●歯磨きとパターナリズム
みなさん、例えば、親から「歯を磨きなさい。」とか、
「テレビから離れなさい。」と怒られたことはないでしょうか。
それに対して、「そんなの自分の勝手じゃん。」と思ったことでしょう。
しかし、私たちは虫歯ができ、眼鏡をかけることになり、
「あの時ちゃんとしていれば・・・。」と後悔する。
でも、後悔しても「覆水盆に返らず」です。
そして、みなさんが人の親になった時、
おそらく子供にこう言うでしょう。
「歯を磨きなさい。」、「テレビから離れなさい。」と・・・。
ところで、この世には道徳、法律というものがありますが、
なぜこのようなものがあるのでしょうか。
一般に、法律というものは、
権力者が設けたものといわれます。
確かに、人は、欲望をもって生きており
(欲望があるから、人は向上心を持ち、発達していく。
だから、それは、素敵なことではあるが、)
みんなが欲望の思うが侭に生きていたら、
社会は成り立たない。
だから、権力者が法律という強制力を
もったきまりを設ける。
それもあるでしょうが、
それよりも、まず、道徳というのは、
自分が後悔したことを2度と行わせないために、
つまり、先の事例でいうと、
虫歯を作らせないために、
幼児に道徳等を教育する事によって、
一種の洗脳をし、それに拘束させる。
そして、それに強制力を持たせたのが法律のような気がします。
私は、法律、道徳、倫理、常識、そして原則というものは、
老人たちの作った一種の魔法だと思います。
なぜ、魔法なのか。
道徳というのは、不変的なものではなく、
それは、3世代で滅びるということを
聞いたことがあります。
今日、少年犯罪などいろんな事件が起こっているのは、
少年は、法律に反発したがる傾向にあるということも
あるとは思いますが、
そもそも道徳という魔法の効力が
利かなくなってきているからのような気がします。
これに対し、年配方は、まだ、魔法にかかっている。
道徳、道徳と叫んでいる。
そこに、今のギャップがあるのではないでしょうか。
あるテレビの討論番組で、
若者から年配の人へ次のような質問がなされました。
それは、「なぜ人は、人を殺してはいけないのか?」です。
彼は、相手を困らせるために言ったとしか思えませんが、
それに対し、道徳、道徳と叫んでいた年配の人は答えられませんでした。
私の考えでは、これも魔法です。
なぜ他人を殺してはいけないという魔法があるのか。
結局、歯を磨きなさい、と同じだと思います。
他人を殺すと(歯を磨かないと)、のちのち自分が損をする。
歴史から学んだ事でしょう。
人は自給自足しているわけではないから、
一人では生きられない。他人に依存する。
依存しあうためには、信頼関係が必要である。
誰かがこければ、みなこける。
そこに、甘えが起こる。
「俺もしないから、お前もするなよ。」と。
(これがいわゆる社会契約説だと思います。)
それを正当化するために、道徳という言葉が用いられた。
ただ、私は、道徳の存在を否定するわけではありませんよ。
ここでとりあげたいのが、
売買春に関する条例です。
最近、青少年の性非行が増えていますが、
なぜ、これを取り締まるのでしょうか?
この点、そんなの少年達の自由だということで
このような条例は必要ないとも考えられます。
しかし、これは、社会的には問題があります。
特に顕著なものとして、性病や、薬物、
そして暴力団などの「ヒモ」による被害です。
これらのことが起こって、
売春行為自体を後悔してからでは、遅いのです。
そこで、道徳、さらには、法律が必要なのではないでしょうか。
道徳とは、先人の「知恵袋」のひとつとして、
このようにして生まれてきたものです。
善悪の判断は、
人によっても時代によっても異なるものであり、
何を持ってこれを判断するのかは難しいところです。
しかし、その判断材料の1つに「歴史」があります。
これが「経験則」です。
経験則は、みなが各々持ち合わせているものです。
確かに、このような経験則が絶対とは言いません。
しかし、その経験則が正しいか否かを判断するのは、
他の経験則でしかないのです。
これに対して、安易に自己決定権という概念を用いて、
経験則を握り潰す考え方がありますが、
これは妥当ではありません。
そのような見解は、人権尊重ではなく、単なる人権無視です。
個人主義をはき違えています。
「そんなの自分の勝手じゃん。」に
人権尊重が見られるでしょうか。
仮に、経験則からの見解だとしても、
それは、19世紀的な夜警国家
(他害があった場合以外には
市民社会に関与しない
(福祉等ね!)国のことです。)
に逆戻りしているだけです。
私たちは個人であると同時に社会の一員です。
そして、人権尊重とは、思いやりです。
社会の一員として他人を思いやるのであれば、
青少年の安易な自己決定権を認めるべきではなく、
条例という経験則を用いて青少年を保護するべきです。
東京都青少年の健全な育成に関する条例では、
前文で以下のように明記されています。
「われら都民は、
時代の社会をになうべき青少年が
社会の一員として敬愛され、
かつ、良い環境のなかで
心身ともに健やかに成長することを願うものである。」
以上