序 白鷺
鯖瀬藩は越前の小さな藩である。城はなく、南北に伸びる北陸道を中心とした台地に城下町は作られ、横幅三町縦十町ほど(一町約百九メ―トル)の狭さしかない。その上ここは宿場町でもなく、城下町は賑わいと云えるほどの活気はなかった。
むしろ活気があるのは伊野川のほうであった。舟運が盛んなのは近隣の藩でも同様で、鯖瀬藩も現藩主である諒勝が物産会所を設けるなどして力を入れていた。自然と商業の中心は河川沿いに集まり、商家が軒を連ね白塗りの土蔵も建ち、人が集まることから飲食や遊興を目的とした店も並んでいる。
それでも城下町の規模よりも小さいくらいで、少し足を伸ばすと、軒はまばらになり、水田が広がっている。南に下ったこのあたりでは、澤屋という回船問屋がもっとも大きく店を構えているが、後はすっかりさびれた景色になる。澤屋の隣に老人夫婦が草履などを売っている店があり、その二軒の境に小さな小路が通じている。その先にはちょっとした空き地があった。そこは、澤屋の高い塀、草履屋の生け垣、川沿いの葦によって死角になっており、近くに住むものでも知るものは少なかった。
その空き地のほぼ中央に一人の若い侍が立っていた。
師走は十二月の五日、三日前に降った雪はもう大半が溶けていた。この地は比較的雪は少なく、積もっても膝までというところである。雪のあとは暖かい日が続き、いまは日陰の雪ばかりで、あとはぬかるんだ地面がその名残りを残していた。
その空き地も同様で、雪は日のあたらない隅のほうにわずかに残るだけであった。冷たい風が弱く吹いている。その若い侍は傾いてきた太陽をため息をつきながら見た。吐く息は白くなり始め、男は懐に手を入れ、足下を注意深く見ながら歩きだした。
その男は背が高く、体格の良い体をしていた。年は十七八というところであろう、精気のあふれる強い意志を感じる特徴のある目をしていた。決して大きくはないが、燃えるような情熱を表に現し、それでいて母親を求めるような淋しげな色もたたえていた。着ているものは打ち破れたようなものばかりで、元の色がなんであったのか判別できないほど繰り返し洗われたと思われるものであったが、むしろそれが似つかわしくないような人品をその男は備えていた。
寒さを紛らわすためであろう、男は注意深く、まばらに生えているすすきの枯れ枝を踏み折りながら、盛り上がった根を選んで空き地の中を歩き始めた。空き地には所々緑の雑草が地を這うように生えていたが、そこに足を入れると思わぬほどぬかるんでいた。
どのくらいそうしていただろう、男が行きつ戻りつしていた場所のすすきはすっかり踏み折られてしまっていた。やがて男は立ち止まって、じっと足下を見た。それは地面を見るという行為ではなく、もっと遠くのなにかを見ているという様子であった。男は口を引き結び静かに目を閉じた。そして口の中でなにかつぶやくと、迷いを打ち払うように空を仰いだ。
船が通り過ぎたようだ。ここからでは背の高い葦の群生で川は見えないが、船乗りたちの呼びあう声が驚くほど近くに聞こえた。
男は目を細めて川のほうを見やり、そしてまた表通りのほうへ目を移した。誰かを待っているのだろう、もう何度もそのように表へ通じる小路へ目をやっている。寒さで体を震わせ、男はまた歩き始め、ややすると立ち止まってその小路を見ていた。
そんなことを繰り返すうちに、日はもう対岸の山並みにかかり始めていた。男は大きく息をはき、両手を懐からだして息を吹きかけた。不安の陰が男の顔色にあらわれた。また懐に手を戻し、歩き始めようと足を踏み出したまま、男は動きを止めて小路に目をやった。
ぬかるんだ地面に足をとられそうになりながら、そこから若い女が小走りに空き地へ入ってきた。その後から供と思われる娘もやってきた。その若い女は地味な小袖を着ていた。それは品のいい、派手さを押さえたもので、全体から身なりの良さが感じ取れた。よほど身分ある家の娘なのだろう、供の娘でさえもちょっとした商家の娘のように見えた。若い女は男のもとへ駆け寄り、供の娘は空き地の入り口で背を向けるようにしていた。
女は男の前で止まろうとし、足を滑らせた。男がとっさに腕をつかみ、女は荒い息でそのまま男を見上げた。
「遅くなりました」
女はそう云って男の手を握り、「冷たい」と云って男の手を愛しそうにさすった。
「こんなところに呼び出して申し訳ない」
男はそう云って、さりげなく女の手を解いた。女は一度男のほうへその手を伸ばそうとしたがやめ、帯の前で手を握り締めて呼吸を整えた。
「文を読みました」
女はあごを引いて静かにそう云い、ゆっくり顔を上げて男の目を見た。男は黙ったまま目をそらし、色あせた丈の短い袴を叩くような仕種をし、同じく何度も打ち直したと思われる羽織の崩れた襟を正した。
男は息をつき、女に視線を戻して云った、「江戸へ行きます」
「はい」
女ははっきりとそう云った。男の胸にいまにも飛び込みそうになる体を必死に押さえるように、女は両足を手で強く握った。
「わたしも」女はそう云って一度深呼吸をした、「わたしも行きます」
決意を表わそうというはっきりとした口調だった。歯を食いしばるように唇を結び、西日を浴びた頬は紅潮したように赤くなっていた。男を見上げるまだ幼さの残る顔は、女としての喜びを満面に表わしていた。
男は、女のその表情に困惑の色を見せた。
「いけません」男は首を振った、「あなたが来ても、なんにもならないのです」
「わたしはもう決めました」
「しかし」男はため息をついた、「聞いてください、あなたが私と一緒に行くということは、駆け落ちをするということです、そんなことをすれば、私もあなたも、ただではすまない」
「わたしは、それでもかまいません」女は高揚した顔でそう云った、「このまま二人が結ばれなくなるよりは、江戸でもどこでも、わたしは二人で暮らせるほうがいい」
「私は戻ってくる」男はゆっくりとそう云った、「そのつもりで江戸に行くのです、ことによると長崎まで行くかもしれない、道中は決して楽ではないし、遊びに行くわけではありません、学問のためです」
男はすがるように見つめる女の瞳を見て、諭すように続けた、「あなたを足手まといに思うこともあるかもしれない、それに食べることにも困るような暮らしになることは目に見えています、そんな目に合わせることはできない」
女は激しく首を振った、「いまでさえ縁談は来てます、これから何年もあなたがいないのに、わたしはどうすればいいのですか」
男は顔をしかめた、「待っていてくれとしか云えない」
「でも」
「そう」男は女の言葉を遮った、「いつになるかは分からない、それにいま以上の学問を身に付けたからと云って、すぐに取り立ててもらえるという確証はない」
「しかし」と云って男は女の肩を握った、「これしかないのです、このままここにいたのではいつまでたってもあなたと釣り合う男にはなれない、私は自分を試してみたい、そして私はその自信があるのです、ここであなたを連れていくことは敗北です、なにもせずに逃げ出すことになる、私は堂々とあなたを迎えに行きたいのです」
女は鼻をすすり、訴えるように云った、「わたしは身分など気にしません、前例のないことではないし、あなたと一緒になれるならなにもいらないのです」
「それは何度も話しました」男はそう云った、「私には夢がある、それはあなたも承知しているでしょう、これは私だけの夢ではなく、私以外の軽輩のものたちの夢でもあります、私が取り立てられることが彼らの将来の希望にもつながるのです、分かってください」
女は縋り付くように男を見つめていたが、男はやがて足下に目を落とした。女は目を逸らさなかった。瞳は男をかきむしるように見開かれ、呼吸は荒く、震えていた。言葉が後からあふれてくるのを押さえている様子だった。
男は女が話し始めるのを待った。
やがて女は口を開いた、「せめて、約束だけでもできませんか」
「許されるはずはない」男は静かに首を振った、「例え許されたにしても、それでは気がすまないのです、私は自分自身の力で、あなたを嫁にもらいたい、そのために江戸に行くのです」
女は弱々しくうつむき、男の袖を握った。
「縁談はくるでしょう」男はそう云った、「それはなんとか断ってほしい、勝手なようだがいまはそうしてくれとしか云えない、多くのものが信じてくれたように、あなたも私の出世を信じてくれました、私は必ず帰ってきます、そして胸を張ってあなたをもらいに行きます、信じてください、信じて待っていてください」
女は男の腕を引き寄せ、その胸に顔を埋めて咽びあげた。男は惑ったように手を拡げていたが、やがて女の肩にそれを恐る恐る回し、そして強く抱きしめた。
「なるべく早く帰ってきます、あなたが羨まれるような男になって、必ず帰ってきます」
男はさらに強く女を引き寄せ、女もすがるように抱きついた。そして二人は激しく唇を合わせた。
真っ白な鷺が二人のすぐ上を音もなく、すうっと現れ、翼を使いふわりと葦の向こうに消えた。女はうつろな瞳をわずかに開け、その様子を見るとはなしに見ていた。男はいっそう強く女の唇を押しつけ、女は目を閉じて溶けるように体の力を抜いた。
川の水が静かに岸辺をさらう音が聞こえてくる。
男はゆっくりと女の肩に手をやり体を離した。男の唇には女が薄く付けてきた紅がうっすらと付いていた。女は隠すように袖を口に当て、潤んだ赤い目で男を見た。
「もう行かなくては」男が云った、「あの二人がこれから門出を祝ってくれるのです」
「わたしは待ちます」女は自信を持った顔でそう云った、「わたしはもうあなたのものです、あなたの帰ってくるのを、きっと待っています」
女は思い出したように、懐から紙に包んだ金を出した。男は驚いたようにそれを押し返した。
女は首を振り、「あなたのために使おうと思ったものです」そう云って無理に男の手に握らせて云った、「心だけでも、わたしはもうあなたの妻です、なにも遠慮することはありません、どうかこれを使って学問に打ち込んでください」
男は素直に金を受け取った。女はその金で二人で江戸に行くつもりだったのだろう、それはかなりの重さがあった。それだけの大枚を持ったことはない、男はその重さを胸に刻むように両手でそれを握り締めた。
「正直なことを云えばどれだけ助かるか」男は涙すら浮かべてそう云った、「これで帰りが二年は早くなるでしょう、決して無駄にはしない、何倍も値打ちのある男になって帰ってきます、どうぞ、どうぞお体を」
そこまで云うと男は言葉を詰まらせ、くるりと背を向け、ご免と云って駆けるように空き地を後にした。
また船が通り過ぎたようだ。男が去った空き地に、にぎやかな船乗りたちの掛け声が聞こえてきた。
女は放心したように立ちつくしていた。供の娘が心配そうに近づいてきた。女は、まるで熱いものにでも触るかのように、唇にそっと手を当てた。軽く目を閉じてしばらくそうしていたが、顔を上げると力強い表情で、供の娘にうなずいた。
三人の友
《一》
雨戸はすっかり明け放たれており、暖かな日差しが障子窓から強く射していた。襖の隙間から入る日の光が顔の上に静かに移動した。
清水小太郎はまぶしそうに薄目を開け、右手を顔に持ってきて強く顔面を擦り、その光を避けるように横を向き、部屋の中を見回した。喉が渇いていた。口から喉にかけて強い粘着質のものがこびりついているように感じる。
小太郎はそこが自分の部屋であることを確認し、水差しを探した。水差しはなかった。頭の中が異物でも入れられたように重く、心臓の鼓動とともに痛んだ。
「飲み過ぎた」
小太郎はそうつぶやいて、どうやって帰ってきたか思い出そうとしたが、ずいぶん飲んだことは覚えているが、帰りの道程はなにも思い出せなかった。
「秦野と飲むといつもこれだ」そう云って小太郎は起き上がった。袴のまま寝ていたので、浴衣一枚になり羽織を拾い上げて襖を開けた。
春のまぶしい日差しが全身を包み、小太郎は眼球が痛むのを感じて目を閉じた。昨夜は冷え込んでいたが、その日は暖かく、彼は羽織を投げ捨てて伸びをした。
――そういえば、誰か起こしに来ていたな。外からの光を見て思い出したが、さっきまで見ていた夢と現実の区別がつかなかった。
「まあいい」
そうつぶやいて、小太郎は台所へ行った。水瓶から直接柄杓で水を立て続けに三杯飲んだ。喉の渇きが取れたことで小太郎は一と息ついた、頭はまだ痛むがそれほどひどい宿酔いではないようだ。小太郎は首を揉んでからもう一杯水を飲んだ。
「行儀の悪いこと」母親の椙女が後から声をかけた。
「ああ母上」小太郎はなんでもないという顔を作りながらそう答えた、「いまは何刻ですか」
「もうとっくに昼ですよ」椙女はとがめるようにそう云った、「何度も起こしにやったのにこんな時刻まで寝て、また父上からお叱りを受けますよ」
「少し寝過ぎましたか」
平気な顔でそう云って、小太郎は母親の横を抜けて居間へ行った。
椙女はあとに付いてきて小言を云った。
「毎日のように飲みにばかり出かけて、それも加減も知らずに飲み過ぎてばかりいるようでは困りますよ、いまもわたしが起こしに行こうと思っていたところです、まったく、江戸にやってからというもの遊びばかり覚えて、ろくなことがありません」
小太郎は、うっとうしいと云いたげに片手を振った。
「まあいいじゃないですか、こんなことができるのもいまのうちなんですから」
「いまのうちなんてことがありますか」椙女は云った、「役目に付いて、ご自分で禄を頂くようになってからあなたのお金で遊ぶならまだしも、――まあ待ちなさい、どこへ行くの」
小太郎は廊下へ出ようとしていたのを振り向いて云った、「汗をかきましてね、いい陽気ですし、井戸で軽く流そうと思いまして」
「まだ話しは終わっていないのよ」
「大丈夫です、どうせ三男の冷や飯ですけど、もしも役に付いたら私だってきちんとしますよ、いまは昼まで寝ても誰に迷惑をかけるわけでもなし、もうしばらく好きにさせてください」
そう云って小太郎は井戸のほうへ歩いていった。椙女はまだ云い足りないとみえて小走りに後を付いてきた。
「迷惑はかけていますよ、現にいまだって信兵衛殿が待っているのですよ、朝だってあなたの分の支度もしているというのに、いつもいらないと云っては食べないじゃないですか」
小太郎は立ち止まり、振り向いて云った、「菊池が、いまいるんですか」
「そうです」
「そうですって、そういうことは早く云ってください」
「何度も云いましたよ、それで起こしに行くところだったのですから」
「分かりました、着替えるまで待たせておいてください」
そう云って小太郎は下駄を履いて庭に降りた。
「あなたは冷や飯、冷や飯と云いますけどね」椙は呼びかけるように着物を脱ぎ始めた息子に云った、「冷や飯と云うのでしたらもう少しおとなしくすべきでしょう、聞いているの、――そう、そう云えばお父様がそのことでお話があると云っていましたよ、今日はどこへも行くなということですから、おとなしく家にいなくては駄目ですよ」
「分かりました」と云って小太郎は不満そうに着ていた浴衣を井戸端へかけた。
椙女はまだなにか云いたそうにしていたが、息子が手桶から水を浴びるのを見て、あきらめたように引き返した。
――話しがあるって、小太郎はため息をついた、小言ならいいが、また養子の話しかもしれない。
そう考えると小太郎の気は重くなった。
清水家は代々筆頭家老で、父親の信尭は城代家老である。鯖瀬藩で最も格が高い家の一つで、三男とはいえ清水家と縁戚関係を欲する家には困らなかった。
まだ養子には行きたくない、小太郎はそう思った、どうせいつかはどこかへ養子に行くんだ、あと四五年はいまのままで気楽な暮らしがしたい。
小太郎は桶から両手で水をすくって顔を洗った。酔いの残るむくんだ顔には冷たい水が心地よかった。その桶からもう一度体に水をかけ、そのまま浴衣を羽織り、手拭いで顔を拭いた。
小太郎は二十歳になった。背のあまり高くない、線の細い体で、顔も細長く鼻が大きく眉が太かった。悟ったような顔で下唇を突き出しつまらなそうな顔をする癖があり、いまもその顔でなんとか縁談を断る手はないかと考えていた。
小太郎が着がえを済ませていくと、菊池信兵衛は菓子を摘みながら出された茶を飲んでいた。信兵衛はゆったりと肥えていて、顔も肉付きが良く、生真面目そうな細い目と髭の濃い顔立ちで、小太郎と同じ歳だがもっと歳を取っているように見え、いまもうまそうに茶をすする姿はいい中年の様相を呈していた。
「なんだ、顔色が悪いな」入ってきた小太郎に信兵衛はそう云った。
「飲み過ぎだ」そう云って小太郎は座ろうとしたが、「おれも茶漬けでも食おう、かまわないか」そう聞いて部屋を出た。
小太郎は茶漬けを持って戻ってき、「待たせるのも悪い、ここでいいだろう」と云って食べ始めた。
「今朝飯か」
「そうだ、秦野は底抜けだ、まともに付き合うといつもこの伝だ」
「秦野か、いい噂は聞かないな」信兵衛はそう云った、「しかし、そうすると飲む話しは迷惑だったかな」
「今夜か」小太郎は云った、「今夜なら喜んでいくぞ、ぜひ今夜にしてくれ」
「いや駄目だ」信兵衛は云った、「今夜は誘ってくれるなとお母上から釘を差されている」
「手回しがいい」
「なにかあるのか」
「どうせ婿入りの話しだ」
「まだ逃げているのか」
「そんなところだ」小太郎は下唇を突き出し、例の顔をした、「で、菊地から飲もうと云うのも珍しいじゃないか、妻女が懐妊したそうだが、その祝いか」
「それは無事産まれたら祝ってもらおう、実は松岡が帰ってきたんだ」
「松岡ってえと、茂の字だな、奴さんやっと帰ってきたか」
信兵衛は思い出したように江戸言葉を使う小太郎に苦笑いをした。
「そう、その茂の字だ」信兵衛はそう云った、「昨日帰ってきたんだ」
「一年半ってところか」
「二年と二月だ」
「おまえは細かい、よくそこまで覚えてるな」
「友達のことじゃないか」信兵衛はむきになって云った、「二年、いや三年前に師走に二人で送り出したじゃないか、まさか二年で忘れるほど薄情じゃないだろう」
「それでどうした」小太郎はつまらなそうな顔をした、「江戸で立派に名を上げてきたのか、おれは一度も江戸ではそういう噂は聞かなかったがな」
「遊び過ぎで連れ戻された男の耳に入るような噂はないだろう」信兵衛は冗談めかしてそう云った、「ともかく江戸でのことはまだ聞いていない、祝いの席でゆっくり聞こうと思っているんだ」
「云われたな」小太郎はそう云った、「しかしおれは江戸に不穏な動きがあるから戻されたんだぜ、現に坂下門外でなにかあったらしいじゃないか」
「老中の安藤様が襲われたんだ、しかし清水がそんなことを知っているとはな」
「知ろうとしなくてもいやでも耳に入ってくる」
いやな世の中だ、とつぶやいて小太郎は話題を戻した、「あれからもう二年か、それにしても二年は早すぎるな、本当に祝いの席になるのか、江戸は学問なんかできる状況じゃない、もし逃げ帰ってきたのなら松岡に悪いだろう、そこは確かめたんだろうな」
「自分から帰ってきたと知らせてきたんだ」信兵衛は小太郎の口調に不満そうに云った、「逃げ帰るなんてことはない、松岡なら二年で十分だ、それは清水も知っているだろう、あいつは必ず一角の人物になる、そうだろう、おれはいまから会うのが楽しみだ、清水は冷たいぞ」
「悪かったよ、なにしろ友達だからな」
小太郎は友達という言葉を強調して云った。
信兵衛は眉をひそめた、「とにかくそういうわけだ、本当は今日にでもと思ったのだが、明日にしよう」
「おれはいつでもいい」小太郎はそう云ってから身を乗り出した、「場所は鶯閣楼がいいだろう、お弓という妓がいるんだ、菊地は知らないだろうな、あいつはいい女だ、江戸の女にもああいうのはなかなかいない、あいつはいまおれに夢中なんだ、ちょうどいいおまえたちにも紹介しよう、鶯閣楼がいい」
「いや、あそこは格が高すぎる」信兵衛はそう云った、「松岡が気を使うだろう、松尾屋あたりがいいと思うんだが」
「松尾屋か」小太郎はいやそうに顔をしかめた、「あそこは暗い、妓も付かないで酒を飲むのか」
「まあそう云うな、芸妓がいてはゆっくり話しもできない、たまにはそういうところで飲むのもいいだろう、酉の刻でどうだ」
「六つ(日の入)か、おれはいいが菊池の役所は大丈夫か」
「まだ雑用だけだ、間違いなく行けるよ、いまだって役目の途中なんだ」
「案外気楽なもんだな」
「大目付けの嫡男というのも、変に気を使われていやなものだ、なにをしてもいい顔をされる、おれが父上に告げ口でもすると思っているんだろう」
「そのわりに菊池は勤勉じゃないか、もう少し遊びも覚えたほうがいいぞ、どうも国許の人間は固くていけない」
「その忠告はありがたくもらっておこう、じゃあもう行くよ」そう云って信兵衛は席を立った、「そうそう、忠告のお返しというわけじゃないが、清水も早く結婚するといい、家族を持つということは男としていい刺激になる、それにおまえが遊んでばかりいることにいい顔をしない連中もいる」
「特別な主張がある奴はなにかにつけてケチをつけるもんだ」小太郎はどうでもいいと云いたげにそう云った、「云いたい奴には好きに云わせればいい、しかし結婚はご免だ、まだ菊地のように老成したくはないんでね」そして顔をしかめた、「どうせなるようにしかならいんだ、もっといまを楽しみたいんだよ」
すっかり江戸で毒されたな、そう思いながらも信兵衛はなにも云わずに清水家を後にした。
《二》
菊地信兵衛は大目付菊地兵右衛門の長男で火消し盗賊方と呼ばれる、いまでいう警察と消防を兼ねたような役に付いている。三カ月前、ちょうど和の宮降嫁と同じ時期に郡奉行の新原という家から嫁をもらった。清水小太郎、松岡茂十郎とは十一の時に藩校で知り合い、年も同じで藩校である心徳館に入ったのも同じ時期ということもあり、以来親しく付き合っている。その頃から信兵衛は大人びた落ち着いた性格で、正義感が強いことからか人望もあり、三人の中でもまとめ役というようなところがあった。
信兵衛は小太郎に見送られ門を出た。頼まれていた使いはどうでもいいもので、それはもう済んでいた。小太郎と会ったせいばかりではないだろうが、信兵衛は役所に帰って誰にやらせてもいいような書類の整理をする気にはなれず、もう少し時間を潰そうと思った。
二月も半ばになりいま日のような暖かいが日一日と増えていた。いまも清水家の門の脇にあるしだれ桜は、下のほうでは白く花の芽が膨らみ始めていた。
――散歩のつもりで城下を見回りしよう。その日の心地よい春らしい太陽を受け、信兵衛はそう思った。
「菊地さんではないですか」
信兵衛がその桜の芽に手を伸ばそうと、垣根を覗くように身を乗り出したところで、そう声をかけられた。見ると笹原、若松という二人の足軽の若者であった。
「お久しぶりです」若松がそう云った、「どうしたんですか、なにか不審なことでもありましたか」
「いや」信兵衛は決まりが悪そうに桜の花を見て唇で笑った、「二人はどこかへ行くのか」
「道場の帰りです」今度は笹原が答えた。
「そうか」信兵衛は懐かしそうに目を細めた、「もう一年になるな、笹原はさらに腕を上げたそうじゃないか」
「もう五番手です」笹原の代わりに若松が答えた、「菊地さんもたまには顔を出してください、道場以外では菊地さんには会えないのですから」
「そうだな、役目を第一にと思って道場と学問所をやめたが、いま思えばせめて道場は続けていたほうが良かったかもしれない」信兵衛はそう云った、「もうすっかりなまってしまった、いま行っても若松にもいいようにやられてしまうだろう」
信兵衛は道場では常に三番か四番手に位置していた。そんな、と照れたようにする若松の横で、笹原は不服そうな目で信兵衛を見た。
「役についたらもう武芸の稽古はしないのですか」
笹原はそう云った。
「木刀くらいは振るさ」信兵衛は笹原の視線にあえて笑顔で答えた、「しかしなまっているのは事実だ、暇を見つけて顔を出そう、その時は笹原に稽古をつけてもらうかな」
信兵衛のおおらかな物云いに、挑戦的な態度をとったことを恥じたのか、笹原は顔を下に向け耳を赤くした。
「若松はどうだ」信兵衛は云った、「確か松岡が学問の才があると云っていたようだが」
「松岡さんがですか」若松はうれしそうにそう云った、「そうですか、そんなことを菊地さんに」
「そうだ、その後も続けているんだろう」
「いや、はい」若松は曖昧に答えて話題を変えた、「菊地さんは見回りの途中でしたか」
信兵衛は、儒学ではないなと思った。彼らは身分の低い足軽であった。そしていま彼らの間に尊皇の思想が広がっていることを信兵衛も知っていた。
「見回りと云うほどじゃない」しかし信兵衛はそれについてはなにも云わずにそう云った、「外に出る用があったのでついでに清水のところに寄ってきたんだ」
清水、そう聞いて笹原は不潔なものでも見たように顔をそむけ、若松と目を合わせた。それは明らかに小太郎を侮蔑した様子であった。
「清水に会っては悪いのか」信兵衛は厳しい声でそう云った、「清水はおれの友達だ、そういう顔をされるのは不愉快だ」
笹原は動揺して「そういうつもりではなかった」と慌てて詫びた。
信兵衛は穏やかな性格であるが、正義感が強く一本気であることを二人は知っていた。気さくなたちなので若いものからも好かれたが、生真面目な分、(争いを嫌うので怒ったところは見たことはないが)怒らせるともっとも恐いだろうと噂されていた。
「松岡が江戸から帰ってきたんだ」信兵衛は二人の様子を見て今度は穏やかに云った、「そう、おまえたちのよく知っているあの松岡だ、それで二人で帰郷を祝おうという相談だったんだ」
「そうですか、松岡さんが」
二人は目を輝かせた。笹原も急に顔つきが変わり、十七の青年らしく無邪気な笑顔を見せた。
「ついに帰ってきたんですね」笹原は興奮気味にそう云った、「で、どうなんです、もうお会いになったのですか」
「いいや」信兵衛は首を振った、「松岡が使いをよこして知っただけで、まだ会ってはいない」
松岡茂十郎は一部の下級武士の間では信仰に近い慕われ方をしていた。それは茂十郎が剣術では師範並みで、学問も藩校では常に主席であったためである。本来足軽が藩校に入ることはできなかったが、近年になり特に優秀なものは藩校で学ぶことが許され、その中でも彼は白眉であった。茂十郎はいずれかならず身分を超えて出世するだろうと噂されていた。茂十郎のようになる、ということが同じ低い身分のものたちの間では目標であり、また憧れであった。
茂十郎が慕われるのにはもう一つ理由がある。彼は非常に面倒見が良く、頼まれなくても進んで人のために行動した。特に同じように低い身分の後輩には親身で、武芸に向いていると思われるものには道場が終わった後にも稽古を付け、学問が好きなものには自分の教本を写して与え、細かいところまで教えてやるのであった。それだけではなく、喧嘩があれば仲裁に入り、悩みがあれば聞いてやり、金に困っていると聞けば無理をしてでも貸してやったりと、茂十郎の彼らに対する面倒見の良さを上げればきりはない。
「我々も祝おうじゃないか」彼らは嬉々としてそう話し合った、「そうだ、形だけでもいい、是非そうしよう」
信兵衛は満足げにうなずいた。自分の友達である茂十郎がそれだけ好かれていることは、彼にとっては喜びであった。小太郎と茂十郎は、彼には最も長い付き合いの親しい友人で、特に大事にしていた。茂十郎に関しては二年間、簡単な手紙のやりとりしかしていなかったが、なにも心配することはなかった。一方、二カ月前に江戸から帰ってきた小太郎は行状が悪くなるばかりで、信兵衛としては心配の種であった。
「ところで、清水はもう道場には行っていないのか」
信兵衛は、小太郎に対する二人の態度から、なにか聞けはしないかと思いそう問いかけた。
「あの人はもう駄目です」
笹原がそう云った。若松は、「おい」と云って肘で制した。
「さっきのことは忘れてくれ」信兵衛はそう云った、「友達として清水の心配をしているんだ、おまえたちの目から見てどうなのか、正直なところを聞かせてくれないか」
二人は目の隅でお互いを見ながら、うつむいて黙っていた。
「それだけひどく思われているということか」信兵衛はため息をついた、「道場にはまったく行かず、心徳館にも顔を出していないそうだな」
二人はうなずいた。
「評判が悪い原因はそれか」信兵衛はそう云った、「しかし松岡と清水はまったく別の人間だ、比べるのは間違っているし、清水は清水で思うところもある、いまは江戸に中途半端に行ったので浮かれているんだ、もう少し長い目で見てやってくれ」
笹原は不満そうに脇を向いた。
若松は取り付くろうように、「秦野さんと付き合っていることも良くない原因だと思います」と云った。
秦野は小太郎が江戸から帰ってきてから知り合ったいわゆる飲み友達である。名は五郎兵衛と云い、家老の次男で素行の悪さは定評がある。
「時局が分かってないんです」笹原はそう云った、「この大変な時に酒と女にうつつをぬかすということが許されるとは思えません、我々はそのことに真剣に胸を砕いているのです、この時局をどう乗り切るのか、それをまじめに考えない人間がいるというのは信じられません」
「時局か」信兵衛は淋しそうにそう云った、「分かった、正直に話してくれてありがとう」
信兵衛は、松岡を祝うことで力になれることがあったら相談してくれ、と云ってそこを離れた。
時局ということに関しては、信兵衛もなにも感じないわけではない。しかし彼らのほうがより敏感であることは分かっていた。
鯖瀬藩の藩主、間部下総守諒勝は、大変優れた人で、優秀な人物がたどる順当な道で老中にまでなり、井伊大老のもと安政の大獄を主導したが、逮捕者の処分について意見が合わず老中を辞任した。二年前に井伊大老は暗殺され、今月にも老中安藤信正が襲撃されるという事件があった。これにより幕府の政治体制は混乱し、諒勝もどうなるか分からないという不安が、鯖瀬藩全体に漂っていた。特に若い下級武士の間では、安政の大獄はやりすぎだったという声が高まり、上層部は殿の出世とその間の一万石加増にいまだに浮かれていると非難するむきがあった。彼らは日に日に過激な思想になり、勉強会といっては、幕府と藩の権力者たちへの不満を並べていた。
その不満の中に清水小太郎の名もよく上がった。彼の筆頭家老の息子という地位と、政治向きに興味を示さない姿勢と、遊興にふける態度が槍玉に上がっていた。彼らに云わせれば、小太郎は時局をまったく理解せずに幕藩体制とそれによって与えられた身分の上にあぐらをかき、誰もが国のために立ち上がらなくてはいけないこの時期に酒と女に興じている憎むべき人物ということになっている。
「時局か」信兵衛は北陸道を北に歩きながらそうつぶやいた。
鯖瀬藩は幕府の譜代藩である。信兵衛は、大きな声で主張するものがいないにしても、一部で尊皇の気運が高まっていることを知っていたし、彼らの気持ちも理解できた。信兵衛自身も当然不安はあったからだ。笹原などはその中心的な人物であった。彼は剣術に優れており、茂十郎の信奉者の代表格でもあり、その分、身分による差別への不満も強かった。
「松岡さんのような人物をどんどん取り立てて、藩を変えていかなくてはいけない」
それが彼らの云い分であった。結局茂十郎は士分には取り立ててもらえず、いまの学問を深め、さらには新しい学問を身に付けるため江戸へ立った。その時、笹原ら茂十郎を慕うものたちは憤慨した。それが、苦労もせずにいずれ重職の婿に入り、権力を握るであろう小太郎への反発にもなっていた。
いずれ暴挙に出ないとも限らない、信兵衛はそう思った、清水はおれと、なによりも松岡の友達であるということで簡単に手は出さないだろうが、いずれ不満を清水に集め我慢を切らすということも考えられる、彼は自ら行動を起こしたがっている、持して時局を乗り越えようとは思っていない。
信兵衛は、明日茂十郎に会ったら行動を慎むように諭してもらわなくては、と思いながら役所へ戻った。
《三》
松尾屋の二階にあるその部屋は、松岡茂十郎が江戸へ立つ前日に、菊地信兵衛と清水小太郎が彼のために門出を祝った部屋と同じであった。信兵衛が云い含めていたのだろう、茂十郎がこの部屋の案内されるとすぐ、次々と料理が運ばれ、すでにいまは三人分の膳がそろっていた。
部屋で一人、茂十郎は窓枠に腕をのせ、伊野川が見える外の景色を見ていた。太陽は対岸の山並みに隠れていたが、まだ山の手前にかかる雲を赤々と明るく照らしていた。
「二年」茂十郎はそうつぶやいた。
鯖瀬を出た時のことを思い出しているのだろう、茂十郎は故郷の風景を確かめるように見つめていた。目に見える木々の一つ一つから、伊野川の流れさえも、なに一つ二年前と変わらないように思えた。茂十郎は身を乗り出して窓から顔を出し、左手をのぞき込んだ。見つめる先には澤屋の土蔵が見える。彼はその先にあるはずの場所を、土蔵の向こうに見ていた。
「おれは帰ってきた」
茂十郎は感動を押さえるようにそう云い、眼下の景色をぐるりと見渡した。彼は瞳を思いを燃やすように輝やかせ、筋肉質の大きな体を力一杯伸ばした。
長火鉢の上で銅壷が沸騰し、カンカンと音を立てた。茂十郎は慌てて、熱くなった徳利を取り出し、火鉢についている台に乗せた。彼は膨張した酒を少しすすり、やりすぎた、とつぶやき、二本目の燗をつけた。
すでに部屋の中は暗くなり始め、足下が冷え冷えとしてきた。茂十郎は障子窓を閉め、手持ちぶさたそうに並べられた膳を眺め回し、そのまま窓の前の席に座った。
四本目を銅壷に入れてまもなく、信兵衛がきた。二人は肩を叩き合い久闊を叙し、無事この日を迎えられたことを喜び合った。茂十郎は信兵衛に貫禄がついたと云い、信兵衛は茂十郎に一回り大きくなったようだと云った。
「小火騒ぎがあって遅くなった」信兵衛はそう云って詫、茂十郎がまだ膳に手をつけていないことをうれしそうに確認した。
「結婚したそうじゃないか」茂十郎は急くようにそう云った、「その知らせが来たころには、もう江戸を発つ気でいたんだ、祝いが遅れたがおめでとう、清水のほうが先かと思っていたが、奥手の菊地が一番になったな、どんな人をもらったんだ」
「郡奉行の新原四郎左衛門殿の娘だ」信兵衛は云った、「覚えているだろう、新原久兵衛、そう、あいつの妹だ」
二人はしばらく立ったままで、時間を惜しむように矢継ぎ早にお互いの二年間の消息を聞きあった。
「松岡は変わらないな」信兵衛はそう云った、「まあ座ろう、いやそこじゃない、上座に座ってくれ」
「自分ではこれでも成長したつもりなんだが」茂十郎はそう云って上座に座り直した、「菊地の目にはまだまだそうは写らないものだな」
茂十郎は燗の様子を身を乗り出して調べた。
「そこだよ」信兵衛はそう云った、「松岡は自分のことより人のことを気にする、待っている間に少しはやっていてもいいものを、手もつけずに燗の用意ばかりしている、いいところが変わっていないという意味だ」
「こういうところは慣れてないんだ」茂十郎は照れたように笑った、「菊地が人を誉めるのが上手いのも変わらないな、おれは江戸に行って少しは変わったと思っていたんだが、こうして古い友達の顔を見るとそう変わってはいないことに気づくよ」彼はうなずいた、「根本的には人は変わらないものだな、変わったと見えても元もとその人が持っていたものが目立つようになったか、目立たなくなったかのことだと思うんだ、そういう意味ではおれも変わっていない、しかし久しぶりに会う友達が変わらないのはうれしいものだ、清水も変わらずか」
茂十郎は信兵衛に酌をした。信兵衛は眉を寄せて返杯をした。
「どうした」茂十郎はそう聞いた、「清水がどうかしたのか」
「そういえば遅いな」信兵衛はそう云った、「清水が来れば分かるだろうが、あいつが一番変わったと云えるかもしれない」
「良いほうになのか、しかしその表情からすると悪いほうのようだな」
「その判断は難しい」信兵衛は云った、「松岡が云うように、その傾向はあったと思うんだが、ずいぶん厭世的になってしまった」
茂十郎は小太郎のことを思い出そうとして目を閉じた。
「世をすねる、そういうところがないこともなかった」茂十郎はそう云った、「しかし誇り高さは人一倍強く持っていたのに、そんなふうになってしまったのか」
「それが原因かも知れない」信兵衛は云った、「その誇りの高さに自信がついていかないようにも思えるんだ、とにかくいまはなにかをごまかすように酒と芸妓遊びだ」
そのことで相談がある、そう云って信兵衛は小太郎が下級武士の間で糾弾されていることを話し、軽率なことはしないよう茂十郎が押さえになってと頼んだ。
「時代だな」茂十郎は感慨深そうに云った、「まさかこの鯖瀬でも尊皇攘夷の思想が芽生えているとは思わなかったが、考えてみれば、この国全体がいまは揺れているし、江戸も大変な騒ぎだった、とにかく清水のことはおれでできることならなんとかしよう」
「それを聞いて安心した」信兵衛は云った、「松岡が止めている間は彼らもなにもしないだろう」
「もうこの話しはやめよう」信兵衛は気を取り直すようにそう云った、「清水がまだ来ないが待ち切れない、そろそろ江戸の話を聞かせてくれ」
《四》
「冗談じゃない」小太郎は入ってくるなりそう云った、「今日は飲ませてもらうぞ、なんだ、二人でまだ二本か、どんどんつけてくれ、今日は飲むぞ」
小太郎はどかりと座ると、立て続けに手酌で二杯飲んだ。
「待て清水」信兵衛が驚いた様子で片膝を立てた、「松岡に挨拶もせずに手酌でやるのは失礼じゃないか、なにがあったかは知らないがそういう態度は良くないぞ」
「固いことを云うな」小太郎は杯をあおって茂十郎にそれを差し出した、「駆けつけ三杯、江戸じゃあ常識だ」
「ここは江戸じゃないぞ」
「まあいいじゃないか」茂十郎はそう云って注げられた酒を飲んだ、「清水も元気そうで安心したよ」
「元気なものか」小太郎はつまらなさそうに返杯を受けた、「ついに縁談が決められちまうんだ、やってられねえよ」
「うらやましいじゃないか」茂十郎は眉を上げてそう云った、「で、どこの家なんだ」
「知らねえな」小太郎は云った、「どうせこっちの希望がかなうわけじゃねえんだ、いい女であることを願うだけさ、それにしてもうんざりな話しだ」
「この調子で逃げ回っていたんだ」信兵衛は茂十郎に解説するようにそう云い、小太郎の顔を見た、「そういう時期になったということだ、清水もこれで少しは落ち着くだろう、心配事が一つ減っておれも安心だ」
「ふん」と云って小太郎はつまらなさそうに唇を突き出した。
茂十郎は小太郎がいつもするその表情を見て云った、「清水もそう変わらないな」
「変わらない」小太郎は唇で笑った、「おれは変わったよ」
小太郎は投げやりにそう云った。茂十郎は驚いたように小太郎の顔を見た。
「二年だぞ」小太郎は云った、「なにも変わらないほうが不自然だ、いつまでも子供ではいられないってことさ、汚いことや悪いことも覚えていかなくちゃいけないんだ、いまはそれを勉強中ってわけだ」
「なにかあったんだな」信兵衛がそう聞いた、「清水がそういうことを云うにはやはりなにかがあったんだろう、だからそんなに自棄になっているんだな」
「自棄になんかなってねえよ」小太郎はそう云った、「それに特別なにかがあったわけじゃない、菊地はすぐに理由をつけたがるが、世の中はそんなに簡単にはできてねえんだ、表があれば必ず裏がある、なんてことはねえ、良い子の振りも疲れただけだ、おれは好きなように生きてえ、それができるのもいまだけだからな」
「そうか」信兵衛は安心したように小太郎を見た、「初めて話してくれたな」
小太郎は舌打ちをして横を向いた。
「おれのことなんかどうでもいいんだ」小太郎はそう云った、「そんなことより今日の主役は松岡だろう、松岡の話しを聞こうじゃないか」
「ああ」と茂十郎ははっとしたように顔を上げた。
茂十郎は意外だった。小太郎は茂十郎がほしいと思うものをすべて持っていた。家柄と約束された地位、立派な父親と温かい家庭、茂十郎がいくら望んでも手に入れられなかったそれらを当たり前のように小太郎は持っていた。自分のほうが学問も武芸もできるのに、そう小太郎を妬むことも一度や二度ではなかった。そんな小太郎にも、悩みがあり自棄になるような気持ちになることがあるとは思っていなかった。
茂十郎は小太郎の顔をよく見てみた。二年で少し大人びた顔つきに変わっていることもあるだろうが、以前の顔を思い出せず、まるで初めて小太郎の顔を見るような気持ちだった。
友達だと思っていたが、実は清水の中身をなにも見ていなかったのかもしれない、茂十郎はそう思った。
茂十郎は話しを始めた。信兵衛に話したところまでははしょって、長くならないように要点だけをかい摘んで話した。
彼は、藩校である心徳館の教授に昌平黌への推薦状をもらい、そこへ通うつもりでいた。思ったほどの苦労もなく昌平黌に入学でき、二年間朱子学を中心とした学問を学んだが、三カ月ほどたった頃からそこでできた友人の紹介で、ある私塾にも顔を出すようになった。そこは洋学塾で、鯖瀬では学ぶことができなかった新しい学問を習得することができた。そこで教えをひらいていたのは横井小楠にも学んだという人で、茂十郎も大きな影響を受けた。
「横井小楠」信兵衛が驚いてそう聞いた、「それは聞いていなかった」
「橋本左内を敬愛する人たちも多くいた」茂十郎は云った、「さすがに鯖瀬藩士ということで初めのうちは白い目で見られた、一度は長州の人間と激しい云い合いになった」
「それでどうしたんだ」
「なに、結局友達になったよ」
「長州の人間とか」
「水戸の浪士にも知り合いはできた」
「大した度胸だな」小太郎はそう云った、「おれは知らない武士には一度も鯖瀬藩だとは云えなかったぜ」
「彼らは王政復古を唱えている立場で、いわば我々とは逆じゃないか」
信兵衛は心配そうにそう聞いた。それは明らかに茂十郎がその思想になったのではないかという心配であった。
「確かに主張するものは違う」茂十郎はそう云った、「だが彼らもこの時代を生きる同じ人間なんだ、佐幕派だろうが、勤王派だろうが、この国を正しい方向に導きたいというのは同じだし、誰もみな真剣で、真面目なんだ」
そして、確認するようにうなずいた、「おれは運が良かったのかもしれない、どちらかというと学問を前提にして変えていきたいという人たちばかりだったからな、会ってみるとみないい人たちだった、江戸に行って良かったよ」
「それはどの程度のつき合いだったんだ」
信兵衛がそう聞いた。
「どの程度とは」
「つまり」信兵衛は云いにくそうに聞いた、「思想的な面でどの程度親密になったかということだ」
「そうか」茂十郎は笑顔で云った、「安心してくれ、おれはあくまで鯖瀬の人間だ、彼らの云うことは理解もするし認めることもできる、しかしやはりこの藩でおれはやっていきたいし、特にいま殿がどうなるか分からないときに裏切ることはできないよ、少ないとはいえ禄をもらってきたんだ、それに江戸行きを許してくれるなんてことは異例のことだ、恩を忘れたことはないよ」
「良かった」信兵衛はほっとしたようにそう云った、「これで松岡まで尊皇に走られたら彼らはとどまるところを知らなくなる、そこはぜひ頼む」
小太郎は不機嫌そうにそっぽを向いていた。
「だが彼らがそういう思想を持ち始めたとしたら、それを止めるのは難しい」茂十郎はそう云った、「おれには彼らの気持ちがよく分かる、こんな云い方は良くないだろうが、おれたちはずっと幕府や藩から認められてこなかった、家族が養えるだけの禄をもらえずに、身分が低いというだけで差別され続けた」
「いや待ってくれ」信兵衛がなにか云おうとするのを遮って、茂十郎は続けた、「それは仕方のないことだし、だれかを恨むのは筋違いだと思う、しかしそういう不満をぶつけられるだけの思想があるならそれに飛びつくのは無理もないことなんだ、そこは分かってくれ」
「心配なのは」信兵衛は云った、「なにかことを起こさないかということだ、ただ不満を並べているだけならいい、それが捌け口になっているだけならいいんだ」
「待ってくれ、彼らがなにかをすると云うのか」
「そうなっては困ると云ったんだ」
「それは誤解だ」茂十郎は云った、「尊皇攘夷の思想を持つことは必ずしも暴挙に出るということではない、菊地はおそらく尊攘派がどういうものなのか分かっていないんだ、暗殺で解決しようというのは半分もいない、攘夷と云ったって、この国が一つになって外国に支配されずにやりたいというだけで、外国人と見ればすぐに切りかかるというものではないんだ、それは分かるだろう、人の中にはいろんなのがいる、ごく一部を見て決めつけるのはおかしい」
「分かったよ」信兵衛はそう云って微笑んだ、「とにかくなにも起きなければいい、せめて同じ藩の者同士で争うことは避けたいんだ、極端に云ってしまえば、どちらの思想でもいい、同じ国の人間、ましてや同じ藩でいがみ合い争って、それでこの国が良くなるとは思えない、そしてそれを頼めるのは松岡だけなんだ」
「それは任せてくれ」茂十郎は頼もしくうなずいた、「おれにできることはなんでもしよう、彼らがおれの云うことを聞いてくれるなら、おれは喜んで押さえになるよ」
「しかし松岡にはかなわないな」信兵衛はそう云った、「反対意見を云おうものならいつも必ず押し切られる、そういうところも変わらない」
「そうか」茂十郎は目を伏せて云った、「そんなつもりはなかったんだ、ただ分かってほしくて、清水にも悪かった、不愉快にさせてしまったか」
先ほどからつまらなさそうにしている小太郎に茂十郎は気を遣っていた。話している途中にも酒がなくなったと思えば徳利を差し出したりしていた。
「気にするな」小太郎はそう云った、「話したいなら話せばいいさ、おれはどっちでもいい、どうせどんな主張をしたところでなるようにしかならないんだからな」
「そんなことはないぞ」茂十郎は手を広げるような身ぶりを加えて云った、「現にずいぶん変わってきているじゃないか、確かにいまは一橋殿を持ち上げようとしているようで、我々にはつらいところだが、それもみなこの国をよくしたくてやっている結果じゃないか」
「どうでもいい」小太郎はうっとうしそうに手を振った、「我が殿もどうにかしようとして真剣にやっただろう、しかし結局いまは追いやられる形じゃねえか、運命なんていうのは個人で決められるものじゃない、熱くなるだけ損だ」
「待て」茂十郎は小太郎を遮った、「どうしたというんだ、なにをそんなに悲観的なる必要がある、川だって一滴の水から始まっているんじゃないか」
「うんざりだ」小太郎は声を荒げた、「説教がしたいだけならおれは帰るぞ」
「まあ待て」信兵衛が穏やかにそう云った、「松岡の云いたいことも分かるが、とにかくこの話しはもうやめよう、しかし清水も帰ると云うのは大人げないぞ、松岡は腹を割って話しているんじゃないか、そんなことを云うもんじゃない」
「いくら腹を割ったところでなにが分り合えると云うんだ、松岡がそんなに熱くなって、おれに自分の考えを押しつけるというなら帰ると云っただけだ」
「清水は分かろうとしないだけだろう」
信兵衛はつぶやくようにそう云った。
「分かろうとしたら分かると云うのか」小太郎はむきになって云った、「じゃあ菊地はおれのことが分かるのか、おれのなにが分かるんだ」
「清水がなにも話そうとしなければなにも分からない」信兵衛も言い返すようにそう云った、「そうだろう、清水は友達である俺たちにも、なにも話そうとしないじゃないか」
ふんと云って、小太郎は横を向いた。茂十郎は信兵衛の顔を見た。信兵衛は場の雰囲気を壊すようなことを云う小太郎にあきれたようで、大きなため息をついた。
「気まずくなったようだな」小太郎は皮肉に笑って云った、「やっぱりおれは帰ったほうが良さそうだな」
「いや、おれが悪かったんだ」茂十郎はそう云った、「確かに清水に意見を押しつけたようだ、久しぶりだったものだからどうかしていたんだ」
「清水も飲み過ぎだ」信兵衛がそう云った、「少しひかえたらどうだ」
「このくらいでおれは酔いはしねえぜ」
「強くなったな」茂十郎が取り繕うように云った、「江戸で鍛えたのか、江戸の言葉も板についてるじゃないか」
「まあな」小太郎は得意そうに鼻の穴を膨らませた。
「前から清水は垢抜けたところがあった」茂十郎は云った、「江戸では相当にならしたんだろうな」
茂十郎は笑顔を作って小太郎に酌をした。
「松岡はどうなんだ」大人げないと思ったのか、小太郎も座り直して云った、「江戸で少しは遊びを覚えたか、おまえは女に好かれるたちだ、今度はそういう話を聞かせてもらおうじゃないか」
「残念ながらその手の話しはなにもない」
「松岡はそっちに関しては生真面目だからな」
信兵衛はあえて明るくそう云った。
「そうなんだ」茂十郎もそれに合わせて明るく云った、「何度か誘われたこともあったが、おれはどうもそういうのは苦手なんだ、性に合わないと云うのか、そんなことに遣う金はなかったし、それに少しでも早くここに帰るために必死だったんだ」
「江戸で一度も遊ばなかったのか」小太郎はあきれたようにそう云った、「そりゃあ筋金入りだ、おれにゃあ真似できねえな」
「だが松岡が遊ばなかったのは別な理由があるだろう」信兵衛はからかうような目つきで云った、「早く江戸から帰りたかったというのも案外そういう理由ではないのか」
小太郎は初めて身を乗り出し、二人の顔を交互に見た。
「まさかそれだけではないが」茂十郎は顔を赤くした、「一刻も早く帰りたかったのは事実だ、でもそれで学問をおろそかにしたことはない、自分でも学問を深めることはでき、ここに帰ってきても役に立つことができると信じたから帰ってきたんだ」
「ではもう嫁にもらう覚悟ができたということか」
「まだ帰ってきただけだ、ここからが肝心なんだ」
「ちょっと待て」小太郎がそう云った、「なんの話しだ、松岡に女がいるのか」
「知らなかったのか」
信兵衛がそう聞くと小太郎はあきれ顔でうなずいた。
「初めて聞く、松岡はもっと堅物だと思っていたが、案外やるじゃないか」小太郎は感心したように云った、「女を残して江戸へ行ったのか、ほおう、これは面白い、どこの女なんだ」
目を輝かせる小太郎とは反対に、茂十郎は気まずそうに目を伏せた。いろいろと云われるのがいやだったので、小太郎には隠していたのである。
「それは云えないらしい」信兵衛がそう云った、「何度聞いても教えてくれないんだ、江戸に行っている間の様子を教えようと云っても駄目だったんだ」
「云えないような女か」小太郎は納得したように云った、「危ないぞ松岡、おまえのような堅い男はいい鴨にされるんだ、女になんと云われたか知らないが、あまり信用しないほうがいい、銭を儲けるのが目的なんだ、だがおれはその落とし方も知っている、菊地では頼りないがおれに任せるといい、なんでも聞いてくれ」
「そんな女と一緒にしないでくれ」
「武家なのか」
信兵衛がそう聞いた。
茂十郎はうなずいた、「家柄が違う、それ以上のことは云えないんだ、おれは嫡男だから嫁に来てもらうしかないが、身分の違いは大きい、公になるとその人に迷惑がかかる、すまないが誰にも相手のことは云えない」
「確かにここは身分には厳しい」信兵衛は云った、「だがそれを乗り越えた人がいることも知っている、松岡ならば向こうの親も納得してくれるのではないのか、現に我々は身分を越えたつき合いをしているじゃないか」
茂十郎は首を振った、「確かにここではおれも二人に対して対等な口をきいているが、外に出ればそれはできない、それを一番身に染みて知っているのはおれだ、おれはその人と釣り合うような男になってから迎えたいんだ、これはおれの夢の一つの形なんだ」
「まだ松岡はそんなことを云っているのか」
小太郎があきれたようにそう云った。
「まだ」茂十郎の目が光った。
しかしすぐに冷静に云った、「おれが士分に取り立てられ出世するということは、同じ足軽や身分の低いものに、将来の希望を持たせることになるんだ、もちろん自分の力を試したいという気持ちもある、しかしそれだけじゃないんだ、彼らのためにもおれは出世をしたい、彼らにやればできるということを身を持って教えたいんだ、彼らはおれに期待をしている、それは将来の自分自身への期待なんだ、おれはそれに応えたい」
茂十郎は悲しそうにこう付け加えた。「たが清水や菊地にはこの気持ちは分からないだろう」
「分かるぞ」信兵衛は真っ直ぐ茂十郎を見つめて云った、「そのままではなくても、松岡がずっとその気持ちを持っていたことはおれたちが一番良く知っている、分からないなんてことがあるものか、そうだろう清水」
小太郎は鼻で笑ってお浸しを口に放りこんだ。
「いくら出世をしても鯖瀬六万石は変わらねえ」小太郎はそう云った、「高が知れてるじゃねえか、いいから、まあ聞けよ、親父もそうだがどつもこつもてめえの身の保身にかけては命がけだ、簡単に出世なんかできるものじゃねえよ、てめえの一族をいかに要職に就けてこの国を思い通りにするか、そればかりだ、もったいねえと思わねえか、松岡は江戸に行ったまま脱藩して別の道を考えたほうが良かったんだ、そうだ、その女をつれて勤王の志士にでもなったほうが出世したんじゃねえのか、こんな小さい藩で出世して、一体なんになるっていうんだ」
信兵衛はまたかというような渋い顔をしたが、茂十郎はむしろうれしそうにうなずいた。
「清水がおれの身を案じてそう云ってくれるのはありがたい」茂十郎はそう云った、「清水にはばかばかしく見えるだろうが、おれにはこの国での出世が大切なんだ、その気持ちだけはもらっておくよ」
「なにを云ってやがる」小太郎は呆れ顔で云った、「誤解するな、おれはここで出世をしようなんて馬鹿げてると云っただけだ」
縁談
《一》
その日、松岡茂十郎は菊地信兵衛、清水小太郎の二人に藩校の教授の口を探してくれるよう頼んだ。
茂十郎は二年前までは、いきなり出世の糸口になるような役に付くことを望んでいた。小太郎や信兵衛の力を借りることも決してしようとしなかった。自分自身の能力だけで勝負したかったのだ。だが、それは誤りだと考えるようになった。たとえば、小太郎の口利きで出世の糸口を掴んだとしても、それは自分を小太郎が認めたからであるし、それから先は自分の能力次第だと思うようになった。それにいきなり足軽から身分を飛び越えて重要な役に付くことは無理だと考えた。まずは多くの人に自分のことを知ってもらい、認められなくてはならない。そのために藩校の教授はうってつけだと思った。高い学識が認められれば、直接藩主からお声がかかる可能性もある。
足軽ごときが藩校で教授をするなどいうことは常識的には考えられないが、いまはどこの藩も人材育成には熱心であるし、鯖瀬での茂十郎の評価は高い。そしてその自信を茂十郎は持っていた。
茂十郎は自分のために開かれた明るい未来があることを感じ、武者震いにも似た心地よい緊張感を味わっていた。彼には自分が出世していく過程が手に取るようにはっきり見えていた。
気がかりは登美のことであった。天野登美とは茂十郎が江戸に発つ約一年前の晩秋に親しくなった。顔を知るようになったのはその半年ほど前からで、二人は毎日のように同じ道ですれ違っていた。それは決まって陣内にある心徳館からの帰り道で、北陸道を北に一町行き、右へ入った武家屋敷を抜け、足軽長屋へ向かう裏通りだった。後で知ったのだが、それは登美のほうが茂十郎に魅かれ、習い事の帰り道に待ち伏せてわざとすれ違うようにしていたのだ。この時代の女性とすれば、はしたないと云ってもいいほど非常識なやり方だが、登美はそういうことをあまり気にしない強気な性分だった。
そして茂十郎は登美から付け文をされた。茂十郎も毎日のようにすれ違う、その良家の美しい娘が気にかからないわけではなかった。
「だがおれとは身分が違いすぎる」
茂十郎は初めからそう思っていたので、恋心のようなものは少しもなかった。それが突然その令嬢から付け文が来たのである。
いまでも恥ずかしいとは思っているが、茂十郎はその時、これは出世のいい足がかりになるのではと考えた。すぐにその考えは打ち消し、付け文も焼き捨てた。いたずらだと思ったのである。文には年寄格で勘定奉行と寺社奉行を兼任している天野三之丞の三女の登美だとあった。確かにそういう人はいるし、文字も明らかに女性の手のものだった。しかし、そういう家の娘が付け文をするというのはおかしいし、なにより自分などに思いを寄せると考えることはできなかった。冷静に考えればいたずらだと気づくのに、出世の足がかりに、などと浅ましい考えを抱いたことを恥じた。
それから十日ばかり、その娘とはすれ違わなかった。「まさか」と思いはじめていたときに、久しぶりにその娘といつもの道で出会った。いたずらとは思いながら、茂十郎はその娘を変に意識してしまい、そちらのほうを見ることができなかった。すると娘の方が彼の前に立ち塞がり、顔を真赤にして、文の返事をくれないのはなぜかと消えそうな声で云った。
その時のことは、いまでもはっきりと覚えている。登美は耳まで赤くして、顔は小刻みに震えていた。懸命に勇気をふりしぼっている様子が手に取るように分かった。いまにも泣き出してしまうのではないかというほど、小さな丸い目を見開いて不安そうに茂十郎を見上げていた。
かわいい人だ。茂十郎は素直にそう思った。
女をかわいいと思ったのは初めてだし、愛しいとさえ思った。茂十郎も赤くなりながら、いたずらと思ったのだと弁解した。すると登美はうれしそうに笑った。笑うと目がつむられたように細くなり、頬がぷくりとなり愛らしい魅力的な顔になる。茂十郎にはもう打算的な考えはなかった、登美の一途で素直なまっすぐな気持ちに応えたいと思った。
それから二人は人目を忍んで会うようになった。この狭い領地で一度も噂に立たない程の慎重さで二人は会っていた。料理屋で会うようなことはもちろんできず、ほとんどが伊野川沿いにある澤屋の裏の空き地であった。それもほんの一時だけであるし、空き地への出入りにも気を配った。なによりも登美に噂が立たないこと、それを茂十郎は一番に気にしていた。
登美はそれを少なからずもどかしく思っていた。
「みんなに大きな声で二人のことを話してしまいたい」
と、むしろ若さからくる恋の情熱をあるがままに受け入れ、隠すことが罪であるかのようなことも云った。
茂十郎とって、家柄も縹緻も申し分のない登美が自分に惚れ込んでいるという事実は大いなる自信につながった。
「いま二人の関係が世間に知れても、引き裂かれるだけです」
彼はそう云い、登美と釣り合う男になると宣言した。
「田沼意次の祖父は足軽でした、私にもできないことはないはずだ」
茂十郎がそう云うのを登美は期待を込めた顔で聞き、その言葉を心から信じ、また励ましもした。
二年前、彼は一緒に江戸に行くと云う登美を残して旅立った。今年登美はもう十七になった。嫁に出ていてもおかしくない。第一に考えねばならないことは出世の糸口を作ること、このことは茂十郎にとってなによりも大切な問題であったし、常に頭から離れはしなかった。だが、鯖瀬で出世をしようという考えになったのは登美がいたからだし、あきらめかけたときはいつも登美が勇気を与えてくれた。いまの自分があるのは登美のおかげだけだと茂十郎は思っている。彼にとっての出世の象徴は登美との縁談であった。
茂十郎の両親はすでに世を去っている。ただ一人の姉は足軽組頭の家に嫁に行った。茂十郎は小太郎と信兵衛に会った翌日、その組頭の家に帰郷の挨拶をしに行った。二年間の留守の間、鯖瀬でなにがあったかを聞きながら、茂十郎はそれとなく、天野の家のことも聞いた。
「清水の小太郎が気に入ってると云っていたもので、もしかすると上手くいって結婚したのかと思いまして」
彼はなぜ天野のことを聞くのかと云う姉にそう云い訳をした。
茂十郎が江戸にいる間に生まれた二人目の乳飲み子をあやしながら、姉は話して聞かせた。天野は三姉妹で、上の姉は婿をもらってい、二番目の姉がつい二月ほど前に嫁に行ったという。
「なんでも御三女は体が弱いらしいよ」姉はそう云った、「小太郎様は御三男だし、婿に行くというわけにはいかないから、難しいだろうね」
その姉は声を落としてこう付け加えた、「それにいまはもう、あっちこっちにいい女がいるみたいだからね」
「それは残念だ」
そう云いながら、茂十郎は胸をなで下ろした。次女が嫁に行ったばかりだというし、しばらくは安心しても良さそうだと茂十郎は思った。登美は風邪もめったに引かないほど体は丈夫である。おそらく病気のふりで縁談を断ってきたのである。まだ自分のことを信じて待ってくれている、それだけで茂十郎は安心した。
その日の暮れ方、笹原小弥太が茂十郎の住居を訪れた。足軽の若者たちで茂十郎の帰郷を祝うのだという。いつだと聞くと、今日すぐにでもということであった。
茂十郎は迷った。彼らは自分を慕ってくれる良い青年たちである。しかしいま、藩内での彼らの評判はあまり良くない。鯖瀬に帰り帰国の届けをしたのが二日前で、三日目の今日に彼らと集まるのは密会と思われはしないかという危惧があった。勤王の先導者と見られては今後出世の道は危ういものになる。小太郎や信兵衛に昨日藩校の教授のことを頼んだばかりであるし、いま下手な噂を立てるのは良くないと思った。
茂十郎は、江戸から帰ったばかりで疲れているし、荷物の整理などやることがある、少し後に伸ばしてくれと云った。
小弥太は残念そうな顔をしたが、聞き分けよくうなずき、「みなも楽しみにしてます、都合がついたら教えてください」と云った。
「なにもないが、茶でも飲んでいけ」
茂十郎は小弥太の落胆した表情に胸が痛み、そう云って彼を家に上げた。
一刻ほど話をしたが、小弥太は一言も勤王のことや小太郎の話題は出さなかった。話したいこともあるはずなのだが、自分のことは一切触れず、茂十郎の江戸の話を少しでも聞き出そうとした。茂十郎の言葉、その一つも逃すまい、すべて刻み込もうというように、身を乗り出して一々感心しながら聞いていた。それは子供のように無邪気に見えた。向こう意気の強く、信兵衛の話では尊攘論を唱えるものの代表格である笹原小弥太がこの様子ならば、心配するほどではないのかもしれない、そう茂十郎は思った。
小弥太は仲間の誰よりも、真っ先に茂十郎の話を聞くことができたことがうれしいらしく、なにか云うたびに目を輝かせ、それで、それで、と次を聞きたがった。
「ここですべて話してしまってはほかのものに話すことがなくなる」
茂十郎はそう云って名残惜しそうにする小弥太を帰した。
それからしばらくすると、次々と足軽の若者たちが茂十郎の住居に顔を出した。小弥太が自慢して回ったらしいのである。そうこうするうちに六人、七人と九尺二間の狭い長屋に集まり初め、いつのまにか小弥太までその中に入り、どこからともなく酒や肴が運ばれ、結局茂十郎の帰郷祝いという形になってしまった。
茂十郎には自然と集まってくる彼らを追い返すことはできなかった。自分を慕い、頼ってくるものには、茂十郎は労を惜しまず、過剰といえるほど親切にしていた。藩の上層部が認めなくても彼らが認めてくれている、それは茂十郎にとって云い表わせないほどの勇気を与えていたのだ。それも自分の道なのだと、茂十郎はこころよく彼らを歓迎した。
いつしか茂十郎を慕うものはもちろん、足軽の若者ほとんどすべてが集まり、十人を超える人間が六畳の狭い部屋にあふれ、中には立ったままのものもいたし、土間に隅に座り首を伸ばして耳を傾けているものまでいた。みな一様に茂十郎の帰国を喜び、期待を口にし、真剣にその言葉を聞き入った。
彼らが茂十郎の帰郷を祝う気持ちは純粋なものだった。それが茂十郎にはうれしかった。住み慣れた我が家に帰ってきたという、包まれたような安堵を覚えた。傾きそうな狭い長屋も、家具一つないみすぼらしい部屋も、擦り切れた着物も、貧しい中でも必死に生きていこうとする彼らの笑顔の前では、美しいとさえ思えた。自分はここで育ち、この中から出ていくのだ、それを忘れてはいけない、茂十郎は感動にも似た心持ちでそう思った。彼らが原因で出世の道が遠のいたとしても、それは足軽として生まれた宿命の一つだと思った。初めに小弥太に伸ばしてくれと云ったのは間違いであった。彼らを背負い、彼らとともに出世していかなくてはならない、茂十郎はそう決意した。
「彼らのためにも、必ず出世してみせる」茂十郎は改めてその思いをを固めた。
《二》
それから十日ばかり、茂十郎は小太郎や信兵衛、もしくは役所から、心徳館での教授についてなにかしらの連絡がありはしないかと、心待ちにしていた。そんなにすぐに決まるはずはなく、順調にいっても一月二月待つことは頭にあるのだが、気が急くせいか、今日にでも知らせがあるのでは、という気持ちで毎日落ち着かなく過ごしていた。
まる十日待った十一日目に、とうとう待ち切れなくなった。話しはしてくれたのか、その手応えはどうだったのか、それだけでも聞きに行こうと、日が暮れるのを待って家を出た。
鯖瀬の城下町は南北に長い楕円に形成されていて、中心よりやや西よりに北陸道が南北にまっすぐ走り、その西側中央に陣屋がある。足軽長屋は堀のように城下町を囲っているが、北から東にかけて多く並んでいる。茂十郎の住居はその東北に位置している。武家町は北陸道の東側が中心で、大きな通りが北陸道に並行するのが二本、それと垂直に交わる道が四本ある。菊地の屋敷は一番北の横道を入り、縦に伸びる道を二本横切った区画にあり、茂十郎の住居とは近い。しかし茂十郎は、信兵衛の家を横切り、陣屋に最も近い区画にある清水の屋敷を先に訪ねた。
勝手口に回され、茂十郎は小太郎と会い、その後、信兵衛の屋敷を訪れた。茂十郎はこころよく客間に案内され、ほどなく信兵衛が現れた。
簡単な挨拶のあと、信兵衛は「明日にでも行こうと思っていた」と云ってゆったりと座った。
「と云うと」茂十郎は期待に満ちた顔で信兵衛を見つめた。
信兵衛はうなずいた。
「上役は清水に任せるとして、こっちは二三の教授にあたってみた」信兵衛はそう云った、「もちろん、藩校で発言力のある人ばかりだ、中でも洲済先生は乗り気だった」
「本当か」茂十郎は身を乗り出した、「それは心強い」
「洲済先生を落とせれば問題はないと思うんだ」信兵衛は胸を張って云った、「少し誇張はしたが十分に宣伝した、先生は洋学の必要性を感じていたらしい、近いうちに面談をしたいと云っていたぞ、松岡の腕の見せ所だ」
茂十郎は手を打った。
「ありがたい」と茂十郎は頭を下げた、「実は先に清水に聞きに行ったんだ、しかし清水は家のことのほうが大変らしい、父上の信尭殿と口をきいていないようだし、心徳館にも行っていないということで、当てにするなと門前払いを食ったところだったんだ」
「では、早めに動いて良かったということか」信兵衛はそう云った、「話をしたのが、そう一昨日だった、おそらく近いうちにお呼びがかかるだろう、心配はないと思うがそこで失敗したら台無しだ、なにをどう教えるのか、整理をつけておいたほうがいいと思うぞ」
「任せてくれ」茂十郎は笑った、「気が早いと思うだろうが、もう何度も頭の中で繰り返していたから、すっかりなにを云うか暗記してしまったよ」
信兵衛は感慨深そうに云った、「いよいよだな」
「ああ、いよいよだ」
「松岡のことはなにも足軽の若者たちだけじゃない、おれも期待している、そうだ」信兵衛は云った、「もう一人、例の女性もだ、もう会ったのか」
「いやまだだ」茂十郎はそう云った、「早く会いたいと思うのだが、手ぶらでは会えない、藩校の教授になった、そういう土産を持って会いたいんだ」
「するとなんだ、まだ帰国も知らせていないのか」
茂十郎はうなずいた。
「それはかわいそうだ」信兵衛は責めるようにそう云った、「松岡からではなく、人づてに帰郷の知らせを聞いてみろ、おれがその立場なら恨めしく思うぞ、早く知らせてあげたほうがいい、なにしろ二年も離れていたんだ」
そう云って、信兵衛は思い出したように、その人はまだ結婚していないのかと聞いた。それは大丈夫だと茂十郎は答えた。
「歳を聞いてもいいか」
信兵衛の問いに茂十郎は迷った。身分が高いということは話してあるし、歳まで分かると誰だか気づかれるのではと思ったのだ。
「云えないのならいいんだ」信兵衛は片手を上げてそう云った、「詮索する気はないのだが、年頃だという気がしたのでつい聞いてしまったんだ」
「十八になった」
少し間を置いてから、茂十郎はそう云った。
「ありがとう」信兵衛はうれしそうにうなずいた、「誰だか探るようなことはしないし、もし分かっても決して誰にも云いはしない、おれはどんなことがあっても、友達を裏切ることはしないよ」
茂十郎は、いっそう話してしまおうか、そう思った。信兵衛なら信用がおけるし、親身に相談に乗ってくれるだろうと思った。
そうだ、話してしまおう、菊地なら力になってくれるかもしれない。
茂十郎は覚悟を決めた。
「気丈な娘なんだな」
信兵衛がそう云った。
「ああ」
「江戸にもついていくと云っていたそうだからな」
「そうなんだ」
茂十郎は、登美のことを話す出鼻をくじかれた。だがそのことにほっとしている自分に茂十郎は気がついた。なにがきっかけになるかは分からない、やはり話すのはやめよう、茂十郎はそう思った。
「それなりの家柄で十八まで縁談がないということはなかろう」信兵衛はそう云った、「これまで断ってきたんだろうし、娘一人でそこまで思いつめるというのは簡単なことではない、それだけ松岡を信頼し、惚れているということだ、一刻も早く安心させてやったほうがいい、まだ若い娘が一人で松岡への操を立てているんだ、並大抵のことではないぞ、会えなくても帰ってきたことは知らせるのが筋だろう」
茂十郎はそう云われてはっとしたような顔をした。
「確かにそうだ」茂十郎は頭を垂れた、「いままでどれだけ苦労しただろう、そうだ、おれは自分のことしか考えていなかったようだ」そして告白するように云った、「藩校の教授が決まるまで会わないというのも勝手だし、心の底では、もし二人のことが世間に知れて、出世の道が危うくなっては困るという考えがどこかにあった、二年もの間、おれを信じて待ち続けた人に対する礼ではなかった」
茂十郎は「なさけない」と云って自分の膝を叩いた。
「そう深刻になることはない」信兵衛は慰めるように云った、「松岡がそう考えたことは悪いことではない、当然のことだ、確かに下手な噂が流れるのはいまは避けるべきだ」
「だが彼女の気持ちを考えていなかった」
「なら帰ってきたことを知らせてやればいい」信兵衛はそう云った、「だが、そうなれば会いたいと云ってくるはずだ、そこは松岡も考えなくてはいけないぞ、おれが思うに女は確かな形を欲しがる、会えないと云われれば松岡の気持ちが変わったのかと疑う、確かなものを示してあげるのがいい」
「確かなものとはなんだ」茂十郎は首をかしげた、「彼女を抱けということなのか」
「それができればいいだろうが、そう早まることはない」信兵衛は優しく笑って諭すように云った、「いつまで待てばいいのかということだよ、教授が決まるまでなのか、それが軌道に乗るまでなのか、もっと先なのか、それをはっきりさせれば安心するものだ」
「そういうものなのか」茂十郎は感心したようにそう云った、「はっきり考えていなかった、出世したら、そういうことしか頭になかったんだ、いついつまでと云われたほうが、確かに待つ甲斐がある、いや、勉強になった、やはり結婚すると違うんだな、菊地から女ことを教えてもらうなどとは考えてもみなかった」
信兵衛は声を出して笑った、「おれを奥手と思って見くびったな、こう見えても松岡より女を知ってるつもりだ」
「その通りだ」茂十郎はそう云って頭を掻いた、「まいったよ、おれはそっちはてんで駄目なんだ」
「そうでなくては困る」信兵衛は云った、「学問は一級、武芸は師範並み、その上女にも凄腕ではこちらの立つ瀬がない」
「今日は来て良かった」茂十郎はそう云った、「いい話が二つも聞けた、またなにかあったら頼むよ」
「ありがたいことだ」信兵衛はそう云った、「これでやっと松岡に勝てるものが一つできた、これまでなにをやっても教わるほうだったが、これからは教えられるものができたということだ、おれもうれしいよ」
「なんでも相談に来てくれ」信兵衛はそう云って茂十郎の肩をたたいた。
茂十郎は長屋に帰るとすぐに、登美に手紙を書いた。無事帰国したこと、藩校の教授が上手くいきそうだということ、それが認められるようになったら、必ず迎えに行く、そういう内容を簡素にまとめた。それはいつものように呉服屋からの手紙のように装った。
それから一月あまり、季節は夏になり、梅雨の時期が近づいていた。その間、結局教官の話は茂十郎のもとにはこなかった。
――やはり鯖瀬で足軽が藩校で辯を取るのは簡単ではないのだ。茂十郎の心は徐々に絶望にも似た諦めが沸いてくるようになった。もちろん茂十郎自身も自分を評価してくれていた教授に何度も頼みに行ったし、強く説きもした。
何人かの教授は推薦してくれると約束してくれたのだが、いまだにいい返事はなかった。
そんなおり、早坂十右衛門からの使いが来た。
早坂十右衛門は老中で、茂十郎の江戸行きに特に力になってくれた人である。直接帰国の挨拶をしてないことのお叱りだろうかと思ったが、知らせはしたし、こちらの身分を考えれば、おいそれと屋敷に出向くわけにいかないことも分かっているはずである。陣内でないばかりか、屋敷でそれも食事に招くということだったので、ますます分からなかった。
しかし、食事ならば悪いことではないだろうと、できるだけの身なりを調え、屋敷に出向いた。
茂十郎が通された部屋にはすでに膳が並んでおり、酒も運ばれてきた。二つの行灯のほかにろうそくにも火がともり、部屋の中はしっとりとした明るさに包まれていた。立派な襖絵がはっきり見て取れるほどの慣れない明るさのなか、茂十郎はいやが応にも緊張した。
しばらく身動きもせずに待っていると、早坂十右衛門は一人で部屋に入ってきた。十右衛門は四十五六で、白髪交じりの豊かな髪をしており、骨太のがっちりとした、一種の風格を持った人である。
十右衛門は気さくに笑って、「よく帰った」と云い、挨拶に来ないことを責めた。
茂十郎が恐縮して頭を下げるのを十右衛門は押し止め、「まず祝おう」と云って盃を持った。
十右衛門は身分を笠に着ることはなく、むしろ親しげに江戸のことなどを聞いた。茂十郎はすっかり固くなってはいたが、試されている恐れもあると、一つ一つ言葉を選んで受け答えをした。
「心徳館からそなたを教授にしたいという話があった、特に一部では強く推す声がある」
一通りのことを聞き終えると、十右衛門はそう云った。
茂十郎はそう云われて思い出した。早坂十右衛門は藩校の監督者でもあったのだ。なぜそれに早く気がつかなかったのだろうか、自分の身分を気にするあまり、教授の上の人に話をするという考えにはいたらなかった。早坂様ならきっと江戸行き同様に力になってくれたはずだ。そう茂十郎は自分の浅はかさをのろった。
十右衛門は、こういう時代だからこそ、西洋のことも知らなくては生き抜けないと云った。
「財政再建は急務だ」十右衛門はそうも云った、「それだけではない、万が一、幕府の方向が変わる、もしくはそれ以上のことがあったときに、対処できる人材を育てなくてはならない、もちろん、そのために殿は長崎へ人をやり、学ばせてはいる、しかしそれはごく一部の側近だけだ、これからはもっと多くのものに広い視野を持たせなくてはならない」
茂十郎は唾を飲み込み、唇を濡らした。緊張で喉が渇くが、それでも杯に手が伸びないほど体は固まっていた。
「聞けばそなたは人望も申し分ないとのこと」十右衛門はそう云って茂十郎の顔を見た、「期待しておるぞ、正式な手続きが済み、はっきりと沙汰があるまでにはまだ時間がかかるが、なにを教えるのか具体的に決めて、その準備を始めてくれ」
「もう」と茂十郎は云いかけたが、その声は喉に詰まったようなしゃがれたものになってしまった。
「まあ飲め」十右衛門はそう云って酒を注いだ。
茂十郎は一息に酒を煽って云った、「もう決めてあります」
茂十郎はなにを教えるのか、そしてそれがどれだけ役に立つものであるかを説いた。云うべきことはすっかり頭に入っていたはずであったが、一言もそれは思い出せず、つまずいたり、云い直したりしながら、それでも茂十郎は云うべきことをすべて云った。
十右衛門は満足げにうなずき、藩校には改めて知らせておく、必要なものがあったら用意するようにと、三両の金を渡した。茂十郎の禄は五両一人扶持である。三両といえば大金であった。
それだけではなかった。十右衛門は教授に上がるときには士分に取り立てると云った。
「足軽のままというわけにはいくまい、二十石ばかりの馬廻だが、まずはそのぐらいで勘弁してくれ」
十右衛門は、努力次第では百石二百石も夢ではないと云った。しかしいまは二十石が限界だと云う、不本意と思うがとも云っていたが、茂十郎には夢のような話しであった。二十石でも士分であるし、いままでの二十倍の禄である、屋敷ももらえれば下男も付くのだ。余りにとんとん拍子な話しに、茂十郎は座っていながらも、ぐらぐらと体が揺れるように感じ、まるで雲の上に座っているかのように思えた。
夢心地のまま、味も分からずに食事を済ませ、なにを話したのか、後になってもうまく思い出せなかった。
茂十郎は早坂の屋敷を後にするとすぐに、信兵衛にそのことを知らせ、そこでも酒を馳走されたのち、家に帰ってさっそくそのことを登美に知らせるために手紙を書いた。以前の手紙にははっきりといついつとは云わなかったが、その手紙には、士分になれたら話しだけでも通すつもりだと書き添えておいた。
その夜は眠れなかった。目を覚ましては洋学書を開いて、藩校で教えている自分の姿を想像した。出世することは想像していた。それなのにここまで自分が浮かれていることは驚きであった。
次の日になってやっと、茂十郎は実感を得た。その日から茂十郎は、いつ声がかかってもいいように、なにをどう教えていくのかまとめる作業を始めた。茂十郎は幸せであった。
そしてその時が、その短い人生の中で、最も幸せな時期であった。
《三》
清水小太郎はふてくされていた。縁談はもう決まったようなものであった。
父である信尭は有無を云わさず縁談を持ってき、そしてそれを決まったものとして小太郎に告げた。そこに小太郎が口をはさむ余地はなかった。「こういうことになった、そのつもりでいろ」、それだけであった。信尭は厳格ではあるが、子供の子育てやしつけにはあまり口を出さず、小太郎の放蕩にさえもあまりうるさいことは云わなかった。三男である小太郎には(時代のせいもあるが)それほど期待はしていなかったということもあり、勝手にしろというような態度だった。
それなら好きにさせてもらおうと小太郎は思っていた。兄たちのように、早く役のある職につきたいとは思っていなかった。藩内の政権争い、地位を守るもしくは上げるための必死の裏工作、その中心に父がいること、そういうことが日に日に分かってきた。特に江戸へ行ったときに、それがよく分かった。江戸家老が反信尭派の筆頭であり、江戸は信尭に対する不審を根強く持っているようであった。いずれ自分もその渦中に入らなければならないということは、若い小太郎が将来を暗いものに感じるには十分であった。
信尭は、小太郎の兄である二人の息子をすでに自分の腹心とも云える地位に置き、小太郎のことは目に入っていなかった。小太郎に対しては、いずれいい縁談があれば家を出す、という程度しか考えていなかったが、そうも云ってられなくなったのだ。
鯖瀬藩主諒勝は安政の大獄を主導した後、いまは老中を辞しているが、もしこのまま一橋慶喜が政治の表舞台に立つとなると、これまでの政策は一新されることになり、当然諒勝にもなんらかの沙汰が下ることになる。そうなると藩内の政権も交代する可能性があるのだ。政権が変わると清水の家の人間が誰も中枢からいなくなる恐れがある。それというのも交代制の城代家老を交代せずに三期も続けていたという経過があり、それに不満の声があるためである。
そうならないための工作は講じている。しかし追いやられないとも限らない。万が一を考え、いま固めた基盤以外に清水家が中枢に入るための手段を考えた。信尭は、亡くなったため家名が跡絶えていた叔父の家を再興させ、政治の中心に送り込むという方法を思いついた。その家は老職格でいまは空席になっている。それが再興されれば次には必ずなんらかの役職に付くはずである。そしてその白羽の矢が小太郎に立った。
小太郎と家柄の申し分ない娘を一緒にさせ、西川というその家を再興させるつもりでいた。相手の娘ももう決めていた。年寄格の天野三之丞の三女で登美という娘が家柄も年頃も申し分なかった。老職格の西川を再興させるのであるから、天野が承諾することも分かっている。後は話をつめるだけであった。
しかし、小太郎にはそのなにもかもが不満であった。したくもない縁談をするもそうだが、なにより自分が父親の政治の手段に使われるのが気に食わなかった。小太郎の放蕩の半分はそれを父親にあきらめさせるためのものであった。だが信尭は焦っていた。一刻も早くこの縁談はまとめなくてはならない。すでに藩主には願いを届け、それは承諾されていた。小太郎の行状がどうであれ、そんなことにかまっている暇はなかった。信尭は小太郎を軟禁し、家の外に一歩も出さず、自身は天野との話し合いを持った。
天野三之丞は渋っていた。その話自体には乗り気であったが、娘が病気がちで、嫁に入ってもものの役に立たないのでは申し訳がないと云うのである。
信尭は、それを云うなら小太郎も恥ずかしい息子である、気にすることはないと云った。
「しかし小太郎めも近頃は心を入れ替えて遊びに出ることもない」信尭はそう云った、「ご息女も環境が変われば気も変わるやもしれない、養生が必要なら家事などは当分しなくてもよろしい、とりあえず内祝言だけでも挙げたいのたが、どうでござろう」
信尭は、あらゆる条件を飲むと云い、三之丞の出世も約束し、もちろん、断ったときの脅しを加えながら説き伏せた。三之丞は断ることができなかった。もともと悪い話ではないし、病気がちな娘でもかまわないという。断る理由はない。二三日のうちに返事をすると云って家に帰った。
その日のうちに妻女にいい話しが来ていると云ってそのことを話した。妻女は初め、体の弱い登美が嫁に行ってもかわいそうなだけだと乗り気ではなかったが、それについて清水のほうは寛容で、家事などは求めないし、寝たきりでもいいとさえ云っていると聞き、それならばと同意した。
「このままでは縁談も来ないうちに行き遅れてしまうでしょう」妻女はそう云った、「あんな体の弱い子でもいいとおっしゃってくださるなら、むしろ感謝しなくてはいけませんね」
小太郎が遊び歩いていたことが引っかかりにはなったが、それも最近はやめているというので、こちらからも是非にということになった。
すぐに清水に返事をし、内祝言の日取りを決めた。そうして三之丞は、娘にこういうふうに話が決まった、と告げた。
それはちょうど、登美が茂十郎からの二通目の手紙を受け取った翌日であった。操を立て、待ち続けた愛する男の、まもなく迎えに行けるという知らせは、登美をどれだけ喜ばせたことか。
あの日、茂十郎が江戸を立つ日に二人ははじめて唇を合わせた。登美の唇はまだその時の感覚を鮮明に覚えている。それまで人目を忍ぶために、ゆっくりと語り合うこともできず、ましてや愛を確かめ合う行為は、どんな些細なこともできなかった。それをもどかしく感じていた登美にとって、その時の激しい口づけは、決定的とも云えるものであった。わたしはもうこの人の妻なのだ、そういう感覚が体の深いところから湧き出るようにあふれてき、時がたつにつれ、揺るぎない自信へと変わっていった。
茂十郎を待つ二年間、彼に対する一抹の不安もなく、待つという不安な行為でさえ、喜びであった。あの日から、登美は茂十郎の妻だという意識になり、それが実現する日にむかい、身と心を茂十郎の妻というものに作り上げていったのである。
ついにその日がはっきり目前に現れ、手の届くところまできたのだ。その矢先であった。
三之丞は妻とともに登美を呼び出し、縁談が決まったことを、喜べと云わんばかりに告げた。むろん、登美はいやだと云った。せめてもう少し体が良くなるまで待ってもらえないか、登美はあまりに急な話に青くなりながら、懸命にそう云った。
三之丞は聞き入れなかった。もう決まったことであるし、おまえの病も気にせずに嫁に迎えてくれるという、これだけの話を断ることはできないと云った。
「体は少しずつ良くなってきています」登美は食い下がった、「一年、せめて半年待っていただけないでしょうか、その頃にはきっと良くなっていると思います、どうかもう少し待ってください」
「同じことだ」三之丞は冷たく云った、「良くなる兆しがあるのならなおよい、清水殿はおまえが病のままでもいいと云ってくださっている、先方は急いでいるのだ、養生はさせてくれると云うのだから、うちで治すも嫁に行って向こうで治すも、同じではないか」
「いやです、慣れない家に入れば余計に悪くなるかもしれません、お願いです、病のまま嫁に行きたくはありません」
登美は必死になってそう云った。しかし父は承知しない。登美は泣きながら頼んだ。自然に出てきた涙だった。茂十郎との、目前に広がっている幸せを、ここで失うわけにはいかないのだ。どんなことをしてでもこの話は断ってもらうしかない。
すがりつくように、登美はあらゆる抗弁を使って父親を説得した。だが結局三之丞はそれを聞き入れることはなかった。むしろ、そこまでいやがる理由が別にあるのではという疑いを持った。
密通している男がいるのでは。そう考えるとこれまで縁談を断ってきたことも、急に体が弱くなったことも、そしていま、これだけ縁談をいやがることにも説明がつく。
三之丞は厳しい顔で、そのことを問いつめた。
もう病だけではこの縁談は断れない。そう悟った登美は、素直に想う男がいると云った。もうそうすることしか、この縁談を断る手はないと思ったのだ。
三之丞の表情はにわかに強ばり、「密通か」そう云った声は怒りで震えていた。
「まさか、違いますわね」母親が冗談でも聞いたような口調でそう云った。
「密通」登美は侮辱されたようにその言葉を聞いた、「違います、密通など、するわけがありません」
「良かった」母は笑ってそう云った、「そのようなことをする娘ではないですものね」
「でも、この人と決めた人はいます」
登美ははっきりそう云った。
「まあ」母は驚いて口に手を当てた。
「誰だ」
三之丞はこれ以上はないというほど苦い顔をした。
登美は黙った。
「相手は誰だというのだ」三之丞は声を荒げた、「その男も承知しているのか」
――承知していることを云えば、許してもらえるだろうか。登美はうつむいたまま考えた。だめだ、父は初めから反対するつもりで聞き出そうとしている、ここで名を出すことはできない。
「相手の方が、どう思っているのかは分かりません」登美はそう云った、「しかしわたしはもうその人の嫁になると決めているのです」
「おまえが一方的に想っているというだけなのだな」
信尭はそう念を押し、娘がうなずくのを見て、「ふん」と笑った。「いくらおまえが嫁に行くつもりでも、相手にその気がなくてはどうしようもあるまい」
「若い頃にはそういうこともありますわ」母親が懐かしむようにそう云った、「殿方に憧れて、この人の嫁に行くのだと夢を見たことは、私もありますけど」
「それとこれとは違うのだ」
信尭は怒ったようにそう云った。
「そうね、殿方に憧れるのと、結婚して結ばれるのとは違うものですからね、あなたもお嫁に行けば分かりますよ、結ばれて子をなすようになれば、自然と情がわいてきますしね、それに女には家を守るという仕事があるのですから」
「そうだ」信尭は後を継いだ、「女は産まれた家と、嫁いだ家を守っていくという仕事がある、内祝言の日取りまで決めたこの縁談を断れば、清水殿の顔に泥を塗り、天野家の面目も潰すことになる、おまえはそれでもいいと云うのか、それが許されると思っているのか」
――もうだめだ。登美はそう思った。父は鯖瀬で一番の力を持つ清水信尭という人に逆らうことはできない、なにを云っても聞き入れられることはない。
登美は心を決めた。
「分かりました」登美はそう云った、「急なことで動転してしまいました、西川の嫁に、なります」
三之丞は再度念を押し、覚悟を決めたことを確認すると、「秋頃、遅くとも冬口には祝言があるそうだ、そのつもりでいろ」と云って、登美を自分の部屋に帰した。
「密通していたやもしれん」三之丞は、登美が部屋を出ると、そう妻にささやいた、「馬鹿なまねをしないよう、よく見張っておけ、一刻も目を離すな」
登美は絶望というよりも、怒りを感じていた。茂十郎と密かに会ってい、結婚の約束までしたことを父に話せば、余計に勘気に触れる。いまから茂十郎に申し込みをさせても遅い。かと云って、家のために、ここまで育んだ自分の夢を捨てることなど考えることもできなかった。
――駆け落ちをしよう、事情を話せばきっとあの人も分かってくれる、江戸に行くと決まったあの時、駆け落ちをするつもりだった、なにも恐いことはない、あの人と一緒だったらどんな苦労でもできる、あの人と一緒になれないのなら、生きているかいはない。
それを早く茂十郎に知らせなくてはと登美は思った。
《四》
菊池信兵衛の妻なほは、明るく誰とでもうちとけて話をするので、同じ年頃の女性たちに人気があり、顔も広かった。狭い藩内のことなので、女のほうが噂を聞きつけるのが早く、情報源も広いことは分かっていたのだが、信兵衛はまさか妻からそのことを聞くとは思わなかった。
夕食が終わり、茶を入れてもらい二人で飲んでいたときであった。
なほはいつものように誰それがどうしたと噂話を始め、信兵衛は聞くとはなしに、妻の明るい口調を楽しむように、ぼんやりとあいづちをうっていた。
「なんと云った」
小太郎の名が出たように思ったので、信兵衛は聞き返した。
「冬でには祝言を挙げるそうなので、お祝いの準備を早くしたほうがいいと云ったんですけど」なほはそう云った、「なにしろあなたは友達思いですからね」
「清水の縁談が決まったのか」
「そう云ったじゃないですか、なんでもほら、五年くらい前に亡くなった、あの西川様の家を継ぐそうですから、うらやましいこと、三男だから養子に行くとばかり思って、どこにいくかってみなで云いあっていたのに、これでは全員はずれですわ」なほはそう云って、思い出したように夫の顔を見た、「あら、知らなかったんですか」
「知らなかった、誰に聞いたんだ」
「近頃お稽古やみなさんの集まりに来ないので、おかしいと思って聞いたんですって、そうしたら、小太郎様とって、確かなことらしいですけど、お友達のあなたが知らないのはおかしいですね」
「うわさ話には興味がないし、清水ともこのところ会っていないからな、それで、相手は誰なんだ」
「登美さんですよ」なほはそう云って信兵衛を叩くふりをした、「登美さんの話をしていて、小太郎様のことになったのに、あなたったらまるで話を聞いていないのね」
「いや、考え事をしていたんだ、しかし、その登美さんというのは誰なんだ」
「ほら、天野様の三女ですよ、きれいな人ですから、小太郎様も嬉しいでしょうね、縁談もけっこうあったんですけど、ただ、ここ二年ばかり体を悪くされて、断わりつづけだったんですよ」
「二年……、断わりつづけ」信兵衛はそうつぶやいた。
「その人とおまえは親しいのか」
「ええもう、同じ歳でもありますし、本当にいい人で」
「歳が同じなら、十七だな」信兵衛は妻の話しを遮ってそう云った。
「そうですよ」
「ほかに、十七の娘でまだ結婚をしていない、しかも家柄の悪くない娘はいないか」
「登美さんだけですよ」なほはあっさりそう云った、「体が悪くなければとうに誰かと結ばれていたでしょうけど、でもこれで、やっとみんな良人ができるから、話が合って嬉しいわ」
「本当にいないか、十七でまだ独り身の娘は、一人もいないのか」
なほは少し考えて云った、「足軽や中間小者、町人のことなどは分かりませんけど」
「武家ではいないのだな」
「はい、でもどうしたんですか、そんなにむきになるなんて、珍しいじゃないですか」
信兵衛はあいまいに返事をした。
間違いない、信兵衛は茂十郎の相手を確信した。探るつもりではなかったが、歳だけで簡単に分かってしまった。よりによって相手は、小太郎との縁談が決まっている。
――自分が知らないくらいだから、茂十郎が知っているはずはない。信兵衛は頭を抱えた。こうなったからには、黙っているわけにもいかない、だが、それを話してどうしろと云えばいいのか、小太郎から奪えと云うか、あきらめろと云うか、どちらにしても、言いづらいことだ。
翌日信兵衛は、役目を早く切り上げ、七つ(四時)に役所を出て茂十郎の住居を訪ねた。
茂十郎は、心徳館での教授の準備のためか、書物に囲まれるように机に向かってなにか書き物をしていた。信兵衛であることを確認すると、慌てて反故紙をはじによけ、散らかっている本をどかして座るための場所を作った。
「悪いな」茂十郎はそう云って、いそいそと汚れた薄っぺらい座布団を敷き、しまったという顔をし、「茶がないんだ、ちょっと貰ってくる」と家を飛び出そうとした。
信兵衛は、「いいから」と押し止めたが、茂十郎は、「すぐ戻る」と云って駆け出していった。
「あれが自然だからなあ」
信兵衛は感心したように、茂十郎が去っていった戸口を見つめた。
しばらくすると、茂十郎は茶ばかりではなく、菓子まで手にして帰ってきた。
「気を使わせてしまってかえって申し訳ない」信兵衛はそう云った、「なにかの最中だったのだろう、じゃましたのなら、そう云ってくれていいんだ」
「なに、大したことじゃない」茂十郎は湯を沸かすために竈に火をおこしながらそう云った、「こんな汚いところに来てくれたんだ、せめて茶ぐらいはださいとな」
茂十郎は茶の支度をしながら、藩校でなにを教えるかということを、嬉しそうに話した。その様子を見ていると、信兵衛は登美のことを話すことがつらくなってきた。茂十郎と向き合って座ってからも、信兵衛はなかなか云い出せずにいた。
「どうしたんだ、なにか用があるんじゃないのか」
茂十郎にそう催促され、信兵衛は意を決して口を開いた。どうせいつかは分かることなのだ、それなら早いほうがいい。
「いつか話してくれた、あの女のことなんだ、もしや、その人は、天野登美という人ではないか」
信兵衛がそう云うと、明らかな動揺の色が茂十郎の顔にあらわれた。信兵衛の真意をさぐるように、茂十郎はその顔色をうかがった。
「調べたつもりではないんだ」信兵衛はそう云った、「偶然ある噂を聞いた、それで」
「噂とは」
茂十郎は挑むような目で信兵衛を見た。
「心配するな、松岡との噂ではない、しかし、もっと良くない話だ」信兵衛は大きな息をはいた、「天野登美は、清水との縁談が決まったらしい」
茂十郎はあっけにとられたような顔をした。信兵衛がなにを云っているのか理解できないようだ。
突然、茂十郎は目をむいた、「待ってくれ、縁談」
茂十郎は待てというように上げた手を額に持っていった、「清水と、それは確かなのか、いや、待ってくれ、どういうことなんだ、俺は聞いてない、いや、なぜそれを俺に」
「落ち着け」と云って、信兵衛は茶を飲むようにすすめた。
「俺の妻は天野登美と親しいようなんだ」信兵衛はゆっくりとそう云った、「その妻から聞いた話だ、その人は十七だという、それでもしやと思ったんだ、今日陣屋で父上に会って、それとなく聞いたみた、父上もはっきりとしたことは知らないようだが、内祝言を近々行なうらしいということは確かなようだ、もう隠していても始まらない、今日はこれからどうするべきかということを話にきたんだ」
茂十郎は、「すまない」と云って立ち上がり、土間へ下りた。先日足軽の若者たちが来たときの酒が大徳利に半分ほど残っている。それを持って戻ってきた。
意を決したように茂十郎はうなずいた、「確かに隠していた女というのは天野登美だ、悪いが一口飲ませてもらうぞ、まだどういうことだが分からないんだ」
「無理もない」
茂十郎は頭を整理させるために、一から信兵衛に聞き直した。信兵衛は面倒がらずに、聞かれたことに丁寧に答えた。冷静に事態を把握し、素直に受けとめようとはしているが、茂十郎の顔は、血の気が失せ、苦痛をたえるように強ばっていた。
すべてを聞き終わった後、しばらく黙ってうつむいていた茂十郎はつぶやいた。
「しかしなぜ、俺に知らせてこないのだ」
「この前の手紙は、あれはもう渡したのか」
「ああ、返事が遅れているとは思っていたんだが、そういうことなら、なおのこと、なんらかの返事があっていいと思うのだが」
「だとしたら、返事を出せない状況にいると思うべきではないか」
茂十郎は口に拳を当てて云った、「それか、もう待つ気がなくなったか」
「しかし」
「本当に体が弱くなっただけなのかもしれない、二年、気持ちが変わるには十分な時間だ」茂十郎は自嘲的に笑った、「縁談を断る口実だなんて、俺の思いすごしだったかな」
「そうなにもかも決めつけるな、どうした、少しおかしいぞ」
「そうかもしれない」茂十郎はそう云った、「心は静かだ、自分でも不思議なくらいだ、しかし、頭の中が泥水に変わってしまったような、とにかく、うまく考えることができない」
信兵衛はうなずいた、「だが、どうする、このまま放っておくのか、もし駆け落ちするといって、女がここに逃げ込んできたらどうする」
「駆け落ち」そうつぶやいてから茂十郎は云った、「しかし、清水と縁談が決まっているのだろう」
「それが問題だ」信兵衛は云った、「ただし、清水は縁談を嫌っている、そこに救いがあるかもしれない、まだ正式ではないし、俺から清水に、こういう話を聞いたがどうだと、真意を確かめて、その上で気持ちを聞いてみよう」
「待ってくれ」茂十郎は云った、「清水に云うのか、それは待ってくれ」
「なぜだ、うまくいけば、松岡にも清水にもいいことになるんだぞ」
「清水が乗り気だったら、乗り気ではないにしろ、断る気がなかったら、そうしたらどうなる」茂十郎はそう云った、「清水の自尊心の高さは知っているだろう、つらい目にあうのは彼女のほうだ」
信兵衛ははっとしたようにうなずいた。
「そこは気がつかなかった」信兵衛はそう云った、「俺も冷静ではないようだ、うん、こうしよう、さぐりだけ入れる、それで、話して清水が納得するようであれば話す、それで、どうだ」
「分かった、だが、そのときは相談してくれ」
「ただ、どちらにしても」信兵衛は云った、「松岡がどうするのか、それは決めておいたほうがいいだろう」
茂十郎は考え込むように目を閉じた。
「分からない」茂十郎は吐き出すように云った、「いまは、どうすべきか考えることはできない、相手の気持ちも知りたいし、とにかく、少し一人で考えさせてくれ」
「分かった」と云って信兵衛は立った。
信兵衛は、見送りはいいと云って、戸口まで来て、最後に振り向いて云った。
「二人とも、大切な友達なんだ」信兵衛はじっと茂十郎の目を見た、「こんなことになって、なんと云っていいか分からない、だが、友達として、駆け落ちだけはしてほしくない、それだけは云っておきたい」
茂十郎は笑ってその言葉に答えた。
信兵衛の足音が遠ざかるのを聞きながら、茂十郎はまだ中の入った茶碗を握り締め、力一杯壁にたたきつけた。
「駆け落ちだけはしてほしくない」そう云った信兵衛の最後の言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。
――駆け落ちはできない、せっかくここまで来たのだ、もう出世する道が見えている、ここで駆け落ちをしては、これまでの苦労がだいなしだ。
しかし一方で、出世の象徴としての登美との縁談がなくなるということも、茂十郎は考えられなかった。茂十郎にとって出世の果てにあるものは、家老や側用人といった役職ではなく、誰もが納得する登美との縁談、身分の壁を超えた自身の能力が認められる証が、その縁談なのだ。
では登美との縁談だけのために出世を望んだのか、それは違う。多くの足軽たちの希望になりたいという気持ちもある。それでも、もし信兵衛が云ったように、登美が駆け落ちする気で家を抜け出し、ここに来たら、断ることができるだろうか。茂十郎にその自信はなかった。
茂十郎は自分でも分かっている。人からの期待や信頼を裏切ることはその性質上できない。その期待や信頼のために頑張ってしまう自分の性格を知っている。もし登美が「一緒に逃げて」と云ってやってきたら、自分はどうするだろうか。ほかの、多くの足軽の若者たちの期待を捨てて、登美と出奔するか、それとも、登美の気持ちを捨て、出世のために生きるか。その選択は、どちらにしても、茂十郎には余りにもつらい選択であった。
《五》
小太郎の機嫌はよかった。いつも信兵衛が縁談にかかわることを口にすると、たいてい機嫌が悪くなったものだが、養子ではないことと、天野登美が美しい娘であることに満足している様子であった。清水家を訪ねた信兵衛は、小太郎の心のうちを探り、もしこの縁談をいやがっているようなら、相談することもできると考えていたが、それが無理であることを、小太郎の言葉や話す様子から感じ取っていた。
――だか待て、腹をわって話せば清水も友情のために身を引くこともあるかもしれない、まだあきらめてはいけない。
信兵衛は、「家老職が気づまりだろう」、「体の弱い娘らしいな」、と不安要素を並べてみた。
しかし小太郎は、婿養子よりはましだと云うし、「美人薄命と云うだろう、美人は体が弱いものと決まっているんだ」と云って、むしろそれを喜んでいるふうであった。
こうなると、同情をさそったほうがいいのか、しかしそのためには、茂十郎のことを全部しゃべらなくてはいけない。それを早まってはけないことは、信兵衛もよく分かっている。まずは友情を確認することだ。そう考えた信兵衛は、茂十郎が藩校の教授につけそうだと話した。
しかし小太郎は、まったくその話しに興味を示さなかった。むしろ、どうでもいいという顔で聞いていた。
「士分にも取りたてられるんだぞ」信兵衛は云った、「いままでの苦労が実るというわけだ、めでたいとは思わないのか」
「さあな」小太郎は下唇をつきだしてそう云った、「二十石の馬廻がそんなにうれしいかねえ、西川家のあるじになるおれのほうがはるかにすごい出世じゃないか、めでたいと云えばおれのほうだろう」
信兵衛はあきれた顔で云った、「清水もめでたいかもしれないが、松岡はずっとそれを望んで、江戸にまで行くという苦労をして、やっと手にできるところまできたんだ、どれだけの出世をしたかということではないだろう、実力でそこまでいったということがすばらしいんだ」
「ふん」小太郎は鼻を鳴らした、「どうせおれは父上の力だと云いたいのか、しかし松岡も同じだろう、どうせお前が口をきいたんだ、そうだろう、おれのところにも来たが、おれは断った」
「断った、どういう意味だ」
「そういう意味だ」
「松岡の気持ちは清水もよく知ってるじゃないか」信兵衛は怒ったというよりは、驚いてそう云った、「それなら友達として力になれるところは力になってもいいんじゃないのか、まさか、まだあの時云い合ったことを気にしてるのか」
「あの時、ああ、松尾屋のことか、その時のことじゃない、いや、あのときでうんざりしたというところか」
信兵衛は小太郎の顔を見つめ、次の言葉を待った。
「分からないのか、もうなあ、おれはあいつのああいう態度はいやなんだ」
信兵衛は挑むように云った、「ああいう態度とは」
「そんなことは分からねえよ」小太郎は信兵衛の視線を払う手ぶりをして云った、「うるせえな、しつこいことを云うな」
「しかし理由もなくそんなことは云わないだろう、あの日だって結局清水は帰らなかったじゃないか、理由をきかせてくれ」
「そりゃあ、松岡の帰郷祝いで、松岡が帰るなと云うのに帰るわけにはいかねえよ、でもあいつは、押しつけがましく人に自分のことを云うだろう、ああいうのはいやなんだ」
「だがそれは昔から変わらないじゃないか」
「昔は気にならなかったが、いまは我慢できない、いやそうだ」小太郎は思い出したように続けた、「そういえばあついは昔からそうだった、自分のことを分かってくれ、分かってくれ、という感じで話をするだろう、そのくせみょうに親切ぶって下手に出る、結局自分のことを認めて欲しいだけじゃないか、そういうところは昔から好きじゃなかった、いまはもううんざりだ」
「それは友達にたいする云い方ではないぞ」信兵衛は今度は怒ったような口調になった、「松岡にだって人間としての欠点はあるだろう、それは清水にも云えることではないのか、それにいちいち腹を立てていては、まともに人と付き合うことはできないぞ、第一、そういうことは本人にはっきり云うべきことだ、あとになっていうのは卑怯じゃないか」
「卑怯か」小太郎はは馬鹿にしたように笑った、「松岡に直接云ってみろ、また、あれこれ云い返されて、結局同じことじゃないか」
「たとえそうだとしても、そんな云い方はないはずだ」
「友達だからか、じゃあはっきり云おうか、おれはお前のそういうところは好きになれないね」小太郎はそう云った、「友達、友達って、友達といったって、永遠に続くものではないだろう、おれはとにかく、もうあいつにはうんざりしてるんだ、それはお前がどう思おうとだ、だいたい、足軽のくせに分不相応な出世を望んでいるのも気にいらねえんだ」
信兵衛は、小太郎の顔をにらみつけた。
「それだけは云ってはいけないはずだ」信兵衛は憤慨して立ちあがった、「足軽のくせに、その言葉がどういう意味を持つのか、よく考えてみろ」
そう云い捨てると信兵衛は、小太郎の顔も見ずに部屋を出た。
――なんてことだ、信兵衛は清水家を後にして、絶望的にそう思った、縁談を気に入っているだけじゃない、よりによって松岡のことをあんなふうに思っていたとは、だめだ、清水から縁談を断るという道はもうない、残された道は、二つか。
信兵衛は、小太郎が茂十郎のことをあのように悪く云ったことに、悲しい思いを持たざるをえなかった。それは信兵衛が友達を大切にするというだけではなく、「足軽のくせに」という言葉が心に重く響いていたからである。
信兵衛は、茂十郎と身分を超えた友達付き合いをしていることに誇りを感じていた。だからこそ、小太郎のあの言葉は許せないのだが、一方で、その身分の差があることを感じていた。それはいまも、大きな壁として茂十郎の前にある。それを知っているなら、小太郎はあんなことは云えないはずだが、反面信兵衛は、茂十郎が足軽であることを忘れることもできなかった。身分を気にしない、ということを気にしつづけているということは、結局身分の差をはっきり意識しているということである。足軽だから大変だ、だから力になろう、ということは、「足軽のくせに」という言葉と、どこかつながっているような気が、信兵衛はしていた。どこがどうとは云えないのだが、「足軽のくせに」と小太郎が云ったとき、信兵衛は自分が責められたように、どきりとした。
《六》
茂十郎は信兵衛から話を聞いた。もちろん信兵衛は、小太郎が茂十郎をうとましく思っていることは云わなかったが、茂十郎は落胆した様子を見せていた。
「だが、少し冷静になって考えてみたんだ」茂十郎はそう云った、「もし清水がその縁談に乗り気じゃなく、万が一おれのためにうまく縁談を断ってくれると云っても、すぐにそれを頼むべきではない、まずは相手の気持ちを確かめるべきだ、そう考えたんだ」
「しかし、その人は二年待っていた、それだけで十分ではないのか」
「分からない、なんとも云えない」茂十郎はそう云った、「待ってくれていたと信じたい、しかし鯖瀬に帰ってきてから一度も文はこない、まだ若いのだ、気持ちがふとしたことで変わることもあるだろう、それは考えておかなくてはいけないことだ」
茂十郎が思っていたよりも冷静なことに信兵衛は安堵した。
「それなら、松岡からそれを確かめてみてはどうだ」
「それは考えた」茂十郎は云った、「だが、向こうからなにも云ってこないのに、こちらから縁談について聞くのは変だし、もう心が変わっているとしたら未練がましいようで、どうしてもそれができなかった」
「弱気になっているな」信兵衛はそう云った、「しかしその気持ちはよく分かる」
「そう、弱気だ」茂十郎はそう云った、「こういうときになると、自分がいかに弱いかよく分かる、まったく情けなるほど自分の弱さを痛感させられるよ、いざというときになると、人間は弱いな、おれはいまでも自分がどうしていいのか分からないんだ」
「しかしそれでは……」
「そうだ、もし駆け落ちをしようと云って、ここに来たら、それこそどうするかわからない」茂十郎は悲しそうに笑った、「しかし、なにも云ってこないということは、恐らくもう清水と一緒になり、西川家に入ることを決めたということだろう、そう考えるようになってきたんだ」
信兵衛は、茂十郎に対してなにも云うことはできなかった。茂十郎は真剣に考え、悩んでいる。その茂十郎が出した結論ならば、たとえ駆け落ちだとしても、それは致し方ないことなのではないか、そう思ったからである。もしかしたら、まだ心のどこかで、三人の友情を台無しにするようなことを云った小太郎を恨むような気持ちがあったからかもしれない。
そのころ登美は、きびしい監視の目のなかにいた。
登美にいままで付いていた下女(登美と茂十郎の関係を唯一知っている人物)がひまを出され、それまで母付きだった下女が登美の世話をするようになった。だがそれは、事実上の監視であった。おそらく脅したのだろう、登美の下女から話を聞き出したようなのである。
登美への監視は夜は交代で、寝ずの番がつくほど厳重なものだった。その上外に出るためのすべての門にも監視がつき、当然、外部とのあらゆる接触を遮断された。信兵衛の妻女が云っていたように、登美は親しい友達にも会えなかった。当然出入りの商人とも会えない。つまり、家を抜け出すことはもちろん、茂十郎に文をを渡す手段もないのである。この状況を伝えるための文は、いつも懐に忍ばせてあった。しかし、それを茂十郎まで届けることは不可能に思われた。
やりすぎともいえるこの監禁は、それだけ、父三之丞が清水信尭を恐れていることを示したいた。この縁談を天野家から壊すようなことになったら、それはすなわち、この家の破滅であると、そう三之丞は考え、過剰な監視を続けているのである。
ただ、それを手をこまねいて見ているだけの登美ではなかった。十日ほど色々試みようとした。だが、荷物をまとめる隙はなく、手紙も渡せそうにない。そうなると、あとは身ひとつで茂十郎のところに駆け込むしかない。
細心の注意を払い、登美は計画を実行した。隣の部屋の寝ずの番は、三人交代であることがわかった。その中の一人はまだ十三で、抜けたところのある娘だった。退屈なのか、始終ごそごそ動く音がするし、静かになったと思うと寝息が聞こえてくる。
登美は二回、その娘の時に部屋を抜け出して厠へ行った。どちらとも、帰ってきても隣から寝息は聞こえていた。これなら大丈夫だ、登美はそう確信し、三度目の機会を狙った。今度は本番である。夜中に見張りの交代があり、落ち着きのない様子から、その娘であることを登美は認めた。この時間に交代したのであれば、朝まで次の交代はない。登美は辛抱強く、息を殺して隣の気配に神経を張り巡らせた。
寝息が聞こえ始めてから半刻ほどたった。障子窓がぼんやり白ずみ、鳥の鳴き声が聞こえ始めた。いつでも外に出られる格好で横になっていたし、金に変えられそうなものもまとめあった。登美は静かに部屋を出て、まだ暗い屋敷の中を注意深くゆっくりと歩いた。もっとも注意が必要だったのが雨戸である。人がいる部屋までは間のある、中庭の雨戸を開け、履物を選ばず庭に降りた。
しっとりとした心地よい空気が満ちていた。いよいよ茂十郎に会える、そう考えると東の空で紫色に染まる雲も、すずめのさえずりも、葉ずれの音すらも、登美にはこれからを祝福するもののように感じた。裏木戸を抜ければ、待ち望んでいた茂十郎との生活が待っている。それがどういうものか想像はしなかった。ただ、愛する茂十郎と一緒になれる、それだけがすべての望みであり、希望であるのだ。
登美は一度屋敷を振りかえり、そのまま庭を横切り、裏木戸にやってきた。そこで、不意に登美は呼びとめられた。竹箒を持った庭師であった。
「眠れないから少し庭を歩いていただけです」
ととっさにそう云い訳したが、そういう格好には見えなかったし、主人にも云い含められていたので、その庭師は嫌がる登美を連れ戻した。
この失敗で監視がさらに強くなり、家を抜け出す隙も、誰かと連絡を取る手段も完全になくなり、もう登美には打つ手がなかった。
柔軟路線
《一》
そのころ、七月の六日に幕府では、一ツ橋慶喜を将軍後見職という地位につけた。いわゆる文久の改革である。桜田門外で暗殺された井伊大老は、一橋派に弾圧を与えていた。鯖瀬藩主の諒勝もそれに加わっていた。それが今度、その一橋慶喜が政治の表舞台に立ったわけである。
諒勝は安政の大獄の責任を問われ、一万石削減、隠居、急度慎みを命じられた。想像してはいたが、重い罰である。藩主の座は次男の諒実に譲られ、同時に重臣の交代があった。清水信尭は隠居はし、城代家老も代わり、いわゆる保守派の人々が政権を握った。
清水家としては、あとを継いだ長男は家老職であるし、小太郎が西川家に入れば、その家の格である程度の地位は保証されている。清水信尭にしてみれば、恐れていたほどの難はなかったのである。
ただしそれは、信尭にとっては痛くなかったというに過ぎない。藩主への処罰が下ったということは、当然藩士たちへ動揺を与えることになった。
まず足軽たちが騒ぎ出した。それ見たことか、というわけである。同時に幕府に対する非難も強めた。前にもまして会合を持ち、その不満を並べあげた。
もちろん、そこに茂十郎は加わっていなかった。彼らの代表格ともいえる若者たちは、茂十郎の信奉者でもあったが、だからこそ、茂十郎に迷惑がかからないようにしていたのである。本心を云えば、茂十郎を祭り上げたいのだ。しかし彼らは、同じ身分のものとして、茂十郎の気持ちをよく理解していた。茂十郎という存在がなかったら、彼らはなんらかの行動を起こしていただろう。それだけの不満と、行動にうつせるだけの信念と若さがあった。しかし決して、表だった行動はしなかった。茂十郎に迷惑がかかるからである。それだけ茂十郎を慕っていたし、なによりも、弱い立場である彼らは仲間を大切にする気持ちが強かった。
それでも、彼らの中に膨らむ不満の声は、自然と茂十郎の耳にも入ってきた。茂十郎は、彼らを無理に押さえようとは思わなかった。そうするとよけいに反発しようとするからである。ただ、この藩全体が動揺している空気の中で、それにつられて無謀な行動はしてほしくなかった。彼らのなかにある不満、そして自分たちも武士であるという誇りは、尊皇攘夷に走るのに十分な要素である。しかしながら、茂十郎は自分が出世をすることによって、いつまでも報われない、という不満は解消されていくだろうと思っていた。
――もう少し待って欲しい、この動揺の中で無茶なことをし、若い命を捨てさせるわけにはいかない。
一日中登美ことばかり悩んでいることもできない、彼らを止めるのは自分だけだ、そういう思いで茂十郎は、彼らがよく集まるという飲み屋に出向いた。
そこは伊野川沿いの道を一本奥へ入った、目立たない場所にあった。町人でも入りづらそうなほど、その店は汚く、その雰囲気もよくなかった。
――たしかにここなら藩のものには気づかれまい。
茂十郎は店に入り、ぐるりと中を見渡した。狭い店で、十人入れそうもなかった。そこには足軽の若者たちの姿はなかった。
「座敷はあるか」
茂十郎がそう聞くと、店主は斜めに茂十郎を見、さも警戒したような顔を見せた。
「怪しいものではない」茂十郎は笑顔をみせた、「若松たちが来ていると思うのだが」
あるじはもう一度茂十郎を見た。着ているものはぼろだが、同じ足軽の仲間には見えなかった。
「若松だって」あるじは大きな声を出した、「そんな人は知らねえな、どこかよそを当たってくれ」
店の私用の部屋と思われる、突き当たりの襖の向こうで、物音がした。
「次からはもっとうまくごまかすんだな」
茂十郎はそう云うと、止めようとする主人を振り切り、
「おれだ」と云って襖を開けた。
そこには四人の若者がいた。
灯かりは消したのだろう、薄暗い中で全員が刀を抜いていた。
「そんなに聞かれては困ることを話していたのか」茂十郎はそう云って草履を脱ぐと、「一人追加だ」とあるじ云い、中に入っていった。
「灯りをつけてくれ」
と茂十郎が云い、笹原小弥太が灯りをつけた。
中にいたのは、笹原小弥太、橋本与一郎、木崎勝久、小籏樹左衛門の四人だった。
「ほう」その面々を見て、茂十郎は云った、「急進派の親玉がそろってるわけだ、腕自慢の四人に刀を向けられては落ち着かない、しまってくれないか」
茂十郎だとわかった四人は、気まずそうに刀をしまい、みな、叱られる子どものようにかしこまった。
「そう硬くならないでくれ」茂十郎はそう云った、「なにもお前たちのことを責めに来たわけではないんだ」
「しかしなぜこんなところに」
小弥太がそう聞いた。
「うん、いったいどういう話しをしているのか興味があってな、これでも江戸では色々な話を聞いた経験があるんだ」
彼らは困惑した様子だった。自分たちの尊嬢論は決して茂十郎には話すまいと決めていたのに、その本人が自分から聞きにくるとは思わなかったのだ。
「たいした話しはしていません」
他の三人に、立場を表明するように小弥太がそう云った。
その態度で茂十郎も彼らの心を知ることができた。
「おれのためにそうしてくれるのか、うれしいことだ」
店主が膳に酒と猪子を乗せて持ってき、まだ警戒した顔で茂十郎を見て、小弥太にこの人は誰だと目で聞いた。
小弥太は小声で云った、「この人が松岡さんだ」
あるじは、ああ、と眉を広げてうなずいた。
「知らないところで有名になっているんだな」茂十郎はそう云って笑った、「酒も来たことことだし、飲もうじゃないか」
酒を飲み始めても、彼らは尊嬢について一言も口にしなかった。それが分かった茂十郎もあえて聞きはしなかった。ただ、半刻ほどしてそろそろ帰ろうという間際に、思うことを口にした。
「お前たちが気を使ってくれていることはよく分かった、だが、どういう考えを持っているかは知っているつもりだ」
四人は神妙な顔をしたが、茂十郎が知ってくれているということに、うれしそうな表情を見せた。
「しかし、早まったことはして欲しくない」
「それはもちろん」
小旗樹左衛門がそう云った。彼は四人の中で一番剣の腕が達者で、道場では特に茂十郎に目をかけられていた。
「松岡さんに迷惑をかれることだけはしません」
小弥太もはっきりそう云った。
「ただ、幕府のやりかたは気に入りません」
短気で知られる橋本与一郎が、我慢できないという様子でそう云った。
この中では最年長者で、茂十郎と一つしか歳が違わない木崎勝久は、「それは松岡さんとは関係のないことだ、余計なことは云うな」と与一郎をたしなめた。
「いいんだ」茂十郎はそう云った、「鯖瀬藩が幕府の譜代藩であり、その藩士である以上、関係ない人間はいないし、むしろすべての武士は、この国の行く先を案じているんだ」
「そうですよ」与一郎が勝ち誇ったようにそう云った、「それなのに幕府や藩の老中たちときたら、まるで分かっていない、こんなことでこの国が――」
「橋本」勝久が怒鳴った、「いい加減にしないか」
「そう与一を責めるな」茂十郎は云った、「お前たちだって与一と同じ気持ちだから、ここに集まっているのだろう」
「しかし」と小弥太が恨めしそうに与一郎をにらんだ、「私たちはそんなつもりではないんです、松岡さんが心配するようなことはなにもありません」
「それは分かった」茂十郎は真面目な顔で云った、「おれは自分のために云っているのではない、ただお前たちに命を無駄にして欲しくないんだ、今回の幕府の処罰にはみなが浮き足だっている、それで我を忘れて無茶なことをするのは愚かだ」
茂十郎は四人顔を、確認するように見た。それぞれの顔のどこかに、命など惜しくないという様子が見られた。
「この国のために命を投げ出すのは愚かではない」茂十郎はそう云った、「しかし、周りの状況に一喜一憂して我を忘れた行動は愚かだ、いまお前たちが怒りを感じ、不安の中にいるのは分かる、それはおれも同じだ、大切なのは、周りになにがあっても揺らがない、そういう強さを持つことだ」
四人は素直にうなずいた。
「おれは力で世の中を変えようという考えは、かならずしも間違っているとは云わない」茂十郎は続けた、「それに、お前たちがそういう考えであるなら、それを否定することはしない、ただ、周りに流され、我を忘れる見苦しいことだけはしないでくれ」
四人はそれぞれに、そういうことはしないと宣言し、茂十郎はそれを聞き、安心して席を立った。
その帰り道、茂十郎はふしぎな思いにとらわれていた。
彼らに云ったことは、そのまま自分にも云えることだったのだ。
――周りがどうであれ、見苦しいことはするな、茂十郎はあらためて自分言葉を思い出していた、なるほどその通りだ、見苦しいのは自分だったな。
茂十郎は自分の言葉で覚悟を決めた。
小太郎が縁談をする気である以上、登美と駆け落ちするのは(登美にその気があっとしてだが)小太郎に最大の侮蔑を与えることになる。それは人として正しいとは思えない。もし登美にもうその気がないのなら、男らしく未練を持たずに、目標である出世の道を歩むのが正当だ。登美にその気があっても、駆け落ちはできない。もし駆け落ちしたら、友達を裏切ったという負い目が一生自分の中にあるだろう。それに、このご時世に他藩で再仕官がかなうとは思えない。貧しさはいま以上になり、その苦しみを知らない登美にそれを味あわせるわけにはいかない。小太郎のためにも、そして登美のためにも、自分が身を引くのが一番だ。
そう思い、身を引くことを決めた。
《二》
監禁状態であり、外部との接触ができない登美にも、心に変化があらわれるようになった。ずっと一人でいるため、冷静に物事を考えられるようになってきたからである。
登美は当初、強引に決められた縁談に怒りを覚え、駆け落ちをするということしか頭になかった。それは無理もない考えだった。登美の心はすっかり茂十郎の妻として形成されていたし、そのために二年間待ちつづけていたのだ。
しばらくの間は、茂十郎と結ばれること、すなわち唯一の方法である駆け落ちをいかにするのかということばかり考えていた。しかし、徐々に冷静になってくると、今度は駆け落ちした後のことを考えることができた。
この厳重な監視の中、家を抜け出すとしたら金や持ち物は持っていけない、当然貧しい暮らしになる。それを体験したことのない登美は、貧しい暮らしに対しては、むしろ耐える喜びともいえる快楽的な想像しかできなかった。しかし茂十郎のことを考えると、暢気な気持ちにはなれなかった。他藩での士官が容易でないことは知っている。しかも茂十郎は、この藩で、大変な苦労をして出世の足がかりをつかんだ。脱藩して、もし運良く仕官できたとしても、自分の生まれ育った藩でさえ、足軽という身分からはいあがるのは難しいのに、よそ者が出世できる可能性はかなり低い。
「ああ、だめだ」
登美は絶望的にそうつぶやいた。
――わたしが一番望んでいるは、あの人が世に認められるような人になること、その邪魔をわたしがすることはできない。
登美は、自分のせいで茂十郎がつかみかけている出世の道を台無しにすることはできなかった。たとえどこに行っても、茂十郎ならばきっと出世できる、そう信じているが、茂十郎が鯖瀬藩での出世を望んでいることも、登美はよく知っていた。
――男の人は夢に生きられる、たとえわたしと結ばれなくても、だめになったりはしない、登美はそう思った、でもわたしは愛に生きたい、あの人のために生きる、そのために、身を捨てて西川家に入ろう。
その日から登美は、自分は死んだものだと決めつけた。茂十郎の妻になれなかった自分は、死んだも同じだということである。本当は死んでしまいたかった。しかしそうすると茂十郎の心によけいな負担を与えてしまう。死んだつもりで小太郎の妻になることで、気持ちだけはいつまでも茂十郎の妻であろうとしたのである。
登美が本心ではこの縁談に同意していないこと、あわよくば家を抜け出そうとしていることも、三之丞は知っている。だから登美が深刻な顔で、素直に西川に入ると云ったとき、すぐには信じられなかった。
しかし、登美は家を抜け出す気でいたことも正直に云ったし、泣き出しそうな顔で西川に行くと云ったときは、三之丞は娘を信じる気になった。
「するともう未練はないのだな」
「はいありません」
そのかわり、手紙を一通出すことを認めてくれと、登美は云った。
武家の娘である、よもやそこまでして親をだますことはあるまい、そう思った三之丞は、それを承知した。
「想い合ったもの同士が結ばれることは、武家の世界では例外だ」三之丞は、生気のなくなった娘の顔色を不憫に思い、そう慰めた、「それは武士が主君のために個を捨てているからだ、それはお前も承知のことだろう、西川の嫁になるからには、夫を助け、家を守ることだ、それが主君のためになる、分かるな」
登美は小さくうなずき、なるべく早く祝言を挙げたいと云った。こうなった以上は、少しでも未練を早く断ち切りたかったのである。
三之丞も娘の気持ちを察し、清水信尭に婚礼を早めてくれるよう相談に行った。もちろん信尭に異存はなかった。急な話であったし、娘の体が弱いというので急がなかっただけなのだ。
祝言の日取りは、翌八月の末と決まった。
この年の夏は例年より暑かった。七月に入っても、残暑というよりは真夏の暑さがしばらく残っていた。子供たちが伊野川で泳ぐ姿もよく見かけたものだ。
長屋の壁に蝉が止まっているらしい、かなり近くでその声が聞こえていた。
ただ、茂十郎の耳にはその声は入っていなかった。一度読み終えた手紙をたたもうとし、もう一度はじめから読み返した。
内容は簡素なものだった。小太郎との縁談が決まり、西川家を再興するため、その嫁に入ること、茂十郎が無事出世することを祈っていること、それだけを感情を押さえた文で書かれていた。
登美からの手紙が届いたとき、その内容を、茂十郎は読む前から察した。小太郎との縁談は避けられない、その上で文をよこしたというのであれば、自分に対するけじめだと思ったのである。手紙をくれるだけの気持ちを持ってくれていた。それはうれしかった。ともすれば、一刻だけの気持ちで今はもう自分に対する想いはないのではないかとさえ考えた。しかし、こうして手紙をくれたということは、少しは気持ちを持っていたということである。
だがあらためて読むと、少なからぬ衝撃を茂十郎は受けた。
少しは、ではなく、しっかりと登美は自分のことを考えていた。どこにもそうは書いていなかったが、登美が自分の出世ために身を引いたことが分かったからであった。云い知れない悲しみが茂十郎の胸の中を満たしていた。自分から身を引こうと決意した。それは登美の幸せを願ってのことだ。同時に登美も、茂十郎のためを思って身を引いたのであ。もう想いはない、そう云われるよりも、茂十郎には悲しみが強かった。想い合っている二人が結ばれることはできない。
云い知れない悲しい憤りを、茂十郎は胸の中に燃やしていた。
登美との縁談がなくなった今、茂十郎にとっては藩校の教授だけが頼みであり、すべての希望であった。足軽でさえなければ登美と結ばれただろう、その悔しさは、なんとしても出世をし、見返してやるんだという気持ちを駆り立たせた。
だがその知らせはなかなか来なかった。七月もただ待つばかりで日が過ぎ、ついに八月になってしまった。
そして八月の十日、早坂十右衛門からの使いがきた。
「遅くなってすまなかった」
以前と同じ客間に現れた十右衛門は、まずそう云った。
「そなたもこの度の殿への処置は知っているな」
十右衛門は以前とは違い、厳粛な面持ちでそう云った。
「重臣の面々も変わり、方針にも変化があった」十右衛門は云った、「率直に云えば、柔軟路線を取らざるをえなくなったわけだ、いまは幕府に目をつけられるようなことはできない」
茂十郎は顔色を変えて十右衛門を見た。
「藩校では儒学以外を教えることはできなくなった」十右衛門はすまなそうにそう云った、「儒学の教授は十分に足りている、そなたに藩校の教授を頼むことはできなくなったのだ」
目の前が暗くなるというのはこのことである。茂十郎は呆然とした。
「すると、藩校の教授にはなれないと……」
「すまないと思っている」十右衛門はそう云った、「期待を持たせておいて、だめになったでは済まないと思う、だがこれは藩の方針だ、あきらめて欲しい」
茂十郎はがくりと首を垂れた。
登美を失い、また、藩校の教授の道もなくなった。登美との縁談と出世だけを願って生きてきたのである。そのどちらもがなくなったことは、どれだけ茂十郎の心を落胆させたか。
「それがしにも、そなたを教授にすると云った手前がある」十右衛門はしばらくの間をおいてから云った、「老中に働きかけ、家塾としてそなたが教えを取ることが認められた」
「家塾」そうつぶやいて茂十郎は顔を上げた。
十右衛門はうなずいた、「藩校とは違うが、藩が認めた塾であるし、専用の屋敷も用意する、当然藩からの援助があるし、それは二十石はあるはずだ、そこで洋学を教えるのならよいということなのだ」
ただ、士分への取り立てはないということだった。出世の道は大幅に遠のいた。
しかし、これは異例のことである。十右衛門が奔走してくれたからこそであるし、それだけ茂十郎のことを認めているのである。茂十郎はありがたくその話を受け入れることにした。すべての道が閉ざされたのではない、少しでも光があるのなら、その道を選ぶしかないのだ。
茂十郎は丁寧に感謝の言葉を述べた。
力になってくれた信兵衛に報告をしなければいけない、そう思いながらも、茂十郎は菊地の屋敷を素通りして、自分の家に帰った。
部屋に戻っても、茂十郎はなにも手につかなかった。机の上の教授になった時のために作った資料を乱暴に払いのけ、そこに倒れるようにうつぶした。そのままずっと、食事をとらないどころか、一杯の茶も入れず、眠れない夜を過ごした。
自分が認められなかったわけではない。時勢の変化とそれによる藩の方針である。運命としか云いようがない。頭でそう分かっていても、あまりの無念さに絶望的な気持ちになっていた。
二日間は外に出る気力も湧かなかったが、三日目にようやく、信兵衛に報告した。
信兵衛はあまりの不運に云うべき言葉もなかった。愛する女と友が結ばれることになり、その上、夢への第一歩を手痛く挫かれたのだ。ありきたりの慰めを云うのが精一杯であった。
「不思議なものだ」信兵衛は云った、「今日、なほが息子を産んだ」
「そうだったのか、すまない、そんなめでたいときにこんな話を持ってきてしまって」
「松岡のせいではない、おれのほうこそ、なんだか申し訳がないくらいだ」
「なにを云うんだ、男子誕生じゃないか、大いに祝ってくれ」
「ありがとう」信兵衛はそう云った、「いずれ祝ってもらおう、だがそのときは、松岡、お前の家塾の成功も一緒に祝うぞ」
茂十郎は力なくうなずいた。
「家塾を成功させるんだ」信兵衛は茂十郎の肩をたたいた、「そうなればいやでも認められる、藩校で学ぶよりも優秀な人材を育てるんだ、いまはそれだけを考えろ」
――家塾を成功させるしかない。
分かりきったことであった。だが今の茂十郎にはすべてを奪われたようなむなしい脱力感が心を占めていた。無事男子が生まれた幸福な信兵衛と、己の身の上を比べると、人間は公平ではないと、やりきれないような暗い気持ちになった。
《三》
しかし幸いにも、いつまでもくよくよしていられないほど、茂十郎の身辺は動き出していた。
十右衛門はすっかり準備をととのえてから、茂十郎に話したのである。城下のはずれに、いまは人が住んでいない古い足軽長屋があった。それを改造し、茂十郎のための住居を兼ねた講堂は完成していた。広くはないが道場も付いている。
住居まであるというのは意外であった。足軽が足軽長屋以外に住むということは、この藩では例のないことであった。それも含め、茂十郎は足軽としては例外的な立場であった。足軽としての役目はなく、塾だけをすればいいし、塾のために一人だけ人を使うことも許され、一人扶持が加増された。これらすべては、早坂十右衛門の働きである。これには茂十郎も感謝した。塾生がどれだけ集まるか分からないが、これは二十石の馬廻よりも待遇はよさそうである。立場は足軽に過ぎないが、口に出したことを少しでも守ろうという十右衛門の気持ちがよく伝わった。
そして、茂十郎が洋学塾を開いたことはすぐに広まり、希望者も集まりだした。こうなっては茂十郎もくよくよはしていられない。むしろ、にわかにやる気が出てきた。
真っ先に集まったのは、笹原小弥太を始めとする足軽の若者たちであった。
小弥太は、ぜひ自分に身の回りの世話をさせて欲しいと申し出た。すると他のものも、それは私に、と騒ぎはじめた。
茂十郎は彼らを押さえてから云った、「若松に頼みたい」
「若松新三郎ですか」小弥太は不服そうに云った、「確かに学問は我々よりできるかもしれませんが、護衛として多少剣の腕があるほうがいいのでは」
「護衛が必要になるようなおぼえはない」茂十郎はそう云った、「それにおれがてこずる人物を小弥太はどう相手するのだ」
「盾となり逃がします」小弥太はそう意気込んで云った。
「それはありがたいだがいまは必要ない」茂十郎は小弥太の肩をたたいた、「洋学塾の手伝いにもなるものが必要なのだ、一人扶持しか与えられていないのだから、わがままを云うな」
「では食事は自分で作ります、迷惑はかけません、どうか住み込みでおいてください」
武士はいざというときのために、所在を明らかにしなければいけない。だから許可なく引っ越しもできないし、外泊も禁止されていた。当然小弥太のこの申し出はかなわなかった。
そこには講堂のほかに道場もあった。藩校や家塾に武芸鍛錬のための施設があることは珍しくないし、茂十郎の剣の腕を知っていた十右衛門が気を回してくれたのである。ただ、茂十郎自身はそちらまで手が回らないと考えていた。
誰かに任せるか。小旗樹左衛門などは腕は確かで師範もできそうであるが、無口で人の前に立つのは苦手としている。道場を任せるには十分ではない。
しかしせっかくの道場を空けたままにしておくのはおしい。そこで茂十郎は、信兵衛に頼むことにした。彼なら腕も確かで人格も申し分ない。
「それは願ったりかなったりだ」信兵衛は二つ返事で承諾した、「ちょうど道場に戻ろうと考えていたところだったんだ、思ったより役目は暇だし、体もなまっていた、師範という柄ではないが、頼まれた以上は精一杯やるよ」
信兵衛は上役に許可を得て、正式に師範となった。
こうして、茂十郎の洋学塾は動き出した。洋学は茂十郎一人で教えるのだが、横にはいつも若松新三郎がいて、補佐として働いてくれた。身の回りのことは茂十郎一人で出来るのだが、各種資料の整理や教材の手配、塾生の管理や各人の学問の進みぐあいなどはすべて新三郎に任せた。彼を側に置いたのは、ゆくゆくは年少者の教授を頼むつもりでいたからである。
塾が終わると新三郎が食事の支度をし、二人で善を並べて夕餉を取る。その時茂十郎は、新三郎に塾では教えきれないような学問の話しをする。もちろん新三郎には分からないことがほとんどである。すると茂十郎は、これを読むといいと云って本をすすめる。すると新三郎は遅くまでその本を読みふけるのである。隣で寝させている新三郎の部屋から、いつまでも本をめくる音が聞こえてくる。自分を側に置いてくれた気持ちに応えようとする新三郎の意気込みが、その熱心な姿から読み取れる。茂十郎はそれを頼もしく思っていた。
道場のほうは信兵衛が師範として、決まった時間で指導をする。信兵衛がいないときは、代師範の小籏樹左衛門と野中権六郎が、時には笹原小弥太も指導に当たった。
野中権六郎というのは足軽の若者で、父を早くに亡くし、兄一人に母と兄弟六人がぶら下がっているというかなり貧しい家に育った。物心ついたころから、家計を助けるためにこまごまとした仕事を続けていたので、藩校や道場に通う暇はなかった。そんな彼を茂十郎が暇を見つけては学問や剣を教えていたのだ。もともと筋がよかったのだろう、学問はともかく、剣の腕はみるみる上がった。茂十郎が教えた基本を疑うことなく忠実に反復したのがよかったのかもしれない。いまは茂十郎でさえも、三本に一本は取られるほどの腕である。いままでは朝は早くから夜も遅くまで、できるだけの仕事をしてきたので、同じ年頃の足軽仲間とも遊べず、忘れられたような存在であった。それが茂十郎によって始めて人前に出る機会を得たのだ。もちろん茂十郎が多少の援助をすることで代師範ができるのである。ただでも感謝してもしきれない存在であった茂十郎は、彼にとって神にも勝る存在になった。
道場は足軽と士分のものを合わせて二十名以上が通うようになった。洋学塾は十数名、全員が足軽であった。道場も、信兵衛がいるときだけ士分のものが来るが、それ以外のときは足軽のものだけであった。
そう、ここでも足軽という身分の差が出たのである。おもに親たちが、足軽ごときに教えを請う必要はない、と決めつけて子供を通わせなかった。藩校の教授が洋学塾には行くなと云っているということも聞いた。一部の保守的な教授たちには、洋学など必要ないという声は根強くあったし、足軽と一緒にはできないと主張するものも中にはいたようである。
――覚悟していたことだ、茂十郎はそう思った、足軽であることを恥じているから出世を望んでいるのではない、足軽であることを負い目に思ってはいけないのだ。
茂十郎は、足軽の若者たちを立派に教育すれば、いまは馬鹿にしていても、いずれ必ず認められる、時間がかかってもそれを成そう、必ず見返してやる、そう思いを固めた。
それに応えるように、塾生たちはよく話を聞いた。多かれ少なかれ、茂十郎を尊敬しているものばかりであったし、茂十郎同様、見返してやりたいという気持ちもあり、なにより自分たちは、士分の連中が学んでいない新しい学問を学んでいるという誇りがあった。
茂十郎の洋学塾が、そろそろ軌道に乗り始めた七月の二十九日、清水小太郎と天野登美の祝言がしめやかに行われた。殿が謹慎を仰せ付けられて間もないということもあり、ごく身内だけの簡単な儀式にとどまった。祝言の内容などについては特に述べることはない。
ただこの日から、小太郎は西川姓になり、同時に名を叔父と同じ主計とあらためた。
その日の夜、いわゆる初夜であるが、作法通り辞していた登美の寝所へ、主計がやって来た。彼は無遠慮に行灯を明るくし、まじまじと登美の顔を見た。
顔合わせはしなかったし、式の間は顔を見ることはできなかった。この時始めてお互いの顔を見たことになる。
「ほう」主計は酒くさい息をはき、満足げにうなずいた、「これは運がいい」
登美は無表情のまま、うつむいていた。
「これほど美しいとはな、どうせなら美しい娘にかぎると思っていたが、おれはついてる」主計はそう云って登美に顔を近づけ、にやりと笑った、「そちらにしてみれば不満もあるだろう、だがこうなった以上はよろしく頼む」
登美は表情ひとつ変えずに黙っていた。
――この人は誰でもよかったんだ、わたしは違う、わたしはあの人だけだ。
こんな人では忘れることはできないかもしれない、登美はそう思ったが、すぐに、心を持ってはいけない、私はもう死んでいるのだ、そう云い聞かせた。
その後、登美にとっては初めての夜が訪れた。主計はすぐに登美が初めてと気がついた。自信を持っていた主計は、執拗に登美の体をもてあそんだ。しかし登美はじっと堪えていた。主計になにをされても、指ひとつ動かさなかった。しかし、涙だけは流れてきた。なにも考えてはいない、なにも思ってはいない、それでも涙は自然と瞳からあふれてきた。
主計は登美のその態度はすべて初めてだからだと理解した。
――いいのは縹緻だけじゃないな、主計は隣で背を向けて硬くなっている登美を横目で見た、いくら初めてとはいえ涙を流すとは、こんな初心な女は初めてだ、新鮮でいい、今後おれが色々教えてやろう、これは楽しみだ、どうせ慣れれば女は一緒だからな。
主計は登美に満足した。美しいというのはもちろん、商売女しか知らない彼にとっては、頑なな登美をどう変えていくか、またどう変わっていくのかを見るのが楽しみだった。体が弱そうには思えなかったが、治ったとも聞いている。弱いなら弱いで子は産めないだろし、そうなったら側女を置けばいい、まあしばらくは飽きはこなさそうだ、それが一夜目に主計が持った印象であった。
それから毎晩主計は登美を求めた。しかし登美は体調を理由に断わることが多く、押しきられるようなときでも、最初の夜と態度は変わらなかった。
しかし、昼間の登美はしっかりと家事をやり、小姓組頭になった主計にもよく仕えた。暗い顔でいることのほうが多く、無理にでも仕事を見つけてそれを懸命にこなすことで、つらいことを考えないようにしようとしている様子であった。
家僕たちもそれには気づいていた。特に登美と接することが多い下女らは同情的であった。主計の人を馬鹿にしたような言葉や態度は彼女たちも知っていたので、「奥様はそれがつらいのだ」そう云いあって、努めて明るい話題をしたり、励ますようなことを云ったりした。
台所に行けば、亭主のいた年増の下女が、いかに自分の旦那はだめであったかを話し、部屋でひとりでいると、誰かが用事を作ってやってきては、楽しい話しをしたり、時にはどれだけ男運がなく苦労しかを話したりした。
死んだつもりで嫁いできた登美であったが、そのように人の情け、思いやりに触れることで、心が少しずつ温かくなっていくように思えた。それは、自分だけがつらい思いをしているのではなく、みながそれぞれに生きていく中で苦労をし、耐えているということを知ったということもあった。
八月が過ぎ、閏八月に入ると、登美は徐々に笑顔を見せるようになった。下女や家士たちの中では声を上げて笑えるようにもなった。周りが気を遣ってくれている、いつまでも心配をかけるわけにはいかなかったし、心から笑えることも増えていった。
一方で、主計は日に日に機嫌が悪くなっていった。家の中でなんとなく自分だけがのけ者にされているような感じがした。だがそれはどうでもよかった。原因は登美であった。
確かに登美はしっかり家のことをやり、主計の世話も嫌がらずによくした。だが違う、主計はそう思っていた。必要な会話はする。しかしそれ以上の話、たとえばたわいない世間話やその日に起こったことなど、そういうことを話したことないのだ。もちろん主計からする時は、相づちはうつ。だが登美からそういう話をしたことはなかった。下女と明るく笑う声を聞いている。無口な性質だと思うこともできなかった。
自分に心を許していない。それは間違いのない、確信として主計の心に生まれていた。親に決められた縁談が気に入らないのだろう、始めはそう思っていた。しかしそれは、自分のことが気に入らないのでは、という思いに変わった。
主計自身も親に決められた縁談を嫌っていた。ただ、運良く養子ではなく一家のあるじになれ、望んでも得られないような美しい妻を娶った。だが登美はどうだろうか、よからぬ噂しかない男が夫になったことが気に入らないのではないか、そう思うようになったのである。
しかしそれにしても、妻の心は頑なであった。特に夜は、最初の夜となにも変わっていない。まるで石を抱いているように無反応で、心が通うことなど皆無であった。楽しもうという感じはない、ただ、苦痛でしようがなく、それを耐えているだけのようであった。
初めてだからだ、最初の一月はそう思っていた。それが自分が嫌いだからかという思いになり、三月目になり、想う男がいたのでは、という思いになった。
自分の事を気に入らないのは確かなようである。しかし一度嫁に入った以上は、夫となった男と良い関係を築くために多少なりとも努力するはずだ。まだ知らない夫の良い所を見つけるためにいろいろ話しを聞いてみたり、また、自分のことを知ってもらおうとさまざまな形で自分を表現するはずである。
現に主計は、自分のことは色々しゃべり、気を引こうと優しく接してみたり、また、冷たく突き放してみたりと手を尽くしてきた。一方登美は、茶屋でたまたま隣になった人に接するような態度しか取らない。
――これはおかしい、主計はそう思った、おれという人間に始めから興味がないし、関心を持とうともしない、むしろ避けている、夫としておれを認めたくはないのだ。
嫌いだから、それだけで理由はつけられなかった。そうすると答えはひとつであった。想う男がいる。
そう考えてみると、すべての点に合点がいった。そして、その疑いを持てば持つほど、それは確信へと変わっていった。
主計は頭に血を上らせた。それは自分がもう登美のことを気に入っていて、それなのにその登美には他に想う男がいるという嫉妬心であり、気を引こうと色々やってきた自分が道化であったという自尊心を傷つけられた怒りであった。そこまで拒むほど想っていたなら、なぜこの縁談を受けたのか。
――父上だ、主計は直感的にそう思った、この縁談を断ると父上ににらまれる、それが恐かったんだ。
またしても権力である。権力のために自分は駒としての人生を歩まされ、結婚もそのためにこの有様である。
――もういやだ、主計は心の中でそう叫んだ。
権力。そのせいでどれだけ自分は嫌な思いをしてきただろうか。城代家老の息子ということで、必要以上にちやほやされてきた。それで天狗になった時期もあったが、その後に、権力に対する媚びであると知ったときに感じた恥ずかしさ。学問は苦手で武術も上達しない、そう分かったときの回りの冷たい目。虎が猫を産んだといわれたこともある、二人の兄には無能呼ばわりされ、父には諦められ存在を無視された。そこに権力がからんでいなければ、学問ができなかろうが、武術に才がなかろうが、そこまで肩身の狭い思いはしなかった。この結婚も、権力がからんでいなければ、なかったものだ。なければこんなに苦しい思いはしない。
――もういやだ、このまま云いなりになってたまるか、権力に取りつかれた奴らにひと泡ふかせてやる、親父の足を引っ張る、いや、権力に目がくらんだやつらの足を根こそぎ引っ張ってやるんだ。
主計は自分の人生を大きく邪魔する権力に、復しゅうを誓った。
運良くというのか、主計は小姓組頭という殿に近い立場にある。主計は、それを利用し殿に取り入り、信用を得、父やその他の出世と身の保身に躍起になっている連中の立場が悪くなるようなことを進言してやろうと考えた。浅はかで程度の低い考えであるが、主計にとっては、それが精一杯の反抗であった。
権力というしがらみから逃れて気楽に生きたいのに、政治の手段として人生を決められた。父は権力の増大と保身のために、汚いことをいくらでもしていた。その汚い世界に自分も入らなければいけない。しかしいま、それらをすべて否定し、仕返しのできる手段を思いついたのである。
汚い奴らのために汚い手を使う、なにが悪いのだ、主計はそういう気持ちになっていた。生きる目標を自分の手で見つけ、自分の手でそれを実行できるのである。
主計は、これまでと見違えるほど真面目に働き出した。二十年間持てなかった生きる目標に向かって歩き出したのである。仕事を楽しいと思えるほど、熱心に仕事に励んだ。
だがそれは外に出たときのことで、家に帰ると憂鬱な気持ちになった。自慢してまわりたくなるほど美しい自分の妻が、誰か他の男を想って、いつまでも心を開かない。思い通りにいかないからこそ、余計に主計は登美への想いを強めていった。
もう夫婦になって四ヶ月になる。
――実は初めての男はおれではないのではないか、ある日、主計はふとそう思った、いまでも初夜と変わらない反応しかないということは、あの日が初めてであったという確信がないということだ。
登美が初心だと思っていたことに関しては、主計は色々、悪く云えば下司な考えを持っていたので、そう気がついたときには、恥ずかしさが込み上げた。そしてそれは、だまされたという怒りになった。
初めてでないのなら相手がいたはずだ、相手は誰だ、主計はそう思った。
「松岡茂十郎」主計はふとそうつぶやいた。
どういうわけかしらないが、その名が頭に浮かんだのだ。身分の高い娘、二年間待っていた、それを思い出し、きっとそうだと思った。
主計は、推測にもかかわらず、相手が茂十郎であると思うと、怒りで体が震え出した。
尊皇攘夷
《一》
茂十郎の洋学塾は、九月になると塾生の人数も落ち着いてきた。道場のほうは十七名。士分のものが五名で、残りは足軽。その残りの十二名は洋学塾も兼ねていた。そのほかに洋学塾だけのものが九名いた。つまり、洋学塾は二十一名で、全体で二十六名が在籍していたのである。二十一名の足軽の若者たちは、すべて茂十郎より年が若い、十二から十九歳のものたちであった。
なぜ茂十郎より年が上のものがいないのかというと、茂十郎が産まれる前の年に流行り病がひろがり、多くの子供が死んだということがある。全体的に数が少ないということもあるが、その年上のものは、茂十郎を慕う若い連中についていけないとも思っていた。茂十郎を頂点に掲げる足軽の若者たちは、独立した集団、ある一派という印象があったので、入りづらかったのである。
事実、彼らの結束は固かった。茂十郎を慕っていること、勤王の思想を密かに持っていること、これらが結束を強くしたのである。茂十郎を慕うことと、尊嬢を唱えることは、矛盾でもある。茂十郎を慕う以上は、なにも事を起こせないからである。
しかし、彼らの中に矛盾という思いはなかった。思春期ということもあるのか、自分たちを押さえつける力と体制に反発したいのだ。その中に一人で切り込んでいこうとする茂十郎は、英雄のように映るし、また、勤王の思想は現体制を非難するのにちょうどよい思想であった。その上それは、力を誇示したいという若者のの見栄を強く刺激した。同一線上に二つの思いがあったのである。
茂十郎の意図とは逆に、洋学塾で学ぶ新しい知識は、幕藩体制に対する疑念と批判を強めることになった。洋学塾に行けば、自然と仲間たちと会える。それは洋学塾を彼らのたまり場へと変えていった。
茂十郎はそれについてなにも云えなかった。知らないところで過激な思想へつき進められるより、目の届くところで、下手なことはしないよう監視ができるほうがよかったのである。もちろん、茂十郎の目の前で勇ましいことを云ったり、気焔をあげたりすることはなかった