(一)
 
たしかに昨日は飲みすぎました。僕にしては本当にめずらしく、ここ数年来ないほどに大量の酒を昨日は飲んでしまいました。何よりも、その原因は想い続けてきた女性が実は結婚していたということでした。正直なことを言えば、僕はその女性と話したことすらありませんでした。名前さえわからない、毎朝駅で見かけるだけの女性でした。それでも僕は、本当に心からその女性に想いを寄せていました。しかし、落ち着いて、冷静になってみると一体彼女のどこが好きなのか僕にはまったくわからないのです。当然のことでした。話したこともないのですから。
 思えば、そのうんざりするほどのメランコリイが昨夜さらに僕に酒を飲ませた一因なのかもしれません。そして確かあれは三軒目、こっそり定期入れに入れておいた彼女の写真を散々に破ったあの居酒屋のあたりで、僕の記憶はなくなっているような気がするのです。問題はそこなのです。どうやってこの部屋に帰ってきたのか。一人で帰ってきたのか、それとも誰かが送ってくれたのか、いずれにせよそれは何時だったのか、どう思い出してみてもまるで見当もつかないのです。
 そんなことは生まれて初めてでした。全く記憶がなくなるなどというそんな大それたことは。よくそういった、酔って記憶がなくなるなんていう話は確かに僕だって耳にします。それでもそう話す人たちはなんかしら断片的な記憶を残しているものでした。僕にはそれすら、全くないのです。まさか、そんなことが僕の身に起ころうなんて考えも及ばないことでした。臆病で気の小さいこの僕が記憶を?まさか。僕にとっては一晩だけ殺されてしまったかのような、衝撃的な出来事です。
 しかし、すべては現実です。
 この見慣れた天井のシミや、煤けた壁、穴の開いた襖や日焼けした畳、読みかけのまま山積みにされた本、黴臭い匂いが落ちない流し台など、目に入るものは全て僕が住んでいる、六畳一間のアパートの部屋に他ありません。ただ一つ、一つだけ見慣れないものもあるにはあるのです。それこそが、問題の本質といってもいいものでした。
 それは、カニでした。カニといっても、蟹と呼ぶには大きすぎるような、かといって蟹以外の何か名前を付けるには小さすぎるような、まさにカニでした。そのカニが、僕の目の前に体を丸めるようにしてじっとうずくまっているのです。大きさはおよそ一メートルちょっとといったところでしょうか。体一面が薄ら青く、うっすらと硬い毛で覆われていました。まだ朝の薄暗い光りに輝くそれは、僕になぜだか女性の不精髭を思わせます。僕は、恐る恐る手を伸ばしてみました。もしかしたら死んでいるのかもしれません。そうでなければ、酔った勢いで持ってきてしまった作り物かもしれません。いずれにせよ、僕はそれが動くだろうなんて考えてもみませんでした。しかし、その考えはあまりにも浅はかでした。
 僕が手を伸ばしカニに触れようとした瞬間、カニはゆっくりと翼を広げるように両のハサミを広げはじめました。そして伸び上がるようにして体を起こしたために、幾筋にも盛り上がったカニの白い腹部が僕の目に入りました。カニは僕と向かい合うようにして立ち、それからあの蟹独特の両のハサミを上に掲げるようなポーズをしてみせました。しばらく僕とカニは、互いを観察し合っていました。カニはまた、そのままの格好で死んでしまったかのように微動だにしません。僕はいまいちど、カニに触ってやろうと思い手を伸ばしたその時です。
「さっきから気安く触ろうとするんじゃねぇよ」不機嫌な響きの声が、僕を襲いました。たしかにそう僕は聞きとりました。おそらく声の主は、このカニです。そう思う理由は、あまりにも単純な根拠によるものでした。それは僕以外ほかに、誰もこの部屋にはいなかったからです。この状況から考えても、目の前のカニ以外には考えられません。そうわかっていながら、僕はうかつでした。少し考えればわかりそうな言ってはいけない事を、ついうっかり口にしてしまったのです。
「まさか……カニがねぇ」おそらく不機嫌な感情を顕にして口にするほどのカニですから、カニが喋って何が悪いとかなんとか言い出しかねません。
「何だ、カニが喋っちゃいけねぇのか。あ、おい、どうなんだよ。なんか問題でもあんのかよ、カニが喋っちゃあ。ただおとなしく横歩きでもしてろとでも言いてえのか」
「あ、いや、別にそんなつもりじゃないんですけど……」やっぱり僕の予想通りでした。元来そうなのか、寝覚めの悪さも手伝って不機嫌なのか、ひどくひねくれたカニのようです。
「ちっ」カニは納得がいかないといいたげに、舌を鳴らしました。舌があるのかわかりませんが、とにかくカニの不機嫌さだけは、伝わってきます。
「お前さあ、あれ知ってる?」その言葉を聞いて、僕は腹が立ちました。いくらカニとはいえ、まだ初対面です。初対面の相手にお前呼ばわりされる覚えはありません。頭ではじゅうぶんわかっていました。ここではっきり言わなければいけないんだということは。
「あの……ねぇ、その、そんな聞き方ってないんじゃないのかなぁ」
「そんな?ってどんな?」
「えっ?それは、あの……僕とあなたはいま、たったいま会ったばかりですよね」
「そうだな」
「つまり、お互い何も知らない、はっきり言ってしまえば他人ということでしょう
「そういうことになるな」
「ということは……ちょっとは察しがつきません?」
「なにが?」
「いや、だから僕らは初対面なわけじゃないですか」
「しつこいな、そうだと返事しているだろう」
「はぁ」
「結局お前は何が言いたいんだ。うじうじしてないでさっさと言えばいいじゃないか」
「そんな大きな声をださないでくださいよ」僕は、またお前と呼ばれていることよりもアパート中に響きわたるほどの大きな声のほうに困惑していました。カニの背にある薄い壁の向こうは大家の部屋です。
 隣に住む大家というのは、ここら辺では有名な神経質な性格の持ち主なのです。それもアパートの住人にはとくに厳しく、果てはゴミの出し方にまでうるさく口出しする始末なのです。しかし、だからといって決して嫌味でやっているわけではないようです。聞くところによると、なんでも十年程前に御主人を亡くされて、それ以来一人でこの御主人の残されたアパートを見守ってきたということでした。子供もなく、親戚の付き合いも少ないようで、その反動なのかどうかはわかりませんが町内会の役員をやったりして寂しさをまぎわらせているという話も聞いたことがあります。ひとの世話を焼くことで、誰かと関っていたいだけなのかもしれません。そのおせっかいな神経質の大家に、今の声が聞こえてしまったら大変です。あの大家のことです。いくら朝が早いとはいえ聞こえてなかったということはないでしょう。聞こえていたとすれば、あとで何を言われるかわったものではありません。
「どうしたんだ」カニは僕を窺うように見ながら言いました。「そんなに大きいという程の声でもないんじゃないか」その言葉には、そんな事言うほうがおかしいという気持ちが込められているようにも思えます。
「ご、ごめんなさい。別に僕は構わないんです。ただ、ここはいろんな人が住んでいて、中には人の声とかに敏感な人もいるから…」
「うるさいのであれば、うるさいと言ってくるんじゃないか」
「でもその前に、自分から気をつけたほうが……」
「もしかしたらうるさくないのかもしれないぞ」
「そうかもしれないけど、やっぱり人の気持ちも考えないとよくないんじゃないですかねぇ」
「それはそうだ。当たり前じゃないか。俺が考えていないというのか」
「いや、そんなこと言ってるんじゃなくここの大家はうるさいんですよ、そういう物音やらテレビの音とかに。それに住人が部屋に誰かを連れてくるのを嫌がるんです」
「そんなこと、大家だろうとなんだろうと関係ないじゃないか」
「そりゃあ、まあ関係ないんですけど、どういう付き合いなのか、とかいちいちしつこいんですよ」
「どういう付き合い?俺とお前は……」
「あ、それから、ペットにはとくに厳しいんです。臭いだとか、うるさいだとか建物が早く傷むとか言って」
「……」カニは黙ってしまいました。僕はなぜカニが黙ったかなんて考えてもみませんでした。何も考えず、カニが黙ったのをいいことに、僕は思う存分に話し始めました。
 わき出るように、言葉が自然と口から流れだします。僕は話しながらもカニのことを観察していました。先程よりも明るさが増したためか、さらに白くなった腹とますます青く感じられる甲羅に僕は見入っていました。
「この間なんか、それで一人追い出されちゃったんですから。もう有無も言わさず、出ていってくれ、しか言わなかったんですから、その大家は」
「俺は蟹だ」不意にカニは言いました。それは、それまで僕が話していたこととは全く別の、カニの感情があふれ出た言葉のようでした。
「はあ?」
「俺は蟹だ、ペットなんかじゃない」
「それはペットじゃないかもしれないけど、人間じゃないじゃないですか?」
「もちろんそうだ。人間じゃないし、ペットでもない。俺は蟹だ」
「それはわかるけど、知らない人は人間じゃなきゃペットだと思うでじゃないですか」
「だから何だ」
「何だって言ったってあなたは人間じゃないんだから、人間の世界じゃ……」
「人間人間と、まるで人間でなければ生きものではない、生きる価値もないとでも言わんばかりの勢いだな」
「べつに、そんなつもりじゃありませんよ」
「飼うなら食え、ということか。やはり人間などどいつもこいつも一緒なんだな」
「ずいぶんと、話が飛びますね。僕はこれっぽっちもそんなこと言ってやしないじゃないですか。だいいち、僕はただペットについて話しているだけだっていうのに」
「しかし、おそらくその話の延長には、蟹は食うものだということにつながるだろう。なにもはじめて会った人間がお前だというわけじゃないんだ。お前にとっては初めてかもしれないけどな」
「僕はただ、騒音の話題からペットのことを話そうとしただけで、何もカニを食うとかそんなこと」
「じゃあ、蟹は食わないのか」
「それは、食べるけど……」
「それでは同じことだ」
 明らかに話はそれていました。しかし話を元に戻すのも、何だか僕はその話から逃げているような気がしたのです。話を戻すのは、この話を納得できるように終えてからでもよいのではないかという気もしていました。
「誰もあなたを食べようだなんて、そんな誤解です」
「俺が今まで見てきた人間はみんなではなかったがよくそう言っていた。俺はなにも、蟹を食うなと言っているんじゃないんだ。それをなぜ中途半端に隠そうとするんだ。なぜ嘘がわかりやすいように隠すんだ。どうして嘘の理屈でもって隠すんだ」
 僕はカニが何を言っているのかわかりませんでした。カニは自分たちだけが食べられてしまうという被害者意識のようなものから、そんな事を言いだしているのだろうと、僕は考えていました。
「お前、俺をさわろうとしたとき《うまそうだ、くいてぇ》って思っただろう」カニはそのことについて、必ずそうだという確信のようなものを持ち合わせているかのように言いました。それはひどく僕に対して侮蔑的な言い方のように取れましたが、本当に侮蔑されているのはカニ自身のほうだったかも知れません。
「そんなこと、ぜんぜん」
 僕は反射的に、力強くそう言いました。しかし、本当は違いました。あの大きくて立派なハサミを見たとき、僕はあの岩のように青い殻の向こうにあるであろう、白く瑞々しい蟹肉のことをどこかでチラチラと思い描いていたのです。
「やっぱりそうか。いまの返事。思ったとおり何のためらいもない返事だったな。お前にはそれがどういうことかわかるか。お前は今嘘をついた。お前は、俺を食いたいと思った負い目から、反射的に早い返事をしたんだ。きっぱり違うと言い切れば、相手には心からの否定だと伝わると思っているんだ。肯定も否定もしなくていい。俺にはわかるんだ。言っただろう。人間を見るのはお前が初めてじゃないんだ。それに、もとから俺はそれを責めるつもりはない」そう言いながらも興奮しているのか、カニの声はだんだんと大きくなっていきました。
 その時突然、目覚まし時計のけたたましい音があたりに鳴り響きました。時計の針は、朝の六時をさしています。僕は時計に手を伸ばし、ベルを止めました。カニは何事かと、こちらの様子を見守っているようです。僕はそんなカニを尻目に、話が途中だったことを少しだけ悔やみながら言いました。
「悪いけど、もう会社に行く支度を始めないといけないんですけど」
「そうか、これから仕事があるのか。では、俺はこのまま今日一日ここで休ませてもらおうか」カニはごく当たり前のように言いました。
「え、ここに?どうして?」
「どうして?だと。俺は他に行くところがないんだ。幸いにもここにはお前以外に誰もいないようだし、いいじゃないか。しばらく用が済むまでここにやっかいになりたいんだが」そこまで言うと、カニは思いついたかのように慌ててつけたしました。「ああ、そうだ。さっきの話だってまだ途中だったじゃないか。まあ、別にいいんだけどな」カニはそう言い終わると、落ち着いたのか深く息を吐きました。不思議なのか、当たり前なのか、その時心なしか部屋の中に海の匂いが広がったように思われました。
 僕はそう言われてしまうと、それ以上口にすることは気が引けました。なぜなら、途中だった話というのは、僕が彼に食欲をわかしたという話だったからです。ここで無理に追い払って、食えないとなると追い払うのか、などと言われてしまうことを想像すると、それが辛くもあり、またそういった不慣れな争いが恐くもあったからでした。
「わかった、わかりましたよ」怯えを悟らせないために、僕はしぶしぶ言いました。そう言うことで僕の不機嫌さを悟らせようと思っていました。「その代わり約束してくださいよ」
「ああ、いいだろう。守れるものなら何でも守ろう」
「まず一つ。外には絶対に出ないこと。それから、大きな物音をたてないこと。ここには僕しか住んでいないことになってるんですから。昼間は誰もいないことになってるんです。だから、誰かいるとわかると大家がこっそり見にきたり、耳を澄ましたりして気を引きかねないですからね」
「じゃあ俺は、この部屋で身動きもせずにじっとしていろというんだな」
「そんな極端なとり方をしなくても」
「窓は開けていいか」
「そりゃあ換気用の小窓なら」
「そうか、まあそれでもいいか」
「どうしてです?」
「ここは息苦しそうだからなぁ」
「それだけ?」
「他にも理由が必要か?」
「いや、そんなことないですけど。何となくそれだけじゃないような気がしたものだから」
 僕はさっきから、とても時間が気になっていました。今朝はちょうど運悪く会社の朝礼の日に当たっていて、僕はどうしても遅刻はしたくなかったのです。別に僕が時間に厳しい性格だとか、そういうわけではありません。それには別の理由がありました。
 僕の会社は、およそ二十人くらいの小さなねじ工場なのでどうしても遅刻はすぐに見つかります。そして、困ったことに遅刻した人は次の朝礼の時に、皆の前で反省分を読まないといけないというしきたりがあるのです。その時皆の前に立って、もうこれから遅刻はしませんなどといい大人が誓いを立てることだけが嫌なのではなく、若い女性の事務員たちからその様子をからかい笑われるこも、僕が遅刻したくない理由なのです。僕はまた時計を見て、それからチラリとカニを見ました。
 カニは僕の様子に気づいていないのか、ゆっくりと話しはじめました。そんなカニの姿が、僕をさらに焦らせます。
「俺がなぜここへ来たのか、まだ話していなかったな。本当のことを言うと、ここへは間違えて、迷い込んでしまったんだ」
「だったら、本当に行きたかった所にいけばいいじゃないですか」
「そう簡単に言うなよ。実は、その正確な場所も俺にはわからないんだ」
「どういうことなんです?」
「それは……つまり、俺はある場所に行きたいんじゃなくて、あるものを探してるんだ。それはな、カオルっていうんだ」
「誰か、知り合いですか?」
「知り合いというか、顔は知らないんだがその、嗅ぎ分けることができるというか」
「それで、手掛かりは何にもないんですか」
「まあ、そういうことになるんだ。勝手なことばかり言って何だが、このことについてはもうこれくらいで勘弁してくれないか。」カニはそう言って、僕の焦っている気持ちをよそに、さっきとはうってかわって困惑した態度をとりました。
「だから窓のことを」
「そうなんだ。匂いでわかるんだ」そして申し分けなさそうにカニは言いました。「カオルのことはいつか話す。だからいまは聞かないでくれ。すまない」
「いいんです、別に。誰にでも知られたくないことはあるんじゃないかな」そう言うと僕は、少しいい事をしたような気分になっていました。いままでのことはよくよく考えてみると、僕にとってはとんだ迷惑な話にすぎないのですが、その良い事をしたような気分のおかげなのか、僕の中にあったカニに対する違和感は少しなくなったような気がしていました。
「お、仕事じゃなかったのか。さあ、はやく。急がないと」
「いけない。もう急がなくちゃ」
 そして僕は、早々に支度を済ませると、カニを部屋に残して会社へと向かいました。その途中に無数の人込みを見ながら、僕の部屋にはカニがいる、そう思うと何か僕だけが特別な何者かになったような得意気な気がするのでした。

                (二)

 工場のなかは、いつものように油と鉄と汗の匂いの混じった重たい空気が澱んでいました。その匂いが僕の生活の匂いである、そう言い切ってしまえるほどにそれは、僕にとっては嗅ぎ慣れた匂いでした。
 僕は特別この匂いが嫌いというわけではありませんでした。湿気の多い梅雨時の朝などはさすがに耐えがたいものがありましたが、空気の乾いた冬の朝などには、妙にこの匂いが快く思えたりするものでした。ただ、カニはこの匂いを嫌っているようでした。部屋に居座るようになって一月近く経ったいまでも、僕が帰るなり服や体についているであろうその匂いはなんとかならないのかと言いだす始末でした。カニですからしかたのないことなのかもしれません。もっとも、なぜしかたのないことなんだと言われてしまうと、その問いに十分に応えられる答えを持ち合わせているわけではないのですけれども。
 今日もまた、工場が活動をはじめました。いたる所にある機械が、轟音とともに一斉に動き始め、工場は横たわった大きな生き物のようです。僕も、いつものように決められた場所へと向かいます。その時の僕はいつも、おかしいくらいに従順で、おとなしい羊のようでした。
 工場での僕の仕事は、ベルトを流れてくるネジの検査でした。毎日、朝から晩まで何万本というテイパアネジを見つめて、ごく稀にある出荷できないものを取り除いていくのです。いくら機械が作っているとはいっても、ネジにはみんな違った顔があります。頭の形が歪んだものや、溝の幅が一定でないもの。中には、嘘のように綺麗にできたネジもあります。そんな時は、つい自分の物にしたくもなるのです。しかしすぐにその興奮は冷めます。そしていつも、そんなことに衝動を覚える自分に物悲しさを感じるのです。
 工場のなかで、僕はいつも一人でした。これといった話し相手もなく、いつも一人で過ごしていました。しかし、一人でいることには慣れていて、これといって苦痛を感じることもありませんでした。むしろたまに話し掛けられたときのほうが、気を使わせていないだろうかと、気兼ねして疲れてしまうくらいでした。だから僕は、人を避けるように行動していました。人から変な目で見られても構わないと思っているわけではありません。ただ、人に接しなければどう思われているかなんてことすらわからない、と僕は考えるのです。
 僕は流れるネジを眺めながら、よく物思いに耽ります。この仕事はまさに僕の為にあるようなものじゃないかと考えたりもします。僕は、毎日同じ事をすることに何ら失望感やら絶望感を見出だすことはありませんでした。たまに、それらを感じてなのか辞めていくような人がいたとしても、それで僕が何か触発されるようなことはありませんでした。それは、毎日食べることや寝ることに疑問を抱かないのと同じくらい、どうでもいいことだったのです。
 そして、一日の終わりを告げるサイレンが鳴り響きます。工場はまた眠ったように静かになり、僕らはその横たわった体から排出されてゆくのです。
 家に帰ると、いつものようにカニが待っていました。
「よお、いつもとまったく同じ時間だな。一分の狂いもない」
「ただいま。今日も匂いはしませんでしたか」匂いというのはあのカオルのことです。
「ああ、残念だが今日も駄目だ」カニは別に不満そうでもなく、そう言いました。「お前のほうはどうだった。どうもこうもないか。今日もまたネジを見つづけてたんだろう。
「ええ、それが仕事ですからね」
「お前は変わってるな。俺が今まで見てきた人間は、ほとんど仕事を嫌ってた。中には好きだという奴もいたが、それでもなんかしら、愚痴ってたもんだ。本当に好きだという奴もいたが、そいつは見ててこっちが吐き気がするほどに働いていた。当然そいつは喜んで、楽しんでいたけどな。お前はその仕事が好きでもないんだろう。嫌いでもないと言うし。やりがいのないものは仕事じゃない、なんて言う奴もいたし、仕事は金だ、とか言うのもいた。割り切って働いているのもいたが、そういう奴は仕事以外にも何か夢中になれるものを持っていた。つまりはみんなどこかでピンと突っ張ったものを持ってるんだよ。お前にはそれがないんだろう。俺は初めて見たよ」
「僕にはこのなにもない生活があってるんです。そんな事考えたことないけど、やりがいだとか欲だとかって、僕には興味も湧かないんです」
「別にそれがいけないってわけじゃないぞ。俺にだってやりがいなんてものはないんだし」
「あなたにはあるじゃないですか。カオルとか言う人を探しているんでしょう」
「あれはやりがいとはちょっと違う話でな。その……、まあいいじゃないか」
 僕はカニと出会ってから、少しづつ考えかたが変わっていくような気がしていました。少し前の僕なら、やりがいだのなんだのと、考えることはまずありませんでした。カニはよく、僕を以前にカニが会った人間たちと比べたりします。カニは、人間というものはこういうものだという枠のようなものを持っていて、その枠にどうやら僕ははみ出てしまうらしいのです。特にこの、無気力な無欲さがカニにはことさら珍しいようでした。カニはそんな僕を見て、毎日のように同じ言葉を繰り返します。やりたいことはないのか。欲はないのか。
 毎日言われれば僕だって少しは気になります。しかし、カニは僕のそういう変化を望んでいるわけではありませんでした。どちらかというと、カニは僕が変化しないことを確認するために同じようなことを繰り返して聞いているようでした。
「そういえば、今日は大変だったんだ。昼間にまたあれが出てな」
「ゴキブリのことですか」カニは、男っぽい性格のわりには、ゴキブリが大の苦手でした。
「そう、それだ」そしてカニは、憎々しい情感を込めて続けました。「あいつがそこをカサカサっと走ってな。俺はちょうどうとうとしていたもんだから、思わず飛び上がっちまったんだ。そしたら、黒い野郎は何を勘違いしたか、俺のほうに向かって飛びやがったんだ。こうやって、ブーンとな」そう言ってカニは、ハサミのさきっぽでもって、ゴキブリが飛んだ軌跡を描きました。
「それが大変なことだったんですか」
「いや、まだ続きがあるんだ」そしてカニは続けました。「黒いのだったらそう珍しい事でもないだろう。何かしらんがここはよく出るからな。別になれたわけじゃないけど、そう取り立てて騒ぐほどでもない。そのあとが大変だったんだ」
「何がです」
「俺が飛び上がったり、追い回したりする物音を大家に聞こえちまったらしいんだ」
「それで」僕はいやな予感がしていました。あのうるさい大家のことです。そんな大きな物音を黙って見過ごす筈がありません。
「大家が来たんだよ」
「じゃあ、姿を見られたんですか?」
「いや、ドアを開けはしなかったんだ。ただ、しばらく戸を叩いていたな。お前の名前を叫びながら。あの勢いなら、てっきり開けちまうかと思ったよ」
「で?」
「でって、まあその後はじっとしてたからな、お前の言う通り」
「そうですよ。僕以外には誰もいないことになってるんですから」
「しかし、あの勢いじゃあ心配でそろそろ来るんじゃないか。お前が戻ってくる頃かと思って」
「よしてくださいよ。そんなこと言うのは」
 ドンドンと誰かが玄関の扉を叩く音がしました。嘘みたいな話ですが、もしかしたら噂話が大家を呼んだのかもしれません。僕は体をこわばらせ、カニを見つめました。カニはやけに堂々としていて、むしろやっと来たかと言わんばかりの落ち着いた態度でした。
「どうしよう」ぼくはすがるような思いでカニに聞きました。
「どうするも、なるようにしかならないだろう。まあ、そうびくびくするな」そう言うとカニは、何ら取り乱した様子も見せずに続けました。「なに、俺は置物ってことにしておけばいいんだ。これだけの大きさなんだ。立派なもんだろう。昼間の物音のことを聞かれたら、その置物が倒れて転がったたとでも言っておけばいいじゃないか。なんなら俺はここに倒れておこうか。いや、こっちのほうが見えやすいか」
 もう一度、ドアを叩く音がしました。今度は、ドアの外で何やらわめいているようでした。ぼくはまたカニを見つめて、耳を澄ませました。
「ねぇちょっと、いないの。Y新聞だけど」それはしつこくて、うんざりしていた新聞の勧誘でした。
「なんだ、大家じゃねぇみてぇだな」カニも実は少しほっとしたのか、大きな声でそう言いました。
「いるんでしょ。ねぇ、わかってんだから」
「おい、誰なんだ。あれ」カニは、黙ったままやり過ごしたい僕を尻目に、そう言いました。
「新聞屋ですよ。しつこいんです、いつも。契約するまでああなんですよ。本当はM新聞とか取りたいんだけど、あんなのはよくないとか言って聞かないんですよ。Y新聞さえ読んでれば他の新聞も読んだようなもんだ、とか言っちゃってね」
「断ればいいじゃないか」
「それがなかなか難しいんですよ」
「なんで」
「なんでって、いらないって言えば、じゃあどうすれば取るんだとか、何が欲しいんだとか、その……とにかく帰ってくれないんですよ」
「そんなもの、帰らせればいいじゃないか」
「そんなに簡単に言いますけど、なかなかそう簡単にいかないんですよ」
 ドアを叩く音はまだ続いていました。僕はその音が、大家に聞こえてうるさがられるのではないかと思うと、それも心配になっていました。
「おい、でないのか」
「ええ、このままいないことにしておけばいいんですよ」
 新聞屋は、ドアを叩くだけで飽き足らず、今度はガチャガチャと、ドアノブを廻しはじめました。
「本当はいるんじゃないの」あきらかに居留守であると決め付けているようでした。
「おい」カニは、僕を促すようにそう言いました。
「ほおっておけばいいんですよ」
「よし」カニは、もう僕のほうも見ずにそう言いました。「俺が出てやる。俺がきっぱりと断ってやる。お前がそんなだからしつこくされるんじゃないのか。はっきりと、いらないものはいらない、そう言い切ってしまえばそれですむはずじゃないか」
 そしてカニは、玄関のほうへと向かいました。
「ちょっ、ちょっと」僕はあわててカニをおさえました。「断ってくれるのは助かるんですけど、姿を見られるのは困るんですよ。新聞屋が他の家に行ったときに、あそこでなんかすごいものを見たとか……」
「大丈夫だ。出るといっても応対に出るだけで戸を開けるつもりはないんだ。見られちゃお前がまずいというのも俺はよくわかっているつもりだ。お前のように物分かりの良い人間ばかりじゃないのも既に承知済みだ」
「ならいいんですけど」そい言って僕は、カニの後ろ姿を見送りました。
 カニは玄関の前に立つと、こう言いました。「何の用かな」すると、ドアノブを廻していた音はぴたっと止んで、ドアの向こうから声が聞こえてきました。
「なんだ。やっぱりいるんじゃない。あの、Y新聞ですけど契約今月まででしょ。またお願いしますよ」
「断る」カニは一言そう答えました。
「えっ」
「だから断ると言っているんだ」
「えっ、そんなちょっと取り敢えず開けてくださいよ」
「それも断る」
「そんな、今まで取ってくれてたじゃない。ねぇ、洗剤持ってきたから。今日はタオルもつけちゃうからさ。ねぇ、頼みますよ旦那さん」
「いいからもう帰ってくれ。取らないと言っているだろう」
「旦那さん今日はどうしちゃったの。いつもと雰囲気違うよ。欲しいのあるなら何でも言ってよ」
 カニは何も言わず黙っていました。
「わかった。M新聞さん来たんでしょう。あそこはほら、いまグループ会社が事件になっちゃったりしてるじゃない。良くないみたいよ、記事のほうも。自分らの言い訳だらけみたいね、どうも。悪いこと言わないからさあ、うちにしときなよ。チケットあげるからさあ。普通は半年とか一年取ってくんないとあげらんないんだけどさあ、旦那さん長いから特別あげちゃうよ。だからさあ、ちょっと開けてよ頼むから。顔見て話そうよ」
 それでもカニは、黙っていました。その沈黙が、新聞屋に威圧感を与えているようでした。「どうしたの。ちょっと、旦那さん」
 それでもカニは黙っていました。言葉をなくして黙っているのではなく、主張するように口を閉じているカニを、僕は頼もしく感じていました。
「ちぇっ、わかったよ。じゃあ、また来るから」吐き捨てるようにそう言うと、新聞屋は部屋の前から離れていきました。僕はなぜだかその足音を長いこと聞いていたように思うのです。そしてその長い足音が聞こえなくなったとき、僕の体中に一気に安堵感が溢れてくるのを感じるのでした。ぼくは静かにその喜びを噛み締めていました。しかし、それと同時に僕は自分を恥ずかしくも思っていました。それは、今感じている喜びはカニがもたらしたということにたいしてでした。胸を張って人に紹介できないと思っていたカニに助けられたということが、僕を少し憂欝にさせました。
 カニは何事もなかったかのように、別にいつもと変わらない様子で戻ってきました。おそらくカニにとっては助けてやったという気持ちもなく、新聞屋に対しての行いは何も特別ではなかったのかもしれません。僕はただ、うつむいていました。僕はカニに対して感謝の気持ちでいっぱいでしたが、素直にその気持ちを言葉にすることはできないでいました。僕はうつむいたまま、何気なく切り出すことのできる言葉を探していました。カニもそんな僕を見て何かを察している様子でした。気まずいという思いは隠そうとするほどに顕になっていくものかもしれません。カニも何を言っていいのかわからないように見えました。僕は話題をそらすために部屋中を眺め回し、頭の中はその事で一杯で話題をそらせないことを改めて確認してしまいました。
「海老って美味いよな」唐突にカニが言いました。なぜそんな事を言いだしたのかわかりかねましたが、もしかしたらやはり、カニも話題をそらしたい僕の気持ちを察したのかもしれませんでした。
「う、うん。そうですね、美味しいですね」
「あのプリプリした感じが堪らないよな」
「そうですね」
「ちょっと甘いところとか」
「そうですね」僕はその時、カニと海老の美味しさについて話すことに何ら違和感を感じませんでした。それは、この話題が心から思えて出た話題ではないからかもしれませんでした。
「なあ」カニは言いました。「俺は本当は海老なんか食ったことないんだ。本当に甘いのか」そう言うと、カニは泡を吹きながら笑いだしました。泡は時折シャボンのように飛んで、すぐにはじけました。そして、その泡が飛んで僕の頬にくっつくとなぜだか僕もおかしくなって一緒に笑いだしました。
 その時、またドアを叩く音がしました。今度のそれは、叩くというよりノックしているような、静かな響きの音でした。
「戻ってきたのかな」カニは言いました。「今度はお前が出てみるか。さっき俺がやったように、たくさん喋らないのがコツだな。気の小さい奴はつい余計なことを口にしちまうからな。どうせ見えないんだ。なんか言いそうになったら手で口を覆ってみるくらいの気持ちで行ってこい」
「そうか。喋らないんですね。わかりました。たしかにそう言われてみると、僕はつい余計なことを言って相手に突っ込まれる要素を作っていたような気がします」
「そうだ。黙っていればたいがいの奴はそのうち言うこともなくなるもんなんだ」
 僕は大きくうなずいて、玄関の前に立ちました。もう一度、扉を叩く音が響きました。やはり弱く、先程とはうって変わって、力なげな音でした。僕は気持ちを落ち着かせるために大きく息を吸い、そして吐きました。
「もしもし。大家ですけど」明らかにそれは、大家の声でした。僕は反射的に身を反らし、後ろにさがりました。そしてカニのほうへ向き直りました。カニも意表をつかれたのか、動揺していたようですが、すぐに気を取り直すと何やら僕に目で合図をして、固まって置物のように動かなくなりました。
 動かなくなったカニを見届けてから僕は、返事をしました。鍵を開け、扉を必要なぶん少しだけひらくと、大家は今にも押し入ってきそうな勢いで、その隙間から僕を見つめるのでした。しかし、視線はすぐに僕のもとを離れ探るように部屋の中へと移っていくのが僕にはわかりました。
「ちょっと。なんかあったの」大家は、僕のことは見ずに部屋を見つめて言いました。
「いえ、何も」そう言って僕は、大家の視線を遮るように体をずらしました。
「いまそこで会ったのよ。Y新聞さんに。そしたらあなた、断ったって言うじゃない。ほんとびっくりしちゃったわよ。ちゃんとはっきり言えるんじゃない」
「はあ、まあ……」
「なんて、本当は誰かに断ってもらったんでしょう。Y新聞さんも言ってたわよ。同じ人とは思えなかった、だって。ねえ、本当は誰か他の人が断ったのよねえ」
「いや、そんなことないですよ」
「うそおっしゃい。本当は誰かいるんでしょう。この間も、あなたが誰かと話しているのを聞いたわよ。それに何だか、あれも、ゴミの量も増えたみたいだし。いいのよ、隠さないで。そんなもう一人ぶん家賃取ろうなんて思ってるわけじゃないの。ただね、一回もお姿拝見したことがないからね、もちろんいるとしたらよ。……心配なのよ」
 僕は黙っていました。何もこの期に及んで、カニの言い付けを守ったわけではありませんでした。おそらくこの大家は、カニのことを理解できないだろう、カニを見たらとてもわかり合おうなどと考えることもないだろう。そう思うと、とてもカニのことは口にできないと思ったのです。何も言わず黙った理由はまだ他にあります。それは、大家が何かいる(人間の誰か)と勘づいているからでした。大家のことですから、もう既に他の近所の人たちにも話していることでしょう。おそらく軽はずみに何か言えば、また隙を突かれて彼らの好奇心を煽ることになりかねません。僕は不意に、無意識にカニとの関係がいつまでも続くだろうと思い込んでいた自分に気がつきました。僕は急に、それまで以上にカニをいとおしく感じていました。そのためにも僕は、いまここできっぱりと何もいないと口にしなくてはいけないのです。僕はうっすらと湿った手の平をズボンに擦り付けました。時折首を振ったり体を左右に動かしたりしながら大家はまだ、僕の部屋を探っているようでした。僕は唾を飲み、乾いた喉を唾液で潤しました。喉仏がいつもよりおおきく動き唾液が喉を通る音が、辺りに響いているようにも感じられました。そんな僕を見て大家はうっすらと笑みを浮かべています。目尻や口元に刻まれた幾筋かの深い皺が、僕を不安にさせました。受け入れなければ追い詰める。そう言っているようでした。それは大家ではなく、その皺を刻む笑顔を持つすべての人たちからそう言われているような気がしました。
 それでも僕は言わなければなりませんでした。「ここには、誰も……僕以外には誰も」
「大家さん」大家の後ろから誰かが大家を呼びました。「大変なの。早く来て」それは、大家の友達でやはり家族のいないIという婦人でした。
「どうしたの」
「うちのケンちゃんが」ケンちゃんというのは、Iという婦人が息子のように可愛がっている犬の名前でした。「ケンちゃんが車に引かれて……」
「それで、いまどこにいるの」
「表に……わたしどうしたらいいか……」
「待って、まだ死んだわけじゃないんでしょう」
「そうなんだけど……ちょうどここの前だったから、わたし何も考えないで大家さんのところに来ちゃって……いまドライバ−の人がケンちゃんを車に運びこんでて……病院知ってるかって言うからわからないって言って、それで大家さんならどうかと思って……」
「わかったわ、落ち着いて。病院なら知ってるから安心して」
「お願い一緒に行って。わたし一人じゃ心細いから。お願い」
「わかったわ、じゃ、じゃあ、行きましょう」
 そして大家は、幾度か僕のほうを振り返りながらも、Iさんに連れられて行ってしまいました。僕は、ただ不安が先に延びただけであることはわかっていましたが、体からは安心したのかすっかり力が抜けていました。
「もう行ったのか」気がつくとカニは、側にきていました。
「え、ああ、助かりました」僕は玄関の扉を閉めると、そう言いました。
「なんか、もめてたみたいだったな」
「いや、別にそんなんじゃないんですけど」そう言いながら僕は、カニを見ることはできませんでした。
「俺のことならかまわないんだぞ。俺は蟹なんだ。それをお前たち人間に隠すつもりはない。合えばそれでいいし、合わなければ出ていく。もし、お前に迷惑が掛かるようなら遠慮なく言ってくれ。ここ以外に行き場がないわけじゃないんだ。仮に無くなったらまた探すまでだ。だから俺のことは気にしないでほしい」
 僕はまた黙っていました。本当は、そのカニの言葉に答えて何か口にしたかったのですが、そうするよりは黙っているほうがいいように思えたのです。また何か言って、出来もしないことをと突っ込まれてしまうよりはましだと、僕は考えたからでした。

                   (三)

 テレビの画面には、決して綺麗とは言えないけれども雄大で、力強ささえ感じさせる海が映っていました。カニはじっと、その画面を眺めていました。
 大家が部屋を訪れたあの日から、約二週間が経ちました。あれから何日間かの間、毎日のように大家は訪ねてきましたが、僕はそのつど居留守を使ってきました。もちろんカニも部屋にいましたが、僕が居留守を使うことに何の口出しもしませんでした。あのことがあったからだとは言い切れないのですが、近頃カニの様子がどうも変なのです。海の絵や波の映像、とにかく海に関することにとても敏感になっているようなのです。いまもそうです。話の途中であったにもかかわらず、テレビに海が映し出された瞬間にもうそこに釘づけなのです。
「あの、聞いてます?僕のはなし」
 どうやら、カニの耳には届いていないようです。カニは、画面を見つめたまま動く気配すら見せません。海に郷愁を感じているのかもしれません。僕は、口をつぐんでカニを見つめました。
「ん、なんだ。俺に用か」カニは僕の視線を感じたのか、言いました。「話の途中だったかな。どうした、俺のことをじっと見て。泡でもついてるのか」
「海、懐かしいんですか?」
「懐かしいか、まあそういうんじゃないけどな」
「別に隠さなくったっていいじゃないですか」
「隠してなどないさ」
「あなたがいつまでもここにいるなんて僕だって思っていませんよ。ひょっとして照れてるんですか」
「俺が照れるだって。おかしな奴だ。懐かしくないといっているじゃないか。俺はもともと海から来たんだ。海は故郷みたいなもんだ。それを見て何が悪い。おかしなことを聞くな」
「別に僕は海を見ちゃいけないなんて言ってるわけじゃないんですよ。僕はただ」
「もうやめよう。結局はどっちだっていいことじゃないか。つまり、お前は俺が出ていくんじゃないかと、そう思っているわけだろう。俺は、カオルを見つけるまで帰らないと言っているだろう」
 僕はカオルについて何も知りませんでした。知りたいとは思っていましたが、聞けないでいました。聞くとなるとまた、僕はこうやって間接的に勘繰るように聞いてしまうことでしょう。カニにはそれが気に入らないことも僕にはよくわかっていました。カニはそんな僕を察したのかもしれません。
「カオルのことは」カニは言いました。「そのことはいずれ話そう。これだけ厄介になっているんだ。本当ならいま言わなきゃいけないとこなんだろうが、悪いがそれは出来ない。もう少し待ってくれ」
「べつに」僕は言いました。「聞きたいなんて言ってませんよ。それに厄介になってるだなんて。そんなことを気にしてるのならもう止してください。厄介だなんて思ってませんから」それは本心からの言葉でした。近頃ではカニがいないことを想像することさえ辛くなるときがあるくらいだったのです。
「そうか、すまん」そう言ってカニはすまなそうに下を向きました。そして僕らは、黙ったまましばらくの間を過ごしました。言葉は出ませんでしたが、この何とも言えない気まずい雰囲気を壊さなくてはいけないような思いにとらわれていました。僕は、何の気もなく部屋を眺め廻していました。その時、部屋の隅に置かれた手紙が目に入りました。僕宛ての郵便などほとんどありませんでしたから、それはすぐに目に付きました。僕はそれを拾い上げ、宛先を読みました。万が一カニのかもしれないと思ったのです。しかし、それは僕宛ての手紙でした。
「ああ、忘れていた。しばらく前にきてたんだが、俺がどこかに置いたままにしてしまっていたらしいんだ。それが昨日出てきてな。今度は忘れないようにと思ってそこに置いておいたんだ」
 たしかにカニの言うとおり、その手紙に押されたスタンプの日付は一月ほど前のものでした。僕は手紙を裏返すと差出人の名前を見てみました。そこには、母の名前が書いてあります。僕は封を開け、中の便箋を取り出しました。入っていた手紙は一枚だけで、そこには汚くはありましたが一つ一つ丁寧に書かれた文字が並んでいました。そして、そこにはこう書かれていました。
 なぜかわからないけれど急にお前の顔が見たくなりました。もしかすると、今年は畑も順調だし体の調子も良くて何も心配することがないから突然こんなこと思うのかもしれません。わたしもいつ体が言うことを聞かなくなるかわからないし、そうなるとこの次いつ行けなくなるかわからない。だから行けるうちに、行こうと思った時に行っておこうと思うのです。お前の事情も聞かずに勝手で悪いが、わたしはO月X日頃お前の所を訪れるつもりでいます。迎えはいらないが、部屋くらいは掃除しておいてくれ。               母より
 僕はその日付を見て、愕然としました。それは今日だったのです。僕はまずカニをどうするべきか考えました。おそらく遠い距離を来るのですから、すぐ帰ることはないでしょう。ですから、カニを置物にしておこうということはちょっと無理があります。かといってカニの隠れるスペースもこの部屋にはありません。いきなり追い出すわけにも行かず、僕は頭を悩めました。
「何か書いてあったのか?」カニは言いました。
「僕の母親がここに来るんだそうです」
「そうか。遠くからくるのか」
「ええ。もう何年も会ってないんですよ」
「じゃあ、しばらくいるんだろうな、やっぱり」
「ええ、たぶんそういうことになるんじゃないかと」
 僕には、カニが出ていく覚悟を決めているように見えました。カニは、何か言うと僕が引き止めることを知っていて何も言わないでいるようでした。言葉が詰まりました。カニに出ていって欲しくない気持ちと、母親にカニを引き合わせることの出来ない現実とに、僕はどうしていいかわからなかったのです。
「で、いつ来るんだ」カニは言いました。
「あ」僕は重要なことを忘れていました。「きょう、なんです。手紙には今日来るって書いてあったんです」
「きょう?」
「そうです。何時になるかわからないんですが、おそらく夜までには」僕はただ、素直に答えていました。
「なんで」カニは言いました。「なんでそういうことをもっと早くに言わないんだ」
「なんでって、いま読んだから……」
「息子なら勘づいてもよさそうなもんだろ」
「そんな、僕はカニじゃないんですから」
「別にカニなら勘づくってわけじゃないんだ。ただ親と子ならそんなカニだとか人間だとか関係なくピピっと来るもんだろが」
 僕は、カニが僕のことを母親に対して情の薄い奴だといっているようで、腹立たしく思いました。
「なんたって僕は薄情な人間ですから、何にも感じませんでしたよ」
「なんだと。俺はお前の母親が俺を見たらどう思うか、それを心配してやってんのに」
「僕にはそう取れませんけど」
「じゃあどうだと言うんだ」
「僕にはただ、あなたにとって都合が悪いから怒鳴り散らしているとしか考えられない、と言いたいんです」
「なんだと」
「だってそうじゃないですか。僕がカニのようにピピっとくればよかったわけでしょう」
「だからカニならみんなそうだとは言ってないだろう」
「じゃあ、僕が薄情で母親のことなんか忘れてたからピピっとこないってことですか」
「そんな事知るか。俺が言いたいのはなんで早くに言わなかったんだってことだ」
「だから、あなたが手紙をどこかになくしてしまったからわからなかったんじゃないですか」
「俺のせいか」
「ちょっと声、大きいですよ。そんなでかい声だしたら大家に聞こえるじゃないですか」
「かまうか、そんなこと」
「じゅうぶんかまいますよ。静かに。しーっ」
「別に俺は悪くない」
「そうそう悪くない。まったく、大人げない」
「なにを」おもむろにカニは、両のハサミを振り上げました。カニがそんな事をしたのは初めてです。まさかと思いましたが、僕は息をのみ動けませんでした。そんな僕を見てカニは我に返ったのかハサミをおろしました。僕はまさかと思った自分を恥ずかしく思っていました。そしてカニは、まさかと思わせたカニ自身を恥ずかしく思っているように見えました。その時、誰かがドアを叩く音が聞こえてきたのです。
「大家ですかね」僕は小さくそう言いました。
「そうかもしれん。さっきの声が聞こえたのかもな」
「ああ、そうかもしれませんね。どうしましょう。居留守はさすがに通じないんじゃないかな」
「おそらくな。やはりあの手で行こうか。置物で」
「それしかないですかねえ。結局この間は使わなかった手ですからね。やってみましょうか」
「よし。俺はあそこへ行けばいいんだな」そう言うとカニは静かに動き始めました。
「あたしだよ。開けとくれ」戸を叩いた誰かの声でした。そしてそれは、僕にとっては懐かしい、聞き覚えのある声でした。
「母さん」僕は思い出したかのように、ぼそっと言いました。
「いるのかい。いるんだったら開けておくれよ」その声は切実で、僕が抱いている疾しさすら見透かしているかのような優しい声でした。
「お、おい。大家じゃねえみたいじゃねえか」カニは僕の母親だとわかっていながら、わざと大家じゃないなどと言いました。僕はそのカニの言葉には応えずに、ドアの鍵を開けました。カニはまだ何か言いたそうでしたが、僕がドアを開けてしまったためにもう口をきくにもきけないような状態になって、置物のようにじっとしていました。
「久しぶり。しばらくみないけどお前は変わらないねえ」母はそう言うと、小さな背をさらに縮めるようにして部屋にあがりました。
「母さんも変わらないね」そう言いながら僕は、深い皺が顔に刻まれ白髪の増えた母に老いを見ていました。そしてその老いを、母のものから自分のところへ還元することを忘れ、ただ目の前の老婆に流れた時間を憐れんでいました。
 それから母は、今日の道のりがいかに長かったか、この部屋がどれだけわかりづらいところにあるか、いかに疲れたか、そしていかに人込みが息苦しいかをとうとうと述べました。僕は黙って聞いていました。話を聞くというよりはその懐かしい声を黙って聞いていました。カニはまさに置物のように壁に沿って座っています。こんな狭い、一間しかないアパートの部屋に大きなカニの置物があることを、その時母は何とも思っていないようでした。まだ気づいていないだけなのかもしれません。
「ところで」僕は言いました。「突然どうしたの。いままで来たことなんかなかったじゃないか。手紙にもそんな用事らしい用事は書いてなかったようだし。別に、迷惑なわけじゃないんだ。もちろん歓迎してるよ。ただ、顔が見たいとか書いてあったけど本当は別の理由があるのかなあって」
 母は何も言わず、口元に笑みを浮かべていました。
「別に、ないならいいんだ」そう言って僕は、その話題を避けようとしました。あまり言うと、疾しいことがあることを示唆しているようにも取られかねないと思ったからでした。
「母さんね」母はひどく落ち着いた口調で言いました。「なぜかここ最近、お前のことばかり思い出すんだよ。今までだって忘れてたわけじゃないんだどね。でも何だか不思議なくらいこの頃はお前のことを思い出すんだよ。夢にもよく出てくるしね。そしたら何だか顔が見たくなってね。おかしい話だけどね。何か引き寄せられるようにね、行かなきゃって気になったんだよ」そこまで言うと、母は深く息を吐きました。
「元気そうでなによりだよ」母は言いました。「本当のことを言うとね、ここに来るまでお前に何かあったのじゃないかって思ってね。ほんと、よかったよ。なんでそんな事思ったんだろうね。なんで急に頭から離れなくなったりなんかしたんだろう」そして母親は、ようやく意識を取り戻したかのようにきょろきょろと部屋の中を見回したりしました。僕は母がカニをどう思うのか興味がありました。何とも思わなければそれでいいのですが、それにしてはあまりにも大きすぎます。しかし母は、僕の思いとは裏腹に僕の部屋に何が置いてあるのかというよりも僕の部屋が清潔に保たれているかということに関心があるようでした。
「へえ、なかなかきれいじゃないか。掃除は毎日してるのかい」掃除をするのはカニの役目でした。僕は不精なほうだったので、一月ぐらい部屋を散らかしたままでいることに何ら問題も感じないくらいでした。カニはそういうことにはうるさくて、いつからか頼みもしないのに掃除はカニの役目になっていたのでした。
 僕はカニの手前、自分がやっているとも言い切れずあいまいな返事で言葉を濁しました。横目でカニを見やると、カニは本当の置物のようにじっと微動だにしませんでした。
「あら、これはなんだい」母は、落ち着いてきたのか部屋に置かれたものに興味を示しはじめました。やはり、まずカニが目についたようです。「ずいぶん大きな蟹だねえ。こんな蟹いるわけないじゃないか、作り物なんだろう」
 僕は返事に困りました。嘘をつくつもりなのだから、なに食わぬ顔でそうだと言い張ればいいのですがなぜかそう簡単に嘘をつけませんでした。その時僕は考えていました。ここで母に嘘をついたら、僕はきっとカニのことをずっと言いだせないままでいるだろう。僕は誰かにカニのことをわかってもらいたいと思いはじめていました。
「ん、どうしたんだい。この蟹なんかあるのかい」僕は、まるで口を押さえ付けられたように言葉を発せないでいました。僕はすがるようにカニを見ました。見たところでどうなることも、頼れるわけでもないことはわかっていたのですが、つい見てしまいました。カニは、やはりピクリともしませんでした。それでも動揺しているのか、カニの腹部を一筋の汗が流れました。
「蟹が結露してるよ」母はそう言ってカニの腹を指でなぞりました。「それほど湿気があるわけでもないんだけどねえ。それにしてもよくできた蟹だねえ。どうやって作ったんだろう」
 僕はなんとか母親の意識をカニから遠ざけようと考えていました。「今日さあ、夜なに食べたい?せっかくだから外で食べようか」
 しかし、それは逆効果でした。
「そうだねえ、蟹食べたいねえ。この足なんか見てたら蟹食べたくなっちゃったよ」そう言って母は、カニの足やらハサミやらを触りはじめました。僕はあわてて母を止めました。蟹を食べるという言葉は、もっともカニを不快にさせる言葉だったからです。
「この間蟹食べたばっかりなんだ。だから他にない?何でもいいんだけど。蟹じゃなけりゃ」
「そうかい。あたしは蟹が食べたいんだけどねえ。考えてごらんよ。ここに肉が詰まってると思うと、想像しただけでよだれが出てくるよ。あたしは蟹がいいよ。食べたいよ、蟹が」そう言ってまた母は、カニの足を触りました。すると今度は、足だけにとどまらず蟹の腹にまで手を伸ばしはじめました。「蟹みそのあの甘いこと。どうだい、お前だって食べたくなっただろう。この間食べたっていいじゃないか、また食べたらいいんだ」
 よく見るとカニの腹部にはまた汗が流れていました。さっきよりも多いかなりの量でした。幸いにも母は気づいていないようでしたが、もうどうでもいいことでした。
「食べたらいいじゃないか」突然カニが言いました。「蟹でも何でも食いたきゃ食えばいいじゃないか。おいあんた。俺を食うんなら腹くくって食えよ。やろうと思えばあんたの首へし折るくらいへでもねえんだ」
 当然のことながら母は目を丸くして動けないでいました。はっきりと何が起こっているのか理解できていない様子でした。僕はまずカニの興奮を静めようとと思いました。カニに悪気がなくても、カニのことですから興奮して何をしでかすかわかりません。おい、どうなんだ。などと言って言葉を失っている母親に詰め寄っているカニに僕は言いました。
「ちょっと落ち着いてくださいよ。母だって何も知らないで言ったことなんですから」
「それにしてもだ。ひとの腹さすってミソまで食いたいだなんて、いくらお前の母親だといってもどうにも腹の虫がおさまらん」
「その気持ちはわかりますけど」そう言って僕は、母を見ました。母は、まだ呆気に取られた様子で僕とカニを見つめていました。「ちょっとおさえて。見方をかえればそれだけ蟹は魅力的だということじゃないですか。そんなのほかに考えられませんよ、蟹以外に」そんな言葉でカニが気を静めてくれるとは思わなかったのですが、僕は言うだけ言ってみました。
「じゃあお前は許せるというんだな。誰かがお前の腹をさすってうまそうな内蔵だと言ったとしても、それは自分が魅力的だから仕方のないことだと、そう思えるというんだな」案の定、カニの腹の虫はおさまりませんでした。「あの」母が言いました。「あたし、あんたがまさかそんな喋れるなんて思ってなかったから……。ごめんなさい。でもね、カニをおいしいと思うことはかえられないよ。それは考えて出来ることじゃない。おいしいと思ったり、唾が出たりするのはどうすることも出来ないと思うんだよ。もうそれは、考えて変えられることじゃないよ」
 その言葉で、カニはおとなしくなりました。母がなぜそんな事を言ったのか理解できませんでしたが、おそらくはそう言うことで僕を助けることが出来ると思ったのかもしれません。
「そうだな。それは仕方のないことだな」カニは言いました。「俺たちにもうまいというものはあるんだ。それを食べるときにそんな事考えたことなどないからな。食いたいという気持ちを変えることは出来ないよな」カニはなぜか後ろめたそうでした。取り乱したことを恥じているのではなく、何か他に母の言葉に何かを汲んだようでした。
 それから二日が経ちました。母はすっかりカニに慣れ、カニもまた母に慣れたようでした。ただ母は、時折何かを言いたそうな目で僕を見つめました。それは、僕と母が買物に出掛けた帰りのことでした。
 真っすぐ背中から射す夕日が、細長い影を僕らの前に映しだしました。母は、僕の少し前を歩いていて夕日に赤く染まった後頭部が僕の目に入ります。先に口を開いたのは母のほうでした。母は、僕と二人で話せる機会を待っていたようです。それは、カニについて僕と話したかったからだと思われました。カニのことについて母は、僕に何も話さなかったので僕は安心していました。説明するまでもなく、母は認めてくれたんだろうと。しかし、そうではありませんでした。ただ話す機会がなかっただけのようでした。
「カニのことなんだけどさ」母は、自然に切り出しました。「いつまでああしておくつもりなんだい。あれじゃ、おもてにだって出せないんだろう。だいいち人が来たらばれちまうじゃないか。……人に見られちゃまずいんだろう、やっぱり」
 僕は、初めてカニが喋ったのを見た時の母の顔を思い出していました。
「正直言うと僕もよくわからないんだ。僕にとってカニは、なんでもない当たり前の存在になってる。でも知らない人が見たらきっと驚くだろうという想像は容易に出来るんだ」
「母さんは反対だよ」
 僕は黙って、話の続きを待ちました。
「辛いかもしれないけど、カニには出ていってもらいなさい。そうしたほうがお前にもカニにもいいんだよ。そうに決まってるよ。知らない人は驚くだけじゃすまないよ。きっと、面白半分でめずらしいものでも見るような目で見られて、カニだけじゃない、お前だって居場所が無くなっちまうんだよ」
「母さん」僕は言葉を選んで話しました。「僕にとってカニは、必要なんだ。物珍しいから置いておきたいとか、そういうのじゃないんだ。カニに支えられている自分に気がついたんだ。だから僕は、出来るかぎり一緒にやっていきたいと思ってるんだ。カニの気持ちを抜きにして、僕自身の事だけで言わせてもらうとそうなんだ」
「お前は小さいときからそうだった。きれいごとのような理屈を並べてそれだけがさも正しいかのような言い草をする。そうだった。お前は小さいときからそうだった」
「それでも最後には、いつも母さんの言うとおりになってきたじゃないか。それにこれは、きれいごとなんかじゃないんだ。本当に僕にはカニが必要なんだ」
「カニにはお前が必要かい?」
「それはわからない。おそらく必要じゃないよ。言っていただろう、カニはカオルとかいう人を探しているんだ。その人が見つかれば出ていってしまうんだよ。だからそれまで、カニと一緒にいたっていいじゃないか」
「あたしは心配なんだよ」
「何が」
「もしカニのことが人様に知れて、お前がみんなに晒されるようなことがあるんじゃないかってね。そうなったときのお前を思うと……カニに出ていってもらうわけにはいかないのかい」
「それは出来ないよ」
「どうしてもかい」
「うん」僕は母から目をそらして首を振りました。母を見ていると、自分の気持ちを裏切って母の言葉に賛同してしまいそうだったのです。僕はどこかで、カニのこととは別に母の思い通りになりたくないという気持ちもありました。それは極めて些細なことでしたが、僕にとっては初めての母に対する最後まで貫いた反発でした。
「そうかい」そう言って母は、丸まった背中を更に丸めました。「あたしは心配だよ」
 明くる日の朝、母は帰っていきました。あれ以来、母は僕と目を合わさずにいました。母は思いどうりにならなかった僕のことを恨んでいるのかもしれません。母は僕が思っていた以上に、カニに対する違和感を感じていたようです。
 母は部屋を出ていく間際、カニに息子のことをよろしくと何度も頭を下げていました。カニもそれにどう応えたものかわからなかったらしく、ただ困惑した表情を見せていました。それから母はチラリと僕を見つめ、何やら口をもごもごと動かしていましたが、はっきりとした言葉にはなっていないようで聞き取ることは出来ませんでした。僕は、しぶしぶとはいえカニのことを母に認めさせたことで何か自信のようなものを得ていました。誰に対しても、カニをわけ隔てなく認めさせることができるような気がしていたのです。いつかは去ってしまうであろうカニが、いつまでも自分の側にいてそしてカニが誰の目を気にすることなく表を歩ける日が当たり前のようにくるような気がしていました。

            (四)

 母が帰ってからカニは、どうしたわけか母のことばかり話していました。カニは僕のことをよろしくと頼まれたことがひどく気になっているのか、よくそのことを話題にしようとしているようでした。
「しつこいようだが、俺は人間に頭を下げられたのは初めてだ」カニは言いました。その言葉の通り、何度も聞かされた台詞でした。
「そうですか。もう何度も聞きましたよ」
「そうだったか」
「ええ」
 そしてカニは口をつぐみました。カニにはその他に何か言いたいことがある様子でした。ただ、カニは思うように話が広がらないことにカニ自身戸惑いを感じてもいるようでした。
 僕にはわかりかねていました。カニは決して嬉しくてそれを何回も言っているようでもありませんでしたし、かといって嫌がっているようでもなく、なぜそう何度も言うのか僕は理解できないでいました。
「あの、何か言いたいんじゃないですか」僕は言いました。
「ん、別に、何も」
「そうですか。母が何か言いましたか、あなたを困らせるようなことを」もしかしたら、僕がいない隙を見て母がカニに何かを言ったのではないかと思っていたのです。
「いや、何も」
「はっきり言ってください」僕は少し口調を強めて言いました。「今までならはっきり言ってくれてたじゃありませんか。どうしたんです。あなたらしくもない」言い終えて僕は、無意識に責めるような強い口調になっていることに気づきました。
「俺らしくもない」カニはぼそっとつぶやきました。「俺はまだお前に大事なことを話していない。それが大事かどうか、俺が勝手に決めていることだから、たいしたことじゃないと言われればそれまでだが、俺は大事なことだと思っている」
「それなら、それを話してくださいよ」
「言わなくていいのなら言わずにおこうと思ったことなんだ。正直に言うと、俺はそれを話すことが恐くもあるんだ。俺はお前に会えて、それからお前の母親に会えて良かったと思っている。こんな気持ちは今まで味わったことのないものだ。そしてその思いは俺の後ろめたさにもつながっているんだ。つまり、その……矛盾してるんだ。何がかっていうとな、だから……あの……」
 カニはまだ、何か遠回しにわかりにくく話しているようでした。
「つまりは」僕は言いました。「どういうことなんです。そのわかりにくいところがあなたらしくないところなんじゃないですか」僕はいらついていました。カニに、わかりにくい言葉で理解できないまま煙にまかれてしまうような気がしていたからでした。
「そうだな。最初から説明しよう、わかりやすいように」なにかをふっきるように、カニは言いました。「俺はお前に拒絶されるのが恐かった。でもそれは、言わないでいるということはお前に対する裏切りなのかもしれない。だから、最初からお前にわかるように話そうと思う」
 カニがひどく緊張しているのが、僕にも伝わってきました。僕は今からカニが話すことを聞かなければ良かったと、後悔してしまうのではないかと思っていました。
「俺はここに偶然来てしまったんだ。それは前にも話したと思うが、カオルを探している途中俺はお前に会った。そして、あの時俺はひどく疲れていたんだ。ここへ来るまでの道のりが長かったからな。でも、確実にカオルに近付いていることはわかっていた。これは勘でしかないんだが、俺にはわかっていたんだ。だから俺は、そう急いでここを出ていくこともないだろうと考えたた。それからしばらく、ここに厄介になることにした。お前も含めてのことなんだが、俺は人間と親しくなるようなことはまずないんじゃないかとずっと思っていた。いままであった人間たちがそうだった。たとえこうやってそいつらの部屋で厄介になったとしても、誰も俺に干渉することもなかったし、また俺が干渉するようなこともなかった。だからなお、お前の母親に頭を下げられたときは驚いた。俺がお前や、お前の母親に会って抱いた戸惑いは、俺の目的からくるものなんだ」
「それが、その目的がカオルですか」
「そうだ」
「なんですか、カオルって」僕はその時初めて、カニに向かってカオルのことを聞いていました。それまでは、なにか僕とカニの間に口にしてはいけないことのような雰囲気があったので、聞きたくても、気にはなっても聞けないでいました。
「カオルというのは」カニはひと呼吸おいて、静かに話しはじめました。「カオルというのは人の名前じゃないんだ。というより個人の名前じゃないといったほうがあっているか。だから、お前もカオルであるかもしれなかったんだ。極端なことを言うと、俺にとっては人間はカオルかそうでないかといってもいいくらいなんだ。だから、その……」
「また、わかりづらくしようとしてるんじゃないですか」
「あ、そうか。すまなかった。カオルが何かってことを話せばいいんだよな。そうだな、カオルっていうのはな、つまりな……」カニはそこまで言うと、言葉を詰まらせました。
 僕は黙ってカニの言葉を待っていました。カニがそれほどまでにためらうカオルのことを考えながら、僕は待っていました。
「人間は蟹を食う」唐突にカニは言いました。「お前の母親にしたって、俺を見たときに食いたいと言った。人間ならだれしもそう思うんだろう」
「……そうかもしれませんね。中には蟹が嫌いな人もいるかもしれないけど、たいがいの人は食べたいと思うんじゃないかな」
「俺だって……」
 その時でした。廊下から数人の声とともに、玄関の扉を叩く音が聞こえてきました。それは今までにないほどに、荒々しい攻撃的な物音でした。
「開けて!」その声は、またもや大家でした。「はやく開けないと合鍵で開けるわよ」
 僕とカニは顔を見合わせました。カニは黙ったまま、置物のふりをしようとすらしませんでした。僕は立ち上がり、扉の前まで行くとその声に応えて返事をしました。
 扉を開けると、外には大家の他に数人の人たちが立っていました。大家は、僕の顔を見ることなく部屋へ上がり込もうとしました。僕は反射的に身を乗り出し、大家をさえぎりました。
「ちょっと」大家は、明らかに憤っているようでした。「どきなさいよ。知ってんのよ、わたしたちは」
「何がです」僕はとぼけた振りをしながら、靴を履き外へ出ようとしました。自然と大家は僕に押されるようなかたちになり、後退りするような格好で廊下に押し出されていきました。
 結局、廊下には大家を含めて四人の人たちが立っていました。大家と、町の自治会長、それに大家と仲の良い中年の主婦が二人でした。そのメンバーを見て、僕は嫌な予感がしました。この人たちはカニのことを知っている、そしてそれが理由でここへ来た。しかもカニをこの部屋から追いやろうとしている、そんな気がしてならなかったのです。
 しかし、見方を変えればカニのことを世の中の人たちに知ってもらうにはまたとない機会でした。何も僕の予感が正しいとは限らないのです。たとえば、町の自治会長が知っているということが辺りに知れ渡れば、カニがこの町を歩くときにどんなに心強いことかわかりません。それに大家が知ってくれていることはカニがこの部屋で暮らしていくことの弊害をきっと取り除いてくれることでしょう。また、近所の主婦たちが知っているということだって……。その時僕は、母が認めてくれたことを思い出しました。そのことは、僕に大きな自信を与えてくれていました。たとえそれが僕の肉親で、しかも母親であったとしても、僕以外の誰かがカニのことを認めてくれたことは僕にとっては大きな自信となったのです。しかし、それと同時に僕は恐れてもいました。一人一人が認めてくれたとしてもその一人が二人になったとき、その集団の意志が認めないとなったときのことを考えると、僕はとても不安になりました。
 僕は玄関の扉を後ろ手に閉めました。カニを部屋の中へと隔離することが出来たことに僕はひとまずほっとしていました。
「一体どうしたというんです」僕は言いました。扉を閉めることが出来たからか、僕はひどく冷静でいられました。
「どうしたじゃないわよ」大家は言いました。取り乱した様子で、それは一緒に居合わせた連中の顔からも窺うことができました。「あなたねぇ……今まで黙ってたことは仕方がないわ。もう過ぎてしまったことなんですから。それはもういいわ。でもこれからのことはねぇ」そう言うと大家は、僕のほうは見ずに、一緒に来た仲間のほうを振り返りました。
「そうねぇ。これからはちょっと困るわよねぇ」二人の主婦は口をそろえてそう言いました。
「なんだって君は」自治会長は、その口調で威厳を示すかのように話し始めました。「そんな事をするんだね。ここが君の家だというんであればまだ……考える余地はありそうなもんだが、ここは大家さんから借りている部屋じゃないか。そんな場所で君……駄目じゃないか」
「さっきから皆さん、何のことなんです」僕はまだしらを切っていました。おそらくカニのことを言ってはいるのだと予想はついていたのですが、僕にはどうもピンとこなかったのです。カニはここにきてから一度も外には出ていないのです。この部屋を訪れて中まで入ったのは母親だけでしたし、誰かにカニの姿を見られるようなことは考えられなかったのです。だから彼らは、おそらく僕がただ単に部屋で何かを飼っているとしか考えていないと思ったのです。だから僕はさんざんしらを切った挙げ句に《ああ、おそらくあなたがたの言うそれは彼のことなんでしょう。さあ、是非ご紹介しましょう。どうです、まあ驚くのも無理はありません。しかし蟹が人間のように考え、話さないなどどうして言い切れるというのでしょう。ああ見えて彼は、なかなか口が達者なんですよ。ええ、そうです。彼は非常に理性的で、あなたがたの想像力では及びもよらないかもしれませんが、僕の大切な友人なんです》といった具合にでも話そうかと考えていたのです。僕がそう言ったときの彼らの反応を想像するとたまらなく愉快になりました。理性的で、僕の友人であると何ら不自然さを感じさせずに紹介されれば、大家であったってそうそうおいそれと追い出すわけにはいかないと思うのです。
 僕は良い気分でした。これから訪れるであろう僕と彼らの逆転の立場を考えれば、いまこの追い詰められているかのような状況も苦にはならないのです。むしろもっと追い詰められたほうが、逆転は劇的であるとさえ僕は考えていたほどでした。しかし、その酔いしれるような良い気分も束の間だったのです。
「あのねぇ」大家は急に落ち着いた口調で話し始めました。「実はこの間、あなたのお母さんがわたしのところに見えてね。あなたの部屋を出たあとに駅まで行ったらしいんだけど、やっぱりっていってわたしのところに引き返してきたらしいのよ。相当悩んでらっしゃったみたいよ。あなたのためによくないんじゃないか、あなたをゆくゆくは苦しめるんじゃないかって。それでみんなわたしに打ち明けてくださったのよ。当然あなたのところにいる蟹のことを」
 なんと、彼らはカニのことを知っていました。しかも母から聞いたというのですから理性的なことももちろん知っているのでしょう。それでなおここへ押し掛けてきたというからには、彼らはやはり……。
「さあ、どいて」大家は言いました。「どいてちょうだい」
「どうしようっていうんです」
「どうしようって?何を?」
「何をって、それはその……」
「もういいのよ。わたしたちはね、そうやって苦しんでるあなたも助けようというんじゃない。だからもういいの、ぜんぶあなたのお母さんから聞いたんだから」
「そうよ。あなたは黙ってわたしたちにまかせておけばいいのよ」仲間の主婦が言いました。
「ちょっと待って。苦しんでる?僕を助けるって?」
「そうだ、わたしはこの町の自治会長として、大家さんから相談を受けたんだ。やはり、感心できることではないな。この町に蟹だなんて。子供だって安心して表で遊べないじゃないか」
「そうですよ。うちの子だって受験を控えた大事な時期なんですから。そんなわけのわかんないようなのがそこら辺をうろうろしてたんじゃ、勉強にだって悪影響に決まってますよ」もう一人の主婦が言いました。
「カニはそんな、人を襲ったりだなんてことはしませんよ」
「ほらやっぱり」大家は言いました。「お母さんの言うとおりだわ。あなた、その蟹をなんでかばおうとするの。何か脅されているの?」
「母がそう言ったんですか?」
「別にはっきりとそう言ったわけじゃないんだけど、なんでもあなた、そのカニに頭が上がらないみたいだったってお母さんが仰ってらしたから」
「それはそういう脅されてるとかじゃなくて」
「じゃなくて?」
「人間同志にだってあるでしょう。こう仕切ったり仕切られたり、頼ったり頼られたりするようなことが」
 すると彼らは、突然大声で笑いだしました。
「あははは。皆さん聞きました?」
「はははは、ええ、いまこの耳で」
「ほほほ、わたしも確かに」
「ふはははは、蟹を相手に、はははは、すると君はカニに仕切られている。蟹を頼って蟹の尻に敷かれているというんだね。はははは、これはいい」
 僕は黙るしかありませんでした。きっと何を言ったとしても、彼らの笑いを助長するにすぎないだろうと思ったのです。
「あなたもおかしな人ねえ。相手は蟹よ」
「それがなんだというんです」僕はムッとこたえました。
「普通に考えればわかるじゃないの」
「あいにく僕にはわかりませんね」
「あら」大家は明らかに僕を見下したようにいいました。「かわいそうに。それはきっと普通じゃないのよ。蟹に脅されているうちに自分は蟹なしでは生きていけないとさえ思ってしまったんだわ」
「僕は脅されてなどいません」
「おいおい、そう興奮するなよ」自治会長は、明らかに僕が教えられるべき人間で自分は教えてやる立場にある人間だと勘違いして、口を挟んできたように僕は思いました。「なんだって君は私たちの話に耳をむけようとしないんだ。私たちは君を困らせようとしてここへ来たんじゃないんだ。そうだろう。君の母親が君のことを見てくれって、この大家さんに頼んだから、だから大家さんをはじめとする私たちがここにいるんじゃないか。確かに君は脅されていないかもしれない」
「ええ、その通りです」
「まあ待ちなさい。君は脅されていないかもしれないが、もう問題はそういうことじゃないんだよ。町のみんなの問題なんだ。蟹がこの町にいるということが問題なんだよ」
 その時、アパート全体が揺れるほどの大きな振動が僕の部屋から伝わって来ました。僕は何となく、今の振動でもうカニがいなくなったことを悟りました。カニの言うところのピピっという感覚が来たようでした。目の前の彼らは、皆顔を見合わせてこの振動について詮索しているようでした。大家などは、元力士だった住人の名前などをあげてまたかなどとぶつぶつ言っていましたが、あれは明らかに僕の部屋からでした。僕が背にしている扉にじかに振動が伝わってくるのが何よりの証拠でした。
「つまりだね、わたしはこの町の自治会長、いやゆくゆくはこの町の町長になる足掛かりとしてだね、こういう地域に密着した問題から解決していかなければと思って……」
「もういいわよ、会長さん」大家が言いました。「ねえ、その蟹とやらに会わせてちょうだい。もうわたし我慢ならないわ」そう言うと、大家は僕をおしのけて扉を開けようとしました。
 僕はもう抵抗しませんでした。大家に押されるがままに、僕は廊下の壁へと突き飛ばされていました。もうカニはいない、そう僕は確信していました。案の定、中にカニはいなかったようで中からはしばらく誰の声も聞こえてきませんでした。僕はぼんやりとそこにしゃがみこんで、カニのことを考えていました。そしてカニが最後に言っていたカオルのことを。
 中からだれだかの声がしました。「いないわねえ、本当にいたのかしら」それは中年の主婦の声でした。
「わたしもそう思ってたのよ。本当はいなかったんじゃないの。だって、あの人大家さんの話だと友達もいなかったっていうじゃない。嘘だったんじゃないの?」もう一人の主婦と二人で話しているようでした。
「やっぱりそうなのかしら」
「きっとそうよ」
「あーあ、でもそれが本当だったらどんなにか楽しいことだったろうに」
「なんで?」
「だって蟹よ、それもうんと大きいっていうじゃないの」
「あなたもそこが気になった?」
「もしかしてあなたも?」
「やっぱり蟹なんて言われちゃうとね」
「そうそう」
「ふふふふ」二人は声をそろえて静かに笑いました。
「捕まえたお礼にみんなでどう……なんてね」
「ふふふっ」
 カニは言っていました。――人間は蟹を食う――もしかするとカニは……。
 カニは出ていきました。おそらくもう部屋にはいないでしょう。なぜ出ていったのかはわかりません。大家たちが乗り込むのを察して迷惑をかけまいとして出ていったのかもしれなかったし、もしかするとカオルの匂いがしたのかもしれません。もう今頃、カニはカオルを食べているかもしれません。カオルがそういうものだということは、結局カニの口からは聞かれませんでしたが、たぶんそうなのでしょう。それがどういった人間かはわかりませんが、カニのことですからまあ察しはつきます。
 カニは僕に出会って、人間を食べることに後ろめたさを感じたのでしょうか。それは、人間がペットを食べないのと同じく親愛の情からきているのでしょうか。それでもカニは、たぶんカオルのもとへと行きました。もちろん僕は、そんなカニを非難するつもりはありません。僕だって、いつカニが食べたいと思う日がくるかわからないのです。――人間は蟹を食い、蟹は人間を食う――何らおかしなことではないのではないでしょうか。
 結局また、最後には母の思い通りになってしまいました。おそらくこれを知れば、母もきっと喜ぶでしょう。その喜ぶ顔を見れば、僕もまたこれでよかったと思うのかもしれません。
 僕の意志は、つまりそういうところにあるのだと思われてなりません。
 部屋からはまだ、主婦たちの声がしています。
「あのプリッとした蟹の触感」
「ふふふ、そうそうあの甘いミソ」
「惜しいことしたわねえ」
「ほんとに。惜しいことしたわ」
「だって蟹だものねえ」
「そうよ。だって蟹だもの」
「うふふふっ」
「ふふふ」

                    <完>