●オーストラリア便り No.01

| 1 | 2 |

●オーストラリア便り No.02 田中研二

ワルツィング・マチルダ (その2)
 世の中には「替え歌」とか「本歌取り」とも呼べるような歌がある。単にメロディを借りたものなら「替え歌」になるし、既存の歌のアイデアをふくらませて現代的な意味づけをした歌なら「本歌取り」とも言える。私の知る限りではボブ・ディランの「Percy's Song」や「Farewell」が本歌をうまく書き替えて使っているし、ウディ・ガスリーの歌にも「本歌取り」と呼べる作品がいくつかある。歌詞は以前のものと同じでもメロディが変わった例は民謡には数え切れない。「Waltzing Matilda」の「普及版」などはこの例である。もう一つの作品群として「言及型」がある。ただし、こういう分類は知識としては面白いかもしれないが、分類したところで実は何の意味もない。
 私の知っている限りで「Waltzing Matilda」に言及する歌が3つある。1971年にスコットランド系オーストラリア人フォークシンガー、Eric Bogle (エリック・ボーグル) が「And the Band Played "Waltzing Matilda"」という曲を書いている。この曲はオーストラリアよりイギリスとアイルランドでヒットし、オーストラリアに戻ってきた。内容は第一次世界大戦のアンザック軍兵士としてトルコのガリポリ上陸作戦に参加した主人公が両足を吹き飛ばされ、もうマチルダを踊ることもできない。オーストラリアに帰ってきてみれば誰も出迎えてくれる人はいなかった。毎年4月になるとポーチに座ってパレードを眺める。年老いた戦友が過去の栄光も誇らしげに行進するのを眺める。ねじ曲がり、ぼろぼろになり、くたびれ果てた、忘れられた戦争の英雄達を眺める。若者たちが聞く、「この行進は何のため?」と。私も同じことを聞きたい。バンドが"Waltzing Matilda"を演奏する。老人たちは毎年呼びかけに応じてやって来る。それでも年ごとに減っていく。そしていつか誰も行進しなくなるのだろう」 最後に初めて"Waltzing Matilda"のメロディが流れる。
 「ワルツィング・マチルダ、ワルツィング・マチルダ。誰が私とマチルダを踊ってくれるのか?」 エリック・ボーグルはベトナム戦争を念頭に置いて、この歌を書いたとされている。
 もう一つの歌はアルバム「Small Change」に入っている「Tom Traubert's Blues」で、「酔いつぶれ、傷ついたけれど、お月さんのせいじゃない。報いを受けただけさ。明日会おうぜ、おい、フランク、2ドルほど貸してくれないか、ワルツィング・マチルダ、ワルツィング・マチルダ、マチルダを踊りに行かないか」とTom Waitsが歌っている。「船乗りに頼んでみな、看守に鍵を貸してくれと頼んでみな。車いすの老人も知っているぜ、マチルダは被告人だと。マチルダは百人ほども殺したし、あんたがどこに行ってもつきまとってくるってことを。ワルツィング・マチルダ、ワルツィング・マチルダ、マチルダを踊りに行かないか。ぼろぼろのスーツケースはどこかのホテルに行き、傷は治ることがない。プリマドンナは化粧もせず、くたびれたシャツは血とウィスキーに汚れている。道路掃除人、夜警、火守りにおやすみ、それからマチルダにもおやすみ」 そのトム・ウェイツも今ではカリフォルニア州の郊外で家族と共に自然に親しむ暮らしをしているらしい。
 誰かが、「Roaring Jack」をぜひ聞くべきだと私に勧めた。新聞の綴じ込みのイベント・ページ「メトロ」でバンドの出番を見つけ、シドニーでいちばんくたびれた駅ニュータウンの階段を上がるとはがれたポスターが風に吹き寄せられ、小便と饐えた食べ物の臭いの漂うキング・ストリートを下っていった。シドニーにはいくつか「文化」の香りのする町並みがある。バルメインには功成り名遂げた芸術家が住み、「文化的」な雰囲気の好きな小金持ちが住んでいる。しゃれた店が並び、週末には「文化的」な雰囲気にひたる人たちが喫茶店でカプチーノと無農薬ベジタリアン・メニューを楽しんでいる。パディントンはゲージュツ的な町で芸術の抜け殻の好きな小金持ちが住んでおり、バルメインよりは肉食的で快楽主義的な雰囲気を味わっている。グリーブは学生の多い町で、髪を七色に染めたり、犬の首輪のような衣装が似合うやや破壊的な文化の臭いがする町だが住むにはかなりの小金持ちか、そうでなければ一軒家を共同で借りるかしなければならない。 シドニーは俗物的な都市で、人々は昆虫採集の少年になるよりも「蝶々」になりたがる。自分の身なりを構わずに「美」を追うよりも、「あたしって美しい?」という自意識がプンプンと臭うのである。ひたすらうまい食べ物を追いかける美食家にもならず、しゃれた町並みのしゃれたレストランやカフェでしゃれた格好でしゃれた本をテーブルに置いてしゃれた料理を食べている「自分」というものを常に意識しているのである。常に人から見られている「自分」に意識を集中させているのである。この都市では芸術に打ち込むとほとんど生きていけない。「芸術的な雰囲気」だけが大切なのである。
 古ぼけ、汚れ、見捨てられた町に貧しい芸術家が集まり、住みやすくすると小金持ちが移り住んでくる。そうすると家の価格が上がり、貧しい芸術家には手の出ない地区になり、やがて貧しい芸術家たちは追い出され、芸術の抜け殻が芸術の雰囲気を漂わせる町になるのである。

 キング・ストリートのサンドリンガム・ホテルで「Roaring Jack」が演奏していた頃のニュータウンはまだあぶない命がけな雰囲気があった。バンドのファンは左翼だけでなく、髪を七色に染め、リベットのついたジャンパーや鎖を身に着け、ミリタリー・ブーツを履いた若者もいた。パブの壁は風呂屋のタイルを貼ったような感じだし、トイレに行くには奇妙な舞台倉庫のような空間を通らなければならなかった。「Roaring Jack」はスコットランド民謡とロックの混じった独特の音を出し、リード・ボーカルのAlistair Hulett (アリステア・ヒューレット) は見事なスコティッシュ訛りで勢いよく歌っていた。1975年11月に労働党政権を女王代理の連邦総督が罷免した事件を歌った作品やオーストラリア政府がイギリス政府の原爆実験場として南オーストラリア州の砂漠地帯を提供した事件を歌うと左翼もパンクも湧いた。
 アリステア・ヒューレットは、「The Swaggies Have All Waltzed Matilda Away」で歌う。「足枷と鎖につながれてこの国に来た人たち、無法者や反逆者は名前の代わりに番号で呼ばれ。三角叉に縛り付けられて鞭打たれ体をぼろぼろにされた者たち。血がオーストラリアの大地を染めた。くそったれの連中やお高くとまった連中、しゃれ者やあばずれ。彼らの農園で働き、床を磨いた。奴らの陰で生き、奴らの戦争で死んだ。血がオーストラリアの大地を染めた。胸が高鳴るか? 昔牛が荷馬車を牽いた街道をアスファルトとコンクリートが固めると? それが進歩だとでも言うのか? それほど情けなくなったのか? 放浪者がマチルダを踊ってしまった後で。黒いビロードのバンドを着けた娘に騙されてこの土地に来て200年。まだ分からないのか? 血がオーストラリアの大地を染めていることを。アボリジニも白人も、昔からいる者も新参者も、みんな兄弟姉妹じゃないか。未来は俺たちのもの、少数者から富を奪い返せ。オーストラリアに赤旗を立てるのだ。今こそ胸を高鳴らせよう。足下に道がある。軽やかに旅し、大陸を旅して回ろう。成功なんて言うな。それを進歩だなんて言うな。放浪者が一緒にマチルダを踊れる日までは」
 1996年の連邦選挙で保守党が政権を取って以来、この国の時代はビデオを巻き戻すように過去にさかのぼり始め、アリステア・ヒューレットはスコットランドに帰ってしまった。それにしても、「ワルツィング・マチルダ」が国歌に選ばれなかったのは幸いだった。もし選ばれていれば、あの歌を子供番組で聞くこともできず、3つの「本歌取り」名曲が生まれることもなかっただろう。

 


| 1 | 2 |

▲このページのTOP  
▲Quarterly Magazine Hi-Fi index Page