なんて素晴らしいことだろう、自分の手で死ねるということは!

 『死』について考えたことがある。それだけで僕は、誰よりも誇らしい気分になれるのだ。車と女のことしか頭にないあいつらとは大違いだ。だいたい生きているなんて言うのは、いたって刹那的じゃないか。もしかしたら明日にも『死』が迎えにくるかもしれないというのに。迎え?あいつらは、死が迎えに来るまでじっと待つ事しか出来やしない。僕には迎えに行くという意思がある。ある朝僕は、みずうみに足を運んだ。もちろん、死ぬために。海だって樹海だっていいじゃないかと思うかもしれないが、それではだめだ。みずうみじゃないと駄目なのだ。理由はある。粋だからだ。あいつらの言葉を借りれば、クールだからだ。いくら死にたいといっても、その辺は理性的だ。みずうみの霧の中に消えていくようにこの世を去る。リリックじゃないか。そんな後ろ姿を違う所から見られたらいいのにと僕は思う。僕は死んでしまうから水面しか見ることが出来ない。死んでしまうんだからいいかとも考えたけど、そうもいかない。ああ、考えただけでうっとりとしてしまう。どんなにかその背中は粋なことだろう。

 みずうみは静けさと霧に包まれていた。
 霧は思いもかけず深かった。ほんのちょっと先が見えないほどだった。その中を漂うように、僕は歩いていた。ひとりで、感傷的な面持ちで僕は歩いていく。時折、霧が薄くなって、みずうみの向こう岸が見え隠れしたりしている。その濃淡を織り交ぜた深く白い景色が、現実と死を弄ぼうとしている僕の妄想との境目をあやふやにしているようで、それだけで半分死人のような心持でいられた。
 風は感じられないのだが、霧は静かに流れている。それは水面を這うように、僕を導いているかのようにも思えた。辺りに人影はなかった。みずうみに沿って走る幹線道路を車が時折通ったりはしたが、騒がしい話し声や、街の喧騒とは無縁だった。
 水面は穏やかに僕を眺めていた。なんだかそれを見ているとつい引き込まれそうな気分になる。僕はもう少しだけ、歩いてみることにした。その先に何かがあるわけでも、別に目的があるわけでもなかった。立ち止まる事にためらいを感じていたのだ。
 どのくらい歩いた頃だろうか。肌が汗ばむくらいに歩いた頃に、不意に辺りの霧が薄れて、みずうみをぼんやりとだが見渡す事が出来た。小さなみずうみだった。こんなところで死ぬことなどできるのだろうか。僕は倒れた枯れ木の上に腰掛け、ポケットからマルボロを取り出した。それらは霧のせいか少しばかりしっとりとしていたが、その感触がまた唇に心地よくもあった。そして火を付けると、深く煙を吸った。

 しばらくすると、どこからか小石を踏むような石の擦れる音が聞こえてきた。見ると、二十メートルくらい先であろうか、霧の中にぼんやりと水色のワンピースを着た細身の女性が立っているのが目に入った。彼女は僕に気づいていないらしく、みずうみに向かって歩き、ただじっとみずうみを見つめていた。
 僕はしばらく彼女を見つめていた。長い黒髪の細い体からは、僕にどこか病的なものを感じさせた。年は三十前後といったところだろうか。彼女は時折思いつめたように、自分の足元を見つめていた。
 死ぬつもりなのだろうか。僕は直感的にそう考えた。彼女が失うもののない中身のないの殻のように、僕には見えたのだ。
 みずうみの上には、まだ霧が流れている。その白い闇は、ゆっくりといつまでも流れ続けていくようにも思われた。彼女はそのみずうみを見つめている。湖畔に立ちつくしたままじっと、その向こうに見える何かを見つめているのかもしれない。そして僕は、その彼女を眼で追っていた。その時の僕は、何か彼女の秘密でもを覗き見ているようなちょっとした興奮を味わっていた。
 すると彼女は、おもむろに靴を脱ぎ始めた。ゆっくりと片方ずつ靴を脱ぐと、柔らかく膝を曲げてその場にかがみこんだ。彼女の足元を、静かに波が寄せては、引いていく。そして彼女は、何ら迷うことなく丁寧に靴をそろえた。
 僕は、反射的に腰を上げていた。このまま覗き続けることに抵抗を感じたのだ。何か考えがあってのことではなく、ただ腰を浮かせて自分の存在を彼女に知らせたかったのだ。
 彼女も僕に気づいたのか、振り返って僕のほうを向いた。僕が勘違いをしただけなのか、彼女は僕を見ても何ら動じる様子も見せなかった。僕の事を怪しんでいたのかもしれない。彼女は黙って僕を見続けている。僕は立ったままどうしたものかと考え、何も思い浮かばないまま、つい吸い寄せられるように彼女の方へと歩き出していた。
「あの……」僕は、言葉を探していた。
 彼女は黙ったままじっと僕を見つめていた。やましいことがあるわけでもないのに、僕はその目を見つめ返す事が出来なかった。それでも、僕はやっとの思いでその目をちらりとだけ盗み見た。
 その時、ポチャン、と霧の中をかすかに水面が揺れた。彼女がゆるやかな動作で振り返り、追うように僕も視線を移した。おそらく魚が水面を揺らしたのだろう。みずうみに静かに水紋が広がり、消えていった。辺りはとても静かで、静寂が澱んでいるようだった。彼女の目は、この深い静けさによく似ていた。
「ここには、よく来られるんですか?」僕は彼女の横顔に向かってそう言った。その肌は白く、透き通ったゼラチンのようにも思われた。彼女が振り返るまでの短い間、僕はじっと彼女を凝視していた。
「ええ」高めの、かすれた小さな声だった。「よくではないけれど、たまに」彼女は振り向いて、僕を見た。
「おひとりで?」僕はすぐに彼女から視線をそらして、そう言った。
「ええ」
「そうですか……」
 空気が重たかった。次の言葉を出せないことが、余計にそう感じさせているのかもしれない。僕は何か話題になるものを見つけるために辺りを見まわした。しかし目に入るものは、みずうみと彼女、そして白い霧だけだった。
「あなたもひとりで?」彼女はそう言った。僕のほうではなく、みずうみを見てそう言った。
「ええ、まあ」僕は彼女を見つめた。
 彼女はみずうみに向かって立ち、両手でもって髪を一つに束ねる仕草をして見せた。その下からは、白い首筋が目に入った。その白さにどこか憧憬のような感慨を、僕は覚えていた。僕の肌は、憎らしいほどに浅黒く、健全で頑丈な輝きを帯びていた。
「死に場所にはもってこいですね」みずうみを見ながら、僕は言った。半ば冗談のつもりだった。
彼女は、黙っていた。僕はもう一度同じことを言うつもりで彼女の方を見た。
彼女は僕を見つめていた。慌てて僕は目をそらし、開きかけた口をつぐんだ。
「そうね」わざとらしいほどにゆっくりと、彼女は言った。「きっとその通りね」
 僕は、彼女が僕の言葉をどう捉えたのかわからず黙ったままでいた。
「私の主人がね」不意に彼女はそう言うと、その場にしゃがみこんだ。そして少しの間みずうみを見つめてから言った。「ちょうど一年前にここで死んだの。……自殺でね」
僕は何も言えないでいた。さっきの言葉を撤回する事も出来ないでいた。
 それから彼女は、その自殺した主人のこと、死んだ日の朝のこと、遺書がなかったこと、状況から見て自殺以外に考えられないことなどを話し始めた。
「あのひと、事故にあったんじゃないかって……そう思ってました。でもあれからいろいろ考えて、いまはやっぱり死にたかったんじゃないのかなって思えるようになったんです」
 霧はまだ、晴れてはいなかった。僕はその湿った空気を深く吸い、そして音が出ないように注意して吐いた。
「思えばあのひと、いつも笑ってたんです。何にも考えてないような感じでいつも笑顔の絶えない人だったんです」彼女はそう言って立ちあがり、チラリと僕のほうを見た。「何にも考えてないなんて、そんな人いるわけないですよね」
 今度は、僕がみずうみを見つめていた。彼女はそんな僕をぼんやりと見ているようだった。僕は頭の隅の方で気の利いた言葉を探していた。気の利いた言葉。僕は理解者になることに努めようとしていた。
「あの……こんな話、するつもりじゃなかったんです」彼女は、はっと我に返ったようにそう言った。「こんなこと突然言われても戸惑いますよね、ふつう」
 僕はその時、本当に死にたい人間なんているわけがないんじゃないかと考えていた。僕は、身近にある『死』に苛立ちに似た落ち着かない感情を抱いていた。怖かったのだ。自殺なんてそうめったに出来るもんじゃない。僕はいい訳がましく、言い聞かせるようにそう思った。
「人が死ぬなんてそんな、ばかげた話だ」
 彼女は呆気に取られているようだった。僕は、もし彼女が口を挟めばそれをも遮るつもりで話し続けた。
「あなたはそれで、何をしにここへと来たのです」
「わたしは」彼女は勢いよくそこまで言うと言葉を詰まらせた。言葉を選んでいるのか、彼女はうつむいてそのまま湖のほうへと向きを変えた。また、静かな時間が少しだけ流れた。僕もみずうみを見た。
 みずうみには何もなかった。
彼女はかがみこんで水面に手を伸ばし、弱い水紋を岸へと投げかけた。
「わたしは主人を追うつもりでここへ来たの」
 僕は何も言わずにいた。
「何故だかわからないけど主人は死んだの。何故だか、わたしにはわからないけど……」彼女は繰り返して言った。
「別に」僕は何かを断ち切りたくて言った。「僕はあなたを止めようなんて、考えてませんよ。きっとあなたは死ぬなんて出来ないんだ。しかも何故だかわからないまま死んだ人を追うだなんて。僕には信じられない」
「きっとあなたには理解できないわ」彼女は強い口調でそう言った。
「あなたを?」
「違う」
「じゃあ、何が」
「それはね」彼女はそう言うと、呼吸を整えるためなのか長めに息を吐いた。「死にたいと思う人間の気持ちよ」
「そんな……わかりますよ」僕は強がっていた。彼女の強い口調がそうさせたのかもしれない。彼女の深刻さも思いやらずに、僕はただ強がり、自分が傷付くのを恐れていたのだ。
「そう……」彼女には、僕の言葉は見え透いていたのかもしれない。彼女はそれ以上もう何も言わなかった。
 僕はどうして良いのかわからず、体中に充満している恥ずかしさをどうにかしたかった。口にする言葉も思い浮かばず、その場から逃げ出してしまいたかった。僕は彼女を見て、それからみずうみを見つめた。霧は少し晴れたようだった。
「気にしないでね」小さな声で彼女は言った。僕は彼女を見つめ直した。彼女も僕を見つめていた。「あなたには関係のない事だから」彼女はそう言って、うつむいた。
 僕は足元に目を移した。そして足の裏の感触を意味もなく意識してみた。靴のソール越しに、石の感触が伝わってくる。僕は逃げ出す事にも怖れを感じていた。
「私は死なないわよ」その声は、微かに笑っていた。「あなたに会えて面白かったわ」
 見上げると、彼女はもう笑ってはいなかった。僕はうつむいて、石の感触を確かめながら歩き出した。振り返る事も出来なかった。僕は一人でみずうみを後にすることに未練があったが、なぜか彼女を連れて行こうとは思わなかった。
                                        
                   (完)