TOPへ >> 寺社仏閣 >> 広島東照宮(ひろしまとうしょうぐう 広島市・東区  

正保3年(1646)、広島藩主浅野光晟が徳川家康の霊を祭るため造営した。当時三代将軍徳川家光が日光に東照宮を造営して、諸大名にもその建立を進めており、光晟は生母が家康の三女振姫であったこと、また藩主夫人満姫は家光の養女であったことから夫婦そろって造営を祈願した。正保3年に造営を開始し、慶安元年(1648)に完成し遷宮式。また家康50年忌毎には大祭を挙行した。
昭和20年(1945)の原爆により、本殿、拝殿は焼失したが、焼け残った唐門、翼楼廊、手水舎などは江戸時代の建築様式を見ることができる。

東照宮1
(2002/6/9)
東照宮2
本殿
東照宮3
広島市重要文化財
東照宮手水舎
江戸時代初、慶安元年、時の広島藩主浅野光晟公造営する。
「総朱漆塗り」「蛙股の月と兎」 など桃山時代の建築様式をよく伝えている。昭和52年解体修理後漆塗装し当時の姿に復元する。
由緒によれば、桜の馬場、松原までが御宮下なり、とある

東照宮4
東照宮本地堂
初めは東照宮の本地仏薬師如来を安置したが、現在は神輿を収蔵している(明治以降、神輿舎として転用)今では数少ない神仏混合時代の遺構「総朱漆塗」「四方の中備に極彩色の蛙股を置く」などが特徴である。昭和59年修理、漆塗装し当時の姿に復元。堂内に大神輿(重文)がある。

唐門正面に長尾山の額がある。これは、広島東照宮の建立にあたり、江戸の上野寛永寺の末寺ち長尾山(ちょうびさん)松栄寺別当寺としたことから

東照宮5
横に、大きな釜が置いてあります。由来によると、東照宮ジャンボ釜といい、容量2160リットル・重量1トン・材質は鋳鉄でジャンボ釜雑煮を大晦日と元旦につくるそうです。古代から、中国山地に産する砂鉄は鈩技法により日本刀に、また鋳鉄として鍋、釜、風呂釜の製造に用いられた。この大釜はかつて全国の風呂釜の8割を生産した鋳物王国といわれた広島の伝統を伝えるため市内の可部町の大和重工で復元され昭和61年に寄進されたとある。


その他に、御供所、麒麟獅子頭などがある。

その他参考: