一
八丁堀は下町の中心部にあり、与力、同心の組屋敷がある。原長右衛門は与力支配で二百三十石、八丁堀の北東の外れに五百五十坪という広い敷地を持っている。正面には豪奢な黒い冠木門が大きく構えてあり、家の作りも立派なものである。原の池泉庭といえば、小さいながらも名うての職人が手がけた凝った作りのもので、組屋敷で知らないものはいない。
原家は与力の中でも名門で、代々与力支配であり、現在は吟味役等を分掌している。名門というものの、高々二百石余りで屋敷や庭に贅を尽くせるのは、与力はその仕事がらあらゆる方面からの付け届けが役高の二十倍三十倍とあり、実際のところはかなり裕福だったからである。
原の庭園が有名なのは、庭そのものの作りのせいではなく、一昨年に隠居した、長右衛門の父、原加兵衛が作らせたという驚きが、八丁堀にその庭を広めた。
表書院から眺めるとその庭はもっとも美しく見える。ちょうど正面に滝組を配し、耳を澄ますと心地よく水の落ちる音が聞こえてくる。四季折々に変化を見せる草木は、どの季節であっても目を楽しませ、また趣を添えている。
加兵衛はこの庭を作らせたのち、これもまた庭のよく見える茶室を作り替えて夫婦の部屋とした。それが近頃、加兵衛はその部屋を出て、母屋と渡り廊下でつながる、庭がほとんど見えない離れに移ってしまった。
加兵衛は今、その部屋の濡縁に腰掛けて、目の前に並べてある盆栽をぼんやりと眺めていた。
加兵衛の妻、小松は針を動かす手を止めて加兵衛の様子を見た。加兵衛はじっと目前に目をやったま身動きもしない。
「お気に召しましたか」
小松がそう声をかけた。
加兵衛は聞こえなかったのか、その声に反応を示さず、小松はそのまま加兵衛の後ろ姿を見ていた。加兵衛は見るとはなく見ていた盆栽にあらためて目を戻し、「ふん」と鼻を鳴らした。
小松は、それで夫が盆栽など見ていなかったことに気づき、小さく首を振った。彼女は縫い物を下に置き、膝を立てて加兵衛の背中ごしに盆栽を見た。
それらは、盆栽が分からない小松にも手のかかった立派なものだと思われた。つい先日、加兵衛が急に巣鴨に買いに行かせたもので、どの鉢を取っても何十年と手をかけた高価なものばかりである。それを五鉢も買ったのだが、十日もしないうちに加兵衛は飽きたようだ。夫の手元に置き去りにされている鋏を見て、小松は縫い物を拾いあげた。
開け放たれたその障子戸の向こうは、背の高いつつじと萩で庭は見えず、母屋につながる左手に、咲き始めた梅が見えるだけであった。ちょうど今、その梅の木のあたりで鶯が鳴いた。加兵衛は気にも止めない様子であったが、小松は再び伸び上がってそちらのほうを見た。
鶯に呼ばれたように、母屋から孫の宗十朗が姿を見せた。宗十朗は離れを見て、小松と目が合うと、手を振ってこちらに歩いてきた。 小松は加兵衛に目をやり、そっと部屋を出た。一間はなれた部屋で宗十朗は心得たように待っていた。宗十朗は、原家の特徴でもある太い眉と高くはないが形の良い鼻をしている。一方で、父や祖父のような尻上がりの一見冷たく感じるような瞳ではなく、たれ目がちの愛嬌のある目をしていた。
「実は少々小遣い足りなくなりまして」
小松が用件を聞く前に宗十朗はそう云った。
「またなの」小松はとがめるようにそう云ったが、顔はおっとりと微笑んでいた。
小松は小柄で、体も細いが、顔は丸みがあり、なにか楽しいことでもあるかのように、常にその口元は微笑んでいるように見えた。
「近頃遣い方が激しくないかい」そう云いながら、小松はいくばくかの金を包んでやった、「あまりすぎると、お祖父様にまた小言を云われますよ」
そう云いはするものの、小松はもう二十になる孫がまだかわいくて仕方なく、どんなことでも頼まれると、むしろ頼ってくるのがうれしくてつい引き受けてしまう。
「だからお祖母様に頼んでるんですよ」宗十朗はそう云って屈託なく笑った、「だいたいわたしは小遣いが少なすぎるんです、皆はもっともらってますよ、あれっぽっちじゃつきあいの悪い男と思われます」
「だからといって、あんまり派手に遊んではいけませんよ、あなたはまだ見習いなのだから」
「派手だなんてとんでもない」宗十朗はそう云った、「わたしなんかは少ないほうです、お祖父様が真面目過ぎなんですよ、お祖父様の堅さぶりはいまだに伝説になっているほどなんですから、その上父上がお祖父様にそっくりときてる、わたしとしてはやりにくい次第です」
「またそんなことを云って」小松はそう云って孫を優しく睨んだ、「そんなことだからお祖父様に小言ばかり云われるのですよ」
宗十朗は片方の眉をさげて皮肉っぽく云った、「どうせわたしはなにをしても文句ばかり云われるのですから」
小松は原家にとっては出来の悪い孫を哀れむような瞳で見た。しかし小松は、やる気になれば宗十朗は父や祖父に負けないくらいの能力があると信じていた。ただ、やる気にならないのは真面目すぎる父や祖父への若さゆえの反発だと思っている。
「でも、そろそろなにか云われるだろうと思いましてね」宗十朗は明るくそう云った、「今日は一つ先手を取ってお祖父様の盆栽を誉めようと思って来たんですよ」
「あら、それじゃあ、小遣いはいらなかったの」
宗十朗はあわてて首を振った、「いやいや、それはそれです、第一はお祖母様へのご機嫌伺いです、本当ですよ、もちろん小遣いが足りないのは事実ですし、ついでにお祖父様の機嫌を取っておこうというわけです」
「まあ、いつのまにかそんなずるいことを覚えて」
「わたしももう二十です、いい加減にお祖父様の小言から逃れる術を学ばないといけません、そのくらいの駆け引きはできますよ」
「するとわたくしはいつもあなたの駆け引きに負けているのかしら」「お祖母様にはそんなことはしませんよ」宗十朗はとんでもないと云うように手を振った、「そんなことをしなくてもいつもお祖母様はわたしの味方をしてくれるじゃないですか、お祖母様だけです、この家でわたしのことを認めてくれるのは、わたしにはお祖母様だけが頼りなんです」
「本当にうまくなったわ」小松はそう云った、「その口で若い子をだましてはいけませんよ」
宗十朗は笑った。
「うまくやるのはお祖父様と父上だけにしておきます」
「でも今日はやめておきなさい」
不審そうにする宗十朗に小松は云った、「盆栽を誉めてもあの人は喜びません、庭を作ったり、囲碁を始めたり、盆栽を買ったり、いろいろしようとはするけど、なにをしても満足はできないようです」
「盆栽も駄目ですか」誉め言葉を考えてきたためか、宗十朗はがっくりと肩を落とした、「まだそう日はたっていないからいけると思ったんだがなあ、やはり一から手塩にかけて育てないとおもしろくないんでしょうね」
「そういうことではないのよ」小松は云い聞かせるようにそう云った、「あの人は与力という仕事しかない、あなたのように見習いから始めて、六十六になるまで役目一筋で生きてきて、それだけに心血を注いできたから、それ以外のことはなにもできないの、今思えば隠居すると云い出したときに反対すればよかったのでしょう、仕事を離れたあの人は中身のないただの器、今のあの人に、役目のこと以外はなにをしてもなにを云っても無駄ですよ」
宗十朗は両手をさげて、首を振った。
「するとわたしがお祖父様のご機嫌を取る方法はなくなりますよ」
「立派に役目を務めるということだけね」
「それが一番難しい」
「いいのよ」小松は優しくそう云った、「あなたはお祖父様や父上のようにならなくてもいいの、あなたなりのやり方で役目を果たせばいい、それに小言を云っているときだけはお祖父様は生き生きとしているから、今くらいがいいのよ、孝行と思って少し我慢してちょうだい」
宗十朗はうつむいた、「わかりました、せいぜい小言を云われるように励みます」そう云って上目で腕白坊主のような顔をして笑った、「そのためにも、また足りなくなったら頼みますよ」
「本当にずるくなって」
小松もそう云って笑った。
二
小松が戻ると、加兵衛は障子戸を閉めて文机の前に頬杖をついて座っていた。
「宗十朗か」
「はい」小松はすました様子で裁縫道具を片づけた、「お茶にでもしますか」
「なにしに来たのだ」
「さあ、大した用ではないみたいでしたけど」小松は顔を上げて云った、「あら、また鶯が」
加兵衛はあきれたように云った、「下手な嘘を、どうせ金でもせびりに来たのだろう、まったく誰に似たんだ」
「あなたのお父上にすこし似てますわ」
加兵衛はあからさまに顔をしかめた、「おまえは甘やかしすぎだ、そんなことだからいつまでたってもあやつは与力としての自覚が持てん、いつもへらへして遊ぶことしか考えておらん、近頃の若いのは、与力が江戸の三男などと云われることで図に乗りおって、軽薄になりすぎだ、そもそも宗十朗はなぜこんな時刻にまだ家におるのだ」
加兵衛ははりのある顔つきで身ぶりをくわえてそう云った。
「今日は夜番だと云ってましたよ」小松は、加兵衛の出す大きな声に動じずに云った、「それよりあなたこそ、一日中家の中にいてはかびが生えますよ」
加兵衛は不機嫌そうに顔を背けた。
「あら、そういえばよくかびが生える申しますけど」小松は首をかしげた、「いったいどこに生えるのでしょう、あなたはまだ生えていませんか」
「そんなものが生えるか」
「そうでしょうか、よく云うではないですか、きっと生えるからみなそう云うのでしょ」
「それはもののたとえだ」加兵衛はそう云って顔を崩した、「もうよい、茶にしてくれ」
小松は「はい」と云って部屋を出ようとしたが、思い止まって加兵衛に向ってかしこまって座った。
「もしかびが生えても、わたくしには正直にお話しくださいね」
加兵衛はあきれたように手を振った。
「もうよい、茶を入れてくれ」
梅が咲き始めるとまもなく、日差しが暖かく感じられる日が多くなってきた。小松のかび問答から逃れるためでもあるまいが、加兵衛はこの頃から外へ散歩に出るようになった。夫の隠居してからの暮らしぶりや、物忘れが目立ってきていることを気にしていた小松は、それでいくらかは安心したようであった。
加兵衛は朝暗いうちに起き、明け六つ(日の出の時刻)に家を出て一刻ほど歩く。帰ってから軽い食事をして、その後はなにをするともなく部屋の中で過ごしている。一月に一度ほど、小松に云われてなにか時間を過ごせるものを探そうとするが、それらはどれも長くは続かなかった。自分からすすんでなにかをしようとする気にはなれないようで、盆栽や俳句など仕方なく始めたものもあったが、初めから馬鹿にしているようで、熱を入れるということができなかった。
散歩で体だけでも動かしてくれていればいいと、小松はなかばあきらめかけていたが、その散歩も五月のある日をさかいに、はたとやめてしまった。
旧暦の五月である、つつじも終わり、梅雨が始まりあじさいの季節になっていた。朝から雨が降るような日でも、加兵衛は散歩を欠かさないようにしていた。その日は夜半に雨はやみ、朝日がまぶしいほどに照りつけていた。
加兵衛はいつものように家を出たが、いつもより早く帰ってきた。小松は部屋で七三郎の相手をしていた。七三郎は宗十朗の弟で、数えで四歳になる。宗十朗は長男で、その間に一男一女がいたがこれははやくに病でなくした。幸い宗十朗は健康に育ったが、二人も孫をなくしたことは、小松はもちろん加兵衛にとっても痛手であった。 特に加兵衛は、ずっと反発し続けた遊び人のような父に似た宗十朗に、自分と長右衛門で築いた原家の信用を、与力でもっとも難しいと云われる吟味役を、預けられるのかという不安があった。そのため、遅くできた男児の誕生は喜んだ。甘やかすのは小松に任せていたが、さすがにかわいい盛りではあるし、膝の上に乗ってくると顔が崩ずれるのを隠せなかった。
「あら、今日はお早いですね」
加兵衛は小松がそう云うのも聞かずに、荒々しく着ているものを脱いだ。七三郎はうれしそうに加兵衛にまとわりついた。
「おじいさま、聞いてもいいですか、おじいさま」
七三郎は、なにかというと加兵衛に質問ばかりしてくる。お祖父様はなんでも知っている偉い人なのだと思っているのである。大抵は、突拍子もない答えにくいことを聞いてくるのだが、いつもは丁寧に聞いてやっていた。だが、その日は着がえを手伝おうとする小松の手を振り払って、「うるさい」と怒鳴って二人を追い出した。
小松はそっとしておくほうがよいと思って、驚いた顔をする孫をなだめて、隣の部屋へいった。加兵衛は荒々しく着物を脱いでいるようで、帯かなにかを叩き付ける激しい物音もした。
「母上のところへいっておいで」
小松はそう云って七三郎を向こうへやった。これだけ機嫌が悪いと誰に当たるか分からないと思ったからである。
「おい」
加兵衛の叫ぶ声がした。
小松は黙って常着を出した。
「誰かおらんのか」加兵衛はそう怒鳴った、「着がえはどこだ、くそっ、そのくらい用意しておけ」
その夜、加兵衛はいつまでも寝つけなかったようで、何度も寝返りを打っていた。小松はいつしか寝てしまったが、ふと目を覚ますと、夫はまだ寝苦しそうに寝返りを打ち、時たまため息をついていた。
次の日になり、小松が昨日なにかあったのかと聞いたが、加兵衛は言葉を濁してなにも教えてはくれなかった。小松は苦しむ夫を見るのはつらかった。加兵衛は与力であったこと、そして自分の代で吟味役を分掌し、その役目を立派に果たしてきたという誇りだけで生きていた。それは小松にもよくわかったし、隠居した今、その誇りではなにもできないということに苦しんでいるのではないかとは想像できた。あまりにも役目を忠実に、真面目に務めてきたばかりに、仕事を離れると趣味一つまともにすることができなくなっているのである。庭作りで余生を楽しむきっかけを作ろうとしたようではあったが、やはり加兵衛は役目以外のことに気持ちを傾けることができなかった。
これはわたくしがなんとかしなくては、小松はそう思った、隠居した以上、新しく生きる道を探さなくてはいけない、いつまでもやめた仕事の誇りにしがみついているのではなく、まったく違う生き方を認めるようにさせなくては。
小松はそう決意した。加兵衛はその日以来、めっきり外にも出なくなり、部屋で気が抜けたように日の落ちるのをただ待っているだけという日々を過ごしていた。夜は夜で眠れない日が続いているようで、日中にうとうとすることも多くなり、ますます一日中ぼうっとしてばかりいた。
あの散歩の日になにがあったのか、まずそれを探ろうと小松は考えた。
加兵衛が目をかけていた同心に杉山勘四郎という男がいる。彼はよく加兵衛に連れられて屋敷にも来ていた。小松がよく知っている同心といえば彼しかいない。小松はこっそり勘四郎に会い、加兵衛の様子を話し、協力を求めた。
「信じらません」
勘四郎は、小松から話を聞き、しきりにそう云って首を傾げた。「原様ともあろう人が、そんな腑抜けのように」勘四郎はそう云って、あわてて頭を下げた、「失礼しました」
「いいのですよ」小松は云った、「本当に今は腑抜けのようになっていますから、それより、今云ったことを頼まれてくれるかしら」
「そりゃあもちろん」勘四郎は胸を張ってうなずいた、「日にちと時刻がわかっていれば、訳はありません、奥様に出向いてもらって断れる道理がありますか、喜んで肌を脱ぎましょう」
「助かります」
「それで、なにか分ったらどうやって奥様にお知らせしましょう」
「小間使いにいそというのがいます、それによく云っておくから、手紙でかまわないから伝えてちょうだい」
「いそですね、分かりました、なに、二三日もあれば聞き出してみせますよ」
勘四郎は頼もしくそう云った。小松はその言葉に安心し、勘四郎に任せることにした。そして屋敷に帰ると、今度は自分の耳で聞き込みを始めた。
小松は、あの不機嫌に散歩から帰ったきた日以外に加兵衛に関して気になることがあった。それは半年ほど前のことであったが、加兵衛が急に部屋を今の離れに移し、囲碁を習い始めたことであった。それまで加兵衛は、隠居はしたものの、頻繁に訪れる客の接待を自分でしたり、いちいち長右衛門の仕事の経過を聞いていた。自慢の庭を見せながら客に会い、息子の長右衛門にあれこれ指示を出していたのだ。それがある日をさかいにもう客とは会わない、長右衛門にもなにも云わないと宣言をし、本当に隠居らしくしようと似合わない趣味をし始めた。
まずは加兵衛の変化がどこから来るのか知ることで、今後の対策の参考にしようと思ったわけである。
三
小松は一日家のものに聞いて回ったが、なにも聞き出すことはできなかった。次の日もまだ声をかけていないものに聞いて回ったが、なにも手がかりは得られなかった。
その日の夕餉を済ませると、小松は母屋に行った。食事は、加兵衛が隠居してから、二人だけで離れで別にとっていた。小松が居間に行くと、長右衛門と宗十朗が酒をつけて静かに食事を続けていた。
「どうですか、一緒に一献」
宗十朗は、小松を見ると肩の力を抜いたようにそう云った。
「わたくしが駄目なことは知っているでしょ」
「なに、お祖父様よりはいけますよ」
宗十朗はそう云って、盃を祖母に差し出した。
「馬鹿ものが」長右衛門が厳しくそう云った、「ここはおまえが通っているような場所ではない」
宗十朗は肩をすくめた。
「おまえに遊ぶなとは云わん」長右衛門は膝に手を置いてそう云った、「与力はもっとも下々の者等と近い武士だ、遊びが悪いと云わないが正すところは正さなくてはいけない、おまえのように万事が遊びの気分ではわしはもちろん父上もいつまでたっても安心できん」
「しかしそれのおかげてお祖父様も惚けずにすんでますから」
「見苦しいぞ」長右衛門は怒鳴った、「武士が云い訳するとは何事だ、その上、己の不始末を人のためなどと云う奴があるか」
「申し訳ありません」
宗十朗は不服そうに下を向いた。
「待ちなさい」小松は宗十朗の膳の前に膝を進めた、「そのことをお祖父様に云ったことはありますか」
「そのことといいますと」
「惚けるということです」
「そんなこと、云えるわけがありません」
小松は長右衛門のほうを向いた、「あなたはどうです」
長右衛門は動揺したように目をそらした。
「云ったのですね」小松が厳しく問いただした。
「直接云ったことありません」長右衛門は気まずそうにそう云った、「ただ、聞かれたのではないかと思うことはあります」
「いつです」
「さて、もう忘れました」
長右衛門は母親の勢いに押されながらも、平静を保とうと酒を注ぎ足してそう云った。
宗十朗は詰問される長右衛門を見てにやにやしていた。
「誰と話していたときに聞かれたと思ったのですか」
「かなえですが」
「かなえさんですね、ではかなえさんに聞きましょう」
宗十朗は、「奥にいるはずです」と云って素早く立ち上がり去っていった。
「どうしたというのです」
長右衛門は宗十朗の後ろ姿を睨みつけてそう聞いた。
「大したことではありません」
小松はそう云ってその部屋を出た。
かなえは七三郎を寝かそうとしていた。宗十朗に続いて小松が入ってきたので、かなえは驚いた様子で、興味津々という顔をしている宗十朗の顔を見た。
「母上にお聞きになりたいことがあるそうです」
「宗十朗」小松は云った、「あなたは下がっていなさい」
「なに、気にしないでください」宗十朗はそう云った、「わたしは七の奴を寝かせますから」
「あにうえ」七三郎は下唇を突き出して云った、「わたしはちちのやつではありません、ちちさぶろうです」
「おお、そうか、ちち三郎か」
「ちがいます、ちち、さぶろうです」
現在で云えば、七三郎はまだ三歳になっていない、言葉は覚えたが舌がうまく回らないことがあり、宗十朗はよくそれで弟をからかった。
「あなたはいいから、向こうへ行きなさい」
かなえがそう云った。
「いやなに、お祖父様はわたしの天敵みたいなものですからね」宗十朗はひょいと眉を上げて得意そうに云った、「お祖母様がいろいろ聞き回っていることに関係しているのでしょう、わたしも協力しますよ」
「まあ、そんなことまで知っているんですか」
「知らないのはお祖父様と父上だけですよ」
「宗十朗」かなえはそう云って目で叱りつけた。
「まあまあ母上、お祖母様も一人よりは味方がいたほうがいいのではないですか、わたしは家の中でも元之助や金右衛門、弥平なんかとも仲がいいんです」
「まあ」小松は目を見張った、「弥平は庭師ではないですか、そのようなことを自慢して、あきれたこと、 しかしいいでしょう、あなたの手を借りることもあるかもしれません」
「そうこなくちゃ」宗十朗は手を打った、「よし、じゃあ七三郎、みなは大事な話がある、おまえは一人で眠れるな、そうか、よし、じゃあ隣に行きましょう」
小松はかなえから話を聞いた。
かなえが夫に加兵衛の接客について聞いたことがあった。それはちょうど半年ほど前で、長右衛門が出仕のために着がえをしているときだった。
かなえはそれまでほとんどの客の相手を自分でしていたのだが、庭が完成すると加兵衛がすべての客と会うようになった。ただ、付け届けを記載しているのはかなえだったので、加兵衛がこれからもずっと客の相手をするなら任せたほうがいいのか、もし一時的なものならそのままでいいのか、それを長右衛門に聞いたのである。長右衛門は、加兵衛は客のこともすべて心得ているつもりなので下手なことは云わないほうがいいと云った。
「父上が直接客に会うとなると、人によっては説教など始めかねぬ、なにかと不都合なこともあるだろうが、父上のほうが話が早い場合もある」長右衛門はそう云った、「隠居はしたものの、父上は仕事以外はなにもできぬ人だ、当分の間は好きにさせておこう、わしも父上の忠告をありがたく聞くというふうにしておく、なにしろ惚けられたら困るからな」
その時襖を開けて加兵衛が姿を現した。おそらく息子になにか役目のことで話があったのだろう。長右衛門は大変驚いたそうである。しかし加兵衛も盗み聞きをしていたとは云えず、すごい形相で息子を射るように見て、黙ってそのまま去っていった。その次の日から接客にも出ず、離れに移って趣味を始めたという。
「そりゃあいけねえ」宗十朗が大げさに額を掌でたたいた、「それが後ろめたくて、さっき父上はあれだけ動揺してたのか」
宗十朗はしたり顔でうなずいた。
「結局父上がお祖父様をできもしない趣味人にしたってわけか」
「云い過ぎですよ」かなえが宗十朗を諫めた。
「分かりました」小松はそう云った。
「それで」宗十朗は云った、「お祖母様はなにをしようっていうんですか」
「それは分かりません」小松は首を振った、「あの人がどうして今のようになってしまったのかまず知っておきたかっただけです、どうすればこれまでのことを割り切って、新しくこれからの生き方を考えてくださるようになるか、それはこれから考えます」
「それは難しいですね」宗十朗は云った、「役目のことしか考えられない石頭ですからね、なにしろ今まで役目に関すること以外の言葉を聞いたことがありません、二十年間一度もですよ、よくもあれだけ堅くなれたものです」
「それ以上の言葉は許しませんよ」小松が珍しく厳しい声をだした、「あの人はそれを望んで、かたくなに勤めを果たしてきたのです、それを馬鹿にすることは許しません、少なくとも今のあなたよりは立派です」
宗十朗は自分に舌打ちをして頭を下げた。
「飲み過ぎました、いや、これは云い訳ですね、申し訳ありません」宗十朗はそう云って立ち上がった、「しかしお祖母様、わたしは本当に力になりますから、なんでも云い付けてください」
小松は優しく微笑んでうなずいた。
宗十朗は部屋に戻りながら、つぶやいた。
「今日は失言だらけだ、しかし、お祖父様は結局今はあのざまじゃねえか、おっとこれも失言か、いけねえいけねえ、なにしろ今の俺よりはましだっていうのは事実だからな、あれは痛てえや、なにしろ俺は金輪際この家では認められることはねえからな」
宗十朗はそう云って、悲しそうに笑った。
次の日、勘四郎から知らせがあった。あの日なにがあったのか分かったというのだ。勘四郎は手紙でそれを知らせてきた。
手紙によると、その日加兵衛はいつものように散歩へ出かけ、ふらりと魚屋へ入ったという。初鰹を買うのが目的だったらしい。初鰹の興奮も冷めかかり、値も下がっていたし、原家ではまだ鰹を食べてはいなかったので思い立ったようだ。初物だからといって飛びつくような習慣はなく、浮ついたことを加兵衛自身が嫌っていたのでそれまで初鰹をその時期に食したことはなかった。その日は梅雨なのによい天気であったし、加兵衛の気分がよかったのか、とにかく加兵衛は初鰹を買おうと思ったらしい。
自分にもそんな一面があるのだと、得意になって初鰹でそれを主張しようとする加兵衛を想像して小松は胸が痛くなった。
しかしいざ鰹を受け取ったときに、財布を持ってくるのを忘れたことに気がついた。後で持ってくる、それは困る、それが嫌なら原の家まで取りに来い、現銀でもらわなくては渡せない、というような問答があった。魚屋としても、顔は知らない上に、与力支配の原加兵衛だと云われても信じることはできなかった。自ら魚を買いに来ることもおかしいし、どう見ても粋で通った与力とは思えなかったということである。
「与力と云えばびびると思ってるのかい」魚屋は、加兵衛の高飛車な態度に怒ってそう云った、「どこの田舎から出てきたお武家様かしらねえが、銭はねえが品物は渡せなんてことが通ると思ったら大間違いだ、おととい来やがれってんだ」
このように罵倒され、回りからも白い目で見られ、加兵衛は顔を真赤にして逃げるように去っていったという。
手紙には、勘四郎が本物の原の隠居だと云ったことで、魚屋は惨めなほど恐縮し、お詫びに伺うと云っていたが、それはやめさせ、よく叱っておいたとあった。
小松はそんなことより、加兵衛がその時受けた痛手を思った。与力支配を務めたことだけが誇りであったのに、それは通用せずにかえって恥をかいた。しかもそれは自分が財布を忘れたという失態からである。ただ一つの誇りを傷つけられたのだ。しかし加兵衛は財布を忘れたという負い目があった。それまで認めていなかった物忘れの多さを痛感したかもしれない。どちらにしてもひどく打ちのめされたことは確かで、それはその後の加兵衛の様子を見ていれば分かる。
自信をなくしたせいなのか、夫は自分を責めている。小松はそう思った。早く手を打たなければ、ますます自分を責めていくかもしれない、小松はそう考えると気が焦った。
しかしどうすればいいのか。これまでで分かったことは、一つは、隠居してからも家の中で与力としての仕事をしていたが、「惚けられると困る」と云われ、それに反発して趣味を始めたこと。もう一つは、与力としての誇りが傷つけられた上に、物忘れが多くなったことを実感したという痛手で自信を喪失していることであった。
二つとも、与力支配原加兵衛であるという誇りに関わっている。与力という役目の中でしか生きてこなかったという加兵衛の生き方が、今の脱力感しかない彼を生み出してしまった。
その誇りを同じように呼び覚ましても、少し前の状態に戻るだけで意味はないだろうと小松は思った。しかしこのままではすぐにでも惚けてしまう、考えが煮詰まった小松は、宗十朗に相談した。
「なるほど、これまでの自信があだになっているというわけですか」宗十朗は、小松の話にため息をついた、「自分からなにか行動を起こす気にもならないというのは、必要とされる場所がないのでなにもできないということでしょう、しかしそれは自分で探さなくてはいけないものでしょう」
宗十朗はあごをなでまわし、考えた。
「なにかいい考えがあるのかい」
「まあ、待ってください」
宗十朗はしばらくつぶやきながら自分の考えをまとめようとした。そのうちに徐々に顔が明るくなってきた。
「これはいい」宗十朗は自分自身にうなずいた、「一石二鳥だ」
「まずお祖父様の抜け殻のような体に魂を戻しましょう」宗十朗はそう云った、「そして、活力を戻して、最後にはこれまで正しいと信じてきた人生とは別の生き方をお祖父様自身に認めさせればいいのですね」
「そんなに簡単にいくかしら」
小松は自信あり気な孫を危ぶむように見た。
「お祖父様のような頭の堅い人はなにを考えるか分かりやすいんですよ、とにかくわたしに任せてください、もちろん、お祖母様はすべてわたしのやり方に従っていただきますよ」
宗十朗は、首を傾げる小松に耳打ちをし、これからどうするかを話した。
「そうね」小松は眉を開いて云った、「そうするしか今はないでしょう、やってみましょう」
「その後のこと、特に最後のつめは一世一代の賭けですから、わたしもよく考えておきます、お祖母様はとりあえず今云ったことを頼みます」
「賭けだなんて、なにをする気ですか」
「それはよく練った上でまた話します」
四
梅雨はもう明けたようで、じっとしていても汗がにじむような熱い日差しが照りつけていた。すべての戸を開け放ち、加兵衛は差し込む日光をさけて横になっていた。庭に背を向ける格好で肘をついて横たわり、面倒くさそうに団扇を動かしていた。
小松が七三郎をつれて入ってきた。加兵衛はまるで気がつかないかのように、変わらずに団扇を使っている。
「さあ」と云って小松は孫の背中を押した、「お祖父様に聞きたいことがおありでしょ、聞いていらっしゃい」
「おじいさま、おじいさま」
七三郎はそう云って加兵衛の背中を押した。加兵衛は孫に目をやって、億劫そうに起き上がった。
「おじいさま、聞いてもいいでか」
七三郎は加兵衛の膝の上に乗った。
「あらあら、そんなふうにしては重いでしょ」
小松はそう云って孫を自分の前に座らせた。
「なにが聞きたい」
加兵衛は孫の相手も面倒だと云わんばかりの顔でそう云った。
「ええと」七三郎は聞くべき言葉を忘れてしまったのか、小松の顔をじっと見つめた。
小松は素早く加兵衛の顔色をうかがった。加兵衛は七三郎の様子には気づいていないようだった。
「まあ、忘れてしまったの」小松は七三郎になにも云わせないように間を開けずに云った、「ぼけっとしているからそんなことになるのよ」
七三郎はうれしそうに顔をあげた。
「おじいさま、ぼけるってなんですか」
「まあ」と驚いたように小松は口に手を当てた。
加兵衛は明らかに動揺していた。孫の顔をじっと見つめたまま、口元が引き攣ったようにぴくぴくと動くのが見えた。
「誰が云ってたのだ」加兵衛は孫の目の前に顔を近づけて一言一言区切るように云った、「誰から聞いたのだ」
「いけませんねえ、お祖父様を怒らせて」
小松は、七三郎の口を押さえて「あっちに行っていなさい」と云って、向こうにつれていった。
「さあ、お菓子を上げますからもうお母様のところに行ってらっしゃい」
小松がそう云うと、七三郎は喜んで走っていった。
加兵衛は不機嫌そうに腕を組んで座っていた。小松はなにくわぬ顔で座った。
「困りましたこと」小松は云った、「家のものが云った言葉をすぐに覚えてしまうのねえ」
加兵衛は一点を見つめて、「家のもの」とため息のようにつぶやいた。
小松はその様子を確かめて、静かにうなずいた。
明くる日、昨日とは変わって雲が多く、風も強くいくらか過ごしやすい陽気であった。加兵衛は珍しく部屋を出て庭をうろうろとしたり、部屋でも本をめくっては閉じたりと落ち着かない様子だった。 小松は風のため閉めておいた障子戸を開けた。盆栽はこの数日の陽気のおかげで枝を伸ばし始めていた。手入れがされないそれらの鉢は、勝手に枝を伸ばし、葉を広げているため全体の調和がなくなりぶざまですらあった。小松は伸び上がって庭のほうを見、声をあげた。
「あら、もうぼけが」
加兵衛はきっと顔をあげて小松を見た。小松は振り返り、なにくわぬ顔で加兵衛を見て云った。
「すっかり散ってしまいましたね」
「誰のことだ」
睨みつける加兵衛の視線を気にしないかのように小松は云った。「でも、玄関のさるすべりはじきに咲きそうですわ」
加兵衛は不機嫌そうに息をはいた。
「そういえば佐久間様が病に伏しているとか」
小松は済ました様子で話を続けた。
「佐久間」加兵衛は小松を見た、「元丈殿か」
「ええ」
「それで病はなんだ」
「なんでしたかしら、とにかくなにかのご病気だと聞きましたけど」
「もう八十に近い、心配だ、見舞いに行こう」
加兵衛は、見舞いの品の用意と先触れに佐久間へ人をやるよう命じ、着がえを出すようにと小松に云った。
「佐久間様も確か半年ほど前に隠居されましたね」小松は加兵衛にそう聞いた。
「うむ、わしとは違い、痛風で出仕ができなくなるまで続けたのだ」
「うらやましいことですね」
加兵衛は目を閉じた。自分も動けなくなるまで続ければ良かった、そう思っていることは小松にはすぐに分かった。
与力という役目は経験が大切である。宗十朗が今そうであるが、十二三になると父親について見習いとなり、六十を越す頃にやっと一人前になる。本来長右衛門のように四十代で父親の跡を継ぐことは異例である。しかし加兵衛はその慣例に否定的であった。少なくとも加兵衛は、息子に必要なことはすべて教え、長右衛門もそれに十分こたえられていると判断した。経験は確かに得難い大切なものである、しかし一方で若い力を入れていく必要があると考えていた。まだまだ働けると思いながらも、加兵衛は長右衛門に後を任せ、隠居する道を選んだ。長右衛門ならば後を任せるに足りると信じていたし、そうしたことを間違ったとは思っていなかった。しかしやはり、ぎりぎりまで務めたかった、そう思っているだろうと小松は加兵衛の表情を見て思った。
加兵衛は見舞いに出かけた。小松はどうなるか、不安を抱えていた。小松は嘘をついた。佐久間元丈は軽い卒中で倒れたのだ。そのおかげで惚けが始まっていることも宗十朗から聞いていた。
佐久間は原と同じく与力支配であった。加兵衛はもう五十年あまり元丈とともに仕事をしてきた。その元丈が惚けているのを見れば、加兵衛は必ず危機感を持ち焦るだろうというのが宗十朗の考えである。
加兵衛は見舞いから戻ると机の前で頭を抱えた。着がえもせずに、加兵衛は悲しげな目で、苦痛にさいなまれるように机に肘をついてうめいた。
小松はとても声をかけられなかった。加兵衛にはむごい現実であるが、これで変わってほしい、祈るように小松はそう思った。
二日もすると加兵衛は碁盤に向かい始めた。ただ加兵衛は碁の遊び方を知らなかった。一度聞いたのだがよく理解できなかった。この歳で人から教わることは意に反するようで、すぐに碁はやめてしまい、今度は将棋にした。これは駒の並べ方と動かし方を紙に書いてもらったものを見て始めた。ある程度覚えてから、家の中でもっとも弱いものを探して相手をさせた。加兵衛は勝てなかった。三回に一度は勝ち、相手もほめるのだが、明らかに加兵衛に勝たせるために手を抜いているのが分かり、これもやめてしまった。
小松は見ていられなかった。加兵衛の自尊心の高さは相当なもので、人から習うのは嫌だし、勝負事に負けるのも許せない。惚けを恐れるまでは宗十朗の考えた通りに進んでいるが、これでは先が思いやられた。
しかし宗十朗はそれでいいと云った。自分から行動を起こしていることに価値があるのだと云った。
「あとはお祖父様に合うものを探していきましょう」
宗十朗はそう云って、なにがいいのか小松と相談した。
「釣りはやらないのですか」
ある日、小松はそう切り出した。
「釣りか」加兵衛は眉を寄せた、「やったことがないことは知っておるだろう」
「浅草川の鯉はおいしいそうですね」小松は云った、「一度食べてみたいものですわ」
「わしに釣ってこいと云うのか」
「でもあなたには無理でしょうね」小松はそう云った、「なんでも釣りは根気がいるそうですから」
「なに云うか」加兵衛は云った、「わしがまるで根気がないかのようではないか、鯉ぐらいいくらでも釣ってみせるわ」
「まあ、楽しみですこと、あなたの釣った鯉で一杯というのも良いですねえ」
「おまえがか」
「はい、もちろんあなたも一緒ですけど、自分の釣った魚は一段とおいしいそうですからね」
「うむ」加兵衛はまんざらでもないという顔をした。
数日のうちに加兵衛は道具を揃えて釣りに出かけていった。釣りを知っているという家僕を一人つれて、「時期が合うかどうか分からぬ、期待はするな」と小松に云い残していった。
日が暮れてから帰ってきた加兵衛は、鯉と鮒をそれぞれ二匹づつ持ち帰ってきた。大変機嫌がよく、自ら台所に入り、これは洗い、これは鯉こく、などと指示を出していた。早速その日の二人の夕食に鯉が並んだ。あまり飲めない加兵衛もその日は酒を付け、いつもよりも飲んでいた。
「こいつだ、こいつが最初に釣れた鯉だ」
加兵衛はそう云って、得意そうに料理に使われた魚の解説をした。そして、小松に釣りの楽しさを饒舌に話して聞かせた。魚がいかに竿を引くか、その竿がどれだけしなり、力がどれだけいるか、加兵衛は楽しそうに話した。
「でもやっぱり」小松は洗いを口にして云った、「鮒は少し臭いですね」
「馬鹿なことを云うな、これはすべて鯉だ、」加兵衛は不満そうに云った、「今日は少し小振りだった、それで泥くささが抜けないのだろう、明日はもっと大物を釣ってみせる」
「あら、鯉でしたか」小松はそう云った、「そう云われるとおいしいように思えますわ」
小松はもう一切れ口に入れて微笑んだ。
「ほんと、おいしいこと」
それから連日、加兵衛は釣りに出かけた。徐々に釣れる数も多くなり、大きめの鯉だけを三匹四匹と持ち帰るようになった。
原家では、式日には一家がそろって食事することになっていた。その日は七夕で、加兵衛は朝早くからはりきって出かけていった。その結果、夕餉には一人一尾づつ鯉が膳に並んだ。
「やっとわたしたちにも鯉が回ってきましたか」
宗十朗はうれしそうに箸を付けた。
「なんだ」加兵衛は云った、「欲しければいくらでも出してやったものを」
「鯉しか釣らないのですか」長右衛門が不服そうに云った、「できればしび(まぐろ)や鮭が欲しいですな」
「そんなものは江戸では釣れん」加兵衛はそう云った、「いらんのなら宗十朗にでもやれ、鯉の味が分らんとは舌のできていない奴だ」 加兵衛は七三郎の方を向いた。
「どうだ、うまいか」
「まずい」
七三郎はそう云って舌をだした。
五
「七にはまだ早いんだな」宗十朗がそう云った、「お祖父様、今度わたしもつれていってください、わたしもなかなかうまいものですよ」
宗十朗は、右手で竿を振るまねをした。
「おまえは役目のことだけ考えておればいいのだ、遊びを覚える暇にやるべきことは山ほどあるだろう」
加兵衛は不機嫌であった。箸がすすんでいるのは宗十朗だけで、小松も連日の鯉に飽きたのか無理に食べているという印象を受けた。意気揚々とした気分がすっかり台無しになり、加兵衛は自分の食事が済むとさっさと部屋に戻ってしまった。
食事が終わると、宗十朗は小松を自分の部屋に呼んだ。
「釣りは正解でした」宗十朗はそう云った、「さすがお祖母様はよく分かっていますね」
「そうね」小松は云った、「とりあえず活気は取り戻してくれたようで、一安心だけど」
小松はため息をついた。
「なに、釣りを楽しめる気持ちになれたことが肝心なのです、あのうれしそうな顔はここしばらく見たことがありません、父上がもっと誉めればよかったんですが、まあいいでしょう、口数も多くなってきたようです」
「そうね、最近はよく外に出てくれるからそれはいいけれど」と云って小松は続けた、「でも、運良く釣りが楽しかっただけで、またいつ飽きるか分からないし、楽しいもので気持ちをごまかしているだけではないかしら」
「もちろんそうです」宗十朗はそう云った、「しかし、お祖父様が役目以外のことで楽しいと思えることがあると分かればそれでいいのです、わたしへの小言も戻ってきています、惚けるのが恐いと思っている以上、これからもいろいろ試すことでしょう」
宗十朗は口を閉じ、小松は後を待った。
「あとは仕上げです」
宗十朗はそう云った。
「まだあるのかい」
「ええ、これが一番難しい、しかし、やらなくてはいけません」宗十朗は小松の顔をじっと見た、「お祖母様、わたしに協力してくださるという話しは覚えていますね」
「分かってますよ」小松はうなずいた、「今まではあなたの云う通りにしてうまくいっているようです、でも、なにをすると云うの」
「お祖母様は云っていました、お祖父様に新しい別の生き方を受け入れてほしいと」
「そう云いました」
「お祖父様に受け入れてもらいます」
「どうやって」
失礼と云って、宗十朗は小松の耳に口を当てた。
「まあ」小松は大きな声をだした、「なにを云うの、そんなこと、誰が許すというのです」
宗十朗は落ち着いて云った、「まずはお祖母様です、そして、お祖父様にも認めてもらいます」
「無理です、許されるわけがありません」
宗十朗は決意を込めた目で小松を見つめた。小松は首の後ろに手を当てて、しばらくなにかを考えていた。
「そんな思いつきのようなことを云って、そんなことが許されるとは思えないわ」
「思いつきではないのです」宗十朗は真面目な顔をして云った、 「わたしはずっと思っていました、わたしは武士には向いていない、ましてや与力になれる器ではないし、なりたいとも思わないのです」「気づかなかったわ、そんなことを思っていただなんて」
「ずっと苦しんでいました」宗十朗は目を伏せた、「わたしはお祖父様や父上とは違う、役目に一生を捧げたいとは思えないのです、わたしは自分の一生をやりたいことをするために使いたいのです」
「それが医学だというのですか」
「そうです、以前からずっと興味がありました」宗十朗はそう云った、「本もたくさん読みましたし、しばらく前からある医者のもとへ通って教えを受けています」
「そんなことまで」
「すみません、実はお祖母様からいただいた小遣いは、みな貴重な本のために使いました」
「そう、遊びに使っているんだとばかり思っていたのに」小松は目を閉じてそう云った、「つまり、それだけ本気だということですね」
宗十朗はうなずいた。
「これは愚痴だと思っていただいてかまわないのですが、わたしはお祖父様のようにはなりたくないのです」宗十朗は訴えるようにそう云った、「役目の中だけで生きてきて、積極的な姿勢も、築いてきた自信も、すべてその中で育ててきた、だから役目を離れるとなにもできない、決められた仕事の中でしか物事を自分の力で考えることもできないのです」
小松は黙って聞いていた。宗十朗は高まってきた気持ちを押さえようと、息を大きくはいた。
「それが悪いのだとは云いません、そうしなくてはとても勤まらないのですから、ただわたしは違うのです、わたしは市井の中で医者として」
「もういいでしょう」小松がそう云って遮った、「分かりました、協力すると云った以上、わたくしは味方になりましょう、そうね、そのほうがあなたには向いているかもしれません」
宗十朗は頭を下げた。
「これがあなたの云っていた賭けですね」小松はそう云って笑った、「それにしても大きな賭けですこと、お祖父様は腰を抜かしてしまうかもしれせんよ」
「実はまだ、どう切り出したものか考えあぐねているのですが、策はあります」宗十朗は云った、「時間はかかると思いますが、お祖父様がこれまでの生き方に少しでも疑問を持っていれば話しは早いかもしれません、お祖母様はまず、それを聞き出してください、お祖父様と少しでも多く話をして、どんなことを考えているのか探るのです、そして、ひいお祖父様のことを話のはしはしに出して、思い出させてください」
「それはどうかしら」小松はそう云った、「あんなにかたくなに役目を果たしたのは亡きお父上に反発していたからですよ、なにしろあきれるくらいの遊び人で、何度与力支配を解かれそうになったか、八十まで妾を作って入り浸るし、お亡くなりになったのは岡場所ですからね」
「それは本当ですか」宗十朗は目を丸くした。
「そんなことは人様に云えません、隠していたけど岡場所と云っても女郎部屋のようなところだったと聞いてます」
宗十朗は声をあげて笑った。
「それはすごい、とても父子とは思えませんね」宗十朗はそう云って、確信したようにうなずいた、「ひいお祖父様の幸せな老後を思い出させるのです、そういう人生も間違いではないと、今のお祖父様ならそう思うかもしれません」
「わたくしはどうしていいのか分かりません」小松は云った、「あなたの策にすがるしか今はないようね、やってみましょう」
宗十朗はひとまず安心し、肩の力を抜いた。
「それにしてもすごいですね、わたしはその血を強く引いたのかもしれません」
「いいえ」小松が云った、「あなたはわたくしに似ているようです」
「そうでしょうか」
「これも内緒にしてたのですけど」そう断って小松は云った、「わたくしは町人の娘でした、おそらくその血があなたに強く出たのでしょう」
宗十朗はあきれたように首をかしげた、「そうなんですか、今日は驚いてばかりだ」
「なにを云うんですか」小松は右手を軽く振った、「武士をやめるだなんて、驚いたのはわたくしのほうですよ」
「違えねえ」宗十朗はそう云って頭を掻いた。
それから小松の奮闘が始まった。
加兵衛にまったく気持ちを入れ替えて隠居生活を送ってほしいという気持ちはあった。釣りは楽しんでいるが、それは単に釣りが楽しいというだけで、加兵衛自身のなにかが特別変わったいうわけではない。その上、目に入れても痛くない孫のこれからの命運もかかっている。小松は、時間をかけてでも夫の気持ちを探り、意識を変えていこうとした。
加兵衛は釣りを沖釣りに変えていた。釣り仲間もできたようで、時たま一緒に食事をしてくるようなこともあった。海が荒れて釣りに出られない日はつまらなそうに道具の手入れなどしていた。
小松は加兵衛の釣りの腕を誉めたたえ、このまま終わる人ではないと思っていたなどと持ち上げたりもした。今は釣りへの気持ちを持ち続けてほしかった。小松がうまく乗せていたおかげか、加兵衛は釣りを続けていた。
少しずつではあるが、加兵衛はほかのことにもいくらか積極的になり、将棋もまた始め、佐久間の見舞いにもよく行くようになった。
ある日のこと、珍しく加兵衛がなにかの本を読んでいたことがあった。小松が聞くと、なんでも佐久間元丈の痛風がひどいらしく、良い薬はないか、食事はどういうものがいいのか、それを調べているのだという。小松は目を輝かせて賛同し、もっといろいろ調べようと自分から本を探してみると云って、こっそり宗十朗から借りたりもした。加兵衛は根気よくそれらの本を読んだ。
小松は暇を見つけては加兵衛に話しかけるようにしていた。
「長右衛門はずいぶんあれしているようですね」
「あれとはなんだ」
「いえ、立派に務めを果たしているようで」
「当然のことだ」
「でもあれですわね、あなたはお父上に反発ばかりしていたのに、長右衛門はずいぶんあなたの云うことを聞きましたね」
「わしと父上を一緒にする奴があるか」
「子供は父親に反発しながら生きていくと誰かが云っておりましたわ、その割りに長右衛門はあなたによくしたがって、誰に似たのかしら」
「母上だろう、それより、いったい誰が子供は父親に反発するなどと云ったのだ、子は親に従うものではないか」
このように話すこともあった。
「釣りは楽しいですか」
またこのように話しかけることもあった。
「うむ、掛かったときの感触は忘れられん、こればかりは口で云っても分らんだろう」
「良かったですね、余生を楽しむものが見つかって」
「余生などというものではない、わしはまだまだなんでもできる」
「まったくその通りですわ、あなたにはたっぷり時間がありますからね、これからはあなたの云ったように、お父上に従って遊びを覚えなくてはいけませんね」
「誰に従うだと」
「あなたのお父上よ、なにしろ息をつく暇もないほど芸事をして、茶屋に通って、趣味もたくさんありましたし、今のあなたには見習うところが多いでしょうね」
「なにを云うか、わしにこの歳で妾を作り女遊びをしろと云うのか」
「お望みでしたら目をつむりますよ」
「馬鹿を云うな」
「それに、お父上は女遊びだけではなく、なんでもお上手で、釣りの腕もとても良かったそうよ」
多くの場合はこのように、なるべく宗十朗の云った通りに話をする。宗十朗は十日に一度の割合で、小松に経過を聞いた。小松は、加兵衛が惚けに危機感を持ち以前のように趣味に積極的に取り組み、しかもそれが順調であることなどを報告した。
「わたしの策がうまくいっているわけですね」
宗十朗は加兵衛の変化を聞くたびに満足げにそう云った。
「抜け殻だった体に魂が入ったというわけです、この調子でお祖母様はうまくお祖父様の心を、別な生き方を認めるように導いてください」
「今のやり方でいいのかしら」小松は自信なげにそう云った、「もしかしたら、釣りのおかげで活気を取り戻しただけかもしれないでしょう」
「いえ、お祖母様の力です」宗十朗は云った、「ここまでお祖母様がやってくださるとは思っていませんでした、お祖母様が毎日何かと話しかけて導いているからこそ、お祖父様の気持ちが変わっていったのです、あのお祖父様が軽口をきくようにもなった云ったではないですか、これは大変な変化ですよ、わたしを信じて、もうひとふんばりしてください」
小松はうなずいた。今は孫の云う通りにするしか方法はないし、事実確かに加兵衛は変わってきている。それは毎日加兵衛と会話をしている小松にはよく分かった。それに小松自身も夫と話をするうちに変わっていった。
これまで夫婦でそのように会話を交わすことはなかった。加兵衛は役目のことしか頭になかったし、小松にも必要なことを命じるだけであった。もちろん、宗十朗の云いつけ通り、加兵衛の心を探り、こちらの意図するほうに引っ張っていこうとするのが当初の目的ではあった。しかし、これまで夫とこのように話をすることはなかったので、いつもなにかと話しかけているうちに、これまでになく、夫婦として心が通じ合ったようにも思えた。恥ずかしいことだが、娘に戻ったように加兵衛の言葉に一喜一憂することもあった。そしてそれが小松にはなによりもうれしかった。夫が抜け殻のような状態から立ち直ったことよりも、四十年におよぶ夫婦生活の中で、初めてじかに心が通じ合うような何気ない会話のやりとりが小松を幸福感に包んだ。
だが小松も自分の使命を忘れているわけではない、なんとか夫の気持ちを変えようと考えられる限りの手を使った。
時には、加兵衛の前で何度もため息をついてみせりもした。
「どうしたというのだ先ほどから」
「失礼しました」
「なにか困ったことがあるのか」
「いえ、別にたいしたことではないのですけど、実は宗十朗のことで」
「またなにかやらかしたか」
「そうではありません、宗十朗がいつまでたっても務めに気が入らないのはわたくしのせいではないかと」
「確かにおまえは甘やかしすぎる」
「そういうことではないのです、わたくしが町人の出なばかりに、宗十朗があのようになってしまったのです、すべてわたくしのせいですわ、わたくしが原の血筋を変えてしまったんです、宗十朗がもしあなたのような立派な与力になれなければ、それはわたくしのせいです、その時はわたくし自害します」
「待て、なにを云う、そなたを娶ったのはわしだ、宗十朗がだらしがないのは誰のせいでもない、役目の大切さが分からない宗十朗の責任だ、おまえがそんなことを気にする必要はない」
「いいえ、それもこれもわたくしの血のせいですわ、長右衛門は幸いあなたに似ましたけど、宗十朗はわたくしに似ております、すべてわたくしの責任です、あなたと一緒に極楽に行けないのは悲しいけど、わたくしも武家の妻、責任の取り方は知っています、許してくださいますね」
小松は顔を覆って泣いた。
小松のこのような努力は二月以上におよんだ。小松の目では、ここ一月の間に加兵衛が特に変わってきたように見えた。それは自分の誘導のせいなのか、加兵衛自身が釣りを通じて世界を広げたせいかは分からなかった。とにかく、加兵衛は明るくなった。以前は小松と話すときも相槌を打つ程度だったのに、自分から話しかけてくることがあるばかりか、声をあげて笑うこともあった。
加兵衛は日に日に優しくなったようにも小松には感じられた。小松を気遣うこともよく云うようになり、目もとも穏やかになった。
小松はそろそろ宗十朗のことを切り出してもいいのではないかと考ええていた。うまくいくのではないか、そう思えるようになっていたのだが、ただ、加兵衛は二人で手を組んでいたことが分かればきっと怒るだろうと、そう思うと躊躇した。これまでになく夫婦の中がうまくいっている、それが壊れるのが恐かったのだ。
宗十朗にまだ駄目かと聞かれても、小松は曖昧に返事をすることしかできなかった。
ちょうどそんなときに、加兵衛が宗十朗を呼べと云ってきた。夕餉済ませ、茶を一服したところであった。
「またお小言ですか」
「そうではない、いいから呼んでまいれ」
加兵衛の口調には強い意志が感じられた。小松は誰かから聞いて分かってしまったのだと青くなった。
小松は足下が崩れるような錯覚を感じながらも、自分から宗十朗を呼びにいった。
「大丈夫です」宗十朗はおろおろとする小松にそう云った、「いったい誰がお祖父様に話すというのですか、誰にも聞かれないように注意してきたのです、お祖父様の耳にわたしたちが企んでいたことが入るわけはありません、安心してください」
「でも」小松は不安そうに云った、「お顔が厳しかったし、お小言ではないと、そう云ってましたのよ」
「とにかく行ってみましょう」宗十朗は自分中に沸いてくる不安を消すようにそう云った、「案外なんでもないかもしれまんし、悪くても、医者通いのことを知ってわたしがこっぴどく叱られるだけでしょう」
宗十朗は思いつきで云ったその言葉が、案外当たっているかもしれないと思った。
「医者通いか、それならありえます、もしそうなら」宗十朗は口を引き締めた、「わたしはお祖父様にあのことを話します、もしお祖父様が反対されるのなら、わたしは家を出ます、反対するようでしたら、お祖母様はなにも云わないでください、お祖母様も初めて聞く、そういうことにしておいたほうがいいでしょう」
小松は不安な気持ちのまま、宗十朗を加兵衛のもとに連れていき、そのまま下がろうとした。
「おまえもそこにおれ」
加兵衛にそう云われ、小松は緊張した様子で襖の前に座った。
「宗十朗の隣へ」
「お祖母様もなにか関係があるのですか」宗十朗はかばうように身を乗り出した。
「いいからこっちへこい」
加兵衛は二人を並ばせ、「さて話してもらおうか」と云った。
小松は分かるほど縮み上がり、強く握った手の甲が白くなっていた。宗十朗は腹に力を入れた。
「なにをでしょうか」
「わしに話があるのではないのか」
「聞いたのですか」
「わしは誰からもなにも聞いておらん」加兵衛はにやりと笑った、「まだまだ甘いな、このような手に掛かるようではとても与力にはなれん」
「誰に聞いたかは知りませんが、確かに話しはあります」
「誰からも聞いてはいない」
「ではいったいなぜ、話があると分かったのですか」
加兵衛は笑った。
「分からぬ道理があるか、小松とは連れ添って四十年だ」
小松が顔をあげた。加兵衛は小松に微笑みかけた。
「どうせ宗十朗の入れ知恵だろう、そなたには嘘はつけん、随分と努力をしていることは分かったがな」
「お祖母様は悪くないのです」宗十朗は手をついて平伏した、「すべてわたしの云う通りにしていただいただけです、お祖母様を責めないでください」
「そんなことは分かっている」加兵衛はそう云った、「小松を使おうと思ったおまえの見当違いだ、顔を上げろ」
加兵衛は勝ち誇ったように宗十朗の顔を見た。
「このわしに策を掛けようなどというのは百年早いわ、小松があまりに真面目なのでな、掛かったような振りをしていたのだ」加兵衛は小松に云った、「しかしそれは別にしても、そなたとのやりとりはなかなか楽しかったぞ」
加兵衛は暖かな目で小松を見た。そんな加兵衛の様子を見て、宗十朗は気を強く持った。
「ひどいですわ」小松は顔を赤くして加兵衛をたたくまねをした、「知っていらっしゃったなんて、わたくし真剣でしたのに、あんまりじゃありませんか」
「あんなに白々しく話を切り出され、挙げ句の果てに自害するなどと云い出して、おかしいと思わぬほうがどうかしている」
「自害ですか」宗十朗はあきれたように目を覆った、「しかし少し前までのお祖父様でしたらもう少しうまくいったでしょう、こうなったら仕方ありません、わたしがすべて話します」
「うむ」加兵衛はうなずいて云った、「して、武士をやめてどうする」
宗十朗はあっけにとられて口を開けた、「そこまでご存じでしたか」
加兵衛はじっと孫の顔を見ていた。それは腕利きの与力の頃と同じ目であった。下手な小細工はできない、宗十朗はそう観念した。
正面から行くしかない、そう考えて宗十朗はしっかり顔をあげて云った、「医者になります」
「医者か」加兵衛は意外だったようで、感慨深げに唸った、「するとあの本はおまえのだったか」
「反対されないのですか」宗十朗は恐る恐るそう云った。
「反対するつもりなら知らん顔をしておくわ」
加兵衛は、顔を崩して宗十朗にうなずいた。
「信じられません」
「ただし、長右衛門がなんと云うかは分らんぞ」
「勘当は覚悟しております、お祖父様が許してくださるならそれだけで十分です」
「幸い七三郎がいる、長右衛門にはわしから云っておこう」加兵衛は頼もしくそう云い、声を低くした、「わしも医学には近頃興味がある、だからというわけではない、この家を捨てるのだ、途中であきらめることは許さん、必ずや立派な医者になれ」
「しかと」宗十朗は平伏し、声を震わせて云った、「しかと約束いたします」
「でも、本当に信じられませんわ」小松がうれしそうにそう云った、「まさかそんな簡単に許していただけるだなんて、思ってもいませんでしたもの」
「わし自身、自分が信じられん」加兵衛はそう云って笑った、「ただ与力になるのが嫌で小松を使ったのだとしたら、許さないつもりだった、そうではないと分かってもこれほど心が乱れないのは不思議だ」
「するとやはり」宗十朗は気をよくして云った、「わたしの策がうまくいったのでは」
「調子に乗るな、おまえなどに手玉にされるわしではないわ」加兵衛は鼻を上に向けてそう云った、「方法はどうであれ、妻にあそこまでさせるほど心配をかさせけて、なにも感じぬほどわしは情けない男ではないということだ」
「宗十朗」加兵衛は云った、「良い妻を娶れ、町娘でもなんでもいい、ただ、そうだな、わしの経験だと少し抜けてるくらいがいいかもしれんぞ」
「まあ、わたくしは抜けておりますか」
加兵衛は笑うことでそれに答えた。
「するとこのたびはすべてお祖母様の愛情の力というわけですか」宗十朗は苦笑いをしてそう云った、「お二人には心底まいりました、あとのことはすべてお祖父様にお任せします、なにしろわたしではどんなぼろを出すか分かりませんからね」
「あら」話を聞いていた小松が得意そうに云った、「わたくしに任せておいたほうが良いのではないですか、結局はわたくしがうまくやったということなら、わたくしのほうがいいかもしれまんよ」
加兵衛と宗十朗は顔を合わせた。
「それならかなえを使って、長右衛門を調略するか」加兵衛は冗談めかしてそう云った。
「母上ですか」宗十朗も加兵衛に合わせて砕けた調子でそう云った、「それならわたしの策と変わらないではないですか」
「まあ」小松は真面目な顔で云った、「それならわたくしがなんとかしますよ、なにしろわたくしは……」
「もうよい」加兵衛が手をあげた、「まったく、おまえにはかなわぬわ」
おわり