トップ >> 広島市町名一覧表 >>中区(2001/12/22-2002/1/3作成) 

榎町(えのまち)

地内の水路端に榎木があったことによる(知新集)

胡町(えびすちょう)

福島正則の時代に、西引御堂町にあった胡社を西光寺とともに移したことによる(知新集)現在は、この胡社の胡子講が毎年旧暦の10月20日に行われた。

江波栄町(えばさかえまち)

江波沖町(えばおきまち)・江波西(えばにし)・江波東(えばひがし)・江波南(えばみなみ)・ 江波二本松(えばにほんまつ)・江波本町(えばほんまち)
「此地民専ら魚餌を取を以、人これを餌場と呼ぶ」によるとある。
古くは、江波山公園あたりが太田川河口の島で、餌場、衣波とも「芸藩通史」にある。舟入から江波のとおりが「おさん通り」で、本川沿が「かき打ち通り」、天満川沿が「気象館通り」です。安芸国神名帳の衣羽明神とされる衣羽神社がある。
皿山から江波山に堤防が築かれて埋め立てられたとき、皿山と江波山に挟まれた一帯が溜め池となり、養魚場になっていた。池の中に二つの小山があり、一本づつ松が生えていた。ここから”二本松”の由来となったといわれる。

大手町(おおてまち)

旧広島城大手門の南から延びる南北に長い町で、大手門に由来する。元安川と西塔川(現在埋め立てられて鯉城通りとなる。)の間の地で、南は鷹野橋を含む。

加古町(かこまち)

昔は、水主町、加子町と書いた。地内に加子(水夫)が多く住んだことから地名となった。浅野重晟が水主町屋敷を築き、与楽園を開く。明治11年に県庁が横に移転し、県立医学校付属病院(現在宇品にある県立病院の前身)が置かれた。現在は、厚生年金会館、アステールプラザがあり、広島の文化施設の中心となっている。

河原町(かわらまち)

同地には江戸時代に瓦焼場があったことから瓦焼となり、同音の河原を町名としたといわれる(旧広島県史)
町内には、竹ヶ鼻・瓦地・神崎などの地名がある。竹ヶ鼻はむかし刑場があった。瓦地は瓦焼師が営業していた。神崎は、川の崎が訛ったとも。
明治27年の地図には、紡績会社(安芸郡上瀬野にあった官立広島紡績所第一工場が払下げられて移転。)、上田氏邸(旧藩家老、近くの舟入町に庭園の万春園があった)がみえる。

銀山町(かなやまちょう)

西国街道に沿った町。名前の由来は不明だが、その名のとおり金融に縁のある町。明治26年に「米綿取引所」ができ、”証券街”の始まりとなる。斜屋町(現在の堀川町)にかけて仏壇屋が多く、仏壇通りと呼ばれている。

紙屋町(かみやちょう)

町名の由来は、天正19年(1591)伊予国から来往した伊予屋九郎左衛門が紙商を始めたことから。(知新集)広島城外堀と西堂川に通じていたが、明治末に埋め立てられて電車道となった。現在は、北部の基町クレド、パセーラ、アストラムラインの駅や、地下街シャレオなどができ、広島の中心地となっている。

光南(こうなん)

もとは吉島本町の一部。昭和42年から現在の町名。

国泰寺町(こくたいじまち)国泰寺

地名は、国泰寺の沖手に位置するところから。国泰寺は、安国寺恵瓊が開基。もとは、新安国寺(安国寺不動院に対して)といったが、福島氏入国後、国泰寺と改称された。もともとは、白神社横にあったが、現在の国泰寺は都市計画(100m道路)により、西区己斐上に移転。(庭園跡が、全日空ホテル前に残されている)。

小町(こまち)

町名の由来は、町の面積が著しく狭いことによる(知新集)。もとは、国泰寺の塔司、玉勝院、趙叔院、南湘院裏の借家で、小町借家とある。

小網町(こあみちょう)

もとは広瀬村の一部で、堺町の南に位置し、網打を業とする漁民が多く居住していたので網打小路と呼ばれた。町名は、これに由来する。
明治時代に笹置座(その後寿座となる)が立町からここに移転し、舟入町にかけて西遊郭(平塚町・下柳町・薬研堀の東遊郭に対して)もでき歓楽街を形成し、賑わった。

堺町(さかいまち)

町名は、町割の時、和泉国堺から来往した境屋にちなんで堺町とした。(知新集)西国街道筋の町で、可部街道が分岐する場所であり、この町と十日市の角に出雲への道標があった。(現在は空鞘神社境内にある)そのため交通の要所として馬継場(伝馬所)が置かれていた。また、多くの問屋が集中しており、堺町勧商場も開場され賑わっていた。現在も玩具問屋や、家具店などがあるが、最近は市中心部近いことから分譲マンションなどの建設が増えている。

昭和町(しょうわまち)

昭和8年から現在の町名へ。もとは南竹屋町の一部。

天地(しんてんち)

昭和40年から現在の町名。もとは三川町・下流川町・堀川町の一部。
新天地の誕生風景については、がんす横丁に詳しく記載がある。その名のとおり、映画館、遊戯場、飲食店などが集中する市内屈指の歓楽街となる。

住吉町(すみよしちょう)

昭和40年から現在の町名。もとは、水主町・吉島町の一部。町名は、当町内にある住吉神社による。

千田町(せんだまち)

東千田町(ひがしせんだまち)・南千田西町(みなみせんだにしまち)・南千田東町(みなみせんだひがしまち)
大正5年から現在の地名。もとは、国泰寺の一部。明治18年に宇品築港により新道を開設。当時の県令千田貞暁の名によって千田通りと呼ばれ、町名はこれに由来。その後、高等師範学校・高等工業学校(のちの広大・広大工学部となる)ができた。昭和14年に広島赤十字病院ができる。広大が東広島に移転後、跡地は一部公園となる。工学部跡には、県立図書館などが建てられた。

竹屋町(たけやちょう)

南竹屋町(みなみたけやちょう)
京橋川と竹屋川(平田屋川)の間に位置する。もとは、竹屋村。江戸期より、竹屋町。地内に、竹屋姓の者が居住していたことから町名の由来となる(知新集)。

田中町(たなかまち)

江戸期は、城下の武家屋敷地で、古くはニ軒屋敷、田中ニ軒屋敷とも呼んだ(知新集)はじめ竹屋町の一部だったが、寛永元年浅野長晟が漢学者石川丈山を招き、当地に屋敷をニ軒建て一軒を丈山に与えた。また当時屋敷の周囲に長池があったが、やがて干拓されて田地となったので、田中屋敷と呼ばれた。この田中屋敷と竹屋村の一部が明治15年に田中町となった。

宝町(たからまち)

昭和8年から現在の町名。もとは、南竹屋町の一部。

立町(たてまち)

江戸期から現在の町名。竪町、楯町とも書いた。広島城外濠の南、城の立町御門に通じる南北の通りに沿った町。「平田屋本通り筋を横町とし、それに対して立町といふか」と知新集にあるのが町名の由来。これと直行する通りは八百屋が多く、八百屋町と呼ばれた。

鶴見町(つるみちょう)

昭和8年から現在の町名。もとは、南竹屋町の一部。町名は京橋川にかかる鶴見橋にちなむ。以前はここに比治山渡しがあったが、明治13年に橋が架けられ、明治29年まで渡橋賃と徴収。対岸の比治山にはかつて鶴が居たといわれ鶴を入れ置いたという鶴小屋の地名ものこり、橋名もこれによる。

寺町(てらまち)

江戸期から現在の町名。甲斐国から開基正信が安芸国守護武田義信の招きで銀山城山麓の竜原に仏護寺を建立した。武田氏滅亡後衰退したが、毛利輝元が広島城を築城すると、小河内町に移転。その後、福島正則により、現在の寺町に寺領が与えられ、塔頭12坊とともに移転し現在に至る。仏護寺は、2世円誓のとき浄土真宗へ改宗し、明治35年に広島別院仏護寺、同41年本願寺広島別院となる。平田屋川沿い(現在の並木通り-地蔵通り)の東寺町に対して西寺町とも呼ばれた。仏護寺12坊は、光福寺・圓竜寺・光円寺・正善坊・超専寺・徳応寺・善正寺・眞行寺・報専坊・元成寺・正伝寺・光禅寺・蓮光寺・品窮寺の14か寺。(正伝寺は相田に、それ以下は寺地のみ。その他に末寺の浄専寺もあり。)

砲町(てっぽうちょう)

江戸期から現在の町名。広島城の東、外濠と京橋川の間。「此ところ御家中町の筋なれハ、もと鉄炮の打ち場なりしゆゑかく唱ふるか」と知新集にあるが、家中鉄砲方の者が住んだこととも思われる。

十日市町(とおかいちまち)

西十日市町(にしとおかいちまち)
高田郡吉田の十日市場を移したといわれる。町名の由来は、月ごとに十日の市を開いたことによる。(知新集)左官町・油屋町・鷹匠町・西九軒町・空鞘町・西引御堂町の一部を編入。

土橋町(どはしちょう)

昭和40年より現在の町名。もとは、西地方町・西新町・堺町・塚本町の一部。
土橋があったものによるか。現在、西平和大橋(新大橋)附近。

中町(なかまち)

昭和40年から現在の町名。もとは、下中町・新川場町・小町・三川町の一部。
もとの中町は、袋町小学校から、本通りの間にあった。西塔川と平田屋川の間の横町で北は播磨屋町、西は西魚屋町に続く。町名の由来は不明だが、中通組の中央部の意味か。南に下中町があった。

中島町(なかじまちょう)

昭和40年から現在の町名。平和公園の場所。もとは、中島本町・中島新町・元柳町・材木町・天神町・木挽町と水主町の一部。
中島本町は、中島の本通りであることによる(知新集)毛利築城当時からの町人町で、開けていた。福島時代に、高田郡吉田から移転した浄土宗慈仙寺があった。(相生橋は慈仙寺の鼻に架けられた。現在は江波二本松皿山に移転)

流川町(ながれかわちょう)

江戸時代から明治14年の町名。明治14年から上流川町、下流川町に分離。
昭和40年に下流川町・三川町・竹屋町・薬研堀・斜屋町・堀川町の一部が流川町となる。もとは、八丁堀と京橋川の間で、縮景園から竹屋町までの南北に長い町。通りに沿って泉水屋敷(縮景園)から流出する水道があり、町名はこれによる。(県史)流川は今川と称し、縮景園からの排水路として開かれた。当時絶えず清水が流れていたことから流川と呼ばれたが、文政年間には濁水がたまりどぶ川と化していた。「流川が城郭の外にあって、近ごろ大河の水を導き泉水池に入れ、その余りが流れ出て清潔なれば住民これを用いる」と国郡志にある。のち樋門を閉じたので汚い水となり、暗渠としたが、大正2年の下水工事で埋め立てられた。現在の流川は広島一の夜の繁華街となっている。

西川口町(にしかわぐちちょう)

昭和40年から現在の町名。もとは、舟入川口町の一部。

西平塚町(にしひらつかちょう)

東平塚町(ひがしひらつかちょう)
昭和40年に駅前通りにより平塚町が二分され、東西に別れた。
平塚町は、明治15年〜昭和40年の町名。もと竹屋村の一部。町名は、竹屋村の地名に由来する。広島開府以前の五箇荘のうち平塚荘にも比定される。
東遊郭が日清戦争後の明治28年に下柳町・薬研堀にまたがって設けられた。

猫屋町(ねこやちょう)

江戸期から、現在の町名。地名の由来は、広島開府の時、もと府中松崎八幡宮棚守の猫屋九郎左衛門が当地に店を構えたことによる。(知新集)堺本町と中島本町の間にかかる本川橋(猫屋橋)は猫屋九郎左衛門が自力で架橋したものという。

幟町(のぼりちょう)

上幟町(かみのぼりちょう)
江戸期から現在の町名。町名の由来は、藩主の旗印をまかされていた御旗の士が居住していたことによると伝え、柳町から八丁堀に至る東西の小路を白旗小路と呼ばれ白旗を担当した士が居住したという。(がんす横丁)
上幟町は昭和40年からの町名。もと上流川・上柳町・鉄砲町・幟町・東白島の一部。

羽衣町(はごろもちょう)

昭和8年から現在の町名。昭和40年までは吉島羽衣町。もとの吉島町の一部。

橋本町(はしもとちょう)

江戸期から現在の町名。町名の由来は、京橋のたもとにあることによる。(知新集)西国街道沿いの町だが、戦後道路網の整備で裏通りとなった。

白島九軒町(はくしまくけんちょう)

江戸期から現在の町名。九軒町とも称する。地名はかつて当地に9軒の民家があったことによる。(知新集)八剣神社・碇神社がある。
白島中町(はくしまなかまち)
明治15年から現在の町名。もと、白島二番町・四番町・五番町・九番町の一部。
白島北町(はくしまきたまち)
明治15年から現在の町名。もと、白島村・白島九番町・十番町の一部。町名は、白島の北部にあることから。明治22年に工兵第5大隊が置かれ、対岸の牛田に作業所があった。さいかちに、軍用の工兵橋が架けられた。
西白島町(にしはくしま)

江戸期から現在の町名。西箱島ともいった。もとは、白島村。町名は、白島の地の西にあることから。明治末期に外濠が埋め立てられ、三篠橋が架橋。広島技芸女学校が中島本町の慈仙寺から大正6年外濠埋立地に移転し、広島実科高等女学校を併置し、安田高等女学校となった。
東白島町(ひがしはくしま)

江戸期から現在の町名。東箱島ともいった。町名は白島の東部に位置することによる。
白島村(はくしまむら)
江戸期から明治15年までの村名。安芸国沼田郡(もと佐東郡)と安芸郡(もと安南郡)のうちで、太田川の三角州に当たる。地名は、「箱島ハ、白島ノ古名にして、広島の土地往古海中なりし時も、此のあたりのミは神代よりの一山箱の如く方なりける故」とある(知新集)もとの沼田郡に属す部分を西白島、安芸郡に属す部分を東白島という。 白島は、明治5年から明治15年までは、十番町に区分され軍人の居住地となった。「白島一番町(家中屋敷の松原町)・白島二番町(武家屋敷地松原裏町)・白島三番町(武家屋敷地西土手町)・白島四番町(武家屋敷地西中町と外郭の東西惣門)・白島五番町(武家屋敷地中ノ町)・白島六番町(東中ノ町)・白島八番町(武家屋敷地百軒多門)・白島九番町(武家屋敷地一本木厩町)・白島十番町(一本木中ノ町)」

八丁堀(はっちょうぼり)

江戸期から現在の町名。広島城下の武家屋敷地。城東の外濠に沿い南北に長い。八丁堀はこの濠の名で、町名はその長さが約8丁であることによる。
濠に面した通りの北端に八丁堀上御門、半ばに京口御門があった。
明治19年縮景園にあった私立浅野学校が廃止となり、その校長山田養吉は同校を譲り受け八丁堀の自宅に移し修道学校として開校した。
上八丁堀(かみはっちょうぼり)

昭和40年から現在の町名。もと基町・八丁堀・鉄砲町・東白島の一部。

広瀬町(ひろせまち)

江戸期から明治22年までは、広瀬村。広瀬社は、もと毛利氏菩提寺洞春寺の鎮守社で産土神。毛利氏とともに移る。明治22年から大正5年まで広島市の大字。現在の中島町、十日市から天満町などが別れる。大正5年から現在の町名。もと広瀬北町・錦町・西九軒町・西引御堂町・広瀬元町の一部。
広瀬北町(ひろせきたまち)

昭和8年から現在の町名。もとは広瀬町の一部。

平野町(ひらのまち)

昭和8年から現在の町名。町名の由来は、字名を採用(町名の沿革)もとは南竹屋町の一部。平野開は、明治初年旧藩卒平野盛蔵の開築による新開。

舟入(ふないり)

船入とも。本川と小屋川に挟まれる。地名は、当地がもと入江で、船舶の入港場であったことによる。(知新集)また、江戸期の新開で地内竹の鼻に材木場があったので材木新開とも呼ばれた。明治22年までは舟入村。もと南は干潟であったが江戸期江波新開などの干拓がすすみ江波と地続きとなった。明治22年までは舟入村。その後広島市大字舟入となる。「城南の最佳所」で水運も良く、家老上田家の下屋敷とされ、上田氏による庭園万春園があった。
舟入幸町(ふないりさいわいちょう)
昭和8年から現在の町名
舟入川口町(ふないりかわぐちちょう)
昭和8年から現在の町名。広島市高等女学校が大正15年国泰寺から移転し、市立舟入高校となる。
舟入中町(ふないりなかまち)
昭和8年から現在の町名。昭和40年までは舟入仲町と書いた。
舟入町
大正5年から現在の町名。
舟入南(ふないりみなみ)
昭和18年から昭和43年までは舟入南町。昭和43年から舟入南。
舟入本町(ふないりほんまち)
昭和8年から現在の町名。

袋町(ふくろまち)

江戸期〜現在の町名。明暦3年大火により寺院を東寺町に移転。当地を北を町地とし、袋町を置き南は侍町杉の木小路となった。明治7年就将舎が新川場町戒善寺に設立、明治9年袋町に移転し、校門前の水路名をとって桜川学校(現在の袋町小学校)となった。このほかにも、袋町女子高等小学校、私立必正舎、数理学会(現在の広陵中学)があった。

富士見町(ふじみちょう)

昭和8年から現在の町名。町名は竹屋川(平田屋川)にかかる富士見橋による。富士見橋は竹屋橋埋め立てとともに消えたが、橋の上からは「安芸小富士」(似島)がよく見えたことによる。もとは、南竹屋町の一部。

堀川町(ほりかわちょう)

江戸期から現在の町名。町名は、広島城築城の時石材木材運搬用の平田屋川が開削されこの近辺に初めて町家が建てられ、堀川新町と呼ばれたことに始まる。(知新集)大正十年に新天地(昭和2年に東新天地ができる)ができ流川にかけて賑わった。

本川町(ほんかわちょう)

昭和40年から現在の町名。もとの油屋町・左官町・鍛冶屋町・鷹匠町・空鞘町・塚本町の一部。町名は、東側を流れる本川に由来。

本通(ほんどおり)

昭和40年から現在の町名。もと平田屋町・播磨屋町・革屋町・東魚屋町・立町・研屋町・胡町・堀川町・西魚屋町・中町・鉄砲町の一部。西国街道沿いの通りで現在本通り商店街となっている。市内一の繁華街である。

三川町(みかわちょう)

明治15年から現在の町名。西は平田屋川(現在の並木通り)に面し、北は堀川町、東は下流川に隣接することから名が付けられた。(広島市史)当地には、「とうかさん」で有名な円隆寺境内の稲荷社例祭が旧暦の端午の節句に行われ浴衣の着はじめとされる。

基町(もとまち)

明治4年から現在の町名。町名は、毛利氏時代以来の広島開基地という意によるとされる(広島市史)。明治以降は、第5軍管、第5師団が置かれ、西練兵場となったが、戦後は県庁・裁判所などの官公庁、バスセンター、市民病院、市民球場、図書館などができている。

弥生町(やよいちょう)

昭和8年から現在の町名。町名は、色町ならば女性的で華美な名前が適当として付けられた。(町名の沿革)もとは、下柳町・平塚町・薬研堀の一部。

薬研堀(やげんぼり)

江戸期から現在の町名。町名の由来は、通りに沿う水道の名による(旧県史)。平塚薬研堀ともあり、平塚のうちか。明治28年に下柳町・平塚町・薬研堀に東遊郭が置かれた。

吉島(よしじま)

古くは葭島と書いた。地名の由来は、葭の茂っている中州の意味とされる。江戸期から明治15年に吉島新開。明治15年から明治22年は、吉島村。明治22年から大正5年大字となる。明治21年に水主町にあった監獄を移し、広島監獄(広島刑務所)が完成する。
吉島新町(よしじましんまち)
昭和42年から現在の町名。もとは吉島本町の一部。
吉島西(よしじまにし)
昭和42年から現在の町名。もとは吉島本町の一部。
吉島町(よしじまちょう)
大正5年から現在の町名。吉島本町・吉島羽衣町が別れる。
吉島東(よしじまひがし)
昭和42年から現在の町名。もとは吉島本町の一部。
南吉島(みなみよしじま)
昭和42年から現在の町名。もとは吉島本町の一部。
この一覧表は、郵便番号一覧をもとに作成していますのでアイウエオ順と相違してます