バンドエード  指先を弄びながら、バンドエードを外した。赤い線がうっすらと残るが、もう痛みはない。昨日の朝からつけたままだった。左手の人差し指は第二関節の周りだけ白くふやけ、感覚がおかしい。おそるおそるそこを撫で、それから思い切って乾いた草の上にのせた。両手をぐっと後ろに伸ばし、体を支え、腰を真っ直ぐにする。昼の二時。少しだけ西に傾きかけた太陽が、世界全体を覆う。下を見ると川が冷たく光って流れ、芝生と川の間にある小さな遊び場で、子供たちがキャッチボールをしているのが見える。私は軽く微笑む。誰に対してなのかよく分からないけれど微笑む。そしてその頃には、傷はもう自分の一部となって消えていく。子供の無邪気な反抗心よ、私は自分で自分を励まして、草の上から立ち上がった。  私は三ヶ月ほど前から小学二年生の男の子の家庭教師をしている。週一回、土曜日だけ。ただ夕方三時から七時までと長い。「家庭教師」というよりも、「ベビーシッター」に近いかもしれない。小学校入学と同時に中学受験を考えるというのとは違うようで、あきらくんのお母さんは勉強の進み具合や成績にはあまり関心を持っていない。家庭教師としてはあまり良い自給とは言えなかったが、それも納得できた。それにあきらくんはとても大人びた良い子に見えたから、就職活動も終わり暇になった残りの学生生活の一部をそのバイトに充てるのも悪くはないという気がした。  あきらくんは、飛行機のプラモデルが好きな、年よりも落ち着いた感じの男の子だ。痩せすぎているところや「野球もサッカーも好きじゃない」と言うところに、問題があるといえばあるのかもしれないけれど、日本シリーズやワールドカップの結果には普通の子供と同じように興奮しているし、嬉しそうに「ポケットモンスター」の怪獣名を教えてくれる時の輝かんばかりの眼は、私を妙に安心させてくれる。あきらくんをみていると、生きることの楽しさは人それぞれで、本当はたくさん種類のあるものなのだということを学ぶことができる。私は足し算や引き算の勉強はそこそこに、あきらくんの話を聞き、あきらくんのしているテレビゲームを横で見て笑い、対戦ゲームで負かされて大笑いされたりする。そんなときは心から楽しく、子供の頃に戻れる気がする。  ただ、あきらくんを見ていて不安になることもある。あきらくんの部屋は、私の部屋より整然としている。お母さんの手が加えられているとはいえ、小二の男の子の部屋とはとても思えない。タンスやおもちゃ箱の上にはプラモデルの飛行機が整然と並び、机には色づけのためのペンキが同系色ごとに列をなしている。プレステのCD―ROMもきちんとケースに戻されている。  それに、あきらくんが集中している時というのはすぐに分かる。目に入らないぎりぎりの長さにそろえられた前髪が鼻息で規則的に舞う。手元に紙があるときには紙の端を丁寧に手で切り取り、正確に折り始める。電話の最中にメモ帳に落書きをするような感覚であきらくんはその行動をしているらしい。でも小さなおかっぱ頭の男の子が真剣に「折り紙」をしている光景にはぞっとするものがあった。  その日もあきらくんの様子はいつもと変わらなかった。鉛筆を三本しっかりと削ってから私の横に座り、かけ算を始めた。4×12=□□という□□に、マス目一杯の大きな数字を書く。Bの鉛筆で力を込めて書くから、鉛の粉が周りに飛び、せっかく一生懸命に書いたきれいな数字が輪郭を失い、斜め下に流れていくように見える。他のところでは几帳面なあきらくんも、なぜかそれは気にならないようで、黒くなった小指にもかまわずに、黙々と問題を解いていく。その汚れた手が、白い紙をどんどん灰色にしていく。小二の算数の勉強は、かけ算の九九さえ覚えてしまえば、特に引っかかるところもないし、量も大してあるわけではない。小学生の低学年までは、机に向かい三O分ほどきちんと座る。それができれば何の問題もない。小三までは塾に通わずに友達と遊んでいても、それで十分学ぶべき事はあるだろう。そんなのんきな気持ちで、私はあきらくんを見ている。  ただその日は、すんなり解けてしまう問題ばかりでもつまらないかと気を遣うつもりで、私は少し応用のきいた面積の問題を出した。面積の勉強自体学年を先取りしたものだったが、あきらくんの勉強はとてもスムーズに進み、教えることがなくなってきていた。だから、それまでに教えた四角形と直角三角形がくっついて一つになってしまった図形を見せてみたのだ。  一本補助線を引いてあげればいい。大人ならもちろん簡単に分かるけれど、習ったこともない子供にそれを思いつけというのは、酷なことだ。あきらくんは数を思いつくまま言っていく。全ての辺の長さを足してみたり、見た目から勝手に数を当てはめていったり……。段々嫌になってくると、一から順に数字をあげていき、一回一回私の顔色をうかがう。顔の小ささの割には大きな目が真剣に自分のことを見つめている。その表情があまりに可愛くて、私は笑いながら、「ぶー、はずれ。残念でした」などと言いながら、あきらくんをからかっていた。  そして、あきらくんの手や腕にいくつかの小さな傷があるのを見つけてしまった。私は面積の問題など忘れて、「どうしたの、それ?」あきらくんの目を見ながら聞いた。あきらくんは目をそらして紙を見つめながら「一六」と言った。答えは一五だったから、惜しいと言ってあげればよかったのかもしれない。でも「問題はいいから、その傷、どうしたの?」私はそう問いつめてしまった。  子供は負けず嫌いだ。……ということは知っている。今までもテレビゲームの対戦にまぐれで勝ってしまってしばらく口をきいてもらえなかったり、大変な目にあったこともある。でもその時は、そんな可愛らしいふてくされ方とは違った。あきらくんは、私のほうを向いて「紙で切ったんだよ」と怒鳴り、でも目が合うと、下を向いた。私はあきらくんの小さな細い腕を取ってトレーナーの袖をまくった。小さな傷がたくさん目に入った。……もちろん深い傷ではない。確かにカッターで切ったわけではなく、紙で擦れたという感じだ。でもその数や場所は異様だった。あきらくんは腕を引っ込めて、袖をしっかりと下ろし、手に握りしめた。あきらくんも、私が抱いている不審を感じとったらしい。空気が重かった。あきらくんの目が怖かった。  私はたとえ子供といっても、他人に踏み込まれたくない部分を持っているということを忘れていたのだ、きっと。それから私は「ごめんね」と言って、とりあえず計算の部分の丸つけをしようと、その紙を左手で手繰り寄せ、答えを見ようとした。でも、あきらくんには「ごめんね」では片付けられない問題だったのだろう。私からその答案を乱暴に奪い取った。その摩擦で、私の指には傷が走った。「痛い」私は咄嗟に叫んだ。あきらくんは謝るでもなく、ただ一言、「ほら、紙で手、切れるでしょ」と言った。  それからは、とても沈黙が重かった。私はどうしたらいいか分からなくなって、「洗面所借りるね」とだけ言って、部屋を出た。痛みは鈍く、直線にそって微かに滲む血も赤というよりは朱がかっていて、自分の中から流れでたという感じはなかった。ただそこから冷たい水が侵入してくる、遠い感触だけがあった。  私は部屋に戻り、あきらくんの様子を見た。あきらくんは漫画を読みながら、一人で笑っていた。その笑いもどこか遠く、面白がって読んでいるわけではないと分かる。テレビゲームだと覗き込まれるかもしれないし、勉強をしていると先生と向き合わなくてはいけない。一番いいのはなにをすることだろうと考えたのだと思う。  私は机に残されたプリントを手に取り、やることもないから丸つけをし、最後にその図形に赤で一本補助線を入れておく。こんなに長く会話が途絶えたのは初めての気がした。私の様子を伺ってこないだろうかと時々あきらくんの方を向いたが、本から目を離す気配はなかった。あきらくんは自分の世界に閉じこもっていた。一つの巻き貝が、ぽつんと存在している、喩えるとそんなふうに見えた。……巻き貝……私は自分でそんなイメージを思い浮かべてから、なぜ巻き貝なのだろう、と思った。それはただの瞬間的な印象だった。伝えたい言葉や心があっても、巻き貝の中に入ってしまっていたら、それは中に中に入っていくだけで、どうにも外に出てこられない。そんな感じだったのだろうと思う。  その時、あきらくんに驚くべき変化が起こった。  慌てて漫画を棚にしまうと、きれいに片付いていたプレステを引っぱりだし、机のところにいた私の横に座ったのだ。それからあきらくんは問題を解き始めた。私がただ呆気にとられていると、その時あきらくんのお母さんの足音が聞こえ、「ただいま」という声と同時に姿が現れた。あきらくんは笑って「お帰りなさい」といつものように礼儀正しく言い、そのままその笑顔を私に向けて「一五」と元気よく言った。その様子はいつものあきらくんと変わらなかった。でも、あの沈黙の後に見る笑顔はいかにも作り物で、あきらくんの後ろにモノクロの霊がいて、無理矢理あきらくんの頬を操っているようにさえ思えた。私は「当たり。良くできたね」と言ってはみたけれど、あきらくんにも、あきらくんのお母さんにも上手く微笑めなかった。  いつも通りに二人に挨拶をして帰ることはできた。でも自分の帰ったあと、あきらくんとお母さんがどんな会話をしているのかを考えると心が落ち着かなかった。慌てて引っぱりだした、プレステの灰色の機械が映像としてやきつき、頭から離れなかった。「今日先生とサッカーのゲームをしたんだけど、先生すごく弱いの。笑っちゃう」きっとそんな会話をしているのだろう。急に淋しくなってきた。指の傷が気になった。  枯れて乾いた葉が風に音をたてる。街灯の強い光がその葉を照らし、隙間から振ってくる。路上に停められた車のボンネットにも光は反射している。月が出ている。今は半月。月も街灯の光には敵わない。――夜の風景。  左手には公園が見える。もう暗いから人は誰もいない。滑り台やブランコがそこに捨てられ、長いこと放置されているように見える。とても不気味でとても怖い。女が一人で入る場所じゃない。危ないよ。そんな声はいつも聞こえてくる。でも、その夜の公園が、本当は私には一番親しく感じられるもの。しばらく入らないようにしていたのに、私はまた、心の中の淋しさに引き合う何かを求めて、その公園に入っていった。  闇。薄暗い茂み。不審な人が隠れていても、私はきっと気付かない。それは木と同化してしまうから。砂場の方を見る。強い光に斜めから照らされていると砂の一粒一粒の粗さが目に付く。本当はそんなに眼は良くないのだけれど、そんな気がする。砂の下。たとえ死体が眠っていても、私はそれに気付くことができない。なぜならそれは地中深く埋められているから。  目をつむる。どこから何が襲いかかってくるか分からない。目を閉じることは、一番無防備になること。そして一番敏感になること。木のざわめきが大きい。風の感触が冷たい。肩にかかる鞄の重みが増す。その時私はこの不気味な世界に拡散し、溶け合う気がする。 そういえば昔よく、追いかけられる夢を見た。一生懸命に走っているその背景は、確かこんな景色だった。でも、私は一体何から逃げていたのだろうか?……追いかけられる夢。それは捕まりたいという欲求をあらわす。  結局私は大した決断もせず、対策を考えるでもなく、翌週あきらくんの家に向かった。傷は完全に癒え、それが「一週間」という時間を物語っている気がした。私はなんともなっていない肌をじっと見つめて、心を落ち着かせた。手の肌は良く見ると、とてもきめが細かく、鱗のように優しく光っていた。  私はいつも通りの時間に家につき、お母さんに挨拶をする。 玄関に立つ。そうすると廊下の突き当たりにある居間の方から、光がこちら側に向かって射し込んでくるのが見え、あきらくんのお母さんの顔は一応とらえられるものの、表情よりシルエットの方が強く残る。開かれた居間の白いドア。その奥にはハンドバックとコートが見える。お母さんは、地味ではあるけれど、高級そうな茶色のニットセーターを着ている。 「今日は外、寒いでしょう?」お母さんは聞く。私は「あ、そうですね。やっぱりコートがあった方がいいですね」と視界に入ったコートを無意識に会話に出す。いつもどこに行くのだろう。余計なお世話だと思うし、今まで気にしたこともなかったのに、今日はとてもひっかかる。香水の甘い匂いが風に運ばれてくる。シルエットになったバックとコートが、開かれた扉の向こうで存在を主張している。  その時、猫が廊下にやってきた。白い、愛らしい眼をした猫。お母さんは少しかがんで、おいでおいでをし、抱き抱えようとした。でも、ふと片手を引っ込め、右手だけで軽く首筋を撫でた。「時間がないのに毛が服についたら、また大変なことになっちゃう」そう言って、私に笑いかけた。目が猫に似ていると思った。それはよい意味で。目の縁にしわはあるけれど、よく見るとその人は若く可愛かった。私が想像する「お母さん」というものとは違った。  私は近づいてきた猫を、あきらくんのお母さんの代わりに抱いた。猫なんて怖くて抱いたことがなかったのに、その時は自然とそうしていた。そして、猫の毛の一部がむしり取られているのを見た。私はあやうく猫を床に叩きつけるところだった。指の傷のことを思い出した。私は少し控えめにではあるけれど、お母さんに「この猫の毛……」と聞いた。お母さんはにこやかに「毛の生えかわる時期なのね、でも、こんな十円ハゲみたいになるとは思わなかったわ」と言った。そして、少し声を立てて笑いまでした。私はその笑顔が気に障った。だから一言、「友達が猫、飼っていましたけど、こんな風にはなりませんでしたよ」と言った。お母さんもただ一言「あら、そうなの?」と言った。  あきらくんのお母さんを見送り、内側から家に鍵を掛けた。いつも習慣的にしている行為だけれど、人の家の中に入って鍵を掛けるというのはよく考えるととても不思議だ。ある時間、そこに偽りの家族ができあがる。窓からドアに流れていた空気が、ぱたんという音と共に凪ぎ、そこに留まる。  私は階段を上って、あきらくんの部屋に行った。階段にも光が射していた。私はその光に元気づけられて、あきらくんの部屋のドアをノックする。「こんにちは。入っていい?」いつもならドアを開けてくれるのに、今日は「いいよ」の一言だけだ。でも、返事をしてくれただけほっとする。 ドアを開けると、あきらくんは机に向かって前髪を切っていた。机の上に切り落とされた髪の毛が散乱している。あきらくんは私のほうを振り向いたりはせず、鏡を見つめ続ける。そして「ごめんね、手、はなせなくて」妙に大人びた挨拶をする。どこで研究したのか、段まで入れている。そして、気分が乗ってきたのか、前髪から次第に横の方へ、そして後ろへと、はさみが動いていく。でも、いくら器用でも、さすがに後ろの髪の毛は切れないらしい。後ろにまわってみると、とても斜めになってしまっている。私は手先には自信がないけれど、これよりはまともに切れるだろうと、「曲がっちゃってるよ。後ろだけやってあげる」ちょっとはしゃぎながら言った。あきらくんは、意外と素直にはさみを渡してくれた。  今更新聞紙を敷いても遅いと思い、そのまま髪の毛を床に落としながら真剣になって切った。「襟足は短い方がいいですか?」「何? えりあしって?」「うーんと、後ろの髪の毛の長さ」「あ、長い方がいいかな」「ダメだよ、もう短くなっちゃったんだもん。『短い方がいいです』って、やり直し」「えーと、じゃあ、『短い方がいいです』」この間の険悪さが嘘のように、二人はうち解けて笑い合った。私は美容室の人がするように、あきらくんの頭をぐっとつかんで、顔を上げさせた。あきらくんは笑って、鏡の中の自分と私を見た。私は自分の手に感じたその頭の小ささに、大きな感動を覚えた。そして切った髪を払い落とす振りをしながら、頭を思い切り撫でた。今私ははさみを持って、あきらくんの後ろにいる。あきらくんは小さくて、今にも壊れそうな頭を、私を信用して預けてくれているのだという気がした。  実際、あきらくんはその日、いつもは話さないことも私に話した。 「ママは、僕が子供だと思っているんだ。ただ直線にそろっている髪なんて、ガキっぽくて笑われちゃうよ。みんなちゃんと床屋に行っているんだよ」私はそれをとても可愛らしい言葉だと思って聞いていた。おませなあきらくんは初恋をしたのかなと、優しい光に包まれた自分の子供時代の淡い恋心を辿るように聞いた。私はただ「うん、そうだよね。あきらくんももう大人だよね。小学生だもんね」気持ちを傷つけないように気を遣いながら言った。あきらくんもその言葉に力づけられたらしい。そこまでは私の思惑通りだった。  でも、次に続いた言葉は私の想像を裏切った。「僕もう、いろんなこと分かるんだよ。ママはもうパパのママじゃなくて、僕もパパの子供じゃなくなっちゃうんだ。もうちょっとしたら。でも、パパのママじゃなくてもママは僕のママだけど、ママのパパでも、おじさんは僕のパパにはなれないんだ」あきらくんの話には、「夫」「妻」という言葉がなく、初めは上手く全てを捉えることはできなかったけれど、あきらくんの言いたいことは伝わってきた。内容そのものではなくて気持ちが、声の響きにのり、そのまま届いた。でも私は、何を言ってあげたらいいのか分からなかった。 あきらくんは弱く笑ってから、鏡を見た。その笑い方、気持ちの取りなし方は、紛れもなく「大人」のものだった。それが余計にしみた。あきらくんのお母さんは今、「おじさん」であり、「ママの新しいパパ」である人と会っているのだろう。私は茶色のスーツと、甘い香りを思い出していた。 「この鏡、後ろに持って」急にあきらくんに言われたとき、私は驚いた。あきらくんはごそごそと机の中をあさって、小さな手鏡を出してきて、私にそれを持たせた。どうやら合わせ鏡をするらしい。その賢さに感心する。でも、小さい方の鏡を後ろに置くのは間違い。大きい鏡を後ろにして、小さな鏡でその大きな鏡を覗き込む方がいい。私はあきらくんと鏡の交換をする。鏡の動きにあわせて、丸と四角の光の影が部屋の中を泳ぎまわる。  あきらくんは手鏡の中をとても真剣に見つめていた。手先の器用さが自慢のあきらくんのことだから、自分の「作品」の仕上がりは気になるのだろう。でも、それだけにしては長すぎる。きっとあきらくんは自分の存在そのものを鏡を通して見ているのだと思った。鏡を様々な角度に動かしてみてもそこに映るのは平面でしかなく、鏡の動きに合わせて揺れる自分の姿に一人、不安を募らせているのだろう。 「私の切ったところ、やっぱり下手かなぁ?」私はあきらくんの気持ちを全く察していないふりをして聞いた。あきらくんは「え? あぁ、うん、そんなことないよ」とだけ言って、また少し黙った。それから「こうやって鏡を合わせると、悪魔が出てくるって本当?」と聞いた。ふざけているようには聞こえなかった。もっと子供らしい無邪気さで聞いてくれたなら、「そうそう、ラムちゃんが出てくるんだよ」「何それ?」「えー、『うる星やつら』知らないの? ショックだ……」「先生やっぱりおばさん」などと会話が進んでいくのだろうと思ったが、その時は「そんなの迷信。作り話だよ」としか言えなかった。あきらくんが鏡を通して、振り向かずに私のことを見ているのを感じた。私は少し怖くなって、目を逸らしてしまった。  その時、猫の鳴き声がした。二人は同時に猫の方を向いた。あきらくんは椅子から立ち上がって床にしゃがみ、猫を膝に抱いた。頭を動かすと短い髪の毛がぱらぱらと落ち、あきらくんも変毛期だと一人でうけてしまった。その姿はどうみても愛らしく、私はその瞬間、猫の「禿げ」のことを忘れていた。  でも、その毛をむしり取ったのがあきらくんだということは、背筋の寒くなるような予感として私の中にあった。あきらくんは猫の毛をかき分けて毛のない部分を露わにし、そこを優しく撫でていた。「これ、僕が抜いたんだよ」あきらくんはなんでもないことのように言った。「なのにこいつは僕の所にこうやってまた来るんだ。餌をあげるのは僕だからね」私は何も言えなかった。ただ言葉を、聞きたくない言葉を、無理矢理耳を押さえつけられて聞かされている気分だった。「多分、友達に言ったら、こいつがバカで僕の顔を見分けられないんだ、っていうよ。きっと。でもね、本当はね、分かって来ているんだよ。だってこいつには僕しかいないんだもん。でも僕はきっとこいつのこと、いつか殺しちゃうんだ。だって、こいつが来てから、ママがよくいなくなる。こいつがいれば、僕が淋しくないでしょって言うんだ」  あきらくんが大人なんだか、子供なんだか、私にはよく分からなくなっていた。ぎゅっと抱きしめてあげたいのか、逃げ出したいのか、分からなくなっていた。言葉がなかった。自分が無力に思えた。私はただ一つだけ、どうでもいいことのようだけれど、気になっていたことを聞いた。「その猫、名前なんていうの?」あきらくんは答えた。「ラキア」……「かっこいいじゃん」そう言おうとしてからはっとした。「ラキア」? 「あきら」の逆なんだ……。  結局その日はそれから、あきらくんの髪とその部屋を元気に歩き回っていた猫の毛を拾い、部屋を元通りにすることで、時間が経ってしまった。その片付けの最中、一度だけ目があったとき、あきらくんは「今度、先生の髪も切ってあげるね」と言った。私が返事に困っているとあきらくんは笑った。「僕が大人になって、もっと上手になったら切ってあげる」私は「ありがとう。そうだね。あきらくん、床屋さんになると似合うかもよ」と言った。でも、部屋に入ってくる夕方の光は弱く、自分の言葉も力を持っていないことに気付いた。私の今言った、「ありがとう」は、いつも大人に対して無意識に言っている社交辞令だ。自分でそう思った。私はその力のなさを打ち消すように、立ち上がって電気をつけた。電気はぱらんぱらんと微かな音を立てて点いた。  私は帰ってきたばかりのあきらくんのお母さんに見送られて、いつものように帰ろうとした。あきらくんのお母さんからは、もう香水の匂いはしなかった。微かにシャンプーの匂いがした気がした。私は慌ててその考えを否定した。あきらくんのお母さんは、私と目があったときに笑った。やはり目が猫に似ていた。私はもう一度、「あの猫の毛はどうしたんですか?」と聞いてみようかと思ったけれど、やめてしまった。  部屋で別れを言ったはずのあきらくんが、階段から下りてきた。手にはまだ彩色されていないプラモデルが握られていた。あきらくんは突然それを差し出した。私は少し驚いたけれど、手を出してそれを受け取った。「くれるの?」私は白くて小さい、でも本物そっくりの戦闘機を見て聞いた。あきらくんは少し照れくさそうにしていた。「うん、あげてもいいよ。でもね、来週それを持ってきて欲しいんだ。一緒に塗ってから、あげる」私はあきらくんの気持ちが良く分からなかった。「でも、私が持ってたら壊しちゃいそうで怖いよ」……あきらくんは少し淋しそうな顔をしてから、「だけど家に置いておくと、ラキアが壊しちゃうんだ」と言った。あきらくんの部屋には他にもたくさんのプラモデルがある。なぜこれだけ? とは思ったけれど、あきらくんの目が真剣で悲しそうだったから、私はそれを受け取った。「荷物になるでしょ? ごめんなさいね」あきらくんのお母さんは、常識的なことを言った。  その帰り道、暗い公園がまた私を誘った。プラモデルを優しく片手に持ったまま、ブランコに乗って、軽く漕いだ。傍から見たら私は精神異常に見えるかもしれないということが、逆に楽しかった。私は白いプラモデルを見つめた。どうしてあきらくんはこれを私に持たせたのだろう。よく分からなかった。でも「また」「今度」「来週」そんな言葉が特に強調されていることが気になった。  私はその暗闇の中、タバコを吸った。一日一本ならやめようと思えばすぐやめられると思いながらも、この習慣はもう一年以上続いている。私は苦笑しながらライターの火を見つめる。人前では絶対に吸わない。「タバコ吸うの?」と聞かれても、吸うとは答えない。高校生でも、未成年でもない。隠すことでもないのに、それは私にとって秘密の儀式だ。夜は立入禁止になっている公園に、小さな灯がともる。少し妖しい感じ。……一度この風景を写真にしたいと思い、滑り台の上にのぼってシャッターを切った。その時はさすがに不審人物に思われて、警察に尋問された。生まれて初めて警察手帳を見た。本当はびくびくしていたくせに、どうせならフィルムを引っぱり出し感光させるという、テレビでよく見る劇的なシーンになれば良かったのにと思った。  ぼんやりと砂場の方を見ていた。砂の下に何かが埋まってるのではないかと気になって仕方がなかった。左手にプラモデル、右手に吸いかけのタバコを持って、砂場に歩いていった。そして、片足で表面にある砂を蹴飛ばす。砂は粒子になって飛び散る。その曲線の軌跡は、光に刻まれて、瞼の裏に残る。次第に熱中してくる。靴の中に砂が積もっていくのを感じ、気持ち悪いが、それでも掘り続ける。 「あの公園、お墓みたいで気持ち悪いよね。先生帰るとき気をつけてね」初めての授業の終わり、そういえばそんなことを言われた。四時間を一緒に楽しく過ごし、あきらくんの真面目で純粋な可愛さに引きつけられてしまっていたから、その言葉を子供の言葉として受け止め、「ありがとう」と素直に答えた。でも今、砂を蹴っていた足が何か固い物に触れたとき、とても強い恐怖を感じると共に、その言葉を思い出していた。  逃げ出したくなりながらも、一心にその砂を蹴った。……でも出てきたのはプラスチックのスコップだった。私は何だか拍子抜けしてしまった。……そう、あの公園はこの公園ではない。 ……今まで恐ろしいくらいにすっかりと忘れていた。あの事件を。 私は預かっていたハムスターを殺して、砂場に埋めたのだった。そう、あれはたしか小学校二年生の頃だった。クラスに一人、わがままな女の子がいた。私はその子を嫌いだった。そして私が仲良くなりたいと思っていたクラスメートの女の子もその女の子を嫌っていた。ある日私が母とスーパーに買い物に行くと、向こうからそのわがままっ子の陽子ちゃんとそのお母さんが来た。陽子ちゃんたちは少し旅行に行くという話だったのだろうか。気がつくと、母が陽子ちゃんの家のハムスターをしばらく預かるという話になっていた。夕方、沈みかけた太陽が、私たちの影を長くしている時間だった。新しくタイル張りになった道路がきれいではあったけれど、どこか違和感を醸し出していた。もう十何年も昔のことだ。  母は陽子ちゃんのお母さんに「陽子ちゃんは可愛いし、いいですね」と言った。陽子ちゃんに向けた母の視線が、光の中、優しく見えた。「うちの子は陽子ちゃんみたいに出来が良くないし」陽子ちゃんのお母さんは「そんなことありませんよ」とだけ言って、笑った。その笑顔も優しそうだった。陽子ちゃんはその会話中、歩道と車道を隔てる白く低いポールの上に乗ったり、駆け回ったりしていた。私はこいつよりもバカなのか、と思った。 そして翌日、私はクラスメートの由美ちゃんに、陽子ちゃんのハムスターが家に来るらしいという話をした。由美ちゃんは「へぇ、そうなんだ」と言って、長い髪を自分の指で梳いた。細くて柔らかい感じのその髪は、外からの光を少しだけ内に零し、綺麗に流れた。微かにシャンプーの香りがした。私は自分の髪をいじってみた。短くて硬い髪だった。由美ちゃんは私の方に関心を払っていなかった。でも、由美ちゃんが陽子ちゃんを嫌っているのは、分かっていた。私は「きっと陽子ちゃんのハムスターなんて、すごく不細工だよ。憎らしくて殺したくなっちゃうかも」丁寧に言葉を選びながら言った。由美ちゃんは私の方を振り向いて、嬉しそうに笑った。その眼には、輝きが見えた。  その時、ドアが開いて、先生が入ってきた。私は由美ちゃんの席から自分の席に戻った。でも、私は由美ちゃんの心をつかんだという自信があって、わくわくしていた。これで私は由美ちゃんを手に入れられるかもしれないと思った。教室は寒く、隅にある大きな石油ストーブが燃えていた。私は下手をすると、熱さで頭がぼーっとしてしまう、ストーブの真ん前の席だった。小さなのぞき窓から、ちらちらと燃えるオレンジ色の炎を見つめながら、たしかに私はその時、いいしれぬ幸せに浸っていた。ハムスターを殺すという由美ちゃんとの秘密の行為。陽子ちゃんが悲しむだろうということ。 私たちはいとも簡単にその計画を実行に移した。  ハムスターは、一匹かと思ったら三匹来た。私は由美ちゃんを家に誘い、一匹だけ選び出すと公園に行った。初めは公園の隅の芝生でそいつを走らせて純粋に遊び、楽しんだ。夕方、日の暮れかけた頃、私達はそれを殺して埋めることを考えた。公園の中には空きビンがたくさん転がっていた。私はそれを蹴飛ばし、コンクリートの段差に打ちつけて割った。あまりいい音はしなかったけれど、それは細かい破片になり、瞬間的な快感を走らせた。由美ちゃんも私の真似をして、他のビンを割った。気付くと公園の隅は、ガラスの破片だらけになっていた。その行為に飽きると、由美ちゃんは大きめの破片を拾ってきて私に渡し、「殺しちゃいな」と言って笑った。公園には、私たちと逆のサイドにニ、三人の子供がいるだけだった。私は一番角度のついている辺を探し、ハムスターの首にあてた。少し力を入れて内側に押しこむと血がにじみ出た。白い毛が赤く染まっていった。それは想像していたような心引かれるものではなかった。左手にはハムスターの体温が伝わってきて不快だった。由美ちゃんは、「怖くなったの?」と笑った。長いまつげとすっと伸びた鼻筋はその時も綺麗だったけれど、由美ちゃんを手に入れることに魅力を感じなくなってきていた。「怖くはないけど、おもしろくないよ」私は由美ちゃんにハムスターとガラスの破片を差し出した。由美ちゃんは手を引っ込めた。私は、ばかばかしくなった。そして結局、砂場に生きたままのハムスターを埋めた。恐怖や罪悪感は全くなかった。ただ楽しみを奪われたという脱力感だけがあった。  私は砂場にタバコの灰を落とした。タバコもケースもライターも、全て埋めてしまおうかと思ったけれど、やめた。これ以上埋める物はない、ふと思った。夜の冷たい風が吹いてきて、コートの裾をひるがえした。  私は思い出そうとしていた。あの日、母は私を叱っただろうか。陽子ちゃんは私を怒っただろうか。……そう、確か、母は私が怖れていたようには叱らなかった。「陽子ちゃんのお母さんになんて言えばいいのかしら。あなたも陽子ちゃんに謝るのよ」とだけ言った。……そういえば、その日は弟が熱を出していて、母はそれどころではなかったのだ。そして、陽子ちゃんも私に何も言わなかった。ただ「校庭に行こう」「私は鉄棒がしたいの」うるさいぐらいにつきまとってきていた陽子ちゃんは、少し私から離れていった。他のクラスメートと遊んでいる陽子ちゃんのことを陰から見たとき、鉄棒の上に座っている陽子ちゃんは無邪気に笑っていて、頬には日が当たっていた。由美ちゃんよりも可愛いいかもしれないと思った。  砂場にはきっと、動物の死骸と、それ以上にたくさんの壊れた残酷な思い出が眠っている。 公園は本当にお墓みたいに見えるのかもしれない。あきらくんはあの猫を殺して、ここに埋めるつもりなのだろうか。手に握りしめていた白いプラモデルを見た。この飛行機は赤く塗るつもり、そうあきらくんは言っていた気がする。軽いめまいを覚えた。私はあきらくんに共犯者として選ばれたのだ。きっとあきらくんは私の中に自分と似た匂いをかぎとったのだ。でもハムスターを殺したのは今の私ではない。あの時の殺意をもう抱けるはずはない。でも、本当にそうなのだろうか。私の中をまだ同じ血が流れているのではないだろうか。  通りに小さな光が見えた。一瞬警察かと思い身をかがめたが、自転車のライトだったようで、何事もなく通り過ぎていった。でも心臓はしばらく響き続けた。この怖れ、法を破るということに対する怖れ、それだけが私をここに留まらせているのだと思った。  その時、鞄の中の携帯が鳴った。俊介からだった。私はタバコを吸い殻入れにきちんと捨て、俊介の低い声をしばらく楽しむことにした。「元気?」「うん、元気」「今日は何してたの?」「バイト。俊介は?」「久しぶりに休めたから、家でぼーっと過ごしちゃったよ」「ふーん」別に大した意味はない。そして何のための電話かもすぐに分かる。「明日の夜はどう?」ただそれだけの用事。自分が翌日暇だと思うとかかってくる。こっちから電話をかけても冷たい。でも、俊介は一度思ったことは必ず実行しないと気がすまないから、私が明日の約束をOKするまでは、その電話は何時間でも続く。結局私たちがきちんと会話をするのはその電話だけ。私は色々な理由をつけて会うのを渋ってみたり、少しでも会話を伸ばそうとする。その電話中だけは、俊介もきちんと私の話を聞いてくれている気がする。 「今、公園にいるの」「公園? 一人で?」「うん、一人」「危ないだろ」「別に危なくないよ。なんか今、死ぬことなんて怖くないって感じ」「自殺願望か?」俊介は苦笑する。私は話題を変える。「今日ね、昔のこと思い出していたの。小学生の頃」「子供に戻りたいの?」「別に、そんなことないよ。私は過去よりも今を生きてるもん」「その割にはあんまり命を大事にしていないみたいだけど……」少し沈黙する。「で、小学生の頃の何を思い出したの?」私は足で砂を蹴飛ばしながら答える。「友達のハムスターを殺して、砂場に埋めたってこと」俊介には、何も隠すことができない。というか、自分の中にだけしまっておけないことは、全部俊介に出してしまう。俊介がそれを望むのでは決してなく、私が俊介に対してなら、安心して飾らないでいられるから。俊介は何を言っても、私を奇異の目で見ないと信じているから。「誰でも子供の頃って、残酷なもんだな。おれもミツバチを水鉄砲で撃ち落として、洗濯機の中でまわして潰したり、いろいろしたよ」ほら、こうやって俊介は優しい。「そうか、そうだよね。今、すごく自分が変な人かもって、気にして落ち込んでたの」「バカだな。大学でそういう心理について勉強しないの?」俊介は笑いながら言う。私はその笑いに、ほっとしているけれど、ちょっとだけ意地になって、「勉強しないよ。うちの大学、真面目に授業してないから」と返す。そして会話が一段落したところで、俊介は改めて言う。「明日会おうよ」私は俊介を失うのが怖くて、決して断れない。俊介は体の関係しか望んでいないことを分かっているのに。会う度に、俊介に対して失望するのに。でも、この電話がなくなったらと思うと、怖くて断れない。そして、今度会えばもう少し俊介との仲もよくなるかもしれないと思ってしまう。何度失望しても、私の目はなかなか冷めてくれない。    月曜日。三限の授業が一時からあるのだけれど、出席をとらないからずっと出ていない。でもさすがに一月ほど休み続けると、一度ぐらいは出ておこうという気分にもなる。私は久しぶりに午前中に起きて学校に行く。一五分の遅刻。音を立てないようにドアを閉め、そっと一番後ろの席に行く。前の人の影になる角度を探して、机に突っ伏す。すぐに寝られるわけではない。でも、その姿勢で半分先生の声を聞き、半分空想の世界に浸っていることが好き。時間はつかみどころのないクラゲの集団のように流れていく。私は俊介のすべすべした肌の感覚と唇の柔らかい感触を思い出し、味わいかえす。そしてゆっくりと眠りに落ちていく。……みんな大学時代が一番楽しかった、と言う。だから就職する前のこの半年を楽しまないといけないはずだ。でも、そう思えば思うだけ、幸せを強要されればされるだけ、私は幸せから遠ざかり、苦しくなる。このクラゲの時間が一番よい時なら、あまり生きる価値なんてないのかもしれない。  授業が終わり、周りが騒がしくなる。私は顔を上げる。授業の内容はかけらも思い出せない。ただ気怠さが支配している。みんな教室から出ていく。挨拶する人もいない。今日も一日、人と話さずに学校から帰ることになるらしい。教室の空気そのものも、生温いクラゲみたい。そしてそこに生きている自分もクラゲみたい。  私はもしかしたら、あの時ハムスターを殺したように、今は自分を殺そうとしているのかもしれない。タナトス。破壊・死に対する欲望。今、その欲望さえ、オブラートに包まれているけれど、でも本質は変わっていない。  ベッドの上、俊介は力尽くで私を手に入れようとする。昔、俊介は男二人、女一人の共同生活をしていた。そんな話をした。俊介はその女の子が好きだった。でも、告白した翌日、その女の子はもう一人の男の人に抱かれていた。「部屋からその人のHな声が聞こえてきたんだよ」俊介は言った。少し笑いながら、少し自分のことをバカにしながら。俊介は今、私や他の女を抱く。好きな人を奪われるだけだった弱い自分を殺そうとするように、その女に対する復讐のように。力一杯。  俊介は私を支配する。私の言葉をどこかに封じ込めようとする。私は電話では話せるのに、会うと何も言えなくなる。「なにか言えよ」俊介は苦笑して言うけれど、言葉を封じ込めたのは俊介だ、と思う。私がなにか、私らしい言葉を吐いたら、もう私は俊介の所有する「モノ」ではなくなる。私は俊介の前で「私」であってはいけない。俊介の殺意が向けられる場としての、昔の弱い俊介であり、俊介を振った女でなくてはいけない。  俊介が私を殺し、私は俊介に殺される。  そして、俊介はまた俊介自身を殺し、私はその殺人の幇助をする。  アイデンティティーを殺されている。 「人間なんてそんなものだよ」そういう言葉に、私はほっとするけれど、同時に私は個別性を奪われている。そして私は、自分が大して価値のない「モノ」と化すことに満足している。そんな「モノ」になってしまえば、くだらなく大学生活の残りを送ってもいいし、自由のない将来なんて別に怖くない。「働くということは、魂を売ることだよ」社会人の友達に脅かされた。その前に、魂なんてなくしてしまえばいいんだ。  授業が終わってもまだ二時半で、外は明るい。私はゆっくりとキャンパス内にあるスロープを降りる。誰かに会って気分転換をしたい。そう思うときに限って知り合いには会えない。  スロープからも意外と綺麗な紅葉が見える。その木々を貫いて光が降りてくる。その光もいつもより、心持ち黄色いような気がする。木の下に立ち、私は空を見上げる。葉は光によって透明に縁どられ、空は葉によって、縁どられている。空気は冷たいけれど、陽の光は温かい。スロープの下では、いつものようにスキーサークルがローラースケートを履き、滑りまわっている。気持ちよさそうだ。自分も大学一、二年生の頃は人目もはばからず、大隈講堂の前で発声練習をしたり、走り回っていた。でも、それはもう自分のことではないようで、今はただ元気な彼らを羨ましく思いながら、見つめていることしかできない。  足下には、たくさんの葉が落ちている。同じ木から落ちた葉でも、それらは一つずつ微妙に形や色を異にする。一生懸命に葉を見ながら歩いていると、軽い目眩さえする。目の前が黄色に染まる。それはささやかな感動の時。……でも、私は自分でその思いを打ち消そうとする。私は昼間に生活してみても、本当はもっと夜に親しい人間だ、と。昼の光は、しっかりと全ての物を照らしつける。その中では、ハムスターの死骸はすぐに見つかってしまう。そして、殺意は、光の粒子のように、バラバラになって、曖昧な姿で宙を飛ぶ。  私はそのまま家に帰って、少し仮眠を取った。昼の光の中、元気に活動する気分にはなれなかった。  私は昼寝から覚めたあと、机に向かい、じっくりとあきらくんのプラモデルを観察した。真っ白い戦闘機。足りない。何かが決定的に足りない。それはただ、色が付いていないからなのだろうか? 二つ翼があればそれで飛行機だと思うけれど、でも漠然とした不安がこの飛行機には漂っていた。飛べない、戦えない、という恐怖。  私は催眠術を自分にかけるみたいに、一生懸命にそのプラモデルを見つめた。もう少しであきらくんの気持ちが分かりそうだというところまで来ると、それは遠のいていく。  ドアの開く音がする。「ただいま」という元気な声が響いてきた。集中を妨害されて、少し不機嫌になる。一応「お帰りなさい」とは言うけれど、かなり投げやりだ。でも、母は今日は機嫌がいいらしく、私のそんな応対にいちいち反応しないで、「ワッフル買ってきたんだけど、食べない?」と言う。私は「うーん、いらない」という一言で片付ける。部屋のドアも開けずに、声だけでやりとりする。それでもきっと、親子の会話はある方なのだろうな、と思う。  あきらくんも何年かしたらお母さんの存在をうざったく感じはじめるのだろう。でも今のあきらくんには、そんな冷めた自分の姿は想像できない。今の傷を、今精一杯感じて生きることしかできない。そう考えたとき、今まで味わったことのない痛みを心に感じた。そしてその痛みに導かれるように、近くにあったレポート用紙を一枚破りとり、そのきれいな線の部分を思い切り自分に擦りつけた。私の指にはまた傷ができた。そう、この痛みだ。私はその時初めて分かった。紙で切ったときの指の痛み方は、ずきずきとする胸の痛みに似ている。ある切なさに結びつく痛み。  それから図書館に行って、児童心理学の本と、戦闘機の本を借りられるだけ借りてきた。心理学の本には、母が再婚しようとしたとき、六,七歳の男の子は相手の男の人に対して殺したいほどの殺意を感じるということと、実際に起きた事件が示されていた。  ハードカバーのその本は、一枚一枚の紙が分厚く硬かった。私は熱中してそれを読みながら、あきらくんの腕に見つけたのと同じほどの傷を自分につけた。そういう痛みというのは、慣れるものではないらしい。何度目でも、それは悲しい痛みをともなった。でも、その痛みを感じながら、私はこの体を持って、今しっかりと生きているという確信を、衝撃として受け取った。私は俊介に殺されるような人間ではないということ。今あきらくんの激しい感情を受け止め、支えてあげられるのは、ここにいる私だということ。ひとつひとつの出来事を今なら正しい目で見つめられそうな気がした。  合わせ鏡をしたとき、「悪魔が映るってほんと?」と聞いたあきらくんの言葉がよみがえった。悪魔……それはその時、鏡の中にいた自分を指していたのだ。……あきらくんは悪魔なんかじゃないよ。ただおかあさんを愛しすぎちゃっただけだよ。そう教えてあげないといけない。  私は翌日、八時に起き、久しぶりに家族と一緒に朝食を食べた。それから携帯を解約し、白い戦闘機に本当に塗られるべき色である、緑色のインクを買った。あきらくんのお母さんにあきらくんの痛みが伝わる日は来るのだろうか。俊介が、私の中の傷、俊介自身の中にある傷を真っ直ぐに見つめられる日は来るのだろうか。……そしてあきらくんがあきらくんのお母さんの等身大の傷に、私が俊介の本当の心の痛みに向きあえる日もいつか……。  私のバンドエードは、二、三日中に全てとれるだろう。あきらくんのも。