花 降る夜  今年は、秋が来ないのだろうか。そう誰もが思うほど、暑い日が続いていた。立秋・処暑と過ぎて尚、残暑厳しい都では、相変らず人斬りが多かった。  祇園などの花街は特に、反幕府の思想を持つ志士と呼ばれる者達が潜み、また彼等を助ける妓やお茶屋が多い。街ぐるみで、尊皇攘夷の先駆けとならん若者たちを庇う空気が色濃く、新撰組の目も厳しい。  まるで嘲笑う様に妓達の間では、勤皇の志士を愛人に持つ事が流行り、勤皇芸者などと呼ばれ持てはやされていた。  そんな長州びいきのお茶屋のひとつ、祇園・尾花の一人娘お里は柱に寄りかかり、少しやつれた様子で離れの部屋に座っていた。いつもそうやって、ここに座っていた人を真似て。  暑い暑いと言い続けても、ふと見上げた空は遥かに高く、うろこ雲が浮んでいる。   「夏は……終わるのやろなぁ……。」つぶやくと涙が一筋、すーっと流れた。行く夏を惜しむのか、逝ってしまった人を惜しんでいるのか……自分でも分からなかった。ただ、お里の心にはあの日から、大きな穴がぽっかりと口を開けていた。  軽く鼻をすすり涙を拭くとゆっくり、庭で咲き誇るのうぜんかずら凌霄花に目を移した。  この花はいつ頃咲くのかと、今お里のいる所から吉田に尋ねられたのは、六月四日の事だった。長州藩士の吉田は、尾花では気を許しているのか、よく縁側の柱に寄りかかり片ひざを立て、頬杖をついたりしていた。  「あと、二日ぐらいと違いますか。宵山の前には咲きまへんなぁ。」だいぶ大きくなった蕾にそう答えながらも  「でも今年は暑いから……。」そう言って、開きそうな花がないか見て回った。  暑い夏に朱色の漏斗状の花が房となり、降り注ぐ様に咲いている姿は、朝顔よりも堂々としている。萎れる前に花弁を落とす潔さと、花の美しさが人気を呼んでいた。  「いいよ。もうすぐ咲くなら、焦らず待とう。宵山は明日だ。」微笑みながら吉田は言った。笑うと目じりが下がってとても優しい顔になる。お里はその笑顔が好きだった。  尾花に吉田が来るのは主に、文の受け渡しが目的だった。この日も妓が持ってくる文を、いつもの様に離れで待っていた。  勤皇の志士を自ら名乗る男に、大した人物はいないと思っているお里にとって、唯一の例外が長州の吉田稔麿だった。十七の お里をからかいもせず、礼儀正しく接してくれる。大声を張り上げたり、刀を抜いて脅かすだけの、始末に負えない連中とは全然違う、本物の人だと思えた。  いつも文を待つ間はお里を相手に、自分の国の話しや江戸で見聞した出来事を、面白おかしく話してくれた。時として、自分が描くこれからの日本を語る事もあった。そんな時、吉田の瞳は輝きを増し、立ち上がって両手を広げ、身振り手振りも大きく全身で語るのだった。そして  「なぁお里。こんな国になったら嬉しいなぁ。否、そうしなければならん。皆が、皆が幸せになれる国にしなければいけないんだ。」と言って話し終わるのが常だった。吉田の話し上手にお里はつい引き込まれて、いつの間にか大袈裟にうなずいたり、手を叩いている事も多かった。  しかし、吉田の内には驚くほどの孤独と、得体の知れない恐ろしさ・冷たさが潜んでいるのを、花街で生まれ育ったお里は、敏感に感じ取っていた。  この日、いつもなら昼には届く文が遅れていた。少しばかり、吉田の顔には苛立ちが浮んでいる様だった。じっとしていても汗ばむ季節。ぱたりと風は止み、騒々しい蝉の声が一層、暑苦しさを感じさせる。  お里は、良く冷えたまくわ瓜を持って行った。入って来たお里に気づいていないのか、吉田はじっと凌霄花の木を見つめている。そっと盆を置くと、お里は軒に吊るしてある風鈴をふうっと、わざと鳴らした。  「風鈴の音にまくわ瓜か。さっきまでは、祭りのお囃子も聞こえていた。夏なんだなぁ。」そう言うと、ふっと笑みを浮かべ  「お里、一緒に食べよう。」と誘った。  「おおきに。」瓜はお里の好物だった。遠慮なく向かいに座り込むと、手を伸ばした。吉田は笑って見ていた。そして、国にお里と同じ位のフサと言う妹がいるのだと言った。  「私は吉田松陰先生の遺志を継ぎ、国事に全てを捧げるつもりだ。家は妹に婿をとらせている。」  「吉田様……。」お里は驚いた。尾花に来る様になって一年余り、吉田の口から家族の話しが出たのは初めてだった。  だが吉田はそれきり黙って瓜を食べながら、凌霄花を見続けた。そこには孤独な素顔が浮び、お里は戸惑った。何か云わねばと焦る気持ちが、かえって言葉を遮ってしまう。  「あの……全てを捧げる、言うのは恐ろし過ぎます。命は、どうぞ命だけは大切にして下さい。」ようやく言うと、吉田はくすくすと笑い始めた。  「そんな……いきなり笑わはるやなんて……。ほんまに心配して言うてるのに、ひどい。」お里はむっとした。その様子に  「あ、いや。笑って悪かった。」と、素直に吉田は謝った。  「悪く思わないでくれ」  「もう、無理です。吉田様のいけず……。」お里は口先をつっと、尖らせた。  「いや、済まない。その……祇園のおなごにしてはな、少しばかり話しの間を外すのが、好ましいのだ。それで、つい笑った。」言いながら、吉田の瞳はまだ笑っている。  確かに、花街の女なら、気の利いた間合いで上手を言えるのが普通なのかも知れない。自分でも判ってはいるが、生まれついての不器用と諦めていた。  「……うちは何で、祇園に生まれたのやろなぁ。」つい、愚痴が出た。  「何も責めている訳じゃない。お里と話すのは、楽しいよ。」  「間を……外しても……。」  「あぁ、そこが良いんだよ。」そう言うと、吉田はお里の目を見てうなずいた。お里も照れ笑いを浮かべながら、こくりとうなずく。吉田はゆっくりと、その瞳を再びかずらの木へと移した。そして  「命は……大事にするよ。」と、小さな声で言った。独り言の様でもあり、お里に言っている様でもあった。それから、吉田は黙って凌霄花を見つめていた。話し掛けるのは、ためらわれた。何かしらの迷いと苛立ちが、吉田を寡黙にしている様だった。  「そないに、あの花が気にならはりますか。」盆が空になった時、思いきってお里は尋ねた。  「うん。去年、初めて見た時は、あまりの美しさに驚いたよ。この先……もし家を持つ事があれば、庭に植えたいと思っている。」先ほどの厳しさは失せ、お里の良く知っている吉田が答えた。  「へぇ……。そこまであの花がお好きやなんて、知りまへんどした。でも、あれは……」思わず言いかけて、言葉を飲み込んだ。"余計な事や。知らん方がええ。"  「宵山の前には咲かないと、さっきそう言ったばかりだ。」吉田は笑った。  「ほんに……そう、そうどしたなぁ。」お里は吉田の勘違いをありがたく思った。  「あの花は、嫌いなのか。」  「あ……いえ。その、嫌い言うか、あまり……好きな花やないのは、その……。」どう言えは良いのか分からず、お里は俯いた。 人は己に似た花を好むと、いつだったか聞いた事を思い出していた。  「堪忍……。何て言うたらええのか、分かりまへん。」  「陽を受けて輝いていた……。風流とは縁の無い日々が続いているが、あの花は好きだ。」すでに吉田の瞳は凌霄花に向けられていた。  庭の花には、小ぶりの棚がしつらえてある。かずらと名の付くものには、巻き付き支えとなる物が必要な為だった。  「六日に江戸へ発つ事になったんだ。でも、その前に花を見に寄せてもらっても、構わないだろうか。」遠慮がちに尋ねる声で、お里は我に返った。  「えっ、へえ。いつでもお越しやす。」慌ててこたえる。  「今度、江戸へ行ったら……しばらく京には戻れない。」吉田の瞳が、今は真っ直ぐお里を見つめている。胸の奥で、ぎゅっと絞め付けられている様な、それでいて淡い痛みが走った。  「えっ……。」かすかに声が漏れる。  「お里……。」  二人の動きが止まった。呼吸すらしてはいけない様に感じられる。吉田の瞳に映る自分の顔が、不思議と落ち着いて見えた。  「あ、あの、お盆を……。」いたたまれず、空の盆を下げようとお里は吉田から目をそらし、手を伸ばした。  その瞬間。宙を飛び、眩暈に襲われた感じがした。きゃっと小さな悲鳴を上げたのが、自分で判った。"ころんでしまう。"そう思いながら何も出来ず、どんっと目の前の吉田の胸に倒れこんだ。  「今しばらく……。」耳元で、何かを耐えている様な声が響く。同時に、右手がしっかりと掴まれているのに気づいた。ようやく、伸ばした手を吉田が取り、抱き寄せたのだと判った。  「吉田様……。」  「済まぬ、今しばらく……。」再び耳元で声がした。今しばらくこのままで、と言いたいのだろうか。消えた言葉はそのままに、吉田は黙っている。わずかに、体は震えていた。お里は初めて知る吉田の弱さに驚き、じっとしていた。  やがて、そっとお里を離すと  「済まなかった。」と、小さな声で謝った。  お里は、いいえと消え入りそうな声で言うと、逃げる様に離れを後にした。出て行く時に盆を蹴飛ばしてしまったが、取りに戻る余裕は無かった。  母屋に小走りで戻ると、自分の部屋に閉じこもった。心臓が飛び出すかと思う位、早鐘を打っている。"今のは何やったんやろ。"考えようとすると頭の中で"済まぬ、今しばらく。"と声が響いた。お里は乱れた呼吸を、ゆっくり息を吐いて整えた。何時の間にか掴まれた手を撫でている。時折膝が、かくっと震え、汗が額から流れ落ちた。  吉田の事は嫌いでは無い。ただ……。あまりに突然で、どうしたら良いのか分からなかった。  障子をそうっとわずかに開けて、庭を挟んで向こう側の離れの様子をうかがった。花の向こうに相変らず、柱に寄り掛かって座っている吉田がいた。しかし、凌霄花ではなく、こちらをじっと見ているのが判った。  お里は思い切って障子を開けた。吉田は、はっとして、居住まいを正した。真っ直ぐこちらを見つめる瞳には、はっきりとした気持ちが溢れていた。  ゆるやかに風が抜けてゆく。離れの軒の風鈴が、涼やかな音色をたてた。  その時誰か来たのか、吉田は部屋の中へと姿を消した。文が届いたらしい。だとすれば、すぐに帰ってしまうだろう。  お里は鏡を覗き込み、軽く汗をおさえると、気持ちほどの着崩れを直し部屋を出た。  母屋を通らなくても、離れから外へ行き来はできる。表の出入り口には人も多い。ただ見送るだけになるだろうとお里は思った。このままで良いのかもしれない……。  「お里。」と、自分を呼ぶ声に振り返ると、吉田の姿があった。わざわざ来てくれたのが、意外であり、嬉しかった。  だが、吉田は暗い顔をしていた。  「あの……。江戸へ発つ前に花を……凌霄花を見に寄ってくれはりますか。」思いきって尋ねると、吉田は破顔した。  「花もそうだが……会いに寄る。」言うなりお里の手を、ぎゅっと握りしめた。この時目には見えないが、二人の間でしっかりと結ばれ始めたものを、お里は感じていた。人から想われて嬉しく感じるのは、少なからず自分も相手を想っているからだと、仲良しの芸妓・小福から言われた事があった。  ぼうっと涙で吉田の顔が曇る。"あれっ、何でやろ"思っていると、そっと涙を拭いてくれた。その吉田の瞳も、きらっと光っている。  「六日の朝に、会いに寄る。」再びお里は抱きしめられた。何も言えずお里は、ただ何度もうなずくだけだった。  六月五日夜。祇園祭りの宵山で賑わう四条通りを、血相を変えた一群の男達が駆け抜けて行った。三条小橋の宿・池田屋に集まっていた過激攘夷派の志士達を、新撰組が急襲したのだった。遠巻きにして見物する人垣が出来、楽しいはずの祭りの一夜は血と涙で塗り替えられた。  尾花にも、その夜のうちに池田屋での事件は伝えられた。だが、翌日江戸へ発つはずの吉田が、まさか池田屋に行っているとは、お里は夢にも思っていなかった。  翌六日、舞妓の小照がお里の部屋へ来た。  「お里ちゃん、たいへんや。」  「何やの、小照。また姉さんにでも叱られたんか。」お気に入りの小紋を着たお里は、微笑んでいた。  「それが……。」  昨夜の池田屋の詳しい話しを聞いたお里は  「うそっ。うそや……。」と言うなり、目の前が暗くなった。手にしていた紅が畳に落ち、鈍い音がした。  「お里ちゃん、嘘やないえ。うち、長州の人から聞いたのやから。吉田様は残念な事やった。そう言うてはりましたえ。」  「うそや……。吉田様は今日、江戸へ発つ言うてはりました……嘘や。」  「でも……」尚も話しを続けようとした小照に  「うちが嘘や言うたら、嘘やっ。」声を荒げ言い放つと、目の前でぴしゃりと襖を閉めた。何も知らない小照の、まるで全てを知り尽くしているかの様な興奮した話し方に、無性に腹が立っていた。  「うそや……う……そ・。」繰り返しつぶやきながら崩れる様に倒れ込むと、お里はそのまま気を失ってしまった。  どれくらい経ったのだろう。気づくと、辺りはすでに暗くなっていた。夜の暗さとは異質の、藍を重ね合わせた様な不思議な闇が降りていた。部屋にいたはずのお里は、一人で外を歩いている。"何でうちは、ここにおるのやろ。"しんと静まり返った街に、人の気配は無い。"何や気色悪いとこやな……。"そう思った時、カタンと戸の開く音がした。前方に一筋、明りが漏れ落ちている。と、すぐに人影が現れ、お里を手招きしている。"あれは……。"見覚えがあった。急いで近づいてゆく。  「吉田様……。」やはり、そうだった。  「無事やったら、何で早う知らせてくれへんのどす。うち、ほんまに心配で……。池田屋へ行ってはったゆう人がいて、おまけに吉田様が斬られはったゆう人まで……うち……。」終わりの方は涙声になり詰まった。  「済まない。何しろまだ新撰組に追われている身でな……。さぁ、早く中へ入って。」お里の手を取ると、吉田は中へ入って行く。新撰組の名にお里も慌てて戸をくぐり、何気なく屋号を見ると池田屋と書かれているのが目に入った。"あれっ、池田屋は確か新撰組に……。"  「江戸へ発つのが明朝になった。昨夜の一件で予定が狂ったから、会えないと思っていたよ。良かった。」吉田は笑顔で話しかける。  「へぇ、ほんまに。」何かすっきりしないまま、返事をすると吉田の後に従った。二階へ上がる階段がすぐ目の前にあるが、吉田は脇の廊下を奥へと進んでゆく。そして、一番奥の襖を開けると中へ入っていった。お里も続いてゆく。  「あれ、この部屋……。」それは全くお里の部屋だった。生けてある花も飾ってある人形も、隅にある鏡も寸分も違いは無い。  「ここ……うちの部屋……。」混乱した顔を向けても、吉田はただ笑みを浮べるだけだった。   月明かりと行灯の明りで、部屋の中は良く照らされている。吉田は窓辺に近づくと腰を下ろした。そしてお里にも、座る様に目で合図をした。  「しばらく会えないが、体には気をつけて。遠く離れていても、私はお里の事を想っている。」  「吉田様……。」不意な事に、ぽっと頬が染まってゆのが自分でも判かる。  「あの、吉田様も気をつけて……。うちは一日も早いお帰りを心待ちに……お持ちしてますえ。」吉田は両手で、痛いほどお里の手を握りしめる。"何や。小照の話しは間違うてるやないか。死んだ人の手が、こんなに温うて力強いことあらへん。"思った時、突然外が騒がしくなった。異様な殺気を、お里も感じ取れた。吉田はすぐに行灯の火を吹き消すと  「決してこの部屋から出るな。判かったな、お里。」と、言うと刀を持って出ていった。  「新撰組だぁー。」と叫ぶ声が響く。ばたばたと大勢の走り回る足音に、ギャアーッという断末魔の悲鳴が混ざる。お里は生きた心地がしなった。部屋の隅にうずくまり、耳を塞ぎ震えていた。  あの足音の中に吉田もいるのかと思うと、お里は恐怖に涙を浮かべながら、無事を祈らずにはいられなかった。  瓦の落ちる音がしたかと思うと、襖や障子の破れる音に混ざって、勢い良く水を撒いている様な音がする。"誰か、斬られた……。" 思わず様子を覗おうと立ち上がったが、間近で争う音がして、再びお里は身を堅くした。  怒声、悲鳴、呻き声……。踏み荒らす足音。物が壊れる音。その間をばしゃっと、水を撒く音が幾度も繰り返される。この部屋だけ無事なのが、不思議なくらいだった。  と、その時―。  ばたんっと一際大きな音が響き渡った。"新撰組や。"とうとうこの部屋まで入って来たのかと、お里はじっと隅でうずくまった。  だが、いつまで経っても人の気配はしない。恐る恐る目を開けた。  部屋の中は、何一つ変わってはいなかった。"な、何やったのやろ……。"ただ、今さっきとは打って変わって、静けさが夜の闇と共に広がっていた。  「吉田様……。」小さな声で呼びながら、一・二歩踏み出すと、何かがお里の額に落ちてきた。  「きゃっ。」驚き飛びのいた足元に、深紅の凌霄花の花が転がっている。  「……。」不思議に思い、花に手を伸ばしたその時、今度は背中に当たった。  「一体……何やら分からへん……。」つぶやくと何気なく天井を見上げた。  「そっ。そんな、あほなっ。」天井の板に、幾つもの凌霄花の花が咲いている。葉もなければ蔓も茎もない。ただ花だけが天井板から吊り下がっている。板から莟が生まれ、見る見るうちに大きくなってゆく。  「こ、これは、血ィや……。」しばし呆けた様に天井を見上げていたお里は、途端に落ちてくる花が恐ろしくなり、部屋の外へ出ようと襖を開けた。  「ヒイィーッ。」廊下はびっしりと、深紅の凌霄花で埋め尽くされていた。"血や。この花はみんな血や……血の海になってしもうたんや。"それでも吉田の安否が気にかかる。お里は決心して足を踏み入れた。ぶちぶちっと花を踏む度に、気持ち悪さが這い上がってくる。歩く度に、少しづつ紅く染まってゆく自分の足。そして妙な温もりを持つその花は、前に進めば進むほど雨の様に絶え間なく降り注いでいた。  泣きながら、それでも何とか表口にたどり着いた。  するとそこには、階段の手摺にまるで大蛇の様な太い蔓を絡み付けた凌霄花が、至る所に蔓を伸ばし、隙間の無いほど咲き乱れ、ぼたっ、ぼたっと音をたてて深紅の花を降らせていた。  「いやあーっ。」悲鳴と共に、お里はその場で崩れ落ちた……・。  はっと、目が覚めた。自分が何処にいるのか確かめる様に辺りを見渡すと、間違い無く自分の部屋だと判った。"夢……。"恐る恐る天井を見上げると、いつもと変わらない板目が浮んでいた。  それにしても嫌な、怖い夢やったと、びっしょりと汗をかいている自分に改めて驚いた。ふと気になって窓から庭を覗き見た。凌霄花が、丁度お里から見える目の前に一輪、花を開いていた。  お里は急いで着物を着替えると、誰にも何も言わず池田屋へと向かった。陽は高く酷い暑さの中、祇園祭の人込みを掻き分けながら、行ってどうなる訳でも無いと判っていても、収まらない気持ちがあった。そして、一縷の望みを……。すでに吉田は江戸へ発っているとの思いを、捨て切れなかった。  だが、池田屋には役人や新撰組がいて、近づく事は出来なかった。流れる汗を拭こうともせず、お里は物珍しげに集まってきた人込みに紛れ、立ち尽くしていた。  遠目に見ても、池田屋の凄惨さは良く判った。外の壁にも血は飛び散り、どす黒いしみを作り出していた。二階の小窓は全て壊れていた。瓦も落ちて割れているのが多い。そして血の臭いが、一面に立ち込めていた。  「中には削ぎ落とされた頭の皮や、切れて落ちた指がぎょうさんあるそうや。この暑さで腐り始めているのと違うか。ひどい臭いやな。」誰かの話し声が聞こえる。  お里はあまりの悪臭に袖で鼻を覆ったが、堪らずしゃがみ込んで吐き気を耐えた。  「娘、ここは邪魔だ。早く家へ帰りなさい。」突然声がしたかと思うと、半ば放心していたお里はぐいっと引っ張り上げられ、追い払われた。声の主は新撰組隊士だった。浅葱色の隊服に、初めて激しい憎悪を覚えた。  あの日から今日まで、幾度か池田屋の話しを耳にする事があった。当日集まっていたのは、志士達の中でも、危険な思想を持つ者が多かったらしい。そして吉田の最後は、自刃したとも斬られたとも、人によって違っていた。きっとこのまま、本当の事は判らないだろう。そんな気がしていた。  素足で庭に降りると、お里は凌霄花の前で立ち止まった。足元には夥しい数の花が散り落ちている。あの夢を思い出しながらも、その中の一つに手を伸ばした。  「うち、この花は好かん。これは、毒のある花やし実も付かないて聞いてます……。吉田様が好きや言わはるのに、そんな花やなんて……言えまへんどした。」涙を溢れさせながら、お里は言った。  夏の日差しに輝いて咲く、確かに美しい花ではあるが有毒で、かずら故に己だけで一本の木には決してなれず、ましてや実を結ぶ事の無いこの花に、吉田は魅せられていた。自分の運命に似たものを感じ取っていたのなら……あまりにも哀しすぎる。手にしていた花をそっと元に戻すと、お里は自然と合掌した。  相手の想いに応える気持ちが生じたら、それを恋と呼ぶのだろうか。自分と吉田は恋仲だったと言うのだろうか……。そしてあの夢は……・。"遠く離れていても、私はお里の事を想っている。"吉田は、最後の別れに来てくれたのだろうか。やさしく響く声が甦る。  「吉田様の考えてはった日本国に、なるとええどすなぁ……。」つぶやくと一輪、花が揺れた。