6月のせい  そろそろ夕食の支度をしなくてはいけない。そう思いながらも、私は部屋の隅にしゃがみこんだまま、何もする気にならなかった。まだカーテンも引いていない薄暗くなってきた窓に雨粒が弾けては、音を立てていた。  祐樹とけんかした。昨日。いつも穏やかな祐樹が不機嫌になるのは、いつだって定まらない私の気持ちのせいだ。  夏休み、海外に行くため、パスポートを作る必要があった。祐樹は「結婚して名前変わったらまた作り替えないといけないんだから、その前に籍とか入れちゃおうか?」何気ない調子で言った。  結婚に憧れるのは女性で、それに対して男性は逃げ腰だなんてどこの法則なのだろう。少なくとも私たちの関係は逆だった。いや、人は手に入らないものほど強く望むというから、ただそれだけのことなのかもしれない。祐樹は私の気持ちが彼一人にまだ向いていないことを分かっている。多分、私の家に、昔の彼との写真を発見したときから。  祐樹のことは好きだし、一緒にいて苦痛には感じない。だから祐樹との同棲生活も、もう十ヶ月と少し続いている。でも、それと結婚ということとは、私の中では違っていた。 「そんなばからしい理由で籍、入れるなんて嫌。そんな数万円のことで、人生を決めちゃうなんて、安易だよ」  パスポートの話なんて、祐樹の口実だとは分かっていた。でも、ついきつく当たってしまった。  私は窓に当たる粒が次第に大きくなっていくのを見つつも、動けないでいた。祐樹に謝らなくてはという気持ちと、自身の感情を未だに整理できない自分に対する苛立ちと、その複雑な心境を理解しない祐樹への不快感が体の中、渦巻いていた。  一年前、緑が色を濃くし始める季節。その黄緑色に染まったかのような雨が私たちの上に降り注いでいた。私たちの隣をひっそりと流れる小川にも、雨は柔らかい模様を描きはじめていた。 「よい行いを使い果たしたみたい」  隣を歩く友晶は、昨日と比べ妙に沈んでいた。昼過ぎから降り出した雨に、私たちは傘の用意がなかった。正面から吹きつけてくるような霧雨から、私たちは人目を避けるかのように手をかざして逃れようとした。 「僕たちの行いが良かったんだね」昨日、夏を予感させる公園の片隅で、二人は笑顔だった。自分たちの初めての旅行にふさわしい天気。とても満ち足りた気分で、自分たちが悪いことをしているなんてこれっぽっちも考えていなかった。  それなのに、うってかわって今日のこの天気。人の手が加えられ、整えられた土手には淡い色の紫陽花が咲き、私たちを取り囲む梢はさわさわと優しい音を立てていた。気持ちが沈むのは、雨のせいではなかった。私は今日になって、急に元気をなくした友晶の顔を覗き込んだ。今日の彼は沈黙を怖れるように、どうでもいい話を急激にまくしたてたかと思うと、突然無口になり、沈み込んだ。 「そうなのかな」  私は幾分間の抜けた返事をすると、彼と同じように黙った。人影のない雨の遊歩道。本当ならもっとはしゃいで腕を組んで歩いたり、キスをしたりしてもいいはずなのに、その日の私たちはそういうものとは遠いところにいた。小さい頃、兄と一緒に迷子になり、人気のない路地を歩き回ったときの気持ちと似ていた。昨日ずっとつないでいた彼の手も、今は手を伸ばせないところにあった。薬指で鈍く光る指輪が、淋しげに存在を主張していた。「いい行い」なんて、私たちは初めからしてはいなかった。 「近くのコンビニに傘、買いに行こうか」  背の高い友晶は、私のことを見下ろしながらそう言った。昨日「ちっこいなぁ」と言いながら、私の頭を嬉しそうに撫でた彼のことを思いだした。彼はそんな、小さくて何もできそうもない私に、どうにか今日一日だけつきあおうとしているようだった。曇り空には似合わないサングラスをかけたまま、彼は私の方を向き、ぽんっと背中あたりを叩いた。私は彼の左手に手を伸ばし、力強く握った。彼は一瞬驚いた顔で私の方を見、そして抵抗をあきらめたかのように、手をつながれるままになっていた。彼の方から、握り返しては来なかった。  コンビニに着くと、彼はビニール傘を二本取り出した。「一緒に入ればいいよ」私は少し無理をして笑顔を作り、言った。彼は「まぁ、一応」と言いづらそうにしながら、二本とも買った。コンビニを出るとき、二人は別々に傘を差した。 「これからどこに行こうか?」とも、「なんか今日、おかしいよ」とも私は口に出来なかった。ただ、彼が無言で駅に向かうのに一歩遅れてついていくだけだった。彼は切符売り場でも何も言わず、自分の持ち歩いているイオカードを取り出すと、それで中に入った。私はとりあえず彼に遅れないように最低料金の切符を買った。彼の細くて長い背中を見ながら、私はなにか失礼なことを言ってしまったのだろうか、彼の気に障ることをしてしまったのだろうか、それとも、やはり、彼が朝、少しの間行方をくらませた、あの時間に何かあったのだろうか、色々なことを考えた。  改札のある側のホームで、彼は私のことを待っていた。そして、突然丁寧に頭を下げた。 「ごめん、俺……帰らないといけない」 「帰るって、どうせ今日、帰るんでしょ? 一緒に……」 「一緒に」の部分が、なんだか虚しく響いた。 「先に一人で帰らせて欲しい」  背の高い彼の後ろに、結婚式場の広告が見えた。彼はこの写真を見て立ち止まったのではないかと思えた。 「朝……家に電話した。彼女は……僕が仕事で出ているとは信じていないみたいだった。娘が起きているうちに帰ってきてと言われた」  彼の娘はまだ一歳にもなっていないはずだった。娘が起きている時間……それは何時までなのだろうとどこか冷静に考えた。 「また、会えるよね」  私の精一杯明るく響くように出した声を遮って、彼は一言重く、 「君のこと、きちんと話すつもり」  と、言った。私は止めなかった。その行為が、私たちの関係にとって致命的であること、私の存在を奥さんに話すことは、私のためではなく、奥さんのためでもなく、ただ彼のためだけでしかないことにも、私はその時、気づけなかった。  あの日から、一年が経った。友晶はあれ以来、私の前には現れなかった。きっと、「娘が起きている」間に家に帰れたのだと思う。  降り続く雨の向こうを、もう遠ざかってしまった日々を見つめるかのように、窓越しに眺め続けた。  あの時のビニール傘はわざと電車の中に置き忘れた。傘が無くて困っている人に拾われていたらいいと思う。  私はそこまで考えてからやっと立ち上がった。あの時とは違う雨が、やっと目に入ったような気がした。想像上とは違い、濡れたら冷たく感じる雨。  玄関に行き、祐樹に買ってもらった、オレンジと赤のチェックの傘を手に取った。そろそろ祐樹が駅に着く時間だろう。今日はこの傘だけ持って、迎えに行こうかと思う。  祐樹は「なんで俺の傘、持ってこなかったんだよ」と言うだろうか。