中区と南区の間にかかる橋で、知新集に「毛利殿在城の時は、しはしは京都への往来あり、よりて外廓に京口門あり、其道筋にある橋を京橋と呼ぶ」とある。当時は沼田郡と安芸郡の境で、山陽道にあたる。 がんす横丁によると京橋は、長さ65m幅5.5mとある。 現在は、稲荷大橋や上柳橋が幹線橋となっていますが、明治時代を思わせるようなおもむきのあるはしです。 |
京橋町から橋本町を望む(2001/12/2)
その他参考:がんす横丁p153-
新修広島城下町p91
中区と南区の間にかかる橋で、知新集に「毛利殿在城の時は、しはしは京都への往来あり、よりて外廓に京口門あり、其道筋にある橋を京橋と呼ぶ」とある。当時は沼田郡と安芸郡の境で、山陽道にあたる。 がんす横丁によると京橋は、長さ65m幅5.5mとある。 現在は、稲荷大橋や上柳橋が幹線橋となっていますが、明治時代を思わせるようなおもむきのあるはしです。 |