刹那の夢  雲ひとつない晴天、陽射しは春先のものとは思えぬほどに強く、すでに夏のそれに近かった。  吹き付ける風に、アキは目を細めた。  眼前に広がる景色に、バラバラと不ぞろいな感じを強く漂わせて建つ家々。肩をよせあうようにして建っているようで、それなのにポッカリとした隙間がなんだか一軒一軒の間に開いているようにも見えた。  終戦から半年と少し――。  東京大空襲の直後はこのあたりはひどい有様だった。爆撃のもっとも激しかった地帯から微妙にずれたとは言えやはり被害は大きく、今はだいぶガレキ山なども片付けられ整理されてすっきりとし、街の復興も進んだが、それでもまだまだ傷跡は深い。  アキは黙って、リュックを背負い直した。リュックの中には、たった今ヤミ市で仕入れてきたばかりの小麦粉が入っている。 「お米が欲しかったけど、やっぱり手に入らなかったねえ」  隣を歩く三つ上の義姉の美春に、額の汗をぬぐいながら話しかけると、美春はぽそりと「そうね」と返した。  黒く長い髪にふちどられた、美春の顔はこの暑さだというのにどこか青白く、生気がなかったが、それでも生来の日本人形のような美しさは損なわれていなかった。父親ゆずりのややいかつい肩と、少々短すぎるくらいに短く切った髪のせいで、二十歳だというのに少年のように見えるアキとは対照的な観が強い。 「配給のお米はちょっぴりだし……遅れがちだし。お芋やマメを混ぜて食べたって、すぐになくなっちゃうのにね」 「そうね」 「まあでも、今日は小麦粉がもらえて良かったね。嬉しいよ、ウドンが打てる」 「ええ」 「お母さんは節約してスイトンにしようって言うかもしれないけど、ひさしぶりにウドンが食べたいな。ね、おダシは美春さんが作ってよ。あたし、美春さんの作ったのが一番好き」  横で、美春は小さくうなずく。  いつからこの人はこんなに無口になってしまったのだろうと、アキはふと考えた。  もともとおとなしく物静かな性分であったが、美しい穏やかな声で気の利いた受け答えをしよく笑う……そんな女性だったはずだ。  二年前の空襲のおりに、防空壕へと逃げる際に転倒し、臨月間近だった腹の子が流れてから、美春はすっかり変わってしまった。  その時のことを思い出すたび、アキは胸が痛くなった。そして、南方に出征して以来音信不通の次兄の修司のことを思う。優しく、子供がとても好きだった修司は、腹の子が流れてしまったことを知ったらどれだけがっかりするだろう。  死亡通知は届いていなかった。きっと生きていると信じ、アキはイヤな想像を打ち消していた。  リュックがひどく重く、アキは歩きながら「よいしょ」と背負いなおした。 「もうすぐだ」  「鈴乃湯」と書かれた汚れた煙突を、ふっとアキは見上げて思わず呟いた。  この界隈で、焼けずに運良く残った唯一の銭湯である。空襲で父と長兄を失ってしまったが、少々傷を負ったとはいえこの建物が残ってくれたのはまったく不幸中の幸いであった。  裏の、家族用の玄関のほうに回るとちょうど番頭さんが手伝いの小僧さんを一人連れて帰ってきていた。リヤカーにはほうぼうから集めてきたであろう木屑やボロ布がいっぱいに積んであった。そばには母の節子の姿もある。  節子はなんだか嬉しそうに番頭さんと話していたが、アキたちにすぐに気づいて笑顔になった。 「ああ、アキ。おかえんなさい。美春さんも」 「ただいま。お米なかったよ。かわりに小麦粉」 「あらそう。まあないならしょうがないわね。ごくろうさま。重かったでしょ。それより見て、今日はこれだけ燃料が集まったんですって。明日は四日ぶりにお風呂がたてられそうよ」  節子の声ははずんでいた。 「本当に?」  アキも満面に笑みを浮かべた。 「隣町の工場と話がついてね、これからは毎度、木屑を格安で分けてもらえることになったそうよ」 「そうなの。良かった。いいトコロと話がつけられたんだねえ」 「やっぱりウチはお湯屋だもの。毎日ちゃんとお風呂をたてたいじゃないの。燃料不足のこのご時世にありがたい話よ」 「そうだねえ。少しでも確保が確実になったのは嬉しいよね」 「……これで修司が帰ってきたらもう言うことはないんだけれど」  節子の言葉に、美春はふっと寂しげに目を伏せた。修司のことが話題にのぼるたび、いつも美春はこういう表情になる。  節子はちらりと美春を見やり、何か言いたげにしたが、口をつぐんだ。 「修司が帰ってきたら、お祝いしないとね。そのためにいただきもののお酒とか、大事にとっておいてあるんだよ」 「知ってるよ、流しの下に置いてるんだよね」 「そうよ。さ、中に入んなさい。麦茶を用意してあるのよ」  ハキハキと喋って節子が玄関の戸を開ける。カラカラと、乾いた音がなんとも心地よく耳に響いた。  三日後、配給で配られた野菜を入れたカゴを大事にかかえて、のんびりとアキが帰ってくると玄関のところに誰か立っていた。  汚れた軍服と、ぼうぼうに伸びた髪。後姿だが、アキはハッとした。 (修司お兄ちゃん?)  ようやく帰ってきたのか。アキは小走りに駆け寄った。  足音に気づいて、「兄」が振り返る。修司ではなかった。体格はよく似ていたが、まったくの別人であった。  玄関の中から、母の細く長く伸びるような痛々しい泣き声が聞こえてくる。青年はひどく悲しげな目をアキに向けた。  修司がたどった運命をアキは悟った。何か言わねばと思ったが、声が急に出なくなった。  青年は丁寧に名乗り挨拶をしたあと、アキに深々と頭を下げた。アキもまたゆっくりと動作を返す。 「兄は」  アキの静かな問いに、青年はどこか辛そうに、それでもはっきりとした口調で答えた。  南方。  ソロモン諸島。  二年前。  腹部に負傷。  ――名誉の戦死。 「自分はつい先日復員してまいりました。鈴原君とは部隊にて親しく、せめて形見の品をと思い本日はうかがわせていただきました」  青年は二枚の写真と、小さな包みを差し出した。アキは足元にカゴを置くと、それらを受け取った。  写真は、出征する少し前に撮ったものだった。家族みんなで写したものと、それと美春と二人で写したもの。包みのほうは、開けてみると血のしみた軍服の上着であった。遺骨のかわりに、わざわざ持ってきてくれたのだ。 「死亡通知が……死亡通知が届いていなかったから、待っていた……のに……。不安な気持ちを……殺して……待っていたのに」 「お母さん」  節子とて、修司の死について覚悟はしていたろう。それでも、いざ真実がつきつけられたら、強がりも覚悟ももろく崩れさってしまったのだ。  アキは目頭が熱くなりだすのを感じながら、節子のそばに行き膝をついた。子供のように泣く母の背に腕を回し、そっと抱きしめる。 「ねえアキ、アキィ……。お父さんと修造に続いて……修司まで……。イヤだよ、修司……修司。お母さんね、毎日拝んでたんだよ。修司がちゃんと帰ってきますように……って」  節子の悲痛な声を聞きながら、アキは強く強く唇をかんで涙をこぼした。  節子から数歩ほど後ろにさがったあたりに、美春は正座していた。  すべての表情が消えている。微動だにせずに手を膝の上で重ね合わせ、背筋をまっすぐにして前を見ているが、目線はどこかとても遠いところに向けられているようだった。 「美春さん」  不安をおぼえそっと名を呼んだが、美春はぴくりとも動かない。  義姉は本当に、人形になってしまったかのようだった。  ――美春の修司への想いがどれだけ深かったか、アキは今更ながら思い知らされた気がした。二人は特別に仲の良い、強い結びつきを感じさせる夫婦だった。  修司は「変わり者」で風呂屋の子供のくせに絵に興味があり、成長してから画家になりたいと言い出し、両親を説得して浅草に住む洋画家のところに弟子入りした。その画家の一人娘が美春だった。  修司は家族の中で確かになじんでいたし、みんなに愛されていたが、同時に異質な存在でもあった。家族の輪に溶け込んでいながら修司はいつも、みんなと興味の方向や感覚の違う自分の存在に「違和感」とでも呼べるようなものを感じていたらしかった。そして、親の描く絵とは対照的な幻想的な雰囲気の水墨画を好み、性格もまたなぜだか生まれながらに家族全員と異なっていたという美春もまた、同じ感覚を味わいながら生きてきたのだという。  シロツメクサの葉に、葉が四つになったものがひょっこり混ざっていることがあるように、家族の中にある意味で異質な存在が混ざることがあるのもわりと良くあることだろう。だが四葉の感じる「違和感」には独特のものがあり、それは他の人間にはわかりきれない微妙なものを含んでいるらしかった。修司と美春は気があって、実に強く惹かれあった。  けれど、もう美春の半身とも呼べる存在は帰ってこない。 「美春さん」  もう一度、アキは美春を呼んだ。やはり反応はなかった。  奥のほうから、薄い紫色の線香の煙がかすかに流れてきた。  修司と結婚した最初の年の夏、線香の細い煙を見て美春が紙に見事な蝶を描いてみせたことがある。  ――お線香の煙がね、私にはこんなふうに見えたから。  空気の中を流れ、淡くただようそのわずかな動きから生き物の姿を汲み取るような、こまやかな感覚を持った美春の神経は、戦争で実家も両親も近辺に住む親類縁者もみんな失い、腹の子まで失ってすでにだいぶ参ってしまっていた。今また愛する夫の死を知って、さらに美春の心の亀裂は深まったろう。  節子の嗚咽を聞きながら、アキはうつむき、玄関の床に大粒の涙をぼろぼろとこぼした。  皮肉なことに、死亡通知は翌日の朝に届いた。  アキの予想どおり美春はますます心を閉ざし始めた。今までは口数が少ないなりにも一応話すことは話していたのに、完全に喋らなくなった。表情も消え、アキと二人で使っている部屋に閉じこもりがちになってしまった。  燃料がある程度手に入るようになり毎日が忙しくなりだした矢先ゆえに、家の仕事を手伝ってほしいのはやまやまだったが、ふさぎこむ美春を見るとアキには何も言えなかった。  知らぬ間に疲れがだいぶたまっていたようで、ある日の昼、食事の仕度を手伝っている際中にアキは貧血を起こして倒れてしまった。  気づくと夕方で外はもう薄暗くなりはじめており、アキは自分の部屋で布団の上に寝かされていた。節子はそばに座っていたが、アキが目を開けると少し心配そうに顔をのぞきこんできた。 「大丈夫? 顔色は良くなったわねえ。頭とか痛くない」 「平気」 「ならいいけど。びっくりしたわよ。いきなり倒れて」 「うん。……ちょっとめまいがして。でももう心配ないよ」  アキは布団の上に上体を起こし、節子に笑ってみせた。それから、部屋の中に美春の姿がないことに気づいた。 「ねえお母さん、美春さんは。わざわざ部屋をあけてもらったの? 別にいいのに」 「美春さんならさっき一人でヤミ市に行ってもらったわ」  節子はほんの少し、アキから目をそらした。 「あんな状態の美春さんを?」 「修司が帰ってきた時のお祝いのためにって、とっていたお酒があったでしょう。あれを持たせてね、『何かと換えてきてちょうだい』って言ってね。黙って出ていったわよ、美春さん」 「そんな。かわいそうだよ。今の美春さんにお兄ちゃんのお祝い酒を持たせるなんて。それに一人で歩かせるなんて危ないんじゃないの」 「知りませんよ」  節子はひどくつっけんどんな口調で言い放った。 「ウチにお酒を呑む人はもういないし、帰ってもこないし、生活に足りないモノはたくさんあるでしょ。換えに行ってもらって何がいけないの」 「でも、それにしたって」  アキがとがめるような口調で言うと、節子は床の畳の目をじっと見つめながら押し殺したような声で言った。 「……一人だけ、不幸せそうな顔をして。自分だけが辛いわけでもないのにふさぎこんで。赤ちゃんが流れてから何年もあの人はひきずって。気の毒だとは思うし、私だって思い出すたび悲しくてたまらなくなるわよ。でも……あんなに陰気になってしまうことないんじゃないの。それでも今まではまだ良かった。でも修司が死んだことがわかってから、あの人部屋に引きこもりっぱなしになってしまったじゃない」  おそらくずっと節子が胸にためておいていたのであろう不満が口をついて流れ出てきた。 「美春さんは繊細な人だから」 「何が繊細ですか。そんなキレイな言い方、私はイヤよ。あの人は気持ちが弱すぎます。……修司が死んで辛いのは、私だっておまえだって同じなのに。あの人はね、もっとしゃっきりするべきなんです。だいたいあの人がちゃんと働いてたら、おまえだってこんなふうに倒れたりすることなかったんじゃないの。おまえが昼間倒れた時、びっくりして心臓が停まるかと思ったわよ」 「落ち着いてちょうだいよ、お母さん。美春さんだって、すぐ立ち直るよ。ふさぎこんでるのだって、今だけでしょ。それからあたしが倒れたのは別に美春さんのせいじゃないよ。前からいろいろ疲れがたまってたんだからさ」  節子はきつくアキをにらんだ。 「おまえはあの人のことを気に入って、初めて会った時から本当の姉さんみたいになついているけどね、でも私はあの人のことがなんだか好きになれませんでしたよ」 「お母さん、そんな」 「変に線が細い感じがするというか、なんて言ったらいいのかしらね。地に足がちゃんと着いていないような、いつもどこか夢を見ているような、そんな感じがあって、不安定な感じがしてなんとなくイヤだったのよ。修司ももっと元気のいい女の人をお嫁さんに選んでくれれはよかったのに」 「お母さん、そんな言い方よしなよ」  節子はむっつりと黙り込み、日が沈んでゆくにつれて部屋の隅に広がりつつある暗がりのほうに顔を向けて目を伏せた。  節子が美春に対してあまり良い感情を抱いていないことは、アキもうっすらわかっていた。けれど今まで、ここまではっきりと節子がその思いを表に出したことはなかった。  暗くなってゆく部屋に、沈黙がおりる。激しい感情の爆発のあとゆえに、ひどくしんとした空気が漂った。  しばらくしてから玄関のほうで、戸の開くかわいた音がした。  節子は硬い表情を顔にはりつかせたまま立ち上がり、部屋を出た。アキは慌てて起き上がると、衣服と髪を軽く整えながらそのあとに続いた。  玄関先で、美春と節子が向かい合う。美春はどこかうつろな目で、節子を見つめた。 「何と換えてきたの、美春さん」  美春は何か答えたが、小さくてよく聞き取れなかった。かすかに「修司さんの」とだけ聞こえた気がした。 「見せて」  節子は美春が腕にさげていたカゴを取ると、ひっくり返した。中には何も入っておらず、カゴの底から古い書物のページのような汚れた和紙が二,三枚ひらひらと落ちただけだった。何かの包み紙がわりに使われたものが残っていたのだろう。  節子は、言葉を失ったようだった。 「まさか、まさか手ぶらで帰ってくるとは思わなかった」  怒鳴りだすのではないか思ったが、予想に反して節子は唇をふるわせたあと、無言で奥へと引っ込んでいった。  いろいろと問い詰めたい気持ちに駆られたが、アキはそれをこらえた。 「お帰りなさい。部屋に戻って、休むといいよ」  美春は一瞬何か言いたそうにしたが、黙って玄関先に散らばった和紙を拾い、部屋のほうへと消えた。  なんだかどっとまた疲れが襲ってきた。アキは玄関先にしゃがみこんで、両手で顔をおおってため息をついた。  節子と美春の仲が変にこじれていくのではないかと心配したが、それはアキの取り越し苦労に終わった。  ヤミ市で何があったのかは知らないが、とにかく修司の祝いの酒を自らの手で手放したことが何かしらの転機になったらしい。美春はヤミ市より帰った翌日から、少しずつ回復の兆しを見せ始めた。  完全に元の状態まで戻ったわけではないが、部屋に閉じこもるのをやめ、仕事なども手伝うようになり、口もわずかずつだが利きはじめた。 「美春さん、元気になってきたようね」  少ししてから節子の口から、幾分穏やかな調子でそんな言葉が出たのを聞いた時には正直アキはほっとした。  このまま何もかもいい方向に向かえばいい。  そんな事をひっそりと祈りながら、その日もアキは番台に座った。客の入りは良く、少々過剰なくらいの日々が続いている。  仕事を始めてまもなく、隅のほうで服を脱ぎながら近所の主婦二人が何やら話しこんでいるのがなんとなく目についた。別段、こちらをチラチラと見るわけでもない。けれど、むしろ意識的にこちらに顔を向けないようにしながら話している素振りがみてとれる。  鈴乃湯に関することなのか、家族やアキ自身に関することなのか、あるいは従業員に関することなのかはわからなかったが、どうにも何かしらのウワサをされているのだと、直感でアキは感じていた。  不快感をこらえて、アキは仕事に集中した。  金額の計算、衣服などの盗難防止のための監視、客の苦情への対応。またたく間に時間はすぎ、混雑のピークも過ぎた頃、隣家の七歳の娘がこちらへと歩いてきた。  番台の下のほうに立って、大きな目でこちらをじっと見る。アキは少し番台から身を乗り出すようにして、顔を近づけてやった。 「どうしたの。またヘアピンを落としちゃったの?」 「ううん。違う。あのねアキちゃん。アキちゃんも、修司お兄ちゃんが立ってるの見たの?」  言っていることがよくわからなかった。  アキの顔に浮かんだ表情をどう受け取ったのか、隣家の娘は続けた。 「夜になるとね、修司お兄ちゃんが血ぃ流しながら立ってるんだって聞いたよ」 「血を?」 「うん。血を流しながらね、軍服姿で立ってるんだって。あちこちに出るんだって。みんな言ってるよ。お腹にケガをいっぱいしてて、血がじわじわ出ててずっと止まらないんだって」  アキは自分の顔が強張るのを感じた。 「何それ」  隣家の娘の母親がこちらに気づいて飛んできた。娘の頭を平手で叩いたあとで、 「アキちゃん、何でもないのよ。何でもないの」  娘とアキの会話は聞こえていなかったようだが、アキの様子から何があったか悟ったらしかった。 「何でもないことないじゃないの。どうしてウチの修司お兄ちゃんがそんな。何なの、その出来の悪い怪談みたいな話。誰が言い出したの」 「誰がなんて知らないわよ、おばちゃんも。でもね、なんだかそんな話がちょっとだけあってね……本当よ。本当にちょっとだけ」  おろおろと隣家の主婦は言い訳した。 「ウソよ、ちょっとじゃないでしょ。なんとなく変な空気みたいなの、最近感じてたよ。すごく広まっているんじゃないの、それ」 「そんな、そんなことないわよ」 「そうなんでしょ。ちゃんと答えてちょうだい。それじゃあまるで修司お兄ちゃんが……」  隣家の主婦の態度にいらだちをかきたてられ食ってかかろうとした矢先、入り口のほうから節子が慌てて入ってきて間に割ってはいった。 「アキ、よしなさい」  節子は引きずりおろすようにしてアキを番台からおろし、「すみませんね」と隣家の主婦に微笑んだ。それから男湯のほうで脱衣カゴの整理をしていた小僧さんを呼び番台の見張りを頼むと、そのままアキを外へ連れ出し人気のない裏の玄関のほうまで引っぱっていった。 「どうしたのアキ。何があったか知らないけどお客さんとケンカするもんじゃないわよ。しかもお隣りさんじゃないの、今の」  アキは迷ったが、節子にウワサのことを話した。 「ウチの修司をなんだと思ってるの」  節子はしばらく不愉快そうにしていたが、軽く頭を振ってから口を開いた。 「そんなウワサ聞いてイヤな気持ちになったのはわかるわよアキ。でもガマンしなさい。ウチは客商売なんだから」 「……わかってるけど」 「とにかく私がこのあとは番台に座るわ。あんたはもういいから。ね」  渋々アキがうなずいた時、玄関のほうで物音がした。見ると美春が立っている。アキはハッとした。 「聞いてたの」 「ええ」  アキの問いに美春は静かに答えた。 「もしかしてウワサのこと知っていたの、美春さん」  美春はふっと何か考えるように沈黙したが、ややあってから口を開いた。 「そのウワサは私が流したの」  アキも節子も硬直した。しばらくしてから、 「どうしてっ」  拳を体の横で強くにぎりしめアキは叫んだ。節子は大きく目を見開いて美春を凝視している。  息を呑んで、アキは美春の返答を待った。「おかしなことをすると思っているでしょう。でも修司さんのためにしたことなの」 「美春さん、どうしちゃったの。なんで修司のためになるの」 「お義母さん、そんな目で見ないでください。ちゃんと説明しますから。すみませんけどちょっと中に入ってくれますか。ゆっくり話したいんです。……アキちゃんも来て」  美春は落ち着いており、穏やかな声でアキと節子に語りかける。それゆえに何か危ういものが感じられ、アキは急に美春が恐ろしくなった。この場から今すぐ去りたい気持ちに駆られたが、節子が意を決したように前に出て、美春に言われたとおりに玄関先にあがったのを見て、一緒に行くことに決めた。  美春は茶の間へと二人を案内した。針仕事をしていたらしい。定規や針刺しなどの裁縫道具や古着をほどいた布地などがちらばっていた。  美春はその場を簡単に片付けると、「ちょっと待っていてください」と言って茶の間を出て奥へと姿を消した。戻ってきた時、手には小さな平べったい木箱があった。 「私、一人でヤミ市に行った日があったでしょう。その時に、お酒と交換してもらったものです」  言いながら、美春は木箱のフタを大事そうに開けた。中には――なにやらあれこれ文字や絵の書かれたひどく古い和紙。あの日カゴの底から落ちたものだ。 「良いお酒はヤミ市では価値が高いから、喜んで交換してくれました。サカビナという呪術のやり方がここに書いてあります」 「呪術って、あなた。な、なにを」  サラリと言う美春に対して、節子は声をふるわせた。 「別に呪術と言っても怖いものじゃありません。死んだ人を甦らせるのですから」 「交換したって、誰と」 「神奈川のほうからわざわざ来たというおじいさんでした。そういう、呪術を生業とするおウチの末裔なのだとおっしゃっていました。家に伝わる大事な術を手放したくはないけれど他にもう何かと換えられるようなものがないからと言って、換えてくださいました」  美春は愛しそうに木箱のふちをなでると、和紙を中から取り出した。底には、薄い木の板を削って作られた十五センチばかりの人型があり、表になにやら呪文らしきものと修司の名が書いてあった。人型は縦に真っ二つに割られており、半身はなかった。 「この人型のここにない半身は、さらに八つにわけてそれぞれ小さなツボに納め、定められた方位の地面に埋めてあります。呼び戻したい者の体の一部を共に納めるように書いてあったから、お仏壇にある修司さんの血の染みた軍服のすそを、ナイショで少しだけいただきましたよ」  美春は淡々と語りながら人型と和紙を木箱の中に戻した。  節子は口元に手を当て、もごもごと何か言った。何を話すべきか迷っているように見えたが、やがてごくりとツバを飲み込んでから、 「おかしなウワサを流したのはなんでなの」  そう質問をぶつけた。 「修司さんの魂を近くまで呼び寄せるためです。『死んだ直後』の姿を多くの人が思い描き名前を口にし、地面に埋められたツボの上を通ることで、死者の魂は再びこの世に舞い戻る力を得るのだそうです」 「死んだ人が生き返るなんて、あなたは本当に信じているの」  節子は美春の正気を疑うようなまなざしを向けた。 「信じています。ヤミ市で、祝い酒を手にして歩きながら、一生懸命『何と換えたらいいだろう』と考えていました。そうして、サカビナのことを聞いた時、コレ以外にないと思いました……。本当はヤミ市から帰った時に呪術のことを言おうかと思ったのですが、言いそびれてしまって今日まで……すみませんでした」  美春はまっすぐな目をして言った。節子は一瞬呆然としたが、額に手を当ててうつむき沈黙してしまった。美春をヤミ市に一人で行かせたことを今、後悔しだしているのだとアキは思った。  そんな節子を見て美春は困ったように眉をひそめたが、ふいにふっと目線をアキに向けた。 「待っててね。アキちゃん。もうすぐ修司さん、帰ってくるわ。五日程前にね、キザシがあったの。キザシというのはね、遠くを漂っていた魂が力を得てすぐそばまでやって来た印のことよ。……術者の耳元で、死者が名を呼ぶのだと書いてあったけれど、本当だった。たしかに修司さんの声が私を呼んだのよ」  美春は心底嬉しそうだった。 「待って。待ってよ美春さん。なんだか変だよ、ねえ、魂が戻ってきても体がないじゃない。修司お兄ちゃん、生き返れないよ」  アキが必死に言うと、美春は自分の下腹に指先でふれた。 「体はキザシのあとで作られ始めるんですって。死者の新しい体は術者の下腹で育って、時が熟したら生まれてくるのだそうよ」 「赤ちゃん?」 「赤ちゃんというわけじゃなくてね。死んだ時と同じ年齢、同じ姿にまで成長して生まれてくるんですって。私のお腹で育つけれど、呪術による特別な身ごもりで、普通の妊娠とは違うから、私と血のつながりが生じるわけではないのですって」 「時が熟すっていうのはいつなの」 「それは、人によって違うそうよ」  なんだか背筋にぞくりと、イヤな感じが走った。 「……やっぱり変だよ。いろいろおかしい気がするよ、それ。美春さん、死んだ人は帰ってこないよ。美春さんは悪い人にだまされちゃったんだよ」  復活を心から信じきって、幸せそうな美春。アキは泣きたくなった。 「だまされてなんかないわ。本当よ。お腹だってちょっとふくらんできた気がするもの」 「ウソよ、ウソ。耳元で聞こえた修司お兄ちゃんの声だって、きっと美春さんの幻覚だよ」  美春は何を思ったのか、アキの手をつかんでそっと下腹に引き寄せた。ふれた瞬間、アキはビクリとして手を引っ込めた。  本当にかすかなふくらみがあった。 (こんなバカなこと)  数日前、着替えをしている時にちらりと見えた美春の腹はこんなふうではなかった。  仮に呪術とは関係ナシに妊娠していたのだとしても、この急激なふくらみは早すぎる。 どう考えても異常だ。  アキの様子を見て、節子も恐る恐る美春の下腹にふれた。同じようにすぐに手を引っ込める。  しばらく身をふるわせて美春を見つめたあとで、アキはやおら立ち上がった。 「ごめんね美春さん。ちょっとお母さんと話したいことがあるの」  そう言って節子を連れて茶の間の外へと出て、ふすまを閉めた。 「お母さん、つい何日か前まで美春さんのお腹ペタンコだったよ」 「……じゃ、あのお腹はなんなの。本当に呪術で修司の新しい体が宿ってるの」 「わかんないよ。なんだか気味が悪い。わかんないよ。わかんないよ」  アキは廊下にしゃがみこんだ。話があると言って部屋を出はしたが、実際には話したいことなどなかった。 「とにかく、明日になったら美春さんをお医者さんか産婆さんに診てもらいましょう」  ややあってから蒼い顔をして節子がかすれた声で呟いた。アキは無言でうなずいた。  翌朝早く、節子は美春を連れて隣町の産婆のところへと出かけていった。  アキはなんだかじっとしていられず、二人がいなくなってから一人でヤミ市へと出向いた。  大した情報は得られまいと思ったが、美春の言っていた「老人」について根気良く訊いてまわる。老人と言ってもそれだけでは印象に残るはずもなく、ほとんどの者に「わからない」と答えられた。美春同様にその老人に声をかけられた者もいたが、あまり深く接触を持たなかったようで、これといった話は聞けなかった。  そうしているうちに、ヤミ市のはずれのほうで一杯呑み屋の屋台を引いている中年の男にアキは呼び止められた。 「あんた、銭湯の娘さんだね。……さっきからあちこちで熱心に聞いてまわってるようだけど、そのじいさんってのは何をしたんだい」  得体の知れない肉の入った煮物をかきまぜながら、男は言った。 「ちょっと……なんて言ったらいいのか。とにかく少し、その、義姉がだまされたかも知れないというか……」  呪術のことなどは言いづらく、アキは語尾をにごらせた。 「まあ、言いたくないならかまわんさ。だまされたかあ。まあヤミ市じゃあサギまがいのことなんてしょっちゅうだ。腹にすえかねることがあったんだろうが、犯人探しなんてあきらめるこったな。早くイヤなことは忘れちまうといいよ」  男はアキをなぐさめるように言った。  だまされたのだという確信ばかりが強くなり、疲れてアキはヤミ市から戻った。すでに節子と美春は帰ってきており、美春は部屋で眠っているとかで、出迎えてくれたのは節子だけだった。  茶の間に行き、節子の向かいに座るとアキは口を開いた。 「やっぱり、例のおじいさんのことはわからなかったよ。そっちはどうだったの」 「美春さんのお腹の中はね、空っぽ」 「え」  節子はちゃぶ台の上で手を組み、ひどく深刻な目をした。 「カゴメ病みって言うんだって。本当は妊娠してないのに、妊娠してると思い込んでるだけなんだって」 「でもお腹、ふくらんでる」 「お腹もふくらむらしいのよ」 「間違いないの」 「カヤさんは信用できるわよ。美春さんの体をあちこち調べてきっぱり断言したわ」  隣町の産婆のことは、アキもよく知っていた。経験が豊富で知識があって情に厚く、ヘタな医者などよりよほど頼りになると評判の老女である。間違いないだろうという気が確かにした。 「それで、美春さんの反応は」 「それがねえ、カゴメ病みだって聞かされても受け入れなくてね。『たしかにキザシがありました。耳元で声が聞こえました』の一点張り。どんなに私やカヤさんが一生懸命話してもダメだった」  呪術を手にしてから美春はゆっくりと元気になっていった。どれだけの強さで、彼女は呪術を信じているのだろう。 「アキ。カヤさん、言ってたわ。美春さんのお腹は呪術でふくらんだんでも何でもないって。カゴメ病みっていうのは昔からあるものだから、よくわかるって。みんな美春さんの、心のせいなんだって」 「心の……」 「ひどい時は何年も何年も引きずって、ずっと身ごもり続けるんだって……。美春さんはきっと、修司への想いが消えないかぎり身ごもり続けてしまうんだって」  節子の目から涙がこぼれた。それではあまりに――美春が哀れである。何年も十何年も、あるいはもっと……想い人の甦りを待って美春は大きな腹を抱え続けるかもしれないというのか。  しんと静かな空気が茶の間に満ちた。  死者は帰らない。それは永遠の理だ。けれど美春はそれをねじまげようとしている。否定するすべての者の言葉に、耳をふさいで。どこかの心ない者の吐いたウソを純粋に信じて。  哀れで、そしてむごいと思った。  ずいぶん長いこと黙ってから、ぽつりとアキは呟いた。 「お母さん。コックリさんとかみたいな、そういうのをやろう。紙に字を書いて、その上に硬貨か何かを置いて動かしていくようなヤツがあるでしょ。降霊術っていうのかな」  節子は不思議そうにアキを見た。 「アキ、急に何を言うの」 「ウソのやり方でいいんだよ。修司お兄ちゃんのふりをして、私たちが硬貨を動かして言葉を作ればいいんだよ。ねえ、そうしよう。修司お兄ちゃんの言うことなら美春さんはきっと聞いてくれる。美春さんを納得させることができるよ」  ――「女学校時代の友達に最近会って、死んだ人と話せる方法というのを教えてもらった」。  三日後、そんな話をして「一緒にやってみよう」とアキが持ちかけると、美春は思ったとおり強い興味を抱き誘いに乗った。 「修司さんを呼ぶの?」 「お母さんも一緒にやりたいって言ってるんだけどいいかな」 「それはもちろんいいけれど」  美春は少し意外そうにしたが、特にそれ以上なんと言うこともなかった。  夜半過ぎ、節子がアキたちの部屋へとやって来ると、さっそく三人で準備にとりかかった。  部屋の中を片付け、あかりを消し、部屋の四隅に長いロウソクを立てた。それから真ん中に机を置いて、その上に五十音を書いた紙を広げ小石を乗せた。 「机の周りに座って。それで、手をつないで輪を作るの」  アキは言って、手を伸ばした。右手を節子が、左手を美春がにぎる。 「輪を作ったらね、霊を呼ぶ呪文を唱えるんだよ。声をそろえて。さ、いくよ」  すべて、節子と二人で考えたいつわりの手順である。本物の降霊術らしく見えるよう、あやしげな雰囲気が作り出せるよう、コックリさんなどのやり方を参考にして知恵をしぼった。 「おいでませおいでませおいでませ。黄泉の河渡りおいでませ。紙の上の石が仮の宿。鈴原修司の霊おいでませ」  薄暗がりの中で三人の声が溶け合う。ロウソクの火はゆらゆらと揺れて不安定で、壁やふすまに映る影が大きく小さく蠢く。自分たちで作ったニセの降霊術なのに、なんだかアキは背筋が寒くなるような感覚にとらわれた。  呪文を三度繰り返してから、アキたちは手をはなした。紙の上の小石の上に、それぞれの人差し指が乗せられる。 「質問します。私たちの声が聞こえますか」  アキの問いと同時に小石が動く。美春には力をいっさい入れないように言ってある。ばれないようにかすかに、本当にかすかに力をこめ、アキは「ハ」と「イ」の順に小石をすべらせた。 「あなたは私たちの呼んだ者ですか」  再び「ハイ」と小石を動かす。美春は口元に柔らかな笑みを浮かべた。 「修司さん」 「修司なの」  節子も調子をあわせて、驚いたような顔をしてみせてくれた。アキは修司を演じて返事をした。 「会いたかったよ、修司」 「カアサン」 「ずっと音信不通だったね。おまえに会えたらたくさんたくさん話したいことがあったのよ。あのね修司……」  動かしていることに気づかれぬよう、できるだけ短い返事をするように心がけた。節子とアキと共に、美春も修司に質問をしはじめた。出征してからの南方での生活のことなどをたずねたあとで、美春はふっと切り出した。 「あなたがいなくなってから、とても寂しかった。でも、また会えますね」  説得を始めるのなら今だ。  「アエナイ」、そう動かそうとして、アキは奇妙な感覚に襲われた。 (小石が)  別な力がふいに加わった。アキの意思に反し、小石は「アイタイ」という言葉をつむいだ。 「修司さん、このまえ私の名前を呼んでくれましたよね」 「ミハル」 「嬉しかった。早くまたあなたと一緒に暮らしたいです」 「アイタイ」「カエリタイ」。  アキはみるみる、自分の顔がこわばっていくのを感じた。節子が目を大きく見開いてアキを見つめる。アキは小さく、首を横にふった。  「モドリタイ」「モウイチドアイタイ」「カアサン」「アキ」「ミハル」。  小石は紙の上をすべり、次々に言葉を作ってゆく。美春は幸せそうに吐息をもらした。  一瞬、アキが動かしているのに気づいて、美春が小石を自分の力で動かし始めたのかと思った。けれど、小石に加わる力は強さも方向も一定ではなく、妙に不安定である。よくくわからない。 「マタアイタイ」「マタイッショニクラシタイ」。  紙の上で生まれてゆく言葉たち。 (修司お兄ちゃん、まさか)  本当に「来ている」? 呼んでしまったのか、いつわりの降霊術で。  サカビナとは適当に作られたまがい物の呪術ではなく、実は真の呪術であったのだろうか。本当に修司の魂は力を与えられ引き寄せられていたのか。 「カエリタイ」「モドリタイ」「モウイチド」「ミハル」「ミハル」  美春は微笑んで、愛しげに下腹をなでた。  そこには、何もないというのに。 「ダ……メだよ」  アキはふるえながら、必死で声を喉の奥からしぼりだした。真偽のほどはわからなくとも、とにかく止めなければいけない気がした。 「ダメだよ修司お兄ちゃん」  ハッとしたように節子がこちらを向いた。美春は、不思議そうな表情を浮かべアキを見やる。 「いくら修司お兄ちゃんが帰ってきたくても、体がないよ。美春さんのお腹は空っぽだよ。ダメなんだよ」 「アキ」「カエリタイ」。 「ダメなの。ダメ……。帰れないの。お願いあきらめて修司お兄ちゃん。あたしだって修司お兄ちゃんに帰ってきてほしいよ。でも、ダメなんだよ」  アキは視界がかすみだすのを感じた。目頭がじんわりと熱い。 「モウイチドモドリタイ」 「修司お兄ちゃんの気持ちわかるよ。でもね、このままじゃ美春さんは……とてもかわいそうなことになるんだよ。あきらめてちょうだい」  まばたきをすると同時に、涙がアキの頬を伝った。 「修司お兄ちゃん、美春さんのこと本当に好きならあきらめてちょうだい。……ごめんなさいごめんなさい。お願いだから。美春さんがかわいそうだよ。そばにいたくても、もうダメなんだよ。こんなこと言って本当にごめんなさい。許して。あきらめて」 「どうして私がかわいそうなの、ねえアキちゃん」  美春の澄んだまなざしを見ると、アキは胸の奥がひどく苦しくなった。 「修司さん、戻ってくるのよ。そうでしょ」 「ねえアキちゃん、なんで泣くの」 「悲しいことなんてないでしょう」  涙をこぼすアキに、美春は心配そうに語りかける。アキは泣きながら、「本当に好きならあきらめて」、そう繰り返した。  どれだけの時間が過ぎたろう。  やがてまた、人差し指の先で小石がすべりだす感覚があった。 「ボクハモウカエレナイ」「モドルベキカラダハナイ」。  美春の瞳に動揺が走る。 「修司さん、何を言っているの」 「モウアエナイ」 「イヤよ、そんな。あなたの新しい体はちゃんと私が」  美春は小石に顔を近づけて叫んだ。 「キミノナカニボクノカラダハナイ」 「ウソよ」 「モウイチドキミトクラスユメヲズットミテイタカッタ」「キミモハヤクユメカラサメルトイイ」。 「違います、夢じゃない、現実になります」 「サヨナラ」「キミヲアイシテイル」  その言葉を最後に、すうっと小石に加わっていた力が消えた。  美春は悲痛な声で、何度も修司の名を呼んだ。だが小石は二度と動かず、やがて美春の声は弱々しくなり、嗚咽へと変わった。  目に涙をいっぱいにためて、節子がゆっくりと小石から指をはなした。アキは涙をこぼし続けながら、こぶしを強くにぎりしめた。  降霊術の夜から七日が過ぎた。  空にはキレイな満月が浮かんでいる。  アキは黙って、焚火の中に薪を投げ入れた。 月の光と焚火で、庭はぼんやりと明るい。節子はアキの隣りにしゃがんでいる。  涙が枯れるまで泣き続けて、美春はようやく修司が帰らぬことを受け入れた。それと共に腹部のふくらみもゆるやかに消えてゆき、彼女の体は本来あるべき状態へと戻った。  ぱちりと、火がはぜる。  炎の向こうに立つ、義姉のやつれた美しい顔をアキは見やった。悲しみの深い影が落ちているが、以前感じたような危うさは消えうせているのが救いだった。  風が吹いて、火の粉がほんの少し舞った。 夜空に小さな光が踊るさまは、季節はずれの蛍のようでもある。  アキは月に顔を向け、そっと目を閉じた。  どこまでが真実で、どこまでが幻だったのだろう。いつわりのものであってもそうでなくても、想いの強さが呪術に不思議な力を宿らせ、霊を呼び寄せたのか。それとも。 (それとも?)  アキは目を開け、美春の指先を見つめた。 「もしそうなら、きっと紙一重……」  「なあに」と節子がたずねる。アキは「なんでもない」とかすかな声で答えた。  美春が一歩、焚火のそばに近づいた。静かにサカビナの方法の書かれた紙と半分の人型を炎の中に放った。  また新たに火の粉が飛んだ。   美春はいつか修司を忘れて新しい恋をするのか。それとも生涯面影を胸に抱いて生きるのか。  アキにはわからなかったが、一日も早く元気に笑えるようになってほしかった。  夜の空気の中、溶けるように火の粉の光が消えてゆくのを、アキはいつまでも見守り続けた。