石炭の栄
【三葉虫】Conophillipsia decisegmenta
岩手県東磐井郡東山町
最下部石炭系唐梅舘層
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【三葉虫がいる鍾乳洞】
石炭の栄にほど近い場所にある 自然洞窟博物館の 「幽玄洞」は、日本最古の地歴を誇る鍾乳洞
として公開中。洞内には石筍、石柱、フローストーンなどの鍾乳石や真っ青な地底湖があり、
岩盤上に 三葉虫やウミユリの萼(がく)などの化石を見ることが出来る。
東山町のホームベージ
【宮沢賢治ゆかりの町】
子供の頃、この山のある東山町の観光地 猊鼻渓に連れていってもらったことがある。北上川の
支流、断崖の間を流れる砂鉄川での舟下りは楽しいものだった。反面、おエライさん方の権力争いの
末にねじ曲げられた、いわゆる「鍋づる路線」での1時間ほどの汽車旅は長く、退屈で辛かったことを
覚えている。
深い緑の山間(あい)を縫ってきた大船渡線も陸中松川駅で降りると、風景は一変した。山は緑を
失い、空は開け、灰色の壁ばかりがそそり立っていたのである。それは石灰岩や蛇紋岩の露天掘りの
大露頭だった。
晩年の宮沢賢治が、この陸中松川駅前にあった東北採石工場の技師として働いたことはよく
知られている。賢治は 昭和6年の春、東北砕石工場を経営していた鈴木東蔵に指導を請われ来町した。
土壌改良材としての炭酸石灰の普及を通じて、不作などで貧困に あえいでいた農民を救済すべく
県内、
東北地方はいうまでもなく、 東京方面にまで重いトランクを持って東奔西走し、炭酸石灰販売に尽力
したのである。しかし疾中に小康を得た程度の体ではこの労働は酷だった。果たして、上京の折に発病。
数日後、花巻に戻されるが、そのまま病床につき昭和8年(1933)37歳で永眠した。「雨ニモ負ケズ・・」の
詩が記されたのはこの頃(昭和6年11月3日)のことである。
後年、東山町役場の裏側「新山公園」に「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空に
ちらばらう」の碑が賢治を慕う東山町の青年たちによって建立された。そして今年4月3日、
「石と賢治のミュージアム」がオープンした。
さて、賢治縁の地で三葉虫が産出しているのは東山町と早池峰だけである。この東山で賢治が
健康で日々を送っていれば、賢治も三葉虫を発見したかも知れないなと思ったりする。
ただそれだけの話である・・・。
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以下は東山町のホームベージから勝手に抜粋したもの。
「石と賢治のミュージアム」4月3日オープン!
「石と賢治のミュージアム」は、旧東北砕石工場を補修、整備し、先人が残した功績を未来へ
伝えていくための施設。枕木を敷きつめたトロッコ道の周辺がギヤラリーになっているほか、
技師・賢治を語るコーナーには、見学者や地域の人がゆっくりくつろげるスペースもあります。
また、石灰岩の岩肌を背景に立つ賢治、東蔵などの群像は、昭和6年3月撮影の写真を元に
再現されました。 時の流れを越えて、 賢治に、そしてかつての東山の人々の心に出会える場所です。
旧東北砕石工場は、当時、むらおこしのリーダー的存在だった鈴木東蔵が興した工場で、
地域の産業の基盤となるとともに、宮沢賢治が東山町を訪れるきっかけにもなりました。工場の建物は、
大正13年に建てられ、長い間、石灰石粉(炭酸カルシウム)を製造していたことから、「タンカル工場」と
呼ばれて親しまれてきました。平成8年には、全国119件の建築物とともに産業近代化遺産に登録されています。
「石と賢治のミュージアム」の中核的な施設です。施設内には、技師宮沢賢治と工場主
鈴木東蔵が追い求めた夢とその足跡を中心に、実際に賢治が起草したパンフレット類や理想郷の
創造を夢見た東蔵の著書などの貴重な資料が展示されています。また、当時の東北の気候・風土や
グスコーブドリの伝記のコーナー、不思議な鉱石や隕石に触れる体験展示コーナーなどがあります。
石と賢治のミュージアム入館料
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区 分
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個 人
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団 体
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小学生及び中学生
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200円
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150円
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一般(高校生含む)
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300円
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250円
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