Hi-Fi な出来事 Hi-Fiな人々 NO.2 斎藤 哲也

 


 前回ぼくは、「自己実現」という言葉に疑念を呈しながら、「僕らは、たった一つの価値に基づいて日々行動しているわけじゃない」と書いた。でも人によっては、「いや、そんなことはない。私たちはみんな『幸福』という価値に基づいて日々生きている」という人もいる。これはなかなか手ごわい意見だ。鼻息の荒いキャリア・アップや脱力系スローライフ、選びとる生き方はさまざまであれ、それは「幸福」を目的としている点では共通している。うん、いわれてみるとそんなふうに思えてくる。


 でも、ぼくはそれは不自由な考え方だと思う。なぜかというと、ぼくらの毎日の生活には、幸福とは思えないような面倒な雑事や不意の出来事がたくさんあるからだ。そのいくつかは、自分で選ぼうとしても選べないことだったりする。ほんとは早く家に帰りたいんだけど、上司に飲みに誘われちゃった。せっかく取れたコンサートチケットなのに、仕事のトラブル処理で泣く泣く断念。こうした場面で、上司と飲みにいくことや仕事のトラブル処理をすることすら、「幸福のため」だということに、どこか違和感を感じないだろうか。


 さらに、「幸福な自己の実現」を目的とする生き方が理想化されるとき、現在の自分の行動は、その理想に従って「採点」されるという逆転の事態すら引き起こす。幸福になるためには、スローライフをしなきゃ、スローライフをするためには会社生活辞めなくっちゃ、でも今日もわたしは残業で終電帰り、ああ、こんなわたしってダメなやつ――こんな具合に自己嫌悪のスパイラルは発生していく。


 どこにつまずきがあるのか。おそらく、幸福を具体的なイメージの集合で描いてしまうことに問題がある。誰だって、「こうなったらいいな」「こういうことがしたいな」という憧れや目標がある。それは全然悪いことじゃない。でも、「幸福」という言葉は、抽象的であるがゆえに、「こうだったらいいな」というイメージをすべてを包み込んでしまう磁力の強い言葉なのだ。「自己実現」という言葉にも同じ性質がある。「一つの価値」といいながら、その言葉は途方もなく膨大な「具体的イメージ」を集めてしまう。そこで、まだクリアできない幸福イメージや自己実現イメージがある以上、常に「不全感」「未達成感」を抱えることにもなってしまう。


 「自己実現」派の女性に人気の高いエッセイストの中山庸子さんの本に、『なりたい自分になる100の方法』というものがある。そこで最初に勧めている方法はこんなことだ。


【まずは、今までに自分が(いいな、こうなりたいな、真似してみたいな)と感じたものを洗い出します。/ここで肝心なのは、それを書きとめておくためのノート。(『なりたい自分になる100の方法』)】


 どうだろう。「幸福」が磁力の強い言葉だという意味をわかってもらえただろうか。「真似してみたい」イメージには上限がない。到達したい幸福イメージはぐんぐんレベルが高くなるばかりだ。たとえ、自分がほとんど変わらないままでも――。こうして、現在の自分と目標地点との距離は、日に日に開いていく。


 じゃあ、どうすればいいの? 「自己実現」なんて言わずに、毎日を場当たり的に生きればいいの? そんな声が聞こえてきそうだ。そうじゃない。答えはまだ出せないけど、まずは「本当の自分」とか「なりたい自分になる」とかいった抽象的な言葉に引っかからないようにしよう。


 それを別の面から考えることもできる。ひとりの人間は、場面や状況、あるいは人間関係に応じて、キャラも変われば態度、役割も変わっていくでしょ。家族といるとき、ひとりでいるとき、友達といるとき、会社にいるとき……、そこで見せる表情や言葉遣い、あるいは引き受ける役割はどれも全然違っているはずだ。


 つい数か月前までは、軽音サークルで「先輩」として仰がれて、後輩に「音楽ってもんはなぁ」と説教を垂れていたいた青山くんも、出版社の新入社員となったいまは「ぺーぺー」だ。でも久しぶりにサークルに顔を出せば、ふんぞりかえって「お前らなぁ」と得意の音楽論を語りだす。自宅に帰れば無口になってしまう横山さんも、会社や友だちのなかでは「おしゃべりな人」かもしれない。
 
 そうやってぼくらは、いろんな顔やキャラを取っかえ引っかえ(たとえ無意識であっても)使い分けている。それは、「本当の自分」を隠してるんじゃない。そうじゃなくて、「複数の自分」でいることが当たり前なんだ。でも、そこにおのずと「どの自分を優先させるか」って考えが働くんじゃないだろうか。恋人との時間よりも仕事を取る人、仕事よりも趣味を取る人、それはそのときどきの自分の置かれている境遇、立場に応じても優先の度合いが変わってくる。


 とはいえ、優先順位をつけなきゃいけない場面がたくさんあることだけはまちがいない。その調整がうまくいかずに思わぬ失敗(時には人生を変えてしまうような失敗)をやらかすこともある。そのことを、ぼくもあなたも知っているし、現に失敗(そして成功)を重ねてもいる。


 だから教えてほしいのは、「なりたい自分になる方法」じゃなくて、「優先順位」のつけ方なのかもしれない。就職するか、フリーターをしながら音楽の道を選ぶか。家族と住むか、家を出るか。ぼくらの生活には「選択」しなきゃいけないことがいっぱいだ。そして、「どっちが幸福か」「どっちが自己実現か」ってことがわからないからこそ、ぼくらは迷う。つまり、具体的なイメージの集合体のような「幸福」という言葉も、結局のところは抽象的すぎて、肝心かなめの「選択」の場面では使えないことが多い。


 じゃあ何か他にいい手はないか。残念ながら、そんな都合にいい基準やモノサシはないんだ。そして、前もって結果がわからないからこそ、ぼくらは迷う。カッコいい言い方をすれば、それが「自由」ってことだ。だからこそ同じような局面で、まったく正反対の決断をすることだって大いにありえる。橋本治さんという人はそのことをこんなふうに言っている。ちょっと長いけど引用させてね。


【人はこまめに挫折を繰り返す。一度手に入れただけの自信は、たやすく役立たずになり変わる。人はたんびたんびに「わからない」に直面して、その疑問を自分の頭で解いていくしかない――これは人類普遍の真理なのである。自分がぶち当たった壁や疑問は、自分オリジナルの挫折であり、疑問である。「万能の正解」という便利なものがなくなってしまった結果なのではない。それを「幻滅」と言うのなら、それは、「なんでも他人まかせですませておける」と思い込んでいた、不精者の幻滅なのである。(『「わからない」という方法』)】


 話をまとめておこう。「自己実現」という抽象的な言葉には用心したほうがいい。それはじつのところ、優先順位のつけ方を知りたいだけのことかもしれない。ところが、そこに「正解」はない――こんなふうに話は進んできた。で、次回は、もう少し「迷い」についてあれこれ考えながら、「迷ってしまう自分」とは何なのかをハッキリさせていこうと思う。乞ご期待。



To 斉藤哲也
 いただく文章、毎回、面白いです。真っ先に読ませていただく幸運に感謝してます。
  "そうやってぼくらは、いろんな顔やキャラを取っかえ引っかえ(たとえ無意識であっても)使い分けている"とする一節、これ、身に染みました。ぼくの場合は、お酒を飲む場面を想像すれば簡単。二人、三人、五人、十人、それぞれの宴会。それぞれの場面での自分が、とうてい同じキャラクターとは思えない。相手によっても変わっちゃう。どっか、腑に落ちないというか、ずるいかもしれないぞというか、納得できない思いでいたところに、このおコトバ。"「本当の自分」を隠してるんじゃない。そうじゃなくて、「複数の自分」でいることが当たり前なんだ"と。
 なんか、ほっとしますね。オレ、これでいいのか?なんて思っちゃうぞ。たぶんそうでもないんだろうなあ。というところで、次回を期待します、なんてもう発注しちゃいますよ。
(大江田)


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