山の恵み 「江戸に出て、深川の干鰯《ほしか》場で一年、おれはだれよりも真面目に働いた」  新太郎は疲れたように手を止めて、そうつぶやいた。  むしろに並べられた鰯を掃き集める、ざっ、ざっという乾いた音が、潮騒と防風林の松の葉擦れをかき消していた。潮の香りもまた、まかたという北西の風に消されている。ここにあるのは、鰯の生臭い匂いと、夜のためにそれらを細長い山のように掃き集めるための音だけであった。 「深川で得たつてで、小名木川、利根川を下って、銚子からこの白戸に来て一年半」  ため息をつきながら、新太郎は総髪の髪を撫でる風がやってくる西の空を眺めた。  日は松の木の頭にちょうど差しかかったところで、揺れる細い葉が陽光にでにじんで見えた。春になり少しずつ強さを取り戻してきた太陽も、こうして傾いてくると冬と同じように、その力を急速に失うようだ。  新太郎は傾いてきた太陽をじっと見つめた。背が低く下がった目尻がどこか間が抜けたようにも見えるが、鼻は立派で、若さと情熱に燃えた瞳が人目を引く顔立ちをしている。今は力がないその瞳は、日の光も鈍く返しているように見える。 「あじやってんだ」漁師らしい荒っぽく、訛の強い言葉が新太郎の横顔に飛んできた、「とっととやっちまわねえと日が暮れっぺ」  声のした方を見もせずに、新太郎は高い鼻の頭に皺を寄せ、不満げに手を動かし始めた。 「どうしてこんなことになったんだべ」新太郎は焦りをぶつけるように荒々しく鰯を竹箒で掃き集めた、「二年半でここまで来て、何もかもが順調でうまく行ってた、佐久田喜平といえば、深川でも十分に名の通った網元だ、その一人娘のおいそとの祝言まであと一歩のところまで来たんだぞ、一体何が悪いっていうんだ」  おいそを嫁に欲しいと正式に喜平に頼んだのは、四日前のことだった。始めから承知していた喜平は喜んでさえいた。婚儀一切を引き受け、佐久田家の娘の婚礼として恥ずかしくないだけのことをすると言っていたのだ。しかし翌日、態度が一変し、海の仕事はさせられないと言い渡された。  祝言の話も取り消され、この三日間、浜の仕事しかさせてもらえない。おいそに聞いても分からないとしか答えられないし、喜平は取り合ってもくれなかった。  おいその兄の与助も心配し、色々と探ってくれた。それで分かったのは、隠居の甚兵衛が強く反対し、喜平もそれに賛同したらしいということだけであった。 「祖父さまがそこまで言うには理由があんべ、言い出したら聞かねえが、間違ったことは嫌いな人だ、何か誤解があんだ、誤解が解ければなんてことはねえ」与助はそう言って新太郎を励ました、「少し辛抱すんだ、おめえの性分も、頑張りもみんな知ってる、おれからも折を見て言っとくから」  そう言われても、新太郎の気落ちした心は晴れなかった。隠居であり、歳で体調もかんばしくないとはいえ、甚兵衛は紀州から移住した佐久田家を押しも押されもせぬ網元にし、この白戸村の名主にまで押し上げた人物である。今でもその発言には十分な力があった。その甚兵衛が、賛成していた当主の喜平の態度を一日で変えてしまうほど反対している。何が悪いのか分からず、どうすればいいのかという焦りばかりが募った。  海から網を引く威勢の良い掛け声が聞こえてきた。満ち潮を狙った地引き網漁が始まったのだ。  潮に濡れた綿糸の網を、たるませないように二つの組が交互に引いていく。後ろまで引くと前へ行き、またそれを後ろに引いて前へ戻る。声を張り上げ掛け声をかける。体が火照り額も汗ばむが、春の海に曝されていた網を持つ手だけが冷たい。  遠くの掛け声がすぐそこのように聞こえ、新太郎は今まさに自分が漁をしているような錯覚を覚えた。  だがすぐに新太郎は首を振った。まざまざと浮かんでくる漁の楽しさは、今はただ辛いだけでしかない。 「何が悪いのか、どんな誤解があるのか」  新太郎は何度も考え続けたそのことを、もう一度考え始めた。それを突き止めることしか、今できることはなかった。  四日前、喜平夫婦と甚兵衛を前にし、おいそと共に、与助にも同席してもらい、結婚の承諾を求めた。その時甚兵衛が途中で席を立ち、そのまま戻らなかった。  しかし、だれもそのことを気にはしなかった。歳で体も弱っていて、知らないうちに自分の部屋に戻り、寝てしまっていることも珍しいことではなかったからだ。 「いつもならとうに寝てる時間だ」と喜平も言っていた。  だがもしかしたら、気分を害して中座したのかもしれない。 「違うとは言えねえ、今日まで気がつかなかったが、案外おれに失敗があったのかもしれねえ」  新太郎はその時のことを整理した。  新太郎とおいその仲は、もう皆が知っていた。甚兵衛もそうだし、それを反対はしていなかった。 「おめえなら安心だ」  喜平は頼もしくそう言い、甚兵衛がうなずいていたことも覚えている。あとは新太郎の家族がよければ問題はなかろうということになった。 「樵《きこり》か……」  そうつぶやいた新太郎の顔に、暗い影が浮かんだ。  新太郎はそれまで、家族や家の話はほとんどしていなかった。両親が他界してから家を出たこと、親類の家に弟と妹二人がいて、弟がその家の家業を手伝っていることだけは、聞かれるままに話したことがある。  しかし、自分が生まれた家も、また、弟や妹が預けられている親類の家も、樵であるということは話していなかった。隠していたわけではない。海の仕事に憧れ、漁師として生きると決めていたので、自分が根っからの海の民ではないということをわざわざ言いたくはなかったのだ。  このときは言わないわけにはいかなかったが、むしろ、自分の漁師に対する気持ちの強さを知ってもらう、いい機会だと思った。  樵というものが決して裕福ではなく、自分の家はその中でも貧しかったこと、はげ山にするわけにもいかないので、収入はほとんど決まっていて、増える望みはまずないということを話した。  生まれてから死ぬまで、夢も希望もなく、木々に覆われた暗い山の中で同じ生活を続けていくことは耐えられず、いつしか広い海に強い憧れを抱くようになっていた。不漁もあるが、大漁もある、海ならば夢が見られると思った。干鰯の需要は伸びるばかりで、限りなく続く空と、どこまでも広い海のように、大きな期待を海なら持てると思ったのだ。  その気持ちを新太郎は正直に話した。 「おめえはもう立派な漁師だ」横から与助が笑顔でそう言った、「おめえほど海の好きな男は、ここにもそうはいねえべ」  援護を受けた新太郎は、ますます口調に熱を込めた。 「大漁の時の喜びは、山では味わえねえもんです、山を知ってるから、余計にそれが分かるんです、どんなにでかい山だって、海の大きさにはかなわねえ、実際海に来て、自分がでっかくなったと思うんです、あんなところじゃ人間が小さくなるばかりだ、ここならどれだけでも仕事に励める、立派な漁師になってみせます」 「その心がけだ」  喜平がそう言ったとき、甚兵衛がゆっくりと立ち上がり、外に出た。喜平はちらっとそれを見ただけで話を続けた。 「すぐにというわけにはいかねえ、だが、いずれはおめえにも網をやるつもりだ、与助に負けねえ漁師になれ」  この言葉を聞いたときの喜びは、二十二年間生きてきた中で最大だった。暗い過去から明るい未来に向かい、まっすぐに輝いている道が見えるようだった。  だがそれは半日も続かなかった。翌日、漁に出ようとする新太郎を呼び止め、「今日から浜で干鰯作りをやれ」と、喜平は言った。  網元として、すべての仕事を知るための一歩なのかとも思ったが、喜平の口調はそういった思いやりを感じさせない冷たいものだった。理由を糾したが、決意を秘めた強い瞳で、「海の仕事はさせられねえ」とだけ言い、喜平は背中を向けてしまった。  そのまま今日まで干鰯の製造にしか関われないでいる。 「樵だからか」新太郎は自嘲的につぶやいた、「ご隠居が席を立ったのはそのことを話してからだ、海で暮らしてまだ三年にもなってねえ、樵の子に海の娘はやらねえということか」  新太郎は竹箒の柄を音がするほど強く握った。 「好きで樵に生まれたんじゃねえ」と新太郎は足元の砂を蹴り上げた、「山で生まれても心は漁師だ、山は捨てたと言ったべ、このままじゃ岩次郎においそを持っていかれちまう、くそっ、どうすりゃいいんだ」  岩次郎という名を口にしたとたん、そのいまいましい顔が浮かんできた。  岩次郎の背が高く細身で、顎の尖った狐のような顔が、意地悪く笑う様を思い浮かべ、新太郎はいっそう腹を立てた。おいそに惚れ、夜這いをかけたが無下に断わられ、その腹いせか、いつも自分を目の敵にしている岩次郎にだけは、おいそを取られたくはなかった。  しかし、自分との縁談がなくなると、岩次郎がしゃしゃり出てこないわけはない。 「待てよ、まさか岩次郎のやつが余計なことを吹き込んだんじゃ……」  新太郎の目に鋭い光が走った。 「そうかもしれねえ、あいつは、おれが金と力を目当てにしておいそに近づいたと思ってるはずだ」  大きな夢が見られる、それはすなわち、一攫千金と言える。 「岩次郎が金目当てだと何度も吹き込んでいたとしたら、そうだ、あいつはご隠居にはうまく取り入ってっぺ、ご隠居が話半分で聞いていたとしても、おれが海には大きな期待が持てると言ったことが、金目当ての証言のように聞こえたのかもしれねえ」  いつしか日は松の後ろに隠れ、長い影を干浜に作っていた。海から話し声が聞こえてきたかと思うと、漁を終えた男たちが次々に姿を見せた。 「どうだ」  浜にいるものが声をかけると、「おかずだ」と不漁であることを嘆く声が返ってきた。  不漁の時はみな一様に口が重い。特に今のようにそれが何日も続いていると、眉間にしわを寄せた不機嫌そうな顔ばかりが目につく。  それでも漁をしてきたということが、新太郎は羨ましかった。すいたんと呼ばれるまったくの不漁でも構わない、誤解が解ければ漁に出られる。早く漁に出たい気持ちで、新太郎は身もだえした。 「羨ましいなあ」  まるでその気持ちを見抜いているかのように、岩次郎が嫌みを込めた言い回しでそう声をかけてきた。  新太郎は無視して仕事を続けた。 「毎日おかずでも、おめえはなんも気にしねえっぺ、漁に出ねえからな」  岩次郎はかまわず新太郎の前に回り、その顔を覗き込んだ。新太郎は脇を向いた。ちょうど岩次郎を疑り始めたばかりで、冷静にあしらうことができそうになかった。 「そんなに干鰯作りは楽しいか」  そう言う岩次郎の前を素通りし、新太郎は隣のむしろに行って鰯を掃き集めた。 「馬鹿にしてんのか」岩次郎はいつものように言い返さない新太郎の肩を掴んだ、「何か言ったらどうだ」  新太郎は乱暴に岩次郎の手を払った。 「やったな、この樵が」  岩次郎は下から上へ舐めるように新太郎をにらみつけ、その足元に唾を吐いた。 「海のもんでねえ樵が紛れてっから、鰯が捕れねえんだ、ちょうどよく縁談も壊れて、おめえのたくらみも水の泡だ、ざまあみろ、早えとこ山に帰っちまえ」  新太郎は手に持った竹箒を叩きつけて岩次郎をにらんだ。 「やっぱしおめえか」  そう言うと同時に、新太郎は飛びかかった。  しかし、身構えていた岩次郎はさっと身を引き、身長差を利用して背中を一押しし、新太郎を地面に叩きつけた。胸から倒れた新太郎の口と目に砂が入った。あっと思ったときには力任せに腹を蹴り上げられて、続けざまに後頭部を殴られたが、払うように振り回した手がうまく岩次郎の顔を捉えた。向きになって胸ぐらを掴む岩次郎の目をめがけて、砂混じりの唾を吐きかける。顔を背けたところを狙って拳を振るが、腹の痛みと体勢の悪さで力が入らなかった。  漁師たちが集まり、不漁の腹いせとばかりに、「いいぞ」「そこだ、やっちまえ」と囃し立てた。  逆上した岩次郎から強烈なのを一発もらい、ごんという音と共に、目の奥に光が走った。今度は逆の頬に鈍い衝撃が走り、振られた顔の反対側をまた殴られた。 「やめねえか」  という声がしたかと思うと、目の前の岩次郎の顔が横に吹っ飛び、そのまま彼は、鰯の細長い山に顔を突っ込んで動かなくなった。  与助が岩次郎を殴り飛ばしたのだ。その力強い一撃に歓声が上がった。 「いいまんなおしだべ」  と与助がその歓声に応えると、一層の歓声が沸き起こった。 「さすがは佐久田の跡取り息子だ」 「これで明日は大漁だっぺ」  そう言いながら去っていく声を聞きながら、「ひでえまんなおしだ」と言って新太郎は与助の顔を見た。 「おめえらしくねえ」与助はそう言って首を振ると、気を失った岩次郎を起こしに立った。  何があったか分からないという顔をしている岩次郎に、「今のはおめえが悪い」と言って、与助はもう一度頭をはたいた。  顎を押さえて立ち上がった岩次郎に、「行け」と顔で示した与助は、新太郎の脇に肩を入れて立たせた。 「腹が立つのは分かる」  与助は慰めているのか怒っているのか分からないような口振りでそう言った。 「辛抱しろ、岩のやつと喧嘩してもしょうがねえっぺ」 「分かんねえよ」新太郎は目に入った砂を乱暴に取りながら言った、「生まれたときから漁師で、それも、網元の跡取りと決まってるような人間には分かんねえ」  与助はにらむように新太郎の顔を見たが、「傷の手当てをしよう」と言って歩き出した。  与助の後を歩きながら、新太郎は悔しさで涙が出そうになった。掴みかけた大きな夢は閉ざされ、その原因である岩次郎にいいように殴られた。  岩次郎を殺してこの土地から逃げてやろうか。熱を持ち始めた両頬の痛みに堪えながら、本気でそんなことを考えた。  立派な門をくぐると見事な作りの母屋が眼前に迫ってくる。いつかこんな屋敷を建ててみせると思っていた佐久田の屋敷である。今この中には喜平や甚兵衛がいる。「入ろう」と言うように背中を押す与助の手を、新太郎は体の向きを変えてすり抜けた。 「あとで痛む、意地になるな」 「大丈夫だ」  無理に笑顔を作ると、新太郎は足早に母屋の脇を抜けていった。  居候先である離れの自分の部屋に戻ると、部屋の中は真っ暗になっていた。明かりをと思ったが、火鉢の種火が消えていた。どちらにしろ、あとで母屋の台所に種火をもらいに行かなくてはならない。  新太郎は自分を笑い、手ぬぐいを手に井戸に向かった。痛みは増すばかりで、顔中が腫れてきたように感じ、少し触っただけで激痛が走った。  井戸水で手ぬぐいを濡らし、軽く頬に当ててみる。「ぐっ」と思わずうめき声が出た。桶に水を移し、その中に顔をつけた。水の冷たさが頬にやさしく伝わってきた。 「意地になるな」と言った与助の言葉がよみがえってくる。今さら薬をくれとは言えない。 「まったく、何を意地になってんだ」  新太郎は水を換えてもう一度傷をよく冷し、新しい水の入った桶を持って井戸を離れた。  部屋の前まで来ると新太郎は足を止めた。部屋に明かりがついている。中に入ると、おいそが座っていて、その膝元には薬が置いてあった。  おいそは十八になるが、見た目は少女のように見える。痩身で、よく焼けた黒い肌と大きな瞳が幼さを感じさせるようだ。 「馬鹿だよ、あんた、あんなやつにやられて、情けねえっぺ」  漁師に囲まれて育った男勝りの口の悪さとは裏腹に、おいその顔には心配した様子がありありとうかがえた。 「あいつが悪いんだ、あの卑怯もんが」  新太郎は不機嫌にそう言って座った。 「ほら、顔出して」  おいそは丁寧に軟こうを腫れた頬に塗った。 「祖父様が怒ってたよ」 「今度は何をだ」 「あんたじゃねえ、ちょっと、こんくらい我慢しな、岩次郎だよ」 「岩次郎か、ざまあみろだ」 「岩次郎もあんたと同じで、海の仕事をする資格はねえって言ってた」 「岩次郎も」新太郎は体を起こして聞き返した、「岩次郎もおれと同じだと言ったのか」 「そうだよ、もう、動くなって言ってんべ」 「ちょっと待て」新太郎はおいその顔を覗き込んだ、「ご隠居は確かに、おれと同じで海の仕事をする資格がない、と言ったのか」 「そう言ったべ」おいそはそれがどうしたという表情をして、「早く顔を出せって」と言った。  新太郎は素直に顔を突きだし、目を閉じて考えた。岩次郎だけというなら分かるが、おれと同じで資格がないということはどういうことだろうか。自分から喧嘩を仕掛けたことはないし、まして殴り合いなどしたことはない。ということは……。 「うん、もういいべ」  そう言っておいそは、軟こうを塗り残していないか明かりを近づけて新太郎の顔を確認した。 「今日はあたしが一晩看てやるよ、晩飯もあとで持ってきてもらうように言ったからさ」 「いらねえ」新太郎はそう言った、「そんなことしたら余計怒られっぺ」 「いいべ、あんたは悪くねえんだ、それなのに何でこんなことになんのさ、もう関係ねえ、二人で好きなようにすっぺ」  おいそは甘えたように新太郎の手を握った。  新太郎は、「そうはいかねえ」と手を払い、「ちょっと黙ってくれ」と言って背を向けた。  なぜ甚兵衛が怒ったのか、その手がかりが見えてきそうだった。新太郎は、もう一度さっき考えたことを最初からなぞり、見えそうだったものをたぐり寄せようとした。 「喧嘩をしたことがねえおれと岩次郎が同じ、二人とも海の仕事をする資格がねえ、そうだ、つまり喧嘩じゃねえんだ、他に同じところがあるってことだな」  何が同じなのか、それが分かれば解決策もある。 「怒ったのかい、さっきからぶつぶつ言って」  おいそが不服そうに聞いてきた。  新太郎は考えを中断させたくないので、「黙ってろ」と言うように手を振った。 「そんなに怒ることねえっぺ」おいそは、新太郎の体を揺すってそう言った、「怒るなら今日は帰っから、そんなに冷たくしないでいいべ」 「静かにしろと言ってるんだ」新太郎は、おいそのほうに向き直って声を荒げた、「今はそれどころじゃねえんだ」  おいそは吃驚したように手を離し、その顔を強ばらせた。 「心配だから怪我の世話をしようと言っただけだっぺ」おいそは感情を抑えるように、ゆっくりと言葉を区切りながら言った、「嫌なら帰るって言ったべ、それとも、心配もするなって言うのかい」 「怪我の心配はありがてえ」新太郎はいらいらした様子でそう言った、「薬も助かった、でも今はもっと他に心配することがあっぺ、のんびり怪我を看てもらってる場合じゃねえんだ、それが分かんねえのか」  その時、部屋の戸が叩かれた。おいそが立って戸を開けると、下女が気まずそうに二人分の膳を持って立っていた。  おいそは礼を言って一つだけ受け取ると、もう一つをそのまま持って帰らせた。その膳を新太郎の前に乱暴に置き、おいそは黙って土間に降りた。 「怪我のことだけじゃねえよ、あんたが岩次郎と喧嘩したっていうから、やけになってねえかと思ってそれも心配したんだ、でもあんたは怒ってばかりだべ、自分のことしか考えてねえんだ」  そう叩きつけるように捨てぜりふを言い、おいそは部屋を出ていった。 「自分のことしか考えてねえのはおめえだ」  新太郎は水の入った桶を戸口に投げ飛ばした。 「おめえとのことを真面目に考えてんだ、心配すんならそっちだべ、何でおめえが怒るんだ、馬鹿たれが」  勝手にしろと、新太郎はさっきの続きを考えるのをやめ、晩飯だけ食べてすぐに寝てしまった。  次の日から岩次郎と一緒に干浜で働くことになり、新太郎の憂鬱は増えた。昨日のことを気にしてないのか、相変わらず岩次郎はちょっかいを出してきた。  寄せ集めた鰯を広げるときも、新太郎より早くやろうと躍起になり、早くできれば、どうだとばかりに胸を張った。 「おめえは遅せえんだ、そんなんだから漁に出られねえんだよ」  干し終わった干鰯を俵に入れるときもその調子だった。俵を運ぶときも、新太郎が一俵担げば二俵担ぐという具合で、何かにつけて競い合おうとした。  だが新太郎は取り合わなかった。今までであれば、なにくそと負けずに張り合ったが、そんな気持ちにはなれなかった。それでも、相手にしないようにと思うと、岩次郎のちょっかいが余計に目障りに感じるようになる。 「こんなやつとおれのどこが同じなんだ」  しつこい岩次郎に怒鳴りそうになるのを押さえながら、新太郎は同じだと言われたことを不審に感じていた。  何が同じなのか、新太郎は注意深く岩次郎を観察した。  岩次郎は自尊心の強い漁師だった。その分排他的で、新参者の新太郎を最後まで認めなかったのも彼だった。新太郎が人一倍の努力家で素質も十分にあり、めきめきと頭角を現してくると、岩次郎はすぐさま負けん気を発揮して競い合おうとした。おいそを奪われてからはそれが過剰になったが、自尊心を持つだけの腕はあった。  今も慣れない干浜での仕事にもかかわらず、岩次郎はきびきびと動いていた。だがまさか、腕がいいという理由の訳がない。見えてくるのは違いばかりだった。  岩次郎は誰よりも気張って働いていたが、新太郎に勝つためにだけにやっていることは明白であり、ついに周りから苦情が出た。  それは干鰯を入れた俵を運んでいるときだった。岩次郎が「力がねえんだよ」などと言いながら、二俵を肩に担ぎ小走りに駈けだしたところ、足を滑らせて倒れ、干鰯を地面にぶちまけてしまったのだ。 「おめえら二人でやってんじゃねえんだ、喧嘩の続きがしてえならよそでやれ」  それまで苦々しく思っていた二、三人が集まり、岩次郎のみならず、新太郎にも怒りだした。  自分まで同類に見られるのは心外だった。「おれは関係ねえ、こいつが勝手にからんでくんだ」 「同じだっぺ、おめえたちで輪を乱してんだ」「そうだ、漁だけじゃねえ、干鰯作りもみんなでやるもんだ、昨日の喧嘩でこっちに回されたってえのに、まるで反省してねえな」  新太郎の前でのこの失態に岩次郎は何も言い返せず、顔を真っ赤にして、ばらまいてしまった干鰯を集めていた。 「おれは違う」新太郎はむきになって云った、「輪を乱したことなんてねえ」 「あじ言ってんだ、おめえも同じだ、ぼうっとしてるか岩次郎と張り合ってるかどっちかだべ」  新太郎は何も言わずに岩次郎をにらみつけ、俵を担ぎ直して保管用の小屋に向かった。 「同じじゃねえ、おれは岩次郎とは違う」新太郎は呪文のように口の中でそう繰り返していた。  だが、そう思えば思うほど、不吉な考えが浮かんでくる。 「樵がいると輪が乱れる」そんな声が聞こえてくるようであった。  次の日はさすがに岩次郎も表だって対抗心を見せることはなかった。それでも二人きりになると、「これはおれの勝ちだな」「どうだ、おれのほうが速えべ」とささやいてきた。  しかし、新太郎はもう頭に来ることはなかった。岩次郎が讒言《ざんげん》したという疑いはまだ消えていないし、目障りで、同じだと言われるのもしゃくだが、腹を立てるだけの気力が今は沸かなかったのだ。  樵だから輪を乱す。甚兵衛が結婚を許さず、漁から自分を外した理由がそれかもしれない。その疑念に駆られ、絶望的な気持ちになっていた。  新太郎の様子がおかしいことを岩次郎も少しずつ気づいてきた。三日目には新太郎に話しかけることもしなくなり、訝るように見つめることが多くなった。  それから二日後に岩次郎は漁に出ることを許されたが、新太郎は相変わらず漁には出られなかった。同じ理由だとしても、岩次郎の方が軽かったのだろう。  その夜、喧嘩した夜以来、初めておいそが新太郎の部屋を訪れた。  新太郎はその顔を見ると、「どうした」とだけ言ってすぐに脇を向いた。 「岩次郎が許してもらえたんだって」  おいそは、そう聞きながら遠慮なく上がってきた。 「何であんたは駄目なんだい」 「知るか」新太郎はぶっきらぼうに言った、「何しに来たんだ」 「だっておかしいだろ、岩次郎が漁に戻れるなら、あんただっていいはずだべ」 「それを聞きてえのはおれだ」 「二人で聞きに行くべ、祖父様に何が悪いのか聞こう、このままなんて嫌だ、もう耐えらんねえよ」 「樵だからだ、そう言われたらどうする」  新太郎は挑むようにそう言ったが、その瞳には怯えたような色が見えた。 「樵」おいそは聞き返した、「樵なんて関係ねえべ」 「関係ねえなら何なんだ」新太郎は床を叩いてそう喚いた、「おれが金目当てでおめえに近づいたからか、じゃあ岩次郎と同じというのはどういうことだ、樵だからだべ、おれが山育ちだっていうのが気に入らねえんだ、そうだべ」  おいそは何を言っているのか分からないという顔をしていた。 「何やけになってんだよ、祖父様はよく、山の人間と海の人間は同じだって言ってんだ、そんなの関係あるわけねえべ」おいそは覗き込むように新太郎の顔を見ながらそう言った、「それに、金目当てって何だよ、あんたそんなつもりだったのかい」 「おめえこそ何言ってんだ」 「あんたが金目当てで近づいたって言ったんだべ」 「それは岩次郎が言ったんだ、そのことじゃねえ、山と海がどうとか言ったべ」  おいそは、甚兵衛はもともと山だ海だと区別するような人ではなく、むしろ漁樵という言葉もあるように、互いに通じ合うところがあると言っている、と説明した。  新太郎はほとんど絶句してしまった。頭が混乱するばかりで何がどうなったのか自分でも分からなかった。  おいそはじっと、新太郎の顔を覗き込んでいた。 「樵は関係ねえのか」  しばらくすると、新太郎はそう言ってあきれたように笑った。 「だから聞きに行くべ」  新太郎は首を振った、「聞いて答えてくれるなら、始めから何が悪いのか言ってくれるはずだべ、漁師の資格がねえと言われたんだ、自分で考えねえと意味がねえ」 「それなら二人で考えよう、な、今日はこっちに泊まってもいいべ」 「駄目だ」新太郎はそう言った、「何が原因か分からねえうちは下手なことはしねえ方がいい、おめえがここにちょくちょく来てるのをご隠居が怒ってるのかもしんねえべ」 「でも」とおいそは縋るように新太郎を見つめた、「一人じゃ不安なんだよ、今日だけ一緒にいてもいいべ」  新太郎はおいその手を握り、「おれも同じだ」とうなずいた。 「二人のために我慢してんだ、樵だということが原因じゃねえなら望みはある、ご隠居のことはおめえの方が詳しいんだ、おめえも一人で考えてみてくれ、今が我慢のしどころだ、分かるべ」  おいそは衝動的に、荒々しく新太郎の唇に自分のを重ねた。そのまま離れようとしないおいそを一度きつく抱きしめ、新太郎は静かに顔を離した。 「もう行った方がいい」  おいそは唇をかみしめてうなずき、何かを言いたそうにしながら、それでも何も言わずに部屋を出ていった。 「何でこんなことになったんだ」  新太郎は恨めしそうに、壁の向こうにあるはずの母家を見つめた。 「おれが何をしたんだ、夢を見て海に来ただけだべ、それは一攫千金と言われるかもしれねえ、おいそのことは惚れてるが、どこかで佐久田の娘ということでの期待はある」  しかし、それが悪いと新太郎は思わなかった。そのために人を騙したり、陥れるようなことはしていない。おいそとのことも、例え一生網子のままでも嫁にもらうつもりでいた。 「そうだ、佐久田家が紀州からこの土地に移り住んだのは、おれと同じ気持ちだからだべ、生まれ故郷を捨ててこの九十九里で一旗上げるつもりだったんだべ、同じじゃねえか、何が違うんだ」  最後には叫んでいた。新太郎は自分の声の大きさに驚いて耳を澄ませた。風が出てきたのか、波音のように葉擦れがの音が聞こえてくる。どこにも届くわけのない自分の叫び声に、新太郎は言いようのないむなしさを覚えた。 「このままじゃ駄目だ、どうにかしねえと」  その夜の強い風は、新太郎の睡眠を妨げるこの悩みを、一層かき乱すように吹き荒れた。  朝まで眠れず、風も収まる様子はなかった。強い南風で、朝から桜の頃のような陽気になっていた。春一番である。その日は漁もなく、干鰯を広げることもできなかった。  皆が網や道具の手入れをしている中、新太郎は部屋に閉じこもり、蒲団の中でぼんやり横になっていた。ほとんど一晩中、「何が、どうして」と考えようとしたが、悩んだところで答えが出ないからなのか、結局何も考えられなかった。こうしてうとうとしながら考えを巡らせようとしたが、それもできない。 「資格がない……」  そうつぶやいて、新太郎は蒲団を頭の上に引っ張り上げた。  与助が部屋に来たのが日の暮れ始めた夕刻で、その時まで新太郎は眠っていた。  風音のせいか、久しぶりに山での生活を夢に見た。内容はよく覚えていないが、「こんな暮らしは嫌だ、逃げ出すんだ」という思いだけは、目を覚ましたあとも残っていた。 「具合でも悪いのか」  与助はそう言って部屋に上がると、蒲団から上半身を起こした新太郎の横に座った。 「おれはやっぱり海が好きだ、山には戻りたくねえ」  新太郎はため息のようにそう言った。 「そっちか」与助は予想していた通りだというようにうなずいた、「おいそも元気がねえ、祖父様も何が気にいらねえのか、おれはおめえたちがかわいそうだ」 「理由は分かんねえかい」 「分かんねえ、取りなそうとしても聞いてくんねえんだ、おめえはどうだ、何か気づいたことはねえのか」 「さっぱりだ、樵の生まれが関係ねえなら望みがあると思ったんだが、その望みをどこから引っ張ってくればいいのか見当もつかねえ」  与助は、「諦めんな」と慰めた、「もともと祖父様も親父もおめえのことは気に入ってんだ、あんまり思いつめねえで、干鰯作りをちゃんとやれ、そうすれば分かってくれっペ」  新太郎は確認するように何度もうなずいた。当たり前のことを言われただけだが、人に言われると気が楽になるように思えた。 「そうだな、どうせ考えても分かんねえんだ」そう言って新太郎はおどけたように笑った、「焦らねえで、また一からおれの気持ちを見てもらうべ」 「それが一番おめえらしい」  与助は、「しっかりやれ」と言うように新太郎の肩を叩いた。  次の日から新太郎は、仕事に精を出すように努めた。心の中には不安や焦り、それによる憤りが渦を巻いているが、それらを押し殺すように仕事に励んだ。  だがそれも、二日後の出来事で変ってしまった。その日、鰯の大群が現われた。  それは、今まで誰も見たことがないようなすごい群であった。普段は「柱バネ」などという表現を使うが、とてもそれでは言い表すことができない。どこもかしこも鰯で埋まっていた。海の色は黒く変り、水面は沸き立ち、まぶしいほど銀色の光が海一面から放たれ、鰯のはねる音が嵐のような音を立てた。  村中が浮き足立って興奮していた。網を入れれば網一杯に鰯が入り、網が重くなり引き手が足りないほどであった。 「網を引けるものは網を引け」海岸では佐久田喜平が声を限りに指示を出していた、「すぐに次の網を船に乗せろ、手の空いているものは取れた鰯を干浜に運ぶんだ」  新太郎はいても立ってもいられず、喜平の元に行き、網を引いてきますと言って走り出した。 「おめえは駄目だ」  喜平の鋭い声が新太郎の足を止めた。 「何でだ」と、新太郎は掴みかかるような勢いで戻ってきた。 「おめえは破れた網を直せ」 「経験のあるもんが引いた方がいいべ」新太郎は怒鳴った、「こんな時に網を引かねえで何が漁師だ」 「おめえは漁師じゃねえ」  喜平はそう一喝した。新太郎は驚いてその顔を見つめた。 「山を馬鹿にするものに漁をする資格はねえ、邪魔だ、早く言った通りにしろ」  そう言うと喜平は、大股に海の方へ歩いていった。新太郎は呆然と、指揮を執る喜平の後ろ姿を眺めていた。  海が埋まるほどの鰯の群は、三日間浜に大漁をもたらせた。村中が寝る暇を惜しんで働いた。網を引くたびの大漁で、干鰯を作るために浜に干すにも干す場所が足りなく、〆粕を作り、魚油を取るために昼夜を問わず大釜で煮てもおっつかない。  誰もが嬉々として働く中、新太郎は一人、むなしさを抱えていた。このような大漁の喜びこそ、新太郎が海に求めてきたものだった。海にあふれる鰯を目の前にしても網が引けないという事実は、あまりに辛かった。  海も鰯も見たくはないと、新太郎は年寄りと一緒にむしろを編む作業をした。鰯を干すにも俵を作るにもむしろは必要なのだが、それが足りていなかった。そのため、忙しい中油を売っているという負い目は感じなかったが、一方で、大漁の喜びを分かち合うこともできなかった。  十日ほどで目の回るような忙しさは一段落したが、まだまだ干鰯、〆粕作りや、それらを梱包、運搬する仕事にさらに十日ほど追われた。  その二十日あまりの間で、新太郎の心の中に変化が現われてきた。  おいそが忙しさを縫って二回会いに来たが、新太郎は乱暴に追い出した。 「何を怒ってんだよ」  おいそは何度もそう言って縋りついた。 「怒ってんじゃねえ」新太郎は吐き捨てるようにそう言った、「おめえの顔を見るのも辛れえんだ、もう放っといてくれ」 「何があったのさ、我慢しようと言ったのはあんただべ」 「うるさい、もうおれにかまうな、出ていけ」  新太郎は無理やりおいそを外に出した。自暴自棄とも言えるあきらめの気持ちが、強く彼を支配するようになっていたのだ。 「山を馬鹿にするものに漁をする資格はねえ」  そう言われ、なぜ自分が漁から外されたのかが分かった。それが分かれば何とかする方法もあると思ったのだが、新太郎には、なぜそんなことで結婚を反対され、漁をさせてもらえないのか分からなかった。  新太郎にとって山は、じめじめとした暗く貧しい生活の象徴でもあった。そして、海は金持ちになれる希望と明るい未来の象徴なのだ。山を馬鹿にすることは、同時に海を賞賛することになり、結婚の許しを得ようとしたときも、いかに海に強い思いを抱いているか知ってもらうためには、山と樵の生活を否定しなくてはならなかった。それが悪いと言われても、何がどう悪いのか理解することができなかった。  樵の生活を誉めるのなら、海に来た意味がなくなる。どうしていいか分からないし、どうすることもできなかった。 「他の海に行くか」  何度もそう考えたが、それはただ逃げ出すだけであり、漁師の資格がないと言われたことは一生つきまとい、どこに行っても、これまでのように働けないことは自分が一番よく知っていた。  干浜に干される鰯の数が今までと同じくらいになり、慌ただしかった日々も日常に戻り始めた。いつしか春も深まり、そろそろ桜の蕾もほころび始めてきた。  そんなある日、佐久田の屋敷で大漁祝いが催された。芸者を江戸から呼び、豪華な膳がすべての網子に配され、飲み、唄い、踊り、朝まで喜びを祝った。  新太郎も末席に席をもらった。ただ、漁師たちの話は鰯の数のすごさや網の重さのことばかりで、新太郎はずっと黙って一人で飲んでいた。与助も何と声をかけていいか分からない様子で、彼が三回ばかり酒を注ぎに来たほかは、新太郎に話しかけるものもなかった。  宴は大いに盛り上がり、それが絶頂を迎えるころ、喜平から万祝が配られた。これは縁起物の絵柄を染めた長い半纏のような祝着で、網主から専属の漁師である網子に配られる。  喜平が一人ひとりの名を呼び、労をねぎらってそれを手渡した。一人が呼ばれ、また一人呼ばれる。  新太郎は緊張した面もちで喜平が呼ぶ名に耳を傾けていた。ここで万祝がもらえるかどうか、それにすべてを賭けてみようと思った。網子として、つまり漁師としてこの場に呼ばれ、万祝をもらえるなら、許される可能性はある。ただの居候としてここに呼ばれ、万祝をもらえないのなら、すべてを諦めよう、そう思っていた。  山のように積まれた万祝が減っていき、三枚になり、二枚になり、一枚になった。新太郎の名は呼ばれなかった。  網子たちは、鶴や亀、金太郎などの紋様を比べ合い、これまで以上に座敷が賑わった。新太郎は静かに席を立った。岩次郎がその姿を認め、「おい」と声をかけ、喜平と新太郎の後ろ姿を見やった。新太郎はその声を拒絶するように、硬い表情で出ていった。  部屋に戻り、新太郎は倒れるように蒲団にうつぶした。わずかに持っていた希望はついえ、漁師として認められないことがはっきりした。  悩みから解放され、肩の荷が下りたような安堵感と、すべてを失ったような脱力感を感じながら、新太郎はゆっくりと目を閉じた。 「山へ帰ろう、負け犬にふさわしい仕事をするんだ」  と、自分をあざけるようにつぶやいた。 「一眠りして、夜が明ける前にここを発とう、おいそのことだけが気がかりだが、樵の嫁にするのはかわいそうだ、岩次郎にくれてやるのはしゃくだが、あいつは漁師だ、おれは違う、諦めてくれ」  新太郎は心の中でそう言い、もう何も考えないで眠ろうと思った。  風向きのせいか、信じられないほど強く潮が香った。胸が詰まった。新太郎は蒲団に顔を押しつけた。そのままじっと眠気がくるのを待ったが、宴会の歌や囃子が耳について寝られない。耳をふさぐとどこからか波の音が聞こえてくるような気がした。  たまらず蒲団を剥いで起き上がった。 「駄目だ、眠れねえ」  水を飲もうと土間に下りたが、そのまま井戸に顔を洗いに行った。勢いよく水を使って顔を洗い、手ぬぐいで拭いて空を見上げると、十三夜の月が明るく輝いているのが見えた。雲が多いようで、明るい月に照らされた雲の輪郭が月の周りだけはっきりと見えた。  海へ行こうと思った。どうせ眠れないなら、最後に心ゆくまで海を見てから山に帰ろうと思った。  月明かりを頼りに砂浜に着くと、月が雲に隠れ、辺りは真っ暗になった。新太郎は砂浜に腰を下ろし、膝を抱えて座った。風はほとんどなく、穏やかで暖かい夜更けであった。  新太郎は大きく息を吸い、何度も深呼吸をした。海からの柔らかな風が体全体に行き渡るようで、虚しい気持ちが薄れていくように感じた。  しばらくそうして暗い海を見つめていると、後ろから足音がした。振り向くと提灯の明かりが近づいてきた。その明かりが新太郎の姿を捉えると、まっすぐにこちらにやってきた。それは岩次郎であった。 「部屋にいねえから探したんだ」  岩次郎はつぶやくようにそう言うと、新太郎の隣りに座った。 「もう終わったのか」 「まだだ、抜けてきた」 「どうしたんだ」 「おめえこそどうしたんだ、何で万祝をもらえねえんだ」  岩次郎は照れたようなやさしい口調でそう言った。 「もういいんだ、おれは漁師にはなれなかった」  新太郎も静かに言った。 「何でだ、何かあったのか」 「漁師になる資格がねえと言われたんだ、山を馬鹿にするからだと」 「おれもそれで叱られた、樵を馬鹿にするやつは漁師じゃねえってな、でもおかしいべ、だからって万祝をもらえねえのはひでえ」 「もういいんだ、おれは山に帰る、誰にも言わねえつもりだったが、ここにおめえが来たのも何かの縁だべ、おめえは立派な漁師になれよ」 「何言ってんだおめえ」岩次郎が押さえつけるような声でそう云った、「おれはおめえが好きじゃねえ、でも競い合ってここまで来たんだべ、おめえがいねえとおれは張り合いがねえんだ、しっかりしろ」 「そう言ってくれるのはありがてえ」新太郎は素直にそう言った、「悪いな、でもおれには過ぎた夢だったんだ、もう張りつめてた糸が切れちまったよ」 「冗談じゃねえ、おれが掛け合ってやる」  岩次郎は勢いよく立ち上がった。 「いいんだ」  そう言って振り向いたときには、もう岩次郎は走り出していた。 「提灯も持たねえで、馬鹿なやつだ」  新太郎はすぐに首を振った。 「岩次郎はいいやつだ、あいつはこそこそご隠居に悪口を吹き込みはしねえ、馬鹿はおれだ、岩次郎を疑って、ぐちぐち悩んで、おいそに当たった」  新太郎は首を垂れ、深くため息をついた。 「みっともねえ、なんて小せえ男だ」  新太郎は自分の位置を確認するように、左右を、そして空を見上げた。目の前に荘厳と広がる海、漫々とした空に浮かぶ雲、その奥で光る月、どこを見てもちっぽけな自分を証明するものばかりだった。  九十九里と呼ばれるこの長い浜にぽつりと座る自分は何と小さいことか、それに比べて自然は計り知れないほど大きい。樵も漁師も大きな夢も、何もかもが小さなことに思えた。  首筋に雨の滴が落ちた。しかし新太郎は、膝を抱えたまま目を閉じた。この大きな自然を感じることが心地よかったのだ。  目を瞑り、何も考えずに波の音を聞いていると、海に抱かれているような穏やかな気持ちになる。波の音だけが静かに聞こえた。それは海全体の呼吸のように安らかで、新太郎の心は溶けるようにその呼吸と一体になった。  海と一つになった新太郎は、ゆっくりと波に揺られていた。ふと体が軽くなったように感じると、いつの間にか雲の中にいた。雲は陸に雨を降らせ、新太郎も山の中に落ちていった。雨水と一緒に山を伝い、湧き水となって川になり、また、海へ戻ってきた。 「川は海の恵みだ」  だれかの声がして、新太郎は顔を上げた。それはいつか聞いた喜平の言葉だった。  いつの間にか新太郎は眠っていた。まだ雨は降っていたが、東の空には雲がないようで、白々した明るさがにじむように現われてきた。  じっと見つめる海の先から、太陽が悠然と姿を見せた。暗い海は青く輝き、雨に濡れた新太郎の顔を、暖かい陽射しが照らした。 「ああ」と声を上げ、新太郎は静かに涙を流した。溢れるほどの恵みと慈愛に抱かれ、強い感動に包まれた。  新太郎は、喜平が言ったことを今初めて理解した。漁師も樵も自然の恵みのごく一部を分けてもらっているに過ぎない。それはごく当たり前のことであった。山を大切に思えない人間に海を大切にすることはできない。当たり前のことだから、許せなかったのだろう。 「夢だったのか」  新太郎は、手のひらに落ちる雨粒を見つめながらそうつぶやき、ゆっくり立ち上がった。大きく伸びをし、朝の空気をたっぷり吸った。雨雲の切れ間がはっきり見える。自分でも不思議なくらいすがすがしい気持ちになっていた。 「川は海の恵み、その川は山からやってくる」  新太郎は大きくうなずき、力強く歩き出した。彼が座っていた場所だけに白い跡を残して。  雨はいつしかあがり、砂浜では、ミユビシギが波と追い駆けっこをするように走り回っている。そのうち網を乗せた船が海へ漕ぎ出し、その網を引く漁師たちの掛け声が浜に響いてきた。  それを眺める二つの人影があった。新太郎とおいそである。新太郎がうなずくと、旅装の二人は海を背に歩き出した。                    了