序  白鷺   鯖瀬藩は越前の小さな藩である。城はなく、南北に伸 びる北陸道を中心とした台地に城下町は作られ、横幅三 町縦十町ほど(一町約百九メ――トル)の狭さしかない。 その上ここは宿場町でもなく、城下町は賑わいと云える ほどの活気はなかった。  むしろ活気があるのは伊野川のほうであった。舟運が 盛んなのは近隣の藩でも同様で、鯖瀬藩も現藩主である 諒勝が物産会所を設けるなどして力を入れていた。自然 と商業の中心は河川沿いに集まり、商家が軒を連ね白塗 りの土蔵も建ち、人が集まることから飲食や遊興を目的 とした店も並んでいる。  それでも城下町の規模よりも小さいくらいで、少し足 を伸ばすと、軒はまばらになり、水田が広がっている。 南に下ったこのあたりでは、澤屋という回船問屋がもっ とも大きく店を構えているが、後はすっかりさびれた景 色になる。澤屋の隣に老人夫婦が草履などを売っている 店があり、その二軒の境に小さな小路が通じている。そ の先にはちょっとした空き地があった。そこは、澤屋の 高い塀、草履屋の生け垣、川沿いの葦によって死角にな っており、近くに住むものでも知るものは少なかった。  その空き地のほぼ中央に一人の若い侍が立っていた。  師走は十二月の五日、三日前に降った雪はもう大半が 溶けていた。この地は比較的雪は少なく、積もっても膝 までというところである。雪のあとは暖かい日が続き、 いまは日陰の雪ばかりで、あとはぬかるんだ地面がその 名残りを残していた。  その空き地も同様で、雪は日のあたらない隅のほうに わずかに残るだけであった。冷たい風が弱く吹いている。 その若い侍は傾いてきた太陽をため息をつきながら見た。 吐く息は白くなり始め、男は懐に手を入れ、足下を注意 深く見ながら歩きだした。  その男は背が高く、体格の良い体をしていた。年は十 七八というところであろう、精気のあふれる強い意志を 感じる特徴のある目をしていた。決して大きくはないが、 燃えるような情熱を表に現し、それでいて母親を求める ような淋しげな色もたたえていた。着ているものは打ち 破れたようなものばかりで、元の色がなんであったのか 判別できないほど繰り返し洗われたと思われるものであ ったが、むしろそれが似つかわしくないような人品をそ の男は備えていた。  寒さを紛らわすためであろう、男は注意深く、まばら に生えているすすきの枯れ枝を踏み折りながら、盛り上 がった根を選んで空き地の中を歩き始めた。空き地には 所々緑の雑草が地を這うように生えていたが、そこに足 を入れると思わぬほどぬかるんでいた。  どのくらいそうしていただろう、男が行きつ戻りつし ていた場所のすすきはすっかり踏み折られてしまってい た。やがて男は立ち止まって、じっと足下を見た。それ は地面を見るという行為ではなく、もっと遠くのなにか を見ているという様子であった。男は口を引き結び静か に目を閉じた。そして口の中でなにかつぶやくと、迷い を打ち払うように空を仰いだ。  船が通り過ぎたようだ。ここからでは背の高い葦の群 生で川は見えないが、船乗りたちの呼びあう声が驚くほ ど近くに聞こえた。  男は目を細めて川のほうを見やり、そしてまた表通り のほうへ目を移した。誰かを待っているのだろう、もう 何度もそのように表へ通じる小路へ目をやっている。寒 さで体を震わせ、男はまた歩き始め、ややすると立ち止 まってその小路を見ていた。  そんなことを繰り返すうちに、日はもう対岸の山並み にかかり始めていた。男は大きく息をはき、両手を懐か らだして息を吹きかけた。不安の陰が男の顔色にあらわ れた。また懐に手を戻し、歩き始めようと足を踏み出し たまま、男は動きを止めて小路に目をやった。  ぬかるんだ地面に足をとられそうになりながら、そこ から若い女が小走りに空き地へ入ってきた。その後から 供と思われる娘もやってきた。その若い女は地味な小袖 を着ていた。それは品のいい、派手さを押さえたもので、 全体から身なりの良さが感じ取れた。よほど身分ある家 の娘なのだろう、供の娘でさえもちょっとした商家の娘 のように見えた。若い女は男のもとへ駆け寄り、供の娘 は空き地の入り口で背を向けるようにしていた。  女は男の前で止まろうとし、足を滑らせた。男がとっ さに腕をつかみ、女は荒い息でそのまま男を見上げた。 「遅くなりました」  女はそう云って男の手を握り、「冷たい」と云って男 の手を愛しそうにさすった。 「こんなところに呼び出して申し訳ない」  男はそう云って、さりげなく女の手を解いた。女は一 度男のほうへその手を伸ばそうとしたがやめ、帯の前で 手を握り締めて呼吸を整えた。 「文を読みました」  女はあごを引いて静かにそう云い、ゆっくり顔を上げ て男の目を見た。男は黙ったまま目をそらし、色あせた 丈の短い袴を叩くような仕種をし、同じく何度も打ち直 したと思われる羽織の崩れた襟を正した。  男は息をつき、女に視線を戻して云った、「江戸へ行 きます」 「はい」  女ははっきりとそう云った。男の胸にいまにも飛び込 みそうになる体を必死に押さえるように、女は両足を手 で強く握った。 「わたしも」女はそう云って一度深呼吸をした、「わた しも行きます」  決意を表わそうというはっきりとした口調だった。歯 を食いしばるように唇を結び、西日を浴びた頬は紅潮し たように赤くなっていた。男を見上げるまだ幼さの残る 顔は、女としての喜びを満面に表わしていた。  男は、女のその表情に困惑の色を見せた。 「いけません」男は首を振った、「あなたが来ても、な んにもならないのです」 「わたしはもう決めました」 「しかし」男はため息をついた、「聞いてください、あ なたが私と一緒に行くということは、駆け落ちをすると いうことです、そんなことをすれば、私もあなたも、た だではすまない」 「わたしは、それでもかまいません」女は高揚した顔で そう云った、「このまま二人が結ばれなくなるよりは、 江戸でもどこでも、わたしは二人で暮らせるほうがいい」 「私は戻ってくる」男はゆっくりとそう云った、「その つもりで江戸に行くのです、ことによると長崎まで行く かもしれない、道中は決して楽ではないし、遊びに行く わけではありません、学問のためです」  男はすがるように見つめる女の瞳を見て、諭すように 続けた、「あなたを足手まといに思うこともあるかもし れない、それに食べることにも困るような暮らしになる ことは目に見えています、そんな目に合わせることはで きない」  女は激しく首を振った、「いまでさえ縁談は来てます、 これから何年もあなたがいないのに、わたしはどうすれ ばいいのですか」  男は顔をしかめた、「待っていてくれとしか云えない」 「でも」 「そう」男は女の言葉を遮った、「いつになるかは分か らない、それにいま以上の学問を身に付けたからと云っ て、すぐに取り立ててもらえるという確証はない」 「しかし」と云って男は女の肩を握った、「これしかな いのです、このままここにいたのではいつまでたっても あなたと釣り合う男にはなれない、私は自分を試してみ たい、そして私はその自信があるのです、ここであなた を連れていくことは敗北です、なにもせずに逃げ出すこ とになる、私は堂々とあなたを迎えに行きたいのです」  女は鼻をすすり、訴えるように云った、「わたしは身 分など気にしません、前例のないことではないし、あな たと一緒になれるならなにもいらないのです」 「それは何度も話しました」男はそう云った、「私には 夢がある、それはあなたも承知しているでしょう、これ は私だけの夢ではなく、私以外の軽輩のものたちの夢で もあります、私が取り立てられることが彼らの将来の希 望にもつながるのです、分かってください」  女は縋り付くように男を見つめていたが、男はやがて 足下に目を落とした。女は目を逸らさなかった。瞳は男 をかきむしるように見開かれ、呼吸は荒く、震えていた。 言葉が後からあふれてくるのを押さえている様子だった。  男は女が話し始めるのを待った。  やがて女は口を開いた、「せめて、約束だけでもでき ませんか」 「許されるはずはない」男は静かに首を振った、「例え 許されたにしても、それでは気がすまないのです、私は 自分自身の力で、あなたを嫁にもらいたい、そのために 江戸に行くのです」  女は弱々しくうつむき、男の袖を握った。 「縁談はくるでしょう」男はそう云った、「それはなん とか断ってほしい、勝手なようだがいまはそうしてくれ としか云えない、多くのものが信じてくれたように、あ なたも私の出世を信じてくれました、私は必ず帰ってき ます、そして胸を張ってあなたをもらいに行きます、信 じてください、信じて待っていてください」  女は男の腕を引き寄せ、その胸に顔を埋めて咽びあげ た。男は惑ったように手を拡げていたが、やがて女の肩 にそれを恐る恐る回し、そして強く抱きしめた。 「なるべく早く帰ってきます、あなたが羨まれるような 男になって、必ず帰ってきます」  男はさらに強く女を引き寄せ、女もすがるように抱き ついた。そして二人は激しく唇を合わせた。  真っ白な鷺が二人のすぐ上を音もなく、すうっと現れ、 翼を使いふわりと葦の向こうに消えた。女はうつろな瞳 をわずかに開け、その様子を見るとはなしに見ていた。 男はいっそう強く女の唇を押しつけ、女は目を閉じて溶 けるように体の力を抜いた。  川の水が静かに岸辺をさらう音が聞こえてくる。 男はゆっくりと女の肩に手をやり体を離した。男の唇 には女が薄く付けてきた紅がうっすらと付いていた。女 は隠すように袖を口に当て、潤んだ赤い目で男を見た。 「もう行かなくては」男が云った、「あの二人がこれか ら門出を祝ってくれるのです」 「わたしは待ちます」女は自信を持った顔でそう云った、 「わたしはもうあなたのものです、あなたの帰ってくる のを、きっと待っています」  女は思い出したように、懐から紙に包んだ金を出した。 男は驚いたようにそれを押し返した。  女は首を振り、「あなたのために使おうと思ったもの です」そう云って無理に男の手に握らせて云った、「心 だけでも、わたしはもうあなたの妻です、なにも遠慮す ることはありません、どうかこれを使って学問に打ち込 んでください」  男は素直に金を受け取った。女はその金で二人で江戸 に行くつもりだったのだろう、それはかなりの重さがあ った。それだけの大枚を持ったことはない、男はその重 さを胸に刻むように両手でそれを握り締めた。 「正直なことを云えばどれだけ助かるか」男は涙すら浮 かべてそう云った、「これで帰りが二年は早くなるで しょう、決して無駄にはしない、何倍も値打ちのある男 になって帰ってきます、どうぞ、どうぞお体を」  そこまで云うと男は言葉を詰まらせ、くるりと背を向 け、ご免と云って駆けるように空き地を後にした。  また船が通り過ぎたようだ。男が去った空き地に、に ぎやかな船乗りたちの掛け声が聞こえてきた。  女は放心したように立ちつくしていた。供の娘が心配 そうに近づいてきた。女は、まるで熱いものにでも触る かのように、唇にそっと手を当てた。軽く目を閉じてし ばらくそうしていたが、顔を上げると力強い表情で、供 の娘にうなずいた。    三人の友      雨戸はすっかり明け放たれており、暖かな日差しが障 子窓から強く射していた。襖の隙間から入る日の光が顔 の上に静かに移動した。  清水小太郎はまぶしそうに薄目を開け、右手を顔に持 ってきて強く顔面を擦り、その光を避けるように横を向 き、部屋の中を見回した。喉が渇いていた。口から喉に かけて強い粘着質のものがこびりついているように感じ る。  小太郎はそこが自分の部屋であることを確認し、水差 しを探した。水差しはなかった。頭の中が異物でも入れ られたように重く、心臓の鼓動とともに痛んだ。 「飲み過ぎた」  小太郎はそうつぶやいて、どうやって帰ってきたか思 い出そうとしたが、ずいぶん飲んだことは覚えているが、 帰りの道程はなにも思い出せなかった。 「秦野と飲むといつもこれだ」そう云って小太郎は起き 上がった。袴のまま寝ていたので、浴衣一枚になり羽織 を拾い上げて襖を開けた。  春のまぶしい日差しが全身を包み、小太郎は眼球が痛 むのを感じて目を閉じた。昨夜は冷え込んでいたが、そ の日は暖かく、彼は羽織を投げ捨てて伸びをした。 ――そういえば、誰か起こしに来ていたな。外からの光 を見て思い出したが、さっきまで見ていた夢と現実の区 別がつかなかった。 「まあいい」  そうつぶやいて、小太郎は台所へ行った。水瓶から直 接柄杓で水を立て続けに三杯飲んだ。喉の渇きが取れた ことで小太郎は一と息ついた、頭はまだ痛むがそれほど ひどい宿酔いではないようだ。小太郎は首を揉んでから もう一杯水を飲んだ。 「行儀の悪いこと」母親の椙女が後から声をかけた。 「ああ母上」小太郎はなんでもないという顔を作りなが らそう答えた、「いまは何刻ですか」 「もうとっくに昼ですよ」椙女はとがめるようにそう云 った、「何度も起こしにやったのにこんな時刻まで寝て、 また父上からお叱りを受けますよ」 「少し寝過ぎましたか」  平気な顔でそう云って、小太郎は母親の横を抜けて居 間へ行った。  椙女はあとに付いてきて小言を云った。 「毎日のように飲みにばかり出かけて、それも加減も知 らずに飲み過ぎてばかりいるようでは困りますよ、いま もわたしが起こしに行こうと思っていたところです、ま ったく、江戸にやってからというもの遊びばかり覚えて、 ろくなことがありません」  小太郎は、うっとうしいと云いたげに片手を振った。 「まあいいじゃないですか、こんなことができるのもい まのうちなんですから」 「いまのうちなんてことがありますか」椙女は云った、 「役目に付いて、ご自分で禄を頂くようになってからあ なたのお金で遊ぶならまだしも、――まあ待ちなさい、 どこへ行くの」  小太郎は廊下へ出ようとしていたのを振り向いて云っ た、「汗をかきましてね、いい陽気ですし、井戸で軽く 流そうと思いまして」 「まだ話しは終わっていないのよ」 「大丈夫です、どうせ三男の冷や飯ですけど、もしも役 に付いたら私だってきちんとしますよ、いまは昼まで寝 ても誰に迷惑をかけるわけでもなし、もうしばらく好き にさせてください」  そう云って小太郎は井戸のほうへ歩いていった。椙女 はまだ云い足りないとみえて小走りに後を付いてきた。 「迷惑はかけていますよ、現にいまだって信兵衛殿が待 っているのですよ、朝だってあなたの分の支度もしてい るというのに、いつもいらないと云っては食べないじゃ ないですか」  小太郎は立ち止まり、振り向いて云った、「菊池が、 いまいるんですか」 「そうです」 「そうですって、そういうことは早く云ってください」 「何度も云いましたよ、それで起こしに行くところだっ たのですから」 「分かりました、着替えるまで待たせておいてください」  そう云って小太郎は下駄を履いて庭に降りた。 「あなたは冷や飯、冷や飯と云いますけどね」椙は呼び かけるように着物を脱ぎ始めた息子に云った、「冷や飯 と云うのでしたらもう少しおとなしくすべきでしょう、 聞いているの、――そう、そう云えばお父様がそのこと でお話があると云っていましたよ、今日はどこへも行く なということですから、おとなしく家にいなくては駄目 ですよ」 「分かりました」と云って小太郎は不満そうに着ていた 浴衣を井戸端へかけた。  椙女はまだなにか云いたそうにしていたが、息子が手 桶から水を浴びるのを見て、あきらめたように引き返し た。 ――話しがあるって、小太郎はため息をついた、小言な らいいが、また養子の話しかもしれない。  そう考えると小太郎の気は重くなった。  清水家は代々筆頭家老で、父親の信尭は城代家老であ る。鯖瀬藩で最も格が高い家の一つで、三男とはいえ清 水家と縁戚関係を欲する家には困らなかった。  まだ養子には行きたくない、小太郎はそう思った、ど うせいつかはどこかへ養子に行くんだ、あと四五年はい まのままで気楽な暮らしがしたい。  小太郎は桶から両手で水をすくって顔を洗った。酔い の残るむくんだ顔には冷たい水が心地よかった。その桶 からもう一度体に水をかけ、そのまま浴衣を羽織り、手 拭いで顔を拭いた。  小太郎は二十歳になった。背のあまり高くない、線の 細い体で、顔も細長く鼻が大きく眉が太かった。悟った ような顔で下唇を突き出しつまらなそうな顔をする癖が あり、いまもその顔でなんとか縁談を断る手はないかと 考えていた。  小太郎が着がえを済ませていくと、菊池信兵衛は菓子 を摘みながら出された茶を飲んでいた。信兵衛はゆった りと肥えていて、顔も肉付きが良く、生真面目そうな細 い目と髭の濃い顔立ちで、小太郎と同じ歳だがもっと歳 を取っているように見え、いまもうまそうに茶をすする 姿はいい中年の様相を呈していた。 「なんだ、顔色が悪いな」入ってきた小太郎に信兵衛は そう云った。 「飲み過ぎだ」そう云って小太郎は座ろうとしたが、 「おれも茶漬けでも食おう、かまわないか」そう聞いて 部屋を出た。  小太郎は茶漬けを持って戻ってき、「待たせるのも悪 い、ここでいいだろう」と云って食べ始めた。 「今朝飯か」 「そうだ、秦野は底抜けだ、まともに付き合うといつも この伝だ」 「秦野か、いい噂は聞かないな」信兵衛はそう云った、 「しかし、そうすると飲む話しは迷惑だったかな」 「今夜か」小太郎は云った、「今夜なら喜んでいくぞ、 ぜひ今夜にしてくれ」 「いや駄目だ」信兵衛は云った、「今夜は誘ってくれる なとお母上から釘を差されている」 「手回しがいい」 「なにかあるのか」 「どうせ婿入りの話しだ」 「まだ逃げているのか」 「そんなところだ」小太郎は下唇を突き出し、例の顔を した、「で、菊地から飲もうと云うのも珍しいじゃない か、妻女が懐妊したそうだが、その祝いか」 「それは無事産まれたら祝ってもらおう、実は松岡が帰 ってきたんだ」 「松岡ってえと、茂の字だな、奴さんやっと帰ってきた か」  信兵衛は思い出したように江戸言葉を使う小太郎に苦 笑いをした。 「そう、その茂の字だ」信兵衛はそう云った、「昨日帰 ってきたんだ」 「一年半ってところか」 「二年と二月だ」 「おまえは細かい、よくそこまで覚えてるな」 「友達のことじゃないか」信兵衛はむきになって云った、 「二年、いや三年前に師走に二人で送り出したじゃない か、まさか二年で忘れるほど薄情じゃないだろう」 「それでどうした」小太郎はつまらなそうな顔をした、 「江戸で立派に名を上げてきたのか、おれは一度も江戸 ではそういう噂は聞かなかったがな」 「遊び過ぎで連れ戻された男の耳に入るような噂はない だろう」信兵衛は冗談めかしてそう云った、「ともかく 江戸でのことはまだ聞いていない、祝いの席でゆっくり 聞こうと思っているんだ」 「云われたな」小太郎はそう云った、「しかしおれは江 戸に不穏な動きがあるから戻されたんだぜ、現に坂下門 外でなにかあったらしいじゃないか」 「老中の安藤様が襲われたんだ、しかし清水がそんなこ とを知っているとはな」 「知ろうとしなくてもいやでも耳に入ってくる」  いやな世の中だ、とつぶやいて小太郎は話題を戻した、 「あれからもう二年か、それにしても二年は早すぎるな、 本当に祝いの席になるのか、江戸は学問なんかできる状 況じゃない、もし逃げ帰ってきたのなら松岡に悪いだろ う、そこは確かめたんだろうな」 「自分から帰ってきたと知らせてきたんだ」信兵衛は小 太郎の口調に不満そうに云った、「逃げ帰るなんてこと はない、松岡なら二年で十分だ、それは清水も知ってい るだろう、あいつは必ず一角の人物になる、そうだろう、 おれはいまから会うのが楽しみだ、清水は冷たいぞ」 「悪かったよ、なにしろ友達だからな」  小太郎は友達という言葉を強調して云った。  信兵衛は眉をひそめた、「とにかくそういうわけだ、 本当は今日にでもと思ったのだが、明日にしよう」 「おれはいつでもいい」小太郎はそう云ってから身を乗 り出した、「場所は鶯閣楼がいいだろう、お弓という妓 がいるんだ、菊地は知らないだろうな、あいつはいい女 だ、江戸の女にもああいうのはなかなかいない、あいつ はいまおれに夢中なんだ、ちょうどいいおまえたちにも 紹介しよう、鶯閣楼がいい」 「いや、あそこは格が高すぎる」信兵衛はそう云った、 「松岡が気を使うだろう、松尾屋あたりがいいと思うん だが」 「松尾屋か」小太郎はいやそうに顔をしかめた、「あそ こは暗い、妓も付かないで酒を飲むのか」 「まあそう云うな、芸妓がいてはゆっくり話しもできな い、たまにはそういうところで飲むのもいいだろう、酉 の刻でどうだ」 「六つ(日の入)か、おれはいいが菊池の役所は大丈夫 か」 「まだ雑用だけだ、間違いなく行けるよ、いまだって役 目の途中なんだ」 「案外気楽なもんだな」 「大目付けの嫡男というのも、変に気を使われていやな ものだ、なにをしてもいい顔をされる、おれが父上に告 げ口でもすると思っているんだろう」 「そのわりに菊池は勤勉じゃないか、もう少し遊びも覚 えたほうがいいぞ、どうも国許の人間は固くていけない」 「その忠告はありがたくもらっておこう、じゃあもう行 くよ」そう云って信兵衛は席を立った、「そうそう、忠 告のお返しというわけじゃないが、清水も早く結婚する といい、家族を持つということは男としていい刺激にな る、それにおまえが遊んでばかりいることにいい顔をし ない連中もいる」 「特別な主張がある奴はなにかにつけてケチをつけるも んだ」小太郎はどうでもいいと云いたげにそう云った、 「云いたい奴には好きに云わせればいい、しかし結婚は ご免だ、まだ菊地のように老成したくはないんでね」そ して顔をしかめた、「どうせなるようにしかならいんだ、 もっといまを楽しみたいんだよ」  すっかり江戸で毒されたな、そう思いながらも信兵衛 はなにも云わずに清水家を後にした。        菊地信兵衛は大目付菊地兵右衛門の長男で火消し盗賊 方と呼ばれる、いまでいう警察と消防を兼ねたような役 に付いている。三カ月前、ちょうど和の宮降嫁と同じ時 期に郡奉行の新原という家から嫁をもらった。清水小太 郎、松岡茂十郎とは十一の時に藩校で知り合い、年も同 じで藩校である心徳館に入ったのも同じ時期ということ もあり、以来親しく付き合っている。その頃から信兵衛 は大人びた落ち着いた性格で、正義感が強いことからか 人望もあり、三人の中でもまとめ役というようなところ があった。  信兵衛は小太郎に見送られ門を出た。頼まれていた使 いはどうでもいいもので、それはもう済んでいた。小太 郎と会ったせいばかりではないだろうが、信兵衛は役所 に帰って誰にやらせてもいいような書類の整理をする気 にはなれず、もう少し時間を潰そうと思った。  二月も半ばになりいま日のような暖かいが日一日と増 えていた。いまも清水家の門の脇にあるしだれ桜は、下 のほうでは白く花の芽が膨らみ始めていた。 ――散歩のつもりで城下を見回りしよう。その日の心地 よい春らしい太陽を受け、信兵衛はそう思った。 「菊地さんではないですか」  信兵衛がその桜の芽に手を伸ばそうと、垣根を覗くよ うに身を乗り出したところで、そう声をかけられた。見 ると笹原、若松という二人の足軽の若者であった。 「お久しぶりです」若松がそう云った、「どうしたんで すか、なにか不審なことでもありましたか」 「いや」信兵衛は決まりが悪そうに桜の花を見て唇で笑 った、「二人はどこかへ行くのか」 「道場の帰りです」今度は笹原が答えた。 「そうか」信兵衛は懐かしそうに目を細めた、「もう一 年になるな、笹原はさらに腕を上げたそうじゃないか」 「もう五番手です」笹原の代わりに若松が答えた、「菊 地さんもたまには顔を出してください、道場以外では菊 地さんには会えないのですから」 「そうだな、役目を第一にと思って道場と学問所をやめ たが、いま思えばせめて道場は続けていたほうが良かっ たかもしれない」信兵衛はそう云った、「もうすっかり なまってしまった、いま行っても若松にもいいようにや られてしまうだろう」  信兵衛は道場では常に三番か四番手に位置していた。 そんな、と照れたようにする若松の横で、笹原は不服そ うな目で信兵衛を見た。 「役についたらもう武芸の稽古はしないのですか」  笹原はそう云った。 「木刀くらいは振るさ」信兵衛は笹原の視線にあえて笑 顔で答えた、「しかしなまっているのは事実だ、暇を見 つけて顔を出そう、その時は笹原に稽古をつけてもらう かな」  信兵衛のおおらかな物云いに、挑戦的な態度をとった ことを恥じたのか、笹原は顔を下に向け耳を赤くした。 「若松はどうだ」信兵衛は云った、「確か松岡が学問の 才があると云っていたようだが」 「松岡さんがですか」若松はうれしそうにそう云った、 「そうですか、そんなことを菊地さんに」 「そうだ、その後も続けているんだろう」 「いや、はい」若松は曖昧に答えて話題を変えた、「菊 地さんは見回りの途中でしたか」  信兵衛は、儒学ではないなと思った。彼らは身分の低 い足軽であった。そしていま彼らの間に尊皇の思想が広 がっていることを信兵衛も知っていた。 「見回りと云うほどじゃない」しかし信兵衛はそれにつ いてはなにも云わずにそう云った、「外に出る用があっ たのでついでに清水のところに寄ってきたんだ」  清水、そう聞いて笹原は不潔なものでも見たように顔 をそむけ、若松と目を合わせた。それは明らかに小太郎 を侮蔑した様子であった。 「清水に会っては悪いのか」信兵衛は厳しい声でそう云 った、「清水はおれの友達だ、そういう顔をされるのは 不愉快だ」  笹原は動揺して「そういうつもりではなかった」と慌 てて詫びた。  信兵衛は穏やかな性格であるが、正義感が強く一本気 であることを二人は知っていた。気さくなたちなので若 いものからも好かれたが、生真面目な分、(争いを嫌う ので怒ったところは見たことはないが)怒らせるともっ とも恐いだろうと噂されていた。 「松岡が江戸から帰ってきたんだ」信兵衛は二人の様子 を見て今度は穏やかに云った、「そう、おまえたちのよ く知っているあの松岡だ、それで二人で帰郷を祝おうと いう相談だったんだ」 「そうですか、松岡さんが」  二人は目を輝かせた。笹原も急に顔つきが変わり、十 七の青年らしく無邪気な笑顔を見せた。 「ついに帰ってきたんですね」笹原は興奮気味にそう云 った、「で、どうなんです、もうお会いになったのです か」 「いいや」信兵衛は首を振った、「松岡が使いをよこし て知っただけで、まだ会ってはいない」  松岡茂十郎は一部の下級武士の間では信仰に近い慕わ れ方をしていた。それは茂十郎が剣術では師範並みで、 学問も藩校では常に主席であったためである。本来足軽 が藩校に入ることはできなかったが、近年になり特に優 秀なものは藩校で学ぶことが許され、その中でも彼は白 眉であった。茂十郎はいずれかならず身分を超えて出世 するだろうと噂されていた。茂十郎のようになる、とい うことが同じ低い身分のものたちの間では目標であり、 また憧れであった。  茂十郎が慕われるのにはもう一つ理由がある。彼は非 常に面倒見が良く、頼まれなくても進んで人のために行 動した。特に同じように低い身分の後輩には親身で、武 芸に向いていると思われるものには道場が終わった後に も稽古を付け、学問が好きなものには自分の教本を写し て与え、細かいところまで教えてやるのであった。それ だけではなく、喧嘩があれば仲裁に入り、悩みがあれば 聞いてやり、金に困っていると聞けば無理をしてでも貸 してやったりと、茂十郎の彼らに対する面倒見の良さを 上げればきりはない。 「我々も祝おうじゃないか」彼らは嬉々としてそう話し 合った、「そうだ、形だけでもいい、是非そうしよう」  信兵衛は満足げにうなずいた。自分の友達である茂十 郎がそれだけ好かれていることは、彼にとっては喜びで あった。小太郎と茂十郎は、彼には最も長い付き合いの 親しい友人で、特に大事にしていた。茂十郎に関しては 二年間、簡単な手紙のやりとりしかしていなかったが、 なにも心配することはなかった。一方、二カ月前に江戸 から帰ってきた小太郎は行状が悪くなるばかりで、信兵 衛としては心配の種であった。 「ところで、清水はもう道場には行っていないのか」  信兵衛は、小太郎に対する二人の態度から、なにか聞 けはしないかと思いそう問いかけた。 「あの人はもう駄目です」  笹原がそう云った。若松は、「おい」と云って肘で制 した。 「さっきのことは忘れてくれ」信兵衛はそう云った、 「友達として清水の心配をしているんだ、おまえたちの 目から見てどうなのか、正直なところを聞かせてくれな いか」  二人は目の隅でお互いを見ながら、うつむいて黙って いた。 「それだけひどく思われているということか」信兵衛は ため息をついた、「道場にはまったく行かず、心徳館に も顔を出していないそうだな」  二人はうなずいた。 「評判が悪い原因はそれか」信兵衛はそう云った、「し かし松岡と清水はまったく別の人間だ、比べるのは間違 っているし、清水は清水で思うところもある、いまは江 戸に中途半端に行ったので浮かれているんだ、もう少し 長い目で見てやってくれ」  笹原は不満そうに脇を向いた。  若松は取り付くろうように、「秦野さんと付き合って いることも良くない原因だと思います」と云った。  秦野は小太郎が江戸から帰ってきてから知り合ったい わゆる飲み友達である。名は五郎兵衛と云い、家老の次 男で素行の悪さは定評がある。 「時局が分かってないんです」笹原はそう云った、「こ の大変な時に酒と女にうつつをぬかすということが許さ れるとは思えません、我々はそのことに真剣に胸を砕い ているのです、この時局をどう乗り切るのか、それをま じめに考えない人間がいるというのは信じられません」 「時局か」信兵衛は淋しそうにそう云った、「分かった、 正直に話してくれてありがとう」  信兵衛は、松岡を祝うことで力になれることがあった ら相談してくれ、と云ってそこを離れた。  時局ということに関しては、信兵衛もなにも感じない わけではない。しかし彼らのほうがより敏感であること は分かっていた。  鯖瀬藩の藩主、間部下総守諒勝は、大変優れた人で、 優秀な人物がたどる順当な道で老中にまでなり、井伊大 老のもと安政の大獄を主導したが、逮捕者の処分につい て意見が合わず老中を辞任した。二年前に井伊大老は暗 殺され、今月にも老中安藤信正が襲撃されるという事件 があった。これにより幕府の政治体制は混乱し、諒勝も どうなるか分からないという不安が、鯖瀬藩全体に漂っ ていた。特に若い下級武士の間では、安政の大獄はやり すぎだったという声が高まり、上層部は殿の出世とその 間の一万石加増にいまだに浮かれていると非難するむき があった。彼らは日に日に過激な思想になり、勉強会と いっては、幕府と藩の権力者たちへの不満を並べていた。  その不満の中に清水小太郎の名もよく上がった。彼の 筆頭家老の息子という地位と、政治向きに興味を示さな い姿勢と、遊興にふける態度が槍玉に上がっていた。彼 らに云わせれば、小太郎は時局をまったく理解せずに幕 藩体制とそれによって与えられた身分の上にあぐらをか き、誰もが国のために立ち上がらなくてはいけないこの 時期に酒と女に興じている憎むべき人物ということにな っている。 「時局か」信兵衛は北陸道を北に歩きながらそうつぶや いた。  鯖瀬藩は幕府の譜代藩である。信兵衛は、大きな声で 主張するものがいないにしても、一部で尊皇の気運が高 まっていることを知っていたし、彼らの気持ちも理解で きた。信兵衛自身も当然不安はあったからだ。笹原など はその中心的な人物であった。彼は剣術に優れており、 茂十郎の信奉者の代表格でもあり、その分、身分による 差別への不満も強かった。 「松岡さんのような人物をどんどん取り立てて、藩を変 えていかなくてはいけない」  それが彼らの云い分であった。結局茂十郎は士分には 取り立ててもらえず、いまの学問を深め、さらには新し い学問を身に付けるため江戸へ立った。その時、笹原ら 茂十郎を慕うものたちは憤慨した。それが、苦労もせず にいずれ重職の婿に入り、権力を握るであろう小太郎へ の反発にもなっていた。  いずれ暴挙に出ないとも限らない、信兵衛はそう思っ た、清水はおれと、なによりも松岡の友達であるという ことで簡単に手は出さないだろうが、いずれ不満を清水 に集め我慢を切らすということも考えられる、彼は自ら 行動を起こしたがっている、持して時局を乗り越えよう とは思っていない。  信兵衛は、明日茂十郎に会ったら行動を慎むように諭 してもらわなくては、と思いながら役所へ戻った。        松尾屋の二階にあるその部屋は、松岡茂十郎が江戸へ 立つ前日に、菊地信兵衛と清水小太郎が彼のために門出 を祝った部屋と同じであった。信兵衛が云い含めていた のだろう、茂十郎がこの部屋の案内されるとすぐ、次々 と料理が運ばれ、すでにいまは三人分の膳がそろってい た。  部屋で一人、茂十郎は窓枠に腕をのせ、伊野川が見え る外の景色を見ていた。太陽は対岸の山並みに隠れてい たが、まだ山の手前にかかる雲を赤々と明るく照らして いた。 「二年」茂十郎はそうつぶやいた。  鯖瀬を出た時のことを思い出しているのだろう、茂十 郎は故郷の風景を確かめるように見つめていた。目に見 える木々の一つ一つから、伊野川の流れさえも、なに一 つ二年前と変わらないように思えた。茂十郎は身を乗り 出して窓から顔を出し、左手をのぞき込んだ。見つめる 先には澤屋の土蔵が見える。彼はその先にあるはずの場 所を、土蔵の向こうに見ていた。 「おれは帰ってきた」  茂十郎は感動を押さえるようにそう云い、眼下の景色 をぐるりと見渡した。彼は瞳を思いを燃やすように輝や かせ、筋肉質の大きな体を力一杯伸ばした。  長火鉢の上で銅壷が沸騰し、カンカンと音を立てた。 茂十郎は慌てて、熱くなった徳利を取り出し、火鉢につ いている台に乗せた。彼は膨張した酒を少しすすり、や りすぎた、とつぶやき、二本目の燗をつけた。  すでに部屋の中は暗くなり始め、足下が冷え冷えとし てきた。茂十郎は障子窓を閉め、手持ちぶさたそうに並 べられた膳を眺め回し、そのまま窓の前の席に座った。  四本目を銅壷に入れてまもなく、信兵衛がきた。二人 は肩を叩き合い久闊を叙し、無事この日を迎えられたこ とを喜び合った。茂十郎は信兵衛に貫禄がついたと云い、 信兵衛は茂十郎に一回り大きくなったようだと云った。 「小火騒ぎがあって遅くなった」信兵衛はそう云って詫、 茂十郎がまだ膳に手をつけていないことをうれしそうに 確認した。 「結婚したそうじゃないか」茂十郎は急くようにそう云 った、「その知らせが来たころには、もう江戸を発つ気 でいたんだ、祝いが遅れたがおめでとう、清水のほうが 先かと思っていたが、奥手の菊地が一番になったな、ど んな人をもらったんだ」 「郡奉行の新原四郎左衛門殿の娘だ」信兵衛は云った、 「覚えているだろう、新原久兵衛、そう、あいつの妹だ」  二人はしばらく立ったままで、時間を惜しむように矢 継ぎ早にお互いの二年間の消息を聞きあった。 「松岡は変わらないな」信兵衛はそう云った、「まあ座 ろう、いやそこじゃない、上座に座ってくれ」 「自分ではこれでも成長したつもりなんだが」茂十郎は そう云って上座に座り直した、「菊地の目にはまだまだ そうは写らないものだな」  茂十郎は燗の様子を身を乗り出して調べた。 「そこだよ」信兵衛はそう云った、「松岡は自分のこと より人のことを気にする、待っている間に少しはやって いてもいいものを、手もつけずに燗の用意ばかりしてい る、いいところが変わっていないという意味だ」 「こういうところは慣れてないんだ」茂十郎は照れたよ うに笑った、「菊地が人を誉めるのが上手いのも変わら ないな、おれは江戸に行って少しは変わったと思ってい たんだが、こうして古い友達の顔を見るとそう変わって はいないことに気づくよ」彼はうなずいた、「根本的に は人は変わらないものだな、変わったと見えても元もと その人が持っていたものが目立つようになったか、目立 たなくなったかのことだと思うんだ、そういう意味では おれも変わっていない、しかし久しぶりに会う友達が変 わらないのはうれしいものだ、清水も変わらずか」  茂十郎は信兵衛に酌をした。信兵衛は眉を寄せて返杯 をした。 「どうした」茂十郎はそう聞いた、「清水がどうかした のか」 「そういえば遅いな」信兵衛はそう云った、「清水が来 れば分かるだろうが、あいつが一番変わったと云えるか もしれない」 「良いほうになのか、しかしその表情からすると悪いほ うのようだな」 「その判断は難しい」信兵衛は云った、「松岡が云うよ うに、その傾向はあったと思うんだが、ずいぶん厭世的 になってしまった」  茂十郎は小太郎のことを思い出そうとして目を閉じた。 「世をすねる、そういうところがないこともなかった」 茂十郎はそう云った、「しかし誇り高さは人一倍強く持 っていたのに、そんなふうになってしまったのか」 「それが原因かも知れない」信兵衛は云った、「その誇 りの高さに自信がついていかないようにも思えるんだ、 とにかくいまはなにかをごまかすように酒と芸妓遊びだ」  そのことで相談がある、そう云って信兵衛は小太郎が 下級武士の間で糾弾されていることを話し、軽率なこと はしないよう茂十郎が押さえになってと頼んだ。 「時代だな」茂十郎は感慨深そうに云った、「まさかこ の鯖瀬でも尊皇攘夷の思想が芽生えているとは思わなか ったが、考えてみれば、この国全体がいまは揺れている し、江戸も大変な騒ぎだった、とにかく清水のことはお れでできることならなんとかしよう」 「それを聞いて安心した」信兵衛は云った、「松岡が止 めている間は彼らもなにもしないだろう」 「もうこの話しはやめよう」信兵衛は気を取り直すよう にそう云った、「清水がまだ来ないが待ち切れない、そ ろそろ江戸の話を聞かせてくれ」     「冗談じゃない」小太郎は入ってくるなりそう云った、 「今日は飲ませてもらうぞ、なんだ、二人でまだ二本か、 どんどんつけてくれ、今日は飲むぞ」  小太郎はどかりと座ると、立て続けに手酌で二杯飲ん だ。 「待て清水」信兵衛が驚いた様子で片膝を立てた、「松 岡に挨拶もせずに手酌でやるのは失礼じゃないか、なに があったかは知らないがそういう態度は良くないぞ」 「固いことを云うな」小太郎は杯をあおって茂十郎にそ れを差し出した、「駆けつけ三杯、江戸じゃあ常識だ」 「ここは江戸じゃないぞ」 「まあいいじゃないか」茂十郎はそう云って注げられた 酒を飲んだ、「清水も元気そうで安心したよ」 「元気なものか」小太郎はつまらなさそうに返杯を受け た、「ついに縁談が決められちまうんだ、やってられね えよ」 「うらやましいじゃないか」茂十郎は眉を上げてそう云 った、「で、どこの家なんだ」 「知らねえな」小太郎は云った、「どうせこっちの希望 がかなうわけじゃねえんだ、いい女であることを願うだ けさ、それにしてもうんざりな話しだ」 「この調子で逃げ回っていたんだ」信兵衛は茂十郎に解 説するようにそう云い、小太郎の顔を見た、「そういう 時期になったということだ、清水もこれで少しは落ち着 くだろう、心配事が一つ減っておれも安心だ」 「ふん」と云って小太郎はつまらなさそうに唇を突き出 した。  茂十郎は小太郎がいつもするその表情を見て云った、 「清水もそう変わらないな」 「変わらない」小太郎は唇で笑った、「おれは変わった よ」  小太郎は投げやりにそう云った。茂十郎は驚いたよう に小太郎の顔を見た。 「二年だぞ」小太郎は云った、「なにも変わらないほう が不自然だ、いつまでも子供ではいられないってことさ、 汚いことや悪いことも覚えていかなくちゃいけないんだ、 いまはそれを勉強中ってわけだ」 「なにかあったんだな」信兵衛がそう聞いた、「清水が そういうことを云うにはやはりなにかがあったんだろう、 だからそんなに自棄になっているんだな」 「自棄になんかなってねえよ」小太郎はそう云った、 「それに特別なにかがあったわけじゃない、菊地はすぐ に理由をつけたがるが、世の中はそんなに簡単にはでき てねえんだ、表があれば必ず裏がある、なんてことはね え、良い子の振りも疲れただけだ、おれは好きなように 生きてえ、それができるのもいまだけだからな」 「そうか」信兵衛は安心したように小太郎を見た、「初 めて話してくれたな」  小太郎は舌打ちをして横を向いた。 「おれのことなんかどうでもいいんだ」小太郎はそう云 った、「そんなことより今日の主役は松岡だろう、松岡 の話しを聞こうじゃないか」 「ああ」と茂十郎ははっとしたように顔を上げた。  茂十郎は意外だった。小太郎は茂十郎がほしいと思う ものをすべて持っていた。家柄と約束された地位、立派 な父親と温かい家庭、茂十郎がいくら望んでも手に入れ られなかったそれらを当たり前のように小太郎は持って いた。自分のほうが学問も武芸もできるのに、そう小太 郎を妬むことも一度や二度ではなかった。そんな小太郎 にも、悩みがあり自棄になるような気持ちになることが あるとは思っていなかった。  茂十郎は小太郎の顔をよく見てみた。二年で少し大人 びた顔つきに変わっていることもあるだろうが、以前の 顔を思い出せず、まるで初めて小太郎の顔を見るような 気持ちだった。  友達だと思っていたが、実は清水の中身をなにも見て いなかったのかもしれない、茂十郎はそう思った。  茂十郎は話しを始めた。信兵衛に話したところまでは はしょって、長くならないように要点だけをかい摘んで 話した。  彼は、藩校である心徳館の教授に昌平黌への推薦状を もらい、そこへ通うつもりでいた。思ったほどの苦労も なく昌平黌に入学でき、二年間朱子学を中心とした学問 を学んだが、三カ月ほどたった頃からそこでできた友人 の紹介で、ある私塾にも顔を出すようになった。そこは 洋学塾で、鯖瀬では学ぶことができなかった新しい学問 を習得することができた。そこで教えをひらいていたの は横井小楠にも学んだという人で、茂十郎も大きな影響 を受けた。 「横井小楠」信兵衛が驚いてそう聞いた、「それは聞い ていなかった」 「橋本左内を敬愛する人たちも多くいた」茂十郎は云っ た、「さすがに鯖瀬藩士ということで初めのうちは白い 目で見られた、一度は長州の人間と激しい云い合いにな った」 「それでどうしたんだ」 「なに、結局友達になったよ」 「長州の人間とか」 「水戸の浪士にも知り合いはできた」 「大した度胸だな」小太郎はそう云った、「おれは知ら ない武士には一度も鯖瀬藩だとは云えなかったぜ」 「彼らは王政復古を唱えている立場で、いわば我々とは 逆じゃないか」  信兵衛は心配そうにそう聞いた。それは明らかに茂十 郎がその思想になったのではないかという心配であった。 「確かに主張するものは違う」茂十郎はそう云った、 「だが彼らもこの時代を生きる同じ人間なんだ、佐幕派 だろうが、勤王派だろうが、この国を正しい方向に導き たいというのは同じだし、誰もみな真剣で、真面目なん だ」  そして、確認するようにうなずいた、「おれは運が良 かったのかもしれない、どちらかというと学問を前提に して変えていきたいという人たちばかりだったからな、 会ってみるとみないい人たちだった、江戸に行って良か ったよ」 「それはどの程度のつき合いだったんだ」  信兵衛がそう聞いた。 「どの程度とは」 「つまり」信兵衛は云いにくそうに聞いた、「思想的な 面でどの程度親密になったかということだ」 「そうか」茂十郎は笑顔で云った、「安心してくれ、お れはあくまで鯖瀬の人間だ、彼らの云うことは理解もす るし認めることもできる、しかしやはりこの藩でおれは やっていきたいし、特にいま殿がどうなるか分からない ときに裏切ることはできないよ、少ないとはいえ禄をも らってきたんだ、それに江戸行きを許してくれるなんて ことは異例のことだ、恩を忘れたことはないよ」 「良かった」信兵衛はほっとしたようにそう云った、 「これで松岡まで尊皇に走られたら彼らはとどまるとこ ろを知らなくなる、そこはぜひ頼む」  小太郎は不機嫌そうにそっぽを向いていた。 「だが彼らがそういう思想を持ち始めたとしたら、それ を止めるのは難しい」茂十郎はそう云った、「おれには 彼らの気持ちがよく分かる、こんな云い方は良くないだ ろうが、おれたちはずっと幕府や藩から認められてこな かった、家族が養えるだけの禄をもらえずに、身分が低 いというだけで差別され続けた」 「いや待ってくれ」信兵衛がなにか云おうとするのを遮 って、茂十郎は続けた、「それは仕方のないことだし、 だれかを恨むのは筋違いだと思う、しかしそういう不満 をぶつけられるだけの思想があるならそれに飛びつくの は無理もないことなんだ、そこは分かってくれ」 「心配なのは」信兵衛は云った、「なにかことを起こさ ないかということだ、ただ不満を並べているだけならい い、それが捌け口になっているだけならいいんだ」 「待ってくれ、彼らがなにかをすると云うのか」 「そうなっては困ると云ったんだ」 「それは誤解だ」茂十郎は云った、「尊皇攘夷の思想を 持つことは必ずしも暴挙に出るということではない、菊 地はおそらく尊攘派がどういうものなのか分かっていな いんだ、暗殺で解決しようというのは半分もいない、攘 夷と云ったって、この国が一つになって外国に支配され ずにやりたいというだけで、外国人と見ればすぐに切り かかるというものではないんだ、それは分かるだろう、 人の中にはいろんなのがいる、ごく一部を見て決めつけ るのはおかしい」 「分かったよ」信兵衛はそう云って微笑んだ、「とにか くなにも起きなければいい、せめて同じ藩の者同士で争 うことは避けたいんだ、極端に云ってしまえば、どちら の思想でもいい、同じ国の人間、ましてや同じ藩でいが み合い争って、それでこの国が良くなるとは思えない、 そしてそれを頼めるのは松岡だけなんだ」 「それは任せてくれ」茂十郎は頼もしくうなずいた、 「おれにできることはなんでもしよう、彼らがおれの云 うことを聞いてくれるなら、おれは喜んで押さえになる よ」 「しかし松岡にはかなわないな」信兵衛はそう云った、 「反対意見を云おうものならいつも必ず押し切られる、 そういうところも変わらない」 「そうか」茂十郎は目を伏せて云った、「そんなつもり はなかったんだ、ただ分かってほしくて、清水にも悪か った、不愉快にさせてしまったか」  先ほどからつまらなさそうにしている小太郎に茂十郎 は気を遣っていた。話している途中にも酒がなくなった と思えば徳利を差し出したりしていた。 「気にするな」小太郎はそう云った、「話したいなら話 せばいいさ、おれはどっちでもいい、どうせどんな主張 をしたところでなるようにしかならないんだからな」 「そんなことはないぞ」茂十郎は手を広げるような身ぶ りを加えて云った、「現にずいぶん変わってきている じゃないか、確かにいまは一橋殿を持ち上げようとして いるようで、我々にはつらいところだが、それもみなこ の国をよくしたくてやっている結果じゃないか」 「どうでもいい」小太郎はうっとうしそうに手を振った、 「我が殿もどうにかしようとして真剣にやっただろう、 しかし結局いまは追いやられる形じゃねえか、運命なん ていうのは個人で決められるものじゃない、熱くなるだ け損だ」 「待て」茂十郎は小太郎を遮った、「どうしたというん だ、なにをそんなに悲観的なる必要がある、川だって一 滴の水から始まっているんじゃないか」 「うんざりだ」小太郎は声を荒げた、「説教がしたいだ けならおれは帰るぞ」 「まあ待て」信兵衛が穏やかにそう云った、「松岡の云 いたいことも分かるが、とにかくこの話しはもうやめよ う、しかし清水も帰ると云うのは大人げないぞ、松岡は 腹を割って話しているんじゃないか、そんなことを云う もんじゃない」 「いくら腹を割ったところでなにが分り合えると云うん だ、松岡がそんなに熱くなって、おれに自分の考えを押 しつけるというなら帰ると云っただけだ」 「清水は分かろうとしないだけだろう」  信兵衛はつぶやくようにそう云った。 「分かろうとしたら分かると云うのか」小太郎はむきに なって云った、「じゃあ菊地はおれのことが分かるのか、 おれのなにが分かるんだ」 「清水がなにも話そうとしなければなにも分からない」 信兵衛も言い返すようにそう云った、「そうだろう、清 水は友達である俺たちにも、なにも話そうとしないじゃ ないか」  ふんと云って、小太郎は横を向いた。茂十郎は信兵衛 の顔を見た。信兵衛は場の雰囲気を壊すようなことを云 う小太郎にあきれたようで、大きなため息をついた。 「気まずくなったようだな」小太郎は皮肉に笑って云っ た、「やっぱりおれは帰ったほうが良さそうだな」 「いや、おれが悪かったんだ」茂十郎はそう云った、 「確かに清水に意見を押しつけたようだ、久しぶりだっ たものだからどうかしていたんだ」 「清水も飲み過ぎだ」信兵衛がそう云った、「少しひか えたらどうだ」 「このくらいでおれは酔いはしねえぜ」 「強くなったな」茂十郎が取り繕うように云った、「江 戸で鍛えたのか、江戸の言葉も板についてるじゃないか」 「まあな」小太郎は得意そうに鼻の穴を膨らませた。 「前から清水は垢抜けたところがあった」茂十郎は云っ た、「江戸では相当にならしたんだろうな」  茂十郎は笑顔を作って小太郎に酌をした。 「松岡はどうなんだ」大人げないと思ったのか、小太郎 も座り直して云った、「江戸で少しは遊びを覚えたか、 おまえは女に好かれるたちだ、今度はそういう話を聞か せてもらおうじゃないか」 「残念ながらその手の話しはなにもない」 「松岡はそっちに関しては生真面目だからな」  信兵衛はあえて明るくそう云った。 「そうなんだ」茂十郎もそれに合わせて明るく云った、 「何度か誘われたこともあったが、おれはどうもそうい うのは苦手なんだ、性に合わないと云うのか、そんなこ とに遣う金はなかったし、それに少しでも早くここに帰 るために必死だったんだ」 「江戸で一度も遊ばなかったのか」小太郎はあきれたよ うにそう云った、「そりゃあ筋金入りだ、おれにゃあ真 似できねえな」 「だが松岡が遊ばなかったのは別な理由があるだろう」 信兵衛はからかうような目つきで云った、「早く江戸か ら帰りたかったというのも案外そういう理由ではないの か」  小太郎は初めて身を乗り出し、二人の顔を交互に見た。 「まさかそれだけではないが」茂十郎は顔を赤くした、 「一刻も早く帰りたかったのは事実だ、でもそれで学問 をおろそかにしたことはない、自分でも学問を深めるこ とはでき、ここに帰ってきても役に立つことができると 信じたから帰ってきたんだ」 「ではもう嫁にもらう覚悟ができたということか」 「まだ帰ってきただけだ、ここからが肝心なんだ」 「ちょっと待て」小太郎がそう云った、「なんの話しだ、 松岡に女がいるのか」 「知らなかったのか」  信兵衛がそう聞くと小太郎はあきれ顔でうなずいた。 「初めて聞く、松岡はもっと堅物だと思っていたが、案 外やるじゃないか」小太郎は感心したように云った、 「女を残して江戸へ行ったのか、ほおう、これは面白い、 どこの女なんだ」  目を輝かせる小太郎とは反対に、茂十郎は気まずそう に目を伏せた。いろいろと云われるのがいやだったので、 小太郎には隠していたのである。 「それは云えないらしい」信兵衛がそう云った、「何度 聞いても教えてくれないんだ、江戸に行っている間の様 子を教えようと云っても駄目だったんだ」 「云えないような女か」小太郎は納得したように云った、 「危ないぞ松岡、おまえのような堅い男はいい鴨にされ るんだ、女になんと云われたか知らないが、あまり信用 しないほうがいい、銭を儲けるのが目的なんだ、だがお れはその落とし方も知っている、菊地では頼りないがお れに任せるといい、なんでも聞いてくれ」 「そんな女と一緒にしないでくれ」 「武家なのか」  信兵衛がそう聞いた。  茂十郎はうなずいた、「家柄が違う、それ以上のこと は云えないんだ、おれは嫡男だから嫁に来てもらうしか ないが、身分の違いは大きい、公になるとその人に迷惑 がかかる、すまないが誰にも相手のことは云えない」 「確かにここは身分には厳しい」信兵衛は云った、「だ がそれを乗り越えた人がいることも知っている、松岡な らば向こうの親も納得してくれるのではないのか、現に 我々は身分を越えたつき合いをしているじゃないか」  茂十郎は首を振った、「確かにここではおれも二人に 対して対等な口をきいているが、外に出ればそれはでき ない、それを一番身に染みて知っているのはおれだ、お れはその人と釣り合うような男になってから迎えたいん だ、これはおれの夢の一つの形なんだ」 「まだ松岡はそんなことを云っているのか」  小太郎があきれたようにそう云った。 「まだ」茂十郎の目が光った。  しかしすぐに冷静に云った、「おれが士分に取り立て られ出世するということは、同じ足軽や身分の低いもの に、将来の希望を持たせることになるんだ、もちろん自 分の力を試したいという気持ちもある、しかしそれだけ じゃないんだ、彼らのためにもおれは出世をしたい、彼 らにやればできるということを身を持って教えたいんだ、 彼らはおれに期待をしている、それは将来の自分自身へ の期待なんだ、おれはそれに応えたい」  茂十郎は悲しそうにこう付け加えた。「たが清水や菊 地にはこの気持ちは分からないだろう」 「分かるぞ」信兵衛は真っ直ぐ茂十郎を見つめて云った、 「そのままではなくても、松岡がずっとその気持ちを持 っていたことはおれたちが一番良く知っている、分から ないなんてことがあるものか、そうだろう清水」  小太郎は鼻で笑ってお浸しを口に放りこんだ。 「いくら出世をしても鯖瀬六万石は変わらねえ」小太郎 はそう云った、「高が知れてるじゃねえか、いいから、 まあ聞けよ、親父もそうだがどつもこつもてめえの身の 保身にかけては命がけだ、簡単に出世なんかできるもの じゃねえよ、てめえの一族をいかに要職に就けてこの国 を思い通りにするか、そればかりだ、もったいねえと思 わねえか、松岡は江戸に行ったまま脱藩して別の道を考 えたほうが良かったんだ、そうだ、その女をつれて勤王 の志士にでもなったほうが出世したんじゃねえのか、こ んな小さい藩で出世して、一体なんになるっていうんだ」  信兵衛はまたかというような渋い顔をしたが、茂十郎 はむしろうれしそうにうなずいた。 「清水がおれの身を案じてそう云ってくれるのはありが たい」茂十郎はそう云った、「清水にはばかばかしく見 えるだろうが、おれにはこの国での出世が大切なんだ、 その気持ちだけはもらっておくよ」 「なにを云ってやがる」小太郎は呆れ顔で云った、「誤 解するな、おれはここで出世をしようなんて馬鹿げてる と云っただけだ」    縁談      その日、松岡茂十郎は菊地信兵衛、清水小太郎の二人 に藩校の教授の口を探してくれるよう頼んだ。  茂十郎は二年前までは、いきなり出世の糸口になるよ うな役に付くことを望んでいた。小太郎や信兵衛の力を 借りることも決してしようとしなかった。自分自身の能 力だけで勝負したかったのだ。だが、それは誤りだと考 えるようになった。たとえば、小太郎の口利きで出世の 糸口を掴んだとしても、それは自分を小太郎が認めたか らであるし、それから先は自分の能力次第だと思うよう になった。それにいきなり足軽から身分を飛び越えて重 要な役に付くことは無理だと考えた。まずは多くの人に 自分のことを知ってもらい、認められなくてはならない。 そのために藩校の教授はうってつけだと思った。高い学 識が認められれば、直接藩主からお声がかかる可能性も ある。  足軽ごときが藩校で教授をするなどいうことは常識的 には考えられないが、いまはどこの藩も人材育成には熱 心であるし、鯖瀬での茂十郎の評価は高い。そしてその 自信を茂十郎は持っていた。  茂十郎は自分のために開かれた明るい未来があること を感じ、武者震いにも似た心地よい緊張感を味わってい た。彼には自分が出世していく過程が手に取るようには っきり見えていた。  気がかりは登美のことであった。天野登美とは茂十郎 が江戸に発つ約一年前の晩秋に親しくなった。顔を知る ようになったのはその半年ほど前からで、二人は毎日の ように同じ道ですれ違っていた。それは決まって陣内に ある心徳館からの帰り道で、北陸道を北に一町行き、右 へ入った武家屋敷を抜け、足軽長屋へ向かう裏通りだっ た。後で知ったのだが、それは登美のほうが茂十郎に魅 かれ、習い事の帰り道に待ち伏せてわざとすれ違うよう にしていたのだ。この時代の女性とすれば、はしたない と云ってもいいほど非常識なやり方だが、登美はそうい うことをあまり気にしない強気な性分だった。  そして茂十郎は登美から付け文をされた。茂十郎も毎 日のようにすれ違う、その良家の美しい娘が気にかから ないわけではなかった。 「だがおれとは身分が違いすぎる」  茂十郎は初めからそう思っていたので、恋心のような ものは少しもなかった。それが突然その令嬢から付け文 が来たのである。  いまでも恥ずかしいとは思っているが、茂十郎はその 時、これは出世のいい足がかりになるのではと考えた。 すぐにその考えは打ち消し、付け文も焼き捨てた。いた ずらだと思ったのである。文には年寄格で勘定奉行と寺 社奉行を兼任している天野三之丞の三女の登美だとあっ た。確かにそういう人はいるし、文字も明らかに女性の 手のものだった。しかし、そういう家の娘が付け文をす るというのはおかしいし、なにより自分などに思いを寄 せると考えることはできなかった。冷静に考えればいた ずらだと気づくのに、出世の足がかりに、などと浅まし い考えを抱いたことを恥じた。  それから十日ばかり、その娘とはすれ違わなかった。 「まさか」と思いはじめていたときに、久しぶりにその 娘といつもの道で出会った。いたずらとは思いながら、 茂十郎はその娘を変に意識してしまい、そちらのほうを 見ることができなかった。すると娘の方が彼の前に立ち 塞がり、顔を真赤にして、文の返事をくれないのはなぜ かと消えそうな声で云った。  その時のことは、いまでもはっきりと覚えている。登 美は耳まで赤くして、顔は小刻みに震えていた。懸命に 勇気をふりしぼっている様子が手に取るように分かった。 いまにも泣き出してしまうのではないかというほど、小 さな丸い目を見開いて不安そうに茂十郎を見上げていた。  かわいい人だ。茂十郎は素直にそう思った。  女をかわいいと思ったのは初めてだし、愛しいとさえ 思った。茂十郎も赤くなりながら、いたずらと思ったの だと弁解した。すると登美はうれしそうに笑った。笑う と目がつむられたように細くなり、頬がぷくりとなり愛 らしい魅力的な顔になる。茂十郎にはもう打算的な考え はなかった、登美の一途で素直なまっすぐな気持ちに応 えたいと思った。  それから二人は人目を忍んで会うようになった。この 狭い領地で一度も噂に立たない程の慎重さで二人は会っ ていた。料理屋で会うようなことはもちろんできず、ほ とんどが伊野川沿いにある澤屋の裏の空き地であった。 それもほんの一時だけであるし、空き地への出入りにも 気を配った。なによりも登美に噂が立たないこと、それ を茂十郎は一番に気にしていた。  登美はそれを少なからずもどかしく思っていた。 「みんなに大きな声で二人のことを話してしまいたい」  と、むしろ若さからくる恋の情熱をあるがままに受け 入れ、隠すことが罪であるかのようなことも云った。  茂十郎とって、家柄も縹緻も申し分のない登美が自分 に惚れ込んでいるという事実は大いなる自信につながっ た。 「いま二人の関係が世間に知れても、引き裂かれるだけ です」  彼はそう云い、登美と釣り合う男になると宣言した。 「田沼意次の祖父は足軽でした、私にもできないことは ないはずだ」  茂十郎がそう云うのを登美は期待を込めた顔で聞き、 その言葉を心から信じ、また励ましもした。  二年前、彼は一緒に江戸に行くと云う登美を残して旅 立った。今年登美はもう十七になった。嫁に出ていても おかしくない。第一に考えねばならないことは出世の糸 口を作ること、このことは茂十郎にとってなによりも大 切な問題であったし、常に頭から離れはしなかった。だ が、鯖瀬で出世をしようという考えになったのは登美が いたからだし、あきらめかけたときはいつも登美が勇気 を与えてくれた。いまの自分があるのは登美のおかげだ けだと茂十郎は思っている。彼にとっての出世の象徴は 登美との縁談であった。  茂十郎の両親はすでに世を去っている。ただ一人の姉 は足軽組頭の家に嫁に行った。茂十郎は小太郎と信兵衛 に会った翌日、その組頭の家に帰郷の挨拶をしに行った。 二年間の留守の間、鯖瀬でなにがあったかを聞きながら、 茂十郎はそれとなく、天野の家のことも聞いた。 「清水の小太郎が気に入ってると云っていたもので、も しかすると上手くいって結婚したのかと思いまして」  彼はなぜ天野のことを聞くのかと云う姉にそう云い訳 をした。  茂十郎が江戸にいる間に生まれた二人目の乳飲み子を あやしながら、姉は話して聞かせた。天野は三姉妹で、 上の姉は婿をもらってい、二番目の姉がつい二月ほど前 に嫁に行ったという。 「なんでも御三女は体が弱いらしいよ」姉はそう云った、 「小太郎様は御三男だし、婿に行くというわけにはいか ないから、難しいだろうね」  その姉は声を落としてこう付け加えた、「それにいま はもう、あっちこっちにいい女がいるみたいだからね」 「それは残念だ」  そう云いながら、茂十郎は胸をなで下ろした。次女が 嫁に行ったばかりだというし、しばらくは安心しても良 さそうだと茂十郎は思った。登美は風邪もめったに引か ないほど体は丈夫である。おそらく病気のふりで縁談を 断ってきたのである。まだ自分のことを信じて待ってく れている、それだけで茂十郎は安心した。  その日の暮れ方、笹原小弥太が茂十郎の住居を訪れた。 足軽の若者たちで茂十郎の帰郷を祝うのだという。いつ だと聞くと、今日すぐにでもということであった。  茂十郎は迷った。彼らは自分を慕ってくれる良い青年 たちである。しかしいま、藩内での彼らの評判はあまり 良くない。鯖瀬に帰り帰国の届けをしたのが二日前で、 三日目の今日に彼らと集まるのは密会と思われはしない かという危惧があった。勤王の先導者と見られては今後 出世の道は危ういものになる。小太郎や信兵衛に昨日藩 校の教授のことを頼んだばかりであるし、いま下手な噂 を立てるのは良くないと思った。  茂十郎は、江戸から帰ったばかりで疲れているし、荷 物の整理などやることがある、少し後に伸ばしてくれと 云った。  小弥太は残念そうな顔をしたが、聞き分けよくうなず き、「みなも楽しみにしてます、都合がついたら教えて ください」と云った。 「なにもないが、茶でも飲んでいけ」  茂十郎は小弥太の落胆した表情に胸が痛み、そう云っ て彼を家に上げた。  一刻ほど話をしたが、小弥太は一言も勤王のことや小 太郎の話題は出さなかった。話したいこともあるはずな のだが、自分のことは一切触れず、茂十郎の江戸の話を 少しでも聞き出そうとした。茂十郎の言葉、その一つも 逃すまい、すべて刻み込もうというように、身を乗り出 して一々感心しながら聞いていた。それは子供のように 無邪気に見えた。向こう意気の強く、信兵衛の話では尊 攘論を唱えるものの代表格である笹原小弥太がこの様子 ならば、心配するほどではないのかもしれない、そう茂 十郎は思った。  小弥太は仲間の誰よりも、真っ先に茂十郎の話を聞く ことができたことがうれしいらしく、なにか云うたびに 目を輝かせ、それで、それで、と次を聞きたがった。 「ここですべて話してしまってはほかのものに話すこと がなくなる」  茂十郎はそう云って名残惜しそうにする小弥太を帰し た。  それからしばらくすると、次々と足軽の若者たちが茂 十郎の住居に顔を出した。小弥太が自慢して回ったらし いのである。そうこうするうちに六人、七人と九尺二間 の狭い長屋に集まり初め、いつのまにか小弥太までその 中に入り、どこからともなく酒や肴が運ばれ、結局茂十 郎の帰郷祝いという形になってしまった。  茂十郎には自然と集まってくる彼らを追い返すことは できなかった。自分を慕い、頼ってくるものには、茂十 郎は労を惜しまず、過剰といえるほど親切にしていた。 藩の上層部が認めなくても彼らが認めてくれている、そ れは茂十郎にとって云い表わせないほどの勇気を与えて いたのだ。それも自分の道なのだと、茂十郎はこころよ く彼らを歓迎した。  いつしか茂十郎を慕うものはもちろん、足軽の若者ほ とんどすべてが集まり、十人を超える人間が六畳の狭い 部屋にあふれ、中には立ったままのものもいたし、土間 に隅に座り首を伸ばして耳を傾けているものまでいた。 みな一様に茂十郎の帰国を喜び、期待を口にし、真剣に その言葉を聞き入った。  彼らが茂十郎の帰郷を祝う気持ちは純粋なものだった。 それが茂十郎にはうれしかった。住み慣れた我が家に帰 ってきたという、包まれたような安堵を覚えた。傾きそ うな狭い長屋も、家具一つないみすぼらしい部屋も、擦 り切れた着物も、貧しい中でも必死に生きていこうとす る彼らの笑顔の前では、美しいとさえ思えた。自分はこ こで育ち、この中から出ていくのだ、それを忘れてはい けない、茂十郎は感動にも似た心持ちでそう思った。彼 らが原因で出世の道が遠のいたとしても、それは足軽と して生まれた宿命の一つだと思った。初めに小弥太に伸 ばしてくれと云ったのは間違いであった。彼らを背負い、 彼らとともに出世していかなくてはならない、茂十郎は そう決意した。 「彼らのためにも、必ず出世してみせる」茂十郎は改め てその思いをを固めた。      それから十日ばかり、茂十郎は小太郎や信兵衛、もし くは役所から、心徳館での教授についてなにかしらの連 絡がありはしないかと、心待ちにしていた。そんなにす ぐに決まるはずはなく、順調にいっても一月二月待つこ とは頭にあるのだが、気が急くせいか、今日にでも知ら せがあるのでは、という気持ちで毎日落ち着かなく過ご していた。  まる十日待った十一日目に、とうとう待ち切れなくな った。話しはしてくれたのか、その手応えはどうだった のか、それだけでも聞きに行こうと、日が暮れるのを待 って家を出た。  鯖瀬の城下町は南北に長い楕円に形成されていて、中 心よりやや西よりに北陸道が南北にまっすぐ走り、その 西側中央に陣屋がある。足軽長屋は堀のように城下町を 囲っているが、北から東にかけて多く並んでいる。茂十 郎の住居はその東北に位置している。武家町は北陸道の 東側が中心で、大きな通りが北陸道に並行するのが二本、 それと垂直に交わる道が四本ある。菊地の屋敷は一番北 の横道を入り、縦に伸びる道を二本横切った区画にあり、 茂十郎の住居とは近い。しかし茂十郎は、信兵衛の家を 横切り、陣屋に最も近い区画にある清水の屋敷を先に訪 ねた。  勝手口に回され、茂十郎は小太郎と会い、その後、信 兵衛の屋敷を訪れた。茂十郎はこころよく客間に案内さ れ、ほどなく信兵衛が現れた。  簡単な挨拶のあと、信兵衛は「明日にでも行こうと思 っていた」と云ってゆったりと座った。 「と云うと」茂十郎は期待に満ちた顔で信兵衛を見つめ た。  信兵衛はうなずいた。 「上役は清水に任せるとして、こっちは二三の教授にあ たってみた」信兵衛はそう云った、「もちろん、藩校で 発言力のある人ばかりだ、中でも洲済先生は乗り気だっ た」 「本当か」茂十郎は身を乗り出した、「それは心強い」 「洲済先生を落とせれば問題はないと思うんだ」信兵衛 は胸を張って云った、「少し誇張はしたが十分に宣伝し た、先生は洋学の必要性を感じていたらしい、近いうち に面談をしたいと云っていたぞ、松岡の腕の見せ所だ」  茂十郎は手を打った。 「ありがたい」と茂十郎は頭を下げた、「実は先に清水 に聞きに行ったんだ、しかし清水は家のことのほうが大 変らしい、父上の信尭殿と口をきいていないようだし、 心徳館にも行っていないということで、当てにするなと 門前払いを食ったところだったんだ」 「では、早めに動いて良かったということか」信兵衛は そう云った、「話をしたのが、そう一昨日だった、おそ らく近いうちにお呼びがかかるだろう、心配はないと思 うがそこで失敗したら台無しだ、なにをどう教えるのか、 整理をつけておいたほうがいいと思うぞ」 「任せてくれ」茂十郎は笑った、「気が早いと思うだろ うが、もう何度も頭の中で繰り返していたから、すっか りなにを云うか暗記してしまったよ」  信兵衛は感慨深そうに云った、「いよいよだな」 「ああ、いよいよだ」 「松岡のことはなにも足軽の若者たちだけじゃない、お れも期待している、そうだ」信兵衛は云った、「もう一 人、例の女性もだ、もう会ったのか」 「いやまだだ」茂十郎はそう云った、「早く会いたいと 思うのだが、手ぶらでは会えない、藩校の教授になった、 そういう土産を持って会いたいんだ」 「するとなんだ、まだ帰国も知らせていないのか」  茂十郎はうなずいた。 「それはかわいそうだ」信兵衛は責めるようにそう云っ た、「松岡からではなく、人づてに帰郷の知らせを聞い てみろ、おれがその立場なら恨めしく思うぞ、早く知ら せてあげたほうがいい、なにしろ二年も離れていたんだ」  そう云って、信兵衛は思い出したように、その人はま だ結婚していないのかと聞いた。それは大丈夫だと茂十 郎は答えた。 「歳を聞いてもいいか」  信兵衛の問いに茂十郎は迷った。身分が高いというこ とは話してあるし、歳まで分かると誰だか気づかれるの ではと思ったのだ。 「云えないのならいいんだ」信兵衛は片手を上げてそう 云った、「詮索する気はないのだが、年頃だという気が したのでつい聞いてしまったんだ」 「十八になった」  少し間を置いてから、茂十郎はそう云った。 「ありがとう」信兵衛はうれしそうにうなずいた、「誰 だか探るようなことはしないし、もし分かっても決して 誰にも云いはしない、おれはどんなことがあっても、友 達を裏切ることはしないよ」  茂十郎は、いっそう話してしまおうか、そう思った。 信兵衛なら信用がおけるし、親身に相談に乗ってくれる だろうと思った。  そうだ、話してしまおう、菊地なら力になってくれる かもしれない。  茂十郎は覚悟を決めた。 「気丈な娘なんだな」  信兵衛がそう云った。 「ああ」 「江戸にもついていくと云っていたそうだからな」 「そうなんだ」  茂十郎は、登美のことを話す出鼻をくじかれた。だが そのことにほっとしている自分に茂十郎は気がついた。 なにがきっかけになるかは分からない、やはり話すのは やめよう、茂十郎はそう思った。 「それなりの家柄で十八まで縁談がないということはな かろう」信兵衛はそう云った、「これまで断ってきたん だろうし、娘一人でそこまで思いつめるというのは簡単 なことではない、それだけ松岡を信頼し、惚れていると いうことだ、一刻も早く安心させてやったほうがいい、 まだ若い娘が一人で松岡への操を立てているんだ、並大 抵のことではないぞ、会えなくても帰ってきたことは知 らせるのが筋だろう」  茂十郎はそう云われてはっとしたような顔をした。 「確かにそうだ」茂十郎は頭を垂れた、「いままでどれ だけ苦労しただろう、そうだ、おれは自分のことしか考 えていなかったようだ」そして告白するように云った、 「藩校の教授が決まるまで会わないというのも勝手だし、 心の底では、もし二人のことが世間に知れて、出世の道 が危うくなっては困るという考えがどこかにあった、二 年もの間、おれを信じて待ち続けた人に対する礼ではな かった」  茂十郎は「なさけない」と云って自分の膝を叩いた。 「そう深刻になることはない」信兵衛は慰めるように云 った、「松岡がそう考えたことは悪いことではない、当 然のことだ、確かに下手な噂が流れるのはいまは避ける べきだ」 「だが彼女の気持ちを考えていなかった」 「なら帰ってきたことを知らせてやればいい」信兵衛は そう云った、「だが、そうなれば会いたいと云ってくる はずだ、そこは松岡も考えなくてはいけないぞ、おれが 思うに女は確かな形を欲しがる、会えないと云われれば 松岡の気持ちが変わったのかと疑う、確かなものを示し てあげるのがいい」 「確かなものとはなんだ」茂十郎は首をかしげた、「彼 女を抱けということなのか」 「それができればいいだろうが、そう早まることはない」 信兵衛は優しく笑って諭すように云った、「いつまで待 てばいいのかということだよ、教授が決まるまでなのか、 それが軌道に乗るまでなのか、もっと先なのか、それを はっきりさせれば安心するものだ」 「そういうものなのか」茂十郎は感心したようにそう云 った、「はっきり考えていなかった、出世したら、そう いうことしか頭になかったんだ、いついつまでと云われ たほうが、確かに待つ甲斐がある、いや、勉強になった、 やはり結婚すると違うんだな、菊地から女ことを教えて もらうなどとは考えてもみなかった」  信兵衛は声を出して笑った、「おれを奥手と思って見 くびったな、こう見えても松岡より女を知ってるつもり だ」 「その通りだ」茂十郎はそう云って頭を掻いた、「まい ったよ、おれはそっちはてんで駄目なんだ」 「そうでなくては困る」信兵衛は云った、「学問は一級、 武芸は師範並み、その上女にも凄腕ではこちらの立つ瀬 がない」 「今日は来て良かった」茂十郎はそう云った、「いい話 が二つも聞けた、またなにかあったら頼むよ」 「ありがたいことだ」信兵衛はそう云った、「これでや っと松岡に勝てるものが一つできた、これまでなにをや っても教わるほうだったが、これからは教えられるもの ができたということだ、おれもうれしいよ」 「なんでも相談に来てくれ」信兵衛はそう云って茂十郎 の肩をたたいた。  茂十郎は長屋に帰るとすぐに、登美に手紙を書いた。 無事帰国したこと、藩校の教授が上手くいきそうだとい うこと、それが認められるようになったら、必ず迎えに 行く、そういう内容を簡素にまとめた。それはいつもの ように呉服屋からの手紙のように装った。  それから一月あまり、季節は夏になり、梅雨の時期が 近づいていた。その間、結局教官の話は茂十郎のもとに はこなかった。 ――やはり鯖瀬で足軽が藩校で辯を取るのは簡単ではな いのだ。茂十郎の心は徐々に絶望にも似た諦めが沸いて くるようになった。もちろん茂十郎自身も自分を評価し てくれていた教授に何度も頼みに行ったし、強く説きも した。  何人かの教授は推薦してくれると約束してくれたのだ が、いまだにいい返事はなかった。  そんなおり、早坂十右衛門からの使いが来た。  早坂十右衛門は老中で、茂十郎の江戸行きに特に力に なってくれた人である。直接帰国の挨拶をしてないこと のお叱りだろうかと思ったが、知らせはしたし、こちら の身分を考えれば、おいそれと屋敷に出向くわけにいか ないことも分かっているはずである。陣内でないばかり か、屋敷でそれも食事に招くということだったので、ま すます分からなかった。  しかし、食事ならば悪いことではないだろうと、でき るだけの身なりを調え、屋敷に出向いた。  茂十郎が通された部屋にはすでに膳が並んでおり、酒 も運ばれてきた。二つの行灯のほかにろうそくにも火が ともり、部屋の中はしっとりとした明るさに包まれてい た。立派な襖絵がはっきり見て取れるほどの慣れない明 るさのなか、茂十郎はいやが応にも緊張した。  しばらく身動きもせずに待っていると、早坂十右衛門 は一人で部屋に入ってきた。十右衛門は四十五六で、白 髪交じりの豊かな髪をしており、骨太のがっちりとした、 一種の風格を持った人である。  十右衛門は気さくに笑って、「よく帰った」と云い、 挨拶に来ないことを責めた。  茂十郎が恐縮して頭を下げるのを十右衛門は押し止め、 「まず祝おう」と云って盃を持った。  十右衛門は身分を笠に着ることはなく、むしろ親しげ に江戸のことなどを聞いた。茂十郎はすっかり固くなっ てはいたが、試されている恐れもあると、一つ一つ言葉 を選んで受け答えをした。 「心徳館からそなたを教授にしたいという話があった、 特に一部では強く推す声がある」  一通りのことを聞き終えると、十右衛門はそう云った。  茂十郎はそう云われて思い出した。早坂十右衛門は藩 校の監督者でもあったのだ。なぜそれに早く気がつかな かったのだろうか、自分の身分を気にするあまり、教授 の上の人に話をするという考えにはいたらなかった。早 坂様ならきっと江戸行き同様に力になってくれたはずだ。 そう茂十郎は自分の浅はかさをのろった。  十右衛門は、こういう時代だからこそ、西洋のことも 知らなくては生き抜けないと云った。 「財政再建は急務だ」十右衛門はそうも云った、「それ だけではない、万が一、幕府の方向が変わる、もしくは それ以上のことがあったときに、対処できる人材を育て なくてはならない、もちろん、そのために殿は長崎へ人 をやり、学ばせてはいる、しかしそれはごく一部の側近 だけだ、これからはもっと多くのものに広い視野を持た せなくてはならない」  茂十郎は唾を飲み込み、唇を濡らした。緊張で喉が渇 くが、それでも杯に手が伸びないほど体は固まっていた。 「聞けばそなたは人望も申し分ないとのこと」十右衛門 はそう云って茂十郎の顔を見た、「期待しておるぞ、正 式な手続きが済み、はっきりと沙汰があるまでにはまだ 時間がかかるが、なにを教えるのか具体的に決めて、そ の準備を始めてくれ」 「もう」と茂十郎は云いかけたが、その声は喉に詰まっ たようなしゃがれたものになってしまった。 「まあ飲め」十右衛門はそう云って酒を注いだ。  茂十郎は一息に酒を煽って云った、「もう決めてあり ます」  茂十郎はなにを教えるのか、そしてそれがどれだけ役 に立つものであるかを説いた。云うべきことはすっかり 頭に入っていたはずであったが、一言もそれは思い出せ ず、つまずいたり、云い直したりしながら、それでも茂 十郎は云うべきことをすべて云った。  十右衛門は満足げにうなずき、藩校には改めて知らせ ておく、必要なものがあったら用意するようにと、三両 の金を渡した。茂十郎の禄は五両一人扶持である。三両 といえば大金であった。  それだけではなかった。十右衛門は教授に上がるとき には士分に取り立てると云った。 「足軽のままというわけにはいくまい、二十石ばかりの 馬廻だが、まずはそのぐらいで勘弁してくれ」  十右衛門は、努力次第では百石二百石も夢ではないと 云った。しかしいまは二十石が限界だと云う、不本意と 思うがとも云っていたが、茂十郎には夢のような話しで あった。二十石でも士分であるし、いままでの二十倍の 禄である、屋敷ももらえれば下男も付くのだ。余りにと んとん拍子な話しに、茂十郎は座っていながらも、ぐら ぐらと体が揺れるように感じ、まるで雲の上に座ってい るかのように思えた。  夢心地のまま、味も分からずに食事を済ませ、なにを 話したのか、後になってもうまく思い出せなかった。  茂十郎は早坂の屋敷を後にするとすぐに、信兵衛にそ のことを知らせ、そこでも酒を馳走されたのち、家に帰 ってさっそくそのことを登美に知らせるために手紙を書 いた。以前の手紙にははっきりといついつとは云わなか ったが、その手紙には、士分になれたら話しだけでも通 すつもりだと書き添えておいた。  その夜は眠れなかった。目を覚ましては洋学書を開い て、藩校で教えている自分の姿を想像した。出世するこ とは想像していた。それなのにここまで自分が浮かれて いることは驚きであった。  次の日になってやっと、茂十郎は実感を得た。その日 から茂十郎は、いつ声がかかってもいいように、なにを どう教えていくのかまとめる作業を始めた。茂十郎は幸 せであった。  そしてその時が、その短い人生の中で、最も幸せな時 期であった。      清水小太郎はふてくされていた。縁談はもう決まった ようなものであった。  父である信尭は有無を云わさず縁談を持ってき、そし てそれを決まったものとして小太郎に告げた。そこに小 太郎が口をはさむ余地はなかった。「こういうことにな った、そのつもりでいろ」、それだけであった。信尭は 厳格ではあるが、子供の子育てやしつけにはあまり口を 出さず、小太郎の放蕩にさえもあまりうるさいことは云 わなかった。三男である小太郎には(時代のせいもある が)それほど期待はしていなかったということもあり、 勝手にしろというような態度だった。  それなら好きにさせてもらおうと小太郎は思っていた。 兄たちのように、早く役のある職につきたいとは思って いなかった。藩内の政権争い、地位を守るもしくは上げ るための必死の裏工作、その中心に父がいること、そう いうことが日に日に分かってきた。特に江戸へ行ったと きに、それがよく分かった。江戸家老が反信尭派の筆頭 であり、江戸は信尭に対する不審を根強く持っているよ うであった。いずれ自分もその渦中に入らなければなら ないということは、若い小太郎が将来を暗いものに感じ るには十分であった。  信尭は、小太郎の兄である二人の息子をすでに自分の 腹心とも云える地位に置き、小太郎のことは目に入って いなかった。小太郎に対しては、いずれいい縁談があれ ば家を出す、という程度しか考えていなかったが、そう も云ってられなくなったのだ。  鯖瀬藩主諒勝は安政の大獄を主導した後、いまは老中 を辞しているが、もしこのまま一橋慶喜が政治の表舞台 に立つとなると、これまでの政策は一新されることにな り、当然諒勝にもなんらかの沙汰が下ることになる。そ うなると藩内の政権も交代する可能性があるのだ。政権 が変わると清水の家の人間が誰も中枢からいなくなる恐 れがある。それというのも交代制の城代家老を交代せず に三期も続けていたという経過があり、それに不満の声 があるためである。  そうならないための工作は講じている。しかし追いや られないとも限らない。万が一を考え、いま固めた基盤 以外に清水家が中枢に入るための手段を考えた。信尭は、 亡くなったため家名が跡絶えていた叔父の家を再興させ、 政治の中心に送り込むという方法を思いついた。その家 は老職格でいまは空席になっている。それが再興されれ ば次には必ずなんらかの役職に付くはずである。そして その白羽の矢が小太郎に立った。  小太郎と家柄の申し分ない娘を一緒にさせ、西川とい うその家を再興させるつもりでいた。相手の娘ももう決 めていた。年寄格の天野三之丞の三女で登美という娘が 家柄も年頃も申し分なかった。老職格の西川を再興させ るのであるから、天野が承諾することも分かっている。 後は話をつめるだけであった。  しかし、小太郎にはそのなにもかもが不満であった。 したくもない縁談をするもそうだが、なにより自分が父 親の政治の手段に使われるのが気に食わなかった。小太 郎の放蕩の半分はそれを父親にあきらめさせるためのも のであった。だが信尭は焦っていた。一刻も早くこの縁 談はまとめなくてはならない。すでに藩主には願いを届 け、それは承諾されていた。小太郎の行状がどうであれ、 そんなことにかまっている暇はなかった。信尭は小太郎 を軟禁し、家の外に一歩も出さず、自身は天野との話し 合いを持った。  天野三之丞は渋っていた。その話自体には乗り気であ ったが、娘が病気がちで、嫁に入ってもものの役に立た ないのでは申し訳がないと云うのである。  信尭は、それを云うなら小太郎も恥ずかしい息子であ る、気にすることはないと云った。 「しかし小太郎めも近頃は心を入れ替えて遊びに出るこ ともない」信尭はそう云った、「ご息女も環境が変われ ば気も変わるやもしれない、養生が必要なら家事などは 当分しなくてもよろしい、とりあえず内祝言だけでも挙 げたいのたが、どうでござろう」  信尭は、あらゆる条件を飲むと云い、三之丞の出世も 約束し、もちろん、断ったときの脅しを加えながら説き 伏せた。三之丞は断ることができなかった。もともと悪 い話ではないし、病気がちな娘でもかまわないという。 断る理由はない。二三日のうちに返事をすると云って家 に帰った。  その日のうちに妻女にいい話しが来ていると云ってそ のことを話した。妻女は初め、体の弱い登美が嫁に行っ てもかわいそうなだけだと乗り気ではなかったが、それ について清水のほうは寛容で、家事などは求めないし、 寝たきりでもいいとさえ云っていると聞き、それならば と同意した。 「このままでは縁談も来ないうちに行き遅れてしまうで しょう」妻女はそう云った、「あんな体の弱い子でもい いとおっしゃってくださるなら、むしろ感謝しなくては いけませんね」  小太郎が遊び歩いていたことが引っかかりにはなった が、それも最近はやめているというので、こちらからも 是非にということになった。  すぐに清水に返事をし、内祝言の日取りを決めた。そ うして三之丞は、娘にこういうふうに話が決まった、と 告げた。  それはちょうど、登美が茂十郎からの二通目の手紙を 受け取った翌日であった。操を立て、待ち続けた愛する 男の、まもなく迎えに行けるという知らせは、登美をど れだけ喜ばせたことか。  あの日、茂十郎が江戸を立つ日に二人ははじめて唇を 合わせた。登美の唇はまだその時の感覚を鮮明に覚えて いる。それまで人目を忍ぶために、ゆっくりと語り合う こともできず、ましてや愛を確かめ合う行為は、どんな 些細なこともできなかった。それをもどかしく感じてい た登美にとって、その時の激しい口づけは、決定的とも 云えるものであった。わたしはもうこの人の妻なのだ、 そういう感覚が体の深いところから湧き出るようにあふ れてき、時がたつにつれ、揺るぎない自信へと変わって いった。  茂十郎を待つ二年間、彼に対する一抹の不安もなく、 待つという不安な行為でさえ、喜びであった。あの日か ら、登美は茂十郎の妻だという意識になり、それが実現 する日にむかい、身と心を茂十郎の妻というものに作り 上げていったのである。  ついにその日がはっきり目前に現れ、手の届くところ まできたのだ。その矢先であった。  三之丞は妻とともに登美を呼び出し、縁談が決まった ことを、喜べと云わんばかりに告げた。むろん、登美は いやだと云った。せめてもう少し体が良くなるまで待っ てもらえないか、登美はあまりに急な話に青くなりなが ら、懸命にそう云った。  三之丞は聞き入れなかった。もう決まったことである し、おまえの病も気にせずに嫁に迎えてくれるという、 これだけの話を断ることはできないと云った。 「体は少しずつ良くなってきています」登美は食い下が った、「一年、せめて半年待っていただけないでしょう か、その頃にはきっと良くなっていると思います、どう かもう少し待ってください」 「同じことだ」三之丞は冷たく云った、「良くなる兆し があるのならなおよい、清水殿はおまえが病のままでも いいと云ってくださっている、先方は急いでいるのだ、 養生はさせてくれると云うのだから、うちで治すも嫁に 行って向こうで治すも、同じではないか」 「いやです、慣れない家に入れば余計に悪くなるかもし れません、お願いです、病のまま嫁に行きたくはありま せん」  登美は必死になってそう云った。しかし父は承知しな い。登美は泣きながら頼んだ。自然に出てきた涙だった。 茂十郎との、目前に広がっている幸せを、ここで失うわ けにはいかないのだ。どんなことをしてでもこの話は断 ってもらうしかない。  すがりつくように、登美はあらゆる抗弁を使って父親 を説得した。だが結局三之丞はそれを聞き入れることは なかった。むしろ、そこまでいやがる理由が別にあるの ではという疑いを持った。  密通している男がいるのでは。そう考えるとこれまで 縁談を断ってきたことも、急に体が弱くなったことも、 そしていま、これだけ縁談をいやがることにも説明がつ く。  三之丞は厳しい顔で、そのことを問いつめた。  もう病だけではこの縁談は断れない。そう悟った登美 は、素直に想う男がいると云った。もうそうすることし か、この縁談を断る手はないと思ったのだ。  三之丞の表情はにわかに強ばり、「密通か」そう云っ た声は怒りで震えていた。 「まさか、違いますわね」母親が冗談でも聞いたような 口調でそう云った。 「密通」登美は侮辱されたようにその言葉を聞いた、 「違います、密通など、するわけがありません」 「良かった」母は笑ってそう云った、「そのようなこと をする娘ではないですものね」 「でも、この人と決めた人はいます」  登美ははっきりそう云った。 「まあ」母は驚いて口に手を当てた。 「誰だ」  三之丞はこれ以上はないというほど苦い顔をした。  登美は黙った。 「相手は誰だというのだ」三之丞は声を荒げた、「その 男も承知しているのか」 ――承知していることを云えば、許してもらえるだろう か。登美はうつむいたまま考えた。だめだ、父は初めか ら反対するつもりで聞き出そうとしている、ここで名を 出すことはできない。 「相手の方が、どう思っているのかは分かりません」登 美はそう云った、「しかしわたしはもうその人の嫁にな ると決めているのです」 「おまえが一方的に想っているというだけなのだな」  信尭はそう念を押し、娘がうなずくのを見て、「ふん」 と笑った。「いくらおまえが嫁に行くつもりでも、相手 にその気がなくてはどうしようもあるまい」 「若い頃にはそういうこともありますわ」母親が懐かし むようにそう云った、「殿方に憧れて、この人の嫁に行 くのだと夢を見たことは、私もありますけど」 「それとこれとは違うのだ」  信尭は怒ったようにそう云った。 「そうね、殿方に憧れるのと、結婚して結ばれるのとは 違うものですからね、あなたもお嫁に行けば分かります よ、結ばれて子をなすようになれば、自然と情がわいて きますしね、それに女には家を守るという仕事があるの ですから」 「そうだ」信尭は後を継いだ、「女は産まれた家と、嫁 いだ家を守っていくという仕事がある、内祝言の日取り まで決めたこの縁談を断れば、清水殿の顔に泥を塗り、 天野家の面目も潰すことになる、おまえはそれでもいい と云うのか、それが許されると思っているのか」 ――もうだめだ。登美はそう思った。父は鯖瀬で一番の 力を持つ清水信尭という人に逆らうことはできない、な にを云っても聞き入れられることはない。  登美は心を決めた。 「分かりました」登美はそう云った、「急なことで動転 してしまいました、西川の嫁に、なります」  三之丞は再度念を押し、覚悟を決めたことを確認する と、「秋頃、遅くとも冬口には祝言があるそうだ、その つもりでいろ」と云って、登美を自分の部屋に帰した。 「密通していたやもしれん」三之丞は、登美が部屋を出 ると、そう妻にささやいた、「馬鹿なまねをしないよう、 よく見張っておけ、一刻も目を離すな」  登美は絶望というよりも、怒りを感じていた。茂十郎 と密かに会ってい、結婚の約束までしたことを父に話せ ば、余計に勘気に触れる。いまから茂十郎に申し込みを させても遅い。かと云って、家のために、ここまで育ん だ自分の夢を捨てることなど考えることもできなかった。 ――駆け落ちをしよう、事情を話せばきっとあの人も分 かってくれる、江戸に行くと決まったあの時、駆け落ち をするつもりだった、なにも恐いことはない、あの人と 一緒だったらどんな苦労でもできる、あの人と一緒にな れないのなら、生きているかいはない。  それを早く茂十郎に知らせなくてはと登美は思った。        菊池信兵衛の妻なほは、明るく誰とでもうちとけて話 をするので、同じ年頃の女性たちに人気があり、顔も広 かった。狭い藩内のことなので、女のほうが噂を聞きつ けるのが早く、情報源も広いことは分かっていたのだが、 信兵衛はまさか妻からそのことを聞くとは思わなかった。  夕食が終わり、茶を入れてもらい二人で飲んでいたと きであった。  なほはいつものように誰それがどうしたと噂話を始め、 信兵衛は聞くとはなしに、妻の明るい口調を楽しむよう に、ぼんやりとあいづちをうっていた。 「なんと云った」  小太郎の名が出たように思ったので、信兵衛は聞き返 した。 「冬でには祝言を挙げるそうなので、お祝いの準備を早 くしたほうがいいと云ったんですけど」なほはそう云っ た、「なにしろあなたは友達思いですからね」 「清水の縁談が決まったのか」 「そう云ったじゃないですか、なんでもほら、五年くら い前に亡くなった、あの西川様の家を継ぐそうですから、 うらやましいこと、三男だから養子に行くとばかり思っ て、どこにいくかってみなで云いあっていたのに、これ では全員はずれですわ」なほはそう云って、思い出した ように夫の顔を見た、「あら、知らなかったんですか」 「知らなかった、誰に聞いたんだ」 「近頃お稽古やみなさんの集まりに来ないので、おかし いと思って聞いたんですって、そうしたら、小太郎様と って、確かなことらしいですけど、お友達のあなたが知 らないのはおかしいですね」 「うわさ話には興味がないし、清水ともこのところ会っ ていないからな、それで、相手は誰なんだ」 「登美さんですよ」なほはそう云って信兵衛を叩くふり をした、「登美さんの話をしていて、小太郎様のことに なったのに、あなたったらまるで話を聞いていないのね」 「いや、考え事をしていたんだ、しかし、その登美さん というのは誰なんだ」 「ほら、天野様の三女ですよ、きれいな人ですから、小 太郎様も嬉しいでしょうね、縁談もけっこうあったんで すけど、ただ、ここ二年ばかり体を悪くされて、断わり つづけだったんですよ」 「二年……、断わりつづけ」信兵衛はそうつぶやいた。 「その人とおまえは親しいのか」 「ええもう、同じ歳でもありますし、本当にいい人で」 「歳が同じなら、十七だな」信兵衛は妻の話しを遮って そう云った。 「そうですよ」 「ほかに、十七の娘でまだ結婚をしていない、しかも家 柄の悪くない娘はいないか」 「登美さんだけですよ」なほはあっさりそう云った、 「体が悪くなければとうに誰かと結ばれていたでしょう けど、でもこれで、やっとみんな良人ができるから、話 が合って嬉しいわ」 「本当にいないか、十七でまだ独り身の娘は、一人もい ないのか」  なほは少し考えて云った、「足軽や中間小者、町人の ことなどは分かりませんけど」 「武家ではいないのだな」 「はい、でもどうしたんですか、そんなにむきになるな んて、珍しいじゃないですか」  信兵衛はあいまいに返事をした。  間違いない、信兵衛は茂十郎の相手を確信した。探る つもりではなかったが、歳だけで簡単に分かってしまっ た。よりによって相手は、小太郎との縁談が決まってい る。 ――自分が知らないくらいだから、茂十郎が知っている はずはない。信兵衛は頭を抱えた。こうなったからには、 黙っているわけにもいかない、だが、それを話してどう しろと云えばいいのか、小太郎から奪えと云うか、あき らめろと云うか、どちらにしても、言いづらいことだ。  翌日信兵衛は、役目を早く切り上げ、七つ(四時)に 役所を出て茂十郎の住居を訪ねた。  茂十郎は、心徳館での教授の準備のためか、書物に囲 まれるように机に向かってなにか書き物をしていた。信 兵衛であることを確認すると、慌てて反故紙をはじによ け、散らかっている本をどかして座るための場所を作っ た。 「悪いな」茂十郎はそう云って、いそいそと汚れた薄っ ぺらい座布団を敷き、しまったという顔をし、「茶がな いんだ、ちょっと貰ってくる」と家を飛び出そうとした。  信兵衛は、「いいから」と押し止めたが、茂十郎は、 「すぐ戻る」と云って駆け出していった。 「あれが自然だからなあ」  信兵衛は感心したように、茂十郎が去っていった戸口 を見つめた。  しばらくすると、茂十郎は茶ばかりではなく、菓子ま で手にして帰ってきた。 「気を使わせてしまってかえって申し訳ない」信兵衛は そう云った、「なにかの最中だったのだろう、じゃまし たのなら、そう云ってくれていいんだ」 「なに、大したことじゃない」茂十郎は湯を沸かすため に竈に火をおこしながらそう云った、「こんな汚いとこ ろに来てくれたんだ、せめて茶ぐらいはださいとな」  茂十郎は茶の支度をしながら、藩校でなにを教えるか ということを、嬉しそうに話した。その様子を見ている と、信兵衛は登美のことを話すことがつらくなってきた。 茂十郎と向き合って座ってからも、信兵衛はなかなか云 い出せずにいた。 「どうしたんだ、なにか用があるんじゃないのか」  茂十郎にそう催促され、信兵衛は意を決して口を開い た。どうせいつかは分かることなのだ、それなら早いほ うがいい。 「いつか話してくれた、あの女のことなんだ、もしや、 その人は、天野登美という人ではないか」  信兵衛がそう云うと、明らかな動揺の色が茂十郎の顔 にあらわれた。信兵衛の真意をさぐるように、茂十郎は その顔色をうかがった。 「調べたつもりではないんだ」信兵衛はそう云った、 「偶然ある噂を聞いた、それで」 「噂とは」  茂十郎は挑むような目で信兵衛を見た。 「心配するな、松岡との噂ではない、しかし、もっと良 くない話だ」信兵衛は大きな息をはいた、「天野登美は、 清水との縁談が決まったらしい」  茂十郎はあっけにとられたような顔をした。信兵衛が なにを云っているのか理解できないようだ。  突然、茂十郎は目をむいた、「待ってくれ、縁談」  茂十郎は待てというように上げた手を額に持っていっ た、「清水と、それは確かなのか、いや、待ってくれ、 どういうことなんだ、俺は聞いてない、いや、なぜそれ を俺に」 「落ち着け」と云って、信兵衛は茶を飲むようにすすめ た。 「俺の妻は天野登美と親しいようなんだ」信兵衛はゆっ くりとそう云った、「その妻から聞いた話だ、その人は 十七だという、それでもしやと思ったんだ、今日陣屋で 父上に会って、それとなく聞いたみた、父上もはっきり としたことは知らないようだが、内祝言を近々行なうら しいということは確かなようだ、もう隠していても始ま らない、今日はこれからどうするべきかということを話 にきたんだ」  茂十郎は、「すまない」と云って立ち上がり、土間へ 下りた。先日足軽の若者たちが来たときの酒が大徳利に 半分ほど残っている。それを持って戻ってきた。  意を決したように茂十郎はうなずいた、「確かに隠し ていた女というのは天野登美だ、悪いが一口飲ませても らうぞ、まだどういうことだが分からないんだ」 「無理もない」  茂十郎は頭を整理させるために、一から信兵衛に聞き 直した。信兵衛は面倒がらずに、聞かれたことに丁寧に 答えた。冷静に事態を把握し、素直に受けとめようとは しているが、茂十郎の顔は、血の気が失せ、苦痛をたえ るように強ばっていた。  すべてを聞き終わった後、しばらく黙ってうつむいて いた茂十郎はつぶやいた。 「しかしなぜ、俺に知らせてこないのだ」 「この前の手紙は、あれはもう渡したのか」 「ああ、返事が遅れているとは思っていたんだが、そう いうことなら、なおのこと、なんらかの返事があってい いと思うのだが」 「だとしたら、返事を出せない状況にいると思うべきで はないか」  茂十郎は口に拳を当てて云った、「それか、もう待つ 気がなくなったか」 「しかし」 「本当に体が弱くなっただけなのかもしれない、二年、 気持ちが変わるには十分な時間だ」茂十郎は自嘲的に笑 った、「縁談を断る口実だなんて、俺の思いすごしだっ たかな」 「そうなにもかも決めつけるな、どうした、少しおかし いぞ」 「そうかもしれない」茂十郎はそう云った、「心は静か だ、自分でも不思議なくらいだ、しかし、頭の中が泥水 に変わってしまったような、とにかく、うまく考えるこ とができない」  信兵衛はうなずいた、「だが、どうする、このまま放 っておくのか、もし駆け落ちするといって、女がここに 逃げ込んできたらどうする」 「駆け落ち」そうつぶやいてから茂十郎は云った、「し かし、清水と縁談が決まっているのだろう」 「それが問題だ」信兵衛は云った、「ただし、清水は縁 談を嫌っている、そこに救いがあるかもしれない、まだ 正式ではないし、俺から清水に、こういう話を聞いたが どうだと、真意を確かめて、その上で気持ちを聞いてみ よう」 「待ってくれ」茂十郎は云った、「清水に云うのか、そ れは待ってくれ」 「なぜだ、うまくいけば、松岡にも清水にもいいことに なるんだぞ」 「清水が乗り気だったら、乗り気ではないにしろ、断る 気がなかったら、そうしたらどうなる」茂十郎はそう云 った、「清水の自尊心の高さは知っているだろう、つら い目にあうのは彼女のほうだ」  信兵衛ははっとしたようにうなずいた。 「そこは気がつかなかった」信兵衛はそう云った、「俺 も冷静ではないようだ、うん、こうしよう、さぐりだけ 入れる、それで、話して清水が納得するようであれば話 す、それで、どうだ」 「分かった、だが、そのときは相談してくれ」 「ただ、どちらにしても」信兵衛は云った、「松岡がど うするのか、それは決めておいたほうがいいだろう」  茂十郎は考え込むように目を閉じた。 「分からない」茂十郎は吐き出すように云った、「いま は、どうすべきか考えることはできない、相手の気持ち も知りたいし、とにかく、少し一人で考えさせてくれ」 「分かった」と云って信兵衛は立った。  信兵衛は、見送りはいいと云って、戸口まで来て、最 後に振り向いて云った。 「二人とも、大切な友達なんだ」信兵衛はじっと茂十郎 の目を見た、「こんなことになって、なんと云っていい か分からない、だが、友達として、駆け落ちだけはして ほしくない、それだけは云っておきたい」  茂十郎は笑ってその言葉に答えた。  信兵衛の足音が遠ざかるのを聞きながら、茂十郎はま だ中の入った茶碗を握り締め、力一杯壁にたたきつけた。 「駆け落ちだけはしてほしくない」そう云った信兵衛の 最後の言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。 ――駆け落ちはできない、せっかくここまで来たのだ、 もう出世する道が見えている、ここで駆け落ちをしては、 これまでの苦労がだいなしだ。  しかし一方で、出世の象徴としての登美との縁談がな くなるということも、茂十郎は考えられなかった。茂十 郎にとって出世の果てにあるものは、家老や側用人とい った役職ではなく、誰もが納得する登美との縁談、身分 の壁を超えた自身の能力が認められる証が、その縁談な のだ。  では登美との縁談だけのために出世を望んだのか、そ れは違う。多くの足軽たちの希望になりたいという気持 ちもある。それでも、もし信兵衛が云ったように、登美 が駆け落ちする気で家を抜け出し、ここに来たら、断る ことができるだろうか。茂十郎にその自信はなかった。  茂十郎は自分でも分かっている。人からの期待や信頼 を裏切ることはその性質上できない。その期待や信頼の ために頑張ってしまう自分の性格を知っている。もし登 美が「一緒に逃げて」と云ってやってきたら、自分はど うするだろうか。ほかの、多くの足軽の若者たちの期待 を捨てて、登美と出奔するか、それとも、登美の気持ち を捨て、出世のために生きるか。その選択は、どちらに しても、茂十郎には余りにもつらい選択であった。       小太郎の機嫌はよかった。いつも信兵衛が縁談にかか わることを口にすると、たいてい機嫌が悪くなったもの だが、養子ではないことと、天野登美が美しい娘である ことに満足している様子であった。清水家を訪ねた信兵 衛は、小太郎の心のうちを探り、もしこの縁談をいやが っているようなら、相談することもできると考えていた が、それが無理であることを、小太郎の言葉や話す様子 から感じ取っていた。 ――だか待て、腹をわって話せば清水も友情のために身 を引くこともあるかもしれない、まだあきらめてはいけ ない。  信兵衛は、「家老職が気づまりだろう」、「体の弱い 娘らしいな」、と不安要素を並べてみた。  しかし小太郎は、婿養子よりはましだと云うし、「美 人薄命と云うだろう、美人は体が弱いものと決まってい るんだ」と云って、むしろそれを喜んでいるふうであっ た。  こうなると、同情をさそったほうがいいのか、しかし そのためには、茂十郎のことを全部しゃべらなくてはい けない。それを早まってはけないことは、信兵衛もよく 分かっている。まずは友情を確認することだ。そう考え た信兵衛は、茂十郎が藩校の教授につけそうだと話した。  しかし小太郎は、まったくその話しに興味を示さなか った。むしろ、どうでもいいという顔で聞いていた。 「士分にも取りたてられるんだぞ」信兵衛は云った、 「いままでの苦労が実るというわけだ、めでたいとは思 わないのか」 「さあな」小太郎は下唇をつきだしてそう云った、「二 十石の馬廻がそんなにうれしいかねえ、西川家のあるじ になるおれのほうがはるかにすごい出世じゃないか、め でたいと云えばおれのほうだろう」  信兵衛はあきれた顔で云った、「清水もめでたいかも しれないが、松岡はずっとそれを望んで、江戸にまで行 くという苦労をして、やっと手にできるところまできた んだ、どれだけの出世をしたかということではないだろ う、実力でそこまでいったということがすばらしいんだ」 「ふん」小太郎は鼻を鳴らした、「どうせおれは父上の 力だと云いたいのか、しかし松岡も同じだろう、どうせ お前が口をきいたんだ、そうだろう、おれのところにも 来たが、おれは断った」 「断った、どういう意味だ」 「そういう意味だ」 「松岡の気持ちは清水もよく知ってるじゃないか」信兵 衛は怒ったというよりは、驚いてそう云った、「それな ら友達として力になれるところは力になってもいいん じゃないのか、まさか、まだあの時云い合ったことを気 にしてるのか」 「あの時、ああ、松尾屋のことか、その時のことじゃな い、いや、あのときでうんざりしたというところか」  信兵衛は小太郎の顔を見つめ、次の言葉を待った。 「分からないのか、もうなあ、おれはあいつのああいう 態度はいやなんだ」  信兵衛は挑むように云った、「ああいう態度とは」 「そんなことは分からねえよ」小太郎は信兵衛の視線を 払う手ぶりをして云った、「うるせえな、しつこいこと を云うな」 「しかし理由もなくそんなことは云わないだろう、あの 日だって結局清水は帰らなかったじゃないか、理由をき かせてくれ」 「そりゃあ、松岡の帰郷祝いで、松岡が帰るなと云うの に帰るわけにはいかねえよ、でもあいつは、押しつけが ましく人に自分のことを云うだろう、ああいうのはいや なんだ」 「だがそれは昔から変わらないじゃないか」 「昔は気にならなかったが、いまは我慢できない、いや そうだ」小太郎は思い出したように続けた、「そういえ ばあついは昔からそうだった、自分のことを分かってく れ、分かってくれ、という感じで話をするだろう、その くせみょうに親切ぶって下手に出る、結局自分のことを 認めて欲しいだけじゃないか、そういうところは昔から 好きじゃなかった、いまはもううんざりだ」 「それは友達にたいする云い方ではないぞ」信兵衛は今 度は怒ったような口調になった、「松岡にだって人間と しての欠点はあるだろう、それは清水にも云えることで はないのか、それにいちいち腹を立てていては、まとも に人と付き合うことはできないぞ、第一、そういうこと は本人にはっきり云うべきことだ、あとになっていうの は卑怯じゃないか」 「卑怯か」小太郎はは馬鹿にしたように笑った、「松岡 に直接云ってみろ、また、あれこれ云い返されて、結局 同じことじゃないか」 「たとえそうだとしても、そんな云い方はないはずだ」 「友達だからか、じゃあはっきり云おうか、おれはお前 のそういうところは好きになれないね」小太郎はそう云 った、「友達、友達って、友達といったって、永遠に続 くものではないだろう、おれはとにかく、もうあいつに はうんざりしてるんだ、それはお前がどう思おうとだ、 だいたい、足軽のくせに分不相応な出世を望んでいるの も気にいらねえんだ」  信兵衛は、小太郎の顔をにらみつけた。 「それだけは云ってはいけないはずだ」信兵衛は憤慨し て立ちあがった、「足軽のくせに、その言葉がどういう 意味を持つのか、よく考えてみろ」  そう云い捨てると信兵衛は、小太郎の顔も見ずに部屋 を出た。 ――なんてことだ、信兵衛は清水家を後にして、絶望的 にそう思った、縁談を気に入っているだけじゃない、よ りによって松岡のことをあんなふうに思っていたとは、 だめだ、清水から縁談を断るという道はもうない、残さ れた道は、二つか。  信兵衛は、小太郎が茂十郎のことをあのように悪く云 ったことに、悲しい思いを持たざるをえなかった。それ は信兵衛が友達を大切にするというだけではなく、「足 軽のくせに」という言葉が心に重く響いていたからであ る。  信兵衛は、茂十郎と身分を超えた友達付き合いをして いることに誇りを感じていた。だからこそ、小太郎のあ の言葉は許せないのだが、一方で、その身分の差がある ことを感じていた。それはいまも、大きな壁として茂十 郎の前にある。それを知っているなら、小太郎はあんな ことは云えないはずだが、反面信兵衛は、茂十郎が足軽 であることを忘れることもできなかった。身分を気にし ない、ということを気にしつづけているということは、 結局身分の差をはっきり意識しているということである。 足軽だから大変だ、だから力になろう、ということは、 「足軽のくせに」という言葉と、どこかつながっているよ うな気が、信兵衛はしていた。どこがどうとは云えない のだが、「足軽のくせに」と小太郎が云ったとき、信兵衛 は自分が責められたように、どきりとした。      茂十郎は信兵衛から話を聞いた。もちろん信兵衛は、 小太郎が茂十郎をうとましく思っていることは云わなか ったが、茂十郎は落胆した様子を見せていた。 「だが、少し冷静になって考えてみたんだ」茂十郎はそ う云った、「もし清水がその縁談に乗り気じゃなく、万 が一おれのためにうまく縁談を断ってくれると云っても、 すぐにそれを頼むべきではない、まずは相手の気持ちを 確かめるべきだ、そう考えたんだ」 「しかし、その人は二年待っていた、それだけで十分で はないのか」 「分からない、なんとも云えない」茂十郎はそう云った、 「待ってくれていたと信じたい、しかし鯖瀬に帰ってき てから一度も文はこない、まだ若いのだ、気持ちがふと したことで変わることもあるだろう、それは考えておか なくてはいけないことだ」  茂十郎が思っていたよりも冷静なことに信兵衛は安堵 した。 「それなら、松岡からそれを確かめてみてはどうだ」 「それは考えた」茂十郎は云った、「だが、向こうから なにも云ってこないのに、こちらから縁談について聞く のは変だし、もう心が変わっているとしたら未練がまし いようで、どうしてもそれができなかった」 「弱気になっているな」信兵衛はそう云った、「しかし その気持ちはよく分かる」 「そう、弱気だ」茂十郎はそう云った、「こういうとき になると、自分がいかに弱いかよく分かる、まったく情 けなるほど自分の弱さを痛感させられるよ、いざという ときになると、人間は弱いな、おれはいまでも自分がど うしていいのか分からないんだ」 「しかしそれでは……」 「そうだ、もし駆け落ちをしようと云って、ここに来た ら、それこそどうするかわからない」茂十郎は悲しそう に笑った、「しかし、なにも云ってこないということは、 恐らくもう清水と一緒になり、西川家に入ることを決め たということだろう、そう考えるようになってきたんだ」  信兵衛は、茂十郎に対してなにも云うことはできなか った。茂十郎は真剣に考え、悩んでいる。その茂十郎が 出した結論ならば、たとえ駆け落ちだとしても、それは 致し方ないことなのではないか、そう思ったからである。 もしかしたら、まだ心のどこかで、三人の友情を台無し にするようなことを云った小太郎を恨むような気持ちが あったからかもしれない。  そのころ登美は、きびしい監視の目のなかにいた。  登美にいままで付いていた下女(登美と茂十郎の関係 を唯一知っている人物)がひまを出され、それまで母付 きだった下女が登美の世話をするようになった。だがそ れは、事実上の監視であった。おそらく脅したのだろう、 登美の下女から話を聞き出したようなのである。  登美への監視は夜は交代で、寝ずの番がつくほど厳重 なものだった。その上外に出るためのすべての門にも監 視がつき、当然、外部とのあらゆる接触を遮断された。 信兵衛の妻女が云っていたように、登美は親しい友達に も会えなかった。当然出入りの商人とも会えない。つま り、家を抜け出すことはもちろん、茂十郎に文をを渡す 手段もないのである。この状況を伝えるための文は、い つも懐に忍ばせてあった。しかし、それを茂十郎まで届 けることは不可能に思われた。  やりすぎともいえるこの監禁は、それだけ、父三之丞 が清水信尭を恐れていることを示したいた。この縁談を 天野家から壊すようなことになったら、それはすなわち、 この家の破滅であると、そう三之丞は考え、過剰な監視 を続けているのである。  ただ、それを手をこまねいて見ているだけの登美では なかった。十日ほど色々試みようとした。だが、荷物を まとめる隙はなく、手紙も渡せそうにない。そうなると、 あとは身ひとつで茂十郎のところに駆け込むしかない。  細心の注意を払い、登美は計画を実行した。隣の部屋 の寝ずの番は、三人交代であることがわかった。その中 の一人はまだ十三で、抜けたところのある娘だった。退 屈なのか、始終ごそごそ動く音がするし、静かになった と思うと寝息が聞こえてくる。  登美は二回、その娘の時に部屋を抜け出して厠へ行っ た。どちらとも、帰ってきても隣から寝息は聞こえてい た。これなら大丈夫だ、登美はそう確信し、三度目の機 会を狙った。今度は本番である。夜中に見張りの交代が あり、落ち着きのない様子から、その娘であることを登 美は認めた。この時間に交代したのであれば、朝まで次 の交代はない。登美は辛抱強く、息を殺して隣の気配に 神経を張り巡らせた。  寝息が聞こえ始めてから半刻ほどたった。障子窓がぼ んやり白ずみ、鳥の鳴き声が聞こえ始めた。いつでも外 に出られる格好で横になっていたし、金に変えられそう なものもまとめあった。登美は静かに部屋を出て、まだ 暗い屋敷の中を注意深くゆっくりと歩いた。もっとも注 意が必要だったのが雨戸である。人がいる部屋までは間 のある、中庭の雨戸を開け、履物を選ばず庭に降りた。  しっとりとした心地よい空気が満ちていた。いよいよ 茂十郎に会える、そう考えると東の空で紫色に染まる雲 も、すずめのさえずりも、葉ずれの音すらも、登美には これからを祝福するもののように感じた。裏木戸を抜け れば、待ち望んでいた茂十郎との生活が待っている。そ れがどういうものか想像はしなかった。ただ、愛する茂 十郎と一緒になれる、それだけがすべての望みであり、 希望であるのだ。  登美は一度屋敷を振りかえり、そのまま庭を横切り、 裏木戸にやってきた。そこで、不意に登美は呼びとめら れた。竹箒を持った庭師であった。 「眠れないから少し庭を歩いていただけです」  ととっさにそう云い訳したが、そういう格好には見え なかったし、主人にも云い含められていたので、その庭 師は嫌がる登美を連れ戻した。  この失敗で監視がさらに強くなり、家を抜け出す隙も、 誰かと連絡を取る手段も完全になくなり、もう登美には 打つ手がなかった。    柔軟路線      そのころ、七月の六日に幕府では、一ツ橋慶喜を将軍 後見職という地位につけた。いわゆる文久の改革である。 桜田門外で暗殺された井伊大老は、一橋派に弾圧を与え ていた。鯖瀬藩主の諒勝もそれに加わっていた。それが 今度、その一橋慶喜が政治の表舞台に立ったわけである。  諒勝は安政の大獄の責任を問われ、一万石削減、隠居、 急度慎みを命じられた。想像してはいたが、重い罰であ る。藩主の座は次男の諒実に譲られ、同時に重臣の交代 があった。清水信尭は隠居はし、城代家老も代わり、い わゆる保守派の人々が政権を握った。  清水家としては、あとを継いだ長男は家老職であるし、 小太郎が西川家に入れば、その家の格である程度の地位 は保証されている。清水信尭にしてみれば、恐れていた ほどの難はなかったのである。  ただしそれは、信尭にとっては痛くなかったというに 過ぎない。藩主への処罰が下ったということは、当然藩 士たちへ動揺を与えることになった。  まず足軽たちが騒ぎ出した。それ見たことか、という わけである。同時に幕府に対する非難も強めた。前にも まして会合を持ち、その不満を並べあげた。  もちろん、そこに茂十郎は加わっていなかった。彼ら の代表格ともいえる若者たちは、茂十郎の信奉者でもあ ったが、だからこそ、茂十郎に迷惑がかからないように していたのである。本心を云えば、茂十郎を祭り上げた いのだ。しかし彼らは、同じ身分のものとして、茂十郎 の気持ちをよく理解していた。茂十郎という存在がなか ったら、彼らはなんらかの行動を起こしていただろう。 それだけの不満と、行動にうつせるだけの信念と若さが あった。しかし決して、表だった行動はしなかった。茂 十郎に迷惑がかかるからである。それだけ茂十郎を慕っ ていたし、なによりも、弱い立場である彼らは仲間を大 切にする気持ちが強かった。  それでも、彼らの中に膨らむ不満の声は、自然と茂十 郎の耳にも入ってきた。茂十郎は、彼らを無理に押さえ ようとは思わなかった。そうするとよけいに反発しよう とするからである。ただ、この藩全体が動揺している空 気の中で、それにつられて無謀な行動はしてほしくなか った。彼らのなかにある不満、そして自分たちも武士で あるという誇りは、尊皇攘夷に走るのに十分な要素であ る。しかしながら、茂十郎は自分が出世をすることによ って、いつまでも報われない、という不満は解消されて いくだろうと思っていた。 ――もう少し待って欲しい、この動揺の中で無茶なこと をし、若い命を捨てさせるわけにはいかない。  一日中登美ことばかり悩んでいることもできない、彼 らを止めるのは自分だけだ、そういう思いで茂十郎は、 彼らがよく集まるという飲み屋に出向いた。  そこは伊野川沿いの道を一本奥へ入った、目立たない 場所にあった。町人でも入りづらそうなほど、その店は 汚く、その雰囲気もよくなかった。 ――たしかにここなら藩のものには気づかれまい。  茂十郎は店に入り、ぐるりと中を見渡した。狭い店で、 十人入れそうもなかった。そこには足軽の若者たちの姿 はなかった。 「座敷はあるか」  茂十郎がそう聞くと、店主は斜めに茂十郎を見、さも 警戒したような顔を見せた。 「怪しいものではない」茂十郎は笑顔をみせた、「若松 たちが来ていると思うのだが」  あるじはもう一度茂十郎を見た。着ているものはぼろ だが、同じ足軽の仲間には見えなかった。 「若松だって」あるじは大きな声を出した、「そんな人 は知らねえな、どこかよそを当たってくれ」  店の私用の部屋と思われる、突き当たりの襖の向こう で、物音がした。 「次からはもっとうまくごまかすんだな」  茂十郎はそう云うと、止めようとする主人を振り切り、 「おれだ」と云って襖を開けた。  そこには四人の若者がいた。  灯かりは消したのだろう、薄暗い中で全員が刀を抜い ていた。 「そんなに聞かれては困ることを話していたのか」茂十 郎はそう云って草履を脱ぐと、「一人追加だ」とあるじ 云い、中に入っていった。 「灯りをつけてくれ」  と茂十郎が云い、笹原小弥太が灯りをつけた。  中にいたのは、笹原小弥太、橋本与一郎、木崎勝久、 小籏樹左衛門の四人だった。 「ほう」その面々を見て、茂十郎は云った、「急進派の 親玉がそろってるわけだ、腕自慢の四人に刀を向けられ ては落ち着かない、しまってくれないか」  茂十郎だとわかった四人は、気まずそうに刀をしまい、 みな、叱られる子どものようにかしこまった。 「そう硬くならないでくれ」茂十郎はそう云った、「な にもお前たちのことを責めに来たわけではないんだ」 「しかしなぜこんなところに」  小弥太がそう聞いた。 「うん、いったいどういう話しをしているのか興味があ ってな、これでも江戸では色々な話を聞いた経験がある んだ」  彼らは困惑した様子だった。自分たちの尊嬢論は決し て茂十郎には話すまいと決めていたのに、その本人が自 分から聞きにくるとは思わなかったのだ。 「たいした話しはしていません」  他の三人に、立場を表明するように小弥太がそう云っ た。  その態度で茂十郎も彼らの心を知ることができた。 「おれのためにそうしてくれるのか、うれしいことだ」  店主が膳に酒と猪子を乗せて持ってき、まだ警戒した 顔で茂十郎を見て、小弥太にこの人は誰だと目で聞いた。  小弥太は小声で云った、「この人が松岡さんだ」  あるじは、ああ、と眉を広げてうなずいた。 「知らないところで有名になっているんだな」茂十郎は そう云って笑った、「酒も来たことことだし、飲もう じゃないか」  酒を飲み始めても、彼らは尊嬢について一言も口にし なかった。それが分かった茂十郎もあえて聞きはしなか った。ただ、半刻ほどしてそろそろ帰ろうという間際に、 思うことを口にした。 「お前たちが気を使ってくれていることはよく分かった、 だが、どういう考えを持っているかは知っているつもり だ」  四人は神妙な顔をしたが、茂十郎が知ってくれている ということに、うれしそうな表情を見せた。 「しかし、早まったことはして欲しくない」 「それはもちろん」  小旗樹左衛門がそう云った。彼は四人の中で一番剣の 腕が達者で、道場では特に茂十郎に目をかけられていた。 「松岡さんに迷惑をかれることだけはしません」  小弥太もはっきりそう云った。 「ただ、幕府のやりかたは気に入りません」  短気で知られる橋本与一郎が、我慢できないという様 子でそう云った。  この中では最年長者で、茂十郎と一つしか歳が違わな い木崎勝久は、「それは松岡さんとは関係のないことだ、 余計なことは云うな」と与一郎をたしなめた。 「いいんだ」茂十郎はそう云った、「鯖瀬藩が幕府の譜 代藩であり、その藩士である以上、関係ない人間はいな いし、むしろすべての武士は、この国の行く先を案じて いるんだ」 「そうですよ」与一郎が勝ち誇ったようにそう云った、 「それなのに幕府や藩の老中たちときたら、まるで分か っていない、こんなことでこの国が――」 「橋本」勝久が怒鳴った、「いい加減にしないか」 「そう与一を責めるな」茂十郎は云った、「お前たちだ って与一と同じ気持ちだから、ここに集まっているのだ ろう」 「しかし」と小弥太が恨めしそうに与一郎をにらんだ、 「私たちはそんなつもりではないんです、松岡さんが心 配するようなことはなにもありません」 「それは分かった」茂十郎は真面目な顔で云った、「お れは自分のために云っているのではない、ただお前たち に命を無駄にして欲しくないんだ、今回の幕府の処罰に はみなが浮き足だっている、それで我を忘れて無茶なこ とをするのは愚かだ」  茂十郎は四人顔を、確認するように見た。それぞれの 顔のどこかに、命など惜しくないという様子が見られた。 「この国のために命を投げ出すのは愚かではない」茂十 郎はそう云った、「しかし、周りの状況に一喜一憂して 我を忘れた行動は愚かだ、いまお前たちが怒りを感じ、 不安の中にいるのは分かる、それはおれも同じだ、大切 なのは、周りになにがあっても揺らがない、そういう強 さを持つことだ」  四人は素直にうなずいた。 「おれは力で世の中を変えようという考えは、かならず しも間違っているとは云わない」茂十郎は続けた、「そ れに、お前たちがそういう考えであるなら、それを否定 することはしない、ただ、周りに流され、我を忘れる見 苦しいことだけはしないでくれ」  四人はそれぞれに、そういうことはしないと宣言し、 茂十郎はそれを聞き、安心して席を立った。  その帰り道、茂十郎はふしぎな思いにとらわれていた。  彼らに云ったことは、そのまま自分にも云えることだ ったのだ。 ――周りがどうであれ、見苦しいことはするな、茂十郎 はあらためて自分言葉を思い出していた、なるほどその 通りだ、見苦しいのは自分だったな。  茂十郎は自分の言葉で覚悟を決めた。  小太郎が縁談をする気である以上、登美と駆け落ちす るのは(登美にその気があっとしてだが)小太郎に最大 の侮蔑を与えることになる。それは人として正しいとは 思えない。もし登美にもうその気がないのなら、男らし く未練を持たずに、目標である出世の道を歩むのが正当 だ。登美にその気があっても、駆け落ちはできない。も し駆け落ちしたら、友達を裏切ったという負い目が一生 自分の中にあるだろう。それに、このご時世に他藩で再 仕官がかなうとは思えない。貧しさはいま以上になり、 その苦しみを知らない登美にそれを味あわせるわけには いかない。小太郎のためにも、そして登美のためにも、 自分が身を引くのが一番だ。  そう思い、身を引くことを決めた。      監禁状態であり、外部との接触ができない登美にも、 心に変化があらわれるようになった。ずっと一人でいる ため、冷静に物事を考えられるようになってきたからで ある。  登美は当初、強引に決められた縁談に怒りを覚え、駆 け落ちをするということしか頭になかった。それは無理 もない考えだった。登美の心はすっかり茂十郎の妻とし て形成されていたし、そのために二年間待ちつづけてい たのだ。  しばらくの間は、茂十郎と結ばれること、すなわち唯 一の方法である駆け落ちをいかにするのかということば かり考えていた。しかし、徐々に冷静になってくると、 今度は駆け落ちした後のことを考えることができた。  この厳重な監視の中、家を抜け出すとしたら金や持ち 物は持っていけない、当然貧しい暮らしになる。それを 体験したことのない登美は、貧しい暮らしに対しては、 むしろ耐える喜びともいえる快楽的な想像しかできなか った。しかし茂十郎のことを考えると、暢気な気持ちに はなれなかった。他藩での士官が容易でないことは知っ ている。しかも茂十郎は、この藩で、大変な苦労をして 出世の足がかりをつかんだ。脱藩して、もし運良く仕官 できたとしても、自分の生まれ育った藩でさえ、足軽と いう身分からはいあがるのは難しいのに、よそ者が出世 できる可能性はかなり低い。 「ああ、だめだ」  登美は絶望的にそうつぶやいた。 ――わたしが一番望んでいるは、あの人が世に認められ るような人になること、その邪魔をわたしがすることは できない。  登美は、自分のせいで茂十郎がつかみかけている出世 の道を台無しにすることはできなかった。たとえどこに 行っても、茂十郎ならばきっと出世できる、そう信じて いるが、茂十郎が鯖瀬藩での出世を望んでいることも、 登美はよく知っていた。 ――男の人は夢に生きられる、たとえわたしと結ばれな くても、だめになったりはしない、登美はそう思った、 でもわたしは愛に生きたい、あの人のために生きる、そ のために、身を捨てて西川家に入ろう。  その日から登美は、自分は死んだものだと決めつけた。 茂十郎の妻になれなかった自分は、死んだも同じだとい うことである。本当は死んでしまいたかった。しかしそ うすると茂十郎の心によけいな負担を与えてしまう。死 んだつもりで小太郎の妻になることで、気持ちだけはい つまでも茂十郎の妻であろうとしたのである。  登美が本心ではこの縁談に同意していないこと、あわ よくば家を抜け出そうとしていることも、三之丞は知っ ている。だから登美が深刻な顔で、素直に西川に入ると 云ったとき、すぐには信じられなかった。  しかし、登美は家を抜け出す気でいたことも正直に云 ったし、泣き出しそうな顔で西川に行くと云ったときは、 三之丞は娘を信じる気になった。 「するともう未練はないのだな」 「はいありません」  そのかわり、手紙を一通出すことを認めてくれと、登 美は云った。  武家の娘である、よもやそこまでして親をだますこと はあるまい、そう思った三之丞は、それを承知した。 「想い合ったもの同士が結ばれることは、武家の世界で は例外だ」三之丞は、生気のなくなった娘の顔色を不憫 に思い、そう慰めた、「それは武士が主君のために個を 捨てているからだ、それはお前も承知のことだろう、西 川の嫁になるからには、夫を助け、家を守ることだ、そ れが主君のためになる、分かるな」  登美は小さくうなずき、なるべく早く祝言を挙げたい と云った。こうなった以上は、少しでも未練を早く断ち 切りたかったのである。  三之丞も娘の気持ちを察し、清水信尭に婚礼を早めて くれるよう相談に行った。もちろん信尭に異存はなかっ た。急な話であったし、娘の体が弱いというので急がな かっただけなのだ。  祝言の日取りは、翌八月の末と決まった。  この年の夏は例年より暑かった。七月に入っても、残 暑というよりは真夏の暑さがしばらく残っていた。子供 たちが伊野川で泳ぐ姿もよく見かけたものだ。  長屋の壁に蝉が止まっているらしい、かなり近くでそ の声が聞こえていた。  ただ、茂十郎の耳にはその声は入っていなかった。一 度読み終えた手紙をたたもうとし、もう一度はじめから 読み返した。  内容は簡素なものだった。小太郎との縁談が決まり、 西川家を再興するため、その嫁に入ること、茂十郎が無 事出世することを祈っていること、それだけを感情を押 さえた文で書かれていた。  登美からの手紙が届いたとき、その内容を、茂十郎は 読む前から察した。小太郎との縁談は避けられない、そ の上で文をよこしたというのであれば、自分に対するけ じめだと思ったのである。手紙をくれるだけの気持ちを 持ってくれていた。それはうれしかった。ともすれば、 一刻だけの気持ちで今はもう自分に対する想いはないの ではないかとさえ考えた。しかし、こうして手紙をくれ たということは、少しは気持ちを持っていたということ である。  だがあらためて読むと、少なからぬ衝撃を茂十郎は受 けた。  少しは、ではなく、しっかりと登美は自分のことを考 えていた。どこにもそうは書いていなかったが、登美が 自分の出世ために身を引いたことが分かったからであっ た。云い知れない悲しみが茂十郎の胸の中を満たしてい た。自分から身を引こうと決意した。それは登美の幸せ を願ってのことだ。同時に登美も、茂十郎のためを思っ て身を引いたのであ。もう想いはない、そう云われるよ りも、茂十郎には悲しみが強かった。想い合っている二 人が結ばれることはできない。  云い知れない悲しい憤りを、茂十郎は胸の中に燃やし ていた。  登美との縁談がなくなった今、茂十郎にとっては藩校 の教授だけが頼みであり、すべての希望であった。足軽 でさえなければ登美と結ばれただろう、その悔しさは、 なんとしても出世をし、見返してやるんだという気持ち を駆り立たせた。  だがその知らせはなかなか来なかった。七月もただ待 つばかりで日が過ぎ、ついに八月になってしまった。  そして八月の十日、早坂十右衛門からの使いがきた。 「遅くなってすまなかった」  以前と同じ客間に現れた十右衛門は、まずそう云った。 「そなたもこの度の殿への処置は知っているな」  十右衛門は以前とは違い、厳粛な面持ちでそう云った。 「重臣の面々も変わり、方針にも変化があった」十右衛 門は云った、「率直に云えば、柔軟路線を取らざるをえ なくなったわけだ、いまは幕府に目をつけられるような ことはできない」  茂十郎は顔色を変えて十右衛門を見た。 「藩校では儒学以外を教えることはできなくなった」十 右衛門はすまなそうにそう云った、「儒学の教授は十分 に足りている、そなたに藩校の教授を頼むことはできな くなったのだ」  目の前が暗くなるというのはこのことである。茂十郎 は呆然とした。 「すると、藩校の教授にはなれないと……」 「すまないと思っている」十右衛門はそう云った、「期 待を持たせておいて、だめになったでは済まないと思う、 だがこれは藩の方針だ、あきらめて欲しい」  茂十郎はがくりと首を垂れた。  登美を失い、また、藩校の教授の道もなくなった。登 美との縁談と出世だけを願って生きてきたのである。そ のどちらもがなくなったことは、どれだけ茂十郎の心を 落胆させたか。 「それがしにも、そなたを教授にすると云った手前があ る」十右衛門はしばらくの間をおいてから云った、「老 中に働きかけ、家塾としてそなたが教えを取ることが認 められた」 「家塾」そうつぶやいて茂十郎は顔を上げた。  十右衛門はうなずいた、「藩校とは違うが、藩が認め た塾であるし、専用の屋敷も用意する、当然藩からの援 助があるし、それは二十石はあるはずだ、そこで洋学を 教えるのならよいということなのだ」  ただ、士分への取り立てはないということだった。出 世の道は大幅に遠のいた。  しかし、これは異例のことである。十右衛門が奔走し てくれたからこそであるし、それだけ茂十郎のことを認 めているのである。茂十郎はありがたくその話を受け入 れることにした。すべての道が閉ざされたのではない、 少しでも光があるのなら、その道を選ぶしかないのだ。  茂十郎は丁寧に感謝の言葉を述べた。  力になってくれた信兵衛に報告をしなければいけない、 そう思いながらも、茂十郎は菊地の屋敷を素通りして、 自分の家に帰った。  部屋に戻っても、茂十郎はなにも手につかなかった。 机の上の教授になった時のために作った資料を乱暴に払 いのけ、そこに倒れるようにうつぶした。そのままずっ と、食事をとらないどころか、一杯の茶も入れず、眠れ ない夜を過ごした。  自分が認められなかったわけではない。時勢の変化と それによる藩の方針である。運命としか云いようがない。 頭でそう分かっていても、あまりの無念さに絶望的な気 持ちになっていた。  二日間は外に出る気力も湧かなかったが、三日目によ うやく、信兵衛に報告した。  信兵衛はあまりの不運に云うべき言葉もなかった。愛 する女と友が結ばれることになり、その上、夢への第一 歩を手痛く挫かれたのだ。ありきたりの慰めを云うのが 精一杯であった。 「不思議なものだ」信兵衛は云った、「今日、なほが息 子を産んだ」 「そうだったのか、すまない、そんなめでたいときにこ んな話を持ってきてしまって」 「松岡のせいではない、おれのほうこそ、なんだか申し 訳がないくらいだ」 「なにを云うんだ、男子誕生じゃないか、大いに祝って くれ」 「ありがとう」信兵衛はそう云った、「いずれ祝っても らおう、だがそのときは、松岡、お前の家塾の成功も一 緒に祝うぞ」  茂十郎は力なくうなずいた。 「家塾を成功させるんだ」信兵衛は茂十郎の肩をたたい た、「そうなればいやでも認められる、藩校で学ぶより も優秀な人材を育てるんだ、いまはそれだけを考えろ」 ――家塾を成功させるしかない。  分かりきったことであった。だが今の茂十郎にはすべ てを奪われたようなむなしい脱力感が心を占めていた。 無事男子が生まれた幸福な信兵衛と、己の身の上を比べ ると、人間は公平ではないと、やりきれないような暗い 気持ちになった。      しかし幸いにも、いつまでもくよくよしていられない ほど、茂十郎の身辺は動き出していた。  十右衛門はすっかり準備をととのえてから、茂十郎に 話したのである。城下のはずれに、いまは人が住んでい ない古い足軽長屋があった。それを改造し、茂十郎のた めの住居を兼ねた講堂は完成していた。広くはないが道 場も付いている。  住居まであるというのは意外であった。足軽が足軽長 屋以外に住むということは、この藩では例のないことで あった。それも含め、茂十郎は足軽としては例外的な立 場であった。足軽としての役目はなく、塾だけをすれば いいし、塾のために一人だけ人を使うことも許され、一 人扶持が加増された。これらすべては、早坂十右衛門の 働きである。これには茂十郎も感謝した。塾生がどれだ け集まるか分からないが、これは二十石の馬廻よりも待 遇はよさそうである。立場は足軽に過ぎないが、口に出 したことを少しでも守ろうという十右衛門の気持ちがよ く伝わった。  そして、茂十郎が洋学塾を開いたことはすぐに広まり、 希望者も集まりだした。こうなっては茂十郎もくよくよ はしていられない。むしろ、にわかにやる気が出てきた。  真っ先に集まったのは、笹原小弥太を始めとする足軽 の若者たちであった。  小弥太は、ぜひ自分に身の回りの世話をさせて欲しい と申し出た。すると他のものも、それは私に、と騒ぎは じめた。  茂十郎は彼らを押さえてから云った、「若松に頼みた い」 「若松新三郎ですか」小弥太は不服そうに云った、「確 かに学問は我々よりできるかもしれませんが、護衛とし て多少剣の腕があるほうがいいのでは」 「護衛が必要になるようなおぼえはない」茂十郎はそう 云った、「それにおれがてこずる人物を小弥太はどう相 手するのだ」 「盾となり逃がします」小弥太はそう意気込んで云った。 「それはありがたいだがいまは必要ない」茂十郎は小弥 太の肩をたたいた、「洋学塾の手伝いにもなるものが必 要なのだ、一人扶持しか与えられていないのだから、わ がままを云うな」 「では食事は自分で作ります、迷惑はかけません、どう か住み込みでおいてください」  武士はいざというときのために、所在を明らかにしな ければいけない。だから許可なく引っ越しもできないし、 外泊も禁止されていた。当然小弥太のこの申し出はかな わなかった。  そこには講堂のほかに道場もあった。藩校や家塾に武 芸鍛錬のための施設があることは珍しくないし、茂十郎 の剣の腕を知っていた十右衛門が気を回してくれたので ある。ただ、茂十郎自身はそちらまで手が回らないと考 えていた。  誰かに任せるか。小旗樹左衛門などは腕は確かで師範 もできそうであるが、無口で人の前に立つのは苦手とし ている。道場を任せるには十分ではない。  しかしせっかくの道場を空けたままにしておくのはお しい。そこで茂十郎は、信兵衛に頼むことにした。彼な ら腕も確かで人格も申し分ない。 「それは願ったりかなったりだ」信兵衛は二つ返事で承 諾した、「ちょうど道場に戻ろうと考えていたところだ ったんだ、思ったより役目は暇だし、体もなまっていた、 師範という柄ではないが、頼まれた以上は精一杯やるよ」  信兵衛は上役に許可を得て、正式に師範となった。  こうして、茂十郎の洋学塾は動き出した。洋学は茂十 郎一人で教えるのだが、横にはいつも若松新三郎がいて、 補佐として働いてくれた。身の回りのことは茂十郎一人 で出来るのだが、各種資料の整理や教材の手配、塾生の 管理や各人の学問の進みぐあいなどはすべて新三郎に任 せた。彼を側に置いたのは、ゆくゆくは年少者の教授を 頼むつもりでいたからである。  塾が終わると新三郎が食事の支度をし、二人で善を並 べて夕餉を取る。その時茂十郎は、新三郎に塾では教え きれないような学問の話しをする。もちろん新三郎には 分からないことがほとんどである。すると茂十郎は、こ れを読むといいと云って本をすすめる。すると新三郎は 遅くまでその本を読みふけるのである。隣で寝させてい る新三郎の部屋から、いつまでも本をめくる音が聞こえ てくる。自分を側に置いてくれた気持ちに応えようとす る新三郎の意気込みが、その熱心な姿から読み取れる。 茂十郎はそれを頼もしく思っていた。  道場のほうは信兵衛が師範として、決まった時間で指 導をする。信兵衛がいないときは、代師範の小籏樹左衛 門と野中権六郎が、時には笹原小弥太も指導に当たった。  野中権六郎というのは足軽の若者で、父を早くに亡く し、兄一人に母と兄弟六人がぶら下がっているというか なり貧しい家に育った。物心ついたころから、家計を助 けるためにこまごまとした仕事を続けていたので、藩校 や道場に通う暇はなかった。そんな彼を茂十郎が暇を見 つけては学問や剣を教えていたのだ。もともと筋がよか ったのだろう、学問はともかく、剣の腕はみるみる上が った。茂十郎が教えた基本を疑うことなく忠実に反復し たのがよかったのかもしれない。いまは茂十郎でさえも、 三本に一本は取られるほどの腕である。いままでは朝は 早くから夜も遅くまで、できるだけの仕事をしてきたの で、同じ年頃の足軽仲間とも遊べず、忘れられたような 存在であった。それが茂十郎によって始めて人前に出る 機会を得たのだ。もちろん茂十郎が多少の援助をするこ とで代師範ができるのである。ただでも感謝してもしき れない存在であった茂十郎は、彼にとって神にも勝る存 在になった。  道場は足軽と士分のものを合わせて二十名以上が通う ようになった。洋学塾は十数名、全員が足軽であった。 道場も、信兵衛がいるときだけ士分のものが来るが、そ れ以外のときは足軽のものだけであった。  そう、ここでも足軽という身分の差が出たのである。 おもに親たちが、足軽ごときに教えを請う必要はない、 と決めつけて子供を通わせなかった。藩校の教授が洋学 塾には行くなと云っているということも聞いた。一部の 保守的な教授たちには、洋学など必要ないという声は根 強くあったし、足軽と一緒にはできないと主張するもの も中にはいたようである。 ――覚悟していたことだ、茂十郎はそう思った、足軽で あることを恥じているから出世を望んでいるのではない、 足軽であることを負い目に思ってはいけないのだ。  茂十郎は、足軽の若者たちを立派に教育すれば、いま は馬鹿にしていても、いずれ必ず認められる、時間がか かってもそれを成そう、必ず見返してやる、そう思いを 固めた。  それに応えるように、塾生たちはよく話を聞いた。多 かれ少なかれ、茂十郎を尊敬しているものばかりであっ たし、茂十郎同様、見返してやりたいという気持ちもあ り、なにより自分たちは、士分の連中が学んでいない新 しい学問を学んでいるという誇りがあった。  茂十郎の洋学塾が、そろそろ軌道に乗り始めた七月の 二十九日、清水小太郎と天野登美の祝言がしめやかに行 われた。殿が謹慎を仰せ付けられて間もないということ もあり、ごく身内だけの簡単な儀式にとどまった。祝言 の内容などについては特に述べることはない。  ただこの日から、小太郎は西川姓になり、同時に名を 叔父と同じ主計とあらためた。  その日の夜、いわゆる初夜であるが、作法通り辞して いた登美の寝所へ、主計がやって来た。彼は無遠慮に行 灯を明るくし、まじまじと登美の顔を見た。  顔合わせはしなかったし、式の間は顔を見ることはで きなかった。この時始めてお互いの顔を見たことになる。 「ほう」主計は酒くさい息をはき、満足げにうなずいた、 「これは運がいい」  登美は無表情のまま、うつむいていた。 「これほど美しいとはな、どうせなら美しい娘にかぎる と思っていたが、おれはついてる」主計はそう云って登 美に顔を近づけ、にやりと笑った、「そちらにしてみれ ば不満もあるだろう、だがこうなった以上はよろしく頼 む」  登美は表情ひとつ変えずに黙っていた。 ――この人は誰でもよかったんだ、わたしは違う、わた しはあの人だけだ。  こんな人では忘れることはできないかもしれない、登 美はそう思ったが、すぐに、心を持ってはいけない、私 はもう死んでいるのだ、そう云い聞かせた。  その後、登美にとっては初めての夜が訪れた。主計は すぐに登美が初めてと気がついた。自信を持っていた主 計は、執拗に登美の体をもてあそんだ。しかし登美はじ っと堪えていた。主計になにをされても、指ひとつ動か さなかった。しかし、涙だけは流れてきた。なにも考え てはいない、なにも思ってはいない、それでも涙は自然 と瞳からあふれてきた。  主計は登美のその態度はすべて初めてだからだと理解 した。 ――いいのは縹緻だけじゃないな、主計は隣で背を向け て硬くなっている登美を横目で見た、いくら初めてとは いえ涙を流すとは、こんな初心な女は初めてだ、新鮮で いい、今後おれが色々教えてやろう、これは楽しみだ、 どうせ慣れれば女は一緒だからな。  主計は登美に満足した。美しいというのはもちろん、 商売女しか知らない彼にとっては、頑なな登美をどう変 えていくか、またどう変わっていくのかを見るのが楽し みだった。体が弱そうには思えなかったが、治ったとも 聞いている。弱いなら弱いで子は産めないだろし、そう なったら側女を置けばいい、まあしばらくは飽きはこな さそうだ、それが一夜目に主計が持った印象であった。  それから毎晩主計は登美を求めた。しかし登美は体調 を理由に断わることが多く、押しきられるようなときで も、最初の夜と態度は変わらなかった。  しかし、昼間の登美はしっかりと家事をやり、小姓組 頭になった主計にもよく仕えた。暗い顔でいることのほ うが多く、無理にでも仕事を見つけてそれを懸命にこな すことで、つらいことを考えないようにしようとしてい る様子であった。  家僕たちもそれには気づいていた。特に登美と接する ことが多い下女らは同情的であった。主計の人を馬鹿に したような言葉や態度は彼女たちも知っていたので、 「奥様はそれがつらいのだ」そう云いあって、努めて明 るい話題をしたり、励ますようなことを云ったりした。  台所に行けば、亭主のいた年増の下女が、いかに自分 の旦那はだめであったかを話し、部屋でひとりでいると、 誰かが用事を作ってやってきては、楽しい話しをしたり、 時にはどれだけ男運がなく苦労しかを話したりした。  死んだつもりで嫁いできた登美であったが、そのよう に人の情け、思いやりに触れることで、心が少しずつ温 かくなっていくように思えた。それは、自分だけがつら い思いをしているのではなく、みながそれぞれに生きて いく中で苦労をし、耐えているということを知ったとい うこともあった。  八月が過ぎ、閏八月に入ると、登美は徐々に笑顔を見 せるようになった。下女や家士たちの中では声を上げて 笑えるようにもなった。周りが気を遣ってくれている、 いつまでも心配をかけるわけにはいかなかったし、心か ら笑えることも増えていった。  一方で、主計は日に日に機嫌が悪くなっていった。家 の中でなんとなく自分だけがのけ者にされているような 感じがした。だがそれはどうでもよかった。原因は登美 であった。  確かに登美はしっかり家のことをやり、主計の世話も 嫌がらずによくした。だが違う、主計はそう思っていた。 必要な会話はする。しかしそれ以上の話、たとえばたわ いない世間話やその日に起こったことなど、そういうこ とを話したことないのだ。もちろん主計からする時は、 相づちはうつ。だが登美からそういう話をしたことはな かった。下女と明るく笑う声を聞いている。無口な性質 だと思うこともできなかった。  自分に心を許していない。それは間違いのない、確信 として主計の心に生まれていた。親に決められた縁談が 気に入らないのだろう、始めはそう思っていた。しかし それは、自分のことが気に入らないのでは、という思い に変わった。  主計自身も親に決められた縁談を嫌っていた。ただ、 運良く養子ではなく一家のあるじになれ、望んでも得ら れないような美しい妻を娶った。だが登美はどうだろう か、よからぬ噂しかない男が夫になったことが気に入ら ないのではないか、そう思うようになったのである。  しかしそれにしても、妻の心は頑なであった。特に夜 は、最初の夜となにも変わっていない。まるで石を抱い ているように無反応で、心が通うことなど皆無であった。 楽しもうという感じはない、ただ、苦痛でしようがなく、 それを耐えているだけのようであった。  初めてだからだ、最初の一月はそう思っていた。それ が自分が嫌いだからかという思いになり、三月目になり、 想う男がいたのでは、という思いになった。  自分の事を気に入らないのは確かなようである。しか し一度嫁に入った以上は、夫となった男と良い関係を築 くために多少なりとも努力するはずだ。まだ知らない夫 の良い所を見つけるためにいろいろ話しを聞いてみたり、 また、自分のことを知ってもらおうとさまざまな形で自 分を表現するはずである。  現に主計は、自分のことは色々しゃべり、気を引こう と優しく接してみたり、また、冷たく突き放してみたり と手を尽くしてきた。一方登美は、茶屋でたまたま隣に なった人に接するような態度しか取らない。 ――これはおかしい、主計はそう思った、おれという人 間に始めから興味がないし、関心を持とうともしない、 むしろ避けている、夫としておれを認めたくはないのだ。  嫌いだから、それだけで理由はつけられなかった。そ うすると答えはひとつであった。想う男がいる。  そう考えてみると、すべての点に合点がいった。そし て、その疑いを持てば持つほど、それは確信へと変わっ ていった。  主計は頭に血を上らせた。それは自分がもう登美のこ とを気に入っていて、それなのにその登美には他に想う 男がいるという嫉妬心であり、気を引こうと色々やって きた自分が道化であったという自尊心を傷つけられた怒 りであった。そこまで拒むほど想っていたなら、なぜこ の縁談を受けたのか。 ――父上だ、主計は直感的にそう思った、この縁談を断 ると父上ににらまれる、それが恐かったんだ。  またしても権力である。権力のために自分は駒として の人生を歩まされ、結婚もそのためにこの有様である。 ――もういやだ、主計は心の中でそう叫んだ。  権力。そのせいでどれだけ自分は嫌な思いをしてきた だろうか。城代家老の息子ということで、必要以上にち やほやされてきた。それで天狗になった時期もあったが、 その後に、権力に対する媚びであると知ったときに感じ た恥ずかしさ。学問は苦手で武術も上達しない、そう分 かったときの回りの冷たい目。虎が猫を産んだといわれ たこともある、二人の兄には無能呼ばわりされ、父には 諦められ存在を無視された。そこに権力がからんでいな ければ、学問ができなかろうが、武術に才がなかろうが、 そこまで肩身の狭い思いはしなかった。この結婚も、権 力がからんでいなければ、なかったものだ。なければこ んなに苦しい思いはしない。 ――もういやだ、このまま云いなりになってたまるか、 権力に取りつかれた奴らにひと泡ふかせてやる、親父の 足を引っ張る、いや、権力に目がくらんだやつらの足を 根こそぎ引っ張ってやるんだ。  主計は自分の人生を大きく邪魔する権力に、復しゅう を誓った。  運良くというのか、主計は小姓組頭という殿に近い立 場にある。主計は、それを利用し殿に取り入り、信用を 得、父やその他の出世と身の保身に躍起になっている連 中の立場が悪くなるようなことを進言してやろうと考え た。浅はかで程度の低い考えであるが、主計にとっては、 それが精一杯の反抗であった。  権力というしがらみから逃れて気楽に生きたいのに、 政治の手段として人生を決められた。父は権力の増大と 保身のために、汚いことをいくらでもしていた。その汚 い世界に自分も入らなければいけない。しかしいま、そ れらをすべて否定し、仕返しのできる手段を思いついた のである。  汚い奴らのために汚い手を使う、なにが悪いのだ、主 計はそういう気持ちになっていた。生きる目標を自分の 手で見つけ、自分の手でそれを実行できるのである。  主計は、これまでと見違えるほど真面目に働き出した。 二十年間持てなかった生きる目標に向かって歩き出した のである。仕事を楽しいと思えるほど、熱心に仕事に励 んだ。  だがそれは外に出たときのことで、家に帰ると憂鬱な 気持ちになった。自慢してまわりたくなるほど美しい自 分の妻が、誰か他の男を想って、いつまでも心を開かな い。思い通りにいかないからこそ、余計に主計は登美へ の想いを強めていった。  もう夫婦になって四ヶ月になる。 ――実は初めての男はおれではないのではないか、ある 日、主計はふとそう思った、いまでも初夜と変わらない 反応しかないということは、あの日が初めてであったと いう確信がないということだ。  登美が初心だと思っていたことに関しては、主計は色 々、悪く云えば下司な考えを持っていたので、そう気が ついたときには、恥ずかしさが込み上げた。そしてそれ は、だまされたという怒りになった。  初めてでないのなら相手がいたはずだ、相手は誰だ、 主計はそう思った。 「松岡茂十郎」主計はふとそうつぶやいた。  どういうわけかしらないが、その名が頭に浮かんだの だ。身分の高い娘、二年間待っていた、それを思い出し、 きっとそうだと思った。  主計は、推測にもかかわらず、相手が茂十郎であると 思うと、怒りで体が震え出した。    尊皇攘夷      茂十郎の洋学塾は、九月になると塾生の人数も落ち着 いてきた。道場のほうは十七名。士分のものが五名で、 残りは足軽。その残りの十二名は洋学塾も兼ねていた。 そのほかに洋学塾だけのものが九名いた。つまり、洋学 塾は二十一名で、全体で二十六名が在籍していたのであ る。二十一名の足軽の若者たちは、すべて茂十郎より年 が若い、十二から十九歳のものたちであった。  なぜ茂十郎より年が上のものがいないのかというと、 茂十郎が産まれる前の年に流行り病がひろがり、多くの 子供が死んだということがある。全体的に数が少ないと いうこともあるが、その年上のものは、茂十郎を慕う若 い連中についていけないとも思っていた。茂十郎を頂点 に掲げる足軽の若者たちは、独立した集団、ある一派と いう印象があったので、入りづらかったのである。  事実、彼らの結束は固かった。茂十郎を慕っているこ と、勤王の思想を密かに持っていること、これらが結束 を強くしたのである。茂十郎を慕うことと、尊嬢を唱え ることは、矛盾でもある。茂十郎を慕う以上は、なにも 事を起こせないからである。  しかし、彼らの中に矛盾という思いはなかった。思春 期ということもあるのか、自分たちを押さえつける力と 体制に反発したいのだ。その中に一人で切り込んでいこ うとする茂十郎は、英雄のように映るし、また、勤王の 思想は現体制を非難するのにちょうどよい思想であった。 その上それは、力を誇示したいという若者のの見栄を強 く刺激した。同一線上に二つの思いがあったのである。  茂十郎の意図とは逆に、洋学塾で学ぶ新しい知識は、 幕藩体制に対する疑念と批判を強めることになった。洋 学塾に行けば、自然と仲間たちと会える。それは洋学塾 を彼らのたまり場へと変えていった。  茂十郎はそれについてなにも云えなかった。知らない ところで過激な思想へつき進められるより、目の届くと ころで、下手なことはしないよう監視ができるほうがよ かったのである。もちろん、茂十郎の目の前で勇ましい ことを云ったり、気焔をあげたりすることはなかった。 それは統率者的な立場ある笹原小弥太や木崎勝久がさせ なかった。  一度だけ、ちょっとした騒ぎがあった。十月の半ばご ろの、昼休みのときであった。  彼らはだいたいが講堂で弁当を食べる。その日はいつ も一度家に帰る野中権六郎が弁当を持ってきていた。彼 はあまり他のものたちとは交わろうとはしなかった。だ からみなでかたまっている所には行かず、隅で一人で弁 当を開けた。  それに気がついた一人がちょっかいを出した。もとも と、ここの仲間たちは一致団結しているに、権六郎だけ 毛色が違うのが気に入らなかったのである。 「お前も弁当が持てるか」  そういうことを云って馬鹿にした。周りのものも笑っ た。  権六郎は無視していた。  それがまた気に入らなかったようである。さらに聞こ えがしに権六郎が貧しいことを馬鹿にし、茂十郎から一 人だけ謝礼をもらっていることをとがめた。  悲しいことである。自分たちはいつもその貧しさに負 い目を持っているのに、人を非難することで、知らずに 自分を優位にしようとする。 「やめておけ」  木崎勝久がそう云ったが、もう遅かった。権六郎は箸 を置くと彼らのほうに歩み寄った。その日の彼の弁当は、 母親が代師範をつとめる彼の立場を考えて、自分の分を 削って作ったものだった。  さっきまで先頭になって云っていたのは、まだ十五の 若者であった。権六郎がこちらに歩いてきたので、彼は 顔色を変えた。まだ体もできていなく、背も低かった。 どう見ても権六郎にかなうはずはない。しかし彼は立ち 上がり、ふんぞり返って権六郎を見下ろした。そのため 天井を見上げるほどふんぞり返らなければいけなかった。  彼の足は震えていた。それでも、仲間に意気地がない と思われることだけは避けなければいけなかったのだ。  権六郎は黙って歩み寄った。 「なんだ」  ふんぞり返りながらそう云おうとしたところを、権六 郎は力いっぱい殴り倒した。  周りがいっせいに立ち上がり、短気な橋本与一郎はす でに殴りかかっていた。権六郎はその腕を取り、後ろに ねじまげた。 「痛え、離さねえかこのやろう」与一郎はそう叫んだ。 「権六、離せ」  勝久がそう云って権六郎の肩をたたいた。権六郎は与 一郎を突き飛ばした。  勝久は殴られたところを押さえている若者を見て云っ た、「いまのはこちらが悪い」 「そんな」誰かがそう云った。 「うるせえ」小弥太がそう云った、「木崎の云う通りだ、 足軽が足軽を馬鹿にしてどうする