(一)
うつむいて足元を見ると、ここに立ち始めてから一時間のうちにすでに五本の煙草に火を付けていたのがわかった。踏み潰された彼らのなかに、新たにもう一本加わえてやる。これで六本。まだ吸ってくれとでもいいたげな煙りを出し続けるそれを、ぼくは容赦なく踏み消した。当然、一時間も待たされているというストレスを解消するかのようにひねりをいれて。
目をあげて通りを見ると、想像以上の人ごみに車酔いに似た吐き気を感じる。無理もなかった。土曜日の夕方、それも手に入らないものなんてなにもないような、あらゆるモノが詰め込まれた大きな町の真ん中。蜘蛛の巣の中心のようなところにぼくは立っているのだから。その人ごみの中から、ぼくはK子を探していた。……じゃあ明日、六時にあの広場のモニュメントの前で。電話口でそう言ったのは、ほかでもないK子だった。
K子から電話が掛かってくるなんて珍しいことだった。たいていは、彼女の要望もあって、ぼくのほうから彼女の携帯電話に電話を掛けていたし、彼女からぼくに連絡をとるときは、電話など入れず、直接ぼくのワンルームのアパートに会いにきていた。それは昼夜を問わず、いつだったか夜中の二時にきた事もあった。どちらかというと感情的な女だった。そう、あの日はまだ梅雨があけたばかりで、体中にかびが生えてきそうな嫌な夜だった。――どうしたの、こんな夜中に。……ごめんなさい。扉を開けると、細い腕で、自分の体をささえるように抱き締めながら、K子が立っていた。何かあったのか?彼女は立ち尽くしたままで返事をしない。とにかく入れよ。そう言うと、彼女は申し訳なさそうに部屋に上がる。玄関の扉をしめる間際、すれ違ったK子の体は小刻みに震えていた。雨が降ったわけでもなく、季節柄もう寒いということも考えられなかった。……あいたかった。しばらくして、ぼそりとK子が言った。しかし、それが嘘であることはすぐにわかった。なぜならK子は、こんな夜中に会いたい一心で来たにもかかわらず、体をすり寄せることはおろか、手に触れることもぼくの顔を見ることすらなかったからだった。ぼくにはむしろ、拒んでいるようにさえ見えたくらいだった。――ひとはひと。そういう思いがぼくのなかにいつからか深く根をはっていた。ぼくが生きてきた二十年という年月の間に出会ってきた、すべての人に対してそうだった。そして、もちろんそれはK子に対してさえも変わらなかった。だからぼくは、気付いてしまったその嘘を敢えて責める気にはならなかった。K子が必要としているときに、ぼくは手を差し伸べればいい。その思いは変わることがなかった。
ぼんやりと流れる人ごみを見ながらそんな事を思い出していると、その中にこっちに向かって歩いてくる見覚えのある輪郭が目に入った。
「ゴメン」K子は、良心の呵責からか、目を伏せてぼくの腰の辺りを見ながら言った。
ぼくは、まだぼんやりとあの夜のことを思い出していた。空気が飽和して、思うように動くことすらままならないような、あの部屋の中。何か飲むか?ううん、いらない。会いたい一心できたはずなのに急いだ形跡すら見られない。せめてそんな内容の皮肉でも冗談混じりに言おうかとも考えたのだが、何だかその時のK子には通じないような気がして言わずにいた。腹、減ってるか?話題をそらすことが優しさのようにぼくは感じていた。K子は首を横に振って、乱れたままのベッドの脇に座り込んだ。そして、K子は床に拡げられたままの雑誌を拾いあげて、しばらくそれを眺めていた。そのページには、化粧品メーカーの新製品の広告が見開きいっぱいに掲載され、化粧映えのする顔立ちのタレントが大きく写っている。K子は、ぼんやりとそれを見つめたままで、ぼそりとつぶやいた。……わたしね、ピンクのルージュって嫌いなの。
人ごみは、時間を刻むようにぼくの前を流れていく。そして、強く緩やかなその流れは、その中にふたつと同じ顔がないことを忘れさせる。ちょうど、不意に自分の顔を忘れてしまうかのように。ズボンのポケットに入れていた手の上に冷たい感触が覆いかぶさった。K子だった。K子の手が、ポケットのなかでぼくの手の上に重ねられていた。
「怒ってる?」そういってK子は怯えたような目でぼくを見上げた。
「いや」とだけぼくはいって、ピンクで彩られた唇を見つめ返した。
「珍しいね」ぼくは意識的に唇から目をそらしていった、「きみが電話してくるなんて」「そうかしら」そう言ってから、K子は人ごみの中へと目線を泳がせた。そこには、いつものK子の顔があった。
(二)
変わった女だな。それがK子に対する第一印象だった。一年前の夏の夜、アルバイト先のコンビニエンスストアに、K子が客としてきたのがそもそもの出会いだった。……これ、両替してほしいの。店に入るなり、何を買うわけでもなく彼女は言った。レジのカウンターには、彼女が両手で運んできた五十円玉が山のように積まれていた。これで五千円札がほしいの、お願い。それだけ言うと、彼女は言葉を忘れたようにぼくを見つめた。ストレートの長い黒髪。洗いざらしたジーパンに、体の線が浮き出るようなグレーのTシャツ。装飾品を付けないところが、飾り気のない性格を連想させる。薄化粧の顔からも、媚のないさっぱりとした人柄が感じられた。そしてその顔の中にある、黒目勝ちな大きい目。テレビか雑誌か、いずれその類からであろう、どこかで見たことのあるような端正な顔立ち。無駄のない細いからだ。母性という郷愁を無理なく感じさせる豊かな胸。そして、それら全てが駆け引きを知らないのか、それとも知りすぎているのか、真正面にぼくに向かって立ち尽くしている。そう、何らポーズを取るでもなく立ち尽くしている。
柱に掛けられた壁掛時計は、夜の九時半を差していた。あと三十分で、ぼくの仕事は終わりだった。それさえ過ぎれば、五千円があろうがなかろうが、ぼくには何ら関係の無いことだった。彼女は、ぼくを見つめたまま立っている。レジの中の五千円札は、あと二枚。壱万円で買物をする客が来ないかぎり、五千円札の出番などないことは明らかだった。
両替の客が来たら断ってくれよ。一度やってしまうとあの店は両替のできる店なんだって事が拡まっちまう。店長がよく口にする言葉をぼくは思い出した。でかいのが無いのはいいんだが、細かいのが無いと困るからな。釣り銭がないので閉店です、なんて聞いたこともないからな。そういいながら、店長は一度、両替のために釣り銭を切らして店を早くに閉めたことがあるらしかった。その時のはがゆさが抜け切らないのだろう、二言目にはいつもそのことを口にしていた。……だめですか?そう、それじゃあ……そういってカウンターのうえの五十円玉をわしづかみにしようとする彼女の手をぼくは押さえた。待って、小銭が増える分にはかまわないんだ。ぼくは、ひんやりとした手の感触に名残を残しながら手を放した。店のなかにはぼくらのほかにだれもいない。もう一人いるアルバイトは、飲料水の補充のために店の奥の倉庫へ行っていた。蓋の間からだし臭い匂いを吹き上げるおでんと、蒸かし過ぎて艶のなくなった中華饅。見慣れた店内も、彼女一人がいるだけで、いつにない緊張感をともなうような初めての場所のように思えていた。ええっと、数えなきゃ。そうつぶやいて、カウンターの上から五十円玉をつかみとる。二、四、六……そうやって十枚づつ積み上げはじめると、彼女も真似て数えはじめた。数えおわるまでに、客は誰もこなかった。ぼくと彼女。それと、僕らを撮り続ける数台のビデオカメラ。明日の朝このテープを観て、店長はどう思うだろう。小銭を札に両替する女。どうもありがとう。ぼくが差し出した五千円札を受け取って彼女が言った。はにかみながら、いや、とだけ言ってぼくは軽く手を上げた。両替だけで頭を下げるのもなんだか変な気がして、ありがとうございましたとは言えなかった。店を出るまで、彼女はぼくに笑顔で手を振っていた。たかが両替なのに……そう思いながらも、きれいなひとに束の間だけ出会えた幸せを噛み締めるように、ぼくも手を振り返した。彼女のいなくなった店内には、彼女がつけていた香水の匂いがかすかに残っていた。その香りは、神経に直に触れられたように鋭く、媚薬を思わせる甘い匂いだった。
それから一週間、その両替は続いた。しかも、他の連中の話から考えるとぼくがいるときだけ彼女は来ていたようだった。やはり、彼女は何も買わず、両替だけをして、最後に甘美な匂いを残しつつ手を振って帰っていった。
そして一週間後、彼女はついに店にこなくなった。他の店にいくようになってしまったのか、それともただ単に彼女の何らかの役割が終わって、もう来る用事もなくなったからなのか。またふらりと現われることをどこかで強く期待しながら、さらに一週間が過ぎた。さすがにもう強くは望んでいなかった。思えば不思議な関係だった。何も買わず、両替だけ頼む女。それに関して何ら文句も言わずただ言われるがままの店員。しかし、彼女のことが少しおかしな思い出になり掛けた夜に、彼女は再び現われた。
その日、十時に交替の引継ぎを終えて店を出ると、彼女がいた。あの時と同じ、ジーパンにTシャツ姿。車が一台も置かれていない駐車場。そこに立っている街灯に、腕を組んでもたれかかって、ぼくを見つめている。そして、ぼくが彼女に気付くと、彼女はぼくのほうへと歩き始めた。それから、あの大きな、黒目勝ちな目でじっとぼくを見ながらこういった。……わたしのこと、おぼえてる?
(三)
「これからどうしようか?」K子が言った。「行きたいところある?」彼女の方からそんな事を言うなんてこれが初めての事だった。今までは、行きたいところがあれば、K子はぼくの方なんて構いもせずに一人で歩きだしていたし、そのくせついていかないと怒りだす始末だった。映画を観ている途中であろうと、つまらなければ一人で席を立ち、気分が良ければ陽の高さに関係なく、ワインの栓を開けたりしていた。そんなK子が、ぼくに身を委ねるような質問を浴びせてきた。不意の言葉に、ぼくは言葉を飲み込んだ。「えっ、ああ、そうだな……」さんざん連れ回されることに慣れていたせいか考えが浮かんでこない。
「そうだ」ぼくは、K子のやせ我慢であろうその態度を試すような、意地悪なことを思いついた。「ホテルに行こう」
K子にとっては、それすら、やはり気分的なものだった。欲しければ求めるし、そうでなければ頑として拒む。はっきりしていた。それだけに、そういう時のK子は情熱的で、官能的だった。シーツの上を泳ぐように反り返る体。蔦のように絡みつく、細く長い手足。汗ばみ、快楽をも吸い寄せる絹のような肌。言葉にならない、吐息。計算づくめの乱れた髪。苦しむように歪み、悶える顔。そして、欲望が噴き上げるように突き上がる、K子という細胞。そんなK子を、ぼくは愛しく感じていた。心身ともに、裸になってその全てをぼくに預ける。だがしかし、それがかえって裏目となって顕れてしまうことも無くはなかった。それは、K子が絶頂に達しはじめた頃に、意識の無い朦朧とした状態のなかで口にする、聞いたこともない男の名前のことだった。もちろん、あとになって聞いたところで、K子は、わたしは知らない、聞いたこともない、と言うばかりだった。ぼくは、そんなK子に強い嫉妬心を覚えながらも、ある種のロマンチシズムを感じていた。本能のままに欲望を貪るからだ。人目を、場所を、時間をはばからない、強烈な自負のもとに潜む本能が送る信号に、自然とロマンを見出だし、記憶のなかに眠る男の名前を口にするのだろうとぼくは考えていた。しかし、違っていた。そんなぼくの予想とは裏腹に、目の前のK子は別人のような答えをだした。
「いいわよ」K子にはためらいも、迷いもないようにみえた。「あなたにまかせるわ」意外だった。すぐに、我慢している化けの皮が剥がれると思っていたぼくにとって、その答えは意外だった。もしかするとたまたま、誰かの言いなりになりたい、という気分なのかもしれない。ぼくがはじめてみるだけであって、以前からK子にはこういう一面があったのかもしれない。むろん、いままでそんなK子の片鱗すら、ぼくは想像もできなかったのだが。
どうもしっくりとこなかった。説明をつけようと思えば、それら全てにつけられないことはなかった。今まで自分の知らなかった彼女の側面。そんな言い訳じみた説明では、納得できそうにもなかった。考えてみれば、昨日の電話からしておかしかった。何かやましいことがあってその反動なのだろうか。いや、ぼくの知っているかぎり、K子はやましさで態度を変えたりするような女ではなかった。
「さあ、どこ?」覗き込むようにして、K子は首をかしげた。返事もせずに、ぼくはK子を見つめていた。こうやって見ているぶんでは、K子はいつもと変わるところなど見当らなかった。でも何か、何かが違う……
「いいわ、好きなだけ考えて」そういって、K子は腰を据えるように腕を組んだ。いつもとは逆の、左手が上になるような組み方で……
(四)
あの日、駐車場で待ち伏せされて以来、何となくぼくと彼女は付き合うようになっていた。別に意味はないわ。ただあなたの気を引くためにやっただけなの。淡々とした口調で、彼女はぼくに言った。別にこれといった取り柄も、人目を引く容姿であったわけでもないぼくに、こんなことを言う女性がいることは信じられないことだった。ぼくのどこがいいの?さあ、どこだろう……しつこくなさそうなところかな。たったそれだけで、君はあんなことをするのかい?面識があったわけでもないのに。何かこう、もっとはっきりとした理由があったんじゃないのかい?もういいでしょ、それいじょう聞かないで。わたしはあなたが好きなの。その他人を受け入れられない、不器用なあなたが好きなの。だからもう聞かないで。慣れないことをすると嫌いになるわよ。
そう言われてしまうと、それ以上はもう何も聞けなかった。本当は聞きたいこと、知りたいことが山ほどあった。これ、わたしの携帯の番号。会いたくなったら電話して。そうして渡された紙には、彼女の名前であろう 《K子》という文字と、彼女の携帯の番号だけが書いてあった。ぼくが知り得た唯一の彼女に関する情報だった。K子という名前と、電話番号。それ以上聞かないことは、それから暗黙の了解のようになっていた。そのくせ、彼女はぼくのことを知りたがった。好きな食べ物から、昔付き合っていた女の、果ては初恋のことまで。ぼくは、そのことにひどく不条理な思いがしていたが、そのことで彼女を責めるのは、一種の男の格好悪さであるような気がして、口には出せなかった。ぼくは、彼女から一歩引いて、距離を置くことで自分のなかにある格好良さを保っていた。――しつこくなさそうなところかな――その言葉がいつも頭の中でこだましていた。だからどんなに恋しくても、電話のベルは週に一度しか鳴らさなかった。たとえ、獣のように体を欲したとしても、ぼくは空想で自分を慰めることを選んだ。
本当のことを言うとね、わたしあなたと一回だけ会ったことがあるの。いつだったか、唐突にK子が言った。ふぅん。そんなそっけない振りはしたが、ぼくは内心、記憶の糸を手繰り寄せてその答えの糸口を必死になって探していた。わかる?いや、たいして興味もないね。そう言うと思った。K子はそう言って静かに笑った。そういうところが好きだわ。そうやって、突き放してくれるところが好きだわ。
ぼくにとって、K子はいつでも新鮮に感じられた。距離を置いている分だけそう感じられるのかもしれなった。それだけに深い情がわかなかった。好きではあったが、いつまでも自分の中で大きな存在にはなっていかなかった。しかしそれは、大きな勘違いだった。
(五)
ぼくは、タバコを取り出し吸いはじめた。K子は相変わらず腕を組んだままで、ぼくと向かい合って立っている。もともとホテルになど行かなくても良かったので、K子を少し試してみることにした。いつまで彼女がこのもどかしさに耐えられるのか。そして、いつになったらこのおかしい、というぼくの気持ちを晴らしてくれるのか。
足元のタバコは、全部で七本になった。それでもぼくはまだ考えるふりをして、黙っていた。
「まだ、浮かばない?」ついに耐えかねたのか、K子はいった。
「どうしようか?」もう少し、K子をじらしてみることにした。そして、もう一本タバコを取り出そうとしたとき、「小人は七人で十分でしょ」とK子がぼくの足下を指差していった。
「そうだね」取り出しかけたタバコを箱に戻してぼくは言った、「とりあえず歩こうか」
それから、僕らは街の中を目的もなく歩き続けた。K子は黙ってぼくのあとをついてきていた。いつもなら逆だった。ぼくがK子のあとをついて歩いていた。やはり、K子はどこかおかしかった。
「今日はおとなしいんだね」いつものくせでつい遠廻しな質問になってしまっていた。
「そお?いつもどおりよわたしは」K子はゆっくりと、ぼくの反応を確かめるようにそうこたえた。そのまま、僕らは歩き続けた。行き先もなく、ただ時間を消化するように。そして、ショーウィンドウの前を通り掛かったとき、ぼくの中に、あるひらめきが働いた。そして、その前で立ち止まり、その中に飾られたパネルのモデルを見て言った。
「あの人のしてる口紅、いい色だね」
「どうしたの、突然」ぼくの目から見てK子は、少し狼狽しているように思えた。
「ほら、あの色。ぼくはああいう色が好きだな」その女優がしていた口紅は、いつぞやK子が嫌いだといっていた、そしていま口にしているピンクのものだった。
「えっ、ああ、あれね」K子はそう言って、落ち着きを取り戻したように少し余裕を含んだ声色で続けた、「わたしがしているのと同じピンクのルージュだわ」ぼくの中で、影のように暗く、はっきりとはしない、嫌な予感が湧きだしていた。
(六)
K子の言っていた、一度面識がある、という言葉がぼくの頭のなかに粘液質の生き物のようにこびりついていた。K子の前では、無関心でごまかしはしていたが、やはり拭い去ることはできなかった。そのことをK子が口にしたのは、あの時一度きりだった。体裁を保つために、聞くに聞けない、という自虐的な状況が余計にぼくを苦しめた。コンビニのバイトってさ、よっぽどじゃないと客のことなんか覚えないんだよね。遠廻しに、波立たないように聞きはじめる。そうでもないんじゃない?毎日来る客なんてすぐ覚えたりしないの?人によってはね。すぐ覚えられるようなバイト君だっているだろうね。でもぼくは、あまり物覚えのいいほうじゃないんだ。だから、君がしたことはある意味、凄いよ。自分で思いついたのかい?さあ、忘れたわ。少なくとも、ぼくは一発で君のことを覚えたよ。それから、その後に君が来なくなって、君のことが気になりだした。そして、忘れかけた頃に君が現われたんだ……。今日は、よく喋るのね。そう?そんなことないよ。少し、懐かしんでいるだけだよ。わたしは、今が好き。今のわたしが好き。今のあなたが好き。わたしは今しか望まないの。だからもう、そんな話はよして。何もそんなむきになること無いじゃないか。ぼくは、ただ……。ただ何なの?ただわたしの過去が知りたいんだ、なんて言うんじゃないでしょうね。想像しただけでも、あなたを嫌いになりそうだわ。やはり、ぼくは黙ることしかできなかった。
(七)
「ちょっと、電話してくる」そう言って、ぼくは電話ボックスのなかに入った。外で、K子は人通りを眺めながら待っている。一時間でも、二時間でもかけてくれ、とでも言わんばかりの無関心さで、道路沿いのフェンスに腰掛けた格好で。ぼくは、悟られないようK子に注意を向けながら、受話器をあげた。K子が携帯電話を持っていることはさっき確認しておいた。携帯電話に貼る、シールでできたアンテナを買い、その場で貼ってやったのだ。確かに電源も入っていた。あれから今までの間に、電源を切る余裕も、必要もなかった。そして、横目でK子を見つめながらダイヤルを廻す。呼び出し音が鳴る。外で待っているK子に変化はない。ガチャッ。電話がつながった。受話器の向こうから、圏外にいるか、電源が入っていないかどちらかですというような内容のアナウンスが流れていた。やっぱり。どこかで諦めにも似た思いでいる自分に気付いた。そして、ぼくはその声を聞き終わるまでもなく、受話器を置いた。ぼくのなかの影は、濃さを増して、はっきり、そしてより一層大きくなりはじめていた。
「どうしたの?」電話ボックスを出ると、K子が声を掛けてきた、「何かあったの?顔色が悪いわよ」
「別に……その、口紅さあ」
「え?何?」
「ピンクだよね?」
「そうね、ピンクよ」そう言ってから、彼女は何かを思い出したように、少し慌てて、「ねえ、わたしお腹が空いたわ、どこか入りましょう」と言った。しかし、ぼくにはもうその言葉は最後まで届かなかった。何気なく見ていた人ごみの中に、もう一人のK子を見付けたのだ。しかも、男と二人でいるところを。ぼくは、目の前にいる、ピンク色の唇をしたK子を残して、もう一人のK子を追った。
「ちょっと、ねえ、待って」口紅の女もぼくの後をついてくる。それでもぼくは、構わず歩き続けた。もう一人の、いつものK子を追って。K子は、連れの男と喫茶店に入るところだった。そして、入り口のドアに連れの男が手を掛け、K子を促したとき、ぼくははっきりと見た。その男の顔が、ぼくとやけに似たつくりの顔であったのを。ぼくは、茫然と二人が店に入っていくのを見送っていた。いつのまにか、口紅の女がぼくに追い付いていて、ぼくのすぐ横に、並んで立っていた。
「見ちゃったのね」ぼくと同じく店の入り口の辺りを見ながら、女がいった、「見られちゃったか……」
K子がふたり?ぼくがふたり?それとも……。
流れる人ごみのなかで、淀んだ水のようにぼくは立ち尽くしていた。隣では、口紅の女が独り言をつぶやいていた。
「ピンクのルージュ、か……」
(八)
それからぼくは、どこをどう歩いたのかさえよくわからぬままに、街中のビルに囲まれた公園にたどり着いていた。さっきの女も一緒だった。ピンク色の唇の女。彼女は、名前を宏美といって、K子とは一つ違いの妹だった。ぼくは少し興奮していた。それは、K子に対する憤りであったような気もしたし、そうではないまた別の何かに対してであったかもしれない。彼女は、宏美はぼくを正気づけようとしているのか、よく喋っている。ぼくは、植込の柵に腰を掛け、街灯に照らされてくすんだ光を放つ地面を見ていた。宏美は、遠回しな表現で、ぼくに申し訳ないという意志を何度も表していた。しかしぼくは、くすんだ地面に向かってうなだれながら、土を見るのはどのくらいぶりだろうか、などと違うことを考えていた。冷静だったのか、現実逃避をしていたのか、それはわからない。ぼくは土を見て、草の匂いを思い出していた。でも同時に、K子のことが頭から離れることはなかった。宏美は、まだ喋っていた。
「一つ違いといってもね、実際は十一ヵ月違いなの。だから学年はいっしょ。やあね、ハレンチな話よね」うつむいて、卑下するように微笑んで、宏美は言った。
「双子じゃないけど、似てるでしょ、わたし達って。まあ、本当は化粧によるところが大きいのかもしれないけどね」
たしかに二人は、よく似ていた。気が付かなかった自分に言い訳するわけではないが、顔も声も、背格好も、話すときの仕草まで似ていた。
「でも、何とも思わなかったの。わたしが言うまで気付かないなんて。あなた本当に付き合ってたの。ふつう、……変だと思うわよ」宏美はそう言って、顔をあげてぼくをみた。
「そりゃあ、変だとは思ってたよ。いつものK子とは違うなって、ずっと疑ってた。ただ、ぼくが感じていたのは、顔とか見た目のことじゃなくて、中身のことだったんだけど……そう、だからホテルにも誘ったし、あの公衆電話からきみがK子か確かめる電話もしたんだ」ぼくは宏美を見つめ返し、強い口調でそう言った。宏美もぼくを見つめていた。その目には、鋭く強いものが宿っていて、そのまま見つめ返していると何もかも見透かされてしまいそうだった。
「そう、ちょっとは疑ってたんだ。そうよね」そう言って、焦点の定まらないどこかを見つめた。「気付かないなんておかしいよね、よかった」
「何が」
「えっ、ああ別になんでもないの。気付かないなんて悲しいわよね、きづかないなんてね……」
「ねぇ、そろそろ聞かせてくれないかな」はっきりと、ぼくは言った。「K子はあそこで何してたんだ。あの男は誰なんだ。なんで、君がここにいるんだ。なぜ、K子の代わりにここにいるんだ」
しばらく宏美は黙っていた。こういうとき、それ以上にまくしたてたりしてもらちが明かないことぐらいぼくにもわかっていた。だからぼくは、待っていた。じっと、ただ待っていた。宏美は、何からどう話したらいいのかわからない、といった面持ちで親指を唇に押し当てて、話しあぐねていた。そして、ようやく切り口が見つかったのか、ゆっくりとピンク色の唇から言葉を滑らせはじめた。
「あのね、K子はかわいそうな人なの。わたし……姉としてではないわ、そう一人の人間としてK子をみていられないの」宏美の顔がうっすらと紅潮しているように見えた。
「だから、K子を責めないでほしいの」
「ちょっと待ってくれ」ぼくは、宏美を制して、「そんなことをいきなり言われて、うんとうなずけるか。もっと最初からわかるように説明してくれないか」と言った。
「そうね」ふっと我に返ったように宏美は首を振って、「ごめんなさい、最初から話すわね。K子がああなってしまった最初から」と言って、いま一度頭のなかで話の順序を決めているようだった。
「あなた、K子より前に付き合っていた人はいたの」
「え、ああ、いたよ。ひとりね。高校の時の同級生。K子とは正反対のような娘だったね。で、それが?」
「その人のこと、どう?いま会ったとしたら」
「どうって、べつに《久しぶりだね》ぐらいだよ」
「本当にそう言える?」
「ああ、言えるね」
「絶対に?」
「ああ、絶対に、だね。それが何?K子と関係があるの?女には忘れられない男がいておかしくない、とでも言いたいの?あの男がそれだ、ってことなのか?」
「違う」
「じゃあ、何だ。まわりくどいことを言わずに、はっきりしてくれないか」
「ちょっと待って。わたしだって考えてるんだから、落ち着いて話を聞いてよ」
「ぼくは、落ち着こうと必死だよ。それを邪魔して、興奮させようとしているのは、はっきりしない君のほうじゃないのか」
「わたしは、焦って話をして、変に早とちりしてほしくないの。きちんと理解してほしいのよ。それが誰であろうと、たとえあなたであっても、浅はかな詮索でK子を理解してほしくないの」
「わかったよ」ぼくは、宏美の強い口調に圧されてか、素直にそう答えていた。強い口調というよりは、たとえあなたであっても、という宏美の言葉が、今までうっすらとしか感じていなかったK子とのつながりの薄さを切実に感じさせられてしまったからかもしれない。
「それで、何の話だっけ。そうか、前に付き合っていた娘の話か。いま会ったらどう思うか、か。やっぱり何とも……」
「もういいわよ、その話は。それは、ただあなたがどういう人なのか知りたかったから聞いてみただけなの」
「じゃあ、話をK子のことに戻してくれ」
辺りは、もうすっかり夜の装いを呈していた。通りは、ますます人で溢れかえり、ネオンもそれに劣らないくらいの輝きを放ってた。街を見下ろすように据え付けられた時計は、もう十一時を指していた。長い話をはじめるには少し遅い時間のように、ぼくは思えた。
「ねぇ、今日はもうやめにしない?」切り出したのは、宏美のほうだった。おそらく、ぼくと同じことを考えていたのだろう。「この次かならず話すから、だから、K子には電話しないでほしいの」
「この次なんて、そんなあいまいな約束信じられるか」
「そうね、あさって。あさってなら、祝日だし大丈夫でしょ。それを外すと、わたしも都合が悪いのよ」
「あさってか、場所は?」
「あの駅前のRって喫茶店、知ってる?」
「わかるよ」
「時間は二時、昼の二時よ」
「わかった。でも、どうしてK子と連絡しちゃいけないんだ。もとはといえば、これはぼくとK子の問題じゃないか」
「……それも今度話すから。だから約束して、電話しないって」
「やくそく……ね、君のほうこそ守れるんだろうね、ちゃんと話すっていうのは」
「わかってるわよ。それじゃあ、あさってね、遅れちゃ駄目よ」
「それはきみのほうだろ……」言い終えるまでもなく、宏美は人ごみのなかに消えていった。そして、ぼくは一人よどみに浸かってしまったように取り残されていた。
(九)
お前とは合わないよ、あの女は。――或る友人の言葉――俺は何も嫉妬なんて安っぽい感情から言ってるんじゃないぜ。お前の性格を知っているからこそ、友達として忠告してるんだ。お前にあの女は、無理だ。どうして。まだ一回しか会ったことがないじゃないか。それだってほんの数分、あいさつ程度だ。この男は、名前をヨシヂといって、幼い頃からの付き合いだった。歳は同じなのだが、なにかというと兄貴ぶる癖が昔からあった。俺の想像だと、お前が知っているあの女と、俺が知っているあの女にそう差はない。違うか。そうだろう。つまり、お前はあの女のことを初対面の俺と同じくらいにしかわかっていないし、この分だと、この先知ることもないってことだ。なんでそんなにはっきりと言えるんだ。君の言っていることは、八割方当たっている。でも、ぼくらはまだ付き合ってからそう長い年月を経てきたわけじゃないし、だからこれからのことだってそんな断定できるとは全然思えない。なあ、本当はわかってるんじゃないのか、お前だって。お前は、他人に心を開くのが苦手で、相手はお前のそういうところが気に入ってる。そうだとするとおかしいだろう、ちょっと考えれば。お前のいいところは、時間をかけなきゃわからないんだ。それなのに、あの女はお前の何を見たって言うんだ。お前にしろそうだ。お前はあの女に何を見せた。あの女がお前を選んだことに素直に納得がいくのか。勘違いするなよ。俺はお前を責めてるわけじゃないんだ。ただ、お前という人間を知っている俺にしてみれば、あの女はやめた方がいいと思う。お前の性格なら想像がつくはずだ。これから先あの女のことを深く知ることもないんだってことを。俺の言ってることと同じことを感じたことがあるだろう。そりゃあ、まあ……でも、何もかも知らなければ男と女としてやっていかなければならないなんてことはないだろう。それはそうだ。俺が言いたいのはそんな極論なんかじゃない。じゃ、何だ?……バランス、お前のなかのバランスが崩れてる。あきらかに無理が見えてるんだよ。端から見てる俺には、お前等に恋愛の駆け引きすらも感じられない。普通なら、互いに駆け引きをしあって、牽制しあって、互いの距離を縮めて、相手と深くつながってゆこうとするんじゃないのか。そして、いつか駆け引きがいらなくなる時がくる。特にお前みたいな男にはそれが必要なはずだ。お前等はそれを避けている。お前だけじゃない、あの女もな。君がそこまでしてはっきりと言える根拠は何だ。こんきょ?あるさ、もちろんだ。お前、あの女のどこが好きなんだ。顔か?体か?この期におよんで性格なんていうのはなしだせ。ぼくは、彼女の顔も好きだし、体も好きだ。性格だって、……知っているかぎりでは好きだ。でも、正直いってはっきりとここが好きだというのは自分でもわからない。あんがい、そういうもんじゃないのか、付き合ってしまったりすると。それはそうかもしれん。しかしな、お前が言うには付き合いが浅すぎるんじゃないか。俺はそんなあいまいなものを理解できない。お前はただ憧れているんじゃないのか。自分の知らない、見えない部分を。お前自身とその女との間にある、ちょっと不可思議な出会いとか、女があまり自分のことを話したがらないこととか、そういうのをひっくるめた、わけのわからないところに憧れて、それが新鮮に感じるんじゃないのか。それを美化して、お前は愛だの恋だのと取り違えてるんじゃないのか。――本気でそう思うか。何も言わず、ヨシヂはゆっくりと首を振った。
そう言われてみると、たしかにヨシヂの言葉は当たっていた。憧憬。何もない日常から抜け出せそうな気がしたのかもしれない。K子から生活の匂いが感じられることはまずなかった。ぼくは、遠くから憧れを抱いてK子に接しているようだった。そしてこの距離は、ヨシヂの言うとおりに縮まることがないように思われた。なぜなら、縮めてしまうことが、K子との交わりに終わりを告げてしまうことのように感じられて、ぼく自身が怖れているからだった。
(十)
約束の二時に宏美は来た。店の中には、昼時を過ぎたためか客足もまばらで、僕らの他には二、三組、ぼんやりとした時間を過ごすための客がいるくらいだった。ぼくは店内を見渡すような格好で、窓際の一番奥のテーブルに座っていた。声を掛けても不自然ではないくらいの距離に宏美が来るまで、ぼくは目の前のコーヒーカップをもてあそんでいた。
宏美は、こころなしか、この前とはいくぶん雰囲気が違っていた。やはり、この前はK子を意識していたのだろう、フレアスカートにブラウス姿の宏美は、ぼくにK子とは違った落ち着いた女性を思わせた。髪も後でひとつに束ねられて、この前は見えなかった耳が初々しく顔をだしていた。化粧はほとんどしていないように思われた。口紅は、ピンク色ではなかった。
「早かったのね」
それからしばらく、ぼくらはとりとめもない話をしていた。話すほど、本当に話したいことから話題が遠退いていくようだったが、突然話を打ち切って話題を変えるのも、何だか余裕のないところを曝け出してしまうようではばかられた。
「そろそろ本題に入りましょうか」宏美が言った。どこかで宏美が切り出してくれるのを待っていたのだが、いざ切り出されてみると、あまりにも主体性のない人間のようで気恥ずかしかった。
「そうね、何から話しましょうか」両肘をテーブルにつき、身構えるように宏美は言った。
「そうだなあ」そんな宏美に気負わされたせいか、ぼくは少し体をのけぞらせた、「べつに、君にまかせるよ」 宏美は少し黙っていた。「あのね、別にあたしに気を使うことなんてないのよ。いいのよ、もっとストレートに聞いて。そのために今日は来たんだから」
「……」
「わかったわ、もういい。あなたって悪い意味で優しいわ。言い換えると意気地がないのよ」そういって、宏美は、深い溜息を吐き、通りに目をやった。
「わたしが話す。あなたは聞いていて、いい?」表に目をやったまま、宏美は言った。その、人を突き放したような口調が、ぼくにK子を思い出させた。
宏美は、それから丁寧に、乾いた口調であっても優しく話し始めた。K子のことを。あの不思議な出会い方や、あのピンクのルージュのことも……。
――K子はね、あなたのことを忘れたわけじゃないの。そうよ、ちゃんと覚えてるわ。ううん、そうじゃないわ。遊びだったわけじゃないのよ。あの時の男?ああ、あれは何でもないわ。何でもないって言ったらおかしいけど、あの男のことがあなたに影響してどうのこうのってことじゃないの。えっ?それも違うわ。単なる友達ってわけでもないの。もう、この際だからはっきり言うけど、K子にはね、えっ?ち・が・う・の。死んで忘れられない男なんていないわよ。そうじゃなくて、生きていて忘れられない男がいるの。そう、そうなの。ただ、それだけよ。どこにでもある話よ。そう、似てるのよ。あなたも、あの時の男も。その人の名前はね、マサキさんにしておこうか。仮名ね。どっちでもいいんだけど、雰囲気よ。もう、名前なんて問題じゃないでしょう。で、そのマサキさんね、歳はあたしらより四つ上。だから、あなたとは三つ違いか。ま、いいかそんなこと。それでね、二年くらい前かな、K子がバイトしてたケーキ屋に、彼が、マサキさんが毎日一個同じケーキを買いにきたんだって。それでね、それがしばらく続いて、お互い顔も覚えて、話しもするようになった頃にね、彼が突然、これ両替してほしいんだけどって、両手にいっぱい五十円玉を握りしめてきたんだって、そしてその後にこう言ったんだって。これが出来ないなら、ぼくはもうここへは来れないかもしれない、って。変でしょ、冷静に考えれば変なんだけど、でもね、K子は彼に会えなくなるんじゃないかっていう不安で頭がいっぱいになったんだって。それでK子は気付いたんだって。ああ、わたしは彼が好きなんだってことに。それから、二人は付き合いだしたの。さあ、そんな細かいことまでは知らないわよ。わたしが聞いてるのはそれだけ。まあ、とにかく付き合いはじめたのはその頃なのよ。さあ、わからないわ。たぶん、K子のほうから言ったんじゃないかしら。そういう気持ちを押さえられない人だから。それで、そのマサキさんね。わたしも何回か会ったことあるの。背は、そうねえ、あなたよりも少し高いくらいかな。ひどくおとなしい人でね。ほとんどしゃべらなかったわ。K子と二人でいてもね、うん、うんってほとんど聞いてるだけ。笑ったところも見たことなかったわ。え?あなたに?どうかなあ、似てるといえば似てるわね。かお?顔というか目ね、目が似てるわね、おしゃべりなところが。ちがうわよ、そうじゃなくて、口で話をしない人はその分、目で話すの。あなたもそうでしょう。それと、全体の匂いというか、その人の持ってる空気。なんて言うのかなあ、ちょっと遠いところにいるような感じ。なんて、わかんないか。……たんぱく、淡泊って感じよ。そう、そっくりよ。ああ、ごめんなさい、つまらないわよね、マサキさんの話なんか聞いても。ごめんなさい、話を戻すわね。だから、そんな人だったから、どっちかって言うと、やっぱりK子の方が思いが強かったのかな。そう見えただけかもね。K子はね、何かというと彼のことばかり話して、……純粋に好きだったんじゃないかな。本当に、純粋に。何が?、か、何だろうね。それは話してくれなかったけど、K子も考えたことなかったんじゃないかな。別に問題じゃないからね、そんなこと。K子みたいに頭で考えるタイプじゃない人はとくにそうじゃないのかな。それでね、ある日とつぜん彼が別れようって。何かあったわけじゃないらしいんだけど、突然言われたんだって。K子が何回わけを聞いても、答えてくれなかったんだって。ただね、ただ、自分を探しにいかなきゃ、ってそれだけ言っていなくなったんだって。しばらくの間、K子は自分を責めていたわ。何でって、理由がよくわからなかったからね。自分のせいにすることでしか納得できなかったんじゃないかしら。ううん、それはなかったと思う。やっぱりK子は彼が好きだったから恨むことなんて出来なかったんじゃないかな。泣いてたわよ。その頃は、ほとんど毎日。ずっと、部屋に閉じこもっちゃってね。そうだ、なつ、夏だったわ。そう、別れたのは夏だった。それも、蒸し暑いときだった。別れ際に彼が、君に似合うと思うよって、最初で最後のプレゼント……ピンクのルージュを渡して。うん、持ってる。いまでも大切に持ってる。一回も使わずにいるわよ。たまに眺めたりしてね、見ちゃったことあるのよ。時間が止まっちゃったような、嫌な光景だった。そうね、K子にとっては時間があそこで止まっちゃったのかも知れないわ。感傷的すぎて嫌だけど、あの子を見てるとそう思えるわ。……それからK子は、探しているの。彼を、マサキさんを。忘れなきゃいけないことも、見つからないこともわかっているわ。それは、K子だってわかってる。わかってるけど、駄目なのよ。言ってわかるような性格じゃないしね。だからあたしは決めたの、K子を見守ろうって。理屈じゃなくて本当に忘れられる時が来るまで、見守ろうと思うの。だからこうやって、あなたには悪いけどK子の尻拭いだってしてあげられる。K子は、……K子はあなたを好きになったんじゃなくて、あなたのなかに重なったマサキさんを好きになったの。わかってあげて。……もう、これで全部よ……
(十一)
話し終えて、おもむろに立ち上がろうとする宏美の手をぼくはつかんだ。
「あの時、K子じゃなくてなぜ君が来たんだ」
「それは……」
「そうやって、K子が男を変えるたびに君が尻拭いをするのか」
「そんなことない。いつもはK子が一方的に無視して、連絡がとれないようにして、さよならよ」
「じゃあ、何でぼくのときだけ……」
「別にいいじゃない、そんなこと」
「気になるんだ、何でそんな面倒なことをしたのか教えてほしい」
「K子がね、あなたはいい人だって。もしかしたら、彼を忘れられるかもしれないって。でも……、でもね」
「やっぱり彼が忘れられないって言うのか」宏美は、静かに首を振った。しばらく沈黙が続いた。
「あなたを見てると、彼を思い出すって、あなたはいい人だから、嘘をついてあなたに彼を重ねて見るのはつらいって」ぼくには、返す言葉が見当らなかった。ただ聞いていることしか出来なかった。
「K子がそんなこと言うなんて今までなかったの。だからあなたがどんな人か一度見てみたかったのよ」宏美は続けて言った。「でも、あたしだってこんなことするの初めてだったから、どこかで面白がってたのかもしれないわ」
「ホテルに誘ったとき、あっさり返事したのは、何で?」
「もしかして、……気があるかと思った?」
「違うよ、そんなふうに見えないから、ちょっと聞いただけ」
「まあ、あたしも女だから、とでも言っておこうかな」
「K子が前に、ぼくと一回会ったことがある、って言ってたんだけど、……知ってるわけないか」
「きっと、あなたが彼によく似てたから言っちゃったんじゃないかな。わからないかもしれないけど、親しみを込めて出た言葉なんじゃないのかしら」
「……わかったよ。でもやっぱり、今までの君の言葉を、ぼくはどうしてもK子の口から聞きたい」
「K子はね、待ってるのよ。いつの日か彼が帰ってくるのを。あのルージュがつけられる日が来るのを待ってるの」
「ぼくじゃ、駄目なのか」
「だから……K子はあなたのなかのマサキさんしか見てないの。あなただけをみることはできないのよ。もうK子はあなたには会わないわ、きっと。あなたじゃないマサキさんを探しにいってしまったのよ」
「そんな理不尽なことを……」
「それはわかってる。彼女にだって、あなたに済まない気持ちはあるのよ。お願い、もう何も言わないであきらめて、K子のこと」
「もう会えないのか」
「……」
「声すら聞けないのか」
「……」
衝動的にぼくは、テーブルの上に置いておいた携帯電話に手をのばした。そして、今まで何度となく掛けていた、K子の番号を押しはじめた。
「無駄よ。たぶん番号はもう変えてあるはずよ」静かに宏美は言った。宏美の言う通り、電話はK子のもとには届かなかった。
「あたしが言うのも何だけど……大丈夫よ、あなた、そんなに思い詰めるようなタイプじゃなさそうだから。……それじゃあ」そう言って、宏美は席を立った。ぼくは返す言葉もなく、ただ宏美の背中を見つめていた。
もう一度、K子のもとへと信号を送る。唯一つながっていたK子との絆が、砂が流れるように消えていった。
(十二)
巷でよく耳にする、時間が傷を癒す、というのは本当なのだろうか。K子の事も、いまではすっかり記憶の隅に追いやられていた。ぼくは別の女性と付き合い、K子の事を考えることもなくなっていた。傷は癒えたのかもしれない。しかし……、しかしぼくは探していた。隅の方で小さくなった今なお、ぼくはK子を探していた。女性のなかにあるK子を探し続けていた。きっと、K子もそうだろう。いまでもマサキさんを探し続けているだろう。そして、それは永久に見つかることはないだろう。過去に執着して、それを追い続けるかぎり、それは次第に美化され、そのまぼろしにまやかされていくとわかっていても。
(完)