一  昨日から降り続いた雨は、夜のうちに上がっていた。それでも梅雨空の黒い、墨のかたまりのような雲が空を覆っていた。東の空は、その雲を破いたように、所々青空が見える。その隙間から筋をなして、朝日が射しこみ、幾日かぶりの日光が薄く辺りを照らしていた。 「あんた、後生だよ」  おうめは立ちつくしたまま、亭主の後ろ姿へ消えそうな声でそう云った。  二人のいる長屋の路地は薄暗く、濡れた地面から、ひんやりした空気が朝もやとともに土の上を這うように、二人の藁草履をはいた素足の足下にからまってくる。頭の上の軒先では、数羽のすずめがたわむれていた。突然、半分開いた戸口の中から、赤子のわっと泣く声がした。 「ゆ、ゆきじゃねえのか」   六三郎は振り向かずにそう云った。おうめは困惑したように、戸口と六三郎の背中を代わる代わる見た。 「ゆきが目を覚ましたんだ、行ってやらねえと、泣いてるじゃねえか」 「でもあんた」おうめはおどおどとそう云った、「それを遣っちまったら、今日までの借り分も返せないし、明日からだってどうすりゃいいんだか」 「ゆきが泣いてるんだ、乳を欲しがってんだ、早く行ってやらねえと」六三郎は勇気をふり絞って云った、「おら、もう行く、と、止めても行くからな」  六三郎は意を決して、歩き出した。家の前の路地を勢いよく左に曲がり、すぐにそこで立ち止まった。思い切った態度を取ったおかげで、心臓が激しく波打っている。六三郎はそっと角から顔を出して、日が当たらず薄暗いままの、我が家の前の様子をうかがった。おうめはもういなかった。引き戸は閉められ、ゆきの泣く声も聞こえない。六三郎は下唇を噛んで、その閉じられた板戸を見つめた。角の家からは、亭主を起こす、かみさんの声が響いていた。  六三郎親子が住むこの勘兵衛店と呼ばれる長屋の一角は小石川にある。長屋への入り口は南西に走る小さな通りにあり、中に入ると通り抜けは出来ず、「同」の字のように長屋が並んでいる。その袋小路の一番奥の東のどん詰まりに、九尺二間 三坪の最も安い貸店が四戸並んでいる。その東から二番目が彼らの住居であった。六三郎はきつく目を閉じて、それからゆっくりと歩き出し、ふと足を止めて、北のはじにある稲荷神社に行った。  それは長屋にはたいていあるお稲荷さんで、当然作りは小さく、鳥居の回りに立てられた赤いのぼりもすすけたように黒ずんでいた。しかし、社の前にはお供えものがいつも欠かさずおかれていた。  六三郎はその前に膝をつき、二度手を叩き、長いこと手を合わせた。そして足早に長屋を出て、六三郎は一度だけ後ろを振り返った。その目は、初めて盗みをはたらいた子供のようにおどおどと落ち着きがなかった。  ぜんたい六三郎はいつもおどおどしていた。五尺二寸の小さな体で、ころころと太ってい、とくに顔はまん丸だった。三十六になるがすでに頭は薄くなり始めていて、小さなしょぼくれた目をしていた。丸い潰れたような鼻と受け口の小さな口、どこを取ってもぱっとしなかった。誰もが一目六三郎を見ると、鈍臭そうな男だという印象を持った。  本所へ向う道は徐々に活気にあふれてき、店の前を掃き清める小僧や、弁当を腰につけた職人たちが目に付いた。六三郎は、罪人のように背中を丸め、何度も頭を振りながら、重い足取りで本所回向院へ足を進めてた。 「悪いことをするんじゃねえ、おら、酒も飲めねえ、手慰みもしたことはねえ、ずっと貧乏暮らしの中で食うためだけに生きてきた、このぐれえはいいはずだ、一度ぐらい好きに金を遣ってもいいはずだ」  六三郎は繰り返し、自分にそう言い聞かせた。その後すぐ、頭の中には、薄汚れた裏店、暗い部屋の中で賃仕事をする妻のおうめの後ろ姿、四人の子供たちの顔、今日払う予定のつけ、そしてまた明日からの暗い生活が波のようによぎってくる。そのたびに、六三郎は立ち止まり、頭を振り、言い訳するようにぶつぶつと何事か口の中でつぶやいて、不決断に歩き始める。何度もそのように足を止めながら、六三郎は回向院の前にたどり着いた。      二 「長太、おめえ、その、今日も駕籠舁の邪魔しに行くのか」六三郎は、着替えや弁当を風呂敷に包みながら、そう息子に聞いた。 「駕籠舁じゃねえよ、飛脚だって何度も云ってるじゃねえか」長太はまったくとつぶやいてそう云った、「それに邪魔しに行くんじゃねえ、助かるっていって小遣いももらえるんだ、りっぱな仕事だぜ」九歳になる長男の長太は、生意気に楊枝を使いながら、二歳になる妹のとめに粥を食わせってやっていた。六三郎は目をみはり、仕事なのかとつぶやいた。 「かあちゃん」長太は威勢よく云った、「今日はおいらにも弁当を作ってくれよ」 「長太、その、今日も行かなくちゃなんねえのか」六三郎は遠慮深そうにそう聞いた。ヽヽ  「駄目じゃねえかとめ、ほら」長吉は妹の手を押さえた、「ちょっと目を離すとすぐ手掴みで食おうとしやがる、この匙を使え、よしいい子だ」 「あんちゃん、おしごと、とめもいく」とめは回らない舌でそう云った。 「駄目だ、とめはまだ小せえからな、邪魔になるとおいらの評判が下がる」 「とめもいく、あんちゃんといっしょにいく、とめもいくの」  とめは食べ終わったどんぶりをひっくり返して、飯粒をぼろぼろ口からこぼしながら、長太にしがみついた。 「駄目だって云ってるじゃねえか」長太は妹の頭を撫でながら、言い聞かせるように云った、「おいらは今が肝心なとこなんだ、ここで使える奴だって思われりゃあ、雑用にでも使ってもらえる、そのうちおいらの自慢の足が認められて、正式に飛脚として使ってもらえるかもしれねえんだ、駄々をこねるんじゃねえ、分かるか」  とめはきょとんとした顔をしながらも、分かった振りをして、涙をこらえてうなずいた。長太がいい子だと云って頭を撫でてやると、とめはうれしそうに兄ににっこりと微笑みかけた。 「とめは長太の云うことはよく聞くんだねえ」おうめはそう云って、赤子のゆきを背負って、前掛けで手を拭きながら土間から四畳半に上がり、かしこまったように座った。 「 弁当のことなんだけど」おうめは上目遣いにうかがうように云った、「済まないけどね、今日はなにかとあれで」 「急だったからな、気にするこたあねえよ、云ってみただけだって」 「弁当がなくては格好がつかねえのか」六三郎は小さな目をしょぼしょぼさせてそう云った、「なんなら、おらのを持っていけばいい」 「ちゃんのを持っていったんじゃ罰が当らあ、気にすることはねえんだって、まったく冗談も云えねえな」 「済まねえな、ちゃんはどうもそういうところがうとくて」 「いいって、それよりちゃん、おいらにさっき何か云おうとしてなかったか」 「それなんだがな」六三郎は、困ったというように腕を組んで云った、「なんでも今日、隣に越してくる人があるそうなんだ、独り者だと云うし、 左隣りに越してくるそうだから、隣といえばうちだけだ、おら十日雇いの仕事をもらったばかりで、休んだら明日から仕事がもらえないかもしれねえ、休むわけにはいかねえんだ、掃除はおうめがやるにしても、男手があったほうがいいと思うんだが、おめえが仕事に出るとなると、これは困ったもんだ」 「そういうことならいいぜ、おいらが手伝ってやるよ」 「しかしなあ、今が肝心だと云うじゃないか、そうだとするとおいそれと休むわけにはいかねえと思うんだ」六三郎は独り言のようにそう云った、「おらは日庸取りだが、仕事をもらうのは大変なことだ、それが駕籠舁になるともっと大変なことになるんじゃねえかと思うんだが」 「かまわねえよ、ちゃんがそんなに気にすることはねえんだ」 「よくは分からねえが、とにかく長太が云うように今が肝心で、仕事をものにできるかどうかという大切な時期なら、仕事には出たほうがいいと思うんだ、うまく云えねえが、長太はまだ九つだっていうのに仕事を見つけてくる、立派なもんだ、将来きっと一人前の駕籠舁になれる、ここで下手をしてつまずくのは良くねえと思うんだが」 「まいったな」長太は頭を掻いた、「使い走りを勝手にやって、少しだけ駄賃をもらってるだけなんだ、昨日思ったより多くもらったし、見込みがあるなんて云われたから、格好つけただけなんだよ」 「そうなのか、よく分からねえが、とにかく今日は隣の手伝いができるってことか」六三郎は丸い頭を傾げながら、しばらく考えてから云った、「 それで、駕籠舁にはなれねえのか」 「駕籠舁じゃねえよ、飛脚だって云ったじゃねえか」長太は苦笑いをして云った、「おいらはまだ子供だから、どうしたって大人の足にはかなわねえ、飛脚になるならもう少し先さ、まあいいや、今日はしっかり手伝うよ」ヽヽ  長女のまつは母親を手伝ってどんぶりを重ねた。四畳半の居間を降りるとすぐ土間で、かまどと水がめがある。居間の反対側に入り口があるので、入り口を開ければ、この狭い家の中のすべてが見渡せることになる。家の中はわずかな家具があるばかりで、壁はすすけて今にもはがれ落ちそうになり、障子も破れ放題になっていた。家の中はいつも暗かった。日があまり入らないせいもあるが、そればかりではなく空気というのか、重いため息がどこかに漂っているような暗さがあった。  まつは慣れた手つきで、家族全員の食器を盆に乗せ、井戸まで洗いに出ていった。それがまつの仕事である。狭く貧しい家のことなので、自然にそれぞれの役割分担ができていた。七歳になるまつは両親によく似ていた。率直に云って、愚鈍なのである。まつは家のこまごまとした仕事と、乳飲み児のゆきのお守を分担していた。二つ上の兄は、家族で一人、別人のように気がまわり、利口であった。すらりと背が高く、色黒の体で、よく動く大きなきれいな目をしていた。産んだおうめでさえ不審に思うほど長太は二親に似ているところがなかった。二歳のとめと当歳のゆきのことは分からないが、長太が自分たちに似ていないということは、六三郎にもおうめにも明るい材料であった。長太は家の中の重い空気を少しでも吹き飛ばしてやろうとするように、いつも明るく振舞っていた。そして、何をしてくるのか分からなかったが、外に飛び出しては、いくらかの銭を持って帰った。日雇い人足の六三郎や、わずかな賃仕事を細々ともらっているおうめが仕事にあぶれたときは、長太が助けになった。もちろん、子供のことで大した銭は稼げないが、それでもないよりはましであった。愚鈍に生まれついた人間の癖であろう、両親は機転がきく人間ということで、息子に対しても、どこか一歩下がったような遠慮がちな態度になってしまう。  反対にまつは両親に似て、機転のきかない、いつも無口で人の陰に隠れるような娘であった。      三  六三郎は足袋をはきながら、後のことを頼むと、風呂敷を左手に持って家を出た。  六三郎は、引き戸を閉め左側、井戸のほうを回っていった。この長屋は、入り口に面した通り沿いが店を兼ねた二階建ての立派な長屋で、左側東南に九尺三間の長屋が六棟、一番奥がこの中では最も安い六三郎親子の借りている長屋で、右側北西が、大家の住まいであり、真中に七戸、九尺三間の長屋が並んでいる。その真中にある長屋郡の中間に井戸がある。  今そこには、ここに住んでいる主婦たちが押し合うように洗い物や洗濯をしていた。まつははじき出されたように、盆を持ったまま場所が空くのを待っていた。六三郎はそれを見て、胸が痛くなった。人々の群れからおいていかれたように、人の和からはみだして一人ぽつんと、いつ来るとも分からない自分の順番を待っている。重そうに盆を両手で抱えながらじっとしているまつの姿は、そのまま自分の姿を見るようであった。 「まつ」六三郎はあえぐようにそう呼びかけた、「ちゃんは仕事に行くからな、おめえもしっかりかあちゃんを手伝ってくれよ」  まつは黙って父親の目を見返した。六三郎はいじけたような顔でうなずいて、かみさんたちにへこへこと頭を下げてその場を立ち去った。  六三郎が見つけた今の仕事は、軽子と云われるもので、簡単に云えば荷物担ぎである。雇主は油問屋で、各地から集まる油を船から降ろし、店まで運び、倉に入れるというものだった。もちろん楽な仕事ではない、日庸稼ぎと云ってもさまざまな仕事があるが、これはその中でも辛いものであった。多くの肉体労働がそうであるように、そのわりに稼ぎはたいしたことはない、しかし十日雇いということで、十日間仕事にあぶれないということは、六三郎にとってありがたいことだった。  今から四年前に大きな飢饉があった。後に天保の大飢饉と云われるものである、その翌年、天保八年に大阪で大塩平八郎が門弟を従え幕府に対して蜂起し、大阪市中を焼き払った。それらの波紋は今なお続き、この江戸もどこにでも仕事があるというのは、昔の話になっていた。農村から江戸に仕事を求めるものが増え、六三郎のような無器用で愚鈍な人間は、十日も二十日も仕事にありつけないことは珍しくはなかった。同じ日庸取りでもこのような特に辛い仕事のやり手は限られており、多くは六三郎のように、どんなにきつくても肉体労働以外はできないようなものたちであった。 「駄目だ、おらあ、こんな仕事は続かねえ、もう駄目だ」  昼の休憩の時であった。船から降ろしたばかりの樽が油の種類ごとにまとめておかれていた。誰もが疲れて寝転んだり、樽にもたれかかり、じっと体を休めていた。みな一様に口を聞かず、たまに誰かのため息だけが聞こえた。その中で、膝を抱え込んだ二十五六と見える若者がそう云った。誰もその声に反応するものはなかった。みなそう思いながらも、この仕事にしがみついていかなくてはならないのだ。 「こんな生活はもう嫌だ、おらあ耐えられねえ」  その若者がべそをかいたように繰り返した。 「嫌ならやめちまえ」  六三郎の隣に座っていた男がそう云った。六三郎はまだ食べ終わらない弁当を隠すようにして、驚いた顔で隣の男を見た。その男は何度か仕事が一緒になることがあり、六三郎は顔を知っていた。四十を過ぎているように見えるが、その体はたくましくもろ肌脱ぎになった体は日に焼けて、腕は丸太のように太い。つばをはいてその男は云った。 「この仕事は十日雇いだ、十日働かねえと銭は一文ももらえねえ、それが分かってるならやめるこった」  おそらくその若者もどこかの農村から江戸に出稼ぎに出てきたのだろう、訛りの強い口調でぶつぶつと何か云っていた。 「 うるせえ野郎だ、文句があるならやめりゃあいいんだ」男は吐き捨てるようにそう云った。 「おらあ、かわいい子供とかかあに死なれた」その若者は泣きながら訴えるようにそう云った、「自分一人が食うためだ、そのためにこんな苦労をしなくちゃならねえんだ、分かってたまるか、誰にもおらの気持ちは分からねえ」  その若者は若者で、よほど辛いことがあり、彼なりに耐えて来たのだろう。必死に自分を支えてきたものがたった今折れてしまったという感じである。六三郎の隣の男のきつい口調で簡単に折れてしまったのかもしれないが、きっかけはなんでもよかったのだろう、いつでも折れてしまうような状態だったのだ。  しかし、今まで黙っていた回りの者は顔をしかめ、その若者をにらみつけた。舌打ちをするものや、鼻で笑うもの、悪態をつくものもいた。 「珍しくもねえ」 「それがどうした」  そんな声も聞こえてきた。  若者は、「誰にもわかるもんか」そう繰り返して、そこを去ってしまった。  六三郎は、横になって空を見上げていた。梅雨もそろそろ明けるのか、その日も強い日差しがいっぱいに照りつけ、頭の上には雲は一つもなかった。  仕事は七つ(四時)に終わった。重い荷を担いだので、背骨と腰がこわばって固まったようになっている。いくら長く続けていてもこの痛みは慣れない。むしろ十年も続けてきたし、三十も半ばを過ぎた体にはこたえる。今回の仕事は日本橋であった。小石川から歩くと、昇ったばかりの朝日も、今は汗ばむほどの高さになる。たまに家のそばが仕事先になることもあるが、たいていはしばらく歩いていく場所になってしまう。同じ間借りでも、江戸で一番の賑わいである日本橋近辺は、どうしても倍以上の店賃になる。たいていの日庸取りは、誰も場末の裏長屋に住んでいた。  神田まで来ると、日はまだ高かったが、にわかに空が暗くなった。空を見上げると北のほうが真っ黒い雲に覆いつくされていた。もう小石川まではひとまたぎである。六三郎は降りだす前に走ろうかと思ったが、その気力はないし、そう思っている間に墨汁が紙にしみていくように雲はすぐそこまで来ていた。来た道を振り返ると、まだ夏のような明るい日差しに満ちていた。帰路である進むべき道はどしゃぶりである。六三郎は、嘘のように暗くなった空を恨ましげに見た。突然雷がなり、天地がひっくり返ったように雨が降りだした。 「ちゃん、帰ったのかい」  六三郎が家に戻ると家には誰もいなかった。濡れた体を手拭いで拭き、浴衣に着替えているとき、左隣の壁ごしから長太がそう呼びかけた。 「ちょうど良かった、ご馳走を出してもらったんだ、ちゃんも早く来いよ」  ご馳走と云っていた、長太の声もはずんでいたように聞こえた。六三郎はまさかと思いながら手拭いをたたんだ。「旦那、お帰りですね」  その時、戸口からひょいと顔を出した男がそう云った。この男が新しい隣の住人らしい。歳は三十を少し超えたぐらいか、骨の細い感じで背の高い、あごの細いさっぱりとしたいい男である。への字を裏返したようなりりしい眉から利発そうな印象を受ける。少したれた目は愛嬌そえていた。 「やっぱり降られたかい、まあこっちに来くるといい、ちょうど燗がいい頃合だ、一杯やれば冷えた体も暖まるってもんだ」  六三郎は逃げ腰に、言葉にならないことを口の中でつぶやいた。 「遠慮することはない、今日はそちらのかみさんや子供たちにも世話になったんで、蕎麦じゃねえが少し礼をかねて飯を出しただけだ」 「でも、その、おら、酒は飲めねえし」六三郎はまごまごとそう云った、「かえってそんな、馳走になったんじゃ申し訳がなくって」 「俺はこの辺はうとくてね、うまいところも知らねえから一番近い店で仕出しを取ったんだが、口にあうか分からねえ、まあ、長坊もあんたが帰ってからって云うんで待ってたんだ、手ぶらでいいから来なよ、うまい飯屋や料理屋も教えてほしいからな」  そう云って男は、早く早くというように手招きをして、戻っていった。六三郎は誰もいなくなった戸口を呆然と見つめた。そして、叱られでもしたように、困惑して部屋のすみに戻り、うろうろと歩き回った。 「どうするんだ、おら、知らねえんだ、うまい店どころか一度だって外で飯を食ったことなんてねえ、馳走してもらって何も知らねえじゃ、食い逃げみたいなものじゃないか」  もう一度、壁ごしから長太に呼ばれ、六三郎はしぶしぶ腰を上げた。      四  六三郎は初めて受ける親切にすっかり舞い上がっていた。隣に越してきた男 弥八は酔いにまかせてよくしゃべり、それがまたおかしく人を笑わせるのがうまかった。食べたこともないうまい料理、弥八の楽しい口調で夢のような時間だった。 「そうそう、失敗と云やあ、こんなことがあったっけ」  そう云って弥八は身振り手振りで話し始めた。 「何年も前だが、赤ん坊に入り用なものは玩具からべべまで、なんでも売って歩いたことがあったんだ、特に初めての子供とくれば一式まとめて全部買ってくれるから、そういう話を聞いて生まれる前に押しかけりゃあ、それがいい商売になったもんだ、その時の客は早くに亭主に死なれたちょっとしたお店の後家さんさ、なんでもいい男ができて、近々そいつと結ばれる、しかももう子供ができちまってるという話しさ、おれはさっそく家に上がり込んでその後家さんに商売の話だ」  弥八はいよいよだぞというふうに顔を見渡し、酒をあおった。 「たしかにもうすぐ婚礼がある、しかしまだ子供のものを買うには早いと断ってきた、金があるのは家を見て分かったんだが、財布のひもは固いらしい、まだ早いまだ早いの一点張りだ、子ができて男の子か女の子か分かってから来てくれという、こっちはそんなに待てるわけがねえ、俺の見立てだと、あの腹の大きさからいってあと三月か四月で生まれる、それなのにまだ早いって法はねえや、俺はそこで決めの文句を云ったわけさ、いつ産まれてもいいように万全の準備をしておけば、そのお腹の子も安心して出てこられるってもんですよ、自分のためにすっかり揃えられたんじゃあ、元気に産まれてくるしかないでしょう、これは何よりの安産のお守りですよ、これもそのお腹にいるお子のためです、と云ったんだ、俺はこの文句で何人も落としてきた、だがその後家さんときたら、顔色をかえて立ち上がった、広げていた品物を踏みつけて恐ろしい目でにらみつけた、もしやと思ったが遅かった、わたしまだ子供はできていません、このお腹はもとからです、ってな」  そこでいつも無表情のまつがが噴き出した。 「笑いごとじゃねんだ、でかい腹は正真正銘の自腹だったって訳さ、少し肉づきがいいとは思っていたんだが、とんだ失敗さ、あの時ばかりは冷や汗が出たぜ」  おうめも笑いだした、長太は腹を抱えて転げ回り、とめも意味は分かっていないのだろうが、長太のそばでいっしょになって転げ回り、六三郎もおかしそうに笑った。  こんなふうに家族がそろって笑うことは初めてだった。六三郎は、おうめが笑った顔などすっかり忘れていたし、まつの笑顔も初めて見たように思えた。こんなに楽しい気分は生まれてこの方味わったことはないし、なめた程度の酒も程よく回り、家族の幸せそうな顔を見て、こんな幸福があったのかと胸が熱くなった。当たり前なら、恐縮のあまり逃げ出すところだが、六三郎が固くなるととっさに、弥八はうまく力を抜くような話しをしてくれた。  日が沈んでからもしばらく楽しいときを過ごし、八時ごろゆきと眠くなり始めたとめを寝かせるため、おうめと長太は家に帰った。六三郎は、弥八が将棋を教えてくれるというので残った。まつも帰りたがらず、将棋盤の横にきちんと座り、将棋は見ずに弥八の顔ばかりじっと見ていた。 「この歩というやつは分かったんだが」四半刻も教えてもらってから六三郎はそう云った、「他のがどういう名前だったか、どう動くんだか、何だかおらにはさっぱり分からねえ、 もうよしにしよう、これじゃあ弥八さんに申し訳がなくって」 「いいってことよ、歩を覚えただけでも上出来だ、後はおいおい覚えりゃいいさ、そんなことより弥八さんはよしてくれねえか、俺も六さんって呼ぶから俺のことも八公とでも呼んでくれよ」 「そんな、八公だなんて」 「いいって、いいって、俺はやけのやん八なんて呼ばれたくらいさ、まともに八と呼んでもらえりゃもうけもんだぜ、六と八、数同士で呼びあおうじゃないか」 「じゃあ、八さんで」 「それでもいいか、よし、とりあえず一番試しにやってみよう、とは云ってもまだ全部を覚えたわけじゃねえから、とりあえず金から覚えよう、六さんの駒は全部金ということにして、金の動きを覚えるつもりで試しにやろう」  そう云って弥八は手取り足取り、こうしたら意味なく取られるからこうしたほうがいい、こうすれば俺の角は逃げ場がない、というように細かく教えてくれた。当然六三郎が勝ち、弥八はまいったと云って六三郎を褒めた。 「なかなか筋がいい、一番で金の動きもしっかり覚えたしな」 「いや、おらは何も、云われた通りやってただけだし、なんだかいんちきで勝ったみてえで」  六三郎は照れて仕方がないというように体をくねらせた。 「何を云ってんだい、最後に俺を詰んだ つまり俺の王がどこに逃げても六さんに取られるっていう一手を打ったのは、六さん自身の力じゃねえか、初めてやって王を詰むなんて立派なもんだ、どうだいもう一番、今度は全部銀でいこう」 「いや、おら、もう 」  そう云って六三郎は弥八から勝ち取った玉を握り締めて泣き出した。顔をぐしゃぐしゃにしておえつした。 「おら、こんなに人に優しくされたのは初めてだ、おら愚図でのろまだから、今まで人に褒められたことなんてねえ、何ていいって云いのか、おら、こんなうれしいことはない、八さんのためなら死んでもいい」  六三郎は感極まってそう訴えた。  六三郎は、八王子の小さい農家の六人兄弟の三男として生まれた。兄と姉が一人ずつ六三郎の生まれる前に流行り病で死んでいる。生き残ったのは四人で、二人の姉は嫁に行き、兄は所帯を持って家を継いでいる。男である六三郎に与える土地はないので、早くから彼は邪魔者にされ、十歳の時に品川の畳屋に奉公に出された。しかし、生まれ持った無器用さと鈍臭さとで、弟分にさえ馬鹿にされ、つまはじきにされ続け、八年目で、一銭も貰えぬまま使い物にならないということで、店を追い出された。三年間、ひどい貧乏の中、江戸の町で物貰いのようなことまでして食いつないだ。たまりかねて八王子に逃げ帰ったが、そこでの扱いもひどかった。物置きで寝るのはいいとしても、一日中手伝いで働き通しても、冷や飯の、それも匂いのするようなものをいつも投げるように与えられていた。他人から冷たくされるのは慣れていたし、他人はそんなものだと思っていたが、血のつながりのあるものにまで無下に扱われるのは辛かった。  二十四の時に六三郎はおうめと結婚した。当然、所帯を持ったということで、家を追い出された。その時おうめは二十五で、それまで何度も花嫁修業をかねて武家奉公に出たが、そのたびに彼女も生まれついての愚図さのため、しばらくすると理由をつけて追い返された。縹緻が良くないので、妾に選ばれるとは誰も思っていなかったが、こうたびたび追い返されては、花嫁修業どころかよけいに外聞が悪くなるばかりであった。父親は、うまくいけば婿が見つかるかもしれないと、しまいには茶屋奉公にも出した。しかしさきごろそこからも暇を出されて帰ってきたばかりだった。この娘は金を稼ぐ役に立たないばかりか、片づけることもできない、いっそうのこと尼寺にでも入れたほうがましではないか、そう考えいているときに、すぐ隣町の六三郎の噂を聞いた。話しはとんとん拍子に進んだ。両家にしてみれば、体よくお荷物同士をくっつけてたたき出したということである。この似た者夫婦は、おうめのわずかな持参金でなんとか江戸に出てこの長屋を借りた。それからも二人は、人よりも劣るその性質のせいで、さまざまな辛酸をなめ続けてきた。これまで一度として、人から親切にされたということはなかった。このような場末の裏店住まいでは、長屋の者同士が助け合っていかなくては生活がなり立たない。六三郎一家も助けられたことがないとは云わないが、彼らをさげすむことで、自分たちはまだましなのだという、長屋の貧しい住民のわずかな自尊心を満足させるために、ここでも六三郎たちはまっとうな扱いは受けなかった。それが今日初めて、弥八に親切にしてもらい、六三郎は感謝した。 「よしてくれ」  弥八は責められたもののようにそう云った。 「六さん、頼むから顔を上げてくれ」弥八は今までとは違ったまじめな口調でそう云った、「俺は六さんが思っているような善人じゃねえんだ、もう勘弁してくれ」  弥八の様子に驚いて顔を上げた六三郎に、弥八は酔ったみたいだから寝ようと云って、背を向けて蒲団を敷くためにざっと床を片づけた。 「気を悪くしたなら許してくれ、おら、その、何て云ったらいいのか、あんまりうれしかったもんで」 「そうじゃねえんだ」  弥八は慰めるように笑いかけた。 「酔いが出たんだ、そうだ、六さん、もしよかったら俺に仕事を紹介してくれねえか」  六三郎は素早く、三度もうなづいた。      五  次の日、弥八はもとの明るい調子に戻っていた。ちょうど昨日仕事をやめた若者がいるので、六三郎は弥八を連れていったところ、残り七日分しか出さなくていいならということで、弥八の仕事は決まった。  弥八は人付き合いがうまかった。そばに誰かいればすぐに声をかけ、あっという間に仲良くなってしまう。午前中は、六三郎と一緒に仕事の手順を一から聞いていたが、午後になるとほかの人間に積極的に話しかけた。そんな弥八の様子を見ると、六三郎はがっかりとした気持になった。昨晩の親切は誰にでもするものなのか、そう思うと肩を落としてしまう。弥八と楽しげに話す相手に嫉妬する気持が沸くが、自分と他人を比べたとき、どこにも人より勝るものはないのだからと、六三郎はあきらめた。それは自分の一番大事にしていた宝物を己のせいでなくしてしまった時の悲しみに似ていた。  仕事が終わると弥八は六三郎のところに戻ってきた。弥八はすっかり疲れはてていた。 「すまねえ、おら、こんな仕事しか知らねえものだから」 「六さんはずっとこうやって働いてきたんだろ」弥八は小さく、覚悟はしてたんだがな、とつぶやいてから云った、「これだけ辛いを仕事続けてる人もいるんだ、六さん、たいしたもんだよ」 「おら、頭が悪りいから、こんな仕事しかできねえんだ」  弥八は気にするなと云うようにうなずいた。  その夜、弥八は六三郎の家で夕飯を食わせてもらった。 「裸一貫から始めようと思って、昨日有り金を使っちまったんだ」弥八はそう云った。  六三郎は、何か訳があるんだろうか、そう思った。昨日自分を善人ではないと云っていたし、裸一貫から始めるつもりだという言葉も意味ありげに聞こえた。昨日のことは気になってはいたのだが、聞き出す機会はなかった。  弥八は帰ってからずっと、寝返りを打つのも辛そうに横になっていた。それが飯の支度が出来ると急に起き上がった。 「しかし、こんなに飯がうめえもんだとは思わなかった」  弥八は本当にうまそうに頬張りながらそう云った。 「少なくって申し訳がねえ」 「こっちはただで飯を食わせてもらったんだ、申し訳ねえのはこっちさ」  まつが黙って弥八に自分の茶碗に残った飯を差し出した。 「なんだい、くれるって云うのかい」  まつはこくりとうなずいた。 「育ち盛りの子供からもらうわけにはいかねえな、それは自分で食いな」  まつはじっと弥八の顔を見つめてさらに茶碗を押し出した。 「そうかい、それなら遠慮なくもらっておこう」そう云って弥八は照れ笑いした、「実はもう少し食いてえなと思ってたところなんだ、感謝するぜ」 「しょうがねえな」長太がそう云った、「昨日のお礼ってわけじゃねえけど、おいらのこうこもやるよ」 「すまねえな長、六さん、あんた子供に恵まれてるよ」  晩飯の後、弥八は隣から将棋を持ってきて六三郎に教え始めた。まつは弥八が好きになったと見えて、また将棋盤の横に座って弥八の顔を見つめた。 「ほう、おまつちゃんも将棋が好きか、じゃあ一緒に教えてあげよう」 「なんだい、まつなんかはいいんだ、おいらにも教えてくれよ」  長太がまつの反対側に負けずと座った。 「とめも、とめも」  そう云ってとめも長太の膝の上に乗ってきた。  弥八が一人いるだけで、暗く重苦しい空気に包まれたいつもの家の中が、すっきり晴れ渡ったように明るく感じられた。  九時になるとみんなもう寝てしまった。六三郎が、もう一番だけと云うので、二人は隣に移って将棋を続けた。六三郎は歩と金、銀の動かし方は覚えた。弥八の家に移って飛車と角を教わっていたのだが、上の空でとんちんかんなことばかりしていた。 「眠たくなったんだな」弥八は将棋に集中しない六三郎にそう云った、「ちっとばかり早えが、明日もあるし、今日はもう休むかい」 「そうじゃねえんだ、そうじゃねえんだが、その、何て云うか、昨日のことが気になっちまって」  昨日のこと、と聞き返して、弥八は「ああ」とうなずいた。 「何でもねえんだ、気にしないでくれ」  弥八の云い方にこれ以上は突っ込んで聞けない雰囲気があるように思い、気になりながらも六三郎はその場は何も云わずにおいた。  次の日、弥八は体中の筋肉が痛み出した。腕を曲げるのも辛そうにしながら、それでも必死に周りのものと同じだけの仕事をしようとした。 「いいんだ、ありがてえが手を借りるのは悪い」弥八は、見兼ねて手伝いに来た六三郎にそう云った、「おんなし銭をもらうのに俺だけ楽をしちゃあ申し訳がねえ、ただでも六さんに比べれば半分も役に立ってねえんだ」  弥八は油の入った樽を転がすのも、それを荷押し車に乗せるのも、ひどく時間がかかった。樽を立てるのに四苦八苦し、自分が重さでよろけてしまうこともあった。仕事仲間の何人かとは仲良くなっていたので、彼らや六三郎は無理をするなと云った。それでも弥八はなんとか足手まといにならないようにがんばっていた。 「八さんは偉えな」六三郎は、弥八が手は貸さなくてもいいと云ったときそう云った、「たいてえの人は少しでも手を抜こうと躍起になるっていうのに、八さんは人が見てなくても手を抜こうとはしねえものな」 「うれしいことを云ってくれるな」弥八はそう云った、「実は何度ももう駄目かと思っていたんだが、そうやってしっかりやろうというところを見ていてくれる人がいるっていうのは、努力する甲斐があるってもんだ」 「もう一とふんばりで昼だから」六三郎はそう云った。  昼は二人でおうめが持たせた弁当を遣った。 「胃の中まで汗をかいたようで、あまり食う気がしなかったんだが」弥八はすごい勢いで食べながら云った、「こうして食ってみると食えるもんだ、昨日も云ったが、こんなに飯がうめえものとはな、ありがてえことだ」 「おらも、いつも一人で食ってたから、八さんとこうして話しながら食ってるとうまく感じる」  次の日の昼、弥八は親しくなった二人の男に声をかけて、六三郎と一緒に昼を過ごした。六三郎は緊張してしまい、おどおどとしていたが、弥八がうまく助け船を出してくれるので、今までにないほど他人と話すことができた。 「おら、これまで人に馬鹿にされてばかりいたから、人とうまく話すことができなかったんだけども」六三郎はその日の帰り道、弥八に云った、「何て云っていいのか、八さんのおかげでほかの人とも仲良くなれて、おら、何て云っていいのか」  六三郎はそう云って言葉を詰まらせた。 「俺は六さん、あんたみてえな人間になりてえんだ」 「冗談じゃねえ、それはおらの台詞だ、おらは見ての通り馬鹿で愚図でどうしようもねえ人間だ、いつも人に馬鹿にされてきた、おらのほうこそ八さんのようになりてえんだ」 「六さんが馬鹿にされてきたのは、六さんが正直に生きてきたからだと思う、汚ねえ事に手を出さねえで、真っ正直に生きてきたからなんだよ」 「やめてくれよ、おらそんな、おらはただ何の知恵もねえから、ずるいことをしようとしてもすぐばれちまうから、それだけなんだ、おらは八さんにそんなふうに云われると困っちまう、おら本当に八さんには感謝してるんだ、うまく云えねえけども、こんなに気にかけてもらって、良くしてもらって、おら本当うれしいんだ」 「そんなに感謝されると俺のほうが辛えや」  弥八は少し間をおいた。 「俺も正直に云おう、俺はそんな善人じゃねえんだ、これは恥だし、生まれ変わったつもりでやるために誰にも云わずにおこうと思ったんだが、六さんには隠さねえでおこう」  話を聞かれたくないのだろう、弥八は誰もいない建てかけの家の敷地に入り、材木の上に腰を降ろし、六三郎もその横に座った。日が傾き始め、西からなま暖かい風が吹き始めた。その風が黒い雲を呼び、西の空を覆いはじめ、夕日を遮っていた。町の中の、夕方のざわめきの中、母親が子供を呼ぶ声が聞こえた。 「俺は盗人だった」  弥八がそう云った。六三郎は黙って弥八の顔を見た。弥八は小さな木片を拾い上げてそれを握り締めた。 「盗人と云ってもいろいろある」弥八は自分の手を見つめながらそう云った、「俺は山師だ、一文にもならないがらくたを、うまく口でだまして高く買わせるってことをやっていた、特に薬が一番売れたもんだ、いい加減な油を塗った膏薬だの、木の根っ子やその辺の葉っぱをすりつぶした丸薬だの、薬師如来の手から溢れた万病に効く水と云って井戸水に塩を少し入れたものを売ったこともある」 「そんなものが売れるのかい」 「売れたさ、おかしなもんで、薬なんてものは高ければ高いほどよく売れるんだ、もちろん公に道ばたで屋台を開いたわけでも、店を出していたわけでもねえ、病人がいると聞けばその家に押しかけて口八丁手八丁で売ったわけさ、金持ちの家ほど貴重な薬と聞けば大枚をはたいもんだ、これもおかしなもんで、どういうわけか病気が良くなったと礼を云われたり、その薬を全部買うと云ってくるのもいた」 「それで治っちまうのか、不思議なもんだ」  六三郎は感心した。 「始めっから気の持ちようで治る場合だけさ」弥八は顔をしかめて云った、「病気を治してえという人の弱みにつけこんだひでえやり方だよ、だがそのときは気がつかなかった、世の中は馬鹿な奴ばかりだと調子に乗った」 「おらたちの住んでる勘兵衛店の大家なんだが」と六三郎が云った、「前の大家、今の主人の親父様なんだが、これが何か体を悪くしたみてえで、二年ほど前に亡くなったんだ、そのとき有名な医者が来て何かと薬を調合したらしいんだが、悪くなるばかりでそのまま死んじまった、偉えお医者の薬でも治らないことがあるのに、八さんの作った薬で治ることもあるんだな、やっぱり八さんは普通の人じゃねえ、大したもんだ」 「だからそれは」と云いかけて、弥八は笑った、「六さんにはかなわねえ」      六  家に帰っても六三郎の弥八に対する態度は変わらなかった。弥八は誤解されたままでは、せっかく覚悟を決めて六三郎に打ち明けた意味がないと思い、夕飯の後、将棋をやろうと自分の家に六三郎を呼んだ。もしかしたら、さっきも誤解したのではなく、聞き流してくれたのかもしれない、そうだとしてもそれを確かめたかった。 「六さんのことはここに越してきたときに全部聞かせてもらったが、俺のことは何も話してなかったな」  弥八は何気ない感じで、そう切り出した。 「実は俺は看板を云えば六さんも知っているような商家に生まれたんだ」  不自由なく育ったためか、明るい性格で人からも好かれ、目端のきく賢い子で、両親も将来店を任せるに足りると期待していた。十八の歳に後々のためにとさる取引先の大きな店に見習いとして住み込みに出た。番頭の見習いということで、早くからいろいろと教えてもらった。 「いきなり番頭の仕事を教えてもらったんだ、自分で云うのもなんだが、覚えも早かった、子飼いで十年続けた奴より俺のほうがまともな仕事をした、天狗になってたんだが、それはいいとして、仕事に慣れるにしがっていろいろ分かってくることがあった」  商売である以上金を儲けなくてはならない。そのためには品物の値を決めるのに商売仲間でいいあわせて高値を付けたり、仕事の便宜のために役人に賄賂を渡したり、物が悪くても安い仕入れを求め、金の掛からぬ小僧ばかりを使い、いい歳になったら使える者だけ残しあとは体よくやめさせる。商売の裏には金儲けのための汚い仕組みがいくらでもあった。 「俺はぬるま湯みてえなところに育ったものだから世間を知らなかった、若かったということもあるが、そんな汚ねえことをしているのが許せなかった、何度も主人に掛け合ったが、相手にされねえ、しまいにはうるさがられて家に戻された、その時分かったんだが、俺は家から大枚を渡されたおかげで番頭の仕事をさせてもらってたんだ、考えて見りゃあすぐ分かることなんだが、俺は気がつかなかった、家の商売を見てきたし、自信もあったから俺の力を認めてもらっていたんだとばかり思っていた、子供じみた話しだが、俺はその一件でずいぶん打ちのめされた、よく見てみるとうちの商いも例にもれず汚ねえことばかりだ、結局世の中はそんなものかとやけになった、よくある話しだが、それからは酒と女と博打という具合に遊びほうけたわけだ」  せめてもの反抗に家の金を遣ってしまおうと思ったのだが、何年も続かずに勘当された。ただしその時に母親が金をくれ、これで何か商売をして、まじめに働いて店をうまく切り盛りできれば、父親もきっと許してくれるだろうと云った。家に帰る気はなかったが、この機会に自分なりの商売をしてみたくなった。汚いことをしなくても立派に商売ができるのだということを示して見返してやりたいと思った。小さな酒屋を始め、当時当たり前になっていた水増しされた酒は置かず、決して薄めない良い酒だけを置くことにした。良質の酒を安く手に入れることには苦労したが、ある酒問屋が弥八を気に入ってくれ、何かとよくしてくれた。弥八も金で手づるをつけない分、礼儀を欠かさぬようまじめに働いた。その甲斐もあって、江戸っ子が競って手に入れた新酒もどこよりも早く売り出し、新酒を一番に買える店として評判になった。 「指しながら聞いてくれ」将棋盤も見ずに聞いている六三郎に弥八そう云って続けた。 「ちょうどそんなとき、親が帰ってこいと云ってきた、俺は商売が軌道に乗ってきたところだ、いまさら帰る気はないと突っぱねた、さんざん押し問答があったあげく、俺が意地を通したわけさ、 その日からだ、今まで昵懇にしてきた酒問屋がばっさり手を切ってきた、訳が分からねえが仕入れのために他をあたってみた、しかし今までよくしてくれたところが掌を返すような仕打ちだ、そのうちの一件にすがりついて訳を聞いた、それで分かった、親が俺を立ち直らせるために金を積んでよろしく頼むと頭を下げてたのさ、今までのつき合いでなんとかしてくれと土下座までしたが、こっちも商売、儲けにならないことはしない、てめえのやり方じゃ商売にはならねえ、はっきり云って迷惑だ、今までは親から出た金でなんとかしてやってたが、それがなくなりゃあてめえなんぞ誰も相手にしねえ、すっぱりとそう云われた」  弥八はその後すぐに出奔した。その日からやけになり、世の中がそうなら、自分も金のためなら何でもしてやると人をだましては金を掠め、それをくだらない遊びに費やした。 「金儲けばかりの連中に嫌気がさしたと云っても、それは言い訳だ、聞いた通り、どんな理由があろうと俺は人をだましては金を取るっていう、盗人同様の男だ、何度も云うようだが六さんの云うようないい人間じゃねえんだ、もちろん、もうあんなことをする気はねえが、六さんのように真っ当に生きてきた人にあんなに感謝されると、うれしいんだが、またごまかしをしているような気になって辛かったんだ」  弥八は六三郎を見た。安い油の燃える、暗い灯の中で、六三郎はうつむいていた。 「これで分かっただろう」弥八は悲しく笑った、「六さんには全部聞いて欲しかった、それで六さんが俺とのつきあいをやめたいと云うなら俺はそれでいい」  六三郎は話しの途中から頭を下げ、時たま首をひねっていたが、今も首をひねりながら頭を掻いていた。 「申し分けねえんだが」  六三郎が云いにくそうにそう云うのを、弥八は覚悟していたようにうなずいて、云ってくれというように手を振った。 「その、おらよく分からねえんだが、いやその、八さんにいろいろあったのは分かったんだが、その、おらが八さんに親切にしてもらったことを感謝しちゃいけねえ理由が分からねえんだ」  えっ、という顔をして弥八は戸惑った。 「おら悪いことはしちゃいけねえと思うんだが、おら、そのうまく云えねえけども、今まで八さんみてえに親切にしてくれた人はいねえから、八さんは悪い人間じゃねえと思うんだ、それどころか今まで見たこともねえような仏様みてえなお人だ、何だか、いろいろあったようだが、その、よく分からねえんだが、いろいろあっても八さんは八さんだし、それにその、おらまだ、将棋は覚え途中だし、何と云っていいのか分からねえんだけども」 「分かったよ」弥八は手を上げてそう云った「もういいよ、分かった、 ありがてえ、それだけで俺は十分だ、六さんじゃねえが、俺も何と云っていいか分からねえ、ただ俺は、今日ほど生きていて良かったと思ったことはない」 「やめてくれよ、おらそんな、おらこそ、その」と云って六三郎は云いにくそうに頭をなでまわし、「その、八さんみてえな、と、友達が出来てうれしいんだ」と友達のところで真赤になってそう云った。 「俺もだよ、六さん」弥八は重荷を降ろしたようなすっきりとした顔でそう云った、「よし、じゃあ湿っぽい話しはやめて続きをしよう」  弥八が始めたのがこの仕事の四日目で、六日後にこの十日雇いの仕事は終わった。仕事を始めて三日目には、筋肉の痛みは取れたが、今度は体の節々が痛み出した。慣れない仕事で、一日の仕事が終わった後は、いつもおしゃべりな弥八も口をきけないほどに疲れていた。夕食を六三郎の家で食べ、六三郎と将棋を一番やり、まつに背中や腰に上ってもらったり、足を揉んでもらううちに眠ってしまい、六三郎に担がれて家まで帰り、朝も長太に起こされてやっと起きるという毎日であった。  弥八は働いた七日分の銭をもらい、これまでの分とこれからの食事代ということで、断る六三郎に無理に金を渡し、残った金を数えてにわかに活気づいた。 「けっして多くはねえが、体を使って稼いだ金はいいもんだ、物を右から左に流して手にする銭とは重さが違うようだ」  風呂に行って軽く何か食べるぐらいはできるというので、弥八は六三郎を誘った。六三郎は、この次いつ仕事が決まるか分からないので、それが決まるまではある銭は大事にしたほうがいいと忠告した。 「そのことなら心配ねえよ」弥八は当たり前のような顔でそう云った、「六さんさえよければだが、さっき聞いてみたら、明後日からの仕事があるというのがいたんだ、二人ならなんとか口をきいてくれるらしい」  土木工事の手伝いで、これも日庸だが、二十日ぐらいは続けられる仕事ということだった。六三郎は信じられないという顔で弥八を見つめた。無理もない、六三郎は人に溶け込むことが苦手なため、いわゆる情報交換ができず、一つの仕事が終わると次の仕事をうろうろ歩き回って探すということを繰り返し、なかなか仕事を得ることはできなかった。  風呂を使い、風呂屋の二階で将棋を教わりながら、六三郎はため息まじりに云った。 「やっぱり八さんはすげえ、おらならそんないい仕事は滅多に取れねえのに、八さんは一日で簡単にもらってくる」「人には得手不得手というものがある、これからはそういうことは俺に任せなよ、だてにほかの奴らと仲良くなっておいたわけじゃねえんだ、体を使う仕事は六さんにはかなわねえが、そっちなら得意とするところだ、その代わり、六さんには仕事の手順を教えてもらおう」  そういう理由もあったのかと、六三郎は自分以外の人と仲良くする弥八に嫉妬したことを恥じた。  弥八は越してきたあの日以来、酒は飲まなかった。昔はよく飲んでいたと云っていたが、もともとそう好きではなく、当時は飲まなくてはいられない気分だったので無理に飲んだということで、こうして六三郎と過ごしていれば酒を飲みたくはならないと云った。 「それに昔のように贅沢ができる立場じゃないからな」 「しかし、その、こうして八さんが仕事を見つけてくれれば、そのぐらいの余裕はできると思うんだが」  六三郎は、少し浮かれたようにそう云って、何か云おうと口ごもった。 「慌てちゃいけねえよ六さん、人間金が入ればその分何かと欲しいものが出てくる、身近なところで云えば、かけた茶碗を新しくしたいだの、せんべい蒲団に綿を入れたいだの、うまいものも食いたくなれば、女房以外の女を買いたくもなる、酒の次は女、うまいものって具合できりがねえ、けじめはあったほうがいい」 「分からねえ、おら、次の仕事の分が入るまでに毎日借りが溜まって、借りた分を返すために仕事をするようなものだから、何て云っていいか、銭に余裕があったことがねえから、どうなるか分からねえんだ」 「簡単に云っちまえば、汗水たらして稼いだ金を、つまらねえことに使いたくないってことさ、それより六さん」弥八はさっきから進展しない盤を指して云った、「次はどうするんだい」  六三郎は、分からねえ、そんなもんだろうか、とぶつぶつ口の中で繰り返し、弥八に云われ、今度は盤を見て首をひねった。 「そうきたかい」  弥八は六三郎が桂馬を進めたのを見てにっと笑った。六三郎はようやく桂馬の動きを覚え、今日はまだ一つも間違えずに駒を動かしていた。 「桂馬の高飛び歩のえじきと云ってな、こうするとその桂馬は敵に取られるだけだ」  そう云って弥八は桂馬の鼻先に歩を進めた。 「桂馬は飛車や角とまではいかないが、ひょいと先に進める、だが後には戻れない分使い方が難しい、飛車や角は誰でも使えるが、桂馬をうまく使えれば将棋はぐんと面白くなる、ということだ、俺もまだうまく使えねえが、俺に将棋を教えてくれた爺さんは桂馬と銀だけで攻めてきて、よく俺を負かせたもんだ」 「八さんもかなわねえ人がいるのか」六三郎は驚いてそう云った。 「俺なんかまだ将棋を覚えて一年もたっちゃいねえ、俺に教えてくれたその爺さんがどれだけうまかったかは、他の人間とやったことがねえから比べられないが、俺は最後まで爺さんが角を使わねえで、やっと五分の勝負ができた程度だ」 「そんなことがあるもんだ」六三郎は感心して云った、「八さんが勝てねえ人がいるとは分からねえもんだ、その爺さんって人は将棋の名人じゃねえのかい」 「とんでもねえ、うまいにはうまいが名人なんてほどじゃねえ、その爺さんっていう人は俺が江戸から逃げ出していたときに世話になっていたんだが、 そういえばこの話はまだしていなかったな」  続けながら話そう、と云って弥八は声を落とした。 「俺が人をだまして、金を掠め取っていた話は前にした、ただ、表でまともな商売を張っていたわけじゃないからな、かくれみのがなかったんだ、知らねえうちに目明しらしい奴が回りをうろちょろするようになってきた、何度か後も付けられていたようだ、そうすると、もう誰を見ても俺を見張っているように見えてきた、このままじゃ身動きが取れねえ、自分の手に縄がかかるんじゃないかと思った、そうしたら急に恐くなった、汚ねえ商売は誰もがやってることだと云い聞かせて、やけのやん八を気取って悪いことをしているとは思っていなかった、だが、自分が捕まるようなことをやっていると気がついたら、俺は本当に恐くなっちまった、それで有り金を持ち出して江戸を抜け出したんだ、それから二年ぐらいはあっちこっちを点々とした、 それで初めて俺は自分の馬鹿さに気がついた、親に甘やかされて育てられて、甘えた気持ちのまんま汚ねえ商売は許せねえなんていきがって、親に反発して勘当されて、親に意地張って商売始めて、親が許せねえってやけになって馬鹿なことをした、俺はずっと親に甘えて駄々をこねてただけだったんだ、三十になってそれに気づくのは遅いだろうが、二年間江戸から逃げてる間に初めて世間ってものを見た、さっき話した爺さんに会って、貧しくてもいいから正直に真っ当に生きてみてえと思って、江戸に帰ってきたというわけだ」  六三郎はじっと盤を見つめながら話を聞き、そこで歩を一歩進めた。弥八は間髪を入れずに次の手を打ち、話を続けた。 「その爺さんには半年ほど世話になって、そのとき将棋も教わった、実はその爺さんが六さんに似てるんだ、何をやっても人よりうまくいかねえ、隠居してもいい歳だっていうのに、親戚に土地をだまし取られていまだに楽もできずに貧乏暮らしだ、それでも将棋だけはうまかった、じっくり考えて打つ将棋で、最初の一手からどの歩を出すか考えに考える、俺が待ちくたびれてうとうとして目を覚ましても、まだ考えてるなんてこともよくあったぐらいだ」 「じゃあ、おらといっしょだ」六三郎はうれしそうにそう云った、「おら、自分でとろくせえと思っていたけども、そうだとすると、おらもそのうちうまくなるだろうか」 「きっとなるさ、俺はな六さん、あの爺さんと爺さんの将棋を見て、爺さんのように真っ当に生きてえと思って、思い切って江戸に帰ってきたんだ、その爺さんや六さんみてえにゆっくり、人より無器用にでも毎日を懸命に生きている人というのは、将棋でもゆっくりだが確かな手を打つもんだ」弥八は駒を弄びながら、感慨深そうに云った、「不思議なもんだ、 江戸に来て早速六さんに会ったっていうのも、きっと何かの縁だと思う、何かが俺に真っ当に生きろと云っているような、おまえの選んだことは間違いじゃねえと後押しされるような、そんな気になるんだ、俺は本当にありがてえと思ってる、六さんにはこのままで変わらずに正直に生きてもらいてえ」 「そんな、おらこんなのろまなのに、このままでいいなんて云ってもらえたのは初めてだ」  六三郎はうれしそうに頭を掻いた。      七  弥八が見つけてきた仕事は順調に進んでいた。十日たったが、前の仕事同様力仕事であることに変わりはないが、雑用をこなす仕事なので、楽とは云わないまでも足腰が立たなくなるほど辛いものではなかった。銭は毎日貰えるし、それが後十日は続くのである。弥八がいるだけで明るくなる家の中が、いくらか余裕ができたせいか、更に明るくなったように感じられた。  夏の熱い盛りが続き、長屋の入り口にあるさるすべりの花も満開なっていた。そんな中でおうめは、このような楽しい日々が夢のように思え、その分、それがいつかは覚めてしまうのではないかという不安を持っていた。 「そう心配することはねえよ」おうめの心配を聞いて、弥八は大げさに手を振ってそう云った、「あんたの亭主は俺とは違って道を外すようなことはない、六さんは贅沢なことは何もしてねえよ、風呂屋の二階で将棋を指してても、菓子一つつまもうとしないんだ、貧乏暮らしが板についちまってるのか、少し金が入ったからといって贅沢なことはしねえ、とは云っても、風呂屋で将棋を打つぐらいのことは勘弁してやんなよ」  おうめは云いにくそうにしていた。 「博打かい」弥八はとんでもないというように手を振った、「六さんに限ってその心配はない、今までそんなことはしたことがないと云っていたし、性にも合わないだろうとも云ってたぜ、それとも何かい、何かそんな心配をするようなことがあったのかい」  おうめはうなずいた。 「信じられねえな、あの六さんが仕事の銭を全部持ち出して、家を飛び出しちまうとはな、賭場も知らねえような六さんがかい」弥八はそう云って何度も首をかしげた、「信じられねえな、梅雨の始まった頃といえばそう前でもないだろう」  おうめは云った。 「そりゃ、六さんらしい」弥八は大声で笑った、「何かと思えば富くじだ、それも目の前まで行ったのに、恐くなって逃げ帰ってきただって、何とも六さんらしいじゃねえか、一世一代という気持ちで家を出たんだろうが、それにしても目に浮かぶようだ、心配することたあねえ、あんたの亭主はそういう人だよ」  おうめは弥八の袖を引っ張った。 「大丈夫だ、こんなことをおうめさんが云っていたとは云わねえし、俺がついてるから案じることはねえよ、それにしても六さんらしい」  弥八はなおも笑っていた。  その日から十二日間仕事はあり、全部で二十二日続いた。つい先日その仕事は終わったのだが、次の仕事を弥八はもう見つけていた。その日弥八は鰻を買うんだと云って六三郎をつれて外に出た。 「やっぱりやめよう八さん、鰻といってもそう安いものじゃねえし、みんなの分を買うとなるとかなりな事になるんじゃねえだろうか」 「もう鰻屋は見えてるじゃねえか」弥八は呆れたように云った、「ここまで来て引き返すわけにはいかねえよ、長坊だって飛び上がって喜んでたんだ、世話になってる礼だ、たまにはおごらせてくれよ」 「しかし、世話になってるのはおらたちのほうで、食事代だっていつも多くもらってるし、仕事だって」 「いいってことよ」弥八は六三郎をさえぎってそう云った、「だいたい今日はおまっちゃんの生まれた日だっていうじゃねえか、そんな日ぐらいはおごらせてもらわないと、俺は六さんの家にいけなくなるぜ」 「それは、そんなことになると困る」 「だったら好きにさせてくんなよ、鰻を買いに行くって云ってみんなを喜ばしておいて、手ぶらで帰って、買うのが恐くなったじゃすまないだろう」  そう云って弥八は六三郎の顔を見て、噴き出した。六三郎がどうしたかと聞くと、ただの思い出し笑いだと云って横を向いて肩を震わせた。  鰻は重にしてもらい、六つ頼んだ。三つづつ風呂敷に包み、弥八と六三郎でそれを一つづつ持った。 「六さん」鰻を大切そうに抱えた六三郎に弥八は呼びかけた、「まだ次の仕事までに日がある、明日にでも深川へ行かねえか」 「深川へ、何しに行くんだい」  六三郎は、風呂敷の上からしきりに匂いをかぎながらそう聞いた。 「八幡様さ、ちょうど富くじをやってるんだ、行かねえか」  そう云って弥八は素早く六三郎の顔を見た。 「と、富くじ、無理だ、おら、無理だ」  六三郎は顔を赤くしてそう云った。弥八は笑いをこらえるあまり目を飛び出さんばかりに丸くして聞いた、「なぜだい、六さん」  六三郎は以前富くじを買おうとして、やめたことを話した。 「当たればいいんだが、当たらなかったことを考えるとおらにはとうてい無理だ、一分もの金がただの紙切れになるかと思うと、おらには無理だ」 「一分」弥八は聞き返した、「六さん、一人でそんな高いくじを買おうとしたのか」  逃げ出すのも無理はねえ、と弥八はつぶやいた。 「六さん今はな、二朱のくじもあれば、一朱ってやつもあるんだぜ」 「それは知ってるんだが、一分なら、五百両当たると聞いたものだから、そっちのほうがいいんじゃねえかと思って」  弥八は目を見張って云った、「六さん、案外大物だな、まあ、座って相談しよう」  二人は神田川の岸辺に腰を下ろした。六三郎は大切そうに風呂敷を膝に抱えて、周りにいた二匹の野良犬を真剣な顔で追い払った。 「今店賃が四百文、だいたい一朱だな」弥八は独り言のようにそう云った、「一朱なら百番の大当たりで百両というところだろう、二朱なら三百両だ、六さんはどっちがいい」  六三郎は、赤毛の犬に牙を向いていたのをやめ、聞き返した。  もう一度弥八から話を聞き、六三郎はうなった、「おらよく分からねえんだが、二朱といえばたいした額だが、その、どうせなら三百両のほうがおらはいい、でもおらそんな金はもったいなくて」 「そうだろう、そこで相談というのはこうだ、一人で一朱出して百両よりも、二人で一朱ずつ出しあって二朱にして、そこで三百両を狙ったほうが、二人でわけても百五十両づづになる」 「二人で出し合ったほうが得なのか、さすが八さんだ、おらは友達なんて今までいなかったからそんなことは考えたこともなかった」 「しかしだ、さっき六さんも云ったように、一朱と云っても俺は独り者だからいいが、六さんは辛いだろう、今なら一分でも出せるだろうが、外れたときのことを考えるなら、ここは二百文ばかり出し合って一朱の富くじを買ったほうがいい、二人で一朱なら分相応だしな、それでも当たれば五十両ずつだ、どうしても五百両ほしいと云うなら、話は別だが、五十両でもたいがいほしいものは買えるぜ」 「おら、別に何かほしいものがあるわけじゃねえんだ、五百両もあったら、おら、困るかもしれねえ」  六三郎は頭を捻って、指を何度も折りながら金の勘定をした。 「そうかもしれねえ」六三郎はまじめな顔になって云った、「おら富くじは始めてだし、明日買うのは一朱の札にしておこう、それでも五十両か、おら、なんだか恐くなってきた」  弥八は、六三郎がすっかり明日富くじを買う気になっているのを見て、立ち上がった。六三郎は、家に着くまでずっと五十両という金のすごさに、一人でぶつぶつ口の中で何かつぶやいていた。      八 「うわあ」長太は鰻の匂いに歓声を上げた、「何ていい匂いなんだい、これとおんなし味がするっていうじゃねえか、たまんねえな、一度でいいから食ってみたかったんだ、ちゃん何やってんだよ早くしてくれよ」 「そんなことを云っても、おら、緊張して、何がなんだか分からなくなっちまって」  弥八は笑いながら、緊張と云えばこんな奴がいた、とまたおかしな話を始めた。しかし、話が佳境にさしかかってきても、みんな鰻を食べるのに夢中で誰も聞いていなかった。 「これからっていうのに誰も聞いてねえのか、まあ、そんだけ喜んでくれてるなら買ってきた甲斐があるってもんだ」 「うめえよ」長太郎が笑い泣きのような顔で云った、「こんなにうめえとは思わなかった、この味を忘れちまうぐらいだったら、おいら今死んでもいいぜ、十月はおいらの誕生があるけどそのときも食えるのならその日までは死にたかあねえけど」 「いいとも、そのときはまたうめえものを食わせてやるさ」弥八は云った、「しかし、死んでもいいとは長坊も大げさだな」 「大げさじゃねえ」六三郎がそう云った、「おらももう死んでもいいぐらいだ、こんなにうめえとは思わなかった、明日ので五十両当たったらもう一度食おう」  弥八は慌てて止めようと手を出したが、五十両と聞き、おうめは裏切られたとでもいうような目で弥八をにらんだ。  食事の後、弥八はこっそりおうめを外に呼んで打ち明けた。五十両というのはたしかに富くじのことで、それも明日買いに行く、ただし、おうめから聞いたことは話してないと云った。富くじを買うように仕向けたのは自分で、渋っていたのをうまく話を持ってきて買う気にさせた、それには理由があるのだと云った。  六三郎は自分の今と未来に何の希望も持っていない、どんなことでもいいから楽しみのようなものを弥八は持たせてやりたかった。どうやら将棋はその楽しみの一つになっているようだが、もっと他にこの辛い生活に耐えられるような楽しみ、そんなものを持てるような何かがないかと思っていた。そこへ、おうめから富くじの話を聞き、これだと思ったのだ。一攫千金が目的ではない、辛い仕事を耐え切るために、六三郎自身に何か金を稼ぐ喜び、その使い道に何か目標があれば張り合いが出るだろう、そう云った。 「しかも一朱という一番安い百両富だ、それを二人で出し合うわけだから、今ならなんとかならない銭じゃないと思うんだが」  弥八はうかがうように黙って聞いていたおうめの顔を見た。日は傾いているのだが、西日がきつくじっとしていても汗が出るが、左手から強く風が吹いており、こんな吹き溜りにも時折いい風が入ってきた。おうめは乱れた髪に手をやり、顔を上げた。 「その、次の仕事もあるそうですし、それも弥八さんのおかげです、おっしゃる通り、少しくらいあの人の気を晴らせるものがあるといいと思うんですけど」おうめは何かに遠慮したように口をつむり、それから云った、「けれども、あの、あたしとしては、少しでも余裕があるなら、長太を寺子屋に入れてやりたいと思っているんです」 「寺子屋か、なるほど」弥八は手を打った。少し頭を回せばそこに気づかないはずはない、同じ年頃の子供たちの多くは手習いに通っている。 「それは妙案だ、そいつに気がつかねえとは、俺もとんだ間抜けだ、長坊は飛脚になりてえそうだが、読み書き算盤はできたほうがいい、よし、そっちは俺に任せなよ、何も寺子屋に入れなくてもいい、そのぐらいなら俺にも教えられる」  まつが静かに外に出てきて、ちゃんが将棋がしたいから呼んでいると告げた。おうめは、それなら申し訳ないが、ぜひとも頼みたいと頭を下げて先に中に入った。 「おまっちゃん、おめえ読み書きを覚えたいと思わないか」  まつは弥八を不思議そうに見上げた。 「今度長坊に教えることになったんだが、良かったらおまっちゃんもどうだい」  まつは父親譲りの小さな目を見開いてうなづいた。風がさっと吹き、あらためて四方から夏の虫が鳴く声が聞こえた。お稲荷さんのほうから、かなかなかなと、ひぐらしがひときわ大きな声で夕刻であることを告げた。 「明日からだぞ」と云って弥八が背を向けると、まつはその背中を引っ張った。弥八が振り向くと、まつは弥八の浴衣をぎゅっと握り締めて、目に一杯の涙をため弥八を見上げた。 「今日はありがとう」まつは消えそうな声でそう云った。  弥八は照れたように「いいんだ」と云ってまつの背中を抱いて一緒に家に入った。  次の日弥八と六三郎は富札を買いに出かけた。江戸市中にいくつもある専用の小屋で、毎日のように行なわれるどこかの富くじを買うことができるのだが、二人は縁起を担いで、富突きをする深川の永代寺まで行くことにした。二人が買った紙札の番号は、『亀の二六七二』であった。いいごろ合わせができないと弥八は不満そうであったが、六三郎はもしかしたらこれが百両に、と大金でもにぎったように興奮していた。その帰り道は大変で、六三郎は紙札を弥八に持ってもらい、少し歩くと札は無事か、また歩くと、もう一度見せてくれ、という具合に何度も弥八の懐から札を出させた。弥八が、そんなに心配なら六さんが持てばいい、と云っても、自分には恐ろしくてとても無理だ、と云い張った。しかたなく、弥八が懐手でずっと紙札を握っているということで、六三郎はどうやら安心した。  富突きの行なわれる日、その日は二人とも早くから出かけていった。六三郎は前の晩から興奮して眠れなかったらしく、目が赤く充血して腫れぼったくなっていた。 「いいかい六さん」弥八は眠そうな目を開けてそう云った、「富くじなんていうのはそう当たるものじゃねえ、初めから外れるものだと思っていたほうがいい、こんなに早く出かけたからといって当たりを引いてもらえるわけじゃねえんだ」 「しかし、おらもうすっかり支度ができたし、この通り弁当もこしらえたんだ、うちでこのままじっとしてられねえんだ、起きてくれよ」  しょうがねえと云って弥八は大あくびをして起き上がった。そして、六三郎にせかされるまま支度をし、押されるように家を出た。七月になり、季節は秋になったばかりである、新暦でいえば八月の中旬だか、まだ残暑は厳しく、その日も暑い一日だった。  昼からの富突きにもかかわらず、この早い時間でも二人より先に来ているものもいた。出店も準備を始めていたし、永代寺も富突きの行なわれる会場に葵の紋の入った幕を張っているところだった。  六三郎はすっかり興奮して、走って一番前に場所を取った。弥八も徐々にそれらしく作られていく境内を見て、祭りの前のような心持ちになってきた。昼前には寺社奉行の役人が現れ、木の札の入った箱も運ばれてきた。番号を張 り出す板が立てられ、大きな錐も用意され、準備はすっかり整った。  昼には会場は大賑わいになり、役人の号令でいっせいに歓声が上がった。まず、木札の入った箱を逆さにして残らず出し、不正のないところを見せる。 「あった、俺の木札があったぞ」  六三郎のすぐ右横でそう叫ぶ声がした。六三郎も必死になって自分の番号を探した。会場は押すな押すなの騒ぎになった。  一度出した木札をあらためて箱に戻し、いよいよ札を突く男が現れた。体の大きな、眉の太い人を威圧するような坊主だった。みなが「頼むぞ」「俺のを突いてくれよ」と威勢よく呼びかけた。六三郎も神を拝むようにその男に手を合わせた。 「六さん、俺たちの札は見つかったかい」  弥八はそう聞いてみたが、 「分からねえ、俺たちのはあの中にないのかもしれねえ」  と六三郎は上の空でそう云いながら、食い入るように前を見続けていた。  大錐を持ったその坊主は箱の上に錐を構え、ぴたりと止まった。ぐるりと会場を見渡して、勢い良く箱の中を突く。会場は息を飲んで静まり返った。大男はもったいぶったようにゆっくりと突かれた札を引き出した。 「鶴、四、八、九」  札を受け取った役人が大きく番号を呼び出し、書き役がその番号を張り出す。会場にため息が流れた。六三郎はやっと息をつき、からからになった喉に唾を飲み込ませた。六三郎は汗を拭くのも忘れて、富突きを見入った。 「誰も自分が当たったと云わねえところを見ると、この中には当たりはいねえんだろうか」  二十番まで読み上げられた頃、六三郎は後ろを伸び上がるようにして見てそう云った。 「そりゃそうさ」弥八は六三郎に耳打ちした、「この中には当たった奴の札をふんだくろうという輩もいるんだ、六さん、もし当たっても知らねえ顔をしとくんだぜ」  六三郎は緊張した顔でうなずいた。  一番札は十両の当たりで、その後十番ごとに五両の当たりになる。それ以外は一両で、百番まで突き、最後の百番が大当たりの百両である。緊張とため息の流れる空気の中、富突きは続いた。      九  冬に入ってから、長太は平仮名を習い始めた。夏の終わりから始めた手習いも、秋には一通り片仮名を覚え、十二月になった今では基本的な平仮名を教わっている。平仮名は漢字から発生したものだが、当時は当て字のように、くずした漢字を平仮名として使うことがあり、「あ」というこの字は「安」をくずしたもので、それが基本だが、「阿」や「悪」などをくずしたものも使われていた。弥八は、難しい本を読むわけではないので、簡単な文章の読み書きが出来るように教えていた。そのためには後々漢字を覚えなくてはならないが、まず漢字の一部が変化した片仮名から始めて、漢字に親しみが持てる下準備を弥八はしておいた。まつはまだ片仮名の手習いを続けているが、弥八の云うことはよく聞き、熱心に付いていこうとしていた。 「よし、今日はこれで終わりにしよう」弥八はそう云って筆をおいた、「おまっちゃん、来月、年が明けて春になったら平仮名をやろう、片仮名の読み書きは大分出来るようになったからな、それと長坊は算盤の練習もしておくんだぞ」  六三郎は待ってましたというように、将棋盤に駒を並べ始めた。まつは長太と自分の筆を持って井戸に洗いに行き、 長太は反故紙を整理し、弥八のくれた算盤を大切そうに、母の作ってくれた専用の長いきんちゃくにしまった。とめは算盤が好きで、よく手を出しては邪魔をして長太を困らせた。その算盤は弥八が古道具屋で買ってくれたもので、古いがしっかりしたものであった。それを持っただけで自分が武家の子になった気がすると、長太はとても気に入っていた。今もとめが、やっとかまってもらえるというように、長太の膝の上に乗り、算盤を鳴らしてくれとねだっていた。  弥八は伸びをして、火鉢から鉄瓶を下ろし、中の炭を返して鉄瓶の湯をそのまま湯飲みに注いだ。六三郎はすっかり駒を並び終え、姿勢を正して弥八を見つめた。 「待たねえわけじゃねえんだ」六三郎は横になった弥八にそう言い返した、「なんだかおら、近頃あんまり相手をしてくれねえものだから、今日は一番やると約束していたから、おら、楽しみにしてたんだ」  六三郎は最近やっと、飛車、角、銀落ちで三番に二つは勝てるようになったので、将棋がしたくて仕方がないのだ。弥八はとめ公と変わらねえなあ、と笑いながら盤に向かった。秋までは将棋を指して遅くなったときは弥八の部屋に行っていた。火鉢が必要になってからは、子供たちが寝る時刻になると、二人は蒲団に押しやられて部屋の隅でひっそりと将棋を指した。六三郎の将棋は長いので、一番終わる頃には、決まって子供たちは眠っていた。今も二人は、火鉢に手をかざし、手燭を引き寄せ、無言で駒音を鳴らしていた。 「まいった、さすがにこれでは勝てなくなったな」  弥八は持ち駒を盤において、小声でそう云った。 「もう寝よう」弥八はまだやりたそうにする六三郎にそう云った、「こう寒くちゃたまらねえや」 「また駄目だったなあ」六三郎は駒をしまいながら声を低くして、すがるように弥八の顔を見た、「もう何度もやってるのになんでこう当たらねえんだろうか」 「年末は何かと金が出るからな、次は来年になってからだ、まあ、年が替ればつきも変わるだろう、それにまだ五回しか買ってない、そう慌てることはねえよ」 「やっぱり、おらは富くじなんて大それたものは向いてねえんだろうか、五回も買えばずいぶんな額になると思うんだが、おらはなんだか、その金がもったいねえような気持になってくるんだ」  長太が「ううん」と云いながら寝返りをうった。弥八は「しっ」と口に手を当てた。 「そのうち、そのうち」弥八はそうささやいて、自分の家に戻った。  さすがに師走になると仕事は毎日のようにあった。長太とまつが手習いを始めてから、六三郎は家に帰ると弥八を子供たちに取られるので不満なようすだった。ゆっくり将棋が指せないのが何よりつまらないのだ。それで近頃は、仕事の後、家に帰る前に湯屋の二階に行き、そこで将棋を指すことにした。湯は六文と安く、二階で頼む菓子代が八文なのでそれより安い。六三郎は菓子も茶も頼まず、将棋に集中した。二階は湯上がりの人々がくつろげる場になっており、少々騒がしいが、我慢できないほどではなかった。階段を上がって二階に行くとそこが部屋の左はじになる、正面が一面の障子窓で、二人はいつも階段と反対の右のはじで将棋を打った。  その日、そのいつもの場所で将棋盤に向かいながら、六三郎はまた、富くじが当たらないことに不平を云った。 「以前俺の知っている人に、十年買い続けても一両も当たらない人がいた」と弥八は云った、「それなのにその人の知り合いというのが、誘われて試しに買ってみたら、十両当たったそうだ、つきがあれば一回でも当たるし、つきがなけりゃあ十年買い続けても当たらねえんだ」 「おら、つきはねえほうだと思うんだ、そうだとすると、おらは当たらねえだろうか」 「そればっかしは分からねえ、ただ、どうも欲を出すと当たらねえようだな、当たれ当たれと思うものより、何気なく買ったもののほうが当たるみてえだ」 「それじゃあおらは駄目だ」六三郎はがっかりして云った、「おらいつも当ててくれって、お稲荷さんに頼んでるんだ、それで当たらねえんだろうか」 「そうとは限らねえよ」弥八は笑った、「気長にやってれば、そのうち当たるさ、今のところは、何とか続けて買えるぐらいの銭はあるんだ、当たらねえと決めていたほうが当たるかもしれねえし、当たれと思ってるほうが当たるかもしれねえ、何にしてものんびりやろう、当たらないからといってくよくよすることはねえよ」 「そうか、春になったらおら、試しに当たらねえと思って買う、お稲荷さんにも当たらねえようにお願いしてみる」「何もお稲荷さんにそんな願をかけることはねえが」弥八そう云って六三郎の顔を見た、「それにしても六さんがそんなに富くじを当てたがるとは思わなかったな」 「当たりめえだ、おら、そんな、無駄に銭は使えねえ性分なんだ、銭を出したんなら、当たらねえともったいねえもの」 「もったいねえか、そりゃあそうだ、俺はまた六さんは何かその金で欲しいものでもあるのかと思ったよ」  六三郎はそう云われて、初めて気がついたという顔をした。 「そうか、おら、五十両が見たこともない大金だということしか考えてなかった、当たったらどうするかは考えてもいなかった」  無心なところが六さんらしいやと弥八は思った。 「分かった」六三郎はしばらく考えてからそう云った、「おら、当たらねえのが何でか分かった」 「なんだい、次の手を考えているかと思ったら、まだそんなことを気にしてたのか」 「そうなんだ、おら、うまく云えねえけども、当たったときその金をどうするか考えてもみなかったもんだから、それで当たらねえんじゃないかと思うんだ」 「どうしてだい」 「だって、その、いくら当ててくれるように頼んでも、当てた金をどうするか決めてない奴に、当てるとは思えねえ、神様っていうのはちゃんとしてるもんだ、八さんに云われなけりゃ気がつかねえとは、やっぱりおらは愚図だな」 「本当に何にも欲しいものはねえのかい」 「どうだか」六三郎は少し考えてから云った、「そうだな、おら、立派な将棋盤と駒が欲しい、それと、 また鰻 が食いてえ」  弥八は吹き出した。 「それなら金を貯めて無理をすれば買えないものでもないだろう」 「そうだ」六三郎はひどく肩を落として云った、「これじゃあ、いつまでたっても当たらねえ、おら、やっぱり駄目だな」      十 「そう気を落とすことはねえよ」弥八は六三郎の肩を叩いて云った、「当たるときは当たるんだ、何も金の使い道が決まってなくちゃ当たらねえわけじゃねえんだから」 「そうだろうか、おら、もうなんだか当たる気がしなくなっちまった」六三郎は、そういじけたように云った、「富くじを買うのはやめたほうがいいかもしれねえ、おらは何をやっても駄目なんだ」  これはまずい、弥八はそう思った。六三郎は富くじを買うために、辛い仕事にも張り合いを持っている、これは弥八が最初に意図した通りになっていることだった。ここで富くじをやめるということになると元の木阿弥である。 「俺は富くじは当たらねえものと思ってやっていたし、もし当たったらというときのために考えいたことだから、云わずにいたんだが」弥八はもったいぶって、何か秘密を話すような口振りでそう云った、「それは六さんがうんと云ってくれないとできないことなんだ」 「それは、その、当たったときの金の使い道のことだろうか」 「そうなんだ、ただ、六さんが嫌と云えばそれまでなんだが」 「教えてくれ、おら、自分では使い道は考えられねえ、もしそんな使い道があるなら、おらきっと、うんと云うから」 「俺が昔商売をやろうとして、そのときひどい目にあったことは話したと思う」  六三郎は睨むような真剣な眼差しでうなずいた。 「俺はあれで、自分の商売の道が終わったことに満足はしてないんだ、いつかまた何か、俺が信じる正直な商売をしたい、そのときは六さんに手伝って欲しい、つまり富くじが当たったらその二人の金で、二人で何か商売をしたいんだ」  弥八はそう云いながら、罪の意識を感じていた。弥八は六三郎だけには嘘をつきたくはなかった、六三郎をだますようなこともしてこなかった。ただこのときばかりは、嘘も方便と言い聞かせて、思いつくまま口からでまかせを云った。ただしその話に六三郎がのるかは自信がなかった。何しろ六三郎は五十両の使い道さえ考えられない、もしくは、そんなことを考えては生きていけないような性分なのだ。  六三郎は弥八の云ったことが余りに以外だったらしく、云ったことを指折り確認しながら頭の中を整理した。 「とんでもねえ」六三郎は突然そう叫んだ、「おらには無理だ、前にも云った通り、おらは奉公先からたたき出されるような、何にもできねえ男だ、そんな、商売だなんて、八さんの足を引っ張るだけだ」 「深く考えないでくれ」弥八は諭すように云った、「商売のことは俺が全部やる、六さんはいてくれるだけでいいんだ、六さんと一緒にいるだけで、俺は汚ねえ商売は絶対にしねえ、一人じゃくじけることもあるだろうが、六さんと一緒ならやれる気がするんだ」  弥八は口に出しながら、六三郎と二人で商売をすることを想像した。 「それは、もしおらでもいいと云ってくれるなら、それは、おらは夢みてえな話だ、ずっと八さんと一緒にいられるなんて、おら夢みてえだ」 「それじゃあ、承知してくれるかい」  六三郎は、目を輝かせ、こう惚とした表情でうなずいた。 「云っておくが」弥八は目をそらして云った、「それも富くじが当たったらの話だぜ」  その日のうちに、六三郎は興奮して家族にそのことを話した。真っ先に長太が賛成した。まつは何も云わなかったが、その顔は喜びに溢れていた。おうめは富くじか当たるわけはないと決めつけているようだったが、六三郎の興奮したしゃべり方につられ、なるべくたくさんの富くじが買えるように協力すると云った。  この天保の時代というのは、富くじが最も流行った時期で、ほとんど毎日のようにどこかで興行があった。弥八は自重して、本当に余裕があると思ったときだけしかくじは買っていなかったが、六三郎一家はこれからはできるだけ切り詰めて少しでも多く買おうと相談していた。弥八が隣に越してきて、仕事に切れ目がなくなってからは、おうめはひまつぶし程度の量の賃仕事にしていたし、長太も以前のように無理して小遣いを稼ぎに出ることはなかった。それだけ前よりはゆとりができていたのだ。しかし、それをまた始めようと云うのである。弥八は困惑した。おうめには本当のことを云おうと思っていたのだが、その隙がなかった。おうめさえすっかり話を真に受けてしまった。いまさらでまかせを云ったとは云えず、弥八は飯が終わると気まずい思いで早々に隣に帰った。  弥八の思いとは裏腹に、六三郎を筆頭に家族全員が活き活きと富くじを買えるよう、倹約に努めた。  正月になり、年が明けて天保十三年になった。 「正月ぐらいは餅を食おうじゃないか」弥八は年始の食卓を見てそう云った、「何なら、今から俺が買ってこようか」 「駄目だよ」長太が云った、「おじさんも節約してくれないと困るよ、おいら餅なんかいらねえよ、なあ、ちゃん」「そうだ、おらもいらねえ」六三郎は強気でそう云った、「今日は正月の特別のくじを買うんだ、何でも、いつもの倍の額が当たるっていうんだ、無駄な銭は使えねえ、その金は取っておいて次の分に回したほうがいい」  弥八は何も云えなくなった。六三郎に少しでも希望を持たせたかった、それで思いつくままに口からでまかせが出たのだが、それがこれほどの騒ぎになるとき思わなかった。今や六三郎だけではなく、家族全員が、弥八と店を持ち商売をするという目標のために、それを叶えるための富くじを買うために、全力で向かっている。それに水を差すことは弥八にはできなかった。とはいえ弥八は今はこのまま思い通りにさせようと思っていた。大当たり百両の百番くじが当たるとはとうてい思えないし、当たっても一両か十両、その程度では店など持てるはずはない。貧しい生活に慣れているので、六三郎たちは根気だけはある。当分はその目標に向かうだろうし、そうしているうちに目的を持って生きることの楽しみが分かれば、ほかにも目が向くだろうと弥八は思い、積極的に協力することにした。  正月の一月からは、食事代だけ入れていた弥八の稼ぎも一つにし、その月だけで四つの富くじを買った。これまではよくて一月に一度、二月に一度しか買えないこともあったのだから、たいした進歩と云えるであろう。冬だからいいと云って、六三郎は二日か三日に一度しか銭湯にも行かなくなった。当然二階で将棋をする回数も減ったが、六三郎は自分に言い聞かせるように、我慢すると云った。 「そのかわり、手習いをしっかり教えてやってほしい」  六三郎はそう云った。 「読み書き算盤が出来るとなりゃあ、おいら、もっと稼いでくるぜ」  長太はそう云って、暇を見つけては前日の復習をし、弥八に早く次を教えてくれとせがんだ。まつも負けじと頑張り、二人の上達ぶりは弥八が驚くほどであった。六三郎の仕事への意欲もますます沸くようであり、嘘も方便とは云うものの、ここまで効果があるとは弥八は思いもしなかった。  富くじは金が出来たときに買える場所で買っていた。なるべくげんを担いで一度外れたところでは買わなかった。本所の回向院と云えば、六三郎が弥八と知り合う前に富くじを買おうとして、勇気がなくなり逃げ帰ってきたところである。避けていたわけではないのだが、回向院ではまだ一度も買っていなかった。それは二月の中頃で、ほかに適当な富くじの興行をしているところがなかったので、六三郎は少し尻込みをしたが、そこで百両富を買った。 それが当たった。当たったのは一両だが、六三郎の喜びは大変なものだった。一割は奉納しなくてはならないが、それでも二朱も足せば一両である。六三郎は当てた金をさっそく家族に披露した。 「つきが来たんだ、この分なら百両も夢じゃねえ」  一度も当たったことがないと、富くじは当たらないものではないかと疑問を持つ、それが一両でも、当たるという事実ができると勇気が湧いた。 「二朱、いや、一分のくじも買えるんじゃねえだろうか」六三郎は云った、「一分でも四つも買える、二朱だと、ええと 」 「八だよ、ちゃん」 「そうだ、八だ、八回も買えば今のつきなら一つは当たりそうだ」 「六さん、その金を全部くじに使う気かい」  六三郎は当り前だと云うように弥八にうなずいた。 「でも半分はおじさんの取り分だろ」長太はそう云って金を半分に分け始めた、「何かか欲しいものがあるなら買えばいいさ、ちゃんもそうがっつくなよ」 「長、俺はそういう意味で云ったんじゃねえんだよ」弥八は慌ててそう云った、「俺は分け前なんてびた一文いらねえんだが、六さんは前に将棋の盤や駒が欲しいと云ってたろう、まさか全部くじに使うとは思わなかったんで驚いたんだ」 「おら、それは今は我慢する、おらほかに欲しいものはねえし、八さんも何もいらねえなら、何と云うか、これはくじを買うのに使ったほうがいいんじゃねえだろうか」 「どうしてもそうしたいなら俺は止めたりはしねえ、ただな六さん、こういうことで手にした金をまた増やそうと使っても、今度はまるで儲からねえと相場は決まっているんだ、こういうのはあぶく銭と云ってな、ぱっと使っちまったほうがいいんだ、どうせなら立派な駒でも買ったほうがいいと思うんだが」  当たらないと決まっているならそれは困ると、六三郎は計画がご破算になることを嘆いた。富くじが買えないならこんな金などはいらないとただまでこねた。それをなだめて、くじを買おうと説得するのに弥八は骨を折った。      十一  結局その金はすべて富くじに使われた。半分の二分を五百富の一分くじを二つ買うことにし、残りで一朱と二朱のくじを四つ買った。二月中にそれだけで六回と、そのほかに一両当てたくじを入れて全部で十回もくじを買った。当たったのはその一両だけで、残りは箸にも棒にもかからなかった。六三郎はつきが回ってきたんだと、百番の大当たりがくるものと信じていたが、それだけ買っても当たらなかったことにがっかりした。 「買いもしねえで、あのとき買ったら当たったかもしれねえなんて嘆くよりは、買って当たらなかったほうがましだぜ」弥八はそう励ました、「のんびりやろうじゃないか、続けていればいつか大当たりが来るさ」  弥八にとっては、六三郎にこのまま買い続けさせることが肝心であった。しかしここで、思いもしないことが起こった。  この年、将軍家斉亡き後、水野忠邦が幕府権力を強化するために改革を行なった。天保の改革と云われるものである。それをいちいち書き上げる必要はないだろう、その改革の中の倹約令が問題であった。高価な食べ物や衣類は禁止され、芝居小屋は移転させられ、贅沢と云われるものはすべて禁止になった。そして、この年の三月、富興行はいっさい禁止されてしまった。これまでも禁止されることは何度かあったが、結局富くじは今まで続けられてきた。それがこの改革で断固として取り止めにされた。この後富興行は二度と行なわれなかったほどの厳しさであった。  六三郎の落胆ぶりは云い表わせないほどのものであった。もちろん家族たちもひどく気落ちしたが、六三郎の失望ぶりはすさまじかった。仕事に行く力もなくなり、一日部屋にうずくまりため息をまき散らしていた。  そんな日が続いていた三月も半ばである、それは弥八が仕事から帰ったときだった。家に一歩入ると何か落ち着かない雰囲気が家の中に流れていた。 「ちゃんは」弥八の顔を見るなり、長太がそう聞いた、「ちゃんは一緒じゃないのかい」  その日も六三郎は仕事に行かず、家で横になってため息ばかりついていた。夕方になり、ふと気づくと六三郎はどこにもいなくなっていた。 「身投げをしてもおかしくない状態だっただろ」長太は心配そうにそう云った、「でも、もしかしたらおじさんに会いに行ったのかもしれないと思って、帰ってくるのを待ってたんだ」 「いや、仕事先は知っているはずだから、もし俺に会いに来たならどこかで落ち合ったはずだ、それで、いなくなったのはいつごろだ」  おうめが大体の検討をつけた。 「それならまだ近くにいるかもしれねえ、手分けをして探そう」  暗くなってからも探し続けた。川縁はもちろん、六三郎が行きそうなところはところはすべて当たってみた。しかし、六三郎はどこにもいなかった。往来に人が少なくなってから、三人はほかの誰かが見つけたかもしれないという期待をもち、それぞれ家に戻った。 「身投げがあったという話は聞かなかった」弥八はゆきととめ、それとまつを寝かせてから長太とおうめにそう云った、「身投げはしてねえと思う、六さんにそんな勇気はないはずだ」  そう云いながらも、六三郎の失意の大きさを考えると、弥八は嫌な予感がしてしようがなかった。  生きていてくれ、死なねえでいてくれ。弥八はそう願わずにはいられなかった。  いつもならもう寝るような時間だが、三人とも寝ようとは云わなかった。 いつもは見慣れた家の中も、寒々とて、壁や家具、まつたちの寝息ですら、すべてが背を向けているような、空しく重い空気に包まれていた。弥八は努めて明るく、六三郎の失敗談を面白おかしく話して聞かせた。長太はもちろん、おうめも弥八が何か云うたびに笑った。それは自分の気持ちを察して笑ってくれているように思え、しゃべればしゃべるほど、二人が笑えば笑うほど、弥八の心はからからと空しく乾いていった。 「六さんはそういう人だよ、そんな六さんが馬鹿なことを考えるはずはねえ、一人になりてえ気分というのは誰にでもあるもんだ、明日になればべそをかきながら戻ってくるさ、どんな失敗をしたか、それが見ものだ」  それを楽しみにして今日はもう寝よう、そう云って弥八は立ち上がった。 「おじさん、今日はこっちで寝てくれよ」  長太がすがりつくような目で弥八を見上げてそう云った。 「俺のいびきはうるせえぞ」 「そんなのは壁ごしに筒抜けだよ、おいら気にしねえよ」  弥八はまだ不安そうにしているおうめにうなずいて、長太に軽口をきいて床に入った。明かりを消してからも、三人とも寝れずにいた。長太は寝返りを繰り返し、おうめのため息が、思い出したように部屋に響いた。弥八は夜明けとともに一人で探しに行く気でいた。今日は心当たりは全部回ったし、すっかり更けてから六三郎が町を歩き回るとは思えないので帰ってきた。それで明日は、明るくなると同時に探しに出るつもりなので、もう寝たほうがいいと思った。しかし、目を閉じると不安が沸き上がってくる。本当に探しそこなった場所はないか、もしかしたら人知れず身投げしたのではないか、入水していないとしたら生きているはずだ、それなら今いったいどこにいるのだろう。そんな疑問が絶えず沸き上がってきた。どこか、人の来ない空き地の片隅、六三郎が膝をかかえ、寒さに震えている、そんな姿が目に浮かんできた。寒さは六三郎の全身を凍えさせ、六三郎は縮こまって泣いている、もしかしたら自分の名を呼んでいるかもしれない。弥八はたまらず、起き上がった。 「どうかしましたか」  驚いた様子でおうめがそう聞いた。 「何でもない」  ここで自分が外に出ていったら、おうめに余計な不安を与えるだけだ。弥八はそう思った、まさか死にはしない、それに町の木戸もそろそろ閉まる時間で外に出ても仕方ない、そう云い聞かせて夜が明けるのを待つことにした。  それから一刻(二時間)はたったように思えた。長太が軽く寝息をたて始めた頃だった。立て付けの悪い引き戸をひどくうるさくならして、六三郎が帰ってきた。 「あんた」真っ先におうめが飛び起きた。  弥八は固く目をつむり、安堵のため息をついた。 「おら、もう駄目だ、死んじまうかもしれねえ」  六三郎は土間に座り込んでうめいた。 「酒か」抱きかかえた弥八は、六三郎から立つ酒の匂いに顔をしかめた、「こんなにひどく飲んじまって、どうしたんだいったい、頼むから心配させねえでくれ」 「すまねえ、おら、金が足りなくて、今から払いに行かなくちゃなんねえんだ」 「いくらだ、まあいい、そんなことはいいから、とにかく上へあがりなよ」 「いくらか、おら、もう分からねえんだ、どこの店かも、分からねえ、八さん、おら、どうしたらいいだろう」  そう云ってすぐ、六三郎は吐いた。もう何度も吐いているのだろう、泡のような白い胃液が出るばかりであった。弥八はおうめに着替えを、長太に水と手拭いを持ってこさせた。 「いいんだよ、六さん、そんなことはいいんだ」  良かった、無事で良かった。弥八は心の中でそう叫んだ。起き上がる力もなく、着替えさせる弥八の腕に体を預六三郎は、いつもよりも小さく見えた。酒の飲めない、飲もうともしない六三郎に、ここまで酒を飲ませたその気持ちを弥八は思った。六三郎の悔しさがじかに伝わり、弥八の目には自然に涙が溢れてきた。  弥八は、六三郎を自分の寝ていた蒲団に寝かせ、金盥を枕元に持ってきた。家の中は安心したような落ち着いた空気に包まれた。障子窓からは月明りがうっすらと入っていた。それがいかにも優しく、暖かく弥八には感じられた。起きてきたまつととめの頭を撫で、弥八は看病すると云って、六三郎と一緒の蒲団に入った。  六三郎は蒲団に入ってからしばらくは、苦しそうに何度も目を覚まして何も残っていない胃の中身を吐いた。弥八はそのたびに金盥を引き寄せ、塗れた手拭いで額を冷やしてやった。六三郎はそのうちいびきをかき始め、時折、夢でも見ているのか、追いつめられたもののようなうめき声を上げた。弥八は六三郎の手を握り、何か安心させるような声をかけてやろうとしたが、云うべき言葉は見つからなかった。その夜、弥八は眠れなかった。怒りで眠ることができなかった。幕府は大塩平八郎の乱で自らの力のなさを思い知った。それを回復するために、改革と称して金集めに力を入れた。倹約令、株仲間の解散、人返しの法、貨幣の改鋳、改革を失敗に追いやった上知令、それらすべては幕府が金を得るための手段である。  こんな貧しい、何の楽しみもねえ庶民のただ一つの希望を、お上の勝手な都合で奪うとはどういうことだ、金のためならどんなに汚いこともする、あのあくどい商人ども少しも変わりゃあしねえ、それが御政道をあずかる武士のやることか、こんな楽しみにしかすがることができねえ人間を痛めつけて、それじゃああまりにもひでえじゃねえか。  弥八は心の中でそう叫んだ。六三郎がどれだけ富くじを当てることに希望を持ち、勇気づけられていたか、それを目の当りにしてきた弥八は、六三郎の心境を考えるといたたまれなかった。その日は朝まで眠ることができなかった。  その朝、寝不足にもかかわらず、弥八の目は力強く輝いていた。  六三郎はひどい宿酔いで、激しい渇きで目を覚まし、水を飲んでは、それを胃が受けつけず、悶えるほど苦しみ、水をすべて吐くとしばらく眠り、また渇きで目を覚ます、ということを昼まで繰り返していた。その看病はおうめがし、弥八は自分の家に戻り、昼まで軽く寝た。午後からは六三郎は起き上がれるようになった。 「おら、もう酒は飲まねえ、気分が良くなるというから、一生懸命飲んだんだ、それなのに具合は悪くなるばかりだし、今日までこんな死ぬような目に遭うとは思わなかった」 「それが分かればいい、酒を逃げ道にしても、何も救われねえんだ」 「おら、逃げ道にしようとしたんじゃねえんだ」六三郎はやつれた顔でそう云った、「何て云ったらいいか、おら、家にいても、こう、気分が晴れねえし、何かをする気にもならなくて、酒を飲むと楽しい気分になるとみんな云うから、それでおら、あんまし金もねえのに飲んじまったんだ」  店に入るのに、六三郎は半刻は店の前を行ったり来たりしたらしい。それに気づいた小女が声をかけたらしいが、その途端走って逃げてしまった。そんなことを繰り返して、ようやく中に入ったのが五つというから、八時である。四つ半になり、ふとかなりの量を飲み食いしたことに気がついた。持ち合わせではとうてい間に合いそうもない。気分が悪くなったと外に出たまま、六三郎は家に帰って金を持ってこなくてはと、酔った頭でその一つの思いだけに動かされて、途中何度も座り込んで起き上がれなくなるようなことを繰り返して、やっと帰ってきたという。 「八さん、おら、金を返さなくちゃいけねえ、このままでは食い逃げだ、一緒に店を探してくれねえだろうか」 「ああ、探そう、一緒に探すよ、ただし、その前に話してえことがある」  みんなも聞いてくれと、弥八は云った。 「しかし」六三郎は話を聞き終わってからそう云った、「しかし、いくらなんでもそんなに金を貯めることはできねえんじゃないだろうか」 「さっきも云ったが、これは一年二年の話じゃねえ、十年二十年と辛抱してからの話だし、その辛抱をしようという相談だ」 「しかし、そんなに貯められるとは、おら思えねえ」  六三郎は気の小さな人間である、夢を失うことの恐ろしさを知ったため、希望を持つことから逃避するような姿勢で、初めからあきらめているような口調だった。 「考えてみてくれ、俺たちはこの春から、富くじを少しでも多く買うために一つの家計でやりくりしていた、一家に二人も稼ぐ人間がいるということだ、一人の稼ぎでもやりくりできるところを、二人で稼いでいる、分かるか六さん、つまり、一人分の稼ぎはすべて貯めることができるということだ」  六三郎はようやく耳を傾けた。 「俺は寝るときしか隣に帰らねえから、もし邪魔にならねえんだったら、こっちに住まわせてもらおうと考えているんだ、店賃だって馬鹿にできねえからな」 「それじゃあ、八さんに悪い、こんな狭い家では蒲団を敷く場所もろくにねえ」 「とめ公やゆき坊が大きくなったら、二間の部屋に移ればいい、現に昨日は六人でこの家で寝れたじゃないか、もし二間の部屋にしたとしても、二軒分の店賃を払うよりはずっと安くすむ」 「しかし、おらよく分からねえんだが、百両も貯めるのはとてもできることとは思えねえ」 「いい加減にしろよ」長太がそう叫んだ、「いつまでうじうじしてるんだよ、ちゃん、おじさんがここまで云ってくれてるんじゃねえか、おじさんは一人でも店を持つぐらいの金は貯められるよ、それをちゃんと一緒にやろうと云ってるんだ、それがどうして分からねえんだよ」 「長、そんな大きい声を出すなよ」 「すまねえ」六三郎はべそをかいて云った、「おら、自信がねえんだ、おらなんか店を持っても使い物にならねえし、何をやってもうまくいかねえ、また駄目になっちまうんじゃねえかと思うと、おら、恐ええんだ」 「何も駄目になんかなってねえよ」弥八は云った、「富くじの金なんてものは、降って湧くような金で、まともな金じゃねえ、二人で商売をしようという話が駄目になったんじゃねえ、くじで当てた金でやるか、自分たちで稼いだ金でやるか、それだけの違いだ、それに百両も貯めるわけじゃない、最低限必要なだけでいいんだ、例え二十年買い続けても、富くじはまるで当たらねえこともある、だが、こつこつと貯め続ければ、二十年もたてば、かなりの金になるはずだ、くじでは当たらない限り一生商売はできねえ、しかし金を貯めればいつかは必ず店が持てる、確実なほうを選んだと思えばいいんだ」 「間違いなく、店が持てると云うのか」 「そうだ、いつになるかは分からねえ、五年で貯まるかもしれねえ、二十年も三十年もかかるかもしれねえ、だが、二人で力を合わせれば、いつかは持てるはずだ」 「しかし、おらでいいのか、おらは何もできやしない」 「六さんがいいんだ、俺は六さんじゃなければ駄目なんだ」 「おじさん、おいら奉公に出る」長太が真剣な顔でそう云った、「おいらが奉公に出れば、おじさんの蒲団も敷けるし、食いぶちも減る、十年たてばおいらも二十だ、年季が明けるまで商売を覚えるから、そうしたらおいらもその店で働かせてくれよ、おいらなんでもやるよ」 「飛脚はどうするんだ」 「おいらもう飛脚はいいんだ、おじさんやちゃんと店をやりてえんだ、いいだろう」 「聞いたか六さん」弥八は感動を押さえていった、「長もこう云ってくれるんだ、嫌とは云えねえはずだ」  六三郎はうなずいた、目に涙を一杯にため、鼻をすすりながらうなずいた。 「よし決まりだ、ただし長」弥八は云った、「奉公に出るのは来年だ、それまで俺がどこに行っても通用するようにみっちり仕込んでやる」 「世の中が真っ当に生きようとするものの邪魔をするなら」弥八は六三郎に向かって云った、「俺たちの手で、真っ当に生きられる場所を作るんだ、ほかの人間や、富くじに頼らないで、自分たちの手でそれを作ろう」  弥八は、今度はでまかせではなく、本気でそう云った。昨晩六三郎の気持を思い、弥八は初めて商売のことを考えた。今度は心からそう思った。それまで、でまかせを云ったと思っていたが、心のどこかにそういう気持があったから、あのとき素直に二人で商売をやろうと口にしたのではないかと思った。そう考えると、でたらめなことは一つも云っていなかった。六三郎がいれば、汚い商売をしようとは考えないだろうし、あの、小心で馬鹿正直な六三郎こそ、自分のしたい商売に向いているように思えた。昨日のことで、金儲けしか考えられない人間のすべてを呪った、しかしそれは間違いであった。呪ったところで何がどうなるわけでもない、世を恨むことほど簡単なことはないのだ。自分たちがそうしないように生き、細々とでも、自分の信じる商売をすればいいのだ。弥八は一晩中考えて、その結論を出した。      十二  二年余りが過ぎた。長太は昨年の春から奉公に出た。そこは日本橋の呉服問屋で、上方に本店を持つ評判のいい江戸の出店であり、規模も大きかった。口入屋と呼ばれる仲介屋を通さず、奉公先を探すことから手配まですべて弥八がした。長太は、必ず一人前の商人になって帰ってくると、意気込んで家を出た。とめはずいぶん泣いたし、家の中は明かりが一つ消えたようになったが、長太の明るさをおぎなうほど、弥八は張り切った。 「思った以上だ、こんなに貯まるとは、おら、思ってもみなかった」  月の終わりに、貯めた金の勘定をするのを六三郎は楽しみにしていた。勘定といっても、六三郎に任せるといつまでたっても数え終わらないので、弥八が額を調べ、それを教える。こつこつとだが、金は着実に貯まっていった。確実に増える金は、そのまま店を持つという夢に近づくことである。金の額がいくら増えたかということより、一歩づつ夢に近づくことが、六三郎にはうれしかった。 「おら、やっぱりこっちのほうが向いているみてえだ」一両ごとに紙に包んだ金を見つめながら六三郎はそう云った、「こうして自分たちの稼いだ金が少しづづ貯っていくほうが、富くじが当たったときよりうれしい」 「そうだな」と弥八は云った、「長坊の前金は、長坊に何かあった時のために取って置くとしても、二年と七カ月でこれだけ貯まれば、希望は持てる」 「それじゃあ、近いうちに店は持てるかい」 「そんなにすぐには貯まらねえよ、長坊が登りで一度帰ってくるのに七八年はかかる、ただし、それまでには準備はできそうだ」  奉公人は、手代になるまでまともな給銀はもらえない。長太の奉公先は、その手代になる前、二十歳前後に一度登りという休暇が与えられる。その間に、続けさせるかどうかどうかを決めるのだが、弥八は登りで帰ってきたら、そのまま三人で店を始めようと考えていた。そのときまでには金は貯まると踏んでいた。  六三郎はこれまで通り、人足や軽子といった仕事をしていたが、弥八は武家奉公に通いで出ていた。そちらのほうが、仕事は続くし、わりもいいからである。ただ、この十二月からは二人である米屋に丸一月働くことになっていた。三十日雇いであるし、その仕事は給銀がよかった。  その米屋で弥八は米舂に、六三郎は米俵の運搬に回された。 「こうして二人で一緒に弁当を食うのも、久しぶりだなあ」  たきぎを炊いて暖をとり、それを囲むようにみな昼をとっていた。 「おら、やっぱり、八さんと一緒に仕事しているほうが、楽しい」 「それは俺も同じさ、土間で一人で食う弁当と、こうして六さんと食う弁当では、うまさが違う」 「おらもそう思う、おら、早く店を持って、ずっと八さんと仕事してえ」 「それまでは別々でも辛抱しないとな」 「おら、今から晦日が楽しみだ」 「そうだな、これだけいい給銀なら、一年の締め括りにふさわしいだけの金が貯められる」弥八は弁当をしまいながら云った、「どうだい、晦日には湯屋に行って将棋でもするか」 「うう」六三郎は魅力的な誘いに、箸を止めて身を乗り出した、「駄目だ、ここで気を許しちゃ駄目だ、おら、我慢する、将棋は家でもできるんだ」 「六さんの一途には頭が下がる、すると、正月もまた餅はなしかい」 「そうだ、餅を食わなくても、正月は来るんだ、無駄な金は遣えねえ」 「一文貯めれば、一文の分だけ店を持つことに近づくからな、これは当分餅はお預けだな」 「一文の分だけか」六三郎は弥八の言葉にしみじみとうなずいた、「たった一文でも、一文分は前に進んだことになるんだな、ああ、おらうれしい、腹さえ減らなければ、飯を食わないでその分貯めてえくらいだ」 「けちにになっちゃいけねえんだ、六さん、金を貯める喜びは、贅沢か吝嗇につながるんだ、そこは気をつけなくちゃいけねえ」 「吝嗇というのはあれだろうか、ひどくけちる人のことだろうか」六三郎は箸で頭を掻いて云った、「おら、贅沢はしたくねえ、でも、何て云ったらいいか、金を貯めるためなら、おら、二人の店を持つまでは、けちと云われてもいいんだ」 「しかし、六さんなら安心だ、店を持ったらもう金は貯めねえだろう」 「当たりめえだ、それとも、あれだろうか、店を持っても金を貯めなくてはやっていけないんだろうか」 「そんなことはねえ、俺たちは細々と商売をするんだ、儲けるためじゃねえ、金持ちにならなくてもいいんだ、今より貧乏でも、きれいな商売がしてえ、それだけなんだ」 「それで、何の商売をするのかまだ決めてねえのかい」 「まだ決めるのは早いんだ、今オランダは幕府に開国を迫っているそうだ、水野様も改革に失敗して、あっという間に老中から降ろされた、この先この国がどうなるは分からねえ、金が貯まったときに決めるのが一番いいと思う」 「すげえなあ、八さんはすげえ、なんでも知ってるんだな」 「とんでもねえ、俺も実は聞きかじりさ、武家奉公をしていると、何かと耳に入ってくるんでな」  十日たってから、弥八は軽子に回された。これまで力仕事はしていなかったので、米舂は単純作業であるし、一定の動きしかないのは辛かったが、体力はそれほど使わないのでそこは楽であった。米俵の運搬は体を酷使する分、大変であった。だがそれも、晦日にもらう給銀と、そこから貯えられる金の額を考えれば、十分に耐えられた。むしろ耐えられないは、この米屋の主人であった。幕府の御用商人でもあり、商売を幅広く行なっているということだが、その主人は吝嗇を絵に書いたような男で、裏でやっていることは汚いことばかりであった。弥八はそれらに目をつぶった。誰でもやっていることだし、自分が口出しできることではない。それに自分はそこで働いて金をもらうのだ、嫌だったらやめればいい、それができないのなら、目をつぶるしかなかった。それでも何度も反吐を吐くほど嫌な思いをした。 「六さん、よく見ておいてくれ」弥八は米を俵に入れる作業をあごでしゃくってそうささやいた、「あんなことはどこでもやっていることかもしれねえ、それでも、俺たちはああいうことだけは決してしない、あれは悪い見本だ」  この店では、俵で運搬された米を一度すべて出して、もう一度計り直して俵につめ直す。そのとき使う桝は、四方の枠が二寸はあろうかという代物で、外側を見れば大きく見えるが、実は規定の桝より内側を小さく作ってある。二十表の米を計り直すと、二十一表なる仕組みである。しかもきちんと計るのは最初の一表だけで、後は手間を省くために最初に合わせていい加減につめ直す。俵も寸をつめたものを使い、多くの場合は十の俵を十一にするということをしていた。そして、それを押し通すために、役人に金を遣って文句を云えなくさせていた。 「何をしてるんだ、そんなに米を一杯に入れるんじゃねえ」  その主人はいつもその場で目を光らせては、けちをつけていた。 「勘の悪い奴だ、こっちが払う銭の分だけ云われた通りやってればいいんだ」  そう云われると誰も文句は云えなかった。 「あの顔を見なよ」弥八はそう云った、「あんないやらしい顔になっちゃあいけねえ、俺たちはああいうふうにだけはなっちゃいけないんだ」  弥八は何度も六三郎にそう云った。  ともあれ、仕事は無事に終わり、晦日を迎えた。二日前に雪が降った。その後、昨日と今日は天気が良く、掻き集められた雪や、日陰の雪以外はたいがい解けていた。朝から六三郎ははしゃいでいたし、弥八もやっとこの仕事から開放されることを喜んでいた。給銀がもらえる日であるという以外は、いつもと変わらぬ朝であり、いつもと変わらぬ一日になりそうな、そんな日であった。  その日の仕事は最後であるにもかかわらず、日の落ちる間際まで働かされた。一日の仕事が終わると、全員、店の裏の木戸の前に集められ、給銀が支払われた。 「さあ、払うものは払った、用がないならさっさと家に帰ってくれ」  店の主人はそう云って、解散するように手を振り、木戸の中に入ろうとした。 「待ってくれ、これは少なくねえか」  誰かがそう云った。慌てて弥八は受け取ったものを数えてみた。確かに少ない、もらう額は計算してあった、それよりは二割方少なかった。 「うるせえ奴だ」主人のそばにいた男がそう云った、「ろくに仕事もしねえくせに、頂いた銭にけちをつけるたあ、太てえ野郎だ、数もろくに知らねえ野郎が一人前の口をきくんじゃねえ」  目明しであろう、その男は裾をはしょって白い足袋をあらわにし、これ見よがしに十手を腰にはさみ、懐から長脇差しをちらつかせていた。 「確かに少ない、これはどういうことだ」  弥八が主人に向かってそう云った。 「黙らねえか」目明しが大きい声を上げた、「家にかえって勘定してから文句を云え、勘定も満足にできねえ奴が、がたがた云うんじゃねえ」 「てめえと一緒にするな、こっちは勘定をしてから云ったんだ、確かに二割は少なくなってる」  目明しは目をむいて十手をとった。 「説明が不足だったようだ」主人は目明しを押さえてゆったりとそう云った、「知っての通り今景気は悪くなってる、悪い金が出回って物価が上がっているんだ、その分引かせてもらったまでのこと、儲けが減れば渡す金も減るのは当然のことだ」 「笑わせるな、景気が悪いのは今に始まったことじゃねえ、物価が上がって損をしただと」弥八は前に進み出てそう云った、「その分米の値を吊り上げて儲けてるのはてめえじゃねえか、物の値が上がったなら、その分給銀を上げるのが当然だろう、せめて約束の分はもらわねえと納得ができねえな」  回りのものも同調して声を上げた。 「黙らねえか」目明しもそう叫んで前に出て、弥八に十手を突きつけた、「てめえ、ずいぶん威勢がいいな」 「こっちはわずかな金を頼りにしてやりくりしてるんだ」弥八は怒りに声を震わせていた、「てめえは米の目方をごまかして、儲けるだけ儲けるくせに、このうえ貧乏人からも絞ろうというのか」 「少しは頭が回るようだが、素人が商売のことに口を出すもんじゃねえ、それでも貴様らにしては十分な金のはずだろう」 「何だと」  弥八は身を乗り出し、目明しが十手を振り上げた。六三郎は青くなって弥八を止めに来た。 「こっちは利口のようだな」目明しは六三郎にそう云った、「このうるせえのを連れて帰るんだな、俺がここにいるということは、お上の許しがあるってことだ」 「そういうことだ」主人もそう云った、「お上の許しがあってしたことだ、これ以上文句を云うと、しょっぴかれるぞ」 「やってみろ」弥八が叫んだ、「お縄にできるならやってみろ」 「いけねえよ、八さん、お上がついてるなら仕方ねえ」 「お上だと、こいつのことか、こいつはただの岡っ引きだ、てめえに人をお縄することができるならやってみろ、なんなら本物の役人を呼んだっていいんだ、白洲に出ればどっちの言い分が正しいがはっきりするだろう」  岡っ引きや目明しと呼ばれるものは、元は犯罪者で、その道に詳しいという理由で同心に買われた、諜報活動をする民間人であり、犯罪者を捕まえることはできないのである。しかし、弥八の言葉はその男の自尊心を傷つけた。 男は十手を振りかざし、弥八に殴りかかった。 「危ねえ」六三郎がそういうより早く、弥八は素早く身をかわし、十手を払った。 腕はたいしたことない。弥八はそう直感した。こいつをねじ伏せてでも、約束のものは払わせてやる。弥八はそう思った。 「やめてくれ八さん」  六三郎は、恐怖で震えながら弥八の袖をつかんだ。  店の主人は騒ぎになってはまずいと思ったのか、とっさに木戸の中に姿を消した。 「待ちやがれ」  弥八は六三郎を振り離してそう叫んだ。そのまま木戸にしがみつき、そこを開けようとした。 「しつけえぞ」  目明しは長脇差しを抜いて、振り下ろした。悲鳴が上がり、六三郎の顔に生暖かいものが飛んだ。 「やりやがったな」  弥八は振り向いて、左の肩を押さえた。肩口の着物が切られ、押さえた指の間から、血がにじんでいた。弥八は痛みに顔を歪め、膝をついた。目明しの男は、まだ向かってきそうな弥八の顔を蹴り上げ、倒れたところをさらにむちゃくちゃに蹴飛ばした。  六三郎は呆然と立ち尽くし、濡れた顔をぬぐった。手に真赤な血が付き、六三郎はそれを見て声にならない叫び声を上げた。そのまま六三郎は男に体当たりをした。 「八さんに何てことを、何てことをするんだ」  六三郎は目がくらんだような怒りに襲われ、我知らず両手を振り回して、男に襲いかかった。男は、自分にしがみつく六三郎を刀の柄で三度、力まかせに殴った。六三郎の後頭部から血が流れ、六三郎の動きが止まった。 「やめろ、六さん」  弥八は立ち上がろうとしたが、全身の痛みで動きが取れなかった。  振り向こうとした六三郎の目に、男が持っている、弥八の血が付いた長脇差しの刃が見えた。 「よくも」  そう云って六三郎は、男の右手にかじりついた。刀は手から落ち、男は六三郎の歯形に血のにじんだ腕を押さえた。 「ぶっ殺してやる」男はそう云って、長脇差しに左手を伸ばした。  六三郎は殺気を感じた。刀をとられては切られる、直感的にそれを感じ取った。六三郎は、必死になって長脇差しを奪った。男もまた、奪い返そうと六三郎に襲いかかった。 「やめるだ六さん、やめろ」  六三郎には、弥八の唸るような声も聞こえなかった。ただ、刀をとられては殺される、それを防ごうとするだけで精一杯だった。六三郎とその目明しの男はもみ合った。二人の回りには野次馬が集まり、人垣ができていた。  六三郎は、懸命に刀を払った。その途端、男の動きが止まった。六三郎に声援を送っていた野次馬も、水を打ったように静まった。六三郎の払った刀は、男の脇腹をすっぱりと切っていた。息を呑んだまま静まり返った中、男の口から、ごぼっと血を吐く音がした。 「どけ、何を騒いでいる、道を空けろ」  おそらく店の主人が呼んだのだろう、役人と思われる声がした。 「逃げろ」誰かがそう叫んだ。  六三郎は刀を投げ捨て、倒れている男の顔を見た。まだ息はあるようだが、腹からは腸が飛び出し、顔も血の気が失せ、土気色になっていた。 「逃げるんだ」  一緒に仕事をしてきた仲間の一人であった、その男は六三郎の腕をつかんだ。六三郎はもう一度倒れた男を見た。地面は血に染まり、男は動かなくなっていた。六三郎の目は視点を失った。「早く」そう云って腕を引く男につられ、六三郎は弾かれたように走り出した。役人とは反対側の人垣をかき分け六三郎は走った。 「六さん」  弥八はあえぐようなしゃがれた声でそう叫び、這いつくばったまま前に出ようと右肘を立てたが、すぐに倒れた。  六三郎は振り向いた。後頭部から流れた血が、首筋を染めていた。振り向いた顔は恐怖でおののき、開いた唇は紫色に変わり、頬は泣き叫ぶときのようにゆがんでいた。焦点の定まらない、見開いた目が、弥八と一瞬合った。しかし、そのまま六三郎は走り去った。 「六さん」  弥八は、その後ろ姿を捕まえるように手を伸ばし、人混みに消える六三郎に呼びかけた。  役人が野次馬を押し退け現れた。 「六さん」弥八は見えなくなった人垣を見つめ、首をうなだれてつぶやいた、「どこに行くんだ、六さん」                                               おわり