エピソード「関係のメンテナンス」
妻は、自宅の電話の前に立ち、受話器に左手を掛けたまま、 じっと一点を見詰め、固まっていた。 どうせ別れるのだ。何もかもぶちまけてやろう。 妻は、夫の母親に電話して、夫の悪行三昧を暴露し、その母親の躾の不届きを責 め、 自分のつらい心境を洗いざらい告白するつもりだった。 3コールの呼び出し音の後、聞き慣れた、おっとりした義母の声が聞こえた。 「はい、もしもし」 相変わらず、人のよさそうな、ゆっくりしたしゃべり方だ。 「あの、もしもし。リカです。今、お時間大丈夫ですか?」 義母は、一瞬にして、何かに勘づいたようだった。 「なんや? 何かあったんけ?」 妻は、 「実は、ご相談したい事がありまして・・・・・・」 と、前置きしてから、夫が子供たちに暴力を奮う事、自分とのコミュニケーションを避けている事など、 一息に話してしまった。 義母は、悲しそうに相づちを打ちながら、妻のことばをひとつひとつ受け止めているようだった。 「とんでもない事や・・・・・・」 ひと呼吸おいてから、義母は、震える声で話し出した。 「落ち着いている時は、反省するのに、カッとなると、わからんようになってしまうんや・・・・・・」 義母は、何か思い当たる節があるようだった。 それは、息子である夫についてではなく、義母の夫についてであった。 義父と義母は、現在、実質、家庭内別居をしている。 本人たちにその自覚がないだけで、ハタから見ると、冷えきった関係である事は明らかだった。 その義父という人が、まるで夫そっくりなのだ。 普段は穏やかで、口数が少ない善人だが、パニックになると、ぶち切れてしまうのだ。 夫の悪いところは、みんな義父からの遺伝で、その悪い癖に困り果て、淋しい思いをしているのは、 義母の方がずっと先輩なのだった。 「ごめんなさいね・・・・・・。 あの子、そんなひどい事を・・・・・・。 私が注意したら、何とかなるもんなら、私、あの子に言うわ! ろくに口もきかないなんて・・・・・・。 本当に、辛い思いさせて、ごめんね、りー」 妻は、気持ちが軽くなっているのに気がついた。 義母に言い付けて、すっきりしたからではない。 自分の気持ちを、一つも否定せずに、じっと最後まで聞いてもらったからだった。 もう、それで充分だった。 もし、自分の子供が、将来結婚し、夫と同じ事をして、その妻から 「もう、ついていけない。別れる」 と言われたら、どんな気持ちだろうか。 自分も、また、<口をきかない、穏やかだけど、ブチ切れ男>に生涯苦しめられているのに、 次世代にも、その因縁の鎖をつないでしまったとしたら・・・・・・。 義母は、ここのところ、旧友が次々に亡くなり、気落ちし、体調を崩していたの だ。 妻は、訴えるべき人を間違えた、と気が付いた。 「おかあさん、心配かけて、ごめんなさい・・・・・・」 妻は、電話を切った後、視界が広くなっているのにびっくりした。 電話を掛ける前は、自分の手元すらぼやけて、よく見えなくなっていた。 今、自分や、子供たちの一生を決める判断は、しちゃいけない! 落ち着いて、客観的に、この現状の打開策を考えなければ! 目を閉じて、今までの事を思い返してみる。 学生時代、演劇部の公演で、物凄く端役なのに、張り切って眉毛をつるつるに剃り落とし、 変な役作りするな、と、叱られていた夫。 結婚前、デートの待ち合わせの場所に、ミニスカートとカラータイツ姿で、バイクにまたがって現れた夫。 ハタチすぎても父親に殴られて、夫のアパートに転がりこんだ妻。 なぜか一晩中<般若心経入門>を必死に読んで、手も触れなかった夫。 新婚時代、たい焼きをかじりながら、映画館の廊下で上映時間を待った妻と夫。 長男、次男、三男を、夫も立ち会って産んだ事。 四男は、病院の都合で立ち会う事ができず、初めて夫が立ち会わずに子供を産んだが、 心細くてたまらなかった事。 妻が具合が悪いと、子供の世話も食事も洗濯も、当然の様にやる夫。 休日、子供をぞろぞろと公園に連れ出し、何時間も遊んでやる夫。 妻が料理に失敗しても「うまいよ」と言い、子供の残したぐちゃぐちゃのオカズも、美味しそうに食べ、 会社で嫌な事があっても、決して八つ当たりせず、妻の親の悪口は決して言わない夫。 ・・・・・・妻は、ハッとして、目を開けた。 確かに夫は、子供が喧嘩していると、仲裁のつもりか、責めている方の子を、咄嗟にひどくやっつける。 しかし、子供たちの喧嘩が、半端じゃないのも確かだ。 大きい子が小さい子にツカミかかって、小突き回す。 小さい方も負けずに、大きい方にかみつく。 反則プレー続出で、大怪我寸前の毎日だ。 夫が割って入らなければ、どっちにしろ、誰かが怪我をしていたかもしれない。 その、割って入る、割り方が、強過ぎるのだ。 加減ができないのだ。 しかし、 加減ができるような、器用な人間だったら、結婚していたかどうか、わからない。 不器用で、でも、ゆるぎなく、妻の側にいてくれる夫。 理想の夫とは程遠いが、少なくとも、妻に対しては実直である。 ・・・・・・妻は、腕を組んで、う〜む、と、うなった。 そこへ、子供たちが帰って来た。 「ただいまーっ!! ねえ、お父さんは?!」 妻がぼんやりしていると、子供たちはランドセルを放り出して妻の元に駆け寄って来た。 「僕、お父さんみたいにサラリーマンになるって、作文で書いたの。 それで、サラリーマンの仕事って、どんな事するのか調べたいの。 ねえ、お父さんは?! お父さんは?!」 「今日は会社でしょうに・・・」 「あっ、そうか! あー、お父さん、早く帰って来ないかなあ!」 妻は、子供たちをまじまじと見た。 この子達は、父親の事が好きなんだ。殴られても、殴られた理由をわかっているんだ・・・。 子供達は、お父さんに手紙を書くんだ、と言って、みんなで広告の裏に <おとうさん、おしごと、がんばって> などと書いて、玄関に貼っている。 妻は、思った。 <やりすぎ攻撃>は、直してもらおう。 そして、話しかけたら、きちんと返事くらいしてもらいたい。 もし、改善されれば、この別れ話は無しだ。 妻は、バッグから、離婚届を取り出して、宙に投げた。 「ほらっ、この紙もあげるよっ!!」 「わ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い!!」 子供たちは、そのピラピラの紙に集まり、奪いあった。 畳に落ちた、その紙の周りをみんなで囲み、何やらクレヨンで描いている。 「な〜に描いてるの?!」 妻が、真上から覗くと、子供たち4人が、バッ、と一斉に顔を真上に上げた。 笑顔の花びらが、満開に咲いた。 その花の中心には、家族全員がにこにこ笑い、輪になって手をつないでいる絵があった。 (つづく) よかったね、夫。 何にもしなかったけど、何とかなったね。 お母さんと、子供たちに感謝した方がいいだろう。 そして、妻の努力も、少しは感じよう。 どんどん大人になっていく、妻の進歩も。 (つづく) |
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