」
「するとそのあと少しとかいうので行きづまっているわけだ」
「そうなんだ」
めずらしくおすげが私の絵のことを話題にしたので、私は何がうまくいっていないのかおすげに話した。
「何がなんだか、あたしには分りゃしないよ」おすげは顔をしかめて机の上を片づけた、「ようはその色が墨でもかぶったみたいに煤けてりゃあいいんだろ、そこが難しいことなんだろうけど、何だかね」
「そうなんだ、その墨 」と私は絶句しておすげの顔を見つめた。
「なんだい」
「それだ」
「何を云ってるんだい、どうしたっていうんだい」
「それだ、それだ」私はそう云うと、すぐに仕事部屋に駆け込んで絵に向かった。
おすげの何気ない言葉がこれまで思い悩んでいたことを打ち破るきっかけになった。私は玉虫のように輝きを持たせたままの色遣いの上から、墨を塗った。それは黒い羽根が光を受け、かすかに七色に光っているように見えた。私が思い描いていたものはこれであった。
「できた、これだ」
私はおすげに駆けより、肩を揺すった。
「どうしたっていうんだい、さっきから」
おすげは気味悪そうに私の手を押し退けた。
「おまえのおかげで道が開けたんだ」私は興奮して云った、「おまえが墨でもかぶったようになっていればいいと云った、その通りだった、それでうまくいったんだ」
「知らないよあたしは」おすげはそう云った、「あたしなんかの云ったことでできたんなら、初めからできることじゃなかったのかい」
「いや、おすげ、おまえのおかげだ、一人でやっていたらいつまでもそういう考えは浮かばなかったはずだ、これでできる、これなら今日中に仕上げることができるぞ」
私は上に塗る墨の濃度をいろいろ試すことにした。より自分の描いていたものに近い色になる濃さを探った。
「先生いるかい」
私がそうやって墨の具合を試しているとき、伝助が戸口を開けて声をかけた。
「綿貫さんが呼んでるらしいよ」土間からおすげがそう云った。
私はいいところを邪魔されたような気になりながらも、腰を上げて仕事部屋を出て土間へ降りた。
「綿貫さんがどうしても先生を呼んで来いって云うんだ」伝助は酔って赤い顔をしてそう云った、「なんでも二三日のうちに仕上がるって云ってたそうじゃねえか、もう五日になるから首に縄をつけてでも連れてこいって云うんだよ」
「今日はだめだ」私はそう云った、「いま最後の砦にかかってるところなんだ、今夜一晩あれば何とかなりそうなあんばいなんだ、いまここから離れるわけにはいかない、綿貫さんには伝助からそう云っておいてくれ、明日にはきっとうかがうから」
「そうか、それじゃあしょうがねえなあ」伝助は頭をむしるようにしてそう云った、「なんだか今日は祝宴みたいに肴をたんまり用意してるんだ、二人じゃ食い切れそうもねえくらい豪勢な料理がたんまりあるんだぜ、もったいねえからさっさと仕上げてこっちに来なよ、待ってるからよ」
「そんなご馳走があるってことは、またあれか」
「いや、今日はどこにも出かけてない、なんだか分からねえが綿貫さんもご機嫌だ、それでも二人じゃ話もはずまないから、なるべく早めに頼むよ」
そう云って伝助は戻っていった。綿貫さんはあまり肴をつままずに酒を飲む。私と伝助は飯を済ませていくので肴はなくても良かった。それなのに今日は豪勢にやっているようだ。私はまた、てっきり綿貫さんが道場破りのようなことをして金を得たのだと思った。
綿貫さんは何の仕事もしていない。金が無くなるとふらりと出ていき、まとまった金を持ってくる。それとなく聞いてみたが、うまくごまかされた。しかし、どうやら道場破りのようなことをしているということを伝助が掴んできた。剣術の腕前がよほどであるらしく、城下はもちろん、近隣の道場でも、綿貫さんが顔を出すだけで丁重に金を出して帰ってもらおうとするらしいのだ。伝助も噂を聞いただけというのだが、風貌は正しく綿貫さんであったらしい。
しかし、今日はどこにも出ていないと云うし、これまでいくら金があるようなときでもそんな贅沢はしなかった。私は少し気にはなったが、それ以上にうまく行きそうになってきた絵のほうに気を取られていた。
上に重ねる墨は、ちょうどいい濃さを見いだした。私はもう一つ工夫をすることにした。特に光があたる部分は、さらに薄く作った墨を塗り、光の当たっていることを強調するのである。元になる墨が付かないように、上から紙を当て、紙を当てた部分に薄い墨を塗る。こうするといっそう光の当たっていることがよく分かった。しばらく私は、またその具合を確かめるのに時間を取られた。
その間に伝助が二度目の催促に来た。私はおすげに断るように云ってもらった。最初に伝助が来てから一刻(二時間)ほどの時間がたっていたようだが、私にはその時間はわずかなものにしか感じられなかった。それだけ集中していたのであろう、私はまたか、と顔をしかめた。「あんた」おすげが顔を出して私に呼びかけた、「行ってやったらどうだい、絵が逃げるわけじゃあるまいし、綿貫さんがかわいそうになってきたよ、あんたのためにうまい酒や肴を用意しているって云うじゃないか、こう何度も呼びに来てもらって行かないじゃ義理に欠くってもんだろう」
「綿貫さんには後でどうにでも詫びはする、しかしいまは駄目だ、今夜のうちに終わるんだ、何としても終わらせたいんだ、すまないが伝助にそう云ってくれ」
おすげはあきれた顔で出ていき、伝助に私の言葉を伝えた。まだ伝助とおすげが何かやりとりをしているようだったが、私は自分の仕事に戻った。
後から聞いたことだが、伝助が綿貫さんに私が行けないということを伝えると、綿貫さんは深く溜め息をつき、未練だったなと云ったそうである。
じゃああっしはもう帰りますんで。伝助は戸口でそう云った。
「伝助」
綿貫さんはそう呼びかけて、伝助の顔をじっと見つめたという。
どうかしましたか。
いや、楽しかった、ありがとう。
そんな、礼を云うのはこっちですぜ、先生が来なかったのは残念ですが、こんなうまいものを食ったのは初めてだし、楽しかったですよ、じゃあまた明日にでも。
うん、立一にも。綿貫さんはそう云った、立一にもよろしく云ってくれ。
それが伝助が聞いた綿貫さんの最後の言葉であった。
私の絵は、納得のいく色ができたので、いよいよカラスの羽根に色を入れ、夜更けには完成した。私は行灯の灯を明るくし、できあがった絵を光に照らしてよく見た。それは私の頭で思い描いていたものより、良くできているように見えた。完成したという満足から、ひいき目に見ていたのかもしれないが、私は十分に満足した。これなら世に出せる、そしてこれが画けたのなら、私は世に出てもやっていける、私は深い充足感の中で、その場でいつしか眠ってしまった。
私は背中に掛けていた綿入れに包まれるように眠っていた。目を覚ましたのは空が明けてきた頃で、寒さで目を覚ました。もう雀が鳴きだしていた。私は震えながら起き上がり、夜中に仕上げた絵を見た。間違いなく絵はそこにあり、私は吐く息を白くさせながら、心ゆくまでその絵を見つめていた。隣の家は起き出したようで、小さく話す声や、朝餉の支度をする音が聞こえてきた。
まだ早いかもしれないと思いながら、それでも綿貫さんは朝が早いからと、私はできあがった絵を持って外へ出た。昨日の詫をしなくてはいけないが、絵が完成したと云えば、綿貫さんは喜んでくれるだろう、私はそう考えていた。
美しい朝だった。空には雲はなく、寒さで磨かれたように晴れ渡り、朝日はいっそうの輝きを持って源永寺のある小高い丘から顔を出していた。
私は引き戸を開けて、「起きてますか」と声をかけた。
返事はない、私は土間へ足を踏み入れた。静かだ、私は居間の戸を開けて驚いた。昨晩祝宴のように派手に飲んだにもかかわらず、部屋はきれいに片づいて、ちり一つないと云っていいほどであった。私は何か不吉な予感がして奥の間の襖を開けた。綿貫さんは座った姿勢のままうつ伏せに倒れていて、畳は血であふれていた。
綿貫さんは切腹をし、その場で首を切ったようである。まだそれほど時間はたっていないのであろう、初めて嗅ぐ血の匂いが鼻に付いた。血も乾いていなかった。私が声にならないような叫び声を上げて抱き上げると、手にはべったりと血が付いた。
そこからどうなったのか、私はうまく思い出せない。こういうときは女のほうが強いようだ、おすげとみよさんが大声で何か指示を出しながら走り回り、大家を呼んだり、町方と話をしたりしていたように思う。私は自分の家の土間の上がりかまちに黙って座っていた。隣に伝助がいて、「昨日は別宴のつもりだった」「覚悟をしていたんだ」「誰にも気づかれずに死にたかったんだ」というようなことを泣きながら云っていた。私は何も考えることができなかったし、何を思うこともできなかった。
綿貫さんが自害をするなどということは、話だけであれば私は決して信じることはできない。しかし私は、綿貫さんの死を目の当りにしている。ありもしないことを見せられて、私の頭は混乱していた。ほとんど思考の停止した頭で、「信じられない、そんなことはない」と繰り返し、おどけたようにして人を笑わせる綿貫さんの姿が次々と浮かんでくる。そうかと思うと、血の海の中でうつ伏せに倒れている姿が、鮮明に現れてきた。
遺骸は源永寺に葬られ、初七日が済んでから初めて、私は人心地がついた。私はあらためて私の画き上げた絵を持って、源永寺へ行った。綿貫さんの位牌は、引き取り手がないためひとまず本堂に置かれていた。
「完成しましたか」
和尚はそう云って私の絵を受け取り、綿貫さんの位牌の前に置き、経を唱えた。
「見せてもらってもよろしいか」和尚は手から数珠を外してそう云った、「良い出来ですな」
「一番始めに、綿貫さんに見せるつもりでした」
和尚は私に絵を返そうとした。
「いや」と私は云った、「この絵はできれば綿貫さんに差し上げたい、私が動転していたもので、いまとなっては一緒に埋葬することもできない、そうかと云ってこの絵を見るのがいまはつらいのです、勝手ですが、できれば御坊にもらってほしい」
「寺に飾ることはできないが」和尚は云った、「よろしい、では一時お預かりいたしましょう」
「殺生の絵では迷惑でしたね」私はそう云った、「私はもうその絵のことは思い出したくないのです、和尚に差し上げたからには、焼くなり捨てるなり、好きにしてもらってかまわない」
寺には似合わないが、この絵は好きだ、そう和尚は云ってくれた。 私が一人になり、位牌の前にいると、そこにいると聞いたのであろう、伝助が来て、一通の手紙を見せた。それは綿貫さんが私と伝助に当てた遺書であった。
「あんまり先生が衝撃を受けていたものだから、見せるのをためらっていたんだ」
伝助はそう云って私に手紙を渡した。
「もう一通、江戸にいるある人の奥方に当てたものがあったんだが、それは飛脚に頼んで送ってもらった」
「ある人いうのは」
「それを見れば分かる」伝助はそう云った。
「ところで、この位牌はどうするんだ、身寄りは誰かいないのか」
「本当に気が抜けちまってたんだな」伝助は云った、「家のことは何もその手紙にも書いてなかった、無縁仏で十分だということしか書いてなかっし、迷惑をかけるからということで、三両の金が一緒にあっただけだ、位牌は先生が受け取るって云って聞かなかったんだぜ」
「やはりそうか、夢の中でそんなやりとりをしたような気がしていたから、気になっていたんだ」
「夢って、 まあいい、読みなよ」
その手紙は簡素な文で、死の理由が簡単に書いてあり、私と伝助への詫が続いている。私たちへの詫のほうが長いくらいで、死の理由は詳しくは分からなかった。
「旗本だったってことと、道場破りは思った通りだった」私が何度も読み返し、手紙を閉じると伝助がそう云った、「しかしまさかあの綿貫さんが、友達を殺しちまったとはな」
「伝助は気づいていたか、綿貫さんは時々ひどく悲しい目をしていただろう」
「知らねえわけがねえよ、あの目をされたときには、こっちの胃の腑が絞られるようだった、しかしその後すぐ、とぼけたようなことを云うからそんなに気にはしなかったんだ」
「なぜその朋友を斬ってしまったのかは書いてないが、きっと引くに引けない理由があったんだろう」
彼の妻君に、いつか許してもらえるのではないか、そのうち分かってくれるのではないか、そういう気持ちで江戸を離れた。手紙にはそう書いてあった。 しかしそれは拙者の身勝手な思い込みにすぎないことに気づいた、友を斬ったことに変わりはなく、法が許しても、その罪が消えることはない、拙者はただ、死ぬ時期を探して暮らしていた、今日は命日、彼を殺した日になる、この日に死ねることをうれしく思う。
命日だったのだ。あと一日、一日でもそれが遅ければ、私はそう思わずにはいられなかった。
「これにも書いてあるが」私は目をつむり、心を平静に保ちながら云った、「一度伸ばしてしまった命を、いつ絶つか、そればかり考えていたんだ、あの悲しい目はきっと、綿貫さんの素顔だったんだろう」
「そんな馬鹿みてえなことがあるのか」伝助は怒ったようにそう云った、「法では許されるって云うじゃねえか、おれたちと一緒にいて楽しかったって云ってるじゃねえか、合点がいかねえよ、先生、侍っていうのはそういうことをしなくちゃいけねえものなのかい」
「侍のことは分からない、しかし」私は云った、「しかし綿貫さんは、侍としてではなく、人として自分自身を許すことができなかったんだと思う、綿貫さんは剣術の腕が第一級だったんだろう、そのおかげと云うべきか、果たし合いでは斬られなかった、だが、代わりに友達を殺してしまった」
短くなったろうそくが、ぱっと大きく炎を上げて消えた。私は新しいろうそくに変え、位牌を引き寄せて続けた。
「綿貫さんは、きっと自分の腕を恨んだでいたはずだ、憶測でしか云えないが、斬られる側のほうがましだったとさえ思ったかもしれない、それなのに結局、剣の腕でしか金を稼ぐことを知らなかったんだ、友達を殺した腕で、暮らすための金を得ていた、友の仇に食わせてもらうようなものだろう、これはきっと、私たちが思うよりも苦しかったんじゃないだろうか」
伝助もそんなことは分かっていたのだろう、うなだれたまま黙ってしまった。分かっていても、どうしても口に出さずにはいられなかったのだ。
「おりゃあ、楽しかった」伝助は涙声でそう云った、「綿貫さんも楽しかったって云うじゃねえか、それだけでいいじゃねえか、それだけでよ」
二の四
綿貫さんの死は、私と伝助に云い知れないほどの大きな衝撃を与えた。綿貫さんは手紙の中で、私と伝助のことを心許せる友と呼んでくれ、その友を裏切るような形になるのではないか、それだけが気がかりだと書いていた。私たちは始めのうち、綿貫さんが自身の苦しみを何も云わなかったこと、そしてそのまま何も云わずに自刃したことを恨むような気持ちがあった。とくに伝助はそれを悲しんでいた。しかし、綿貫さんがそれを一番気にしていたことを思いやり、私たちはそのことは云わないように努めた。
私は私で、綿貫さんを恨むような気持ちよりも、私自身を責める思いのほうが日に日に強くなっていった。なぜあの最後の日に、私は何度も呼びに来てくれた綿貫さんの元へ、少しでも顔を出さなかったのか、それが悔やまれた。自分の足で出向き、それで直接綿貫さんに断わりを入れなかったことを、何度も後悔した。あの絵を見るとその思いが強くなるばかりなので、私は和尚に絵を渡したのだ。
「あんたが悪いわけじゃないだろう」おすげは何日も気の抜けたようになっている私にそう云った、「綿貫さんは死ぬと決めていたんだ、あんたが殺したわけじゃあるまいし、いつまでくよくよしていりゃ気が済むんだい」
「それは分かっているんだ、だがいまは、あの時こうしていれば良かった、こうしていたらどうなっていただろう、そんなことばかり考えてしまうんだ」
「考えていたって、まさか綿貫さんが生き返るわけじゃないんだ」
「しかし、もしあの時綿貫さんに会っていたら、万が一にも綿貫さんを止めることができたかもしれない」
私は飯台の前に座り、空になった湯飲みを転がしながらそう云った。「綿貫さんは始めからあの夜は最後の別れのつもりだったんだろ」おすげは私から湯飲みを取り上げてそう云った、「それまでずっと死ぬつもりだったことが分からないで、その時だけ分かるなんて道理があるかい」
そうなのだ、きっと綿貫さんは最後まで悟られないようにしたであろう。伝助は確かにその夜はいつもと少し様子が違っていたと悔しがっていた。しかしそれは後から思えばということであって、私もあの夜が別れの夜と分かっていれば、何を置いても盃を交わしに行ったということと同じである。
分からなかったのだ。よく見ていれば分からないはずはなかったのに、綿貫さんのおどけた部分しか見ずに、その苦しみに気づこうとはしなかったのだ。私はその頃、一人前に人を見ることができると思っていた、それがとんでもない思い上がりであることを思い知らされた。 私は綿貫さんのおかげで、人々の中や、ごくありふれた景色の中に何かを感じていくことの大切さを知った。そしてそれができるようになり、そこから生まれた絵を完成させた。綿貫さんの死は、私が何かを感じた気になって一人で満足していただけであることを思い知らさせた。私は綿貫さんの本当の心を、おそらく当時一番近くにいた人間の一人にもかかわらず、分からずにいた。私はいっぱしに人の感情を感じ取っていた気になってた。死んでからなお、綿貫さんはそのことを私に教えてくれた。
私はしばらく絵筆を持つことができなかった。過ぎたことを悔やんでもしょうがない、私がそう割り切ることができたのは、年が明け、春が終わりになろうかという頃であった。綿貫さんの四十五日もすんでいた。しかし私は、おそらく死ぬまで、綿貫さんの苦悩に気づくことができなかった自分を責め続けるであろう。
「間違いに気づけば、変わることができる」
綿貫さんのその言葉はいまも私の中にあり、その言葉がまた私を絵に向かわせた。私は自分を責め続けることで、二度と同じ轍は踏まないように慎重になることができた。そのため、以前のように一日三枚も四枚も絵を画くことはできなかった。
初夏になり、私はまた絵を画くために外を歩き回った。ただ、何かを感じたとしても、本当に感じたのか、うわべだけではないのか、何度もそう自分に問いかけ、本質を逃さぬように努めた。深く心に残ったものはすぐに素描したが、しばらくその絵のことを自分の中でかえりみて、一月はそれ以上手は触れずにいて、間違いないと思ったものだけ絵にした。多くのものは一月待つまでもなく色あせてしまった。一枚の絵を画くのにも、以前なら二十日もあればできたようなものも二月近くかかるようになった。
そしてまた、私は人を画くことが増えた。その年の十二月までに、五枚の絵を画いたが、そのうち三枚は人の絵である。人の心を絵にするのは難しい。しかし、綿貫さんの目に、実は苦悩が表われていたように、人のちょっとした仕種や表情の中に、人の心を表すことができる。同時に、自然の中にも、ほんの一瞬でも真実の姿を、その真の美しさを捕えることはできた。そうして画き上げた五枚の絵は、ある程度は納得のいくものに仕上げることができた。
しかし、まだ何かが足りない、題材でもなく、絵柄、構図、色、画き方でもない、画竜点睛を欠くと云うのか、肝心な何かが足りないように思われた。
私は私の画いた絵の感想をおすげだけに求めた。おすげは私の絵に対して否定的であるために、正直な意見を云ってくれた。一生を共にと誓った妻であれば、私の絵を全面的に認めてくれと願うこともある。本心を云えば、私が絵を一番に理解してほしいと思うのは、妻のおすげである。しかし、おすげの私に対するきついもの云いは、私にとって良い方向に働いているように思える。絵が行きづまったときなどは、私は絵に向かう気にならず、ついつい怠けてしまう。しかし、それがおすげに分かると何を云われるか分からない。うるさく云われるのが嫌なために、無理をしてでも絵を画こうとする。云い訳のようでもあるが、そのおかげで私は継続から生まれる力を得、画力も付けたと思う。
また、私は一つの絵を画き上げるととりあえず満足をしてしまう性格を持っている。絵が完成した満足と、絵の出来を混同してしまい、画き上げるたびに増長する。そして、そのたびに、おすげに云われる。「良かったじゃないか、あんたのやりたい絵がこれで完成したわけだろう」おすげは嫌みたっぷりにそう云う、「あんたはこういう絵が画きたくて苦労してきたわけだ、それだけ満足できるものができたならいいじゃないか、どこへでも行っていくらでも祝ってきなよ、金の心配はいいよ、家のものを全部売り払ったってかまやしないじゃないか、それだけのものが画けたなら、あんたがこれからいくらでも稼いでくれるんだろうからね」
これではいくら私が浮かれていても、台無しである。私はそのたびに、もっといい絵を画こう、おすげに何も云わせないような、本当に、自分自身が間違いなく納得のできるものを画いてやろうと思うのだ。
私に向上心がある限り、おすげの口うるささは力になり、嫌みは怠惰を許さない勇気になる。そんな中で画き上げたこの五枚の絵は、いくらかおすげを静かにさせたようだ。いまではおすげに口をはさまれる隙もなく絵を画き続けているし、画き上げたからといってそれで満足することもなくなってきている。自分の絵が見えてきたと云うのであろうか、何をすればいいのか、何がしたいのかはっきり分かるようになってきたのだ。
もう少し、何かが足りないその何かを掴めれば、おすげにはもう何も云わせないような絵が画ける、そう思えるだけのものができてきた。
三の一
この土地は比較的温暖な土地で、雪も少ない。この年の冬は特に穏やかな日が続き、城下では十一月の上旬に花を咲かせた梅があるという話もあった。十二月に一度この冬初めての雪が降ったが、多くは積もらずそれも翌日にはほとんど溶けてしまった。
その雪もすっかりなくなり、地面も乾いてきた日のことであった。私は仕事部屋で、いま取りかかっている絵の仕上げをしているところだった。顔も知らない手代風の男が突然やってきて、その男の主人が私の絵をどうしても見たいのだということであった。もし絵があるならすべて見せてほしい、と云ってきたのだが、私には何のことか分からなかった。
「どういうことです」
私はその男を家に上げることも忘れてそう聞いた。
「ですから、私どもの主人があなたの絵を気に入りまして、できればほかの絵を見たいと云うのです」
「待ってください、ほかの絵と云ったって、私はまだ誰にも私の絵を見せてはいない、いったいどうやって私の絵を気に入ったと云うのですか、だいたいあなたの主人というのはどこの誰です」
「主人は草紙屋の村田屋甚衛門です」その男はまじめな顔でそう云った、「あなたは絵師の早川立一という人ではないのですか」
「私は確かに、早川立一だ、それに村田屋も聞いたことがある、しかし、私の絵は浮世絵ではないし、いったいどういうことなんです」
「私は主人に絵を持ってきてもらうように云われただけです」その男は気が短いのか、いらいらし始めたようである、「あなたがどう思うか知らないが、私はそう云われてきたのだし、現に主人は源永寺まで出向いてきています、あなたにその気がないのなら、そう主人に伝えます」
「源永寺」私はそう聞き返して、和尚に渡した絵のことを思い出した、「待ってくれ、分かった、どういう用かは分かりませんが、とにかく絵は持っていきましょう、すぐ行きますから、先に行って村田屋さんに知らせてください」
どうやら和尚が何かの機会に私の絵を村田屋に見せたようだ。それにしても草紙屋が扱う絵は浮世絵である、それが何の用なのか。その男が私をからかっているわけではなさそうであった。ある絵をすべて持ってこいと云っていたので、私は訳が分からないままに画き上げていた五枚の絵を風呂敷に包んで、源永寺に持って行った。
「まずは絵を見させていただきましょう」
私が口を開くまえに、村田屋はそう云った。威厳と云うのだろうか、何か圧力のようなものを感じて、私は素直に風呂敷を解いた。
村田屋甚衛門は五十を少し越えたくらいの歳に見えた。もとは江戸で草紙屋をしていたが、江戸の俳句の会か何かでここの藩主と知り合い、気に入られてこの土地に移り住んだという。歳相応と云っていい中年太りであるが、それは醜いものではなく、むしろ貫禄があるというように見えた。顔の肉がたるまずに引き締まっているのは、彼の仕事への意欲をそのまま写しているようだ。
この人物なら間違いない。私はそう思って、何も聞かずに絵を見せた。村田屋は一枚一枚、じっくりと見ていた。和尚がその隣に座り、絵を覗きながら、にこやかにうなずいていた。
「思っていたよりもいい」村田屋は絵を置いて、眉を開いて私にそう云った、「偶然この和尚にあなたの絵を見せられたときも驚いたが、これはとんだ掘り出し物だ、市井にまだこれだけの人がいたとは、いや、世間は広い」
「断わりなく村田屋さんに見せたことは許してくれ」和尚はそう云った、「捨てるなり焼くなり好きにしろと云われたことに甘えて、勝手をさせてもらったんだがな」
和尚の話によると、村田屋は藩主に云われ絵師を探していたそうである。なんでも、大名仲間で絵を持ち合い、競い合うというのだ。城下の絵師の中で優れたものを一人選び、藩主はその絵を持っていくということである。
「しかも、その絵は名の売れたものではいけない」村田屋がそう後を継いだ、「あくまでその土地に住む絵師で、おかかえ絵師ではない無名の人物を選ぶのだ」
つまりこれは、その国の民衆がどれだけ心が豊かで、優れた人物が育つ環境であるかを競うものだそうである。よそから金を出して連れてきた絵師は参加の資格を持っていないというのだ。まずはこの国の中から三人を選び競い合い、勝った一人の絵をこの国の代表とするということである。
「こんなことはどこでもやっているだろう、大名同士の見栄の張り合いに過ぎないという意味では下らないかもしれない」村田屋はそう云った、「そのこと自体は下らないが、選出された絵師にとっては、何にせよこの上ない名誉になると思うのだ」
「私は分け隔てなく、この国の絵師という絵師の絵を自分の足で見て回った」村田屋は続けた、「どうにか、この国の代表として恥ずかしくない者を二人、私は選んだ」
しかし、もう一人が見つからない。殿に云われたのは三人を探せということであった。数ある絵師の中から三人に絞るのは骨が折れると思われたが、大名の遊びとはいえ一国の名誉をかけるともなると、これと思う者は少なかった、と村田屋は云った。期限もせまり、いたしかたないが、二人の中から選ぶしかないとあきらめていた。そのことをたまたま和尚にもらしたところ、和尚が、おもしろい絵師がいると云って、私のあのカラスの絵を見せた。一目で気に入り、私のことを和尚から聞き、すぐに使いを出したという。
「そういうわけで、この絵は預からさせていただけないだろうか」
「それは、その、この絵が、その、あれにということでしょうか」
私はあまりに意外な、思ってもいなかった、それこそ降って沸いてきたような話に動転していた。
「私はこの絵ならいけると思う」村田屋は自信を持ってそう云い切った、「この絵は新しさがある、新しさというものは目新しさと勘違いされやすいが、本物の新しさというのは、見た者が改めて、新たにその絵の中から自分なりに何かを感じることができるものをいうのです、新たな感動と云えば分かりやすいだろう、早川さんの絵にはそれがある、この中から一つ、さらに吟味したものを三つ目に推挙したいと思う」
「待ってください、ちょっと待ってください」
私はそう云って、和尚に茶をもう一服入れてもらうように頼んだ。
「この中からと云われると私は困る」私はそう云った、「そういうことであれば、改めてそのつもりで画かせていただきたい、それが無理なら、せめていま画いている絵にしていただきたい、これはあと二日もあれば終わります」
「それは無理です」村田屋は云った、「何しろ期限が明日なのです、今日中にいただかなくてはいけない、しかし、私はいまあるこの中の絵でも一番に選ばれる可能性があると思う」
私は和尚のくれた茶を一口すすった。
「しかし、私はこれらの絵にはまだ満足はしていないのです」私はそう云った、「これらの絵は私のしたいことを実現させるための工夫の段階の絵なのです、まだ手探りでいろいろ試している、そういう絵なのです、確かに、一つ一つはそれなりに画けていると思う、しかしまだ足りない、決定的な何かがまだ足りないのです」
「早川さんが謙虚なことは分かった」村田屋はそう云った、「理想が高いために、絵に満足しないことも、そのためいままで絵を世間に出していないことも分かりました、しかしそれは絵師としてのあなたの問題であって、ここにある絵の善し悪しとは直接的には関係がない」
「まあ」村田屋は私が口を開くのをさえぎった、「正直に云うが、私はあなたの絵を気に入ってしまった、あなたの絵は何としても三選の中に加えたい、私は殿に三つの絵を選ぶよう命を与えられた、私がその仕事をまっとうするためにはこの絵は外すことはできません」
「しかし」と私は頭を抱えた。
まさかこんなことになるとは思いもしなかった。いまの絵には本当に何かが足りないのだ、それは謙遜ではない。これらの絵がそんな大舞台に立つのは気が引ける。ただ、そうは云ってもこの機会は私が世に出るための千載一遇の好機である。秀逸の作に選ばれることはないにしても、それを選ぶための三作の中に上がったとなれば、嫌でも名が上がる。おすげに楽をさせ、苦労をかけることもなくなるだろう。同時に、おすげの口わずらわしさからも開放されるのだ。
「まあまあ、そう深く考えることはないではないか」和尚がそう云った、「いずれ絵師として名を売るつもりであるならば、これは良い機会になる、どのみち時間はないのだから、いまあるもので力を試されてはどうだろう、もうすぐ完成するという絵は満足いくものですかな、もしまた時間があるとして、早川どのは時間があれば納得のできるものが画けますかな」
「それを云われると、確かに、時間さえあれば思うものが画けるというわけではありません」
「そうであるなら、この絵はいまの力の中では精一杯ということになる、満足のできるものを求めて画いていくのは、絵師としての仕事をしながらでよいではないか」和尚は穏やかな口調で云った、「私事を云えば、何十年と仏の道、人の道を探っているが、ついぞ満足したことはない、一つの目的が達せられたとしたら次ぎの疑問が沸き、そこにたどり着いたらまた次に、いつまでもその繰り返しだ、およそ理想というものはそういうもののようだ、早川どのも慌てずに、まずはこの機会で絵師として地に足をつけ、ゆっくりと理想を追うのが良いかと思うがどうであろう」
私は少しの間考えた。
「分かりました」私は心を決めた、「村田屋さん、この絵はおまかせします、どうぞよろしくお願いします」
和尚の云うことは理にかなっていた。また私も、これは天命なのかもしれないと思った。十年辛抱してきた。どうにか私の目指す絵が見えてきて、それに近づいてきている。もう世に出てもいい時期になったのだ、そういう知らせのようなものだと思ってもいいと、そう思った。
三の二
渡した絵から選ばれた一枚は返せないかもしれないということで、村田屋は手付けとして三両の金を置いていった。藩主へ献上されるということになるそうなのである。私の絵が金になったのだが、私はまだ信じられないような思いで、何の実感もなかった。
家に戻った私は、画きかけの絵にも手が付かず、おすげの帰りを待った。帰ってきたおすげに金を見せ、今日あったことを話した。おすげは信じられないと云った。結果だけ見ると私は三両の金ですべての絵を渡したことになると云うのである。
「うまい話をちらつかせて、体よくこれまで画いてきた絵を巻き上げたんだ」おすげはそう云った、「人がいいって話じゃないか、殿様に献上だって、そんなうまい話が飛び込んでくるものかい、あたしは信じられないよ」
私は、村田屋は城下では一番大きな草紙屋であるし、藩主に見込まれて江戸から連れてこられた人で、実際に会って信用できる人物であること、また、和尚の紹介であることを話した。
「和尚がだまされているとは思わないのかい」おすげはあきれ顔で云った、「その人が村田屋本人であるという証拠があるのかい、え、人をだます人間というのはね、まず始めに信用させるんだよ、そんなことも知らないのかい、絵ばっかり画いて世間を知らないものだから、いい鴨だと思われたんだよ」
「そうだろうか」私は不安になってきた、「云われてみるとあまりに話ができすぎている」
「だまされたんだよ、あきれた人だね」
そうかもしれない、自分で納得できない絵が村田屋の眼鏡にかなうというのもおかしな話だ。おすげの云う通り、私はだまされたようだ。 しかし私は、気を落としたのと同時に、ほっと落ち着いた気持ちになった。
私は笑い出した。
「何がおかしいんだい」
「おかしいじゃないか」私は云った、「私はどうせあの絵を売る気はなかった、どのみち日の目を見ることはない絵だったんだ、向こうはだましたつもりだろうが、こっちは三金というものをもらったし、その絵をどこかに売るのであれば、絵が世間に出回るということだ、この話が嘘だろうが本当だろうが、私には何の損もない」
「馬鹿云うんじゃないよ」おすげはそう怒鳴った、「三両置いていったってことは、十両にも二十両にもなると思ったからだろう、あんたが苦心して画いた絵をたった三両で持っていかれたんだ、何がおかしいって云うんだ、冗談じゃない、あたしは明日その村田屋ってところに行ってくるよ、もし村田屋がそんな話は知らないと云うのなら、奉行所に訴えてやる」
「まあそういきり立つことはない」私は立ち上がって云った、「とにかく飯にしようじゃないか」
「本当のことを云うと私はだまされたほうがいいと思っているんだ」私は膳を並べてからそう云った、「あの絵は私の中ではまだよしとはしていない、それを藩主の前に城下での三秀の一つとして出すのは気が引けていたんだ、どうせ始末する絵だったんだ、それが三両なら悪くないよ」
おすげはまだ何かぶつぶつ云いながら、箸を運んでいた。
次の日になって、だまされたということを実感した。確かにそんなにいい話が突然やってくるわけはない。和尚はぐるではなく、同じくだまされたのであろう。和尚は真剣に私のことを気遣ってくれた。調べる気はないが、たとえだまされたとはっきり分かっても、和尚には何も云わずにおこうと思った。
だまされたことは、私には本当にどうでも良かった。私は改めて決意した。私は私の絵を世間に出していく。昨日のことはむしろその良いきっかけになった。いま画いている絵を持って、城下を回ってみよう、村田屋にするかどうかは分からないが、とにかく私の絵を買ってくれるところを探そう、そう思った。
とにかくにも、この絵を仕上げなくてはいけない。まだ何かが足りないという気持ちはある、しかしそれは和尚の云ったように、じっくり腰を据えて探っていけばいい。私をだましてでも絵を欲しがった者があるということは、私に自信を与えた。私はその日一日、廁に立つのも惜しんで絵を仕上げた。明日はその絵を持って城下に行くつもりである。
その日おすげは本当に村田屋へ行ったそうである。甚衛門は留守であった。番頭も留守で、小僧では話にならなかったそうだ。
「恥をかくだけだ、やめておいたほうがいい」
私は明日、今日完成した絵を持って城下に行くことを話した。
「そうすぐに絵が売れるとは思わない、しかしもう少しだ、もうしばらく辛抱してくれれば、私はきっと成功してみせるよ」
「頼もしいことを云ってくれるね」おすげは云った、「その口でまただまされたと云わないことを願うよ、あたしも早くおみよさんに店を任せて楽をしたいと思ってるんだから」
次の日私は城下に出向いた。私は今まで絵を売ることを考えていなかったので、店のことは何も知らなかった。店によって扱う絵とどこに売るかが違うようだ。昼前に家を出たのだが、これという店を探すだけで日が暮れてきてしまった。夕暮れの色がしだいに濃くなり、往来を行く人の足もいくらか速くなってきている。あちこちの店では品物を片づけ始めていた。
私はとりあえず、何件か調べた中で、最も私の絵を扱ってくれそうな店に入った。その店は慶寿堂といって、主に大身の武家と大きな商家に絵と絵師を紹介している店であった。一方で店先では庶民に向けてさまざまの絵を販売していた。
主はこころよく私に会ってくれ、持っていった絵も見てくれた。西村宗七というその主人は私の絵を見て満足げにうなずいた。すぐにでも得意先を回っていいと云った。私は店先に並べてもらってもかまわないと云ったが、主はこの絵なら高く買ってくれる人がいるだろうと云った。
西村宗七は絵をどう売っていくのかを話してくれた。なるべく多くの人に絵を見せることが肝心で、その中で最も高値で欲しがる人に売る。ほしいと思う人を一人でも多く見つけ、次の絵を買ってもらうきっかけにするそうである。売った金のうちのいくらかを仲介料ということで払い、残りが私のものになるという。そうやって地道に絵を売っていくうちに得意先ができる。早川立一の絵だと云えばすぐに買ってくれたり、注文をしてくるようになる。注文をされるようになれば一人前で、それをうまくやっていけば、襖絵や屏風も頼まれるようになるそうである。
主は酒まで付けて、私にそのような話を詳しく聞かせてくれ、今後についていろいろ相談もした。私は絵師として成功していく過程を知り、にわかに活気づいた。自分がこれから進む道が明らかになり、私はそのことを想像して、武者震いさえ感じた。自分の未来が手に取るように明るく感じられ、やってやるぞ、という強い思いが体の底から沸き上がってきた。
「すっかり遅くなりました」
突然やってきた名もない私のような絵師にそこまで親切にしてしてくれた主に心から感謝し、私は何度も礼を云って席を立った。主人は明日にでも絵を見せに行ってもいいと云ったのだが、私はまたおすげに何か云われるのではと思い、その日は絵を持ち帰ることにした。
「早川さんにもしその気があるなら、ぜひ、手前どもにまかせてほしい」
西村宗七はそう云って、近いうちにまた訪ねて来てほしいと念を押した。帰り際には、慶寿堂の印のある提灯までかしてくれた。
思いのほか遅くなり、夕餉の支度もできなかった。おすげは怒るだろうが、私はもう恐いものはないという思いで、いつもよりも大股で歩いていた。
三の三
家の前に着くと、中から陽気な笑い声が聞こえた。不信に思いながらも中にはいると、伝助とおみよさんがいて、祝いの膳が並んでいた。
「来た来た」伝助がそう叫んだ、「遅えじゃねえか先生、待ち切れねえから始めてたぜ」
「これは、いったいどういうことなんだ、ずいぶん豪勢じゃないか」私は云った、「そうか、昨日の三両だな」
「さあさあ、早川大明神のお出ましだ」
伝助はすっかりご機嫌な様子で、私を奥の席に座らせた。おみよさんが私の前に座り、「良かったですね」と云って酌をしてくれた。
「おれは信じてたんだ、先生はきっとやる、いまに成功するってな、本当だぜ、おれは本当に信じてたんだ」
私は盃を持ったまま、訳が分からないというふうにおすげを見た。おすげはうなずいているだけだった。
「先生の出世を祝って乾杯といこう」
伝助がそう音頭をとった。どうやら昨日の三両のことではないようだ。すると慶寿堂のことになる。
「どこで聞いたかしらないが」私は伝助にそう云った、「まだ絵が売れたと決まったわけじゃないんだ、おそらく間違いはないと思うが、まだこれからなんだ」
「何を云ってんだい、話がそこまで来てるならもう間違いはねえよ、おれは信じてたんだ、先生はきっとやるってな」伝助はそう云って、口をつぐんだ、「綿貫さんにも知らせたかったな」
「大げさなことを云うな、それにしてもいったい誰に聞いたんだ」
「おすげさんに決まってるじゃねえか」
「おすげが」私はおすげを見た、おすげはもう一度うなずいた、「そうか、おまえ店に行ったのか、しかし何で」
「なぜってあんた、あたしだって気になるじゃないか」
「まあ、どちらにしろ、明日絵を持っていって、それを慶寿堂が売ってくれてからの話だ」
「慶寿堂」おすげがそう聞いた、「何の話だい」
「その店は慶寿堂と云うんだ」
「村田屋じゃないのかい」
「村田屋」今度は私が聞いた、「何のことだ」
そうなのである、おすげたちの云っていたのは村田屋のことであった。私は今日の慶寿堂のことしか頭になかったので、話がずれていたのだ。おすげはどうしても真否を確かめたくて、今日村田屋に行った。甚衛門はいて、話を聞くとあの話が本当であることが分かった。今年のうちか遅くとも正月には一つを選び出し、四月の参勤交代の時に江戸に持って行き、ほかの大名の絵と競い合うということであった。
「やったじゃねえか、いよいよ花を咲かせるときがきたんだ」
「花か」私はまだ信じられないような気持ちだった。
「そうだ」伝助はさも嬉しそうにそう云った、「綿貫さんが云ってたっけ、桜は花を咲かせたその年の夏にはもうつぼみを付けるそうなんだ、そうして次の年の春までじっと耐える、そうやって耐えてきたつぼみが春になるといっせいに咲くんだ、長い間耐えることであれだけ咲かせることができると云っていた、立一はいまはその耐えているときだ、いまにきっと花を咲かせられるって、綿貫さんもそう云ってたぜ」
「綿貫さんが」私はその俤を追った、「そんなことを云ってくれていたのか」
しかしまだ咲いてはいない。自分の中ではまだ咲いていないのだ、私はそう思った。
「そうさ、耐えている時間が長いほど、よく咲かせることができるって、綿貫さんも先生を信じていたんだ、もちろんおれも信じてたぜ、先生は川向の誇りだ、もう誰にも川向を馬鹿にさせるもんか」
私は嬉しかった。村田屋の話が嘘ではなかったことより、自分のことのように喜んでくれる者がいることが、私は胸が熱くなるほど嬉しかった。その夜は私も大いに飲んだし、伝助もいつまでも活発に気焔を上げつづけ、おすげでさえ明日は店を休むと云っていた。
翌日、私は慶寿堂に行って絵を渡してきた。西村宗七はもう私の絵が城下での選考に選ばれたことを知っていた。
「この世界は情報が大切です、私が今日その話を聞いたときには驚きました」主はそう云った、「もうあなたの絵のことはあきらめていたのです、しかしどうしてまた今日はおいでくださったのですか」
「まさか私の絵が一番に選ばれるとは思えないのでね」私は云った、「今から地道にやっておかないとそのうち二番手三番手は忘れられるだろう」
「とんでもない」主人はそう云った、「少なくとも城下では三本の指に入ったのです、そちらが何もしなくても注文は殺到しますよ」
「実はまだ私には信じられなくてね、昨日西村さんに聞いた話のほうが現実的なんだ、もし良かったらこの絵を何とかしてくれないだろうか」
「そりゃあ」もちろんと云って主人は両の手を嬉しそうもみ合わせた、「任せてくれると云うなら、精一杯やらせてもらいます、これは忙しくなりそうだ」
正月を過ぎたころ、村田屋が訪ねてきた。遅くなったと云って、四枚の絵を返し、祝いを述べた。
「選考は手間取りましたが、最終的に殿が気に入ったということで、あなたの絵が選ばれました」
「やりましたね」そう云って村田屋は、呆然としている私の肩を叩いた、「殿にお目通りが許されています、近いうちに迎えが来ますから、これで支度をしておくといいでしょう」
そう云って村田屋は紙に包んだ金を差し出した。
「それは結構です」私はその金を差し戻した、「それは私のほうで揃えます」
「そう云わずに、これはお礼の意味もあるのです、早川さんを推挙したおかげでとくにお褒めの言葉をいただき、私も面目が立った、絵は献上したのでその代金は払えないが、殿からもきっと褒美がもらえると思う」
五日後に城から呼ばれた。私はすっかり舞い上がってしまい、せっかく城に上がったというのにどこをどう歩いたのか、誰と何の話をしたのかも記憶には残っていない。頭はずっと畳にこすりつけていたので、畳の目だけははっきり記憶に残っていた。
その直後、慶寿堂から五十両であの絵が売れたと云ってきた。私は夢心地のまま十両を主に礼金として支払った。慶寿堂の主は、早川さんの絵を扱わせてもらえるならそれだけで名誉なことなので、礼はいらない、と云っていたが、私は何か恐いような気がしたので、とにかく金を受け取ってもらった。
私は何か悪いことをしたような、そわそわした気になっていた。現に藩主にお目通りをし、たくさんの褒美の品をもらい、慶寿堂からも金を受け取り、毎日のように誰かに呼ばれて祝いの席につき、名前も知らないような昔からの友人というのにつきまとわれるようになった。 それでもまだ私は、誰かに担がれているような、不安な気持ちが拭い去れなかった。それはおそらく自信を持っていない絵だったからだろう。何か悪いことをしたような、人をだましているような気にもなった。悪気もなくしたいたずらが、たまたま人助けになってしまい、その人から感謝されている、そんな、何とも云えないような気持ちになった。
私の選ばれた絵というのは、五枚の中では一番新しいものであった。その絵は、木の枝に積もった雪の下で、力強く芽を出している木の芽を画いている。それを一番大きく、前面に張り出すように画き、右上から手前に伸びてきている枝の、その右隅のほうで、飢えた鳥がその芽をついばんでいる。その木の枝の背景にはかすんだように川が流れ、貧しい少年が川の中でしじみか何かを取っている。私としては、冬に耐える木の芽と少年、そしてそんな木の芽をついばむ鳥、そこに生きることの無情と辛さ、生きるためのはかなさを出したつもりである。
綿貫さんが伝助に話したという、ほとんど一年間、春に花を咲かせるために耐えている桜のつぼみ話と不思議と絡んでいる。
ただし、私はこの絵もまた、どこか、画竜点睛と云うべき何かが足りないと思っていた。それは絵の技巧や技術、腕ということではない。それに関しては私はある程度満足していた。絵に表われてくる心、つまり私の精神、そういったもので絵に何かが足りなくなっている、そう思われた。綿貫さんのことがあって以来、私は自分の心を突き詰めて、それで絵を画いてきた。まだそれが十分ではないということなのかもしれないが、とにかくまだ何かが足りないせいで、画竜点睛を欠いているように思えるのだ。
三の四
三月の一日に桜通りの桜に花がついた。五日に伝助と花見をやり、そのまま伝助の家で飲み直していた。
「おみよの奴がどうも最近口うるさくっていけねえ」
伝助はそうこぼしていた。
「誰がうるさいって」おみよが土間からそうやり返していた、「大体早川様はいまは偉い先生なんだ、それをあんたみたいなろくでなしとこうして変わらずにつきあってくれてるんだ、あんたも少しは見習って出世しようって気はないのかい」
「この調子だ」
伝助は小声でそう云って肩をすくめた。
おみよさんは小柄で、かわいらしい感じのする人だった。それが腰に手を当てて精一杯怒鳴る様子は、かえって滑稽にさえ見えた。
「いい神さんじゃないか」
「先生までそんなことを云いやがる」伝助は顔をしかめた、「そう云あ綿貫さんもそんなことを云ってたな、その真似かい、自分が最近おすげさんにうるさいことを云われなくなったと思って、もうこっちの気持ちを忘れちまったのか」
「そういうつもりじゃなかったんだが」私は云った、「どうも女というやつは、仕事をもって金を稼ぐようになると、亭主に何かと文句を云いたくなるらしい」
おすげは確かに最近では口うるささはなくなってきていた。私に対する不満も、さすがにここまでくるとなくなったのだろうと私は思った。店をおみよさんに譲り、家を汚すなとかごろごろするなと云うくらいで、普通の神さんとして満足げに働いているように見える。
「うちの奴はおすげさんを慕ってるからな、髪結い床を譲り受けて、おすげさんみたいにならなくちゃいけねえと気張ってるようにも見えるし、どうも真似をしてるんじゃねえかと思うんだ」
「おすげの真似か」私は笑った、「それは伝助もたまらないな、私もおすげの口にはまいらされたものだ、どうにか落ち着いたが、おすげを見返せるようになって、何も云わせないところまで来てやっと静かになったんだ、伝助も親方にでもならないと云われ続けだぞ」
「先生」
おみよさんがすごい顔をして居間に上がってきた。
「冗談だ」私は冷や汗をかいた、「おみよさんはそんなことはないさ、おみよさんは根の優しい人だということは知っている、いまのは冗談だ」
「あたしのことはいいんです」おみよさんはきつく握った手を震わせ興奮した口調で云った、「あたしは根が優しくて、おすげさんは違うと云うんですか、おすげさんを見返して、何も云わせなくなっただなんて、よくそんなひどいことが云えるじゃないの」
「いまは話の中でついそういうことになったんだ」私はこれはまずいことになったと思った、「おすげには感謝している、おすげが働いたおかげで、私は絵が画けたんだ、それは本当だ、ただ、あの口うるささはおみよさんも知っているだろう」
「知っていますよ」おみよさんは立ったまま上から私を睨み付けるようにして云った、「先生なんかよりもずっと知っていますよ」
「そうだな、隣でよく聞こえただろうし、それならそう怒らないでくれ」
「冗談じゃないわよ」おみよさんはついに泣き出した、「云うなって云われていたから云わなかったけど、それじゃああんまりかわいそうじゃない、いったい誰のおかげで先生はここまでこれたって云うのよ」
伝助はあまりの剣幕に圧倒されているようで、私が救いの目を向けてもあきれたようにおみよさんを見ているばかりであった。
「あたし云う」そう云っておみよさんは続けた。
「おすげさんはね、云いたくってあんなことを云っていたわけじゃないんです、先生のためを思って、先生に絵を画いてほしいから嫌な役をかってでたんじゃない」
私は余りに意外なことを云われたので、何を云っているのかすぐには分からなかった。おみよさんは鼻をすすりながら云った。
「こう云っちゃ悪いけど、先生は怠け癖があるから、きつく云わないと絵に向かってくれないし、すぐに変な自信を持つからわざと蔑んだように云って、そうやって先生に絵を画かせようとしてたのよ」
私はまさかと思った。しかしよくよく思い出してみると、おみよさんの云うことが思い当たらない訳ではなかった。おみよさんの言葉は、一つ一つ私の心を鑿で打つようであった。
おすげは私を信じていた。おみよさんはそう云った。自分のような何の取り柄もない女と一緒になって、それでこの人の才能をつぶしてはいけない、それだけを思い続けていた。身分や金ではなく、私の絵への情熱に惚れたという。その惚れて一緒になった男のために苦労をすることは何とも思っていなかった。必ず出世すると信じていたので、この土地に移ってきたときに、このままではいけないと思ったらしい。それから、働けるだけ働いて、同時に私に絵を画かせるために何でもしようと決めたようだ。仕事をすることは何とも思わなかった。家事もしてもいいと思っていたが、私の気持ちがすむならと私にやらせていた。いつか必ずと、それだけを思ってきたという。そのため、私が金になるために桜を画こうとしたときは、ほとんど絶望したような気持ちになっていたという。
おすげの機嫌が悪かったのは、そんな妥協を自分のためにしてほしくなかったからなのだ。
「そのあと先生が自分のやることが分かったって云って、カラスの絵を画いていたとき、おすげさんがなんて云ったと思うの、あたしは間違ってなかったって、嬉しそうに云ってたわ、こんなやりたかしか思いつかないから、嫌われることを覚悟で先生を伸ばすためだけに、口うるさくやってきたって、もしこれで先生の絵が駄目だったら、生きていけないって云ったのよ、それでも先生がいい絵が画けるっていうのを聞いて、どんなに嫌われてもいいって、あの人が立派な絵師になるのならいくら嫌われてもいいって、あたしはそれだけを頼りに生きてきたから、それでいいんだって嬉し泣きをしながら云ってたのよ、先生のためにそこまでしたんじゃない、自分が嫌われることなんてどうでもいいなんて、先生さえいい絵が画ければどうでもいいなんて、そんなすごいこと云える人がいるの、そうよ、あたしはおすげさんの真似をしているわ、でもそれのどこが悪いって云うの」
私はうつむいて、両手を畳につけて体を震わせた。
綿貫さんの亡くなった後も、私が一枚絵を画くたびに、今度はこんな絵だ、いまはこういう絵を画いている、そうおみよさんに云っていたらしい。村田屋の話があったときも、あまりの嬉しさに信用できなかったようだ。それでどうしても確かめたくて、もし嘘なら、どんなことをしてでもだました男を捕まえて、私に謝らせると云っていたという。
「その話が本当だと分かったとき、おすげさんは泣き崩れていたわよ、あたしはいつも、隣からおすげさんの声が聞こえるたびに、その気持ちを思ってつらかったのよ、やっとおすげさんの思いが叶って、おすげさんも喜んでいたのに、ひどいじゃない」
「知らなかった」私はこれまでにないほど、自分の不甲斐なさを思い知った、「知らなかったんだ、そんなそぶりは見せなかったし、それならなぜ素直に喜んでくれなかったんだ」
いい神さんじゃないか。私はそう云った綿貫さんの顔を思い出していた。綿貫さんは気づいていたのだ、少なくともおすげの気持ちを理解していたのだろう。
「できなかったのよ」おみよさんは座り込んでいた、「何年も何年も先生にきつく当たってきて、成功したからって急に変われるわけがないじゃない、嬉しいのに、きつい云い方しかできないって、そういう体になってしまったって、そう云ってたわ」
恥ずかしいことだが、私はいつのまにか涙していた。
「分かった、これで分かったでしょ、人の気も知らないで、あんまりよ、おすげさんに謝ってよ」
その時おすげが入ってきて、おみよの肩を抱いた。
「ごめんよ、聞こえてきてしまったんだ」おすげは泣いていた、「もういいんだよおみよさん、もういい、あたしが好きでしたことだから、気づかれないようにしてきたんだから、うちの人が気がつかなかったからって責めるのはやめておくれ」
「だって」そう云っておみよさんはおすげにしがみついた、「おすげさんは先生に一番分かってほしいはずじゃない、夫婦なんだから、一番分かってほしいはずでしょ」
「おみよさん」私はそう呼びかけた、「その通りだ、私もその気持ちはよく分かるよ、ありがとう、話してくれて良かった、私も絵のことを一番分かってほしいのはおすげだったんだ、おすげの気持ちを教えてくれて本当に良かった、おすげ」
私はそう呼びかけた。
「私は謝らない」私はそう云った、「耐えていた桜は春になると咲く、綿貫さんはそう云った、私たちにはこれだけの時間が必要だったんだ、私は謝らないが、おすげが喜んでくれるような、もっといい絵が画けるよ」
以前の私だったら、妻の気持ちに気づくことができなかった自分を責めたであろう。しかし、いまはそういう気持ちにはなれなかった。いま私は不思議な力強さを感じている。それはさなぎが蝶になるような、つぼみが花になるような、そんな力強さであった。
私は云い知れない程の自信に満ちていた。私は次の日すぐに城に行き、殿にお目通りを願った。すぐに許され、私は殿に会った。私はどうしてもあの絵を手直ししたいと云った。殿は来月には江戸に持っていくのでそれは無理だと云った。
「お側まで申し上げます」私はどんな手段を使っても絵を返してもらうつもりであった、「あの絵はいまのままでは完成ではありません、あと一つ、どうしても手直しをしなくてはなりません、それをせぬまま江戸に持っていかれ、殿の恥とするわけにはまいりません」
「手直しをすれば良くなると申すか」
側付きの人がそう云った。
「お側まで申し上げます、間違いなく、いまよりよくすることを約束いたします」
「かまわぬと云うことだ」その人はそう殿の言葉を伝えた、「そのかわり、きっと出立までには間に合わせろとの仰せである」
私は平伏したまま微笑んだ。
「ありがたき幸せ、必ずや期日までにお届けいたします」
「早川」殿が自ら私に声をかけてくだされた、「余はそのほうの絵を気に入った、これ以上になるという言葉信じるぞ、余を驚かせてみよ、期待しておる」
「きっと約束いたします」
私はそう云って絵を受け取り、家に戻った。そしてすぐに裏庭でその絵を燃やした。
「あんた、ちょっと、何てことをするんだい」おすげは真っ青になって止めようとした、「それはもう殿様に献上したものじゃないか、そんなことをしたら首が飛ぶよ」
「大丈夫だ」私は云った、「首は飛ばない、これでいいんだ、私は新しい絵を画くよ」
「新しい絵って」おすげは不安そうに云った、「そんな、あと五十日しかないじゃないか、間に合うのかい」
「分からない」私は云った、「だがいまならできる、こんな絵をこの国の名誉をかけた大舞台には出せない、もう頭の中には絵ができているんだ、 画竜点睛か、あのカラスの絵の時もそうだったが、またおまえに助けられたな」
「あたしも手伝うよ」おすげはそう云った、「やれることは何でもする、いまあんたを殺させやしない」
「覚えているか、おすげ、伝助が話していた、あの、綿貫さんが云った桜の木の話だ」
おすげは首をかしげた。
「足りないと思っていたものは、こんな身近にあった」私はそうつぶやいてから云った、「私はやるよ、いまならできる」
私は屋根の向こうに見える、あの満開の桜を見やって、まだ不安そうに私を見つめるおすげに笑いかけた。
「もう花は咲いたんだ」
私はおすげの肩を抱き、家の中に入った。
おわり