千田翁銅像の由来について 千田貞暁翁は、明治十三年広島県令(県知事)として就任され、県下の情勢をいろいろ調査された結果、広島湾が年々大田川の流砂のために、海運の支障が著しいので急いで築港しなければならないと決心されました。 しかしその頃の国の予算は支出が多く築港に必要な経費の援助を十分に受けることが出きないので、浅野氏から旧藩士に与えられた授産補助金三万円と、国庫金二万円、寄付金三万円合計八万円を資金として明治17年9月5日起工式をあげられたのであります。 しかし、工事はたびたびの風水害に見舞われ、特に明治19年9月17日には高さ5.5メートルにも及ぶ海潮が新堤を破壊して、工事はほとんど全滅の状態となりました。 そのためひじょうな資金難となり、それに加えて築港工事にかねて反対のものたちから、いっせいに非難攻撃が起こり、あわや中止かと危ぶまれました。が、かえってこのことが翁を勇気づけ、私財を投じ身命をなげうってこの大事業を続けられたため、さすがの難工事も、着々と進行しはじめたのであります。完工を目前にして翁は遠く新潟県に転任になりました。が、明治22年11月、総工費30万円、5年3カ月の長い年月を費やしてようやく完成したのであります。 大正4年11月3日、宇品港をつくるなど広島のためにつくした翁のりっぱな業績を記念するため、設計図を手に堂々と広島湾をのぞむ翁の銅像がたてられたのであります。 このときから毎年4月23日翁の忌日には市民がここに集り、遺業をたたえ霊をなぐさめているのであります。 (千田公園入口看板) |
(2002/6/9)翁の銅像
千田貞暁は、天保7年(1863)薩摩藩の生産奉行、郡奉行の職を勤めた千田伝左衛門貞居の長子として生れた。文久3年(1863)の薩英戦争に加わり、以来、鳥羽・伏見・上野・会津などの動乱期に多くの戦いに参加している。明治5年東京府典事に任官後、府参事大書記官などに栄進。明治13年4月、藤井県令病死後、県令に任じられた。年45才、在職十年この間に県道改修・農学校設立・師範学校女子部の設置・監獄および測候所の改修、そして宇品築港があった。(宇品港が出来るまでは、江波島が広島港だったが、浅瀬のため大型船は宇品島付近に停泊していた。そして、乗船には本川・元安川の河岸から小舟で行き来していた。) 工事は、風水害に悩まされ、またこの間帝国海軍の建設を急ぐ呉の第二海軍鎮守府江田島兵学校建設などで人夫の多くが条件の良いそっちのほうへとられ、宇品では囚人・婦女子を動員して続けた。2回目の国庫補助金が許可される頃は、工事が竣工を目前に控えた春に「宇品築港計画の粗漏により、国庫補助を受けるに至った段不都合につき、年俸十二分の1の罰棒に処す」と不名誉の罰則を受け、竣工直前の12月新潟県知事に左遷された。 ところが、明治27年8月、日清戦争が勃発し、無用長物といわれた宇品港が一大軍事要地として第5師団につづいて全国各地から集中した兵や軍需品を宇品港から送り出していった。 ”千田は先見の明あり、男爵を授ける”とその功績をたたえられた。その後、北清事変・日露大戦・第一次大戦と重要な役割をにない、広島発展の礎となった。そして軍都は、第二次大戦で・・・ |
中区の千田町も、この千田県令が今の千田道を作り、それにちなんだ町名となったものです。 |
千田廟社(2002/6/9)
御幸の松(2002/6/9)
明治天皇行幸の際に植えられたもので後に市民がこの松の周囲に石の玉垣をめぐらして石碑を建てた。そしてこの地点から市の中心に通じる一筋の大道路が、当時をしのんで「御幸通」と名付けられた。 市中心部から、宇品へ行く時に渡る「御幸橋」は、同じく明治天皇行幸の際、作られたものです。 |
宇品新開地記念碑
昭和初年の御幸通
この道は戦争につながっていた。真夜中に、号音をあげて戦車や大砲が通ると必ずどこかで戦争があった。兵隊は行きも帰りも、歩いてこの道を通った。御幸五丁目付近。「写真で見る広島あのころ」 |
その他にも子規の句碑などがあります。
その他参考:新修広島城下町p81-
続々がんす横丁p103-
写真でみる広島あのころ p164-