●自由のための拘束
最近テレビで取り上げられている、
犯罪を行った若者達。
その多くの者は、
「そんなの自分の勝手じゃ〜ん」とか
「そんなのオレの自由だ!」と
言っているのと同時に、
「オレには、自分の居場所がない」とか
「誰もおれの事を分かってくれない・・・。」
と言ってるのを私は良く耳にします。
これらの言葉って、一見、
まったく関係ないようにも思えますけど、
関連しているのではないでしょうか。
このことについて考えてみたいと思います。
これらの関係について考えたとき、
私は中学(?)の数学でやる集合を思い出しました。
あのUという四角の中にAの○とBの○が交差してあって、
AUBは、どうのこうのっていうやつですよ。
あれって何でご丁寧にUなんという四角があるのかと
言いますと、ご存知だと思いますが、
例えば、notAにあたる部分を黒く塗りつぶせというと、
Uがなければ、A以外の地球上、いや宇宙全部を
塗りつぶさなければいけなくなるんですよね?
えっ?何が言いたいのか、ですって?
要するにUという外枠があるから、
その内部を安心して塗りつぶせる、
つまり、Uという拘束があってはじめて
塗りつぶす部分という自由があるということです。
これは人間社会でも同じことが
言えるのではないのでしょうか?
私達は、多種多用多数な社会の中に生きている。
そして、私達はこれらの拘束がなければ、
不安を感じて、自由どころではなくなる
のではないでしょうか。
逆に言うと、
私達は、これらの社会という拘束に
よってはじめて、その中で自由に行動できる。
つまり、人間らしくいきるには、
ある程度の拘束が必要なのです。
そして、その拘束を保つためには、
自らの自由を制限しなければならなくなります。
どういうことかと言いますと、
ある者が自由を求める。
そして、それが、ある社会から自分勝手と
言われる自由であれば、
その者は、その社会から排除され
拘束がなくなる。
そうなると、
拘束があるからこそ得られる自由、
これをどんどん失うという結果がまっている。
例えば、先ほどの若者達を取上げると、
ある者が学校で、授業中なのにしゃべっている。
先生の注意に対し、彼等は、
「そんなの自分の勝手じゃ〜ん」とか
「そんなのオレの自由だ!」という。
この言葉は、
拘束を排除したいがためのものですね。
そうすれば、先生は、彼を教室から
追い出すでしょう。
友人同士でも、同じ事をすれば
同じような結果になる。
そこにまっているのは、
「居場所がない」とか
「誰もおれの事を分かってくれない・・・。」
という言葉なのではないでしょうか。
つまり、自分が結局損をするということです。
だからって、拘束がすべて良いのかと
いうわけでもありませんよね。
Uという拘束が多ければ多いほど
塗りつぶしの部分である自由は減ります。
自分自身が生きるにあたって
程よく拘束され、程よく自由を得る。
これが1番賢い生き方ではないでしょうか?
ん〜、私たち孤独な群集の未来はいかに?