天保6年(1835)浅野斉粛(なりたか・9代藩主)が、始祖長政を祀るため広島城鬼門(東北)の方向に、明星院境内の西側半分に造営した。この時代は、天保の飢饉や藩財政の苦しい中、敢えて壮大な神社造営をしたのは、始祖を祭神とした神社を建立し藩士の結束を固めようとしたと考えられている。祭神はのちに末津姫・幸長・長晟・長勲が合祀されている。 |
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(2002/6/9)
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参道の両側に127基の石灯籠がならんでいる。この内23基は文化7年の浅野長政二百年忌が明星院で営まれたときに寄進されたもの。のこりは、天保6〜11年の神社創建時に88基、その後16基が寄進。明治7年に県から境内地が饒津公園と指定され、市内初の県の公園となり、萩の花が有名で知られた。 |
その他参考: