トップ >> 広島市町名一覧表 >>安佐南区(2004/11/17-2004/11/23 作成)

相田(あいた)

相田(あいた)
古くは愛田とも書いた。もと上安村の一部で天正年間に分村した。武田山の北斜面に位置し、安川が北を流れる。相田村は、江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もと佐東郡)。広島藩領。安川の蛍は安蛍といわれ端午の頃に川筋に蛍が群がり川を隔てて合戦の体をなすという。(芸藩通志)郡内第一の巨刹とされた正伝寺は武田氏に従って甲斐国から移転、明応7年に真宗へ改宗し、明和2年に仏護寺十二坊の一つとなる。明治22年に安村の大字となる。
相田(あいた)
明治22年に安村、昭和30年に安古市町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐南区となる。昭和59年に相田1〜7丁目・相田町・高取南町となる。
相田(あいた)
昭和59年から安佐南区の町名。1〜7丁目。もと安古市町相田の一部。
相田町(あいたちょう)
昭和59年から安佐南区の町名で、もとは安古市町相田・安古市町大町の各一部。

大町(おおまち)

大町(おおまち)
安川に沿った低地に位置し、南西に中世の武田氏が居城した銀山城跡がある。大町は戦国期からの地名で、安芸国佐東郡のうちで、仏護寺領内に大町の地名がある。(知新集)江戸期からは大町村で安芸国沼田郡(もとは佐東郡)で広島藩領。江戸初期は上安村のうちで、寛永年間に一村となる。明治22年に安村の大字となる。昭和30年に安古市町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐南区の大字となる。昭和51年に団地造成で一部が安古市町上安、59年に大町・大町東1〜4丁目・大町西1〜3丁目、相田町となる。
大町西(おおまちにし)
昭和59年から安佐南区の町名。もとは、安佐南区安古市町大町の一部。
大町東(おおまちひがし)
昭和59年から安佐南区の町名。もとは、安佐南区安古市町大町・安古市町中筋の各一部。

大塚(おおつか)

大塚(おおつか)
地名の由来は、古く佐西・佐東両郡の境に位置し、境塚があったことによるとされる(県史)。安河の支流である大塚川の上流域で、古代山陽道は大塚川に沿って南北に通っていた。
大塚は鎌倉期から見える地名で、安芸国佐東郡のうちで、昔は大墓とも書いた。天文21年頃は大内氏支配下の毛利氏に属し、大塚氏の居城は岸城(西が城)で遺構を残す。
大塚村は、江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もと佐東郡)で広島藩領。明治22年に伴村の大字となる。昭和30年に沼田町となり、昭和46年に広島市沼田町大字大塚となり、昭和55年から安佐南区となる。
大塚西(おおつかにし)
大塚東(おおつかひがし)

上安(かみやす)

上安(かみやす)
上安村は戦国期からの村名で、安川流域に位置し、高取・上安・相田・大町の地域を範囲とした。毛利元就・隆元連署知行注文に「安上下」と記され、かつては「安」が存在し、上下に分離したと思われる。
なお、「地名辞書」では、「和名抄」の養我郷を養須郷の誤りとし、上安、下安に比定する。上安は古代山陽道の安芸駅と伴部駅の間にあり、安川沿いにその道路が通っていたと推定される。
江戸期から明治22年の村名で、安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領。田中山神社は武田氏金山城築城の際に鬼門除けとして創立され、上安・相田・高取3村の産土神で「一の宮」と称された。明治22年に安村の大字となる。
上安(かみやす)昭和30年に安古市町となり、昭和48年に広島市へ。昭和55年からは安佐南区の大字となる。昭和40年代から山麓緩斜面の住宅団地造成が行われる。昭和48年に佐東町緑井の一部を、同51年に安古市町大町の一部を編入。同59年に上安1−7丁目、上安町、毘沙門台1−4丁目、安東1−6丁目、長楽寺町、高取北町となる。
上安町(かみやすちょう)
昭和59年から安佐南区の町名。もとは安古市町上安の一部。
安東(やすひがし)
昭和59年から現在の町名。1−6丁目がある。もとは安古市町上安の一部。

川内(かわうち)

川内村(かわうちむら)
太田川と古川に挟まれた中州の北半の地域。
川内村は、明治22年から昭和30年の自治体名で、始めは沼田郡、昭和31年から安佐郡に属す。温井村・中調子村が合併して成立した。村名は、古市・中須・東野を合わせて川の内五箇ノ荘と呼ばれていたことによる(県市町村合併史)。
明治25年に温井の木原才次は京都から移植した京菜を改良し、広島菜と呼ばれる漬物用平茎の特産地となった。海外移住が活発で、大正5年には721名にのぼる(佐東町史)。上中調子と太田川対岸の矢口を結ぶ高瀬渡しの渡船場があったが、昭和27年に安佐大橋架橋により廃止された。昭和30年に佐東町となる。
川内(かわうち)
昭和59年から現在の町名。1−6丁目があるもとは安佐南区佐東町川内温井・佐東町川内中調子の各一部。

祇園(ぎおん)

祇園(ぎおん)
祇園は、本来は北下安村に鎮座する祇園社(現在の安神社)の称で、江戸期に社前を通る雲石往還に沿い、南・北下安村に跨がって形成された街を祇園町と呼んだ(芸藩通志)。祇園町市街地の西から長束にかけて東西8町・南北20余町にわたる条里遺構が認められ「和名抄「の伊福・桑原両郷の地と思われる(新修広島市史)。 祇園は戦国期からの地名で安芸国佐東郡のうち。天文9年9月に毛利氏と尼子氏との合戦場になっている。
祇園村(ぎおんむら)
明治22年に南下安村と北下安村が合併して成立。始めは沼田郡で明治31年から安佐郡に所属。昭和13年1月1日から町制施行、祇園町となる。昭和18年に長束村・山本村・原村を合併し、長束・東山本・西山本・東原・西原・南下安・北下安の7大字を編成する。昭和47年に広島市の一部となる。
祇園(ぎおん)
昭和60年から現在の町名。1−8丁目がある。もとは、安佐南区北下安・祇園町北下安・安古市町中須の各一部。
祇園町(ぎおおんまち)
昭和60年から現在の町名。もとは、安佐南区北下安・祇園町北下安の各一部。
祇園町西山本
祇園町長束
祇園町東山本
祇園町南下安

高取(たかとり)

高取(たかとり)
地名の由来は、「高はもと鷹の字なるべきや」と「芸藩通志」にあり、鷹取りに由来すると思われる。もとは上安の内で、中央を安川が流れ、天正年間に分離したという(県史)。
鷹取村は、江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もとは佐東郡)広島藩領。真宗本願寺の光明寺はもと真言宗で武田氏の祈願所であった(県史)。明治5年に光明寺境内に知新舎を設立、のちに高取小学校となる。
明治22年から安村大字高取となり、昭和30年に安古市町、昭和48年に広島市安古市町高取となり、昭和55年に安佐南区の大字となる。昭和48年に沼田町伴・安古市町長楽寺の各一部を編入。昭和59年に高取北1−4丁目・高取南1−3丁目・高取北町・高取南町・長楽寺となる。
高取南(たかとりみなみ)
昭和59年から現在の町名。1−3町名がある。もとは安佐南区安古市高取の一部。
高取南町(たかとりみなみまち)
昭和59年から現在の町名。もとは安佐南区安古市町高取・安古市町長楽寺・安古市町相田の各一部。
高取北(たかとりきた)
昭和59年から現在の町名1−4丁目がある。もとは安佐南区安古市町高取の一部。

長楽寺(ちょうらくじ)

長楽寺
安川の中流域に位置し、「昔は伴村の内にて、長楽寺所有の土地なちといふ、福島氏寺を没収して一村とす」と「芸藩通志」にあり、地名は寺名に由来する。
長楽寺村は、江戸期からの村名で安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領。真言宗長楽寺は延喜年間の創立と伝える古刹で、慶長年間福島氏が寺領を没収したのちは本堂をはじめ七堂伽藍悉く荒廃した。氏神は伴村八幡宮寄合。この村の医者富士川雪は自宅を塾舎として積善舎を設立。明治22年安村の大字となった。
長楽寺(ちょうらくじ)
明治22年から安村、昭和30年から安古市町、昭和48年に広島市安古市町、昭和55年から安佐南区の大字となる。昭和48年、51年に一部が安古市町高取となる。昭和52年沼田町伴の一部を編入。昭和59年に長楽寺町・長楽寺1−3丁目・高取南町となる。
広島高速交通のアストラムライン車両基地、広島市交通科学館がある。近くに長楽寺跡に長楽寺公園があり、長楽寺観音堂もある。
長楽寺町(ちょうらくじまち)
昭和59年から現在の町名。もとは安古市町長楽寺・安古市町上安・安古市町高取の各一部。

伴(とも)

伴(とも)
安川の最上流域に位置する。
土茂郷は平安期に見える郷名で「和名抄」の安芸国佐伯郡十二郷の1つ。「芸藩通志」では、沼田郡伴村を遺名とする。「地理志料」では、伴・長楽寺・大塚・吉山・阿戸の諸村に比定し、「地名辞書」では伴村・戸山村とする。「県史」では沼田町伴附近とする。
伴は鎌倉期から見える地名で、安芸国佐東郡のうち。岸城(伴城)は武田氏一族伴氏の居城で天文10年の金山城落城後は、武田氏一族が逃れて来て翌年の大内氏の出雲出兵の隙に再起を図ろうとしたが、毛利元就によって滅ぼされた(毛利家文書)。
伴村は、江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領。慶長年間に長楽寺が分村。明治22年に伴村と大塚村が合併して伴村大字伴となる。明治18年のハワイ官約移民以降海外移民が盛んで大正9年には661人に及ぶ。昭和30年に沼田町となり、昭和46年に広島市、昭和55年から安佐南区となる。昭和48年に一部が安古市町高取へ、昭和52年に一部が安古市町長楽寺となる。
伴東
伴南
伴北

中筋(なかすじ)

三川村(みかわむら)
明治22年に中筋古市村と東野村が合併して成立。始め高宮郡で明治31年からは安佐郡に属す。太田川の西岸に位置し、中央部に古川、西端に安川が流れ、村名はこの3河川に由来する(県史)。昭和18年に古市町となる。
中筋古市(なかすじふるいち)
太田川の旧本流の古川に沿った低地で、古川の右岸が古市、左岸が中筋。地名の由来は、武田氏の拠った銀山城下の市場によるものか(新修広島市史)。中筋は、北之庄5ケ村のうち太田川以西3ケ村(古市・中筋・東野)の中央にあることによる(国郡志書出帳)
中筋古市村は、江戸期からの村名で、安芸国高宮郡のうちで、広島藩領、家老上田氏給地。江戸初期には東に隣接する東野村とともに北之庄村とされたが寛文4年に分村した。雲石街道が南北に古市を貫通する。地内には山林がなく、太田川対岸の小田・矢口両村に山銀を支払って入会う。皮を剥いた苧殻は重要な燃料であった(古市町誌)古市の「鍛冶屋丁の跡」の地は銀山城盛時の鍛冶屋町跡と伝える(国郡志書出帳)明治22年に三川村大字中筋古市となり、昭和18年に古市町中筋・古市となる。
中筋(なかすじ)
昭和18年から現在の町名。はじめは古市町中筋、昭和30年に安古市町中筋、昭和48年から広島市、昭和55年に安佐南区となる。もとは、三川村中筋古市町。昭和59年に一部が東野1−3丁目となる。

中須(なかす)

中須(なかす)
中須は昔の川中洲なり、小瀬・来船・蔦島・黒河等の地名あり、往時の地勢粗知るべし」とあり。(県史)
中洲は鎌倉期からの地名で、安芸国佐東郡のうち、厳島社領。安川と古川が並行して南流する中州の地であったが、安川が古川に連結されて様相が変わった。その後毛利の支配下となり、森脇某氏へ宛われ、天正11年には村上元宣に安堵している。
中須村は、江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もとは佐東郡)広島藩領蔵入地。当村は慶長年間に緑井村から分離したと伝え、地内の稲荷神社はもと岩谷を除く緑井村と中須村の氏神であった。明治22年に安村の大字となる。
中須(なかす)
明治22年から現在の町名。明治22年に安村となり、昭和30年に安古市町へ、昭和48年に広島市となり、昭和55年から安佐南区。昭和55年に一部が大町東1−4丁目、昭和60年祇園1−8丁目となる。

長束(ながつか)

長束
地名は流路に添う堤防に由来すると思われる(祇園町誌)。中央部を安川と山本川が流れる。
長束は戦国期に見える地名で、安芸国佐東郡に属し、厳島社領桑原荘に含まれていた。長塚とも記される。(毛利家文書)長束村は、江戸期からの村名で、安芸国沼田郡広島藩領蔵入地。神社は八幡宮(現長束神社)。明治7年に蓮光寺境内に長束小学校の前身である果能舎を設立。明治22年長束村となる。明治31年に安佐郡に所属する。大正15年には海外移住者が233人となる。昭和18年に祇園町の大字となる。昭和48年に広島市へ、昭和55年に安佐南区。昭和49年に一部が、大宮1−3丁目・大芝1−3丁目となり、昭和60年に長束1−5丁目・長束町・山本4−9丁目・長束西1−5丁目となる。
長束(ながつか)
昭和60年からの町名。1−5丁目がある。もとは祇園町長束・祇園町西原の各一部。
長束西(ながつかにし)
昭和60年からの町名。1−5丁目がある。もとは祇園町長束・祇園町西山本の各一部。

西原・東原

播良郷・原郷
太田川右岸の沖積低地に位置する。
播良郷は、平安期に見える郷名で「和名抄」安芸国安芸郡十一郷の1つ。「波良」(東急本)・「波羅」(高山本)とも書かれる。「芸藩通志」では、「播良は今上原村にあり」とし、現在の可部町内に比定する。「地理志料」では、東原・西原・南下安・北下安・東山本・西山本の範囲をあてる。「地名辞書」では、東原・西原の遺名とする。
原郷は鎌倉期から戦国期の郷名で、安芸国佐東郡のうち。
原村は、江戸期からの村名で、安佐郡に属す。大正9年に東原村と西原村が合併して成立。中央に流れる古川を挟んで西原と東原が対面する。昭和18年に祇園町となる。

西原村
安川と古川に挟まれた低地に位置し、南は太田川に面する。
西原村は、江戸期からの村名。安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領蔵入地。もとは太田川対岸の戸坂村狐瓜木神社が氏神であったが、正保元年冬木に八幡宮を創建。明治22年に自治体となる。明治31年に安佐郡に属す。大正9年に原村の大字となる。昭和18年に祇園町、昭和48年から広島市、昭和55年から安佐南区となる。

西原(にしはら)
昭和60年からの町名。1−9丁目がある。もとは祇園町西原・安古市町古市の各一部。
東原
太田川と古川に挟まれた中洲の南端。東原郷は戦国期からの郷名で、原郷が東西に二分されたものとみられるが、原郷も戦国期まで使用される。東原村は江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領蔵入地。もとは太田川対岸の戸坂村狐瓜木神社が氏神であったが、寛栄13年瑞穂神社を創建。ほおずきは「広島ほおずき」と称され、名産とされた。東原村と西原村組合の村役場が西原村に設置。明治末からは養蚕が盛んとなる。大正9年に原村の大字となる。昭和18年に祇園町、昭和48年から広島市、昭和55年から安佐南区となる。
東原(ひがしはら)
昭和60年からの町名。1−3丁目がある。

沼田町(ぬまたちょう)

沼田町
昭和30年から46年の自治体名で、伴村と戸山村が合併して成立。大塚・伴・阿戸・吉山の4大字を編成。町名は両村が属していた明治31年以前の郡名に因む(県市町村合併史)昭和46年に広島市となる。

戸山村(とやまむら)
明治22年に阿戸村と吉山村が合併して成立。村名は旧村名の各1字を採用(県町村史)はじめは沼田郡に属し、明治31年からは安佐郡へ。材木や戸山炭などが出荷される。海外移民は大正9年205人。昭和30年に沼田町となる。

阿戸
太田川の支流吉山川の中流域に位置する谷あいの地で、地名の由来は、「芸藩通史」に「昔大中臣権介正房、此地に来往し、明野垣内といふ田疇をひらき、駒の跡ばかり開しといへるよりかく名づくと里人はいへど、跡部姓の人所領せる故にてはなきや」と記す。阿刀明神社は安芸国神名帳の阿刀明神に比定される。
阿土村は戦国期から見える村名で、安芸国佐東郡のうち。「芸藩通史」では「阿戸村 もと毛木と一村なり」とし、阿土毛木村が阿戸村と毛木村に分離したとする。阿戸村は江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領。安政年間に常宗寺に開設された寺子屋積徳舎は明治6年小学校となったが、翌年阿刀明神に移転し知方舎と改称された。明治22年に戸山村となる。
沼田町阿戸(あと)
明治22年からの大字名。はじめは戸山村、昭和30年から沼田町、昭和46年に広島市、昭和55年に安佐南区となる。昭和51、52年に一部が安佐町くすのき台となる。
吉山
吉山川最上流地域。地名の由来は、開拓者の名によると伝える(県史)吉山は戦国期から見える地名で安芸国佐東郡のうち。
吉山村は、江戸期からの村名で安芸国沼田郡(もと佐東郡)に属し、広島藩領。山間の村で下流の阿戸村を除き隣村に通ずる道は大峠・桜ケ峠の険しい峠道となる。明治6年に吉山小学校の前身である成弘舎を設立。明治22年に戸山村の大字となる。
沼田町吉山(よしやま)
明治22年から現在の大字名。はじめ戸山村、昭和30年に沼田町、昭和46年に広島市、昭和55年に安佐南区となる。
沼田町大塚
 −大塚を参照−
沼田町伴
 −伴を参照−

毘沙門台(びしゃもんだい)

昭和59年から現在の町名。1−4丁目がある。もとは安佐南区安古市町上安・佐東町緑井の各一部。近くに毘沙門天がある高台にちなむ。
毘沙門台東

古市

古市
太田川の旧本流の古川右岸に位置する。地名の由来は、武田氏の拠った銀山城下に発達した市場に起源を有すると思われる(新修広島市史)。「旧県史」では、「古市地方は旧時の洲渚なり、地名に小瀬・中須賀・久保・津戸島・川崎・松原等の称あり、其称謂、以て往時の地勢一斑を推知すべし」とある。
古市村は戦国期からの村名で、安芸国佐東郡に属す。明応4年の武田元信知行安堵状には守護武田氏から白井光胤に安堵されている。明応12年には天野興次か安堵状には天野氏から三戸頼富に安堵されている。昭和18年に三川村が町制施行し、改称して古市町となる。中筋・古市・東野の大字を編成。昭和30年に安古市町の一部となる。−三川村参照−
古市(ふるいち)
昭和18年から現在の大字。もとは古市町、昭和30年に安古市町、昭和48年に広島市、昭和55年に安佐南区となる。昭和60年に一部が西原1−9丁目となる。

緑井(みどりい)

緑井
権現山の南に位置する。地名の由来は、「村のうえたけ山といふ山の麓に古き井戸あり、四方三尺ばかりにて深さ二尺もありぬべく、水きわめて浄らに久旱にかれず、霖雨にもあふれず・・・・されば尋常の井にはあらず、多くは古の緑井にて此水のある故に村の名にもつきたるべし」という(現藩通志)。
緑井郷は、平安期に見える郷名。「和名抄」安芸国佐伯郡十二郷の一つ。東急本では「緑井」とする。「地理志料」では緑井・中須・温井・中調子・中筋の諸村に比定する。「地名辞書」では、「今緑井村存す、八木村も之に属す、若佐郷の東、漢弁郷の南に跨がる」と記す。県史では佐東町緑井を遺名とする。鎌倉期から戦国期の郷名で安芸国佐東郡のうち。
緑井村は江戸期からの村名で安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領。権現山中腹に元成寺跡に毘沙門堂があり、「武田家、鬼門守護堂といふ」と芸藩通志にある。明治8年に公立小学校観水舎が中原氏自邸を校舎として開設される。明治31年から安佐郡へ所属。昭和30年に佐東町の大字となる。
緑井は昭和30年から現在の町名。昭和48年に広島市、昭和55年に安佐南区の大字となる。昭和48年に一部が安古市町上安へ、昭和59年に一部が、緑井1−8丁目、緑井町、毘沙門台1−4丁目となる。
緑井(みどりい)
昭和59年からの町名。1−8町名がある。もとは佐東町緑井の一部。

山本(やまもと) >

山本
山本川流域に位置する。地名の由来は、中世武田氏が居城した金山城の山麓に位置することによるという(県史)。
山本は、室町期から見える地名で、安芸国佐東郡のうちで、厳島社領桑原荘に含まれていた地域で武田山・火山の南麓を占める。山本村は江戸期からの村名で、安芸国沼田郡(もと佐東郡)広島藩領蔵入地。正徳年間頃に東山本村と西山本村に分村する。明治22年に東山本村と西山本村が合併して自治体の山本村となる。はじめは沼田郡に属し、明治31年からは安佐郡に属す。海外移住は、大正15年に200人にのぼる。昭和18年に祇園町の一部となる。
山本(やまもと)
昭和60年から現在の町名。4−9丁目がある。もとは安佐南区祇園町西山本・祇園町東山本・祇園町長束の各一部。
山本町(やまもとちょう)
昭和60年から現在の町名。もとは安佐南区祇園町西山本・祇園町東山本・祇園町長束の各一部。

八木(やぎ)

八木
「和名抄」に佐伯郡養我郷は養義郷の誤りとして八木に比定する。太田川の西岸に位置し、南端で古川が分岐する。八木村は平安期からの村名で、安芸国佐東郡のうち。承久の乱の戦功により香川経景が八木村地頭職に補任され、その子景光の時に入村。始め釈迦山に城を築き、のちの八木城となった。現在八木5丁目に城山があり、北側に城山北中学校がある。八木村八幡宮は光広神社ともいわれ、八木城主香川氏の祈願所であったと伝える。江戸期は、安芸区沼田郡(もと佐東郡)広島藩領蔵入地。村内を雲石往還が通り、太田川では八木渡しがあった。八木梅林は一名米渓園と呼ばれ、「芸藩通志」には「一村多く梅を植ゆ、近方たぐひなし」と記て梅を産物にあげている。一説にはその広さは1万坪、梅樹は1千本にも及ぶといわれた。その昔、「空海(弘法大使)」がこの地まで来たとき昼となり、昼食の握り飯の中の梅干しの種を記念に植えておかれたものが梅樹と生育し、次々にふえて遂には1千本の梅林になったと伝えられる。現在は、一部が残っていたが、最近地域の人により梅の植林を行っているらしい。JR可部線の八木梅林はこれに因む駅名。近年郊外型のショッピングセンターが進出しており、附近の八木梅林公園では多くの人々の憩いの場と成っている。
光広神社と細野神社の八幡宮2社がある。明治7年に浄楽寺本堂に小学校友声舎が開設される。明治20年に太田川橋が架橋されたが、昭和30年まで八木渡しがあった。明治31年から安佐郡に所属。海外への移住は大正5年には319人にのぼる。昭和5年頃に完成した八木用水は、完成までに100年近くを要した藩の大事業であった。昭和30年に佐東町の大字となる。
八木(やぎ)
昭和59年から現在の町名。1−9丁目がある。もとは佐東町八木の一部。
八木町(やぎちょう)
昭和59年から現在の町名。もとは佐東町八木の一部。
この一覧表は、郵便番号一覧をもとに作成していますのでアイウエオ順と相違してます。