日渉園
日渉園跡は、寛政・享和年間(1800年前後)頃、広島藩の藩医である後藤松眠(しょうみん)が当時の沼田郡新庄村に開園し、明治4年(1871)に廃園になった藩営の薬草園跡です。現在は庭園の一部が残っているだけで、薬草地だった周辺は畑地や宅地になっています。そのため薬草園としての面影はほとんど残っていませんが、指定されている庭園跡は藩主や家老、当時の文化人等が度々訪れる日渉園の中心でした。 日渉園は、眼下に太田川を見下ろす三滝山の日当たりのよい山腹に位置し、園の中心には住居と庭園があってその周囲に薬草地が広がっていました。薬草地は西側が約7300uの乾燥地帯、東側が約1500uの湿潤地帯で、それぞれ乾燥・湿潤に適した薬草を栽培していました。 庭園は上下二段からなり、石段で結ばれています。上段には涸れた池とそこに架かる太鼓橋、「神農(しんのう)堂」と呼ばれる建物の礎石と台座等が残っています。下段には薬草の研究や薬の調合、弟子への講義等を行っていた「薬室」の礎石の一部の他、涸れた池や眼鏡橋等があります。庭園内には特に目立った巨樹等は見られませんが、狭いながらも独立した森として周囲の畑地や宅地と一線を画しています。 日本では、薬草園は8世紀には存在していたことが知られていますが、全国的に開園されるのは江戸時代です。特に享保の改革以降、藩営の薬草園が全国に設置されて幕末まで繁栄を続けましたが、幕府や藩の保護を失った明治維新後は、洋薬の普及に伴う和漢薬の需要の減少もあって全国の薬草園は次々と廃園されました。 ところで、日渉園には、薬草園としてだけでなくもう一つ歴史があります。それは、後藤松眠の子である松軒(しょうけん)が長崎でシーボルトに蘭学を学んだ際、高野長英と同窓であったことから親交ができ、長英が生涯に二度後藤家を訪れていることです。一度目は文政12年(1829)で、その際には広島で初めての蘭学の講義を行っています。二度目は幕政批判により「蛮社の獄」で投獄され、脱獄後、4年間の逃亡生活のうち一時期後藤家にかくまわれ、庭園内にある「神農堂」に隠れ住んでいたことです。 昭和62年11月26日市指定 |
日渉園(2007/4/9)
日渉園は、寛政10年(1798年)、後藤松眠が藩命によって開き、孫の静夫氏の明治4年ころ廃園となった。 松眠の子の後藤松軒は、長崎に遊学し、医術を修め、広島に帰ると浅野家に藩医として仕えた。そして、新庄山(三滝山)に広島藩の漢方医薬のための薬草園を開拓し、「百草園」として藩主の保護を受け、また藩主も別荘として度々足を運んでいた。後藤家に残る頼杏坪の書に「日渉園」とあり、また頼春水の記録にもあることからそのころには日渉園と呼ばれていた。また、長崎でシーボルトに学んだ時に高野長英と同窓であったことから、幕府から追われた際に一時日渉園に匿われたことは有名である。 現在は庭園の一部が残っているだけで、薬草地だった周辺の多くは宅地造成されていますが、藩の薬草園で現在まで残っているものは、仙台に伊達藩の野草園があったが、既にただの草原になっており、昔の造園の跡をとどめるものとしては、日渉園は非常に重要であるとされて、広島市から文化財史跡として指定されている。 平成12年には、広島大学に歴史的遺産、広島市指定史跡日渉園が移管された。 |
その他参考:三篠郷土史p295-