空鞘社の由来の一つに、寛永のころ、芸州剣道指南番に吉岡一味斎という者がいて、姫路で一代の剣豪佐々木厳流と事を構えて深い恨みを買った。厳流は吉岡を恨んで広島をたずね、雪辱の機会をねらった。それとは知らぬ吉岡は、ある日寺町の知人に招かれての帰り道を、酔眼モウロウ足下よろよろと空鞘の浜にさしかかったところ、待ち受けた厳流が宮の前の雁木にあった高さ四尺ばかりの石から飛び降りざま「エイッ」と一声、一味斎に切りつけた。不意をくった一味斎はさけるヒマもあらばこそ、肩先から袈裟懸けに切られて、どっとその場に打ち倒れた。そのとき厳流の抜き放った刀の鞘が、どうした拍子でか社頭の松にかかったので神社の名になったのだという。(続々がんす横丁) また、新修広島城下町には、吉田郡山時代からの毛利家の指南番であった八重垣流小太刀の使い手−吉岡一味斎と、広島開府後、太閤秀吉の薩摩征伐にさいして新しく雇い入れた微塵流の指南−京極内匠こと微塵弾正が、空鞘稲荷社の境内で指南番をめぐる試合をしたさい、両士のうちどちらかの鞘が稲荷社社頭の松の枝に飛び掛かったので空鞘社の名が生まれ町名となったとする。現在は、同神社と空鞘橋、空鞘公園にその名を残している。 |