大 銀 杏 の 陰  学生鞄の中から小さな壜を取りだすと、両手のひらに包みこむようにして目をつむった。  鶴岡八幡宮の境内。でも、明日香は神社に奉られる神に対して祈っているわけではない。本宮へと続く階段の脇、樹齢一〇〇〇年を超す大銀杏の陰にひそむように立ち、昔同じようにその場所に潜んでいた人物に自分を重ねているのだった。  大銀杏は名前からも分かるように、直径が一メートル以上もあるどっしりとした木で、上に伸びる枝の途中から、地面に向かう根のような枝が顔をのぞかせているという少し不気味なものだ。参拝に来た人は長い階段の途中、秋を彩りはじめたその木に関心を払うこともあるが、木の前にある朱色に塗られた柵を乗り越えてまで近づき、触ってみたいとは思わないようだ。だから小柄な明日香は太い幹の後ろに完全に隠れたまま、誰にも見つけられることはない。 「この木、知ってる? ほら、源実朝が殺されたところ」 「さねとも? 頼朝なら知ってるけど」 「三代目の将軍よ。実朝が殺されてから鎌倉幕府の実権が北条氏にうつったっていうの、昔習ったでしょ?」 「そんなこともあったかしら」 「殺したのは実朝の甥の、なんとかいうお坊さんだったんじゃなかったかしら」 「そうなの?」 「たしか『父の恨み』とか言いながら刺したらしいわよ」 「実朝」の名を口にする人はいても、「公暁」の名前を咄嗟に思いつける人はまずいない。明日香は湿った暗がりで物憂げに目を開くと、階段を見上げた。階段の手すりは最近塗りなおされたのか、まだ朱の色が鮮やかだ。確かに「暗殺」という言葉のイメージには、この光の当たる階段よりも、大銀杏の陰の方が似合う。でも本当に実朝が殺されたのは、今も多くの人が行き交う、まさにその階段の上だったはずだ。  階段を降りてくる実朝を待ち続けた公暁という人間の心を思いながら、木に寄りかかった。木が水を吸い込んでいる音が、聞こえたような気がした。 公暁が生きていたのは今から八〇〇年ほど前。この木は二〇〇歳ぐらいだった計算になるが、その時から公暁を隠せるぐらい大きかったのだろうか。明日香は自分の背丈の二十倍ほどありそうな木を仰ぎ見る。でも先端は下の方の枝に覆い隠されて見ることができない。幾重にも重なり、視界を遮る葉。一体この木は、一〇〇〇年の間にどれだけの葉を茂らせてきたのだろう。そしてそのあいだ何を見てきたのだろう。明日香はこの木の見たもの全てを知りたいと思う。残酷な血をみる争いであっても見てみたいと思う。 実朝を殺した後すぐに殺されてしまった公暁を笑う人もいるかもしれない。でも、理性ではない感情という力で歴史は確実に動いた。明日香はそんなドラマに心引かれた。それはみんなが自分の気持ちをぎりぎりまで抑えこんで生きている学校では決して出会えないものだ。 心の中、銀杏の陰から階段に向かって大きな矢印を書く。公暁から実朝への殺意。大人は、公暁が実朝に憎しみを抱くのはつじつまが合わないというかもしれない。公暁の父である頼家を殺したのは実朝ではなく、実朝と頼家二人の母親である北条政子だと言われているし、実朝は将軍の位よりも和歌を詠むことを愛しているような平和主義者だったのだから。でも、明日香はただ一人の人間の一生を支配し続けた憎しみという感情に興味があった。感情の理由ではなく、感情そのものと、その感情がどう一人の人間を動かしたのかに。 明日香は両手に包み持っていた壜を右手のひらに置くと、それを握りしめた。 「大人になると一つ一つ感情がどうでもよくなっていくのよ」  母親の言葉が心に蘇り、そんな「大人」を憎むように右手に力を入れる。いつの間にかほとんど帰らなくなり、気づいたらいなくなっていた父親のことは明日香も憎む気にすらならなかったけれど、すべてをあきらめたように張り合いなく生きている母親の後ろ姿が嫌いだった。 右手のひらに爪のあとがしっかりとついているのを明日香は冷めた目で見つめた。心のどこかで自分がこの壜の持ち主である綾子を憎んでいるのか疑問も感じていたけれど、それには気づかないふりをして、壜を鞄にしまった。 朱色の柵をまたぐと、正面の門に向かった。突然木の蔭から現れた小さな女の子に不思議そうな顔を向けた人もいたけれど、明日香は気にならなかった。気の早い七五三の準備だろうか。境内には平日でも露店が並んでいる。その前を通り過ぎて境内を抜け、由比ガ浜まで伸びる若宮大路に入った。若宮大路の中央は源頼朝が政子のために作ったと言われている段葛になっているが、その両脇に植えられた木はすでに数枚の葉を残すだけになっている。明日香はガイドブックを片手にのんびりと歩く人の間をぬうようにして、海の方向へ走った。特に急ぐ理由はなかったけれど、自分の愛する鎌倉という場所の空気をできるだけ深く吸いながら進みたかった。 鶴岡八幡宮から二十分ほど行くと正面に海が開ける。十一月の海は夏の青い色とは違う、もっと深みのあるものだ。夏よりも秋の方が海の中の透明度は良いと聞いたことがあるが、そのせいなのだろうか。灰色がかった青い色は神秘的な魅力を持つ。  日が落ちて暗くなった砂浜に降りた。右手に夕焼け、左手に上弦の月という贅沢な風景の中に立つ。波は相変わらず強い潮の匂いを運びながら、微妙にくずれるリズムを奏で続ける。波の打ち寄せるぎりぎりのところまで進み、重たい学生鞄を下ろした。そしてさっき手のひらに握っていた小さな壜を再びとりだし、太陽と月の光にすかせてみせた。壜の中には香水が入っている。でも、明日香はその匂いをかごうとはせず、ただ壜の中の世界を見つめている。そこにはこの海の光景と同じように、透明な液体と空気と太陽と月の光がある。でも、悲しいほど小さい。明日香はその小ささを憎んだ。  そのまま壜だけを持って数歩進み、海の中にゆっくりと浮かせた。黒い革靴が波に侵されかける。壜を握っていた手から力が抜け、その透明な容器と液体は、波に引きずられるように遠ざかっていった。  教室に入るとかおるに元気に声をかけられ、明日香はいつものように若干戸惑いながらも「おはよう」とありきたりな挨拶を返した。かおるはまだ何か話していたそうなそぶりを見せたが、明日香はそのまま窓際の自分の席に向かい、鞄をおいた。机の左側につくようにして据つけられている古びたヒーターから生暖かい風が送られてきているのを感じた。冬がそこまで来ていること、自分がもう中学の三年間を折り返したことを瞬間的に思った。明日香は席につくと、読みさしの文庫本を開き、無関心を装って、窓側から四列目、前から二番目の綾子の机を盗み見た。いつもはちきれそうになっている革の異様に擦り切れた鞄が見えた。綾子はもう来ている。綾子の物を盗むのも、それを海に流すのも、明日香にとってはもう何度も繰り返している「儀式」のようなものだが、いまだにそれが大事になるといいという淡い期待と、平穏な生活を続けたいという望みの葛藤を「儀式」の次の日には感じる。  しばらくして綾子が唯を連れて教室に入ってきた。綾子は必要以上に大きな声で話すところがあるから、二人の姿が見える大分前から石の廊下に反響する甲高い声は明日香の耳に届いた。その声が不自然に塗り固められた綾子のピンク色の唇を思い起こさせる。明日香は思わず眉をひそめる。あの不気味な化粧さえしなければ、綾子はそこそこ「いい」顔をしているのにと思う。それは整っているというのとは違い、どこかアンバランスなところもあるのだけれど、人に好感を持たせる「隙」があるというようなことだ。肩までの髪は風で時々ふんわりとなびき、シャープなあごのラインの作り出す冷たさをカバーした。 「あーもう、気に入ってたのにな」  綾子は唯の方を見て言った。綾子の話しているのが昨日海に流した香水のことなのだと明日香はもちろん分かっている。それでも、相変わらず机の上に本を広げ、左手で頬杖をつき、右手でページをめくる。そうするとちょうど斜め右前にいる綾子と唯のことが視界の隅にとらえられる。 「GUCCIだったっけ? せっかくあややのパパさんが買ってきてくれたのにね」 「そうだよ。イタリア土産だったのに」 「あややに似合うからって、ふつーの人がつけても浮いちゃうだけだよねー」  唯はストレートの長い髪を指の間にはさみ持ち上げるようにしてから、ばさばさっと音を立てて落とした。そういう仕草が男の気を引くことを唯は理解してやっているのだろう。「あややに似合う」と綾子を誉める心の奥に、綾子より自分の方が美しいという自信が見え隠れした。  綾子は明日香の視線に気付いて瞬間後ろを振り返ったが、視線の先にいるのが明日香だということが分かると、つまらなそうにまた唯の方に向きかえった。明日香はそんなとき綾子を軽蔑する。明日香は自分の「儀式」がばれないことを祈ってはいるけれど、自分に関心を示さず、全く「犯人」を見破られない綾子を見ていると無性に腹が立った。 「今度パパ、フランスに行くんだけど、唯の分もなんか頼んであげるよ。なにがいい?」  綾子は明日香と目があったことなど忘れて、唯との会話に戻った。明日香は一度大きく息を吐いて昨日のことは忘れることにした。 一時間目の授業は音楽。音楽室は細い公道を挟んだ向かいの敷地にある。 「そろそろ行かない?」  かおるが明日香のところに来て誘った。明日香は心の中で「音楽室くらい一人でも行ける」と思っていながらも、断る理由もないので無言でついて行った。教室の入口で沙夜が待機している。沙夜はドアの桟に寄りかかるようにしながら、上半身を揺さぶり、明日香たちを催促しているようだった。体の動きに合わせて、二つに結わかれたセミロングの髪が揺れていた。次期女子剣道部部長と噂されている彼女はいつも体を動かしていないと落ち着かないようだった。かおるが近づいていくと「遅れるよ」と一言だけいって、自分は一足先に教室から出て行った。かおるは沙夜に向かって「待ってよ」と嬉しそうな顔をして言い、小走りで駆け寄っていったが、明日香は一瞬かおるのことを見た沙夜の視線に鋭さを感じ、二人から少し距離をとった。 階段を降り、校舎を出るとかおるが話し始めた。 「そうそう、まーちゃんがね、今度友達を家に呼んだらって言ってたんだけどね」  大きな目をより広げるようにして彼女はいつも笑顔で話す。 「まーちゃんがね」  沙夜はかおるの言葉を繰り返す。相変わらず少し毒のある口調だ。かおるが母親のことを「まーちゃん」と呼ぶのが気にいらないのだろう。 「まーちゃんって、ママのことだけどね」  かおるはそれでも全く気にする様子もなく話を続ける。 「それは分かってるって。で? 行ったらなんかおいしいものとかでてくんの?」  沙夜の話し方はとてもストレートだ。威圧的な沙夜の態度だけ見ていると、沙夜がかおるより十センチも低いことなど忘れてしまう。  明日香たちは狭い校庭を横切って音楽室に向かう。校庭の隅に植えられている金木犀の匂いが風に乗り薫ってきた。三人の右端を歩いている明日香はそのまま横を振り向き、校庭の隅の花壇に目をやる。秋に咲く花は少ない。ほとんどの花は春に備え、華やかさを枝や土の奥深くに沈みこませている。緑と茶で統一された小さな庭に、散った金木犀だけが花開いているようだ。かおると沙夜は相変わらず発展しない会話を続けていたが、明日香は二人の会話にめったに口を挟むことはなかった。明日香が二人とどうにか一緒にいられるのは、その距離の取り方を許されているからかもしれなかった。  音楽室に入ってからパート別に分かれた。明日香はメゾソプラノ、沙夜とかおるはソプラノだ。明日香はソプラノと一番離れたメゾソプラノの席に座った。奇妙な形をした机つきの椅子に座り、教室をみまわしながら授業の始まりを待った。音楽室は普通の教室とは微妙に匂いが違う。やけに明るい緑色をした黒板、大きなグランドピアノ、教室のすみでいつも息をひそめているようなたくさんの楽器。そんなものの匂いなのだろうか。明日香はどうも音楽室も音楽の時間も好きになれない。  先生が来るとすぐ発声練習が始まり、二週間後に控えた音楽会の練習に入った。明日香のクラスが選んだ曲は宮崎駿アニメの主題歌「カントリーロード」だった。確かにいい曲ではあるけれど、投票の権利のある先生には受けそうもない。優勝はもともと狙っていないのだろうけれど、大人を操るにはもっとコツがあるのにと優等生で通っている明日香は思う。  パートごとの練習の後、全てのパートを合わせる。その響きに耳を塞ぎたくなる。みんなどうしてこの不協和音に耐えられるのだろう。明日香は声を出さず、口だけを動かしながら眉をひそめた。自分の声の質を正しく判断するのではなく、友達と同じところに行くというレベルでパートを決めるからこうなってしまうのだと明日香は思う。長三度の和音が、あるところでは短二度になり、あるところでは増四度になる。その音の不快さはバイオリンの弦を元の位置に戻すときの擦れるような音であり、奇妙な角度で息を吹き込んだフルートの音色のようでもあった。  明日香はその音の中、一年の頃のパート分けの日を思い出した。不快な音は不快な感情を呼び起こさせる。  夏休みは去ったもののまだ暑い九月。台風から変わった温帯低気圧が神奈川県にかかり、外は昼間から暗かった。音楽室のうしろにある窓が時々がたがたと鳴った。先生はずっとソルフェージュの単調な音を奏で続けていた。自分の声域を自分で確かめるようにということだったのだろう。でも、その音色は女子のおしゃべりと、男子の立てる雑音でかき消されていた。 「かおるはどこがいい?」  明日香の右側に座っていたかおるに綾子が聞いた。 「私は多分ソプラノだと思う」 「そうだよね。かおるは声、高くてきれいだもんね」  綾子はそうかおるのことを誉めたが、本心かどうか疑わしいと思った。 「でも、綾子が好きなところでいいよ」  かおるは綾子に従う姿勢を崩さなかった。綾子には他にたくさん友達がいるようだったが、その頃はかおるのそばに来ることが多くなっていた。 明日香のクラスは一年の頃、女子の三分の二ほどが一つのグループのようになっていて、その集団はどこに行くにもぞろぞろと群れをなして移動していた。それは十人を超える遊牧民の移動のようなものだったから、その中の全ての人が等しく友達だったわけではもちろんなく、ただなんとなく小さな塊が、大きなうねりを作っているように見えた。その集団の一番の親分が当時は沙夜だった。沙夜が「そろそろ体育館に行くよ」と言うと大きなうねりがゆっくりと動いた。 かおると明日香はそのグループに属さない三分の一の方だった。綾子がかおるに近づくということは、沙夜とトラブルを起こしたということなのだろうか。 「私もソプラノって憧れるんだ。だって、メロディーを歌えるでしょ?」 「うん。あやがそう言ってくれるならソプラノでいいけど」 かおるは「名字じゃなくて、あやって呼んで」と頼まれた通りに綾子のことを呼んでいたが、それにはどこか不自然な響きがあった。綾子はいつまでかおるにつきまとうつもりなのだろう。明日香は二人のやりとりをひと事のように聞いていた。 「じゃあ、三人でソプラノに行こうね」  綾子がかおるをはさんだ明日香にも聞こえるように言った時も、「んー」と曖昧な返事しかしなかった。自分の声域は本当はアルトに近いメゾソプラノだと思っていたし、綾子に「三人で」と気をつかって仲間に入れてもらわなくても構わなかった。 「決まりね」  綾子はかおるに親しげに笑いかけ、そのあと筆箱から万年筆を出した。明日香は横目でそれを見てとると、また始まったと眉を寄せた。綾子はそれには気付かずに、 「これ、パパがイギリスで買ってきてくれたクレージュの万年筆なの」 とかおるに見せた。明日香も中学入学のお祝いにそんなマークの入ったものをもらったような気がしたが言わなかった。 「かわいい。ピンクの万年筆なんてあるんだ」  陶器のように鈍く光るピンク色のボディーと、鋭い金色の光を反射する筆先を見て、かおるは心からうらやんでいるようだった。 「万年筆は一本だけなんだけど、シャーペンとボールペンが何本か家にあるから、良かったらあげるよ」 「ほんとうに? うれしい。私もなんかお返ししなきゃ」  かおるは今にも飛び跳ねていきそうにはしゃいだ声で言った。 「覚えていたら、明日持ってくるね」  綾子は肩のところではねる柔らかい髪をカールさせるようにもてあそび、明日香と目が合うと、ふたりだけのおそろいなのとでも言いたそうに笑った。明日香は笑顔でそれを受けた。 「そのマーク、エックスなの? その形がかわいいのかな?」 と無知なふりをして聞いた。綾子は「困っちゃうよね」というような苦笑をつくって、かおるの方を見た。それから 「ブランドのマークって、別にその形を楽しむものではないのよ」 とさも分かったように言い、ピンク色の唇を歪めた。 「へー、そういうものなの」 明日香も綾子の言葉に感心した振りを装った。 希望のパートのところに名前を書くように言われ、明日香たちはソプラノのところに名前を書いた。先生は黒板を見まわした。 「ソプラノはちょっと多いわね。誰かメゾに移ってくれないかしら」 先生の一言に、明日香は顔を上げた。一人でメゾに移るいいきっかけかもしれない。かおるにメゾに移ることを伝えようとした。かおるを振り向くと、かおるの耳に綾子がささやいているのが見えた。かおるはその内容を理解すると、うなずいて明日香にもそれを伝えようとした。綾子がそれを止めるのが見えた。明日香は気付かないふりをして黒板の方に視線を向けた。 「私と猪瀬さんでうつります!」 綾子の甲高い声が耳元で叫ばれたかのような大音声で響いた。先生は「ありがとう」と言ってから、綾子とかおるの名前を黒板に書いた。チョークが黒板にたたきつけられる音が少し気になった。明日香は二人の方を見なかった。わざわざ振り向かなくても、隣にいるかおるはあわせる顔がないとうつむいているのだろうし、綾子はやっと邪魔者を処理できたという勝ち誇った顔をしているのだろうと理解できた。  明日香は綾子に対して怒る気にはなれなかった。かおるに対しても。ただ、そんな感情を持たない自分自身に危機感のようなものを抱いた。 パートごとに別れる時、明日香はかおるに「じゃあね」と軽く挨拶をして、一人でソプラノの場所に移動した。かおるは明日香が怒っていないことを見てとると、心からの安堵を見せて「ごめんね」と言った。移動の途中、明日香は唯とぶつかった。唯は長い髪をかきあげるだけで謝りはしなかった。唯はメゾに移るところのようで、行く先の誰かに笑みを見せていた。明日香が振りかえって見ると、その笑顔を受け取り、返していたのは綾子だった。はめられたのは自分だけではなく、かおるもなのだと、その瞬間、悟った。 「耳をすませば」の主題歌、「カントリーロード」を歌い終わると、ちょうど授業が終わった。先生は明日香の感じた不協和音には触れず、ただ「もうちょっとソプラノの旋律が優先されるように各パートは気をつけてね」と言った。先生は自分が担任しているクラスを勝たせたいのかもしれないと明日香は思った。こんな奇妙な響きのまま放っておくなんて。  音楽室を出ると、入口でかおると沙夜が待っていた。「思ったより高いから、声がでない」かおるはそう言った。沙夜は何も言わなかった。もともと沙夜はソプラノの音など出せないのかもしれない。沙夜にはもっと低い声で「めんっ」とか「どー」とか叫んでいる方が似合う。明日香は以前のぞいた剣道部の練習の場面を思い出した。沙夜は防具の中から相手に鋭い視線をなげ、力強く体育館の木の板を蹴った。  教室に戻ると歴史の授業だった。明日香は教科書とノートを広げはしたけれど、熱心に授業を受ける気はなかった。明日香が好きなのは鎌倉時代とそこで生きる人達なのであり、授業が室町時代も戦国時代も過ぎた江戸時代になってしまうと、全てはただ人名と出来事の羅列だった。  歴史の先生は「八代目将軍徳川吉宗の享保の改革では……」などと黒板を書きながらうしろむきで話した。私立の学校には定年はないのかと疑問を持たせるおばあさんの先生は不明瞭な発音で教科書の内容と変わり映えのしない説明をつらつらと続けた。明日香は机の下に源実朝についての本を広げ、それを読み始めた。公暁の殺した、実朝というのがどのような人であったのか、興味があった。  本に集中する明日香の耳には次第に先生の話声も、古びたヒーターの音も、教室の至るところから聞こえるおしゃべりも、校庭から聞こえる体育の授業の音も入らなくなってきた。明日香はただ本の世界に響く鎌倉の海の音だけを聞いていた。「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも」その本にはところどころ、実朝の歌の紹介されているところがあった。明日香はその歌の中に自分のよく通っている由比ヵ浜を思い浮かべた。鎌倉時代の人たちも確かに自分と同じ場所に生きた。そして、その歴史は今も続いている。  空想の海辺にちょっとした雑音が感じられ、明日香は本から顔をあげた。先生がすぐ隣に立っていた。あわてて本を閉じた。ぱたんという音と一緒に「金塊和歌集と実朝」と書かれた表紙が現れた。授業を聞いていなかったことの言い訳はできないと思い、しかられる前に「ごめんなさい。ちゃんと聞きます」と謝った。先生は素直に謝った明日香に好感を持ったのか、叱ったりはしなかった。 「どうして歴史を学ぶかあなたは知ってる?」  穏やかな口調でそれだけ聞くと明日香の反応を待った。周りの人達は普段叱られることなどない明日香と先生のやり取りを興味深そうに見ている。みんな授業には全く興味を示していなかったのに。 「もちろん答えは一つではないと思うから、あなた自身の考えを教えてくれないかしら」  先生の言葉は相変わらず不明瞭なもごもごしたものだったが、その時はその響きが優しいものにとらえられた。 「歴史は……味わうためにあると思います」 「なるほどね。時代劇を見るようなそういう接し方もあるわね」  先生はおもしろそうに目を細めた。 「先生はどう思うんですか?」  明日香は自分が少し反抗的な態度をとっているような気もしたが、純粋に聞きたいと思ったことを口にした。 「そうね」  と言った後、先生は教室を見回した。そして、みんなが自分と明日香のことを見ていることに気づくと、教卓の方に戻り、 「どうせだからみなさんに説明しますね」  と、話し始めた。ところどころで笑いをかみ殺したような息のもれる音や、突然眠りから覚め、あわてて教科書をめくりはじめるがさがさという音が聞こえた。 「歴史は決して点ではありません。どこから始まってどこで終わるかも分からない長い長い流れです。年号や事件を覚えたりもしますけれど、それだけで終わってしまったら勉強ではありません」  みんなに向かってそう説明した後、 「山名さんは実朝が好きなんですか?」  明日香の方を見てそう聞いた。明日香はどう答えるべきか考えた。いつも明日香のことなど見ることもないクラスメートの目が自分の方に向けられている。 「実朝ではなくて、実朝を殺した公暁に興味を持ちました」  明日香は正直に答えた。ただ「公暁を好きだ」とは言わなかった。公暁は人を、それも本当は罪のない純粋な心を持った実朝という人間を、ふいをついて襲った卑怯な人間だ。明日香にも他の人の目に映る公暁の像が見えないわけではなかった。 「そうですか。公暁ですか」  先生は少し考える間をとってから続けた。 「誰に興味を持ってもそれは自由です。そしてその人にとっての歴史はそこから深くなっていきます。でも、歴史はそこで終わるものではなく、今もこれからも続いていくものだということを忘れないでくださいね。そのために、私はあなた方に歴史の流れを教えているのですから」  先生は途中から明日香だけではなく、教室にいるみんなに語りかけるようにした。もちろんその間全員が真面目に前を向いていたわけではなく、綾子は唯へ宛てたものらしい手紙を書き、唯は長い髪をもてあそびながら枝毛を探し、沙夜は机につっぷして寝ていた。そしてかおるは大きな目をさらに見開き、明日香を見ていた。でも、教室のぼんやりとたるんだ空気の量はいつもの半分ぐらいに減っていた気がした。 「難しい話をしてしまったかもしれませんね」  先生は顔にしわをたくさん寄せて照れたように笑った。明日香は先生の話の全てを理解できたようには思えなかったけれど、実朝についての本を鞄の中にそっとしまった。  六時間目が終わり、帰りの挨拶を簡単にすませると、クラスの人達は何人かの固まりになって帰り始めたり、部活に向かったりした。明日香は教室に入りこむ西日のなかで、ゆっくりと帰りの支度をした。沙夜はもうすでに剣道部の練習に向かっていて、かおるが明日香のいる窓際の席まで向かってきているのが見えた。「椅子はあげて帰って」掃除当番の誰かの声が響き、机を引きずりながら教室の後ろに押していく耳障りな音がしはじめた。 明日香は重たい鞄を気合いを入れて持ち上げると、日だまりから出て、ドアの方に向かった。そして、「図書室に寄ってから帰るね」とかおるの誘いを前もって遮るようにした。かおるは、「えー、そうなの? なんか本借りるの?」と言うだけで、「一緒に行こうかな」とは言わなかった。明日香は少しほっとした。  中学の図書室にはたいした本はなく、明日香は本棚の間を一通り歩き回るだけで、本を探す気はなかった。ただ、明日香が入学する二年前にできたという、AVルームや放送室が一体となったその建物はガラスの使い方が工夫されているせいか、光の差込み方やまわりかたが良く、明日香の好きな場所の一つだった。明日香はその開放された空間を味わいながら、自分が今、中学生になっていることに少しだけ感謝した。 小学校の図書館は教室にするには暗すぎるような、暗闇と湿気とほこりの部屋だった。分厚いカーテンの隙間から漏れる弱い日差しに細かい粒子が舞った。明日香は当時から本を読むのは好きだったけれど、その場所は好んで足を踏み入れたい場所ではなかった。図書室が、体育倉庫の隣にあるというのも奇妙だったが、もうずっと使われていない跳び箱やカラフルなドッジボールの山と同じように、そこの本もいつも息を潜めていた。 「ちょっと話があるんだけど」  明日香は小学校六年生の時、図書委員をしている友達からその薄暗い図書室に呼ばれた。行ってみると、そこにはもうすでに六人の「友達」が待機していた。先生に見つからないように電気を消したまま、いつもの高笑いも押し殺し、神妙な顔を作って、それでもどこか楽しそうに六人は座っていた。明日香は彼女たちの表情を見たとき、そこに入る前からなにが起こるのか分かっていたような気がした。明日香は一人一人の顔を見まわしたが、彼女たちを見ていても不快なことしか思い出せないと感じ、目をふせると空いている椅子に座った。 わざと自分の前でひそひそと内緒話をし、自分を見て勝ち誇ったような笑顔を見せ、トイレの個室に仲良く隠れていった彼女たち。悔しくてどうにもならないと分かりながら、そのドアを力一杯蹴飛ばした自分。「今日は遊べないの」「用事があるから、先に帰るね」こっそり後をついていくと、楽しそうにゴム飛びをして遊んでいた、友達だと思っていた彼女たち。「明日香、運動神経悪いから、入った方のチームが必ず負けちゃうもんね」「でも最後までチームにとってあげないと、泣きそうになっちゃうんだもん」まだ傾きかけたばかりの太陽が屋上のコンクリートと彼女たちの笑顔を照らしていたけれど、階段のおどりばに身を隠していた自分には光は届かなかった。 「ちゃんと話し合いをした方がいいと思って」  親友だと思っていた一人が他の友達と目で合図しながら、明日香に言った。 「そう」  明日香は、ちっぽけな自分が少しでも大きく見えるように姿勢を正して椅子に座った。緑色のビニールでできた椅子はひんやりとしていた。図書室にはかびのような古くさい匂いが充満していた。 「山名さんはどうして、グループの輪を壊そうとするのですか」  一見女の子らしいが、性格は一番きつい一人が口を開いた。いつもは「明日香」と呼んでいるのに、どうしてそんな学級会みたいな話し方をするのだろう。 「特定の人とこっそりつきあうのはやめようって前にも言ったじゃない。こんなちり紙交換みたいの」  隣に座っていた彼女の親衛隊のような子が口を開いた。「ちり紙交換」そう言って彼女が出してきたのは、明日香が親友だと思っていた一人に悩みをうち明けた手紙だった。明日香はなにも言わなかった。体が小刻みに震えるような感覚があった。でも、それは怒りとは違った。逆にそのとき怒りというものが消えていくのを覚えた。明日香はゆっくりと席を立ち、廊下に出た。彼女たちはしばらく呆然としていたが、明日香が図書室のドアを開けたあたりで慌てて立ち上がり、後を追おうとした。  明日香は階段を駆け下りた。そして、迷わずに職員室に向かった。彼女たちはやかましい音を立てて明日香を追っていたが、その行き先が分かると急ブレーキをかけたように止まった。 「どうしたの? こんな時間に?」  下校時刻はいつの間にか過ぎていたらしい。出てきた担任の先生はまっさきにそう言った。 「ごめんなさい」  明日香は先生に謝ってから、ちらりと後ろを見た。彼女たちは黙って明日香のことを見つめていた。なにも言うなとその目は語っていた。明日香は余裕の笑顔を作ってみせた。 「家の鍵がなくなってしまって、友達が今までかかって見つけてくれたんです。でも、財布はどうしても見つからなくて。夕食代の五〇〇円ぐらい貸してもらえないでしょうか」  明日香の家の事情を知っている先生は、すぐにそれだけ貸してくれた。そして、八人全員に笑顔を向けて「気をつけて帰りなさいね」と言った。明日香はそのまま振り向くこともなく、家まで帰った。彼女たちは明日香の味方には先生がついているということを分かったのだろうか、それから明日香に対して完全な無視を続けたが、それ以上関わりを持つことはなかった。明日香はほっとした。そしてそれ以来彼女たちになんらかの感情を抱くことはなかった。  明るい図書室の空気を吸いこみ、ここがあの薄暗い場所でなくて良かったと思う。ゆっくりと吸いこんだ息を吐ききり、家に帰ることにした。 塗装のはげかけた四両しかない江ノ電に乗る。鎌倉から横浜まで横須賀線で二十三分だといっても、自分の生活圏が閉じられた場所であると明日香は思ってしまう。車窓を流れる昔からの家並み。時々覗く海岸線。それらは東京の電車から見る景色よりもゆっくりと遠ざかっていく。ドアに顔を近づけてみる。ガラスを通して冬の気配を頬に感じる。でも外はまだ明るいから明日香の顔はドアにぼんやりとしか映らない。もともとちっぽけで、人の視線などめったに集めることのない自分が、外からの光の強さに消されてしまったようだった。お父さんによく似ていると言われた高い鼻。その輪郭だけが一瞬鮮明に現れた。明日香は少しだけその線を目でなぞったが、すぐに目をそらした。  家に着く三歩手前で鞄に手を入れ手探りで鍵を取り出す。そうすると玄関の扉の前で立ち止まる無駄がない。呼び鈴の表面にうっすらとついた埃を見ながら、明日香は鍵を回し、家に入る。 一年前にはまだ兄のいることが多かったけれど、もう兄も大学生になり、友達の家を泊まり歩くようになった。劇団に入ったと言っていたが、その仲間の家なのだろうか。感情もその表現もあまり豊かとは思えない兄が、舞台に立ち、大声で台詞を言っているところを想像すると、明日香は少し不快になる。受験勉強に明け暮れていた去年の兄の姿も痛ましい感じがして好きではなかったけれど、口の奥でぼそぼそと「あぁ、おかえり」と言う兄が今は懐かしい。  明日香はドアに内側から鍵をかけると、いつも通り下駄箱の上にある小さな犬の置物を撫で、首輪がわりに、家の鍵をかけた。そうしておくと、出掛けるときに鍵を探さなくてもいいし、鞄を代えるときにも便利だった。それに、犬は陶器でできていたから、鍵を掛けると、チャリンという風鈴のような音色を立てた。その音が明日香にとっての「おかえり」になっていた。  制服から普段着に着替え、学生鞄をラフなリュックに代えて明日香はまた出掛ける。この家にはあまりいたくない。特に一人では。ぶつぶつ英語の構文を唱えている兄でも、いないよりはずっと良かったのだと今になると思う。兄とは六歳も離れているから話題は合わなかったが、それでも誰かの存在を自分のそばに感じるというのは心強いことだった。家にあまり帰らなくなった兄に対して裏切ったなどというつもりはないが、なんとなく人に対して期待を持ってはいけないのだという気がした。  家を出た明日香は鎌倉をぼんやりと散策する。小さい頃から同じところに住んでいても、年齢によって少しずつ行動範囲は広がるし、目に映る物に対する興味の深さが変わる。だから鎌倉という場所に飽きることはなかった。明日香は、少しオレンジ色に近づいた太陽が照らす扇ガ谷一丁目に向かった。 明日香の家は鎌倉駅から見ると北東に位置している。横須賀線は南北に走っていて、鎌倉を東と西に分けているのだけれど、東口の方には小町通りや鶴岡八幡宮があり、スーパーやコンビニ、ファーストフードの店も並ぶ開けた場所というイメージがある。それに比べると西口は少し静かだ。側に紀伊国屋があるから若干人の流れはあるものの、そこから北の方に向かうと、閑散とした雰囲気になる。明日香の向かっている扇ガ谷一丁目はその寂しさの序章のような場所だった。  明日香は鎌倉の住人以外滅多に通ることのない裏通りを使い、横須賀線の踏切に出た。鶴岡八幡宮から徒歩三分も離れていないというのに、そこまで来ると観光地とは思えない佇まいになる。道の両端には明日香の家と同じような二階建ての住居が並ぶ。昔から変わらない木造の家もあれば、新しく立て替えたらしい白くおしゃれな建物もある。でもめったに人は姿を見せない。 踏切の前には、細い道が横に走り、目の前は常緑樹の生い茂る世界だ。明日香は、時々思い出したように来る車に注意しながらその道を渡り、土の歩道に立つ。踏切からまっすぐに道を渡ると、左手に神社、右手にお寺というちょうどいい場所にたどり着く。明日香は湿った土が靴を汚さないように気をつけながら、右の道を進む。 そのお寺は寿福寺という。北条政子が亡くなった頼朝のために建てたものだと立て札に書かれている。明日香は湿った空気を感じながら、苔に浸食されかけた石畳の上を進んだ。でも、その道はすぐに行き止まりになり、右手と左手に分かれる。右の道は仏殿につながっているが、中には入れないようになっている。左はただ民家に通じる道のように見える。明日香は一度この寺に入ろうとしたことはあったが、右手の立入禁止の柵に負けて引き返した。でも、今日の明日香の目的は左の道にあった。何軒かの民家を通り過ぎたところにひっそりと現れる墓地。その中に実朝の墓があるのだった。  墓地に入ると「北条政子と源実朝の墓」という控えめな小さい立て札が立っている。明日香はその方向に進む。相変わらず土の道は湿っていて歩きづらい。墓地の端を指す矢印にそっていくと、たくさんのお墓の片隅に「北条政子の墓」と書かれた札がある。そして隣には「実朝の墓」。二つの墓とも小さな崖の窪みの中、風雨から守られるように存在している。ただ、墓というよりは積み重ねられた石といった風情で、全体の形としては灯籠に近い。政子の墓は、窪みの入り口が広いためか、全体像をつかめるだけの明るさがある。それに対して、実朝の方は暗闇にぼんやりと影がみえるという程度だ。明日香は一歩だけその窪みの中に入ってみる。そして暗闇で目を慣らしていると、墓に書いてある文字こそ読めないものの輪郭は目でなぞれるようになる。明日香の身長とほとんど変わらない程度の謙虚な墓。苔むした石は時間の流れを感じさせはするが、それ以上の深さや重さとは無縁のものだ。明日香はその墓の前で、こっそりと手をあわせた。自分の背丈より少し低いその墓を見下ろすようにしていると、実朝はやはりただの犠牲者に過ぎないという気がしてくる。閉じた明日香の瞳の奥に鶴岡八幡宮の何段もある階段が思い浮かぶ。明日香はいつもそれを銀杏の木の裏側から見ているけれど、その時は本宮から下りる視点として階段を見つめる。公暁ではなく、実朝の視点。実朝はどこを刺されたのだろう。「出ていなば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」実朝が自分の死を予感して読んだと言われている歌だ。一月二十七日。冬のこごえそうな一日。日も落ちて暗くなってきた午後六時頃。今のようにダウンコートやニットのセーターなどない時代の人達はどのようなもので寒さをしのいでいたのだろう。全ての葉を落としきった銀杏の木の向こう側に凍てついた世界が見えた気がした。  唐草やぐらと呼ばれている、実朝の墓を見つめた。唐草模様がついているところからその名前が付いたらしいが、うっすらと残っているはずのその模様は暗闇の中に見えてはこない。明日香は墓の前にしゃがみこみ、周りに人がいないのを確かめるとそっとその墓に手を触れた。実朝の首は公暁がとったはずだけれど、それからきちんと北条方に戻され、本当にこの中に納められているのだろうか。明日香は遠い昔のことを見つめるように、なにも見えない地面の奥を透かし見ようとした。  半年ほど前、社会の授業で源と北条の家系図をノートに写したことを思い出した。明日香はその家系図の「実朝」と「公暁」の文字に何重にも丸をつけ、公暁から実朝に矢印を引き、そのあとで、二人の名前を×印をつけて消した。矢印を太く強く書きながら、歴史を動かした人間の感情というものに心惹かれた。しかし、今目の前にあるこのちっぽけな、威厳のかけらもない石の積み重ねが、その矢印と×印の残骸なのかと思うと、あまりそれを見ていたくなかった。  明日香は海ではなく山の方に向かって歩いてきてしまった自分を後悔しながら、寿福寺を後にした。  七五三の次の週末も過ぎ、鶴岡八幡宮をはじめとした鎌倉駅周辺も落ち着きを取り戻した頃、鎌倉は紅葉の盛りを迎え、明日香の通学路にも黄色や赤の光が目立つようになった。。  その頃、明日香のクラスには帰国子女が持ってきた「Thanksgiving」の為の収穫物が飾りつけられた。彼女は古びた木のロッカーの上に色とりどりの葉を敷くと、稲穂や柿や梨などをきれいに並べていった。その間に何人かの野次馬が集まった。明日香はロッカーから一番離れた窓際の席でそれを見つめていた。秋の彩りは濃い茶色のロッカーにはよく合うような気がした。 「きれいだねー」  人混みの中から、ひときわ目立つ甲高い声が聞こえた。 「で、これってなんの飾りなの?」  綾子はそこに集まっているみんなの疑問を代表して聞いているというように言った。 「Thanksgivingよ」  里砂はいかにも帰国子女らしい発音で言った。明日香は思わず目を見開いた。里砂に悪意はないだろうが、多分その言い方は綾子の神経に障っただろうと感じられた。でも里砂はそんなことには全く気づかずに続けた。 「私の住んでいたアメリカでは十一月の最終木曜日を祝日にしてお祝いをする習慣だったの。もちろん、アメリカでは稲穂とか果物を飾るんじゃなくて、ターキー、七面鳥を食べるんだけどね。これは私なりのアレンジ」  と言い、柿の置いてある角度をなおした。その指先がどこかもったいぶったように見えた。  綾子は側の机に腰をかけ、足をゆすぶりはじめた。そして 「へー、そうなの。なかなかいいアイディアね。日本人的なセンスもあるよね」  と大げさに誉めた。 「それに家からわざわざこれだけのものを持ってくるなんて偉いよね」  隣にいた唯も綾子に賛同するように続けた。周りからも感嘆の声が漏れる。里砂は喜びで顔をほころばせ、まだ幼い雰囲気を漂わせるふっくらとした頬を紅潮させた。明日香は飾り自体はきれいだと思ったけれど、なんとなくその輪に加わる気にはなれなかった。  それから数日経った頃、明日香は泣いている里砂のことを見た。彼女の泣いている理由が綾子にあったのかはわからない。ただ、そろそろまた何か「収穫」をしようかと思い、図書館で時間を潰した後に教室に戻ると机につっぷしている里砂の後ろ姿があった。秋の日は短く、外はもう大分暗くなり、テニス部の練習のためにつけられた「ナイター設備」と形容されそうな強い照明が教室の中にまで差し込んできていた。教室の電気は消されていたが、その光にだけ里砂の姿は浮かびあがっていた。明日香はなぜ里砂が教室で泣いているのか不思議に思った。自分なら海辺や誰もいない家で泣くだろう。でも、机にしがみつくようにして、その木目の感触を頬で味わっているようにも見える里砂は、二度とここには来るまいという決意を表しているようにも思えた。明日香は話しかけることも、教室の入口から隠れることも忘れて里砂のことを見ていた。里砂の机のすぐわきにあるロッカーには今もまだ色鮮やかな葉っぱや果物が供えられていた。  明日香は動かない里砂の後ろ姿を見ながら、かおるが泣いた日のことを思い出していた。 一年の秋、明日香のクラスでは学級会の時間に運動会の係を決めることになった。当時かおると綾子はますます仲が良くなり、明日香は次第に二人から距離を置き、一人で行動することが多くなっていった。「山名さんって最近一人でいること多くない?」「なんかつきあうの難しそうだしね」自分のことをそう噂されていることも時々感じた。どこのグループに所属するのでなくても、誰かの目に絶えずさらされているということが不快だった。  運動会の係は女子と男子の二人ずつ、四人一組に分かれることになっていた。だから明日香はとりあえずどこでもいいから手をあげておき、三人グループや五人グループで余った人のところにあとで移ればいいと思っていた。かおるは綾子と一緒に行動するのだろうから、下手に「どこにするの?」などと聞いてはいけないような気がした。  学級委員が十一の係を黒板に書き出し、始めに書かれた係から順に希望をとっていった。 「放送係」  いつも人気のある係の名前が呼ばれると、何人かの手が同時に上がり、ざわめきが起こった。明日香はその頃教室の真ん中あたりの席で、そこからはかおるが手をあげているのが見えた。二人で放送委員にかけたのだと明日香は思った。でもその瞬間、後ろにいる綾子の方を振り向いたかおるの表情がこわばった。明日香はかおるのその表情を見て怪訝に思い、後ろを振り向いた。綾子の手はあがっていなかった。そしてかおるの視線をさけるように隣の席の子と笑顔で話をしていた。明日香はそれを見た瞬間眉をひそめたが、その後で「清掃係」に唯と男子二人とぴったり四人で手を挙げた姿を見て、このことだったのかとつながるものがあった。 数日前、明日香はトイレで偶然綾子と唯の話声を聞いた。学校のトイレには、内に開くドアのついた和式トイレと外に開くドアのついた洋式トイレがあった。外に開く戸は使用されているときも空いているときもドアは閉まっているように見えたし、人と同じ便座に座るなんて不潔だという考えが蔓延している学校ではまず使われることはなかった。だから明日香のいるそのトイレが使用中であるとは二人とも思わなかったのだろう。二人は外を行き来する人の足音には敏感に反応したが、その閉まった戸の中に人がいるかどうかは確かめもせず、「秘密の話」をした。 「……くんに……聞いたんだけど、……唯が一緒なら……一緒にだから……」  綾子の声はいつも大きいのだけれど、どちらかが水を流しているらしく会話はあまりよく聞こえなかった。 「私は……もちろん……でも……」 「あぁ、あの子ブタちゃん?」  蛇口をひねる音が聞こえ、会話は急に鮮明に聞こえ始めた。 「だって、それじゃあ嫌だって言われたんだもん」  四人ぴったりの手があがったその光景を見ながら、明日香はその会話の聞こえなかった部分までしっかりと理解した。清掃係に手をあげた片方の男子を綾子は好きで一緒の係になろうと誘ったけれど、彼の友達がかおるみたいな太った子とは嫌だと言ったのだろう。唯が綾子の誘いを受けた理由は分からないが、女子の友情は男子との関係によって複雑になるものなのだから、二人の行動も不思議なことではない。  清掃係は異様な早さで決まり、かおるの選んだ放送係ではじゃんけんの前の話合いが行なわれていた。「一緒になりたい人と組でじゃんけんしない?」という声があがった。かおるの様子を見ると、こめかみの辺りに過剰な力が入り、唇が微かに震えている。明日香は一度目をそらしたが、すぐにまた気になり、そちらの方を振り返った。かおるの目のなかで光の粒が踊った。あぁ、泣くのだなと思った。自分には全く責任のないことだし、そこで手を差しのべるような「優しい」人にはなりたくなかった。ただ明日香はほとんど無意識に立ち上がると、何気ない顔で黒板の方に向かって歩き出した。そして、自分の名前をまだ女子の一人も決まっていない「整列係」の欄に書き、「かおる、来ない?」と黒板の前から叫んだ。かおるはうつむかせていた顔を瞬時にぱっと上げ、驚きに普段から大きな目をますます見開くと、大きく頷いた。  明日香はその日、決して「いいことをした」というようなすがすがしい気持ちにはならなかった。一度は自分よりも綾子をとった人間を受け入れることは、自分の感情に対する妥協だと思った。ただそれでもかおるのことは憎む気になれなかった。明日香は自分のマイナスの感情をただ一人、綾子だけに向けることにした。  里砂は相変わらず教室の隅の方で小さくまるまるようにしていた。 「どうかしたの?」  自分からややこしい人間関係を作る気などなかったけれど、心のどこかで、綾子を憎む仲間を欲していたのかもしれない。ありきたりな質問を投げかけていた。 「なんでもない」  里砂の返事も予期できる範囲のものだった。里砂は少しだけ目尻を指先でぬぐっているようにも見えたが、泣いてなどいなかったとも考えられるすばやさで顔をあげ、落ち着いた声でそう言った。振り向いた顔の右半分だけが校庭からの強い光を受けシャープに映った。 「そう。それならいいけど。こんな遅くに一人でなにしてるのかと思ったから」  明日香は自分の話し方が型にはまったものだということを感じた。 「心配してくれたならありがとう」  背筋を伸ばした彼女は突然とても確かな自信の固まりに見えはじめ、明日香は少し困惑した。里砂に声をかけたのは自分を優位な立場に感じたいからだけなのではないかと思った。そしてそれ以上そこにいる必要はないと思い、立ち去ろうと思った。 「山名さんは、なにをしているの?」  里砂は明日香がどこのクラブにも所属していないことを分かっているのだろう。もちろん「やましいことがあるんじゃないの?」というような感じではなかったが、自分は決して「敗者」にはならないというアメリカ人らしい強気な姿勢を見たような気がした。 「今まで先生に質問に行っていたんだけど、帰り際に教室の電気が消えているか見ておいてと頼まれたから。昨日、つけっぱなしになっていたらしくてね」  友達との親しい関係をつくる会話はなかなか出てこないのに、どうしてそんな言い訳ばかりなめらかに出てくるのだろう。 「そうなの」  里砂はすぐに納得したようで、会話はそこで途切れた。でもひとつ小さく息をつき、口調を改めると、里砂はまた口を開いた。 「私ね、またそろそろ転校すると思うんだ。そろそろと言っても、パパの都合だから、仕事のきりがいいところとかそんな感じなんだと思うけどね。でも、それまで数ヶ月あっても、もうこの学校に来るのはやめようかと思って」  明日香は自分の予感が的中したと思った。でも里砂の口調には全く悲愴な感じはなく、他の不登校になったクラスメートとは違う気がした。 「よく、こんなところでみんな、生きられるね。私はとにかくアメリカの学校に帰りたい」  里砂の言葉には「逃げ」ではなく「選択」があった。明日香は引きとめる気にはならなかった。 「慣れだね。多分」  自分が里砂の目にどのように映っているのか若干のおそれも抱きながら、明日香はそう言い切った。 「そう。自分で苦しく感じないならそれはそれでいいんだけど。人それぞれだからね」  そこまで言うと、里砂は何事もなかったかのようにまだ新しい鞄を持って教室から去っていった。明日香は明かりの消えた教室に一人、取り残された。今の時間、テニス部の練習に行っているはずの綾子の席には不用心にも鞄がいつも通り置かれていたけれど、それに手を出す気にはなれず、里砂と鉢合わせないように少しだけ時間をおくと家に帰った。     翌日、学校に行くとすぐ里砂の机を見た。いつも早めに来ている彼女の姿はやはりなかった。ロッカーの上の飾りものはそのままそこに残っていたけれど、彼女の持ってきた赤や黄色の葉は水分を失いかさかさしはじめ、柿や梨も傷みはじめているようにみえた。窓から差し込む光は教室の中を空気の対流のようにまわり、ロッカーの上にも柔らかい光となって届いていた。ただ明日香にはそこだけスポットライトが当たっているかのように思えた。里砂がいないということを強く感じた。  結局昨日、里砂の口から「綾子」という言葉は聞けなかったから、里砂の決意の理由は分からなかった。ただやはり綾子は憎むべき存在だと改めて思い始めていた。 「おはようっ」  かおるは今日も元気に声をかけてきた。明日香はまた適当に挨拶だけして自分の席についた。鞄の中から文庫本を出し適当に真中あたりを開くと、それを読むでもなく外に目をやった。多くの木から葉が落ちる季節になってきていた。校庭の脇を通る道や、校舎と校庭を挟むせまい公道は色あせた茶色い葉に埋め尽くされていた。風情があると言えなくもない光景だ。 でもその風情を邪魔する緑色のネットが明日香の視界の多くを占めた。校庭から公道にボールが飛び出さないようにつけられているネットを見ていると、自分が学校という檻の中に閉じこめられているのではないかという気がする。二年生になり、教室が二階になってからはそのネットよりもほんの少し高い位置からの視線を手に入れられたが、一年の頃の一階の教室では、窓の外を見ても幅が一メートルもないような狭い中庭と、レンガ色の二メートルほどの壁、そして緑色のネットしか見えるものはなかった。「よくこんなところで生きられるね」という里砂の言葉を思い出した。  二十分休みに、かおるは明日香をベランダへ誘った。沙夜も一緒だった。一、二時間目ともずっと座りっぱなしの授業だとその辺りで気分転換をしないと睡魔におそわれる。だからその休み時間には席に座りっぱなしの人は少なかった。  ベランダに出ると冷たい風が頬を打つようだった。 「あー、もう最後の三〇分、死にそうに眠かった」  かおるが言うと、 「最後の三〇分って、十五分しかまともに聞いていなかったってこと?」  沙夜はあきれたような口調でかおるの言葉につっこみを入れた。どう考えても沙夜とかおるのテンポは違いすぎるが、そのずれが新たなリズムを作っている気もした。 「今日、感謝祭だよね、里砂ちゃんの言ってた。でも休みなんだね」  ベランダと一言でいっても、そこを通って他の三つのクラスに移動できるようなつくりになっているから、三人でも窮屈に感じないくらいの幅はある。かおるは後ろ向きになりベランダの柵に寄り掛かるようにして口を開いた。かおるは薄暗い教室の中を覗き込むようにして言った。かおるの目には稲穂や柿などのぼんやりとした輪郭が映っているのだろう。 「彼女は、なんかやっぱ、浮いちゃってるよね。かわいそうだけど」  沙夜がそう受けた。明日香は沙夜のその言い方を意外に思った。沙夜はもっとまわりの人間に対して淡泊で、関心など持っていないと思っていた。 「昨日ね」  明日香は口を開いた。里砂との会話は、一人の中にしまっておくには重すぎた。かおると沙夜は自分から話はじめた明日香をめずらしそうな顔で見ると、先を促した。 「昨日、忘れものをして四時半ごろ教室に戻ったんだけど……。そうしたら里砂が暗い教室のなかで机につっぷして泣いてるようだった」 「そうなんだ。どうしたんだろうね」  かおるはすぐに口を開いたけれど、それ以上は何を言っていいかわからないようだった。 「いじめられたとかそういうことなのかな。もうこの学校には来ないつもりって強い口調で言われた」 明日香はできるだけ自分の感情が口調に表れないように注意して言った。自分の感情に同意してほしいというよりは、二人が自分の言葉をどのようにとらえるかを知りたかった。 「アメリカの学校ではいじめとかないのかな?」  かおるが二人に問いかけるように言った。でも明日香も沙夜もそう聞かれても答えられるわけはない。そのまま三人で黙り、かおるは教室の中を、明日香と沙夜はベランダ越しに見える秋色に染まった乾いた世界を見ていた。 明日香は視界の隅で校庭をこちら側に向かって歩いてくる綾子と唯をとらえた。二人が何を話しているのか二階からはもちろん聞こえない。でも、綾子の甲高い悲鳴のようにも聞こえる笑い声だけが、冷たい風にのって届いた。 「でもさ、結局しょうがないんじゃない? 本人が来たくないって言うなら」  その冷淡な一言は沙夜らしいと思った。 「それって冷たくない?」  と応えるかおるの一言も。 「それが冷たいって言うなら、あんたは里砂に電話するとか、明日家まで迎えに行くとかするつもり?」 「沙夜がそうしろっていうなら、そうするよ」 「だから、私がそう言うかどうかじゃなくてさ、自分の気持ちとして」  沙夜はまたあきれたような顔をしてかおるを見た。  風が強くなり、三人の頬は赤く奇妙に熱くなってきた。「戻ろうか」沙夜の合図で教室に入った。年代物の木のドアはガラガラと大げさな音を立てて抵抗しつつも開いた。その瞬間古びたヒーターの匂いがしてきた。明日香は入り口で二人と別れると自分の席に戻った。ヒーターのあたる左肩から凍りつくような寒さは緩和されていったが、その暖かさは思考力を靄に包む力も持っているようだった。 明日香は斜め前の綾子の席を見た。綾子はまだ戻ってきていなかった。自分の周りで何が起こってもそれに対して距離をとり、「しかたない」と言い続けることもできる。明日香は暖かさでぼんやりとしはじめた頭で考える。綾子の甲高い笑い声も、空白になっているような里砂の席の重たい空気も……色々なことは、あきらめてしまえば却って安らかな気持ちで生きられるのかもしれない。でも……。明日香は顔にかかってきた髪を振り払うふりをして頭を力一杯振った。そして綾子の席を睨みつけた。  その日の体育の時間、明日香はまた見学した。もともと体育の授業は好きではないし、その時間は「儀式」の収穫をするのにちょうどよかった。「見学」するためには親の書いた届けが必要だから普通の家庭の人はなかなかさぼることができないのだろう。明日香が見学をするとき、あまり仲間がいることはない。 その点明日香の家は楽でいいと思う。家に帰り、ほか弁やコンビニのお弁当などで適当に食事をすませた後、食卓に「具合が悪いので、見学届けを書いておいてください」というメモと届けの用紙を置く。そうすると翌日の朝食までには届けが仕上がっているというシステムだ。これは母親の帰ってくる時間まで起きていられなかった小学生の頃にできた習慣だったが、必要最低限のやり取りをテーブルの上の置手紙ですることは今更変えられるものではなかった。 夜、一階に微かに人のいる気配を感じていても、明日香はじっと部屋にこもっている。足音や物音に、母親の姿を思い描くのも面倒くさく、その気配を感じると音楽のボリュームを上げたり、早めにベッドに入ることにしていた。他の人の家では、家族というのはどのような話をするものなのだろう。「今日は具合が悪いから見学届けを書いて?」「具合が悪いってどこが悪いの?」「おなかが痛い」「大丈夫? 他に痛いところはないの?」「もしもっと具合悪くなったら早退するよ」そんな会話なのだろうか。 着替えのために更衣室に向かうかおると沙夜と途中で別れて、先に体育館に入った。人のいない体育館は奇妙に広く、そして黄色を加えたような茶色い床にたくさんの光が降るように当たっているのが感じられた。明日香はクラスのみんなから解放された気分になり、大きく深呼吸した。見上げた天井はボールよけのための金網に覆われ、ずいぶんと上の方に見えた。  着替えのすんだ人達の足音が聞こえると、あわてて体育館の隅にまるめてあるマットの上に座った。マットに座ると小柄な明日香は頑張っても足を床につけることができない。スカートがまくれあがらないように気をつけながらマットの上に足をもちあげて、横座りをしてみた。  今日の授業はバレーボールで、個人個人のサーブやトスの練習のあと、七人ずつのチーム三つに分かれて試合をした。バレー部に所属している三人が三つのチームにばらけ、キャプテンのような立場を任されることになった。明日香はしばらく、ボールの動きに合わせて目を動かした。ぷにょぷにょした手の甲にボールの当たるびんたのような音が何度も繰り返される。その異様な音のわりにはボールは天井近くまで上がる。そして、相手方のコートに入ったり、奇妙な方向へ飛んでいったりする。弾けるような音を聞いているだけで自分の手がはれてくるような気がし、左手で右手をさすった。  下にしていた方の足がしびれてきたので、姿勢を変えた。その時、コートからボールが飛び出た。かおるの打ったボールが敵方に返らなかったらしい。かおるは「ごめん、ごめん」と全く気にする様子もなく言い、飛び跳ねるようにボールを追った。呆れたような顔でかおるの方を向く沙夜が視界に入った。明日香も、自分の運動神経は棚にあげて「まったく、だめだなぁ」という気持ちでかおるを見た。 その時、「なんであんな奴にトスあげるの?」という言葉が耳に入った。明日香はすぐにコートの中に残る六人に顔を向けた。その中には綾子と唯の姿もあった。けれど、二人は相手方のコートを見たまま、試合が続くのをただ待っているように見えた。他の四人も、かおるのことを目で追いはしたが、それぞれ一定の間隔を置いて立ったままで、「ドジ」と直接かおるに声をかけようとしている沙夜以外には表情を作っている人は見つからなかった。明日香は違う次元の声を、間違って拾ってしまったような奇妙な感覚をおぼえた。 気を取りなおそうと、下を向き深呼吸とため息の間のような息をしたとき、「おもしろいことになると思ったからね」さっきの声に誰かが答えるのを聞いた。あわてて顔を上げると、またその会話とは関係のなさそうな六人の姿が目に映るだけだった。明日香はかおるにトスをあげたのが誰だったのかを思い出そうとしたけれど、どうしても思い出せなかった。 誰もその言葉に気づかないまま試合は続けられた。明日香は気をとりなすように天井を見上げた。もしかしたら、そんな言葉、誰も言わなかったのかもしれない。明日香はそう割り切って、試合を見続けていたが、「儀式」を実行するならそろそろ教室に戻るべきだと思った。明日香はいつもとは違う真剣な顔をしてネットの前に立つ綾子と唯に少し視線を向けてから、先生に見つからないようにこっそりとその場を離れた。  ドアを開けると、教室を後ろから見渡すかたちになる。開けたドアの隙間から角度の浅い日差しが入り込み、窓から差し込む光と溶けあうようにして教室に充満した。明日香の影は柔らかく拡散する光の中で確かな形にはならなかった。  教室に足を踏みいれると、そのまま迷わず前から二番目、窓際から四列目の机に座った。同じ机と椅子のはずなのに、人の席に座ると違和感を感じるのはなぜだろう。明日香はそこに座ったまま唯の席、里砂の席、そして自分自身の席を眺めてみた。そしておもむろに綾子の鞄を持ち上げると膝の上に置いた。相変わらず重い鞄だった。ぱちりぱちりと音を立てて、自分とおそろいの学生鞄を開ける。そして自分の持物であるかのようにその中身を確かめた。  明日香の目を真っ先にひくものはいつも決まっている。革の表紙のついたブランドものの手帳。明日香はもちろんブランドものにも、高級な革製品にも興味はない。ただ綾子にとって本当に大切なものは盗まないでおかなくてはという思いと相反するかたちで一番大切にしているもの、それがなくなったらあの時のかおるのように綾子が泣くかもしれない、そんなものを盗みたいという気持ちがあった。明日香はその手帳を手にとり、重みを味わった。  はじめて綾子のものを盗もうと思ってから半年ほど経つ。心のどこかにひっかかった公暁という人間の存在に近づきたくて明日香は鶴岡八幡宮に行った。大銀杏の後ろに立ち、公暁と同じ視点から本宮へ繋がる階段を見たとき、明日香も自分の感情を確かにする行動をしたいと思った。  次の日の放課後、明日香は自分の考えを実行に移そうとした。綾子の机の脇に、忘れられたように置かれている鞄を見つけると、人に見つからないよう辺りを見回しながらひっそりとしゃがみこみ、鞄を開けた。スカートの裾が床をこすった。誰もいない教室は西日に照らされ、ただたくさんの机が並べられているだけの箱になり、しゃがみこんだ明日香はいつもに増して小さい存在になった。  光の入ってくる窓に背を向けるようにして、開いた鞄の中だけに光を導き入れた。鞄の中で何かが光る。明日香は、いま光ったものを盗もうと単純に思い、正面に見えている教科書やノートをのけていった。そしてその奥に光を反射しているシステム手帳の金具を見つけた。手帳を手にとり、机の下にもぐりこむようにして隠れながら開いた。でも明日香の手はスケジュールのページに行く前に止まった。革の表紙をめくったところに一枚写真がはさまっているのを見つけたからだった。 白い面を見せている写真を指でつまみあげると、風をおこしそうな勢いで表に返した。運動会の係を決めるときかおるを裏切る原因になった男子の写真か、最近やたらとさわいでいるジャニーズの誰かの写真なのだろうと明日香は決めつけていた。だから表に返った写真の中に学校の中で見せているのとは違う綾子の柔らかい笑顔と、その肩に手を置き、綾子とそっくりの目を細めて笑う男の人を見たとき、あわててその写真を裏返した。 落とした視線に「パリにて ○○年九月十日」という綾子の丸っこい字が見えた。三年前、綾子がまだ小学生だった頃の日付。一緒に写っているのは綾子のお父さんなのだろう。明日香は写真をそっと手帳にはさみなおすと、そのまま鞄の中に戻した。それ以上手帳のページをめくる気にはなれなかった。明日香は一種の敗北も感じたけれど、それだけはどうしても盗れないと思った。  自分の小さな手のひらに載る手帳を見つめた。革はいくつもの小さな突起の集まりで、そのくぼみに光はたまり、でっぱりの部分に影を作った。綾子の鞄は何度も開けたけれど、これを手に取るのはあの時以来だと思った。 あの日から鏡、ボールペン、キーホルダー、髪留め、香水など、とても大切かもしれず、案外どうでもいいのかもしれない物を的確に狙ってきたつもりだった。高級な宝物にもとらえられるそれらの物は、明日香の気持ちをある程度は満足させたが、綾子を本当に悲しませることはしなかった。  公暁が実朝を打ちとったように、深く確実な傷を綾子に与えたいとは思いながらも、本当に人を傷つけることは恐れていた。二つの相反する気持ちの中で、明日香はずっとその手帳を諦めてきたのだった。でも、今手帳は明日香の手にあるのだから、このままこれを持って学校を飛び出し、いつもの海に流してしまえば、すべては完結してしまう簡単なことなのだと思った。香水を盗んだ翌日、綾子が自分に向けた何の興味もふくまないひややかな目を思いだす。綾子に怨まれようと、学校に通えなくなろうと、大したことではないような気がしてくる。 十一月の人のいない教室は足元から冷気が体に上ってくるような寒さだったが、明日香は急に体が暖かくなっていくのを感じた。頭の片隅で、「よくこんなところで生きられるね」と言った里砂の言葉が蘇った。自分を偽り、自分を殺してまで、なぜここに居続けなくてはいけないのか分からなくなった。明日香は両手で手帳を握りしめた。  廊下に人の足音を聞いた。明日香は顔を上げ、その足音が本当に自分のクラスに向かっているものなのかを確かめようとした。耳を澄ますと、今まで気にならなかった隣のクラスの先生の声が聞こえ始めた。窓の外で何枚も重なった枯れ葉がこすれるような音がした。明日香はその音の隙間に、足音を聞いた。確かな方角は分からなかったけれど、隣の教室に曲がるような感じではなかった。明日香は手に持っているものをどこかに片づけなくてはいけないと思った。そして迷わずそれを自分の鞄の中にしまった。 足音は近づいてくる。その低く張りつくような音は、生徒の上履きの音だろう。底にゴムがついているから響かないけれど、革靴とは違ったぺたぺたという妙に浮いた音が立つときがある。明日香は音の立ち方から、身のこなしのすばやい小さめの女子だと思った。でもそれだけでは誰だか正確に当てることはできない。とにかく今は危険を回避することだと思った。そして、ゆっくりと窓側のドアを開けると、ベランダに出、そのまま窓の下に隠れるようにしゃがみながら、階段に向かった。教室のドアが開く、錆びた滑車のような音がして、明日香は姿を隠しながら教室の方を見た。電気のついていない教室は明るい室外からは見通せず、ぼんやりと輪郭がなぞれただけだったけれど、なんとなくその姿が沙夜に似ているように思えた。明日香はそのまま早足で体育館に戻り、ずっとそこにいたような顔をしてマットの上に座り直した。先生は一瞬明日香の方を見たけれど、何も言わなかった。かおるたちの試合はとっくに終わったらしく、他の二チームが対戦しているところで、かおると沙夜の姿は見えなかった。 明日香はそれから早退しようかとも思ったけれど、どうせ誰にも見つからずに体育館まで戻ってこれたのだから、そのまま帰りの挨拶まで何食わぬ顔で居続けようと思った。結局その日、綾子が手帳のなくなったことに気づくことはなかった。明日香は、綾子の手帳を「儀式」の時以外に見たことがなかった。つまり、綾子は人前で手帳を出すことがほとんどないということだった。明日香の読みは当たった。 かおるに「一緒に帰ろう」と誘われないうちに、あわてて教室を飛び出し、電車にかけ乗った。電車の中、いつもは手に持っている学生鞄を胸に抱えた。普段は気にならない革の固さが胸に直に伝わってきた。明日香の鞄はいつも真面目に持ち帰る教科書やバインダーで重たくそのせいで手のひらは赤くなりしびれたが、その重ささえ何か高尚なものの気がしていた。ゆったりとした江ノ電の八駅間を待ちきれない思いでじっと耐えた。そして時々古びた一軒家の並ぶ小道から海が覗くのを見て、胸を高鳴らせた。  電車が鎌倉駅につくと、明日香は走るように若宮大路を鶴岡八幡宮に向けて進んだ。段葛の木はすっかり葉を落としきり、周りを歩く人にはコート姿が目立った。明日香はその冬の光景の中、モノトーンな世界を打ち破るように一歩一歩に力を込めて進んでいった。冷たい風に手がかじかむと鞄の重さはいっそう堪えた。  三の鳥居をくぐり、源平池の間の朱の太鼓橋を渡るとき、ふと奥を見ると小さな池に色とりどりの葉が折り重なるように映り、境内はまだ秋だった。明日香は階段のふもとにある下拝殿を目指して歩いた。 参道を少し進んだとき行く手に突然黄の塊が見えた。明日香は今までなかったその存在をいぶかしく思い、目を凝らしながらその黄の全体像がつかめるところまで近づいていった。そして参道の中央で立ち止まった。この間はまだ先の方を微妙に染めていただけの大銀杏が完全な黄色に姿を変えていたからだった。何千枚もありそうな葉が黄色く染まり、光を反射させているように見えた。明日香はしばらく立ち止まったまま、その木を見つめ続けた。 自分の幼い頃、銀杏が黄葉すると必ず家族全員でここにお参りに来ていたことを思い出した。いや、もしかしたら三歳と七歳の年の二度だけだったのかもしれない。でも明日香の心の中にある銀杏の木はいつもその色だったような気がする。今までは歴史の一部として見ていた大銀杏が黄色に染まった瞬間、自分の思い出の一部に変わった。  七五三のお参りで混みあう境内の中、人にぶつかりながら駆けていく小さな兄の後ろ姿が蘇った。小さな兄の前にはもう見えなくなりかけた父の姿がある。兄は必死に父に追いつこうとしている。かけっこをしているのだ。兄の様子は真剣そのもので、人で混みあう不自由な環境の中、飛び跳ねるように走り続ける。明日香と母はそれを後ろの方から見つめている。声は呆れたように、でも表情は柔らかく保ったまま母が兄に注意の呼びかけをし、自分も少し小走りになる。父はいつも後ろにいる家族のことなど忘れたように自分だけはしっかりと人を避けて走っていく。子供と競走しているとは思えないスピードだ。父は自分のペースを崩さない。まだ小さい明日香は頑張ってもとても二人には追いつけないと分かっている。「いいよ、走らなくても」というように母親を見あげ、走るのをやめさせようとする。母は明日香を見下ろして笑う。そして二人はのんびりと「参拝」にふさわしい速度で歩く。でも、父と兄は少し息を切らしながら、階段の上で明日香と母のことを待っていてくれる。 金色の木を背景にして思い出すのは父の後ろ姿と、いつも一人で行ってしまう父を愛情を持って見つめる自分と母親の姿だった。  明日香は普段とは違う気持ちをもって銀杏の木に近付き、その蔭に隠れた。太くがさがさした幹に寄りかかり、先の方を見上げる。相変わらずその高い木は明日香を覆うように広がり、視界を遮っている。それでも葉を通して金色の光が舞い降りてくるよう祈るような気持ちで上を向き続けた。  木の蔭から階段を覗き、ぱらぱらとではあるけれど、絶えない人の流れを見つめ続けた。何人かの人は大きな銀杏の鮮やかさに心を奪われたように立ち止まり、それ以外の人は本宮を目指して脇目もふらずに歩き続けた。今日も明日香の存在に気づく人はいなかった。そこに八OO年ほど前にいた人間の心を感じとる人も。  明日香はこれで最後だと思いながら、鞄の中から綾子の手帳を取り出し、両手でそれを抱えこむと、公暁に祈りを捧げた。手帳には地球の引力を感じるような確かな重があった。頭の隅に一瞬だけしか見ていないはずの綾子と父親の写真が強い光のように蘇った。明日香はその映像を追い払うように、強く手に力を込めると、精神を統一しようとした。この状況になって今更迷いたくはなかった。自分の考えに間違いがあったとは認めたくなかった。明日香は手帳を左手でつかむと、右手を銀杏の木にぴったりとつけ、そこから何かを感じとろうとした。できればそれが公暁の感情であればいいと思った。仏に仕えるふりをしながら、ただ自分の憎しみを心の奥で育て続け、それを表現するためだけに生きた人。公暁から生きる確かなベクトルをもらいたかった。 でも、この木の上にも八〇〇年の月日は流れたのであり、明日香の手に伝わってきたのは、一〇〇〇年目の冬に備える木の肌の冷たさだけだった。そして人は明日香と銀杏の木の脇をコートの襟を立てるようにして足早に過ぎ去っていった。過去の記憶を年輪として奥深くに隠し持ちながら、外に向け成長することをやめない木。歴史の本よりも毎日の新聞に価値をおき、前を見つめながら生きることがいいと思っている大人たち。その日の明日香は、銀杏の陰にいながら、八〇〇年前の世界を感じることができなかった。それは明日香も「今」という歴史の上に確かに存在しているということなのかもしれなかった。  明日香は手帳を鞄の中にしまうと、海には行かずにそのまま家に帰った。手帳を返すつもりはなかったけれど、今この気持ちのまま手帳を流してもおもしろくはないだろうと思った。その日の明日香には、実朝を殺した後の公暁が見えるような気がした。石段から三の鳥居、若宮大路を通って、由比ヶ浜まで走る公暁の後ろ姿。袈裟をまとい、手には実朝の首を抱えている。明日香はその姿を、今の若宮大路に重ねてみた。ひどく頼りない姿に見えた。その後ろ姿を追う気にはなれなかった。  翌日、明日香は学校を休んだ。もちろんずる休みではあったが、昨日寒い中外に立っていて風邪を引いたのかもしれない。少し頭の芯が痛む気もした。明日香は母親の置いていった朝食を食べると、そのままベッドに横になった。学校を休むというのはこんなに簡単なことなのかと思った。でも、ベッドに入ってしばらくは寝ていられたけれど、睡眠時間が足りてしまうとそれ以上は横になっているのが苦痛になる。明日香は仕方なくベッドに腰掛け、本を読み始めた。でも、いつもまじめに読んでいるわけではない小説は開くためのものであって読むためのものではないからおもしろくなかったし、鎌倉時代の本は今は開く気にもなれなかった。明日香はつまらない小説をぱらぱらとめくりながら、視界の隅で自分の鞄を捉えた。あの中に、綾子の大切な手帳が入っていると考えると、いつも使っている鞄、いつもいる自分の部屋が全く違った物に見えはじめる。明日香にとっては、その手帳の存在が今は処理に困った死体ぐらいの重い存在だった。自分はこれからどうするのだろう。ひきかえせないという思いが、一人でいる部屋の寒さと共に体の芯に達した。今まで築きあげてきたもの、ある程度安定した人間関係、先生からの評価、毎日の生活、自分ですべてを壊してしまったと思った。  静まり返った家に電話のベルがけたたましく響いた。明日香はいつもその音を聞くとまず驚き、それから嫌な予感に襲われる。電話にどんな嫌な思い出があるのかと聞かれても思いつかないのだけれど、人の世界になんの予告もなく割り込んでくるその厚かましさが苦手だ。  明日香はベッドの上に腰掛けたまま、二階の廊下で鳴る電話の音を数え、先生からだろうかそれとも母親からだろうかと考えた。部屋の中に作られた重たい空気から逃げたいと思いながらも、ベッドから動く気にはなれなかった。  しばらく部屋の中で電話が鳴りやむのを待った。けれどそれはますます音を拡張していくばかりの気がした。明日香は自分の居留守を責められているような気になって、しかたなく寒い廊下に出て電話を取った。 「はい、山名です」と答えると「あすかぁ?」と聞き慣れた声がした。自分の心から遠く弾き出したつもりだった人間が、突然声という確かな存在を持って近付いてくるのは不思議な感じがする。 「今日どうしたの? 先生も明日香が連絡もなく休むなんておかしいって心配してたよ。電話かかってこなかった?」  かおるは電話でも人に返事をする隙を与えず、自分のペースで話し続ける。 「で、とにかく先生はいいんだけどさ、風邪でねこんだりしてるんじゃないの? まーちゃんに言ったら、明日香ちゃんの家はお母さんも忙しそうだから、もしできることがあったら言ってもらってね、だって」 「そうかぁ、ありがとう」  明日香はかおるがやっとつくった間にそれだけ応えた。 「で、明日はこれるの? 明日はほら英語の小テストとかもあるじゃん。あれ、小テストとか言っても大変だよね、範囲」  いつもかおるの相手は沙夜にまかせて、自分は二人のやり取りを聞いているだけだけれど、沙夜がいなくても聞くだけに等しい今の自分の状況がなんだかおかしかった。  明日香はそれから何も言わせてもらえない状況のまま三O分近く電話をし続けた。そして「なんか夕食とか買っていってあげるよ」というかおるの申し出を断ることもできず、電話を切った。今から来るなら電話でこんなに話す必要もないのにという思いと、本当に病気のときにかおるに来られたら悪化するだけだろうなという考えで明日香は一人笑った。  玄関のベルが鳴った。明日香は埃のついた呼び鈴を思いだし、掃除をしておくんだったと後悔しながら一階に降りた。ドアを開けると両手いっぱいの荷物を抱えたかおるとその後ろに沙夜がいた。 「沙夜に電話したら、めずらしくいるからさー」  明日香が二人を二階に案内する間もかおるは話続けていた。 「なんだよ、一緒に来てくれって頼んできたんじゃなかったの? 電話にでちゃいけないみたいじゃん」  かおるは「ははは」と文字の見えそうな笑い方をしてから明日香の方を向きなおって聞いた。 「で、元気なの?」 「うん、寝ていたらだいぶ良くなったよ」 「じゃあ、明日は来られそう?」 「多分ね」  明日香は自分の言葉をどんどん嘘で塗り固めている自分自身を感じた。二人は初めて来る明日香の家を少し見回しはしたが、特に感想を述べるでもなく昔ながらの家らしい急な階段を上っていった。最近自分しか使わなくなっている階段を上る二人の姿を見ていると、そこが自分の家ではないような奇妙な錯覚にとらわれた。 「へー、意外。明日香の家ってもっと本とかがずらーっと並んだ文学っぽい部屋なのかと思ってた」  部屋に入ったかおるは不思議そうな顔をして明日香を見ると口を開いた。 「本は図書館で借りるだけだからね」 「そっかー、賢いね」  かおるは感心したように言った。恵まれた家庭に育っているかおるは、本ぐらいいつでも買ってもらえるのだろう。明日香の家も貧しいというほどではなかったけれど、忙しそうに働く母親を見ていると、使わないでもすむお金を使ってしまうのは悪いことのような気がした。 「じゃあ、酒盛りしようかぁ?」  といって、かおるが重そうなビニール袋の中をごそごそ探り始めた。もちろん出てきたのはお酒ではなくジュースだった。三人は何のためになのかわからない乾杯をした。  かおるが食べるのに熱中し、話す方がおろそかになってきた隙をねらって、今まで黙り気味だった沙夜が口を開いた。 「明日香に聞きたいことがあって来たんだ」  沙夜は改まった口調で切り出した。明日香は玄関で沙夜の姿を見たときから、そうなることは分かっていたような気がした。かおるだけが急に三人の間に入りこんできた冷たい空気に慌てたようだった。 「そう」  明日香は落ち着いた調子で答えた。必要なもの以外ないがらんとした部屋の中に、明日香はほこりっぽく暗い図書室の空気を感じた。 「綾子が今日、大切な手帳をなくしたって騒いでいたよ。最近、綾子のもの、よくなくなるよね」 「たしかにそうだね。この間も香水探してたよね」  状況を把握できていないかおるが本当に不思議そうな顔をして繋げた。明日香はかおるのことをばかだと思ったけれど、それと同時に人を疑うことをしらない彼女の疎さを愛すべきものとも感じた。 「それで、聞きたいことって?」  しらばくれようと思ったのではなく、いつもの沙夜らしいストレートな言い方を求めて明日香はそう聞いた。 「まちがったらごめん。でも、確信があるから聞くよ。綾子の手帳、明日香が持っているでしょう?」  もし綾子本人がそれを見破れていたのなら、明日香は「おめでとう。事件解決」と少し嫌みな笑顔を向けながらも、綾子の罵声を浴び、それでもすがすがしい気持ちで手帳を返したと思う。でも、自分の中の悪意に最初に気づいたのは、綾子ではなかった。 「うん、持ってる」  明日香はその時どうしても秘密を自分一人の中に閉まっておくことができなかった。「ちりがみ交換」と得意げに言いながら明日香の書いた手紙をみんなにみせびらかした「友達」のことを思い出した。暗い部屋の中で彼女の笑顔だけが不気味に浮かびあがった。自分の弱みを見せたら、そこから食い潰されるだけだ。そう思いながらも明日香は鞄の中から手帳をとりだし、沙夜に見せた。かおるはなぜ綾子の探していた手帳が明日香の手にあるのか納得がいかないというように珍しく無言でそれを見つめていた。 「それ、どうするの?」 沙夜が聞いた。明日香は黙った。 「今までとったものはどうしたの? まだ持ってるの?」  沙夜はあの時防具からのぞかせた鋭い目を明日香に向けていた。 「持ってないよ。捨てた」 「流した」とは言わなかった。でも、頭の中には由比が浜の、あの際限なく繰り返すけだるげな波の音が蘇った。盗んだものは明日香の手から海へと渡された。海は喜ぶでも拒むでもなくその贈物を受けた。そして明日香の目の届かないところまでそれを運んでいった。足元は波の引いたあと、とてもなめらかな斜面になった。海は時には大波を起こし、派手な水しぶきをあげるときもあるけれど、結局はいつも、そんな穏やかな無の状態に戻る。海は全てを確実に飲みこんでいく。 「そう。でも手帳は捨てなかったんだね」  沙夜は鋭いところをついてくると思う。明日香は手帳を握りしめた。 「それ、見せて」  今まで黙っていたかおるが口を開いた。いつもより高いソプラノの声に聞こえた。明日香は迷わずに手帳を手渡した。かおるはしばらく表紙のりっぱな革の感触を味わっていた。 「革は、使っているうちに、持主に馴染むんだって」  かおるはどこかで聞いた言葉をそのまま口にしたようだった。明日香はかおるの言葉を聞いていたら、なぜだか飼い主になつく子犬が思い浮かんだ。 「だから、返してあげた方がいいよ」 かおるは穏やかに言った。それを聞いたとき、心の中にすっと手帳を「返す」という選択肢が入りこんできた気がした。ある温かさと共に。 「でも、どうやって?」 沙夜が口をはさんだ。 「気づかれないように盗れたんだから、気づかれないように返せるんじゃない」 かおるの大きな目がユーモラスな動きをした。沙夜は鼻からふっと息を吐いてから、 「かおるらしい能のない考えだね。警戒してんに決まってんじゃん、そんなことしたって怪しまれるって」 と言った。明日香はかおるのことを見た。いつものように、沙夜に言い負かされてしまうのだろうか。 「じゃあ、沙夜の能のあるやり方ってどういうの?」  かおるは少し沙夜に反抗する様子見せた。 「見つけたよって言って返す」  今度はかおるが沙夜に呆れたような顔をした。 「その方がばれるって」 「なんで?」 「なんでって、あやしいじゃん」 明日香は二人のやりとりを聞きながらも、黙っていた。 「まあね。疑われるのは覚悟でするしかないんじゃない? でも本当にその手帳が大切なら、疑う前にまず喜ぶでしょ、出てきたって」 沙夜は表情を変えなかった。ただ足がしびれてきたのか、絨毯の上で姿勢を直した。 「そうかぁ、そうだよね。じゃあ、綾子が手帳を探しているのを知っている私か沙夜が渡した方がいいね」  かおるはちょっと太めの体を揺するように大きくうなずいた。沙夜は寒いのか、腕の辺りを両手でこするようにした。かおるは自分の手でその手帳を盗んでいないから、事の重さが分かっていないのだ。そんな簡単に人の罪をかぶるものではない。明日香は、「そんなこと、やめてよ」と言おうとした。でも「そんなこと、やめてよ」の次にはどんな言葉が続くのだろう。「自分で返しに行けるから」だろうか。それとも「別に学校になんて行けなくなってもいいから」だろうか。そこまで考えて何も言えなくなった。 「かおる、優しいね」  沙夜が冗談めかせて言った。暗に「私は優しくないからそんな役目はしないよ」と言っているようでもあり、自分たちの優しさに対して照れてみただけにも見えた。 「まぁさ、綾子もいつも人に恨まれるようなことばっかやってるから自業自得だよなぁ」  沙夜が続けた。 「普通なら人のもの盗ったら謝るべきだと思うけど、相手が綾子なら話は別だよなぁ」  かおるは沙夜に同意するでも、反論するでもなかった。かおるが綾子の悪口を言ったのは、聞いたことがないと思った。 「でも、やっぱりこの手帳はまずいよ。このままじゃ、明日香、学校に行けなくなっちゃうよ」  沙夜の言葉を受けて、かおるが口を開いた。 「だから、やっぱり私たちで返しに行こうよ。明日香も、このまま学校いかないなんて言わないでしょ?」  いつもは一人で話し続け、周りの人の反応などおかまいなしのようなかおるが、今はしっかりと話についてきていると思った。口数が少ないせいか、いつもより一言一言が重い。 「まぁ、そうだね」  明日香はどのようにでもとれるような返事をした。もう学校に行かなくてもいい、そんな強い気持ちはいつのまにか消えていた。「よくこんなところで生きていけるね」里砂は言った。でも「こんなところ」とはどんなところなのだろうか。自分の見ている学校と、里砂の見ていた学校は違うもののような気がした。 「それ、貸して」 かおるは少しのあいだ、明日香の言葉が続くのを待っていたが、沙夜はかおるの方に向きかえると、手帳を受け取った。そしてめくり始めた。表紙をめくったところで明日香の見た例の写真が見えた。沙夜は少しそれを見つめたけれど、大した関心は払わなかった。それから明日香の見たことのないスケジュールのページを開いて言った。 「なにこれ?」  沙夜は一言口にした。かおるが沙夜の手元を覗きこんだ。 「どうしたの?」  気になって尋ねた明日香に沙夜はスケジュール帳の一ページを開いて見せた。何が不思議なのかすぐには分からなかった。そのページには何も書かれていなかった。真っ白なただの日付と罫線だけのページだった。 「これがどうしたの?」 「ここ」  沙夜はそのページの右上を指した。そこには三年前の西暦が書かれてあった。 「ばかじゃない。使えないじゃん、こんな前の」  沙夜は「変なの」というように笑った。かおるもつられて笑いかけたけれど、沙夜が床に置いた手帳を数枚めくってから 「使うためじゃなかったのかもね」  と言った。手帳には同じような罫線だけのページが、そのまま永遠と思えるほど続いていくだけだった。 「使うためじゃない?」 「うん。想像だけど、ただお守りみたいに持っていたのかなって」  かおるは手帳を表紙に戻し、皮のでこぼこした感触を確かめるようにしながら言った。 「お守りっておおごとだね、なんか」  沙夜は一度そうふざけたように言ったけれど、 「でも、これは明日香が返すべきかもね」  と言った。かおるも無言で頷いていた。  明日香は床に置かれたままの手帳を手にとって、もう一度ページをめくってみた。三年という年月の分だけ、綾子の思いがこめられてきたのだと思った。これを海に流さなくて良かった。塩水に浸り、革の手触りが変わり、紙がぼろぼろに破れ散ってしまう前に、二人が自分のところに来てくれて良かった、と思った。 「うん、分かった。明日、綾子に返す」  明日香は両手で手帳を握りしめると、二人に向かって言った。 「ちゃんと明日、来るんだよ。来なかったら、一時間目、さぼってでも迎えに来るよ」  沙夜が目にいつもの鋭さを取り戻して言った。明日香は軽く笑顔を作って、頷くことができた。 明日香の家の前にある細い路地を珍しく車の通る音がした。掃除されていない枯れ葉を踏みつける音が混じった。明日香は大銀杏の黄金色の葉がすべて落ちるときのことを頭に描いた。それは実朝の死体の上に降り積もり、本当はもっと離れた場所で死んだはずの公暁の死体にも降り積もった。そして二人の姿を消した。 自分の今の決意も、今までの憎しみも、あの銀杏は一つの年輪にしてしまうのだろう。明日香の心の中にも輝くように黄色い無数の葉が降り積もっていった。                〈了〉