人の目を気にする、ということ自体は決して恥ずかしいことではない。むしろ、それ
によってある均衡が保たれてこの社会が成り立っているのではないかと思える。しかし、
そこには当然その気にする度合いというものがあって、それらを気にしすぎてもどうか
と思えるし、気にしなさすぎてもそのバランスはいい塩梅とは言えないだろう。
社会というものは、実体のない各々個人が抱くいわば幻覚であり、秩序を内包したイ
メージでもある。しかし、それらはまったくの別物で秩序から社会が生まれることも、
またその逆もあり得るとは思わない。なぜなら、秩序はイメージではなく道徳や倫理と
いった、意識の中に実存するものだからである。かといって社会が個人に対して漠とし
ていて疎遠であるかというと、そうとも言えない。それは社会がイメージだからであり、
比較的その中でも個々の意識のなかに相対的に存在し、目を向けると(多くの場合がそ
うだというだけで、必ずしも全てがそうであるとは言えないのだが)唐突にポッと顕れ
たりするからである。
人間は、生まれながらに人間社会のなかに属している。無論、それを意図するしない
にかかわらず人間は社会の一員となっている。なるべくしてなっているといっていい。
社会を拒む、ということは考えられない。意識でそれを捉え、言葉として或る時には態
度でそれを表現することはできても、動物の、本能からの表現を表すことは、種の存続
をも拒むことにもなり、可能性としてはあまりに低い。
社会を拒むことができないのであれば、受け入れていくしかない。逆説的なアプロー
チをとってしまったが、姿勢が妥協的であるということが言いたかったわけではない。
話を戻そう。
そもそも社会の発生は何処からなのか。
自分ではない誰かの存在。そこからがイメージされる社会の発生源であろうか。それ
だけでは弱い。自分ではない誰か(個人)との間に生まれるのは、秩序や道徳観といっ
たものである。それらは、個人の意識が自らの意識でもってそれを拒むことができる。
秩序が肉体の枷になっていると考えられるのであれば、時として個人の意識はその枷を
外すことができる。ニヒリズムの社会観を考えれば、ここがイメージの発生源であると
言えることもないが、ここではもう少し公約数を増やし、少し違う側面から見てみると
しよう。
社会を感じる源は果たして何処にあるのか。それは、マジョリティ(多数)の予感で
はないだろうか。では、その予感を感じられるのはいつか。それはもう一人、二人目の
他人の出現がそれではないだろうか。
二人目の他人の出現。
ここで個人間のバランスは崩れ、相対の対象が増すことによって、絶対的であろうと
過信していた個人の価値観は、より相対的な次元へと引きずり降ろされる。道徳や秩序
の対象が増えることにより、その根拠が曖昧になってゆくのである。
つまり、個人と他人(個人)という関係のなかでは、価値観にはおよそどちらかの絶
対視している要素が入り込むことが多分に容易になりやすいのである。そこへもう一人
の他人が現われる。他人が他人であるためには、個人は個人でなければならない。それ
は、私が私であるのか、私ではない誰かであるのか。直線的であった意識の道(ここで
は単純に、たとえ無意識であっても意識するというつながりのことを示す)は、入り組
んだ環状のものに変化してゆく。当然個人の把握できるものは、自分に繋がれたごく一
部のものだけであって、それ以外は状況から予測していくほかない。
ここ(第三者の出現)から、個人の視点は拡がりを見せる。他人ともう一人の他人。
そして、もう一人の他人の出現によってもたらされたマジョリティ(多数)の予感。そ
れから、私の存在(これが大袈裟であるというのであれば、概念または主体と置き換え
てもよい)の再認識。
これ以上もう書くのは止そう。書くとなれば、この文章を書こうとした最初の意図か
ら逸れてしまうからである。あくまでこれはヒントの寄せ集めでなければならない。
作家であると自覚するための、自らを鼓舞し、尻を蹴り上げてやるためのヒントの寄
せ集めでなければいけないのだ。