アセビ  先日友人が離婚しました。半年前に結婚したばかりなので、二次会の幹事までやった私としては、苦情を言わざるを得なかったわけですが、本人はケロリとしたものです。 「結婚というものにお互い依存したんだろうな」  いつもの居酒屋で奢らせ、理由を聞いたとき彼はそう言いました。結婚という社会的なものに縛られた部分もあるようです。二人とも長男、長女で、互いの家ことでも面倒くさいことがあったようです。そういうのにうんざりしながら、相手にはちゃっかり奥さんなんだから、とか、旦那だから、ということを言いだし、理解しろ、我慢してくれ、と我儘が強くなって、結果的に、結婚しないほうがいい関係でいられたと二人が思った、ということらしいです。  例を出して説明してくれたのですが、共感できなかったのでどんなことだったのか忘れてしまったくらいです。 「確かにそういうところはあるだろうけど、それをなんとかしていくのが結婚というものだろう」  私は納得できずにそう言いました。 「俺たちの結婚は、離婚のためにしたようなものだってことだよ」  彼は堂々とそう言いました。ものは試しでちょっと体験してみたというような言い方ではないですか。 「離婚するために結婚するなよな、お前たちの幸せを願って、時間を割いてくれた人たちに申し訳がないだろう」  本当は、私が金と時間を返せと言いたかったのですが、ちょっとそれはいやらしいので、そう言いました。 「結婚しなかったら今の状態はないだろ」私が一般論を言いだしたので、彼は少しむきになったようです、「俺は一皮むけたと言っていいだろうし、あいつだって結婚して良かったって言ってるんだ、その上離婚がお互いの幸せの道だったんだから、みんなの望んだとおりに、ちゃんと幸せになったんだよ」 「二人で幸せに、という意味だったんだけどなあ」 「別々でもお互い良かったと言ってるんだから、いいじゃないか」  なんとなく、それで納得させられたような次第です。  結婚も離婚も本人たちの問題ですから、二人が今のほうが幸せだと言うなら、私としてもこれ以上苦情は言えませんでした。確かに彼は生き生きとしていました。幹事の労力や祝儀がどうのと言うことがひどくしみったれたことのように思えるほどでした。  しかし彼と話しながら、人の幸や不幸というのは分からないものだとつくづく思いました。別れて幸せだと言う人もいれば、別れ話で殺人事件にまで発展することもあり、愛し合っているのに別れることもある。様々な形の中に人それぞれの思いもあります。可哀想にと思うような状況の人でも、案外本人は幸せだと言う例は多く見ますし、その逆もあります。形でないならば、一体なにが決め手になっているのでしょうか。これはなかなか難しい問題ですが、そういうことを考えるときに、ふと思い出す話があります。  それは江戸時代に生きた若い女性の日記の中の一つのエピソードです。書き写されたものの一部分しか持っていないので、書かれた年代もその人物の名前も分かりません。ただ私は幸の字を当てて、日記の主をおこうさんと呼んでいます。  今日は、バラバラに書かれているそのエピソードに関わる部分を抜き出し、一つにまとめ、足りないところは補いながら、紹介してみようと思います。  春、一月三十日の日記から始めましょう、今では三月くらいでしょうか。椿の白侘助を母が一輪もらってきたとありますし、梅は満開だそうなので、三月上旬と思っていいでしょう。  その日の午前中、おこうは五十日《ごとおび》に通っている、お針の師匠の所にいました。そこは大伝馬町にあったので、おこうの住む木挽町からは半里(約二キロメートル)も離れた所にあります。お針の師匠というのは大体一つの町内に一人はいたらしいので、なぜわざわざそんな遠くに行っていたのか不思議です。どうも弟子たちは、針女――裁縫で稼ごうという女性ばかりのようですし、貧しい人が多かったので、職業訓練校のような特殊性があったのかもしれません。  ここの生徒たちは全体的に仲がいいのですが、おこうは特に、おりつ、おえいという二人と親しくしていました。歳も十八と同じで、裁縫の技術もほとんど同じ(もうすぐ独り立ちできるほど)、その上、三人とも結婚を予定しているという共通点が親密さを深めたようです。  おりつは八丁堀に近い水谷町に住んでいるのでおこうと帰る方向は同じなのですが、おえいは反対の北方面、阿部川町なので、帰り際に立ち話をするのが楽しみになっていました。ただこの日はおえいがすぐに帰らなくてはいけないと言いました。 「そうなんだ、残念」  おこうがそう言うと、「ごめんね、ちょっと寅吉さんと話があって」とおえいは照れたように笑いました。  その顔を見て、「祝言のことでしょ」とおりつが軽くにらみます、「わたしたちより男を取るのね、いつも早く帰るのも案外それなんじゃないの」 「いやだ、そんなのじゃないわよ」  おえいは叩く真似をしました。 「嘘よ、でもおえいちゃんはいつも楽しそうで羨ましいわ」 「そんなことないよ、でもごめん、針供養のことは二人で決めておいてくれるかしら、じゃあまたね」  おえいは、途中で二回ほど振り返って手を振りながら、急ぎ足で帰って行きました。いいタイミングで帰ったなとおこうはそのとき思いました。羨ましいと言ったあとは、多くの場合愚痴が続くものです。でもこの後に続くはずのおりつの愚痴は、おこうとしては友達の役割分担の中で自分が聞くものだという意識もあったので、おえいがずるいと思ったわけではありません。おえいがあまりそういう話を好きではないのも知っていましたし。 「針供養のこともあったのね」おりつは歩きながら不服そうに言いました、「浅草寺ってことしか決まってないじゃない、待ち合わせするにもこの辺りだとおえいちゃんは一度来た道をまた戻ることになるでしょ、おえいちゃんの家のそばがいいと思っていたんだけど、おえいちゃんがいないと決められないよ」 「次に会ったときでもいいんじゃないかしら、おえいちゃんは結婚のことがなかなか決まらないみたいだし」 「次って二月五日でしょ、まあしょうがないわね、今が一番いい時期だろうし、わたしみたいに結納を済ませちゃうともうだめよ」 「そうなの、わたしもうすぐ結納なんだけど」 「おこうちゃんは大丈夫でしょ、私の家がひどいのよ、わたしが出ていく人間だと思って、今のうちにこき使ってやろうという魂胆なのよ、稼ぎ手が減る、親を捨てるんだって、そんなことまで言うのよ、信じられないでしょ」 「どこも大変ね」  おこうは自分と照らし合わせました。まだわずかな稼ぎしかないおりつを頼りにするおりつの家族と、仕送りが目的と言ってもいい自分の結婚とを。 「でもおこうちゃんは弟だけでしょ」とおりつは溜め息混じりに、少し妬ましそうに言うのです、「わたしは姉さんを差し置いてというのがあるの、毎日嫌みを言われて、もううんざりよ」 「夏までの我慢でしょ」  おこうはやさしくそう言いました。 「嫌なことばかりあると一日が長く感じるでしょう、おえいちゃんみたいに毎日笑って暮らしていればすぐなんだろうけどね」  確かおえいの家は大変だと本人が以前言っていたのをおこうは思い出しました。しかし詳しいことは聞いていないので、そうね、とうなずくだけでした。  歩きながらしゃべり、いつも二人が別れる四辻に着いても、おりつは話し足りない様子で、そこに立ち止まっておしゃべりを続けました。何度も聞いたことです。父親は算額に夢中で仕事もろくにしないこと、母親は怠け者で、育てた恩を返すべきだと言って家事は全部娘たちに任せていること、家を出た弟は藪入りにも帰ってこないこと、さらには結婚相手の長衛門が女好きで心配だということをほとんど一人でしゃべりました。  おこうは知ってることでも真剣に聞きました。両親が健在なだけでもいいと思うのものの、それはそれで辛いことがあるようだし、自分にしかそういう愚痴は言わず、言えば楽になることを知っているからです。家族を選ぶことはできない、どうしようもないのなら、気の知れた友達に愚痴を言って憂さを晴らすことくらいしかできないと、おこうも知っています。実際おこうも、おりつにはよく愚痴を聞いてもらっていました。  ただ、おえいはそういうことはほとんど言わないので、自分に心を開いてくれていないというのか、壁を感じることもあって、寂しくなることもありました。 「男ってどうしてああなのかしら、おこうちゃんのところは相手が三十過ぎでしょ、心配じゃない」  おりつはそう聞きました。男はみんなそうなんだという賛同が欲しかったようですが、おこうは首を振りました。 「そういう人じゃないみたい、そんな甲斐性はないわ、盆栽をいじっていれば幸せというだけの人だから」 「女より盆栽が好きなの」おりつはさも驚いたようにそう言いました、「そんな人もいるのねえ」  おこうは笑って、「暗いのよ、まだ若いのに他に道楽も知らないんだから、いやになっちゃう」と言いました。 「それはいやね、うちのお父っさんみたいに道楽ばかりというのも困るし、長さんみたいに可愛い子をみるとすぐに鼻の下を伸ばすのもどうかと思うけど、少しは男らしいところがないとねえ」 「そうね、でも、おりつちゃんやおえいちゃんみたいに好き合って一緒になるわけじゃないから……」  おこうは負い目のような暗い引っかかりとして、いつも心にそれがありました。 「わたしはこの人だと思って、無理やり振り向かせたのよ、だっておえいちゃんみたいに選り取りみどりというわけにはいかないもの」とおりつは、少しおりつを嫉むような口調で言いました、「それにしても人より木が好きだなんて、ちゃんとおこうちゃんのことをかわいがってくれるのかしら」 「そういう女々しいところがあるせいかしら、優しいところはあるのよ」  一応おこうは冗談めかしてそう言いました。 「それならまだいいか、まさか木と一緒に寝られやしないものね」  とおりつも笑いました。 「それにお店《たな》の跡取りなんでしょ」おりつは羨ましそうに言います、「かわいがってくれなかったら贅沢しちゃえばいいのよ、それができるだけ羨ましいわ」  おこうは作り笑いをしました。確かに結婚相手の松太郎は、祝言のあと店を任されることことになるらしいですが、それほど儲かってはいない紙屋だし、家に仕送りすることは決まっているので、とても自分の自由になる金があるとは思えなかったからです。  おりつと別れたあと、おこうはなんとなく家に帰るのが憂鬱になり、大川端に沿って回り道をして帰りました。  稲荷橋を渡っていると、その先のお稲荷様の境内にある梅が目に止まりました。おこうは立ち止まってそれを眺めました。春と言ってもまだ手足が冷たくなるくらいの陽気ですが、傾きかけた日は、ちょうど梅の向こうにあり、白い花を輝かせるように陽射しを送っていました。きれいだと思って立ち止まったものの、気分のせいか、派手すぎて嫌みにも思えてきました。 「羨ましいか」  おこうはそうつぶやいて、欄干に両ひじを置き、水面を眺めました。好いた人と一緒になるほうが幸せじゃないだろうか、結婚のことを考えるとむなしさが増します。  おこうは、この先幸せになることなんてあるのだろうかと思いました。松太郎がよくしてくれれば幸せになれるだろうか、それとも、子供ができれば幸せに思うだろうか。それは今は分かりません。ただ、幸せになりたいと思っていました。  考えてみれば、楽しかった思い出は子供のころで終っているのです。元々目のよくなかった父の視力が五年前から急激に落ちて仕事ができなくなり、頼りの兄も三年前に死んでしまい、それからというもの、毎日の暮らしに追われるだけの日々でした。母とおこうで賃仕事をしてもおっつきません。弟は去年奉公に出たばかりで、稼げるようになるのはまだまだ先です。それでも叔父の援助のおかげで、同じような境遇の人よりはかなり助けられてきました。その叔父のすすめで歳の離れた従兄と結婚することになったのです。今後の援助と、嫁の来てがない息子の嫁、両家の求める物が一致した最高の縁談というわけです。容姿に自信がなく、これまでも恋の楽しみを知らなかったおこうには、結婚を夢見ることしかできなかったのですが、その夢も終ってしまいました。 ――すべては巡り合わせだ。  おこうは欄干から離れて歩き出しました。幸も不幸も巡り合わせで、自分の力ではどうすることもできない。祈ることしかできないおこうは、お稲荷様に足を向けました。  家――と言っても狭い裏長屋ですが――に戻ると、「遅かったじゃないの」と母が急き立てるようにおこうを部屋に上げました。ついさっき、結納のための道具や着物が叔父から届いたそうです。 「本当に兄弟ってありがたいわ」と母は嬉しそうに着物を広げます、「古着だけどいいものね、ちょっと着てみなさいよ」 「いいわよ」とおこうは母を避けるようにして座りました、「どうせ明後日着るんだから」  そうやって、浮かれている母に水を差すことがおこうができる精一杯の自己主張だったのです。母は不服そうに口の中でなにかつぶやきましたが、はっきりとそれを口に出さないことは分かっていました。「いやならやめてもいい」と言わないように、「本当はいやなのだ」とおこうも言えないのです。  おこうは父を見ました。どんな顔をしてこのやり取りを聞いているのかと思ったのですが、いつものように何も聞いていないような顔で座っているだけです。昔は腕のいい紙漉職人で、体つきもよく明るい人でした。今は人の姿をとらえることが難しいくらい視力は落ち、体も一回り小さくなったようで、白髪も随分増えたようです。自分に苛立つのか、怒鳴り散らすようなことも多くなりました。そんな父をおこうは哀れに思うし、自分から鍼や按摩を憶えようとするまではそっとしてあげたいとも思っています。でも、自分の気持ちを推し量り、「すまないな」と一言でも言って欲しかったのです。  二日後、いよいよ結婚が動かしがたくなる気の重い結納の日です。弟は来られませんでしたが両家が揃い、叔父が全部を手配してくれたおかげでつつがなく終了しました。そのときの松太朗は、終始落ち着きなく目をあちこちに走らせ、おこうと目が合うと笑顔を作っていました。気が進まないせいもあるでしょうが、それがひどくいやらしい顔に思えて、おこうは途中からずっと下を向いていました。  結納のあと、飲み直そうということで叔父の家に行きました。叔父が自分の家に来ることのほうが多く、おこうがこの家に行くのは父の目が悪くなってきたころ以来でした。  この家に住むのだ、そう思いながら改めて家を見てみましたが、何の実感も湧きません。叔父は人のいい、商売人とは思えないようなお人好しで、叔母もはっきり物を言うものの気の合わない人ではありませんでした。それは救いだったし、新しい両親なのだと思い込もうとすれば、抵抗なく思えるような気はしました。でも松太朗を好きなれるかが問題です。  途中松太朗がおこうを庭に連れだしました。「盆栽を見せたい」というわけです。気は進まなかったのですが、母の媚びたような笑い声や、常にない明るい様子の父を見るのはいやだったので、おこうは素直についていきました。それに、叔父から夢中になっていて困るとは聞いていたのですが、実際に松太郎の盆栽を見るのは初めてだし、盆栽と嫁に対する松太郎の気持ちを知るいい機会だとも思いました。  ふと、お気に入りの盆栽を落としてみようか、おこうはそんなことも考えました。それで盆栽とわたしとどっちが大切か分かるかもしれない。でもすぐに、そんなことをしてもなんにもならないと思い直しました。簡単に許してくれたら罪悪感が残ってしまうし、泣いて謝っても許してくれなかったら、ますます気が重くなるだけなのです。  それに、一度難癖をつけるといやなところがとかく目につくようで、今も前を歩いている松太郎の後ろ姿が醜く思えてきます。背はおこうと同じくらいで、頭がまん丸と言っていいくらい丸く首が短いので余計に小さく見えます。虫みたいな人だとさえ思いました。そんな気持ちで松太郎の気持ちを試しても、悪い印象しか持たないだろうと思ったのです。  松太郎の盆栽棚は彼の部屋の前にあり、東南に面した縁側の正面一杯に広がっていました。棚は長い板を腰の高さに据え付けた物で、その板の上にずらりと鉢が並んでいて、それが五列も六列もあったといいますから、ちょっとした盆栽店並です。 「すごい」  と思わずおこうは声を上げました。まさかこれほどとは思いませんでした。こんなに凝っているんだという不安も沸きましたが、あまりの数に爽快な印象のほうが強かったようです。 「もう少したつと新芽が出るんだ」と松太郎はいつものように早口で言いました、「春の芽出しはきれいだよ」  松太郎はおこうに履き物を与え、梅の鉢が並んでいるところに案内しました。梅の品種や模様木だ懸崖だという樹形について説明されても、おこうにはよく分かりませんでした。でも確かに花はきれいで、木は大木のような力強い美しさがあったと感心しました。 「松もあるけど、花や実がつくのが好きなんだ、この時期は花が多くなって楽しいよ、今はサンシュとトサミズキ、そっちは椿もまだ咲いてる、そうだ、アセビも咲き始めたんだ」  松太郎はアセビの鉢を持ってきておこうに見せました。小さくて白い壷形の花が鈴なりについていて、それはとてもかわいく思いました。 「花はスズランとそっくりだろ、スズランは君影草と言って君の面影をしのぶという花なんだけど、アセビは馬が酔う木と書くんだよ、足がしびれる毒があるからなんだけど、スズランにも毒はあるんだ、花の形は同じなのに随分違う言われようだろう」  わたしと同じだ、不思議とおこうはそう思いました。同じ結婚でもおえいやおりつとはまったく違う、というところでそう思ったようです。せっかく興味を持ち始めたのに、また暗鬱な黒い陰が胸に戻ってきてしまいました。  趣味を披露する人に共通なのでしょう、松太郎はいきいきとそれぞれの木を説明しました。専門用語がたくさん出てくるのは困りましたが、花や木を実際に見ると、確かに思っていたよりもいい趣味だと思いました。気に入ったものもいくつかあったくらいです。しかし、隣で滑舌の悪い早口で話されると、きれいだと思う気持ちも半減してしまいました。 「なんで素直にきれいだとかかわいいと言えないんだろう」  それなりに相づちを打ちながら、おこうはそんなことを考えていました。  松太郎のことは、結婚相手としては理想とは遠いので不満がありますが、人としては別に嫌いではないし、盆栽も思いの外良かったのだから、まるで意地を張ったように松太郎にけちをつける自分がいやらしい人間に思えてきたのです。  拗ねているのです。おえいのように男が放っておかないような女ではないし、おりつのように自分から好きになった男を振り向かせようという強さもないことは自分で分かっています。だからいい縁談だけに秘かな希望を持っていた、それが思い通りに行かず、二人の友達と自分を比べて拗ねていると、自分でも感じていました。 「あまり好きじゃなかったかな」松太郎ががっかりしたようにそう言いました、「気に入ったのがあったらあげてもいいと思っていたんだけど」  人より盆栽が好きなのだと陰口を言っていたのに、ちゃんと今、好きなのをあげると言っています。おこうは自分がさらに情けなく思えてきました。 「吃驚してたの」おこうはさすがに悪く思い、慌ててそうごまかしました、「あんまりたくさんあって、どれもきれいだし、なんと言っていいか分からなくて」 「そう言ってくれると嬉しいな」途端に松太郎は元気を取り戻しました、「のめり込み過ぎだと家では嫌がられたりもするんだ、気に入ったのはあったかい」 「アセビ」  少し悩んでから、おこうはささやくように答えました。花がかわいかったからというだけでなく、可憐な花と毒という二面性が今の自分に合っているからという、少々投げやりな気持ちもあったようです。 「やっぱり花が好きなんだね、いいよ、あれはあげるよ」 「でも枯らすと悪いから、松太郎さんが育ててちょうだい」  毒があるというので、家に持って帰るのは気が引けたのです。 「かまわないよ、でも手入れは教えてあげるから、それは自分でやるといい、愛着が湧くからね」  おこうはうなずきました。そう言われて改めてすごい数の木が並ぶ棚を見ました。自分の木がこの棚の中にあるというのは不思議な感じがしましたが、なぜかいやな気持ちではありませんでした。 「小さいほうがかわいくていいかな、花が終ったらもう少し小さくしたらどうだろう」と松太郎は木を指さしながら説明を始めました、「この上の幹を抜いてしまえば半分くらいの大きさになるよ、そうするとこっちに流れるような樹形になるだろ、この枝とこの枝も抜いて、横に流れる木姿から花が下にこぼれるように咲くという感じにするんだ」 「枝を抜くって言うのね、切るじゃないの」  おこうは少しでも話を合わせるために、疑問に思ったことを聞いてみました。 「木を尊重しているんだろうね、人の手で自然のような美しさを表わそうとするから、自然では考えられないほどよく切るんだよ、だからかな、抜くとか外すという言い方をするんだ」 「本当に木が好きなのね、なんでも知っているし」 「自分でも困るくらい好きだよ」と言って松太郎は裾をまくって脛を見せました、「ここに痣があるだろう、昨日ちょっとぶつけたんだ」  脛は毛だらけだったので、おこうは思わず目をそらせました。 「木があるとつい枝ぶりを見たくなる、自然から学ぶことを忘れちゃいけないからね、それにいい木や花があったら憶えておくんだ、実をもらったり、挿し木用にちょっと頂いたりするんだよ、そうやって上ばかり見てるから、こうやって脛をぶつけるし、人にもしょっちゅうぶつかる、それによく犬の糞を踏んじゃうんだ、この前なんか鳥の糞が顔に落ちてきて吃驚したよ」  やっぱり変だとおこうは思いまた。今の言いようだと実や枝は勝手に取っているようだし、そこまで上ばかり見て歩いているなんておかしい。嫁の貰い手がないのもうなずけました。この人とうまくやっていけるか、また不安が溢れてくるのです。結婚するのだから認めようとする気持ちはあるのに、どうしてもそれをいやだと思う気持ちが前に出てきてしまいます。  でも仕方がないと思いました。巡り合わせなのだから。松太郎が悪いわけではないし、父が悪いわけでもない、まして死んだ兄が悪いはずもない。どうしようもない運命で、自分はその運命に従って生きるしかなく、少しでも幸せになれるように祈るしかない。そう思いました。  その日から二日後の二月五日は、針供養に出掛ける前に三人が顔を合わす最後の日でした。いつものように帰り際に立ち話をしながらそのことを相談しました。おこうとおりつはここ、師匠の家の前で待ち合わせ、おえいとは彼女の家のそばで合流して、そこから三人で浅草寺まで行こうということになりました。  昼過ぎに着くようにと時間も決めると、すぐにおりつは話題を変えました。 「この前は慌てて帰ったけど、寅吉さんとはどうなったの、進展があったんじゃないの」  おりつは三人とも同じような時期に結婚をしたいと思っていたようです。だからおえいの話がなかなか決まらないのがもどかしいのです。 「どうもないわよ」とおえいは言いました、「休憩の時間に間に合わせるために急いでいただけだもの、話はしたけど進展はなし」 「どうなってるのよ」おりつは自分のことのようにじれったそうにしました、「二人ともべた惚れで親だっていいと言ってるんでしょ、もし寅吉さんがはっきりしないんだったらおえいちゃんから言うくらいじゃないとだめよ、男はきっかけがないとなかなか結婚したがらないんだから、ましてやあんないい男、早くしないと他の女に取られちゃうよ」  おこうも同意しました。好き合った人との結婚は逃してはいけないと思ったのです。 「慌てないことにしてるの、少しでも話ができて良かったし」  おえいはそう言って笑いました。 「心配なさそうね」とおりつはその笑顔を見て言いました、「それだけ幸せそうなら大丈夫よ」 「わたしもそう思う」とおえいは言いました。 「まったく当てられっぱなしね」  おりつは、「憎たらしい」とおえいを軽く小突きました。  その時大袈裟によろけたおえいは、後ろに犬が寝ていたのに気付かずにその足を踏んでしまいました。  悲鳴のような鳴き声を上げ、その犬はおえいの右足に噛みつきました。今度はおえいが悲鳴を上げ、振り払おうと足を激しく動かしましたが、犬は着物の裾に噛みついて離れません。おこうはおろおろとしていましたが、おりつは素早く石を拾い上げて犬に向かって投げつけました。  おりつの活躍で犬は逃げていき、おえいは地面に座り込り込んでしまいました。 「怪我はない」とおりつとおこうが駆け寄りました。幸い怪我はなかったのですが、着物の裾は大きく稲妻形に破れてしまいました。 「吃驚した」とおえいは照れ笑いをして立ち上がりました、「破れちゃったわね、針供養の時に着ていくものがなくなっちゃった」 「ごめん、わたしが押したからだわ」 「いいのよ、わたしが悪いんだから、おりつちゃんは助けてくれた恩人よ」とおえいは言います、「それに、これだけ破れたのを目立たないように直すなんていい練習になるでしょ、怪我もしなかったし運がよかったわ、これで帰るのは恥ずかしいけどね」  おえいがあんまり平気な顔をしているのでおこうは驚きました。自分だったら犬に咬まれた驚きと一張羅が破れた悔しさで泣いてしまうかもしれない。おえいが弱音を吐くのを聞いたことはあまりないのですが、改めて強い人だと思いました。  その着物ですが、結局おえいは針供養に行くときには破れた裾をきれいに修繕していました。おこうとおりつは、待ち合わせ場所に同じ着物で立っていたおえいに驚き、その完全な修復に感心しました。 「裏に当てた布が目立たないような生地だからよかったの」おえいは、うまいと褒める二人に裾を裏返して見せました、「でも走ったりしたらめくれて当て布が見えちゃうから、上品に歩かないとね」  おこうはおりつの顔を見ました。罪悪感を感じていたおりつは、ずっとそれを心配していて、道すがらどうしようとどうしようと言いっ放しだったのです。そして、もしひどい着物しかなかったら悪いからと、自分も色の落ちたかすれたような着物を着てきました。おりつは安堵の表情を浮かべ、しきりにおえいの腕を褒めていました。せっかくのお出掛けが気まずくならなくてよかったと、おこうも安心しました。  二月八日は事始めということもあり、浅草寺は人で賑わっていたようです。三人は針供養をすませ、出店を見て回りました。 「この紅いい色」 「これなんか似合うんじゃない」  買う気はないのにそんなことを言ってはしゃぎ、楽しい時を過ごしました。一通り見て回ったあと、軽くなにかを食べようかいうことになりました。 「その前に三社様にお参りに行ってもいいかしら」  とおこうは、三社権現に行かないかと提案しました。 「そうね、すぐ隣りだし、せっかくだからお参りしましょう」  おえいがすぐに賛成すると、おりつも「わたしも長さんが結婚したあと女遊びをしないようにお祈りしよう」と言いました。  すると、 「わたしも結婚のことをお祈りしたかったの」 「わたしも」 「なんだ、みんなそうだったんじゃない」  ということになり、三人は顔を見合わせて笑いました。  お参りをしている間、おこうは気持ちが軽くなっていくのが分かりました。神仏の力というだけではなく、おえいとおりつが真剣にお祈りしている姿が、問題があるのは自分だけではないと教えてくれたからです。  お参りをすませた直後、おりつが知り合いを見つけたようで、一人の女性に駆け寄りました。 「お里さんじゃないの、あんたこんなところでなにをやってるの」  お里と呼ばれた女は、自分たちより三つほど年上に見えました。目が大きく穏やかな口元をしてるので、普通であればとてもきれいだと思える人です。そのときはもったいないことに、武家の人だと思われるのですが、着物は汚れ、髪も乱れ、ひどくやつれているように見えます。なにか事情があるようです。 「おりつさん、おりつさん」  こんなところで知っている顔に出会ったからでしょう、お里は目を潤ませておりつの手を握りました。  おりつは人気のない拝殿の脇にお里を連れ出し、おこうとおえいもあとに付いていきました。 「どうしたっていうのよ、お兄さんが亡くなってしばらくしたら急にどこかへ行ってしまって、心配したんだから」  おりつは問いつめるようにそう言いました。お里は不安そうにおこうたちを見ます。 「前に話したでしょ」おりつは安心するようにお里に言いました、「おこうちゃんとおえいちゃん、信用のできる友達よ、お願い、なにがあったのか話してちょうだい」  お里は少し迷ったようですが、すぐにこれまでのことを話し始めました。  お里は母がなく、ただ一人の父を私怨で殺されました。その敵を討つために兄と二人で旅を続けていたというのです。 「敵討ち」おりつは信じられないという顔で言いました、「そんなことがあったなんて、全然知らなかったわ」 「八年も前からずっと」お里はそう言いました、「でもまるで手がかりがなくて、それでも仇を討つまでは帰参もできない、もうあきらめて兄さんと二人で江戸で静かに暮らそうと話していたの」  ところがその兄が病気になり、日に日に弱っていきました。もう長くないだろうと医者に言われて間もなく、お里は仇を見かけます。なんと隣町にいたのです。 「今思えば、その時わたしの手であの男を討っておくべきだった」  お里はそう言いました。でもその時はやっと見つけたという興奮と兄に知らせなくてはという思いしかなかったのです。跡を付けて住まいを突き止めたあと、お里は地に足が着かないような思いで家に戻りました。ですが兄の顔を見た瞬間、兄に言ってどうするのだ、ということを考えました。 「兄さんはもう起き上がることもできなかったから」お里は声を潤ませてそう言いました、「すぐそばに仇がいるのに刀を振るうこともできない悔しさを思うと、言わないほうが安らかに死んでいけると思ったの」  しかしお里は言う決意をしました。仇を討つことが目的ではなかったのです。お里一人では仇は討てないので、自分がしっかりしようと気力を取り戻し、そのために少しでも長く生きてくれるのではないか、それだけの思いでした。  でも兄はその次の日に死んでしまいました。仇のことを言ったとき、「良かった、やっと見つけたんだ」と、病の苦しさに耐え、嬉しそうに言ったそうです。 「見つけたというだけで安心したのでしょうね、穏やかな死に顔だった、でもわたしはただ一人の頼るべき兄さんを亡くして、もう仇を討つことしか生きる意味がなくなってしまった」  相手はかなりの使い手なので、不意打ちでも一人では難しいと思い、彼女は助太刀を探しました。武士に知り合いはいなかったので、道場を中心に回ってみました。しかし、腕の立つ相手で、その上見も知らぬ人間のためにみすみす危険なことをしようとする人はいなったのです。そうこうしているうちに相手が住まいを変えてしまい、こうなったら一人でやろうと仇を捜している、ということでした。 「一人でって、もうどこにいるかも分からないんでしょ」  おりつは、やめたほうがいいと言わんばかりにそう言いました。  お里は首を振りました、「前の長屋の大家の話だとこの辺りに越したというから、今日も見つかるようにお参りに来たの」 「どうしてやらなくてはいけないの」  おこうはそう聞きました。まさか自分の身近なところにそんな境遇の人がいるとは思いませんでした。驚いたと言うよりは悲しかったようです。そう歳も変わらないのに、人を殺すためだけに生きるというのは、あまりに悲しかったのです。 「わたしも武門の娘だから」  お里はそう悲しくほほえみました。 「こんなことを聞いて黙っていられないわ」おりつは勢い込んでそう言いました、「わたしも力になる、仇も助太刀も、一緒に捜すわ」 「そうね、捜すだけならわたしたちでもできまかもしれない」  おえいもそう言ったので、おこうもうなずきましたが、本当は怖かったのです。あまりに自分の知っている世界とは違いますし、結局は人を殺すことが目的ですから、気も進みませんでした。けれど、一人でやると言う以上はなんとかしてあげたいと思う気持ちもあったのです。  お里は申し訳ないと言いながらも、やはり一人では不安もあり淋しかったのでしょう、堰を切ったように泣き出しました。それを見ておこうは、できるだけ協力しようと心に決めました。  おりつの提案で四人の役割を決めました。お里とおりつは仇を捜し、おこうとおえいで助太刀を探すのです。そして二組のうちどちらか一人が一日一回、必ず連絡を取り合う。その場所と時刻も決めました。  お里と別れたあと、おこうとおえいはどうしようかと相談しました。そして、簡単にはいかないだろうから、まずは知り合いを当たろうということになりました。  そうは言っても、おこうにはそんな知り合いはいません。顔が広い人に紹介してもらうしかないのですが、その相手は叔父しかいません。しかし叔父に言えば、心配してやめろと言うでしょう。松太郎に頼んでみよう、おこうはそう決めました。  さっそく次の日に松太郎に会いに行ました。二人だけで相談があると言うと、天気がいいから外に出ないか、と松太郎は言うのです。叔父に聞かれる心配がないのでおこうは賛成しました。  昨日のことは歩きながら話しました。松太郎は大体はうなずいて聞いていたのですが、残りはほとんど上を見ていたそうです。そして、ふと気付くと立ち止まって木を見上げているのです。人が話をしているのだから、そんなことをされると聞いていないように思えて頭にきます。おこうは苛々しましたが、松太郎にしか頼れないので、根気強く話を続けました。 「腕のいい武士か」松太郎は頭を掻いてそう言いました、「人もよくなきゃだめだな」 「誰かいないかしら、いたら会わせて欲しいの」 「ううん、すぐには思いつかないな、お得意に武家はあるけど、ほとんど親父が相手をしているからね」と言うとまた立ち止まり、「ちょっと待って」と生け垣の上から伸びている枝に手を伸ばしました。  すると懐から素早く鋏を出して枝を切り、濡らした手ぬぐいに包みました。 「今の時期は挿し木にいいんだよ」  そう言ってのんきにほほえむのです。  これにはおこうも完全に頭に来てしまいました。これだけ真剣に話をしているのに、文字通り、上の空のように空ばかり見上げて、挙げ句の果てに話の途中で木の枝を盗みだすのです。なんて神経の人なんだろう、と呆れました。  その日は怒ってすぐに帰りましたが、それでもお願いだけはして、「飯でも食べないか」という言葉に耳も貸さずに別れました。  おこうは本当に頭に来ていました。次の日におえいに会うと、すぐにそのことを話しました。でもそれだけ言っても分からないかもしれないので、怒りを抑えて結納の日にあったことから順序立てて話しました。 「アセビだなんていい木をもらったわね」  木をもったところまで話すとおえいはそう言ました。 「おえいちゃんは好きなの」  いい木と言われてちょっと気勢を削がれました。 「好きよ、万葉の歌も覚えているもの」  とおえいは『わが背子に わが恋ふらくは 奥山の あしびの花の 今盛りなり』という歌を口ずさみました。 「いい恋の歌でしょ」 「でも毒があるのよ」 「いいじゃない、その毒は虫を殺すのに使えるのよ、きっと松太郎さんもそれを盆栽にまいていると思うわ、言ってみれば薬じゃない、いいところばかりだと思うけど」  おえいの言葉は意外でした。でも感心して松太郎をいい人にしては気がおさまらないので、木ばかり見ていることや昨日のことを話しました。 「よほど木が好きなのね」  全部聞いたおえいは楽しそうに笑いました。 「好きなのはいいけど、ちょっとひどいでしょ」 「そうね、話をしているときはちゃんと聞いて欲しいものね、これからは家の中で話さないと」 「本当にそう、失敗したわ、あんなにひどい人だとは思わなかった、きっと話を聞くためじゃなくて自分のために外で話そうと言ったのよ」  おこうは昨日のことを思い出して、声を荒げました。 「けど、いつも上を見ているなんて素敵ね」とおえいは言います、「どこもそうでだろうけど、うちもずっと貧しくって、お金が落ちてないか下ばかり見て歩いていたこともあったから、ぶつかったり犬の糞を踏んでしまっても気にしないで上を見ているなんていいと思う、わたしなんて空を見上げることなんてほとんどないもの、ほら、気持ちいい」  とおえいは顔を上げました。おこうもそれに習って空を見ました。 「下を見ているのとは気分が違うでしょ」おえいはそう言って笑っていました、「きっと気持ちにゆとりのある大らかな人なのよ、今頃おこうちゃんのために走り回ってると思う」  おこうはもう一度空を見上げました。目から鱗が落ちるということを初体験したそうです。まるで今までとは違った世界が見えるようで、空の色も雲の色もついさっきよりはるかに鮮やかで、屋根の上に生えている雑草ですら生き生きとして見えます。おこうは感動していました。  もしおりつに同じことを言ったら、「いやねそんな人」と悪口で盛り上がったことでしょう。でもおえいは違ました。その違いは、自分への皮肉も込めてもらったアセビをすばらしい花に変え、松太郎のいやな部分をいいものにしてしまいました。  もちろん、当事者ではないから気軽に言えたとも考えられますが、おこうにはそうではないと思いました。おえいはなんでもそういうふうに見ているから、いつも幸せそうに笑っていられるのだと思ました。犬に咬まれたときだって笑っていたのですから。  ――おえいちゃんならわたしと同じ立場でも幸せだと言うだろう、そしていつも幸せそうに笑っているのだ。  羨ましいのは境遇ではなく、心だと思いました。  おこうは二人の間にある違いを知りたいと思いました。近づきたいと思いました。おこうは思い切って、おえいの家のことを聞いてみました。わたしは、おえいちゃんと同じ状況でもあんな笑顔ができるだろうかと思ったのです。  おえいはすこし言い渋っていました。 「夕方には必ず帰ることとか、寅吉さんとの結婚が決まらないことも気にはしていたけど、今はおえいちゃんのことが知りたいの、もし話してもいいなら聞かせて」  おこうが縋りつくようにそう言うと、おえいは少し吹き出しました。 「おこうちゃんて本当に素直なのね」と言ってからおえいはうなずきました、「わたしもおこうちゃんとおりつちゃんになら話してもいいと思っていたの、ただの恥だから避けていたところがあるんだけど、おりつちゃんみたいに開けっ放しになんでも言えるのを羨ましいとも思ってた」 「そうなの、おりつちゃんのそういうところはあんまり好きじゃないんだと思ってた」 「そんなことないよ、ただ、人と比べて自分のほうがましだとか、不幸だとか、そんなことを思うのがいやだったの」  おえいは空き地に材木が転がっているのを見つけ、そこに行って腰掛けました。  おえい次のようなことを話しました。  今は体の弱った母と二人暮らしで、ほとんど母は床についていてあまり長い時間家を空けられない。父は六年前に死んでいるが、別に暮らしている七歳離れた兄からわずかな仕送りをもらってなんとかやっている。兄弟や親子の仲はいいので、一見、貧しいながらも仲むつまじい家庭だと言える。  そこまで言っておえいは息をつきました。しばらく黙ってからこう言いました。 「わたしたちはお父っさんを殺したの」  おこうは息をするのも忘れておこうの顔を見ました。なんてことを言わせてしまったのだろう。 「お父っさんはわたしが生まれてすぐくらいに卒中で倒れて、それ以来ずっと寝たきりだったの」  おえいは続けました。おえいはまだ幼いころ、どこの家の父親も寝ているものだと思っていたといいます。まだ働き盛りだった父は世話だけをかける自分の存在をいつも恥じていました。そのうち内蔵も悪くして医者にかからなければならなくなりました。その間におえいの姉と二番目の兄が病気で死んでいるのです。未来のある子供が先に逝き、死を待つことしかできない自分はなにもできないまま生きながらえている。病気が分かってから、このまま死なせてくれとしつこく頼むのですが、家族はそれを許さず、できる仕事はなんでもして、食べるものも切りつめて医者に見せようとしました。それが余計に辛かったのでしょう、耐えきれなかった父は、三回自殺未遂をしました。茶碗を割って破片を喉に刺そうとしたこともありました。どれもすぐに止めることができ、大事には至らなかったのですが、毎日殺してくれと訴えるようになりました。  ある日、「お父っさんは死んだほうが幸せなんだ、生きて欲しいというのはおれたちの我儘だ」とおえいの兄は言いました。母もおえいは反対はしませんでした。そして兄は、母とおえいを外に出し、父と二人になりました。父としばらく話をしたらしく、なかなか兄は出てきませんでした。  このときは時間がたつのがひどく遅く、今でもそのとき見ていたもの、家の入り口の腰高障子のどこがどう破れていて、どんなしみがどこにあったかまで細かく思い出せる、とおえいは言ました。  兄は鼻と口を塞いで殺したといいます。父は何度も礼を言ったそうです。実際におえいが見た死に顔は、嬉しそうな笑みを浮かべているように見ました。もちろん病死として届け、本当のことは誰にも言いませんでした。隣近所は気付いているかもしれませんが、なにも言わなかったのです。決して他人事ではないからでしょう。  おえいの一家も後悔はしていません。そのときもそうですが、今でもそれで良かったと思っているそうです。しかし兄はそのあとすぐに家を出ました。自分がいると思い出すだろうという配慮からでした。 「なんで祝言を決められないかと言うとね、祝言挙げたらすぐにおっ母さんは死ぬと思うの」おえいはそう言いました、「お父っさんと同じように、足手まといになる前に死ぬと思う、だからわたしは自分の力でおっ母さんを養えるだけの稼ぎが欲しいの」  おこうは何度もうなずきました。実の父に手をかけるというのは、間違いなく衝撃でしたが、決して珍しい話ではないのです。家族のためというのも、自分の稼ぎでなんとかしたいというのも同じでした。でもやはり違ったのは、おえいの口から不平や不満が一度も出なかったことです。  自分とは比べられない、と話を聞きながらおこうは思いました。おそらくどんな状況でも同じだろう、きっとおえいは前向きに物事をとらえる。  おえいちゃんは幸せなんだ、それは境遇じゃない。おこうはそう思いました。  おえいは一息ついたようなため息を漏らしました。 「やっぱり人に話すとなんか楽になるね」そう言っておこうの顔を覗き込みました、「お父っさんを殺したなんて、軽蔑するかしら」  おこうははっきりと首を振りました。 「話を聞けて良かった、おえいちゃんのことをもっと好きになったわ」  そう言って立ち上がると、精一杯の笑顔で笑いました。勇気が湧いてきたのです。  おえいの言う通り走り回ったのかは分かりませんが、松太郎は二人の剣達者という人物を紹介してくれました。さっそくおえいと会いに行きましたが、体よく断わられてしまいました。  お里は道場を回ってもだめだったというので、二人は腕の立つという評判の人を捜して、掛け合ってみることにしました。しかし簡単ではありませんでした。素性の分からない町娘が来て、助太刀を頼みに来たと言っても、当然ですが会ってもくれません。  おこうたちがいい知らせができない間に、おりつとお里は少しずつ仇の手がかりを掴んでいました。似たような人物を見たという人を二人ほど見つけたのです。行方不明の兄さんを捜していると言うと、案外協力的になってくれるとおりつは言っていました。お里は悟られてはいけないと思い、人に聞くことはほとんどしなかったのですが、おりつのおかげで町娘の格好ができ、女二人で怪しまれずに探すことができるととても喜んでいたそうです。実際、日に日に明るくなるようで、もう初めて会ったときのような悲壮感はなくなっていました。  そして二月の二十二日、思っていたよりも早く、仇は見つかりました。おりつが一人で調べているとき、人相や越してきた時期からほぼ間違いないと思える人物のことを聞くことができたのです。  そしてその日、仇本人であるか確認するために、早くから四人でその男が住んでいると思われる長屋のそばに集まりました。おりつとおこうが立ち話をしている振りをして、住まいと思われる長屋の入り口を見張り、仇と思われる男が出てくるのを待つ。出て来たら、二人が見える茶屋にいるおえいとお里に合図をし、こちらへ来たら茶屋の中で、反対側へ行ったらすぐに先回りをして、物陰から確認することにしました。  四人の間に緊迫した空気を残したまま、二時間ほどが経過しました。人の出入りはあるものの、目的の男はなかなか家から出てきません。  するとおりつが茶屋から出てきました。これだけ長い時間いるとさすがに怪しむ人がいるかしれない、一人交代して、少し場所も移動しよう、と提案しました。 「わたしが残るわ」おえいはそう言いました、「おこうちゃんは緊張しすぎてるみたい、だいぶ疲れたでしょ」 「ごめんね、おえいちゃんみたいに自然にしゃべれなかった」 「わたしなんてかえって度胸が沸いてきたわ」おえいはそう言って笑いました、「この前話したことをおりつちゃんにも話すいい機会だし」  おこうは、そんな余裕があるなんて信じられないと首を振りました。 「なに、その話って」  おりつはすでに目を輝かせています。ずっと張っていた糸を弛めたのでしょうが、おこうはいまだに緊張が解けないままでした。 「じゃあ代ってもらう」  そう言っておこうはお里の元へ行きました。座って強ばった首を回したりしていると、ようやく落ち着いてきたようです。 「ごめんなさいね、こんなことに付き合わせて」  その様子を見ていたお里がそう言いました。 「わたしたちはいいの」おこうはとんでもないと手を振りました、「お里さんはずっとこんな気持ちでいたんでしょ、それに比べたらこのくらいなんでもないわ」 「ありがとう、不謹慎かもしれないけど、こんなに楽しく仇を捜せたのは初めて」お里はそう言いました、「こういう格好をしていると、あなたたちのように町娘に生まれていたらどうだっただろうと考えるの」  おこうは、まるっきり自分たちと変わらない姿のお里を見て、目を伏せました。 「男の人の評判にはしゃいだり、家族と暖かい食事をして、習い事をしたり、恋をしたり、あなたたちのような友達と出かけたり……」  そう言ってお里は口をつぐみました。それ以上言うと未練になると思ったのでしょうか、泣いてしまうからだろうとおこうは思いました。それに対しておこうはなんと言っていいか分かりませんでした。  しばらく沈黙が続きました。風が吹いて二人の膝の上に数枚、桜の花びらが舞い降りてきました。どこからかウグイスの鳴き声も聞こえます。なにもなければ、ひどく平和な光景です。そういえば、今年は三人で飛鳥山に花見に行こうと話していたと、おこうは思い出しました。ちょうど桜は見頃です。 「やめればいいのに」おこうは勇気を出してそう言いました、「一度はお兄さんと江戸で静かに暮らそうと決めたんでしょ、まだ間に合うじゃない、わたしたちと一緒にお花見に行きましょうよ」  お里は黙っています。なにか言いはしないかと待っていましたが、お里は下を向いて黙まったままでした。見つけた以上知らない振りはできない、それは分かっているのですが、どうしようもなく悔しい気持ちが溢れてきました。 「もし仇を討ったらどうするの」  おこうは話題を変えてそう聞きました。 「敵討ちと認められれば国へ戻れるし、ご加増もあると思う」お里は顔を上げて答えました、「でも親もいないし兄さんもいないから、婿をもらって家名を絶やさないようにするのがわたしの努めね」  結局家のために生きるのだ、おこうはそう思いました。わたしもそうだけど、武家にはまた重さの違う家というものがある。 「いい人がお婿に来るといいわね」 「本懐を遂げて帰ったら、きっと引き手あまたよ」  とお里は笑いました。しかしそれは、乾いたような心のない笑顔でした。  やはり本当はこんなことしたくないのだ、おこうはそう思いました。望んでいるのは普通の娘のように生きることなのだろう、わたしたちだって羨まれるような毎日ではないけど、そうなりたがっている。そう思うとよけい悲しくなりました。なぜ人は望んだ通りに生きられないのだろう、家のためとか、武門の誇りだとか、もっと言えばお金、食べていくためにどれだけ望まないことをすればいいんだろう。目の前に望み通りの落ち着いた幸せな道があるのに、それを選び取ることもできない。わたしたちは運命に振り回され、幸せになるためになにもできないのだろうか。  それ以降、お里との話題は途切れてしまいました。人の幸せは境遇ではないと、おえいと話して思ったのですが、きっとお里は仇を討っても、あの悲しい笑顔をするだろうと思いました。  がたっと音がしたと思うと、お里が立ち上がりました。思わず物思いに耽ってしまったおこうの体に、今までにない緊張が走りました。素早く外に目をやると、おりつとおえいが、男がこっちに来ているという合図を送っています。  お里の唇から血の気が引き、顔がこわばってきました。浪人風の体格の良い男がおりつたちの前を横切り、こちらへ歩いてきます。お里の唇が震えているのを見て、仇だ、とおこうは直感しました。  目の前をその男が通り過ぎるのを横目で見ながら、お里は懐刀を袋から出しました。 「待って」  おこうは慌ててその手を抑えました。お里は柄に手をやって仇を凝視しています。その表情には揺るがしがたい決意が見えました。 「待ってよ」おこうは声を殺して叫ぶようにそう言いました、「居場所は分かったんだから、助太刀を捜しましょう、あなた一人でできるわけがないじゃない」  お里はすごい力でおこうの手を払いました。と思うと、仇目指して駈けだしました。懐刀を抜き、声にならないような叫び声を上げながら、その背中めがけて体ごとぶつかりました。 「だめ」とおりつの叫ぶ声がします。  男は迫る足音と叫び声に反応し、とっさに身をかわしました。帯の上がわずかに切れているだけで、怪我はないようです。男はゆっくりと刀を抜きました。  おこうはもうだめだと思いました。恐ろしくて身動きもできず、息を吸うこともままなりません。  お里は前のめりに転んだのですが、すぐに身を起こし、名乗りを上げました。さっきの叫び声とは違い、落ち着いた声色でした。 「父の仇、梅田勘衛門、お覚悟を」  そう言うと、また体ごとぶつかっていきます。  悲鳴が上がりました。「敵討ちだ」と興奮した声がして、「早く来い」と楽しそうに人を呼ぶ声も聞こえます。ばらばらと人が集まって来ました。  その男――勘衛門は簡単にお里の攻撃を避け、お里に刀を向けながら、目を光らせて辺りを見ます。そして、助太刀がいないことが分かると笑みを浮かべました。  お里はもう一度懐刀を構え、勘衛門をにらみつけました。勘衛門は、右足だけ別の生き物のようにゆっくりと前に動かし、青眼に構えました。  殺される、そう思ったのに足が震えてどうすることもできません。二人は動かないままです。と、「やめて」と叫んでおりつが二人の間に駈けていきました。  その声が合図でした。お里は刀に向かうように飛び込みました。勘衛門は右足を引いてお里を躱《かわ》し、そのまま思いっ切りお里の体を斬りつけました。  おこうはとっさに目を閉じました。刀が骨に当たるいやな音がしました。 「この卑怯者」  おりつの喚き声がして目を開けると、おえいがお倒れたお里を抱きかかえていました。地面には血が溢れています。  おこうは泣きながらお里の元に駆け寄りました。 「女一人じゃないか」おりつは喚き続けていました、「なんで討たれてやらないんだ、この人殺し」  おこうはお里の手を握り、何度も名を叫びました。するとお里は目を開けました。 「しっかりして」  おこうがそう言うと、お里は笑いました。おこうはどきりとしました。さっきとは違う、本当の笑顔でした。 「介錯を」  お里はかすれたような声でそう言いました。 「いや、いやよ」  おこうはそう言って、お里を守るように覆い被さりました。お里は体をひねってそれをどかそうとし、おえいは、おこうの目を見て首を振りました。 「勘衛門殿、介錯を」  勘衛門はうなずき、懐紙で刀を拭って、ゆっくりとこちらへ向かってきます。 「やめろ、人殺し」おりつは、お里の前に立ちふさがり、お里の懐刀を拾いました、「わたしが殺してやる」  お里は手を伸ばして、おりつの足元を掴もうとしています。おえいは静かにお里を地面に置き、おりつを止めました。おりつは横たわるお里に目をやると、座り込んでわっと泣き出してしまいました。 「ありがとう、あなたのおかげ」  絶え絶えにお里はそう言い、血に濡れた手をおりつに向けました。  おりつはその手を握り、「こんなことなら捜さなければ良かった」としゃくり上げながら言いました。 「これで良かったの、この人ももう逃げる必要はないし、わたしももう追わなくてもいい、全部終ったのよ」  お里はそう言って、勘衛門を見上げてうなずきました。 「ご免」  勘衛門はお里の首に刀を当てました。  勘衛門はその場で人殺しの罪で捕まりました。そのあとどうなったのかは分かりません。お里は身内がいないので、常誓寺という寺に無縁仏として葬られました。  七日後、おこうたち三人は常誓寺へ、お里の墓参りに行きました。  おりつは悔やんでも悔やみきれないと言っていました。毎晩眠れないようで、その日も泣きはらしたような目をしていました。  無縁仏が祭られている場所は、墓地の一番奥にありました。隣には大きな桜の木が植えてあり、昨日の雨で散った花が敷物を敷いたように一面に落ちていたそうです。 「もっとうまくやれば良かったのよ」おりつは墓石に水をかけて花びらを洗い流しながら、お里に話しかけました、「不意打ちでもいいんでしょ、物陰に隠れてやれば死なずにすんだかもしれないのに、なんであんな無茶をしたの」  おこうは、おりつのその言葉におえいがなんと言うか知りたいと思いました。おこうも悔しかったのです。お里はあれで良かったと言いましたが、本当にそれで良かったとは思えなかったのです。それでもあのときのお里の笑顔が忘れられず、心に引っかかっていました。なぜあんな笑顔ができたのかおこうには分かりませんでした。  おえいはなにも言わずに線香を置いて手を合わせました。おりつが花を飾り、おこうも手を合わました。  町娘に生まれ変われますように、おこうはそう祈りました。  手は合わせたまま目を開けると、おえいもちょうど目を開けたところでした。そのときおえいは、口の中でなにかつぶやき、静かに笑いました。  声に出していないので、おこうにはなんと言ったのか聞き取れませんでした。しかし、「良かったね」そう言ったような気がしました。本当にそう言ったのかは分からないし、なぜ良かったと言えるのかも分からなかったのですが、そのときの笑顔は、いつもの幸せそうな笑顔でした。そして、それはお里の笑顔とまったく同じものだったのです。  結局おこうは、おえいがそのときなんと言ましたのか聞きませんでした。ただ、その日のおこうの日記の最後には、こう書いてあります。  幸福や不幸は人の心が作る物なのかもしれない。  いやなことがあれば愚痴を言ってしまうし、辛いことがあれば不幸だと嘆くだろう。でもきっと、そんなときでも、幸せと思える道はあるのだ。お里さんはそれを見つけたのだろうし、おえいちゃんはいつもそれを見ている。  わたしは今、松太郎さんとうまくやっていけるような気がしている。あの人と二人で、これからの長い人生を楽しく生きていこうと思う。  今のわたしの楽しみは、アセビの木をどうすればよくしていけるのか考えることだ。そのためには、松太郎さんにたくさん教えてもらわないといけない。                    了 はふろ