――2002.8/5〜8/7――
あかじそファミリー《また!》海に行く


B「DNAのバカ」




無事昼飯も済ませ、去年と同じ民宿へとチェックインした。

民宿の入口に、近所の農家のおばちゃんが野菜を売りに来ていた。
形は良くないが、玄関先にまるまる太った枝豆やらスイカやらが広げられ、
ぎらぎらの太陽にさらされて旨そうだった。

「お風呂どうぞ〜」
と言われ、「は〜い」と返事しながらも、まだ荷物を降ろしていると、
宿の奥さんが
「お子さんたちだけでお風呂入ってるけど、ダイジョブかしら?」
と言いに来た。

 えっ!

気が付くと、四男以外、子供がいない。
上3人は、着替えも持たず、海パンイッチョで風呂に飛び込んだらしい。
風呂を覗くと、3人がジェットバスの湯船で、
「わお〜〜〜」
と言って回っていた。
洗い場の床は砂だらけ。

慌てて砂を流して脱衣所も拭き、
3人分の着替えを揃えて風呂場に持っていったが、
子供たちは、完全に民宿を普通の家と勘違いしている。
裸で廊下を闊歩しようとしていたのだ。

民宿に泊まるということは、ホテルに泊まるのとは違う。
民宿の台所の奥には、宿の一家の茶の間があり、暮らしがある。
「金払ったんだから客だぞ、コノヤロー」
と、威張りくさって、無茶なワガママを言ってはいけないと思うのだ。
他のお客さんの合い間にサッと風呂に入り、綺麗にトイレを使い、
大騒ぎせず、出された食事は残さず食べ、
ありがとう、美味しかった、また来ます、と笑顔で挨拶を交わすのが
礼儀だと思うのだ。
ホテルより気を使うかわりに、ホテルより温かいサービスを受けられる。
宿の主人と仲良くなれば、知らない土地に親戚ができるようなものなのだ。

 何でもそうなのだろうが、心ある付き合いをすれば、
人と人とはつながっていく。
自分が自分が、と、こっちの権利ばかり主張していると、人は離れて行く。
民宿は、そんな心の反射し合いが手にとるようにわかる、いい場所だと思う。

で、私の民宿論は置いておいて、去年同様、釣りに行くことになった。
宿の真ん前の港に、弟の奥さんと赤ちゃんを残してぞろぞろ歩いていき、
糸を垂らしたが、風が強いせいか、全然釣れない。
そのうち、四男が海を覗き込んで興奮し、非常に危険な状態になってきたので、
「となりのおじちゃんのバケツ覗いてみようか」
と言って、隣りの人のバケツを見ると、小さいけれどたくさんの魚が入っていた。

「触ってみるか?」
と、おじさんは言い、四男に魚を手渡した。
四男は、平気でそれを両手で受け取り、ウキキキキ、と笑った。
あまりにもギュウギュウ握って魚が弱ってきたので、
「どうもありがとう」と言って四男をバケツから離すと、四男は、
「ギヤ〜〜〜ッ!!」
と、絶叫し、港に仰向けに寝転がって号泣した。
釣りをしている人たちは、一斉にこちらを振り向き、
怒って海に飛び込もうとしている幼児と、
それを羽交い絞めで止めている母親を見て、唖然としていた。

しばらく、また絶叫する四男と格闘していると、
見るに見かねたさっきのおじさんが、魚を3尾、分けてくれた。
それは実質、泣いて脅して奪い取ったようなものだ。
四男は、ケロッと泣き止むと、
「さかな、もう、いだない。おっぱい飲む」
と言って、私のTシャツをめくった。
「じゃあ、お部屋に戻ってからね」
と、騙し騙し宿に戻り、乳をくわえさせると、
あっという間に眠ってしまった。

―――ああ、おじさん、魚さん、すみません。
こんな傲慢幼児にどうして育ってしまったのでしょう!
厳しく育てようと心がけているつもりですが、
それがいけなかったのでしようか?

私は、眠る四男の横顔を見つめ、いろいろ反省してみたが、
こいつの顔は、誰かに似てる。
口をキリリと締めて、ツーン、と斜に構えた気の強そうな顔。
見たことある・・・・・・物凄く見たことある顔。

あっ、この顔は、ばばじそ!

ただ、前後不覚に興奮しているわけではなく、
目的達成のための的確な手段を選んでいる。

『あれ買わないと、車に突っ込むぞ』
『これくれないと、海に飛び込むぞ』
『乳出さないと、ここで大声出すぞ』

で、目的を達成すれば、ピタッ、と泣きやみ、ニッコリ笑う。

何て悪いヤツ!
何て卑怯者!

その時、ふと、私の脳裏に、またばばじそのニヤリ、という顔が浮かんだ。
ワガママ気ままなじじじそに対して、
ヤツのツボ(ホメル・ドナル・タノム・オヨガスなど)を突いて、
思うままに誘導するばばじそ。
「頭使えばチョロイわよ」
と、うそぶくばばじそのニヤリは、四男のニヤリと酷似している。

今は、心配になるほどの「小賢しさ」が、実は、
明るく健康に生きていく為の「知恵」となる種なのかもしれない。
「ワル」にならずに、「賢くて頭の柔らかい大人の男」になるために、
私は親として真価を問われているのかもしれない。

でも、今のところ、
激しく泣きわめく四男に無理な要求を飲まされ続けだ。
泣いても喚いても、
「ダメなものはダメ」と頑として動かないことが大切なのに。

固く決意しつつも、ふと自分の胸元を見ると・・・・・・
私は2歳半にもなる四男に、自分の乳をくわえさせている。  
絶叫に負けてまだ断乳できずにいる意志薄弱な自分がいる。


しばらくして、みんなが釣りから戻ってきた。
結局釣れなかったらしい。

「【絶叫一本釣り】で人のバケツから魚釣ったヤツはいたけどな」
と、じじじそが四男の寝顔を見た。

夕飯が運ばれてきて、うるさいのが寝ているうちに、
とみんなでさっさと食べた。
巨大な黒あわびの刺身も出てきた。
新鮮な魚料理と、とれたて野菜の自然な甘味。
旨いご飯と、上品な漬物。

去年、思いきり残しまくった子供たちも、今年は結構な量を食べている。
去年全然泳げなかったのに今年は海の深いところで泳いでいたし、
子供だけで風呂にも入っていたし、布団を敷くのも手伝った。

1年で、こんなに変わるのだ。
私は何も変わっていないのに、
子供は宿の奥さんがびっくりするほど成長した。
あと3年もしたら、長男は中学生だし、
あっという間に子供たちは「青年」になり、「成人」になり、
「おじさん」になり、「おじいさん」になる。
幸せなじいさんになって欲しいから、私は今、
幸せで賢い「お母さん」でありたいのだが、いかんせん馬鹿だ。
いつもどこでもイッパイイッパイになってる馬鹿母だ。

馬鹿の父と、賢い母との間の、微妙な線の上にいる、微妙母だ。
「うう・・・・・・」

果たして私は、たくさんのことを考えながら旨い料理を黙々と食べた。
父と弟は、いつまでもだらだらと酒を飲み、食べている。
誰が教えたわけでもないのに、親子でまったく同じ飲み方をしている。

「片付かないんです、この飲み方・・・・・・」
弟の奥さんが嘆く内容は、ばばじその嘆きとまったく同じ内容で、
父と弟がそっくり親子だということを表している。
「あんなくそじじいみたいには絶対にならない」
とよく言っていた母親似だった可愛い弟が、
今や、何をやっても父親似なのは、これいかに?

「血」ってなんだろう?
「遺伝」って・・・・・・何かのタタリ?!

ため息まじりに湯飲みの茶をすすれば、揺れる緑の茶の鏡に、父の顔が映る。
いや、それは父の顔に酷似した、自分の顔であった。
そして、目を前へ移すと、いつまでも飯を頬張りつづけている次男。
ヤツも「じじじそのミニチュア」で、靴下のゴムのキツイのがダメなのや、
シャツのタグが痒くて耐えられないところまで似ている。

私は、海援隊の、「JODAN」のように、「D!N!A!バカッ!」
と、踊り狂いたいくらいの気持ちだった。

「出られないの? この連鎖からは?!」
父を嫌い、でも父に似た自分を着て生きていくには、
しかも、幸せを感じて生きていくには、この血を愛するほかないのかえ?

朝が早かったせいか、私は子供たちとともに午後9時過ぎには意識を失った。
また朝が来る。
そしてまた、父そっくりの私たちに、朝がくる。


                    (Cに続く)
2002.08.08 作 あかじそ