その日、遅くまで寝つけなかったせいか、男は朝支度の物音や、女の呼ぶ声から逃れるように、厚い掛け布団を頭から被ってなかなか出てこようとはしなかった。あきらめた女がなにも言わなくなり、静かになったころ、男は布団から顔を出し、さむっ、とつぶやいてから、女の名を呼んだ。返事はなかった。男は布団を出て、半纏をはおると寝室にしている四畳半の戸を開けた。
「行ったのか」男はそこから顔だけ出して眠そうにそう言った。
「起きたの」
 女は洗面所からそう返事をした。女は続けてなにか言ったが、男はベットに戻り、煙草を持って寝室を出た。
「なに」
 男は、ちょっと、と言いながら、トイレの入り口を塞ぐ女の体をドアで押してそう聞いた。
「押さないでよ、眉毛書いてるんだから」女はそう言って男を見た、「トイレなの、待ってよ、私も入りたいんだから、先に入らないで」
「すぐ出るよ」
「うそ、いっつも長いんだから」
「おまえの化粧よりは早いよ」男はそう言って、ドアを少し開けたままトイレに入った、「さっきなにか言ってなかった」
「なんだっけ、 あっ、お昼ごはん、朝はサンドウィッチがあるけど、お昼はなにもないから、適当になにか買って食べてね」
男は朝の日課であるところのトイレでの一服のために煙草に火を付けた。
「バイト何時まで」
「今日は二時、私はむこうで適当に食べるから」女は煙草の匂いに気がついてドアを激しく閉め、換気扇のスイッチを入れた、「二時半までには帰ると思うけど、遅くなったら電話する」
「いいよ別に」男は換気扇に向かって煙を吐いた。
「あと今日、郵便が来ても開けないでね」
「幼稚園の結果か」男は煙草を灰皿で消した、「見ちゃ駄目なの」
「自分で見たいの、今まで全部あんたが先に見て落ちてたんだから、絶対開けないでね」
「今日は大安だよ」男は目の前に張ってあるカレンダーを見て皮肉っぽく言った、「なにしろ昨日仏滅だったからな」
「私たちだけが大安ってわけじゃないでしょ、とにかく開けないでね、今日が最後なんだから」そう言って女はトイレのドアを叩いた、「ちょっと早く出てよ」
 男は水を流してドアを開けた。
「たしかに、俺は見ないほうがいいな、俺は運がない」
 女は入れ違いに入り、臭い、と眉を寄せて言った、「お昼のお金あるの」
「なかったらおまえの店に行くよ、つけといて」
「そんなことできるわけないでしょ」女はトイレの中からそう叫んだ、「だいたい朝サンドイッチで昼がハンバーガーなんかでいいの」
「なんでもいいよ」男はため息をつくようにそう言った。
 女はトイレから出て、もう一度ヘヤースタイルを確認しながら言った、「ねえ、なんか投げやりになってない」
「不思議なことじゃない」男はそう言い、冷蔵庫から牛乳を出して六畳の居間に行き、女が使ったコップに注いだ。
「わたしなんかもっとたくさん落ちてるんだから」女は居間に戻り、手提げのバックの中を確認しながらふくれてそう言った、「あそこ以外にも、知らないだけでいい劇団はあるかもしれないでしょ、私だって今日が駄目ならもうおしまいなんだから、あんまり暗くならないでよ」
「劇団ならどこでもいいなら自分で作るよ、積極性もそういう才能もない俺が作れるならな」男は自嘲的に笑った、「 ああ、こうなったら留年して大学の劇団を続けてもいいな」
「自分に酔ってんじゃないの」女は顔をしかめて立ち上がった、「もう行くから、本当に勝手に開けないでよ」
「はいはい」男はこたつにもぐり、クッションを頭に当ててそう言った。 「ねえ、せっかくバイトもないんだしさ、学校も休みなんだから」女は玄関に行き、靴を履きながら捨てゼリフのように言った、「ほかの劇団、探してみればいいじゃない」
「行ってらっしゃい」男は居間からそう言った。
 女はため息をついて出て行った。
「ほかの劇団ね、分かってねえな」男は頭の下のクッションを叩いてそうらつぶやいた。
 男はクッションを投げつけ、こたつの前に座り、引きちぎるようにサンドイッチを食べた。パンはうっすらと乾いていて、男が袋の表示を見ると賞味期限は昨晩の午前一時だった。
「あーあ」男はまずそうに朝食をすませると、大声でそう叫び、一人のときに使ってい、昨年の夏に同棲を始めたときにそのまま持ってきたソファーベットに身を投げ出した。
「あーあ」男はもう一度、今度は胸の中にあるもやもやしたものを吐き出すようにそう言って目を閉じた。
 男は思い出していた。高校生の時に見た、それ以来憧れ続けることになった劇団から受けた衝撃、迷わず大学で入ったサークルの劇団、憧れの劇団に入るための役者の勉強、好きになれなかった脚本と演出のもと続けた公演、失敗した自分で書いた脚本、あの劇団に入るのだと努力した四年間のサークル活動、三カ月前のその劇団の解散宣言、ほかの劇団ならここだけというところも落ちた昨日のこと、そういったものをむなしく胸の中に蘇らせていた。
 男はこたつに潜り込み、「水の泡だ」とつぶやいて、ソファーベットにもたれながら、そのままいつしか眠ってしまった。
 目が覚めると十一時半を回ったところであった。寝る前よりは気分が落ち着いていたが、天井が低く迫ってくるような、やり場のない気持ちは続いていた。男は煙草の箱をとった。朝は気がつかなかったが、もう残りが二本しかない。買いに行くか女に頼むか、男はぼんやりとそう考えながら煙草を吸った。それから冷蔵庫を開け、昼飯になるようなものを探した。戸棚の中も見てみたが、ソースのないスパゲッティーと乾うどんだけで、ほかには特になにもなかった。
 男は着がえをした。鏡を見たが寝癖は付いていなかったので、セーターを着てジャンパーをはおった。一度サンダルを履いてから、思い直して靴に履きかえて家を出た。外は寒かったが、明るい日差しが心地よく感じられた。
「さてと」
 男はそうつぶやいて、靴に履きかえて良かったと思いながら、伸びをして歩き出した。一番近い、煙草が売っているコンビニエンスストアーとは反対に足を向けた。
 目的があったわけではない、なんとなくぶらぶらしてみようと思い、新興住宅街を駅のほうへ向かった。きれいに区画されたその住宅街は、四五年前にできたばかりということで、どの家も新しくきれいだった。クリスマスが終わったばかりだが、まだ庭の木に電飾を付けたままの家が何件か見受けられた。一軒がやりだし、回りの家もまねしたのだろうが、十二月の頭になるとこの辺りは競うように庭の木に電飾を巻き付けていた。男はその中でも最も派手だった家の前を通り、門の横の松にまで巻き付けられた電飾を見て苦笑いをした。
 新興住宅街をぬけると小学校がある。右手にプール側の高い塀を見ながら行くと、道は左に大きく曲がる。そのまま行けば駅のほうに出るが、男はまっすぐ続く細い道に入った。その先に、フェンスで囲まれた球技場もある大きな公園があり、男はそこに行った。冬休みのよい天気にもかかわらず、公園にはそんなに多くの子供たちはいなかった。球技場にはサッカーボールやグローブを持った子供たちの姿が見られたが、ほかの場所には小さい子が滑り台を中心に親子でいるほかは、あまり子供たちはいなかった。男は灰皿を探して、ブランコと藤棚を屋根にした砂場とに挟まれた場所にあるベンチに座った。
 男は煙草をジャンパーのポケットから出し、しまったというふうに顔をしかめた。男は煙草を取り出し、その空箱を丸めてゴミ箱に投げ入れた。男はブランコを見ながら、懐かしそうに目を細めた。
 ブランコは二つを一組として二対、合計四つあったが、その手前のブランコで小学生の兄弟が遊んでいた。兄は高学年、弟は二つか三つ年下のようであった。二人は靴飛ばしをしていた。男は自分の田舎だけではなく、どこでも、いつになっても同じ遊びをするんだと思い、うれしいような気になった。
 向こうのブランコには中学生くらいの男が四人いて、一生懸命煙草をふかし、ブランコをゆらしてしゃべっていた。
 男は煙草を吸い終わるまでずっと、ブランコで遊ぶ兄弟を見ていた。靴飛ばしは兄ばかり勝っていた。負けたほうが飛ばした靴を拾いに行くのだろう、弟が何度もけんけんをしながら靴を拾いに行っていた。ブランコの正面に少し離れてジャングルジムがあり、そこでは誰も遊んでいなかったが、二人の靴はそこまでは飛ばなかった。
 その兄弟に触発されたのか、となりの中学生が、「馬鹿、俺サッカーやってたんだぞ」と言って、ブランコをゆらして勢いよく靴を飛ばした。靴は大きく上に上がったため大した距離は出なく、ほかの仲間から笑い声が起こった。それを見ていた小学生の兄弟は、自分のほうがあの恐そうな中学生より飛ばしているというような誇らしげな顔でブランコを漕ぎだした。初めに兄がうまく飛ばした。靴はジャングルジムの下に転がった。兄は得意そうな面持ちで中学生たちをちらりと見た。次に弟も改心の蹴りで靴を飛ばし、兄とほぼ同じ位置につけた。勝負の行方は男の目でも分からなかった。
「俺の勝ちだ、おまえ持ってこいよ」
「ずるいよ、俺だよ、自分で持ってきてよ」
 兄弟はそう言い争いをした挙げ句、二人で結果を見に行った。弟がわずかに負けたらしい、「靴が大きいからだよ」と言う弟の声も聞こえた。
 男は「なにやってんだ」というような、じれったそうな顔でその様子を見ていた。案の定、ブランコは四人の中学生に占拠され、彼らはもう靴飛ばしを始めていた。男はベンチから立ち上がった。
 弟は恨めしそうにその光景を見、助けを求めるように兄の顔を見た。兄は不機嫌そうな顔で靴の紐を締めていた。
「しょうがないだろ」兄はそう弟に言っていた、「おまえが負けたのに取りに行かないから駄目なんじゃないか」
「だって、勝ったと思ったんだもん」弟は目に涙をためていた、 「もうちょっとで勝てるのに、もっとやりたいよ」
 男は首を振って、歩きだした。再び胸にたまってくる嫌な空気を吐き出すようにため息をつき、公園を出た。
 公園の時計は十二時を回っていた。男は昼飯と煙草を買おうと、駅のほうに見えるスーパーマーケットに向かった。そのスーパーマーケットは、郊外によく見受けられるもので、四階建てで大きな駐車場が備わっている。男も食事の買い出しはいつもここで、二三日に一度は女と買い物に来ているし、日用雑貨もすべてここで揃えた。
 駐車場は全部で三つあり、正面にあるのが最も大きく、道路を挟んだ向こうに一つ、店の裏手にも一つある。この裏の駐車場はほかより狭く、二十台ほどしか駐車できないが、男の住んでいる方角からは一方通行の関係でこの場所が一番止めやすい。車の誘導係もいない、おまけのような駐車場にかかわらずここは一番混んでいた。男は近道のため、いつもこの駐車場を横切っている。
 その日も男が駐車場に入ると、二台の車が空いているスペースを探してうろうろしていた。
「ほら、危ない」
 そういう大きな声がしたので、男が見てみると、駐車場の入り口の階段をリボン付きの包装された大きな箱が登ってきた。男が目を見張って見ると、箱の下から赤いチェックのスカートが見えた。箱は小さな女の子が抱えていた。ほんの二三段の階段にもかかわらず、右に傾いたと思うと前にのめりそうになり、そのたびに父親が「貸しなさい」というようなことを言いながら箱を押さえていた。
 女の子は「いやーだ」と叫んで父親の手を振り払い、階段を登り切った。
 少し遅れたクリスマスのプレゼントなのだろう、女の子はやっと手に入れたお宝を誰にも触らせまいとするように、体よりも大きな箱を、ふらつきながらも一生懸命抱えていた。
 危っかしいな。そう思いながらも男は、その女の子の気持ちがよく分かった。欲しかった念願のものがやっと手に入ったのだ、人に渡しては実感が薄れてしまう、自分が持つことで喜びを噛み締めているのだ。
「すぐ車を持ってくるから」父親はそう言った、「それは下に置いて、ここにいなさい」
 女の子はそれでも箱を抱えたまま、下ろそうともしなかった。父親はポケットからキーを取り出し車に向かい、男は女の子とすれ違った。その箱は女の子の頭の上まできていて、自然と顔は横を向いていた。力を入れているため、その顔は赤くなっていたが、男と目が合ったときの表情はうれしそうで、そして誇らし気でもあった。
 誰にでも自慢したいんだ。男は、必死になりながらも得意気な顔をする女の子を微笑ましく見た。
 男が階段を降り切ったところで、後から悲鳴が聞こえた。さっきの女の子である。男が驚いて振り返ると、その女の子が倒れており、すぐそばに車が止まっていた。
 はねられた。男はそう思った。
 男が階段を一段戻るより早く、その車の運転手が女の子に駆け寄った。運転手は若い男であった。助手席から、若い女も降りてきた。
 運転していた男が「大丈夫」と聞きながら抱きかかえると、父親が走ってきた。
 女の子は起き上がって泣き出した。はねられたのではなく、転んだだけだったようだ。女の子は無事だったが、あの大切そうに抱えていた箱は、車の前輪に轢かれていた。
「怪我はないか」「痛いところはないか」と体を見る父親の問いにも、女の子はただ泣くだけだった。
 女の子は潰れた箱を引きちぎるように叩きながら、言葉にならない声をだして狂ったように泣いた。
「すみません、弁償します」その男はそう言っていた。
「いいえ、いいんです」父親はそう言って謝った、「こっちが勝手に飛び出して転んだんです、そちらは悪くないのでどうか気にしないでください」
 女の子はまだ泣いている。
「だから言っただろう」父親が大声で怒鳴った、「危ないから下に置いて待っていろと言っただろう」
 女の子はびっくりして父親を見上げた。男は逃げるようにその場を立ち去った。男は思った、あの女の子は父親が慰めてくれると信じていた、自分が悪いと考えることはできない、買ってもらったばかりのプレゼントが車の下敷きになったことが余りに大きなショックなのだ、悲しいという感情しかなく、怒られるなどとは考えもしなかったのだ。
 足早に去る男の後ろから、さらに大きな女の子の泣き声が聞こえてきた。男は昔からそういう場面に弱かった、自分のほうが泣きたいくらいに胸が締め付けられる。男はいつもそういう状況を見る度に、なんとかしてやりたいと思うのだが、まさか赤の他人の自分がしゃしゃり出るわけにもいかず、他人なんだと言い聞かせていた。
 その時も、どうしようもない、金を置いていくわけにもいかないし、そんな金もない、父親とあの子の問題で、自分はたまたま通りがかっただけだと思うようにした。その一方で、父親に怒鳴られたときの、やりきれないほど哀れな女の子の瞳が焼き付いていて、それが浮かぶたび、切なくなるような胸の痛みを感じていた。
 優しそうな父親だった、きっとまた同じものを買ってやるだろう。男はそう思うことでその出来事のことは考えるのをやめて、スーパーマーケットの正面に回った。
 店の入り口の横に煙草の自動販売機がある。男は財布の中身を確認した。札があると思っていたが、小銭が七八百円あるだけだった。そこで煙草を買い、「カップラーメンだな」とつぶやいて店の中に入った。
 男は見慣れた店内をまっすぐに目的の棚に行き、大盛のカップ麺を一つ取ってレジに並んだ。比較的空いているレジに並ぶと、カップ麺一つを持っていることをめざとく見つけたおばさんが後ろに並んだ。男の前は一人しかいなかったが、レジの係が遅かった。男はカップラーメンならどこでも買えたということに気がつき、ばかばかしく並んでいる自分にあきれた。食料はすべてここで買っていたので、つい昼飯ということで、カップ麺一つと決めたにもかかわらず当たり前のように店に入ってしまった。
 レジを済ませ、小さなスーパーの袋を持ち、男はエスカレーターに乗って四階に行った。そのまま帰るつもりだったが、どうにも気が晴れないので、さっきの親子がおもちゃ売り場にいないか確認をかねて、雑貨を見るつもりだった。雑貨と言っても特に欲しいものがあるわけではない。一年半の同棲の間に、必要なものはすべて揃えていた。それでも男は生活雑貨を見るのが好きだったので、気晴らしのつもりで店内を物色して回った。おもちゃ売り場にはあの親子はいなかった。男はなにか必要なものはなかったかと思い出しながら店内を見ていたが、金を持っていないことに気づき、仕方なく、帰ろうと思いエスカレーターに足を向けた。途中男はもう一度、おもちゃ売り場をのぞいた。クリスマスセールの終わったおもちゃ売り場には人影は一つもなかった。
 男は気持ちの晴れないまま家に帰る憂うつを思った。ふと男は屋上があることを思い出した。つきあい初めの頃、女と何回か来たことがあった。屋上にはちょっとしたゲームや古めかしいが子供が喜びそうな乗物がある遊び場があった。男は階段のあるほうに向かった。
 階段の踊り場には、俗にガチャガチャと呼ばれるおもちゃの自動販売機があり、ミニカーも売っていた。男はそのミニカーを郷愁の念で見、その横にスーパーボールのガチャガチャがあるのを見つけて目を輝かせた。男は昔からスーパーボールが好きだった。しかもそれは、スーパーボールとしては異例の大きさで、子供の握り拳ほどの大きさがあり、その上色がきれいだった。スーパーボールの色は、たとえなに色であっても、ゴムの匂いがしそうな色という感じは拭えない。しかしそれは、どれを取っても飴玉のような透明感のある蛍光色で、宝石のようにきれいに見えた。女に馬鹿にされるかなと男は少し迷ったが、残りの百円玉三枚をはたき、久しぶりに胸を踊らせてガチャガチャを回した。男は赤と紫が珍しくもあり、特にきれいに見えたのでどちらかが欲しいと思ったが、出てきたのは蛍光色としてはありふれたマーカーペンの色に似た黄色いものだった。それでも、男はきれいだと満足した。男は周りを見渡し、人気がないのを確認して、コンクリートの壁にスーパーボールを投げつけた。三回ほどそれを繰り返し、男は満足して屋上へ上がった。
 屋上は、買いものにつきあわせた子供を満足させるべく、多くの親子連れでにぎわっていた。子供たちは冬だというのに元気そうに、売店で買ったソフトクリームをおいしそうに食べたり、駄菓子を取るゲームなどに興じていた。
 なにかのキャンペーンだろう、風船を持った女性の姿が目に入った。その風船は、男も二十四年間の中で一度しか手にしたことのない、ヘリウムの入った銀色のまんじゅう型のものだった。屋上で子供をして親に買わせるという手であることは一目瞭然である。親たちは巧みにキャンペーンのお姉さんから遠ざかり、一種独特な、存在を無視した空気が流れていた。しかし子供の要求に負けたのか、その風船を持った親子連れもちらほらと見受けられた。キャンペーンの女性の二メートル四方には誰も近づかなかったが、その内側に一人、小さい男の子が座り込んで駄々をこねていた。
 母親は手を引っ張って、「駄目でしょ、あれは買わないと貰えないの」と言い聞かせていた。
「欲しいの、買って」男の子は地団太を踏んで動こうとしない。
「いらないものは買えないでしょ」母親は声を落としてそう言った、「我がままばかり言ってると、もう置いてくからね、ほら、立ちなさい」
 男の子は「欲しい」を連発して泣き出した。
 母親は乱暴に子供を立たせようとしていた。
 男は昨日のことを思い出した。こうやって人間は、欲しいものが必ずしも手に入るわけではないと、あきらめを学習していくんだ、そう自分を顧みながら思っていた。すると、キャンペーンの女性がそっとその男の子に風船を渡した。素早い動作だった。
「すみません」母親は恐縮のあまり小さくなったように見えた、 「あっ、でもいいんですよ、そんな、お返しします」
「かまいませんよ」その人はそう言って男の子に笑いかけた。
 男の子は、感謝と云うよりはむしろ、こう惚とした表情でその女性を見上げていた。
「申し訳ありません、あの、買いますから」母親はそう言って、ハンドバッグを開けた。
 その女性は押し止めるような動作をして、「また今度買ってください」と言った。
 あれで商売になるのか、と男は考えながら歩きだした。でもいい光景だった、男はそう考え直した。あきらめや希望に添えないという挫折は嫌でも学ぶときが来る、男はそう思った、それなら、人の親切や思いやりに触れたほうが子供の教育にはいいだろう。男は、屋根の下に椅子とテーブルが雑然と並べられたところにある売店で、最後の小銭を合わせてカップのコーヒーを買い、一番端の空いているテーブルの前に腰掛けた。
 大人になってからも、ああいうふうに手をさしのべてくれる人がいれば、そう考えてから男は、そう都合よくいくわけはないと自分自身の考えを鼻で笑った。天は自ら助くるものを助く、そんな言葉が頭に浮かんだ。それでも全員が助けてもらえるわけではない、自分のようなものは誰が助けてくれるんだ、あの子供のように泣きわめいても、誰も俺が望むものを片手に手をさしのべてはくれない。
 男は、すぐ横にある子供用の小さいゴーカートの乗場に並ぶ先程の子供を見た。
 その男の子は「何個あれば空が飛べるかなあ」と言って、風船にぶら下がるように飛び跳ねていた。
 風船一つであれだけ喜べるのはうらやましいと男は思った。就職、進路、将来、そういうものが漠然と目の前の暗闇としてあることを男は思った。大人になると金では買えないものを欲するようになる、子供は純粋なんだと思った。自分はもう風船では喜べない、純粋なものを無くしてきたんだ。そう思いながら、煙草の封を開けたが、男は手を止めた。ついさっき、スーパーボールで喜んでいたことを男は思い出した。
 変わっただけなんだ。
 男は上着のポケットに入れていたスーパーボールを取り出した。一度それを床で跳ねさせ、煙草に火をつけると、隣のテーブルから、灰皿を取った。
 ほかの人が見れば、決まった劇団にしか入りたがらないのもくだらなく見えるかもしれない、そんなことで一喜一憂するのは理解できないと言われてもおかしくはない。
 男はスーパーボールを見つめて、じっと煙草を吹かしていた。少し気が楽になったような気がした。誰も手を差し伸ばしてくれないのなら、自分自身でなにかするしかないのだと、割り切れるようになった。男は感謝するように、キャンペーンの女の人を見て、風船を持った男の子を見た。
 その男の子は、風船の浮力を確かめるように、何度も下に引っ張っていた。
「ちゃんと持ってる」母親が乱暴にひもを引っ張る息子にそう聞いた。
「うん」その子は言った、「大丈夫だよ、ほら」
 そうして、その男の子は母親に風船を持つ手を広げて見せた。しっかり握られていたひもは、開かれた手によって自由になり、支えをなくした風船は、鰯雲がまばらにある空に、引き寄せられるように登っていった。男の子は唖然としてその風船を見つめていた。
 男は舌打ちをして、「馬鹿」と悔しそうにつぶやいた。男の子は思い出したように、さっきまでひもを握っていた右手を、風に流されていく風船に伸ばした。それがとうに手遅れであることを知り、絶望的な眼差しで母親を見上げた。
「馬鹿ねえ」母親はしゃがんで優しく息子の頭をなでた、「持ってる手を広げたら飛んでいっちゃうでしょ」
 男は煙草を消した。左手に持ったスーパーボールをじっと見つめ、キャンペーンの女の人を見た。そして、決心したように立ち上がり、男の子のところに行った。男は、目にいっぱいの涙を溜めたその男の子に、黙ってスーパーボールを握らせた。
 男はなにか言おうとする母親に片手を挙げて、「自分には必要ないんで」とだけ言って、赤くなった顔を隠すように後ろを向いて歩きだした。
 気障だった。男はそう思うと恥ずかしかった。背中に視線が集まっているようにも感じ、自然と足が速くなった。
 スーパーボールを風船ほど喜ぶはずはない。男はそう思った。むしろ親は訳が分からず迷惑しているかもしれない、気障な行為だった。
 男は、風船をあげた女性を真似るような、自分に似合わない行為をしたことを後悔した。男は目を伏せるようにして、屋上の出口に行き、さりげなさを装い、髪を掻き上げて後ろを振り向いた。男の子は笑っていた。ちらりとしか見えなかったが、確かに笑っていたように見えた。そして男は、キャンペーン女の人を見た。相変わらず、敬遠するようにそばには誰も寄りついていないが、男の子に風船をあげたときと同じ笑顔で、商品を売り込んでいた。
 男は、自分自身にうなずき、今度は確かな足取りで階段を下り、家に向かった。
 男がマンションに戻り、ポストを開けると、数枚のチラシとともに幼稚園からの封筒があった。部屋に戻るともう一時を回っていた。男はやかんに火をかけ、ソファーベットに座って音楽をかけた。カップ麺の準備をし、封筒を持った。それは今までのよりは重いように感じたが、たくさんの書類が入っているようには思えなかった。
「軽いからって落ちてるとは限らないよな」
 男は大学の合格通知が、落ちたと確信したほど軽かったことを思い出した。男は封筒を振ってみたり、窓に透かしてみた。男はあきらめて、封筒をテーブルの上に置き、ラーメンの汁がかかってはいけないと思い、改めてソファーベットの上に置きなおし、暖房のスイッチを入れた。
「絶対に開けないでね」と女は言っていた。だが、男は気になってしょうがなかった。もし、こっちで幼稚園に就職ができない、つまり最後の砦になったこの幼稚園が落ちていたら、女は実家に帰れと言われている。実家のほうであればコネがあるそうなのである。この幼稚園が駄目ならば、それは同時に男と女の関係の危機にもなる。男は希望の劇団のある場所を離れたくはなく、女も幼稚園の先生の夢は捨てられない。受かるという望みにしがみつき、これまで男はすべて落ちたときのことは考えようとしてこなかった。
 男は封筒を再び拾いあげた。
 もし落ちていたら。
 やかんが沸騰を知らせ、ピーと音を鳴らした。男は台所に立ち、やかんの湯をカップに入れ、蓋に液体スープを置いて時計を見た。きっちり三分計って男は蓋を開けた。食べ終えると残ったスープを流しに捨て、冷蔵庫からペットボトルの水を持って戻ってきた。
 昨日まで、男も女もまだ希望を捨ててはいなかった。しかし男の夢は破れ、女の運命も今日で決まる。男は自分が劇団を落ちた後のことは考えていなかったし、ましてや女が実家に帰るということも考えていなかった。いやむしろ、考えようとしてこなかった。
 自分たちには夢がある、夢を持ってそれに進んでいるということに満足していたんだ。男はそう思った。だがもう、自分の当面の夢は破れ、女が落ちたときのことも考えなくてはいけない。
 だがいったいなにを考えればいいのか、男にはそれが分からなかった。分かっていることはなにか、男は考えた、分かっていることは、受かればなんの問題もないということと、落ちたら女は田舎に帰ると言い出すことだった。
 つまり問題は、あいつが田舎に帰るということか。
 男は時計を見た、まだ女が仕事を終えて帰ってくるまで三十分はある。男はCDを変えた。
 遠距離恋愛になるか、別れるか、それとも一緒に向こうへ行くか、その三つだ。
 男は考えていた、一年半一緒に暮らしてきたこと、自分の夢、今現在うまくいっている二人の関係、女の夢。
 男は、突然目の前に迫ってきた重苦しい現実を感じて目を閉じた。できることなら逃げ出したい、しかし、現実は逃げることをゆるさない。男は恨めしそうに封筒を見た。スピーカーから流れるドラムの音が、男の気持ちを揺さぶった。
 二時十八分、外で自転車を止める音がして、いつもより早く女が帰ってきた。おそらく仕事仲間とおしゃべりもせずに大急ぎで帰ってきたのだろう、女は荒い息で部屋に入ってきた。男は鼓動が高まるのを感じていた。
「来てる」
 女がそう聞き、男は封筒を見せた。女は強ばった顔で、それでも落ち着いて上着をハンガーにかけた。
「まだ見てないでしょ」
 男はうなずいた。
 女は正座をして封を切った。
 女は男に一枚の紙を渡した。その表情で分かっていながら、男は確認するように受け取った文書を読んだ。それは思ったより長い文章だった。時節の挨拶に始まり、残念ながらという文が続き、言い訳のように不況と少子化の説明があり、最後に今後の活躍が祈ってあった。
 男がそれを読み始めるとすぐ、女は泣き出した。
「まだ次がある」そういう慰めはもうない。男は黙っていた。女もなにも言わず泣いていた。
 男がかけていたCDが終わった。部屋の中は急に時計の針と、女の鼻をすする音だけが支配した。男はリモコンでデッキの電源を切った。男は煙草を一本取り出し、口にくわえてから女を見、思い止まったようにライターを置き、口から煙草を離すとテーブルの上でそれをとんとんと叩いた。
「どうする」男は枯れたような声でそう言った。
 女は赤い目で男を見た。
 そして、「どうするって」と鼻声でそう言った、「どうすればいいのよ」
「実家に帰れば」男は咳払いをして言った、「実家に帰れば幼稚園に入れるんだろ」
 女は洟をかんだ、「帰っていいの」そう睨むようにして言った、 「もう別れてもいいと思ってるの」
「別れてもいいなんて思ってないよ」男はつぶやくようにそう言った。
「じゃあなんで、田舎に帰ればいいなんて言うのよ」女はちり紙で押さえた目から涙を流してそう言った、「こんなに長く一緒にいて、それで、別々に暮らしてやっていけるわけないじゃない」
「わたし嫌だよ」女はそう続けた、「別れたくない、別れるくらいなら、もう幼稚園の先生になんかならなくてもいい」
 男は煙草に火をつけた。男は女がそう言うとは思っていなかった。女がどれだけ幼稚園の先生になりたがっていたか知っているからだ。友達の友達という関係から知り合い、その時まだ女は短大に入学したばかりだったが、その頃から女は幼稚園の先生になりたいと言い続け、一緒に暮らしてからもまじめに勉強する姿を見てきた。男は誰よりも、女の夢への情熱を知っていた。しかし女は夢をあきらめてでも男と一緒にいたいと言った。
 なんて日なんだ。男はそう思った。
 男は今日あったことを思い出した。
 公園の兄弟、駐車場の女の子、屋上の男の子、望むものを自分のミスで目の前でなくした子供たち。夢が破れた自分。キャンペーンの女の人。スーパーボール。
 男の持つ煙草から、長くなった灰がテーブルに落ちた。
「ねえ、なんとか言ってよ」女がそう言った、「このまま別れてもいいの」
「もうたくさんだよ」男はちり紙でテーブルを拭ってそう言った。 女は目を釣り上げた。そしてその口が開くより早く、男が続けた。
「実家に帰って、幼稚園の先生になれよ」
「それじゃあもう 」
「俺は大丈夫だから」
 男は女に先を言わせずそう言った。
 男は煙草をもみ消し、息を吸った。そして、気障にならないように気をつけよう、そう思いながらゆっくり口を開いた。
「結婚しよう」

                          おわり