お茶をかけたい、いや、あの顔にお茶を投げ付けてやりたいとH美は思った。その思いがどこから来るのか、はっきりとしたことは言えなかった。怒りなのか、悲しみなのか、それとも拠り所のない昂揚とした感情から来るのか、H美にはわからなかった。ただ、お茶をかけたいとH美は思った。 「課長、わたし」H美は、うつむいてぼそっと言った。「あなたの頭にお茶をかけたいんです」落ち着いた、何ら普段と変わらない口調で言えたことに、H美は満足していた。  朝からなんてことを言うんだろう、とマルは思った。いくらフロアに、わたしと二人しかいないといっても、とてもごく普通の月曜日の朝から口にできる言葉ではない、とマルは思った。「君ねぇ、冗談は顔だけにしておきなさいよ」少し強めの口調で、マルは言った。そう言ってからしまった、とマルは思った。前に一度、顔のことで冗談を言って、その女子社員を泣かせてしまったことを思い出したからだった。  その言葉で、H美の涙腺は、少しだけ緩んだ。それは、少しだけ強い口調のせいばかりではなくて、冗談は顔だけけにしろと言われたことにも少なからず原因はあった。たしかにわたしはひどい顔だ、とH美は自覚していた。わかっていることに、さらに自覚を促すようなことを言われるのは堪らなかった。 「あの……」H美は、声が震えないように、慎重に喋りはじめた。「……わたし……あの……」それ以上喋ると堰を切ったように涙が出てしまいそうな気がしていた。 「ん、どうしたんだい。おちついてゆっくりしゃべってごらん」馬鹿げていると思いながらも、マルはあやすように言った。「何かあったのかい。何か理由があってあんな事言ったんだろう。どうなんだい。ん、言いたいことがあるなら言ってごらん」 「わたし……あんな事言うつもりじゃなかったんです。本当です。別に取り消そうというつもりでも……ないんです。本当に、お茶をかけたいんです。ただそれだけなんです。恨みは……」そう言って、H美は視線を泳がせ頭のなかを探っていた。「ない……な。ないです。たぶん。きっと」  マルは、不思議な生きものを見ているような気分だった。恨みもないのに、お茶をかけたいと言う。ただそれだけだと言う。本当のところはどうだかわからないが、もし恨みがあればそんな事すら言わずにかけているだろう。――お茶ぐらいいいじゃないか。ふと、心の中から声が聞こえた。それは、自己啓発セミナーで芽生えた、寛大な上司の心だった。マルは、それをシゲルと呼んでいた。深い理由はなかったが、人間の名前であればその心とさらに客観的に、他人のように付き合えるかと思ったからだった。 ――マルよ、その子はお前にとって可愛い部下じゃないか。その部下が、わけもなくやりたいといっているんだ。わけがないというのは、場合によってはわけがあることよりも充分に重いものなんだ。意識の源は無意識だって教わっただろう、八甲田の自己解凍セミナーで。 ――それはそうだが、だからといってそう簡単に許すわけにはいかないだろう。シゲル、お前は何かというとすぐ八甲田の解凍セミナーを持ち出すが、何も解凍だけが啓発への道ではないのだぞ。明石の臍セミナーのことはどうだ。臍を人間という物質の中心と捉えての唯物論の展開、無意識ですらただの物質にすぎないはずではなかったのか。 ――しかし、いま彼女は無意識で動こうとしているのだぞ。素晴らしい解凍の瞬間が見れるのかもしれないのだぞ。 ――シゲルよ、お前の解凍に対する飽くなき執念、見苦しいとは思わないのか。今ほどお前が厭わしいと思ったことはない。願わくば、お前を排泄して閉鎖的生態系のなかへ閉じこめておきたいものだ。 ――お前は、俺がお前から生まれた産物だと決め付けて言いたいことを抜かしている、黙ってはいたがお前こそが俺様の産物なのだ。 ――ふん、とんだお笑い草だ。お前のそのシゲルという名、俺が子供の頃に飼っていた犬の名前よ、それでもまだ俺がお前の産物であるなどと言い張るか 「あ、あの……」H美は、おそるおそる、マルの顔を覗き込むように言った。すごい顔をしている、とH美は思った。左手で口を押さえるようにして肘をつき、眉間に皺を寄せて何やらぶつぶつと言っている。どこか一点を見据えているようだが、その先にはこれといったものもなく、見てはいるが目には入っていないといった具合だった。なぜあんな事を言ってしまったんだろうと、H美は、思った。別に前々から言おうとおもっていたわけでもないし、言わなければいけないという強い思いに駆られたわけでもなかった。昨日の夜に読んだ、カミュの『異邦人』がいけなかったのだ。行動の動機が、必ずしも理路整然とした根拠に基づく事はない、という新鮮な発見に動かされて、思ったことをつい口走ってしまったのがいけなかったのだ。 「課長……かちょう」H美は、マルの目の前で手を振ってみたが、何ら反応する様子は見られなかった。 ――そうやってお前はすぐ人と比較をする。今までのセミナーは何だったんだ。道楽か?いつになったら自分が確立できるんだ ――しかしなあ……シゲルよ、それほどまでに…… ――強く言うなというのか。俺がいわなきゃ誰が言うんだ。マルよ、このままではいつまでもかわらんぞ。そうやって、自分は上原部長じゃないんだから……などといっているようではな。だからそんな小娘に何も言えんのじゃないか。ビシッ、と言ってやれ。ふざけるな、と。 ――さっきは、お茶ぐらいいいじゃないかと言っていたじゃないか。 ――それはそれだ。俺のことはどうでもいい。今は、お前の話をしているんだ。 ――俺としてはだな、だから……、その、つまりな、酸欠セミナーのサモン氏の講演が……  ふう、と溜息をついて、H美はマルを見下ろしていた。噂には聞いていたが、これが瞑想癖なんだ。なんでも、自分のなかにもう一人の人格を作りだして冷静に物事を判断するとかいうあれか。こんなに深いとはねぇ。  H美は、かがみこむようにしてマルを覗き込んだ。やはり、反応はない。彫刻を眺めるように、右から左へと廻り込んでみたが、やはり同じ事だった。相変わらずマルは、眉間に皺を寄せ何やら呟いていた。疲れるのか、時折呟くのをやめ、生気を感じられない何とも情けない表情になる事もあった。ちょうど、マルがその情けない顔をした時だった。おもむろにH美は上体をあげて、またマルを見下ろすような姿勢をとった。 「よし」H美は何かを決意したようにそう言うと、マルに背を向けてそのフロアを後にした。 ――組合の時はどうだ。我ながら立派に言い切ったじゃないか。お前の、シゲルの後押しをかりずに、だ。 ――あれは、マルが言ったわけではないだろう。お前はただ後ろの方でそうだそうだとか言っていただけじゃないか。 ――そうかもしれないが、それでもささやかながらも自己主張というものじゃないのか。下手をすれば、十年、二十年後の会社人生を棒にふることになるんだぞ。それを思えば、立派なもんじゃないか。 ――そうやってまた、いい方に捉えて話を切り上げようとする。流れに乗ることと流されていることとは違うんだぞ。 ――なんで、そんなにつっかかるんだ。大局を見つめるべきだろう。 ――またセミナーか。A little learning is a dangerous thing だな。 ――誰が“生兵法”なんだ ――だれがって、お前がさ。所詮、マルの知識はその程度だって事さ。 ――何だと。 ――セミナーが役立ったことが今までにあったのか。よく考えてみろ。いまのお前に必要なのは、セミナーから離れるセミナーなんだ。もっとも、セミナーから生まれた俺が言うのもなんなんだが。 ――セミナーから離れるセミナーか。面白い。セミナーから自立しなければいけないという危機感と、それをかなえながらも辞めずにはいられない道楽を満たす気持ちをも満足させるというわけか。まさに一石二鳥だ。思いもよらないひらめきだ。シゲルのおかげだ。もっと言ってしまえば、シゲルという人格を作るきっかけを与えてくれたセミナーのおかげというわけか。そうか、セミナーがセミナーにこだまして、より洗練されたセミナーを生み出していくのか。するとつまり、セミナーによって導かれたものはそこにとどまることが……  H美は、マルの前まで来るとためらった。いざというときになると、嘘のようにH美の体は言うことを聞かなかった。さっきから手はお盆のうえの湯呑みにかかっていたのだが、そこからはどうすることもできない。マルはまだ、ぶつぶつと呟いていた。表情は一変して、うっすら笑っているようにもH美には見えた。 「課長」とH美は言った。声を出すことで、動けなくなった体を、呼び覚まそうとしていた。「課長……わたし……やっちゃいますよ」そう言うと、H美は手にしていた湯呑みのなかのそれをマルの顔へと浴びせた。それは水だった。水なら染みにもならないだろうとH美は考えた。 「はぅっ」その瞬間、マルは悲鳴とともに小さくとびあがった。そして、豆鉄砲を食らった鳩のような目をして、H美の顔を見上げた。 「お茶です」H美は、声が震えないように静かに息を吐くようにそう言うと、お盆に乗せてあったもう一つの湯呑みをマルの前へ差し出した。激しい鼓動に息苦しいくらいではあったが、H美は、何事もなかったかのように振る舞った。 「ああ、ありがとう」マルはそう言うと、湯呑みに手をだした。そして、軽く湯呑みを摘んだままの状態で必死にこの状況を把握しようと試みていた。一体どうしたというんだ。なんで俺は濡れているんだ。お茶、お茶のことで何か……何かあったような気がするな。何だっけ。あれ、思い出せない。なんでこの子は、平気な顔をしているんだ。こんなところで俺が濡れているというのに。そういう状況なのか。いまはそれが当然の状況なのか。ってどういうことなんだ。落ち着け。落ち着くんだ。そうだ、こういうときこそセミナーが役に立つんじゃ……。  その時、マルの顎の先から雫が一滴したたり落ちた。それは、マルが摘んでいる湯呑みの中へと落ちていった。ポチャッという音がして、マルはその湯呑みの中を覗いてみた。そこには、同心円で波立ったお茶の中にゆらゆらと一本の茶柱が揺れていた。                              (完)