●すべては自分のために〜内的統制のすすめ

 

 先日、ある駅のホームでの出来事。

禁煙区域で喫煙していた若者に対し、

老人がそのことを叱りつけました。

それに対し、若者は叱られたこと自体に

腹を立てたらしく、

タバコを線路に叩きつけて去っていきました。

 私は、これを見ていて

3つのことを考えました。

1つ目は、老人の確信的な態度について。

2つ目は、老人の若者に対する注意の仕方について。

3つ目は、若者のいわゆる逆ギレについて。

 

 まず、1つめですが、

ついこの間まで、テレビでは、

「解決○女」だとか「愛する〜」といった

いわゆる、お説教番組が

もてはやされてましたね。

あそこで説教をする出演者達は、

番組では、とてもありがたい

お説教をしてくれます。

でも、その中の何人かは、

醜い争いがワイドショーのネタに

されているところが笑えるところです。

 こういうのを見て感じることは、

人って他人事だと、偉そうなこと言ってますけど、

いざ、似たようなことが自分に起こると、

批判を受けていた人達と、さして変わらない

行動に出てしまうということですね。

 私も、ニュース番組やワイドショーを見て

他人の批判ばかりしてますけど、

だらしない性格なので

家族から叱られてばかりいますよ。

 そこで、反省。

自分ができないくせに

偉そうなこと言うなというと

私は何も言えなくなると思いますし、

他人を叱る人がいなくなり

皆が無関心でいる社会は危険でしょう。

だから、他人を叱ることや批判すること

は否定するべきではないのですが、

ただ、私自身、他人を批判しているとき

自分は善であると確信しきっているところが

自分自身の怖いところです。

他人を非難しているとき、

「じゃ〜、自分はどうなんだ?」

と考えなければ、自分には何のメリットもない。

他人をさげすむ事により、

相対的に自分を浮き上がらせてもしょうがない。

それしかできないんだったら、

他人のことを批判する暇があったら、

自分を見つめろ!

そうじゃないともったいないですよね。

 

 次に、2つ目ですが、

これも先述のお説教番組を観ていて

思ったんですけど、

お説教する方々は、

おそらく大変素晴らしいことを言っている

のでしょうが、

その言い方では、相手も反発すると思うんですよね。

確かに、自分には信じられない行動を

している人に対して

「どうして!」という怒りが生じるのは

分からないでもないです。

ただ、どうも、あのような言い方では、

私には、相手を叱っているというよりは、

相手と自分とは違う人種だと

相手を切り捨てているだけにしか見えません

(まぁ、私の場合は、

実際にそうなんでしょう・・・)。

 もし、相手に自分の意見を

聞き入れてもらいたいというのでしたら、

言い方に工夫が必要なんでしょうね。

 人は一方がどんなに働きかけても

相手が聞く耳持たないのでは

まったく無意味であるのは事実でしょう。

しかし、それを言ってしまったら

おしまいな気がします。

言っても無駄、自分が傷つくだけ。

だからって何もしない、無関心というのが、

いわゆる新人類の特徴なのでしょう。

 私も一応、社会の一員である以上、

「自分が彼らに対し何か出来ないだろうか?」

を常に問うていきたいです。

 

 3つ目は、若者の逆ギレについてですが、

わたしも、人に注意されると

反省はぶっとんで、

注意されたことに腹が立ちます。

でも、これでは、自分自身、

何も進歩がないんですよね。

もったいないことなんでしょう。

 また誰かとけんかをした場合。

喧嘩両成敗ということばがあるとおり、

自分自身にも何かしら

悪いところがあるから

喧嘩は起こるんでしょうね。

それを考えずに相手を非難ばかりしていると、

昔のどうでも良かったはずのことまで

怒りの種になり、

喧嘩は止むどころか激化する。

もう収集がつかなくなってしまうんですよね。

猛省します・・・。

 他にも、自分の生活を邪魔された場合。

例えば、勉強しているときに友達が話しかけ、

やる気を阻害される。

そのような場合、

他人のせいして勉強をやめたいところです。

けど、自分のせいで勉強を止めたのではないと

先生に説明しても、

テストの点数を上げてくれるわけではない・・・。

他人のせいにしても

自分の人生なんですよね・・・。

 

 以上の3つの共通点は、

外部から切り離された

「自分」という単位だけで、

物事を考えることをしているか?

ということでしょう。

より具体的には、

「自分に悪いところはないか?」、

「自分は何かできないだろうか?」など。

 ちなみに、

この前、友人に中学生の指導なんとかを

見せてもらいましたが、

先生に要求されるのが

このいわゆる内的統制ですね。

しかも、嫌ってほど、

内的統制を強要している・・・。

ノイローゼになる先生が

多くなるわけですよ・・・。

極端な話、

地震が起きても私のせい、

雷が落ちても私のせい、

なんてことはないですよね。

また、そこまでいかなくても

私のせいと自分を責めることによって、

大変つらい思いをすることも

体には、良くないことです。

 だから、これに対する外的統制、

つまり、自分以外の範囲で物事を考えること、

との境界線をどこに置くかなんでしょう。

そして、内的統制を少しでも拡大させていくのが、

人間の修行なのではないでしょうか?

ん〜、がんばらねば・・・。

以上

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